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2011年6月22日 (水)

游氣風信 No84「モモと時間泥棒」

三島治療室便り'96,12,1

≪游々雑感≫

モモと時間泥棒

 今年もいよいよ最後の月になりました。
 年々歳々時の流れが加速するとは万人共通の感慨のようですが、わたしの俳句仲間が次のような俳句を作りました。

  やり足らぬもうやり切れぬ十二月 小谷隆子

 「やらなければならなくてもできなかったこと、やりたくてもできなかったことが一杯ある。しかし、あれよあれよというまに月日がながれ、今年ももう十二月。ああ、わたしには時間がない。毎年同じことの繰り返し」
という押し迫った師走の感慨を上手に、俳諧的にまとめられました。

 時間の流れにうまく乗って、生き生きとした生活を積み重ねることができるなら理想ですが、普通は時の流れに押し流されてぽろぽろとやり残したことをこぼしつつ一年が過ぎ十年が過ぎ歳月を浪費してしまうのが人生なのでしょうか。しかもわたしたちは歳月と共に大切な人も失っていきます。
 次のような知られた最近の俳句がそれを物語っています。

  船のやうに年逝く人をこぼしつつ 矢島渚男

 歳月はぽろぽろと人までもこぼしつつ過ぎてゆきます。地球丸という船の中には数々の人生が満載されているでしょう。年の移ろいを悠然と大海原を航行してゆく船にたとえられた点がすばらしい俳句です。

  去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子

と、いう極めて有名な句をご存じでしょう。
 去年今年(こぞことし)はちょうど紅白歌合戦が終わって、「ゆく年くる年」が始まり、全国各地のお寺の除夜の鐘を聞いているうちに時報が午前0時を打ち、アナウンスが
「皆様、明けましておめでとうございます。本年が良い年でありますように」
と言うころを表す季語です。

 虚子の句は、去年から今年へと時間が移り行く、しかしそれは単なる一本の棒のようなものだという醒めた感慨。年が過ぎてゆくという事実そのものを客観視して、そこにいっさいの感傷を排しています。
 確かに、一年とは地球が太陽を一回りすることであり、その円周上の任意の点を昔々の人が一月一日と定めただけであって、地球がくるくると365回転しながら太陽を一周して元の場所に戻っただけのことですから、そのことにたいした意味はないのです。ただし、太陽も動いていますから、太陽から見て元の位置であって、宇宙的視野
に立てば大移動しています。

 ですから暦のない世界観なら年が変わることも貫く棒の如しなのでしょう。そこでは時間はまったく同じテンポで時計のまま刻むように流れているはずです。しかし、人間の心の中に流れる時間は主観とともに不規則に過ぎてゆくところはおもしろいですね。

 「人生とは、君ねえ。畢竟、時間なんだよ」
 こんな台詞を何かで読んだのですが、人生は空間と時間の中に存在している人間のみが意識できるものです。動物や植物は空間と時間を共に有しているに違いありませんが、そこに「人生」を意識することはないでしょう。人生とは畢竟いのちと時間(空間も含む)の解け合ったものに違いありません。

 二年前に帰国したカナダ人女性がいみじくもいっていました。
 「男の女の違い?そんなの簡単。買い物をするときね、女は一円を惜しむけど、男は一分を惜しむのよ。そんなところかしら。多分カナダの女性も日本の女性も一緒よ。人生は時間なのに惜しいわよね。」
 男のほうが寿命が短いですから買い物なんぞに時間を浪費するゆとりが少ないのが一分を惜しむ本当の理由なのだとわたしは思いますが、洋の東西にかかわらず女性の買い物時間は長いようです。
 もっとも男が女性を口説くときは一円も一分も両方とも惜しまないとは思うのですが、わたしは口説かれたことこそあれ、自分から女性を口説いたことがないので分かりません。
 しかし時間に追われる人生はどこか歪です。

