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2011年6月22日 (水)

游氣風信 No100 「游氣の塾とは?我が人生のコンセプト」

三島治療室便り'98,4,1

 
≪游々雑感≫

 三島治療室の頭に《游氣の塾》という名称がついています。
 これは何だと訝(いぶか)る人がいます。
 あるときなど地元の警察官が戸別訪問でやって来て「ここはいったい何の塾ですか」
と尋ねたほどです。右翼団体とでも思ったのでしょうか。

 聞かれる都度
「指圧などを教える塾ですよ」
と簡単に答えていたのですが、今月号は《游氣風信》100号ということで、先月号に続いて原点回帰を試みたいと思います。

 先月号は「触れる心」と題して32歳の時に鍼灸専門誌「医道の日本」に書いた論文に解説をつけたものを掲載しました。
 「触れる心」はなかなか反響がよく、今までの中で先月号が一番よかったという評もいただきました。それは当然でしょう。専門誌掲載の論文なのですから意気込みが違います。
 教育一筋に生きて来られた方からは
「『触れる心』の内容は教育の心と全く同じだ」
との賛同を得て、広く一般性ある文章だったと意を強くしたものです。

 今月号ではもう少し書いた年代を溯(さかのぼ)ります。
 「触れる心」が12年前の32歳なら、こちらは27歳の頃、およそ17年前にまとめたものです。

 鍼灸の専門学校を卒業し、結婚し、親炙(しんしゃ)していた増永静人先生も亡くなり、そろそろここらで自分の進むべき道を明らかにしておくべきではないか、それをもって自分自身の指標としようではないかと思い始めました。
 学生時代からばらばらに関心のあった宮沢賢治や俳句などの文芸、武道、指圧や針灸・気功などの治療技術を、この際、大づかみに自分の中でまとめたいと考えたのです。精神的に子供から大人になりかけたと言っていいでしょう。

 そんな頃、《游氣風信》でたびたび取り上げた「気流法」の坪井香譲(かじょう)先生との邂逅(かいこう)がありました。当時はまだ本名の坪井繁幸という名で執筆をされていましたが、「極意」とか「黄金の瞑想」などの著書を読んで引き付けられるものがあり関心を抱いていたのです。
 そのうち、ひょんなことから名古屋でヨガや気功法の一種「導引術」を教えていたKさんから坪井先生を紹介され交流するようになりました。
 Kさんの誘いで気流法のセミナーに参加するとさまざまな興味深い身体技法がありました。しかしそれらもさることながら一番興味を抱き、衝撃を受けたのはその大きな身体観でした。

 「気流法」のパンフレットには

  ◎生きる実感(出会い、共感、反発)
  ◎生きる力(活力、体力、精神力)
  ◎生きる方向性(英知、イマジネーション、言葉)

という記載が図式的に書かれていて、それらを∞(メビウス)の輪のように調和し発展するのが「気流法」の目指すところだと言うのです。

 それを読んだわたしは
「ああ、これはすごい」
と強い感動を禁じえませんでした。

 そして自分なりに考えて、坪井先生の意見も聞きながら次の形にしました。

  一 生きる方向の発見
  二 生きる活力の養成
  三 生きる場の解放

 塾名も最初は「気流身体塾」。後に「気流法」に迷惑をかけてはいけないことと、影響が強すぎる点を考慮して独自の名称に改名したのです。

 簡単に説明しましょう。
 「身体」は実質的な“肉体”という空間と、生きてきた“個人史”という蓄積された時間と、脳の活動である“精神”を皮膚で包んだものですが、さらに大きく“環境”との係わりあいの中に存在しています。

 自分が勉強してきた治療術は主として上記の二の「生きる活力の養成」の部分です。しかしそれだけでは我が身大事だけのエゴの塗り固めにもなりかねません。そんな活力なら無い方が世のためになり得ることも大いにあります。
 そもそも生きて行くだけならイヌやネコでも立派に生きています。彼らは子育てだって人間以上にこなします。では人間とイヌ・ネコの違いは何でしょう。

 一つは志です。
 動物は与えられた環境で自分の領域を守りつつ平穏に暮らせるように宿命づけられていますが、人間は何らかの志を持たないことには一時も生きていけません。それは“本能”のままに生きていれば一定の環境下で問題なく生きていける動物と、その進化の過程で“本能”の制約を外したために自ら生きる方向を規定しなければならなくなった人間との違いです。

 「今日の夕飯は何にしようかしら。タマネギが安いからオニオンスープに決めた」 このように食事一つをとっても些細な志を必要とするのです。ライオンのように目の前を通りかかったウサギを捕って食えばいいというものではありません。
 こうした日常の中にある小さな志でなく明治維新の精鋭たちのような大志というものを抱く気概、これも人間にとって不可欠なものです。けれどもこれは成長するなかで自然に身につけるわけにはまいりません。
 明治初期、日本青年に農業指導に来て北海道開拓に功績を残したクラーク博士の有名な

