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2011年6月22日 (水)

游氣風信 No107「指圧と漢字」

三島治療室便り'98,11,1

 わたしの治療室では指圧教室を行っています。
 「游氣の塾」といういかにも不審な名称はこの教室のことを指しているのです。
 教室とは仰々しいですが、素朴な手当の代表である指圧療法を広く知って貰おうと思って気楽な集いを細々と、かつ綿々と続けているものです。対象はごく普通の主婦や会社員で将来これで食べていこうという人は相手にしていません。
 免許を持っているプロや鍼灸指圧学生用のコースは以前は別口でやっていましたが、現在は休眠中です。

 指圧教室は経営的には全くマイナスなのです。それでももう20年近く継続しています。知人からは時間の無駄使いだと揶揄されていますし、わたし自身もしょっちゅうこんな儲からないことは止めてしまおうと思っているのですけれどもなかなか止める切っ掛けがないというのが本音です。

 なぜ切っ掛けがないか。それは今現在、来ても来なくてもとりあえず在籍している生徒20数人の内、20人位は外国人で、本人が帰国しても次の人を紹介していくことが多く、結局途切れることなく生徒がやってくるからです。
 忘れたころに、「以前こちらで指圧の勉強をしていたJakeにクラスのことを聞いて知っていました。それで前から勉強に来たかったのですが仕事との折り合いがうまくつきませんでした。今年はクラスに参加できるように仕事を組んだからお願いします」
などとやって来るのです。これでは受け入れざるを得ません。ささやかな民間国際交流でもありますし、日本のいい思い出を持って帰ってもらいたいという思いもあります。

 最近も
「昨日日本に来たばかりですが、ECC(英会話学校)の外国人教師から三島先生のことを聞きました。わたしも指圧を習いたい。カナダにいるときからずっと興味がありました。行ってもいいですか」
などと若いカナダ人から電話がありました。

 指圧はSHIATSUとして外国でもそのまま通用します。中でも恩師増永静人先生の経絡指圧は海外でZEN SHIATSU(禅指圧)としてとても知られています。
彼らにとって指圧は現代医学とは異なった代替療法・自然医療であると同時に東洋思想を体現するものとして興味深い対象なのです。

 わたしの所では外国人に指圧を教えるときも日本人と同様に「指圧」という漢字の説明から入ります。そうすると指圧と同時に漢字の勉強にもなるので彼らは日本人以上に喜びます。

 授業は次のような具合に始まります。多くは増永静人先生の受け売りか漢字学者藤堂明保先生の本から得た知識です。

 では、みなさん。
 指圧の勉強を開始しましょう。まず、「指圧」の漢字の意味を説明します。

 「指」は手偏(てへん)に旨(シという音を表す)で「ゆび」のこと、つまり指圧に使う主たる道具である指を表しています。

 「圧」は旧字で「壓」。これは雁垂(がんだれ)と土と犬と口と月からできています。口と月は肉を表し、犬はそれが犬の肉であることを説明しています。
昔(今でも)中国人は犬を食べましたから、犬の肉は大事な食料なのですね。

 「壓」という漢字は犬の肉が土の上に置かれ、それを何かで蓋をしているというのが成り立ちです。つまり「壓」は犬の肉が大地を圧している状態。そこから古代中国人はある物が別の物にじっと圧力(重力)をかけていることを「壓」と表現したと理解できるのです。

 物理では物体をどれだけ動かしたかが「仕事(力×距離)・ジュール」であり、どれだけ強く圧力をかけても物体が動かなければ仕事は0でしかないとします。
 時々身体調整にみえる物理学の教授に「それは変だ」と訴えたことがありました。なぜならわたしの仕事である指圧はどれだけ頑張っても物体を動かしませんから物理学上は仕事をしていることにならないからです。これでは料金がいただけないではありませんか。指圧は物理学上は仕事ではないのです。何かすっきりしません。

 と、こんな具合にクラスを進めて行くのです。もっとずっと砕けた感じで冗談を混ぜながら進めます。
 例えば
「え、中国では犬を食べるの」
「そう」
「可哀想。あんなに可愛いのに」
「それは偏見。中国人は何でも食べます。鳥も魚も四つ足も。中国人が食べない四つ足は椅子とテーブルだけなんです」

