« 2011年2月 | トップページ | 2011年7月 »

2011年6月

2011年6月26日 (日)

《游氣風信》 No,125 2000.5.1たかが、されど万年筆

 いつもどんな筆記具をお使いでしょうか。

 今日、ボールペンやシャープペンシルがその実用性をもって筆記具の世界を凌駕しています。せせこましい日常は利便性に最優秀なものとしての価値を与えますから。

 

 しかし同時に実利から離れた無駄なものに価値を認めるのも人間の特徴です。

その証拠に実用の世界からは遠のいたものの芸術や素養としての毛筆は健在ですし、過去に追いやられたはずの万年筆も一部の人の間ではステータスシンボルとしてまだまだ珍重されています。

 

 今月は筆記具全般についてざっと眺めて、さらに万年筆にも少し触れようと思います。

 

儀式の喪失

 子供達の間では小学校の低学年以外はシャープペンが主流です。若い世代に特徴付けられる丸文字(少女変体仮名)はシャープペンシルの普及とともに始まったというルポがあります(山根一真氏による)。筆記具は書体に影響を与えるという現象に現場の裏付けをもって取り組んだおもしろい意見でした。

 

 それはさておき、シャープペンに普及により現在の学習の場から消えたものがあります。それは勉強の初めや合間に鉛筆を削るという儀式めいた行為です。

経験者はお分かりのように鉛筆に小刀を当て、丁寧に木を削り、芯を尖らせると、結構精神が落ち着くものです。一種の三昧境。

 

 わたしが遠い昔、一応受験生だったころ読んでいた「中三時代」なる学習雑誌には

「気分を落ち着けるために試験の前にナイフで鉛筆を削るといい」

などと書かれていました。

 

 試験前に厳かに鉛筆を削る。これはまさに戦場に向かうもののふの心につながるものでした。が、それはもはや時代錯誤の物語です。

 

 シャープペンは鉛筆のように芯がだんだん太くなるということはなく、最初から終わりまで0.5ミリに保たれ、折れたり短くなったらカチカチとボタンを押して芯を繰り出すだけ、その作業は極めて簡単です。

 

 かくして子供の机から鉛筆を削る儀式と鉛筆削りという道具が消えました。

 消滅、それは文明の香りをふんぷんとさせて登場したかの電動鉛筆削りにおいてやですから、むろん取っ手をごりごり回す旧弊な手動式鉛筆削りは骨董品と化し、いわんや危険であると子供達から取り上げた小刀や肥後守の類は持っていることすら犯罪にされてしまいます。

 

 生活の利便性と共に子供の卓上から木の温もりをたたえた鉛筆と、刃物で木を削るという人類創成期からの営みを追体験させてくれる鉛筆削りはすでに伝説と化してしまったのでした。

 

利便という圧力

 

 職場などではボールペンが全盛です。

 一度書いたら「消えない」、容易に「消せない」というボールペンは、筆記具の重要条件である記録の保全という点で極めて優れています。さらにこの道具は非常に安価であることとあいまって最も利用されている筆記具となりました。その上、毛筆に対して硬筆と称せられるようにペン先が硬いので、相当に筆圧を強くできますから、複写用紙にももってこいです。

 

 さらにもこのボールペン、なぜか未だインクが残っているにもかかわらず必ず書けなくなるという特性を所有していますから、やたらと机上に転がっています。

 

 ボールペンがのさばる前は、事務所の机にはペンとペン立てとインクビンが鎮座していました。事務のおじさんの手にはいつもインクが染み付き、服が汚れないように袖にはおかしな袋をかぶせていました。吸い取り紙という専用の道具もありました。

 

 机の周辺には常にインクの匂いが漂い、それは厳粛な職場という雰囲気を醸し出していたのですが、これはもはや懐古趣味にほかなりません。

 ペンはすばらしい筆記具です。今日までの筆記具の歴史をほとんど担ってきた道具です。けれどもインクは水分ですから、乾きにくい、にじみ易い、ぽたりと垂れるなどの水分そのものの特徴を露呈するため、やや使いにくい面がありました。いわば善きにつけ悪しきにつけ、水の持つ表面張力や毛管現象に完全に支配された世界です。

 

 そうした物理的な弱点を油性インクという手法でやすやすと克服したのがボールペン。軸の中にインクを貯蔵したボールペンの登場によってペンとインク瓶は職場から追放されてしまったのです(今は水性ボールペンもあります)。

 

 ボールペンの実用性はインクペンの持つ垂れる、滲む、乾きが悪いという欠点を劇的に打ち破るものでした。その簡便性はペン字の持つ味わいという芸術的利点をも一蹴してしまったのです。効率を旨とする非情な事務という現場では必然の帰結でした。

 

「書く」は「掻く」

 

 「書く」の語源は「掻く」だという説があります。

 

 非常に古い記録方法として亀甲文字とか、楔形文字が知られていますが、これらは亀の甲羅や陶板、ヤシの葉などを何かで引っ掻いて傷つけ、文字として残したものです。すなわち「書く」とは本来「掻く」行為なのです。

 

