游氣風信 No74「賢治特集雑誌」
游氣風信 No74「賢治特集雑誌」
三島治療室便り'96,2,1
三島広志
E-mail h-mishima@nifty.com
http://member.nifty.ne.jp/hmishima/
≪游々雑感≫
賢治特集
昨年の夏、この≪游氣風信≫で、来年は宮沢賢治生誕100年に当たるため、数々の 催しや出版が実施されたり計画されていると書きました。年が明けて、今年が生誕百 年になるわけですが、早くも新年早々賢治特集を組む雑誌が登場しました。それも多 方面にわたって活躍した賢治らしく傾向の異なる雑誌です。
宮沢賢治を紹介するときは誰でもその肩書の多様さにいささか困惑するでしょう。
それは肩書というより、じつは宮沢賢治は宮沢賢治として生きたから、本当は肩書な どいらないということなのです。
通常、賢治は童話作家・詩人と紹介されます。
ジョバンニ少年が夢の中で死後の宇宙空間を友人カムパネルラと汽車に乗って旅す る賢治の代表作「銀河鉄道の夜」、風変わりな転校生と村の子ども達の交流を描いて 度々映画にもなった「風の又三郎」、教科書によく採用される水中のカニの兄弟のス ケッチ「やまなし」、山猫に頼まれた一郎少年がどんぐりの裁判を行う「どんぐりと
山猫」、山奥の西洋料理店で、じつは食べられるのは人間の方だったというどんでん 返しの傑作「注文の多い料理店」などの童話はよく知られています。
一昔前、我が国の優れた童話作家を三種の神器と別格官幣大社という古めかしい呼 称で並び称したことがありました。三種の神器は浜田広介と小川未明、それに坪田譲 二を指し、宮沢賢治が別格官幣大社と称されたのです。今ではまずこんな呼び方はし ないでしょう。意味もぴんときません。ただ、賢治が別格扱い、言い方を変えると児 童文学史に収めきれない、その当時から学者を困惑させる存在であったことがうかが えます。
詩人としてはどうでしょう。
賢治自身は心象スケッチと命名した、普通には詩とされている作品集「春と修羅」 は、童話と同様に発表当時ほとんど顧みられませんでしたが、後に多くの詩人に影響 を与え、特に中原中也は精神の奥底で賢治に通底していたと言われます。中でも「永 決の朝」は高校の教科書に取り上げられる機会が多い純度の高い絶唱で高村光太郎に 大きな影響を与えました。
没後トランクの中から見つかった手帳の中に書かれていた走り書きの用のメモ「雨 ニモ負ケズ」は今日でも標語のように使われてとりわけ有名です。
しかしそうした文学活動以外に農村指導や宗教活動、教育者としても高く評価され、 土壌学、鉱石学、農業化学、造園学なども相当に専門的に修め、盛岡高等農林学校(今 の岩手大学)の助教授にという声もあったそうです。
近年、教育者としての賢治がとても重要視されて、昨年「賢治の学校」が開講しま した。後述する照井さんは賢治の教え子で、のちに花巻市の有力者として文化面で活 躍され91歳の今日も幼稚園の園長先生を努めておられますが、75年も前に受けた賢治 の授業を今でも再現できるほどよく覚えておられます。それは知識だけでなく、感動 を与えられた授業だったからに違いありません。彼だけでなく多くの生徒がそうなの です。それを目の当たりにした元小学校教師鳥山敏子さんなどが中心になって「賢治 の学校」が旗揚げされたのです。
さて、特集雑誌を見ていきましょう。
十数年前、まだアウトドアなどという言葉が一般的でないころから、自然の中で遊 び、それを機会に楽しみながら自然や環境に目を向けようという娯楽雑誌「BE-P AL(ビーパル)」が小学館から月刊で発行されました。今日でもアウトドアブーム のけん引誌として多く読まれています。
キャンプ用品や野外で着る服、野遊びに最適な自動車などを紹介しつつ、自然保護 に地道に取り組んでいる人を丁寧に紹介したり、自然派生活をしている人のエッセイ や身近な生物・鉱物図鑑などを載せている雑誌です。ちょうど発刊当時からはやり始 めたポパイなどのファッションカタログ雑誌のアウトドア版という感じの手軽な本で
すが、中身はかなり濃い記事もあります。
この「BEーPAL」が2月号で生誕100年記念スペシャル「ナチュラリスト 宮沢 賢治の詩的・野遊び術」という特集を写真を豊富にした内容で取り上げています。こ れなら賢治になじみがない人にも興味を持たせるに十分な内容の記事だと思えます。
宮沢賢治は、その類いまれなる自然への観察眼と、瑞々しい感性を生かして、数々 の美しい詩や、童話を創作した。ナチュラリスト・賢治は、当時、どのように自然を 楽しんできたのか。作品と、証言から説き明かす賢治の自然生活。
この導入部から賢治の野遊び術を具体的に同好者の証言とともに紹介してあります。
