« 游氣風信 No82「キノコの話」 | トップページ | 游氣風信 No84「モモと時間泥棒」 »

2011年6月22日 (水)

游氣風信 No83「11月3日(宮沢賢治論) 職人(永六輔)」


《游々雑感》

十一月三日

 1931年(昭和6年)。今から65年前のこの年の9月18日、満州事変が勃発します。
 歴史の常としていかなることも突然起こった訳ではなく、それに先立って大陸では
  昭和3年6月4日の張作霖爆死事件
があり、後を追うように
  同年6月29日、治安維持法改正公布
  昭和5年11月14日、浜口首相狙撃
などの不穏な社会情勢と続いた果ての満州事変でした。
 翌年、追い打ちをかけるように
  昭和7年3月1日の満州国建国宣言
と泥沼の戦争へなだれ込んで行きます。
 年表を続けると
  昭和8年3月27日、国際連盟脱退
  昭和11年2月26日、青年将校によるクーデター、俗に言う2・26事件
  昭和16年10月18日、東條内閣成立
  同年12月8日、対米・英宣戦布告
ついに世界を相手に戦争を始めます
 そして
  昭和20年4月、米軍沖縄本島上陸
  同年8月6日、広島に原爆投下
  同年8月9日、長崎に原爆投下
  同年8月14日、ポツダム宣言受諾
  同年8月15日、敗戦の玉音放送
  同年9月2日、無条件降伏文書調印
となり、その後10年近く、敗戦による混迷からの復興で大変な苦労をして、今日にいたるのです。わたしは昭和28年の終わりに生まれていますからそうした苦労は直接は知りません。

 日本が戦争になだれ込んだ背景には関東大震災以来の経済不況や相次ぐ災害・冷害などの農村不況があり国民の不満が鬱積していました。その打開策のひとつとして大陸に触手を伸ばしたとは多くの識者が唱えるところです。
 さて歴史のおさらいはここまで。

 満州事変の起きた昭和6年の11月3日。ある無名詩人でアマチュア童話作家が病床にあって日記を手帳に書き付けます。この日記は詩の体裁をしていましたから、あとあと詩人が著名になったとき、作品として世の評価をまともに受けることになります。
一般によく知られた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のことです。

 全文は意外と知られていないので30行と長いですが紹介します。

「雨ニモマケズ」
         宮沢賢治

  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラツテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ツテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイウモノニ
  ワタシハナリタイ

 「雨ニモマケズ」という題は便宜上つけられたものです。原文のままではカタカナと文語で読みにくいでしょうから、本来はいけないことですが漢字を交えて現代語に訳します。

雨にも負けず風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、
欲は無く、決して怒らず、いつも静かに笑っている。
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、
あらゆることを自分を勘定に入れずによく見聞きし、分かり、そして忘れず、
野原の松の林の蔭の小さな萱葺きの小屋に居て
東に病気の子供あれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って恐がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い
日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、
みんなにでくの坊と呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず、
そういう者に私は成りたい。

 この詩句は後にいろいろな読まれ方をします。その代表が詩人中村稔と哲学者谷川徹三(詩人谷川俊太郎の父)の論争でしょう。
 中公文庫「年譜宮沢賢治(堀尾青史)」から引用します。

   中村稔は、この詩は賢治のあらゆる著作の中でもっとも、とるにたらぬ作品の
  ひとつといい、(中略)賢治がふと書き落とした過失のように思われる。だが、
  ある異常な感動をさそうもののあることも否定はしない。特に「ヒデリノトキハ
  ナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」のフレーズは、もっとも個性
  的であり心をうたれるという。
   谷川徹三は、この詩は明治以来の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩で
  あるという。もっと美しい詩、もっと深い詩というものはあるかもしれない。し
  かし精神の高さに於いて、これに比べ得る詩を私は知らないと断言する。

 このように意見が極端に対立しています。それに結末をつけた中島健蔵のことばを前掲書から

   中村稔のことばをまともに受けるとすればとんでもない思い上がりで(中略)
  谷川徹三の意見の中にも、ひいきの引き倒しがあると感じる。一ばん大切なこと
  は、賢治の文学の全体の中で、この詩は、彼が死を前にした病床の中で書いたも
  のだ、という事実をよく理解することである。これがギリギリの悲願であること
  はたしかである。同時にこれが賢治の極限でもあるが限界でもあるというのがわ
  たくしの考えである。