 さらに、漢字の話を進めます。

 今まで説明しましたように「指圧」とは指に代表される体のある部分を用いて(逆に言えば道具を使わないで)クライアントの体に圧(静かな動揺させない力)を加える技法であるということが名前の由来になっているのです。
 「指圧」という名称は大正時代、玉井天碧という指圧療法家が使い出したとされています。

 巷間よく見かける「整体」は、以前は指圧とセットで「整体指圧」と呼ばれていましたが、今日では法制上「指圧」と一本化して括られました。しかし「整体」という名称は技法ではなく「体を整える」という目的を明確にしてい
ますから一般の人達には分かりやすいものです。
 現在では法制上指圧業をしたくても国家資格を持たない人達は「指圧」という看板を掲げることは許されません。けれども「整体」と自称することで法の規制から逃れることが可能です。それは非常にずるいやり方ですが、「整体」自体は誠に分かりやすいネーミングと言えるでしょう。 昔風の「整体指圧」なら「体を整えるために、指を使って圧力をかける療法」と完全な説明になるのです。

 指圧によく似たものに「按摩(あんま)」があります。
 本来は按摩が指圧の元祖で中国から奈良時代前に伝来しました。その証拠は大宝律令に「按摩師、按摩生、按摩博士」という医業が法制化されていることから確認できます。「鍼灸」も全く同様です。

 中国には「婆羅門導引・天竺按摩」ということばがあります。
 婆羅門(バラモン)は婆羅門教のことで仏教が生まれる前のインドの宗教です。
 導引(どういん)は「大気を導き体内に引き入れる」という健康体操でヨガを源流とした現在の気功のようなものだろうと推定できます。
 天竺(てんじく)は三蔵法師が仏典を手に入れるために孫悟空(行者)と猪悟能(八戒)、沙悟淨(和尚)を供にして目指した土地でやはり今のインドです。したがって気功も按摩もインドを源としていると考えていいでしょう。
 蛇足ながら孫悟空などの活躍する「西遊記」は呉承恩が書いた魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する架空の物語ですが、三蔵法師(玄奘)は実在の高僧でインド旅行記「大唐西域記」を著しました。

 さて「按摩」の説明に戻ります。
 「按摩」の「按」は字の通り手を安定させること。
 「安」はウ冠に女。ウ冠は家を意味し、普段は豚が屋根の下にいるので「家」という字ができました。決して女房が豚みたいだという意味ではありません。
 「安」の字は女は家にいるべきだという意味か、女が家にいるから安心なのか不明ですが、いずれにしてもじっとしている意味、「安定」や「安心」を意味する文字になりました。
 「摩」は磨くことです。石で磨かず手で磨くということで、摩(さす)るという字。

 「鍼」はどうでしょう。
 「箴言」ということばをご存じでしょうか。いましめとなる短い格言で、ずばり本質を突くことば。「箴」は竹の針。竹の針のように鋭く核心を突くことです。昔の針は竹だったのでしょう。だから竹冠の「箴」。後に金属製になっ
て金偏の「鍼」。心に深く突き刺されば「感」。「灸」は「久」しいに「火」ですから何となく分かります。

 先程、医業ということばがでましたが「医」には二つの旧字があります。
 一つは「醫」です。
 これは医と几と又。それと酉。
 「医」は「箱に収めた矢」のことで今ならさしずめ手術用メスのことでしょう。うっ血部を切って瀉血したものと思われます。
 「又」は手のことで、「几」が道具。手に道具を持って何か行うという意味です。つまりメスを扱うという意味。

 下の「酉」は酉(とり)のことではなく「酒」です。酒は酒でも薬用酒。植物の薬用成分をアルコール抽出した物です。これが「酒は百薬の長」の本当の由来。ですから日本酒やビールやウイスキーは「百薬の長」ではありません。
 以上のことから「醫」とはメスでの外科手術と薬酒による内科治療を指すと察することが可能です。