「青年よ、大志を抱け」

という壮大な志ともなればその修得はとても一朝一夕にはなし得ません。
 ここに教育が必要となる所以があります。
 昨今の若者がだらしないと憤慨される方も多いようですが、その若者達は時代に育てられたことに気づかなければなりません。今という時代の教育の成果がその時代の若者に反映しているのです。
 これが一の「生きる方向性の発見」。

 もう一つは環境(場)との関わり方にあります。
 地球上の生物の中で人間だけが環境に働きかける能力を得ました。
 人間は環境を変え、反対にその変えた環境から影響を受けつつ今日までに至る動物です。この過程が“人類史”です。動物は環境の中に完璧に適合する形で進化してきましたが、人間だけは環境を変えつつ適合してきたのです。

 人間は寒いとき火を熾(おこ)し、衣服を着用して部屋を暖め、生存環境を快適な形に変化させました。しかし快適環境に身を置くうちに皮膚が薄くなり、体毛を無くし、ひ弱な体になってしまったのはそのいい例でしょう。

 揚げ句の果て、さまざまな公害、地球温暖化やオゾン層破壊などのエコロジー問題を抱えることになってしまいました。
 身近に視点を移せば、家庭の家族関係や職場の人間関係。生活圏の自然環境や社会環境なども生きていく上で極めて重要になります。さらに見逃しがちなのは自分自身も環境を作っている一員であるということです。

 大きく地球環境を問わずとも、身近な環境を暮らしやすいものにし、自分自身も周囲の人達にとってよい環境であるように心掛けて、たった一度しか無い、しかも後戻りできない人生を謳歌したいものです。

 その視点で環境と身体との関わり方を述べたのが最後の「生きる場の解放」ということなのです。

 このように「気流法」の言葉と身体観に触発されて、それまでいろいろ学習してきたことを自分なりにまとめ上げたのがこれから紹介する文章です。若書きゆえのやや檄文調。
 これを原点として主として「触れる」ということにまとめ上げたのが先月の文章でした。

 今回改めて読み返してみて、
「俺はちっとも変化していないな」
という思いを強くしました。

 身体調整の場だけでなく、身近な人間関係の場でも、その他の何でもない付き合いの場でもここから一歩も出てはいないと呆れてしまうほどです。
 昨年書いたホームページの文章(《游氣風信》で紹介済み)など全くそのままでいやになるほど。

 以下に書かれた文章を読まれてどのような感想をもたれるでしょうか。読みにくい文章ですが興味のある方は最後までお読みください。

 なお、以下の文の「身体調整について」以降はさらに数年間の時間を経て書かれています。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

[生きる場の解放・生きる方向の発見・生きる活力の養成]を求めて
《游氣の塾》

 

  我々は生きていく限り<身体>の問題を看過する訳にはいかない。
 そしてそれは単に健康とか病気だけの問題でもない。
 なぜなら、すべての情報は<身体>によって感受(認識・自覚・勘等)、処理(判断・整理・選択等)され、あらゆる創造(活動・表現・技術等)は<身体>から発せられるからだ。
 即ち、我々の<身体>とは我々の<存在>そのものなのだ。  

 しかし、現実には我々の肉体は、社会という鋳型の中で精神の僕として隷属を強いられ、感性は鈍麻し頽廃し、心身は疲れ強ばり日常に漂流している。

 日常に埋没した自分に気付いたなら、この未知で、大切で、ままならない、いつかは捨てねばならない<身体>をじっくり見直し、親しく対話してみようではないか。
否、むしろそんな<身体>に委ねきってしまうことで、もっともらしい権威やおかしな常識、偏った先入観等の束縛から解放されようではないか。
 それに応えるべく、<身体>こそは完全なる世界を体現しているのだ。

 そこから、活性の湧き出る身体と、自律性に富んだ生活と、共感性に包まれた環境(人と人・人と自然)を得て、健やかな個性の融合した生命共同体が築かれるのではないだろうか。

◎身体とは
ここで言う<身体>とは以下を統合した概念としての身体である。

<肉体> 解剖学的=骨格・筋肉・皮膚・神経・内臓等(構造)
     生物学的=消化・循環・呼吸・運動・感覚等(機能)

<精神> 心理学的=本能・感情・葛藤・知性・欲求・学習等(ヒトとは?)
     哲学的 =意志・目的・欲望・認識・創造・内省等(人間とは?)