 まず常識的な線だと思います。

 「雨ニモマケズ」は今日研究者の間で分類上「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれる手帳に書かれており、この手帳は賢治の死後トランクの中から発見されたものでした。その前後に書かれたことばを紹介しましょう。日付は賢治自身によるものです。

 10月20日
  この夜半おどろきさめ/耳をすまして西の階下を聴けば/ああまたあの児が咳しては無き/また咳しては泣いて居ります(以下略)

 床に伏せる賢治のために暖かい日の当たる部屋を与え、妹夫婦は寒い部屋に移りました。その部屋でいたいけない3歳の少女が夜間咳き込んでいるのを聞き付けて、自分に部屋を譲ったばかりに少女に風邪を引かせて申し訳ないという思いを詩に表してあるのです。この詩は最後

  たゞかの病かの痛苦をば/私にうつし賜はらんこと

と終わっています。

 10月28日
  快楽もほしからず/名もほしからず/いまはただ/下賎の廢躯を/法華経に捧げ
  奉りて/一塵をも点じ/許されては/父母の下僕となりて/その億千の恩にも酬
  へ得ん/病苦必死のねがひ/この外になし

 10月29日
  疾すでに治するに近し/(略)/不徳の思想/目前の快楽/つまらぬ見掛け/ 
 (略)/自欺的なる行動に寸毫も委するなく/厳に日課を定め/法を先とし/父母
  を次とし/近縁を三とし/農村を最後の目標として/只猛進せよ/快楽を同じく
  する友/尽く之を遊離せよ

 両日とも両親への感謝と賢治が熱心に信仰していた法華経への思いを述べています。
とりわけ29日の詩からは農村への思いも記してあって「雨ニモマケズ」への関連を読
み取らざるを得ません。そして手帳は11月3日の「雨ニモマケズ」へと続くのです。

 もう少し溯りましょう。なぜ賢治はこうまで弱気に読み方によっては遺書のような
詩を書き連ねていたのでしょう。実は実際にその二カ月前、遺書を書いているのです。

 当時賢治は東北砕石工場という肥料工場に勤務し、農学の知識を利用して土壌改良
のための石灰を売り回っていました。商品見本を持って仙台を経て上京した際、電車
中でひどい熱が出て、死を決意したのです。それは9月20日のことです。
 早朝4時、仙台を発った列車の中でぐっすり眠り込んだ賢治は向かい側の窓が開け
放されていたため、上野に着いたときはひどい発熱と頭痛などで苦しんだのでした。
翌9月21日、両親にはがきを書きす。

   この一生の間どんな子供も受けないような厚いご恩をいたゞきながら、いつも
  我慢でお心に背きたうとうこんなことになりました。今生で万分の一もつひにお
  返しできませんでしたご恩はきつと次の生、又その次の生でご報じいたしたいと
  それのみを念願いたします。 どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私を
  お呼びだしください。そのお題目でたえずおわび申しあげお答へいたします。
   九月廿一日
              賢治
  父上様
  母上様

   たうとう一生何ひとつお役に立たずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。
  どうかこの我儘者をお赦しください。
  清六様
  しげ様
  主計様
  くに様

 賢治が肥料会社のセールスマンをしていたことに驚かれる人が多いと思います。裕福な家に生まれた賢治は自分の家が農民からの搾取(小作料や質屋・古着屋)で潤っていることを知って大きな矛盾を感じました。盛岡高等農林学校を卒業した後、花巻農学校の教師になり、農民とのかかわりを深めると、退職後、羅須地人協会という私塾を起こし、農村青年に農芸化学や芸術などを説き、厳しい農村生活を少しでも豊かに、実りある、人間的なものにしようと努力たのでした。

 農学の知識を生かして農民のための肥料設計なども精力的におこなったのです。しかし、冒頭に述べたような時代背景でした。こうした集まりは弾圧される時代だったのです。賢治は自分や仲間に害が及ぶ前に羅須地人協会を解散しました。賢治三十才の頃です
 その後、あるきっかけで昭和6年3月から東北砕石工場の嘱託となり、石灰のセールスをすることになったのですが、それは学生のときに結核を患った賢治には苛酷な労働だったのでしょう。ついに結核を再発することになったのです。
 9月21日のはがきで両親に宛てた遺書が賢治と病苦との戦いの序章です。
 9月27日、賢治は東京から岩手県花巻の父のもとへ電話をかけます。