 もう一つの「医」の旧字はワープロの辞書にはありません。「醫」の下が酉の代わりに「巫」のようになったものです。これは巫女(みこ)さんのことで、祈祷で治療したと考えられます。

 「健康」はどうでしょう。
 「健」と「康」に共通するのは「筆」です。筆はすっくと立たせて持ちますから「健康」とはしなやかに健やかに立ち上がっている状態を言うのです。
 では「病」は如何。
 病垂(やまいだれ)は床几(ベッド)を立てた形です。病垂の垂にちょんちょんとある二つの点はベッドの脚なのです。
 「丙」は人が具合が悪く、大の字になってベッドに寝ている姿を上から見下ろした図です。そうです、「寝」にもちょんちょんがありますね。意外に思いますが、中国人はベッドと腰掛けで生活しているのです。

 よくリラックスした時、大の字になって寝るといいます。
 「大」の字はずばり人が両手両足を広げた図です。

 「人」は人がお辞儀をしている様子を横から見たところで、奴隷のことだと本に出ています。

 大の字になった人の上に横線を引いて示したのが「天」。
 人が大地を踏み締めている絵が「立」。
 人が両手を広げて足を閉じて立つと「十」。その上に天を示す横線を引き、下に地を表す横線を書く。すると「王」という字になります。「王」は天と地を貫く存在なのです。
 この辺りは実に何とも感動的ですね。
 では「太」の点は何かと質問されて困るのですが研究してみてください。

 病気の「気」は元の字が「氣」。
 米を炊いた時に出る蒸気と言われます。汽車の「汽」も同じで蒸気です。
 米を覆っている部分が蒸気の象形、湯気のたなびく様子です。
 何か良く分からないがある種の力を感じるときに「気」といいます。お釜の蓋をカタカタ動かす力から想像したのでしょうか。
 イギリス人のジェームズ・ワットも少年の頃蒸気がヤカンの蓋を動かすことに興味を持ったことから蒸気機関を開発したと言われています。少年の時に蒸気が漏れないように栓をしてヤカンを爆発させるという実験もしたはずです。

 「人」という字は奴隷から由来していると言いました。漢字には同じ傾向の字がたくさんあります。
 民主主義の「民」。これは目に針を刺して失明させ、逃亡できないようにした奴隷。ですから「人民」とはすなわち奴隷なのです。
 戦後「汝臣民飢えて死ね」という片言が密かに流行ったそうです。臣民の「臣」も民と同じく目に針を刺して失明させられた奴隷の由。「臣民」も「人民」もみな元は奴隷なのです。
 そこから「民」と「目」を合わせて「眠」という字が派生しました。目を閉じて眠ること。

 「昏」もそれに近い字です。黄昏(たそがれ)。「氏」と「日」からなり暗いという意味になります。「氏」は「民」から来ている字ですからやはり残酷にも目を潰されていることなんです。

 ではなぜ御目出度い結婚に暗い意味の「婚」の字があるのでしょう。女偏に黄昏で「婚」。どうしてでしょう。それは結婚生活は暗澹としているからもはや人生の黄昏になるのだという・・・これはウソです。結婚の儀式、特に男女が結ばれる床入りの儀は夜に行われるから、黄昏に結ばれるということで「結婚」と書くのです。

 これまで見てきた漢字には奴隷と女が多いことに気づかれたと思います。どちらも古代中国で虐げられた人です。奴隷の多くは部族闘争で負けた側が反抗できないように目を潰されて苦役をさせられたようです。

 女も戦利品だったかもしれません。女の奴隷は「辛(はり)」で入れ墨をされました。
その字が「妾(めかけ)」。「辛」の略字が「立」。「立」と「女」で「妾」。「妾」の意味は性行為目的の奴隷なのです。そういえば奴隷も女偏(おんなへん)でした。
 性行為は古くは「交接」。つなぐことです。「接」は手偏に「妾」。ずばり性行為を示す字です。

 また似たものに「童」。「童」は今は子供のことですが、元々は「目」に「辛(はり)」を通した字。奴隷のことです。「目」の上に「辛」を乗せればよく分かります。それが時代を経て子供を表す字に変化していったのです。