   「おれの人生はこうしてすぎていくのか。」
  と彼は考えました。

   「はさみと、おしゃべりと、せっけんの泡の人生だ。おれはいったい生きてい
  てなんになった?死んでしまえば、まるでおれなんぞもともといなかったみたい
  に、人にわすれられてしまうんだ。」

 床屋のフージー氏は考えます。

   「おれだって、もしちゃんとしたくらしができていたら、いまとはぜんぜんち
  がう人間になっていたろうになあ!」

   「そんなくらしをするには、おれの仕事じゃ時間のゆとりがなさすぎる。ちゃ
  んとしたくらしは、ひまのある人間じゃなきゃできないんだ。ところがおれとき
  たら、一生のあいだ、はさみとおしゃべりとせっけんの泡にしばられっぱなしだ」

 フージー氏のはさみを鍼に、せっけんを消毒綿に置き換えればまさしくわたしの人生です。おそらくすべての人がおのおののモノに置き換えることが可能でしょう。
 そんなフージー氏のところにしゃれた灰色の自動車に乗った灰色ずくめのセールスマンがやってきます。
 お気づきの方もおられでしょう。これは世界的なロングセラーで映画にもなったドイツの作家ミヒャエル・エンデの「モモ」の一説です。
 灰色ずくめのセールスマンはフージー氏に時間貯蓄銀行に時間を預ければ利子を払うと言います。

   「もしあなたが二十年前に一日わずか二時間の倹約を始めていたら、六十二歳
  のときには、つまりぜんぶで四十年たっていますからね、それまでに倹約した時
  間の二百五十六倍になるはずです。そうすると、二百六十九億一千七十二万秒に
  なります。」

 こうした巧妙なセールストークの詐術に取り込まれて時間を銀行に預けてしまった床屋のフージー氏はどうなったでしょうか。

   彼はだんだんとおこりっぽい、落ちつきのない人になってきました。というの
  は、ひとつ、ふに落ちないことがあるんです。彼が倹約した時間は、じっさい、
  彼の手もとにはひとつものこりませんでした。魔法のようにあとかたもなく消え
  てなくなってしまうのです。彼の一日一日は、はじめはそれとわからないほど、
  けれどしだいにはっきりと、みじかくなってゆきました。あっというまに一週間
  たち、ひと月たち、一年たち、また一年、また一年と時が飛びさってゆきます。

   ほんとうなら、いったいじぶんの時間がどうしてこうも少なくなったのか、し
  んけんに疑問にしていいはずでした。けれどこういう疑問は、ほかの時間貯蓄家
  とどうよう、彼もぜんぜん感じませんでした。もののけにとりつかれて、盲目に
  なってしまったのもおなじです。そして、毎日毎日がますますはやくすぎてゆく
  のに気がついて愕然とすることがあっても、そうするとますます死にものぐるい
  で時間を倹約するようになるだけでした。
   フージー氏とおなじことが、すでに大都会のおおぜいの人に起こっていました。
  そして、いわゆる「時間節約」をはじめる人の数は日ごとにふえてゆきました。

 「モモ」の作者エンデが何を書こうとしたかったのかがはっきりしている場面です。

 わたしたちは時間を節約するために文明の利器をどんどんとりこみ、あげくの果てそれらの器械につかわれて一年一年をあっというまに過ごしているのです。エンデは次のように言います。

   毎日、毎日、ラジオもテレビも新聞も、時間のかからない新しい文明の利器の
  よさを強調し、ほめたたえました。こういう文明の利器こそ、人間が将来「ほん
  とうの生活」ができるようになるための時間のゆとりを生んでくれる、というの
  です。

 文明の利器でなくても、将来を憂い、過去を悔いることが忙しい大人にとって時間は「いままさに目の前の時間」
ではなく、過去や未来の思いで薄められた希薄なものとなり、実感に乏しいまま浪費されているのではないでしょうか。
 本当の子どもは脚下照顧で生ききっていますから時間が濃密なのです。この話の主人公モモはまさにそんな少女でした。
 モモは浮浪児のような女の子ですが不思議な能力をもっています。それは人の話を聞くことができるのです。そんなことは当たり前ですって。そうではないのです。ただ人の話を聞くだけではありません。エンデはモモの役割を次のようにしています。

   モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうか
  んできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問したりし
  た、というわけではないのです。彼女はただじっとすわって、注意ぶかく聞いて
  いるだけです。

   モモに話を聞いてもらっていると、どうしてよいかわからずに思いまよってい
  た人は、きゅうにじぶんの意志がはっきりしてきます。ひっこみ思案の人には、
  きゅうに目のまえがひらけ、勇気がでてきます。不幸な人、なやみのある人には、
  希望とあかるさがわいてきます。
   たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意
  味もない、おれはなん千万もの人間のなかのケチな一人で、死んだところでこわ
  れたつぼとおなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きてい
  ようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。
   この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。す
  るとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかっ
  てくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間の中で、おれという
  人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世の中で大切な存在な
  んだ。
   こういうふうにモモは人の話が聞けたのです!

 まるでモモは理想のカウンセラーのようです。彼女に鍼ができたらすばらしい身体調整ができたに違いありません。

 「モモ」というストーリーは時間泥棒とモモが対決し、時間を取り返すというものです。そのさい、人の精神の奥底まで入っていくという極めて形而上学的な色彩の濃い物語なのです。一九七三年に発表されて以来、世界30数カ国に翻訳されてベストセラーかつロングセラーになっている名作。

 比較される昨年のベストセラー、ヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界」が哲学の歴史とファンタジーの織り合わさったような作品ならミヒャエル・エンデの「モモ」は精神の古里を尋ねるファンタジーです。ソフィーが人類の時間の流れならモモは深さと言っても良いでしょう。
 「モモ」に登場する精神の象徴としての「時間の花」はエンデ自らの精神的な体験から書かれたとも言われます。いわばふだんわたしたちが認識している身体や身体の中を満たしている魂と、他者との関係性の中に認識される精神的な交流(東洋では氣)。その象徴としての「時間の花」とそこに存在するマイスター・ホラというすべての根源のような人物。現実から精神世界へゆききできる妖精のようなモモ。この物語は時間という概念を主題に命の根幹に迫るものです。

 人は押し迫ったとき思索を深めます。戦前の若者が戦争と結核という障壁があるゆえに哲学書を読みあさったように、民主化のただ中に育った段階の世代が学生運動をしたように。
 年末という物理的な切迫感はわたしのようなのほほんおじさんにも思索の機会を与えてくれます。来年の正月は時間があればゆっくりモモを読み直そうかと思います。・
・・ああ、またしても時間があればですね。

≪後記≫

 本文に書いたように、「モモ」に登場する床屋のフージー氏ならずとも、一年が残り少なくなるとてのひらから取りこぼしたいろいろなものに気が向いてついつい思索的になるものです。そんな感慨にぴったりの月の別称が「師走」。十二月は忙しいので先生も走り回ると解釈されています。しかしこの説には 「とんでもない。教師は年がら年中忙しくて、なにも走り回るのは十二月だけではありませんよ。これは教師に対する偏見です」
と反論がでそうです。
 「師走」の「師」は法師。すなわちお坊さんのことです。ふだん悠然としている山寺の和尚さんでさえ走り回ると言われるとなるほどと思います。
 「いや、僧侶だって忙しくて年中走り回っている。世間が思っているほど暇ではない。それにみんなが週休二日の御時世に僧侶の休みは友引の日だけだ。教師だって隔週で土曜日が休みではないか。教師が夏休みで遊んでいるお盆休みは僧侶のかき入れ時だし、日曜祭日は法事だし・・・。師走には異議がある」
という反論は十分承知していますが、今回はあえて無視いたします。
 師走は忘年会などいろいろ忙しく、暴飲暴食の機会もあります。寒中風邪をこじらせないように注意して新しい年を迎えましょう。
(游)

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