それによると賢治は当時最もハイカラなスタイルで野山を歩き回ったようです。手近 な野歩きなら売り出されたばかりのダルマ靴を履き、手帳を携え、シャープペンシル を首にぶら下げ、道々、心に思い浮かぶことばをスケッチするようにどしどし書き連 ねていったのです。
ダルマ靴は今日の革靴の形で材質はゴム。岩手県花巻市に生まれ育ち生涯を終えた 賢治は何回も東京の土を踏んでいます。このダルマ靴は普及間もないころ銀座で購入 したと言い伝えられているそうです。シャープペンシルだって当時まだ珍しく高価な ものであったに違いありません。
岩手山などを本格的に登山するときは、洒落たニッカボッカなどを身につけ、携帯 食料としてチョコレートとクッキー、携帯寝具として新聞紙を携えるという軽装。歩 くのがとても早かったと誰もが証言しています。
岩石学が専門だった賢治は常にハンマーを携帯しこれと思う岩を叩いて観察したり 収集したりしたそうで、花巻近郊で賢治に叩かれなかった岩はないという逸話まで残 しています。
また、当時日本に導入されたばかりのスキー(写真を見るとストックは一本でイカ ダを漕ぐように使っています)や下駄に刃を付けた下駄スケートも楽しんだようです。
これと同類の下駄スケートは長野出身の家内も子どものころ田圃を凍らせた簡易ス ケート場で冬になると遊んだと言っています。男用の下駄の歯がないものにスケート の刃が固定してあるだけ。こんなのでよく滑れるものと感心しますが、足袋を履いて 鼻緒に指を通し、つまり、普通の下駄の履き方に加えて、踵が浮かないように紐で縛 るのだそうです。足と下駄を結び付ける紐がすぐにほどけて、かじかんだ手が痛く、 泣きそうに結んだと兄弟が集まるとよく話題にしています。
わたしが子どものころ、スケート場の貸すスケート靴は今のものと同じでしたから この特集の写真を見るまでは下駄スケートなど何度ことばで説明を受けても想像もで きませんでした。今の40歳位までが下駄スケートの最後の世代のようです。もちろん 長野でも当時からスケート場に行けばきちんとしたスケート靴だったのでしょうが自
前で持ったり、学校が揃えたりできるのは安価な下駄スケートだったそうです。
先に登場しました賢治の教え子で現在91歳の照井謹二郎氏は賢治と一緒に岩手山登 山をしたことのある生き証人ですが、興味深いことを話されています。
「宮澤先生は焚き火をする前に、薪に向かって挨拶をするんです。『使わしてもら います』って深々と頭を下げて、それからそっと、火をつけるんです」
賢治の人柄が彷彿とさせられる証言ですね。
1896年8月27日に宮沢賢治は生まれました。
賢治の中では、詩や童話、音楽などの芸術も、
科学や技術も、宗教も、一つに融合されていました。
あらゆるひとのいちばんの幸福。
賢治は岩手県を「イーハトーブ」と呼び、
そこに理想郷を思い描きましたが、それはまた、
はるかな4次元時空への入り口だったようです。
賢治が生まれて100年。
この間に世界は大きく変わりました。
しかし、今もこの地球上のどこかで
争いがあり、憎しみがうずを巻き、
飢えや寒さにふるえる子供たちがいます。
死後、ますます読みつがれ、語りつがれる賢治。
その夢にまだ終わりはありません。
「われらに要るものは
銀河を包む
透明な意志
巨きな力と
熱である」(「農民芸術概論綱要」より)
という壮大な文章で始まるのは科学雑誌の老舗「科学朝日(朝日新聞社発行)」の特
集です。
生誕100年イーハトーブ・・科学の彼方に 宮沢賢治が求めた世界
これが特集のタイトル。
先程の「BE-PAL」が野遊びの面に焦点を当てていたのに対し、こちらは科学 雑誌らしく科学的側面に焦点を当てつつ、賢治の目指した世界の追求も怠っていませ ん。つまり科学雑誌と言えども科学のみに拘泥していないのです。タイトルも「科学 の彼方に」ですから。
科学はものの見方考え方であり、そこから生みだれた技術が科学技術。それを用い るのが人間であれば、科学技術の一人歩きをしっかり規制しなければならないのも人 間の仕事です。ここに賢治の宗教・科学・芸術を融和統合しようとした生き方が現代 から未来に向けて求められたいるのでしょう。ですから、「科学朝日」が賢治を特集 したのだと思います。
特集の中で特に興味を引いたのは「児童文学者が読む『よだかの星』」でした。著 者は児童文学作家で日本野鳥の会の国松俊英さん。
「よだかの星」という話は切なく、どうにも解決できない命題すなわち「生き物が 生きるためには他の生き物を殺して食べなければならない」ということを主題にして います。
よだかという鳥は嫌われもので、鳥仲間からいじめられて行き所がないどころか、 鷹に食べると脅されます。そんな時、よだかは口の中に飛び込んだかぶとむしを呑み 込んでしまいます。自分は鷹に食べられることを恐れていながら、生きるために虫を 食べる。このしがらみから抜けるためによだかは天に舞い上がって星になるという美