 それと関係あるのか関係ないのか分かりませんが女偏の漢字は一杯あります。
以下は角川文庫の「女へんの漢字 藤堂明保著」より。今まで書いたこともこの本からの知識が一杯ありました。増永静人先生も藤堂先生のファンでした。

 「女」はくねくねとしなを作って座っている女性の象形。
 「女」の乳房を強調すれば「母」。ちゃんと二つ乳首が描いてあります。
 女が良いのは「娘」の時だけ・・・これはウソです。どちらもなよなよして可愛い・優しいということです。

 女が古くなるとうるさい「姑」。古は固い頭蓋骨。口の中に古いと書くと「固」。「故」、「枯」、「涸」などに使われます。ですから堅苦しい女性のことを「姑」というが正しいと思われます。

 「思」という字は「田」と「心」から成り立っています。「心」は心臓の象形で心もそこに宿ると考えられていました。「田」は「古」と同じで頭蓋骨。
頭蓋骨の縫合の象形です。昔の中国人は「思う」のは頭と心だと考えたのです。
これを知ったときは衝撃的でした。

 「息」を分解すると「自」と「心」。「自」は鼻のこと。「息」は鼻と心臓でするという意味です。息をするとき鼻を自覚しますが、息が切れると心臓がどきどきするから「息」と書くのでしょう。

 「自」は「鼻」の字の一部ですね。「鼻」は象形文字で鼻の形を表し、「自」はその省略型です。
 外国人は日本に来ておもしろいことの一つに次のことを上げます。
「日本人は『僕ですか?』と自分を指すとき鼻を指しますね。どうしてですか。
欧米人はそういうとき心の在りかである胸を指しますよ」
 これはおもしろい指摘です。
 なぜ日本人が自分を示すとき鼻を指すのか分かりません。しかし、鼻を指すから鼻の省略型の「自」が自分を示すようになったことは確かです。とすると漢字の本家中国でも自分を指すときは鼻を指すのでしょうか。

 女偏の字に戻ります。
 「好」の字は「女」と「子」。女も子供も可愛いから良いとか好きの意味に。

 焼き餅焼きの「嫉妬」はどちらも女偏。「嫉」の「疾」は疾病の意味。矢のように早く悪化する病気のことです。
 女三人寄れば「姦」しい。姦淫の意味もあり「婬」という字もあります。

 「妄」は妄想。みだらな想いのこと。女を亡くすと書きます。「亡」の字は何かに捕らわれてあるいは集中して心を亡くすという意味がありますから、女に夢中になるという意味があるかも知れません。「望」という字は小高い丘
(王)に立って、月の出を待ち心を亡くしたということから作られました。
 男が二人がかりで女を「嬲(なぶ)る」。これはひどい字です。
 女が箒(ほうき)を持てば「婦」。「掃く女」です。
 女がはたきを持てば「妻」。はたきは高いところで振り回すので女の上に置かれたのでしょうか。
 「姉」の「市」は上の方に伸びた蔓を意味する字で「市」とは厳密には異なります。
 「妹」の「未」は未だ未熟な小枝のことで末娘。「未」は「未だならず」で曖昧の昧も三昧も同じ。


 「末」は梢(木末)。根元は「本」。「末」も「未」も「本」も木に印をつけた字。木陰に人が寄れば「休」む。人の根本は「体」。
 年老いた女性は「姥」。なるほど。
 年を取ると波のように皺(しわ)がよるので「婆」。本当でしょうか。
 女が少ないと「妙」だ。これは信用しない方がいいです。
 女は「奸計(わるだくみ)」がうまいので要注意。「姦計」とも書きます。
要注意の「要」はくびれたということで身体では「腰」になります。「要」にも「女」があり女性のウエストのこと。

《後記》

 まだまだ漢字の成り立ちを書いていけばきりがありません。ただ言えることは漢字を考えた人はきっと女性にもてなくて、その怨念から底意地悪く「女」を漢字で用いたに違いありません。その努力(女の又の力・・・これはウソ)は認めましょう。
 しかし今回はこれで止めましょう。
 これ以上書くと女性の怒り(女の又の心・・・これもウソ)が怖いですから。

(游)


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