<經絡> 身体における氣の循環路といわれるもので、肉体と精神を総括する存在
     生命の流動性を示す概念
     生命を12のパターンで認識し、身体調整のシステムとして応用

<氣>  森羅万象の深奥に潜む実在の力
     身体に影響する内(生命力)、外(環境)の根源的なエネルギー
     不可視でも感応し、強力なパワーとして現象する
     理論的に説明不可能な場合に多用する便利用語
氣といわれると、なんとなく解った氣がする曖昧なコトバ

◎解放された身体とは

脱力性
リラックス、放下、可能性、ゆとり、重力に委ねる、安定性、中心が定まり強さが生じる、バランス
「をりとりてはらりとおもきすゝきかな」飯田蛇笏

柔軟性
やわらかさ、しなやかさ、適応性、多様性、広い視野、自由、自在
「をみなごしめやかに語らひあゆみ」三好達治
感受性
認識、感動、みずみずしい感性、創造のモチーフ、センス
「蔓踏んで一山の露動きけり」原石鼎
流動性
うねり、波動、リズム、エネルギー、カオス(混沌)、スパイラル、体液循環、呼吸、經絡
「筋肉は隆起し消滅する」坪井香譲
方向性
目的意識、自律性、自立性、勢い、パワー、全身がまるごと一体となって向かう(動く)、表現、集中、志向、思考、コトバ、希望、コスモス(秩序)
「はまなすや今も沖には未来あり」中村草田男
共感性
人の痛みを自分の痛みとして感じる、人との調和、自己との調和、宇宙・自然との調和、生命共同体の礎、アガペ 
「世界がぜんたいに幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」宮沢賢治

◎身体調整について

 身体調整はコミュニケーション(触れ合い)の一形態である。その根底にあるのは苦しみ、悩み、疲れている人に対する理解と共感であり、その行為は思わず手が出て、触れ、さすり(手当て)、じっと抱きしめる(介抱)などの形で表現される。
 ここで忘れてはならないことは、それらの行為が決して一方的でなく、同時にこちらの手も触れられ、さすられ、じっと抱かれ、そこでさまざまな情報の交換がなされていることである。
 本来、医療とはそうした対等の関係であったはずだが、今日では権威主義と経済関係にとって替わられてしまった。しかし一部で本能的な手当ての歴史が受け継がれ発展してきた。
 それは、患者と治療者との関係性を考慮した身体観に立脚する、おおらかで風通しのよい、解放された対等関係に基づく触れ合いの手作り医療である。

◎身体調整の技術について

 調整手技は武道、スポーツ、ダンス等と同じく身体で表現する体技である。したがって指一本使う時でさえ、全身の協調と意識の統一が必要となる。
 <技>を学ぶためには、手、指はもちろん肘、肩、腰、膝、足、腹の隅々まで神経をいき渡らせて、身体を意識すること(内観)と平行しながら<技>を修得しなければ上達は望めないであろう。
 さらにこの<技>を何の目的で、どんな場合に、どういう人に、どのように使用するのかを前提にした<術>の稽古も必要である。
 そのためには、身体と意識を十分に練って心技体を統一させていくことが極めて重要になる。

◎手技の内容

基本(全ての手技に共通する原理)
 姿勢、手の当て方、手首・肘・肩・腰・足の構えと意識、足底と床との感覚、床からのエネルギーを相手の体まで伝える流動的な身体作り、呼吸と動き、呼吸と意識、意識と技の関係、重心を活かす法、勁力の養成、腹(丹田)と腰の意識、氣の体感と伝え方、一体感(生命共感)

  上記をさまざまな形でトレーニングする。それによって技を使いこなせる身体を 作り、さらなる上達を目指す。
  トレーニングは簡単で、それ自体健康法になる。

検査法(民間療法的手探り療法からの脱却)
 生体反射検査法(BRT)、生体脉反射検査法(BPRT)、經絡診断、操体的動診、モーションパルペーション(可動性検査)、整形外科的検査
  身体調整は、まず相手からの情報収集から始まる。収集した情報を整理し現状把握の後、調整法を決定し、実行する。
  現状把握は予後の判定の判断基準になる。
 
  以上の情報収集と予後判定の方法が検査法である。同時に自らの限界を知る方法でもある。

鍈各種手技(直接的手段)
 カイロプラクティック、モビリゼーション、經絡指圧、操体、ストレッチング、リンパ流動法、生体反射療法等を各人の適性に応じて深める。
 上記の技術を用いて全身の筋肉、骨格(頭蓋・脊椎・骨盤・股関節・四肢)の調整、内臓の活性、リラクセーション、生体エネルギー(氣)の調整と養成を目指す。 
 以上の技術はばらばらに存在する訳ではなく、互いに関係しあっているので、相乗的に上達していくであろう。 

游氣の塾

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