しくも哀しい物語で内容の深さから賢治の作中でも感性度の高い傑作とされています。
その主題とは全く関係ない瑣末なことですが、以前から疑問に思っていたことがあ りました。それはヨダカにはカワセミと蜂すずめ(ハチドリ)という弟がいるという 設定です。確か詩にも同じことが書かれていたと記憶しています。しかし、なぜフク ロウみたいなヨダカ(正式にはヨタカ)と鳥の宝石と称されるカワセミやハチドリが 兄弟なのでしょう。著者の国松さんも同様の疑問を持たれたようです。しかも野鳥の 会の人らしく専門的に。文を引きましょう。
現在の鳥類の分類では、ヨタカはヨタカ目、カワセミはブッポウソウ目、ハチドリはアマツバメ目となっている。このように異なって分類されている3つの鳥が、どうして賢治の作品では兄弟になるのか、最初私にはわからなかった。なにか理 由があるのか、それとも賢治が思いつきで書いたか。(中略)1920年発行の「東京帝室博物館天産部・列品案内目録」である。その目録は、当時学習院大学教授で動物学者だった飯塚啓の監修で、鳥類の分類は英国の鳥類学者R・B・シャープが 著した「A HAND-LIST of THE GENERA andSPECIES of BIRDS(鳥類種属表)」に したがっていた。その目録を見ていくと、現在の分類と違って、ヨタカ、カワセミ、ハチドリの3つの鳥は、みんなブッポウソウ目に入っていた。「よだかの星」に出てきた3種の鳥は、当時最新の分類とされていたシャープの分類表では同じ目だったのである。3つを兄弟にしていたのは思いつきではなかった。(中略) 賢治が作品に書いたのは、科学的な裏づけがあるものだった。
これでわたしの疑問も氷解しました。専門家は細かなことまできちんと調べるもの と感心しています。
次の記事「地質学者が読む「グスコーブドリの伝記」(高橋正樹)」も読みごたえ がありました。
賢治の思想の根幹をなすものに「自己犠牲」があると言われています。多くの人達
のために自らを犠牲にする。先程のよだかも他の生物を食べて生きることを放棄して 星として輝く道を求めました。自己犠牲などきれいごとで、誰だっていざとなれば自 分が可愛いものですが、時に我が身を顧みず人を助ける人がいることも事実です。「グ スコーブドリの伝記」は自己犠牲を主題とした作品として知られています。骨格はしっ かりした作品ですが肉付けの方が今一つ薄いと感じているのですが、賢治を考えるう えでとても貴重な作品です。
賢治は自分が生き物の命を食している以上、最後には命をお返しするという気持ち があったように思います。先程、薪を燃やすときに「燃やさせてもらいます」と頭を 下げたという逸話にもそれは見て取れます。賢治の思想には人も動物も植物も鉱物も 同じ命としてバランスを取り合って地球という星に生きているという発想がすでにあっ
たのです。それは自然科学と化学、それに仏教から学んだもののようです。
地質学者の高橋さんは最後の方でこう述べます。
賢治の中では、宗教と科学と合理主義とが、実に見事な調和を示している。悪いの は科学そのものではなく、それを扱う人間の心にある。この単純明快な命題が、今、 忘れ去られてはいないか。賢治の死後すでに60余年の歳月が過ぎ去ったが、自然災害 にしろ、経済問題にしろ、山積みする世紀末の不条理で困難な課題の前で、ともすれ ば非合理主義へと逃避してしまいがちな、正しくもなければ強くもない凡庸な私たち に、彼の「グスコーブドリの伝記」は朽ちることのない勇気と希望を与え続けてくれ ることだろう。
として、最後に賢治の有名な言葉で締めくくっています。
正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
われらは世界のまことの幸福を索ねよう
求道すでに道である
(「農民芸術概論綱要」より)
生誕100年、没後62年。生前全く無名のままに37年の生涯を終えた風変わりな青年。
まだまともなオーケストラが日本に無いころから、楽器を買い込んで農村の若者達 とオーケストラを作ろうとしたした夢見る理想家。
貧しい農家の人が持ち込んだ全く無用なものに同情心から高い値をつけた感受性の 強い古着屋の若旦那。
一生を東北の花巻という小さな町で旧弊な慣習と大正時代の新しい風の中でもがく ように、泳ぐように過ごした宮沢賢治という人の作品や生き方が、今日、広く海外に まで紹介され共感されている理由が、これらの特集を通じてお解りいただけたでしょ うか。
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