  「もう私も終わりと思います。それで最後におとうさんのお声がききたくなりま
   した」

 驚いた父の厳命と東京の知人の尽力で電車で花巻にもどり、そのまま病臥すること
になりました。今まで紹介した詩などはこの病床で書かれたものです。
 それから二年後の昭和8年くしくも東京で遺書を書いた日と同じ9月21日、永眠しま
す。満37歳でした。

 今年は賢治生誕百年。賢治には全く無関心の方にもその喧噪は届いたことでしょう。

 賢治の幻想的で清潔でさわやかで優しいイメージ。夢と希望にあふれているイーハトーブという架空の地名まで随分有名になりました。環境と人との調和の重大さを当時から考えていたとか、自然と共存した人だとか、弱者に対して菩薩のように慈悲深い人だったとか、断片的な情報は飛び回っています。

 しかし、昭和20年以前の東北の小作農民は稗(ひえ)を常食し、白米はめったに食べられなかったのです。賢治の生まれた明治29年、岩手県の三陸海岸では大津波による甚大な被害がでています。全国的に赤痢などが大流行し、東北では大地震がありました。冷害で米が採れないこともしょっちゅう。まだまだ自然に翻弄されていた時代なのです。

 大正ロマンやデモクラシーは地方まで及ばず、関東大震災頃からの日本列島は真っ暗な不安感と貧困と疲弊が覆い尽くしていたことも事実なのです。
 そんな時代を生きた一人が宮沢賢治でした。彼は素封家(大金持ち)に生まれながらその環境に甘んじる事なく人の苦悩を我がことのように感得できたのでしょう。

 人口に膾炙した「雨ニモマケズ」が、そういう人物の生涯の行き着いた果ての病床で書かれたことの意味を考えてみることも大切なのではないでしょうか。
 今年、生誕百年記念でそこまで掘り下げた企画には残念ながらわたしは行き当たりませんでした。小さくて真摯な会合は一杯あったことでしょうが、商業主義で大々的に催されれたものは、途中でもう、うんざりしてしまったというのが本当です。

 賢治の没後6年目、昭和14年2月9日に政府は国民精神総動員強化策を決定します。
翌月の3月7日、羽田書店刊「宮沢賢治名作選」が文部省推薦になっていますが、そこには時が時だけに不純さを感じない訳にはいきません。
 戦後、当局によって「雨ニモマケズ」の中の一説「一日ニ玄米四合ト」の四合が多すぎると改ざんされた歴史があるのです。しかも健康な体力と耐乏、仏教的諦観に彩られた詩句は戦争に向けて邁進していた為政者にとって魅力的であったに違いありません。

 賢治の人生の血と汗と祈りで書かれた「雨ニモマケズ」。手帳の中に密かに、ふとこぼした、ため息のような「雨ニモマケズ」。歴史の中で毀誉褒貶にもみくちゃにされてきた、いたいたしい作品でもあるのです。

参考図書
 「賢治精神」の実践[松田甚次郎の共働塾] 安藤玉治 農文協
 年譜宮澤賢治 堀尾青史 中公文庫
 年表作家読本 宮沢賢治 河出書房新社

《後記》

 永六輔さんの「職人(岩波新書)」がおもしろい。これは岩波新書の「大往生」

「二度目の大往生」に続く語録集になります。既刊の「普通人名語録」や「一般人名語録(共に講談社文庫)」などから題にふさわしい名語録を集めたという点でも前二冊と同様です。
 以前、さる通販カタログに永さんによって職人言葉が一杯紹介してあり、これはいいぞと保存しておいたはずなのですが、いつのまにか資源ゴミとしてちり紙と交換されてしまった苦い過去がありました。今回はその暗い過去を払拭する本として喜んで拝読いたしました。
 ちょっと紹介します。
「人間〈出世したか〉〈しないか〉ではありません。〈いやしいか〉〈いやしくないか〉ですね」
「田舎の人は木に詳しいから伐り倒す。都会の人は木を知らないけど守りたがる」

 寒さに向かいます。ご自愛を。
(游)

|

« 游氣風信 No82「キノコの話」 | トップページ | 游氣風信 No84「モモと時間泥棒」 »

游氣風信」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 游氣風信 No83「11月3日(宮沢賢治論) 職人(永六輔)」:

« 游氣風信 No82「キノコの話」 | トップページ | 游氣風信 No84「モモと時間泥棒」 »