 その後、上質な紙が発明されて、「掻く」という素材を傷つける方法から、インクなどを「塗りつける」あるいは「擦りつける」という今日的な「書く」に変化しました。

 

 個別に筆記具を見てみましょう。

 鉛筆。これは炭素でできた柔らかい芯を紙に擦りつけて記録するものです。

掻いて傷つけるものではありません。むしろ鉛筆の芯の方が擦り切れて痕跡を残すものです。

 

 では、ボールペンはどうでしょう。これはボールを転がしてインクを塗りつけるものです。紙を傷つけることはありません。

 

 ペンもインクを塗りつけるものですが、その感覚には「掻く」という原始的な記憶を呼び戻すものがあります。ペンを改良した万年筆になるとペン先の工夫から書き味はとても滑らかになり、「掻く」という感じはなくなりますが、例えばシェーファー社の万年筆などにはいかにも掻いているという味付けが残してあります。しかしあくまでも感覚的にです。

 

 忘れてはならない筆記具に東洋の誇る毛筆がありました。毛筆はペンと原理的には同じで、毛管現象を利用してインク(墨)を紙に送るものです。両者にはペン先が金属か動物の毛であるかの差があるだけです。毛筆は文字の太さを自在に変えられるという表現力の豊かさにおいて最高の筆記具ですが、反面、使用のための技術を要しますし、小さな字に限界があります。趣味・儀礼・芸術の世界にのみその存在を輝かせています。

 筆文字は紙にインクを塗っていくもので、掻くものではありません。

 

 最先端の筆記具はどうでしょう。

 ワープロ専用機のプリンターのインクリボン。すごい早さで印刷していきますが、仕組みは紙にインクを焼きつけていくものです。

 ワープロ専用機のプリンターには感熱紙という方法もあります。これは紙に薬品処理がしてあり、印画紙を焼くという写真の技法に近いものです。

 

 現在のパソコンプリンターの主流であるインクジェット(バブルジェット)はインクの吹きつけ。塗装の原理です。

 

 事務用に用いられるドットプリンターは叩きつける昔のタイプライター風。ページプリンターはコピーのようなものです。

 

 こうしてみると、書く行為が、「掻く」ことから脱却したのは筆記具の進歩だけではなく、字を書き込む素材(紙)の進歩と相互に影響しあっていることがわかりました。

 

 以上のように、今日では書類の作成はもとより、学生のノートや一般の人の手紙まで、もはやほとんどがボールペンやシャープペン、あるいはパソコンやワープロが大きい顔をして、ペンの出番はほとんどありません。

 

 では、ペンはすでにその命脈を閉じ、古典的筆記具として博物館に行く運命となってしまったのでしょうか。ところが、どっこい、万年筆という書くことと同時に保持することを満足させる道具としてしっかりと生きているのです。

 

我が愛蔵の万年筆

 

 わたしは子供のころから人並みはずれた悪筆にもかかわらず、筆記具に大変興味がありました。とりわけ万年筆の美しさには幼少の頃から憧れたものでした。

 

 しっとりと暖かみのあるエボナイトの軸。タイヤで知られるグッドイヤー氏が生ゴムと硫黄から偶然発明(1851)したこの素材には何とも言えぬ光沢と手に馴染む質感があります。高級万年筆の軸は熟練工によって轆轤(ろくろ)で丁寧に削られます。

 

 ペン先の流麗な形状と金の輝き。ペン先がいわゆるペン型に剥き出しになっているのが好きです。金とイリジウムからなるペン先はホーキンスの発明(1852)です。エボナイトとイリジウムペン先。これらの発明によって酸性度の強いインクに耐える素材ができ、万年筆を生み出す契機となったのです。

 

 それらの素材を利用して今日の万年筆機構を完成したのは生命保険のセールスマン、ウォーターマンであるとされています。

 

 保険のセールスマンであった氏は、契約を決意した顧客がいざサインをしようとしたとき、インクが垂れて契約書を台なしにしてしまい、別の契約書を取りに戻っている間に他社のセールスマンに横取りされたという苦い経験を持ち、これが万年筆を考案する契機となったということです(1883)。

 

 ウォーターマンの万年筆は毛管現象という極めて単純な物理現象の応用です。

先に述べたようにインクの欠点は水分なるが故のものでした。ところがその水分からなるインクの欠点を毛管現象で乗り越えたのは実に興味深いことではありませんか。しかも名前がウォーターマン氏。出来過ぎたような話です。

 

 万年筆には書き味や外観の美しさだけではありません。持ったときやキャップを開けるときの質感、重心の位置によるバランス、インクを注入するときの充実感など出来の良い万年筆にはクラフトマンシップが横溢しています。

 

 わたしは万年筆の収集家ではありませんから、現在四本しか持っていません。

他にも何本か購入したのですが、高校生のとき買った中国製の英雄はすぐ書けなくなり、シェーファー社の万年筆は人にプレゼントし、日本製のある万年筆は使用に耐えず怒ってメーカーに送り返しました(そのメーカーからはナシのつぶて、万年筆を戻しても来ません。それ以来万年筆は外国製に決めています)。

 世の収集家と呼ばれる人は数十・数百から数千本も所蔵しているそうです。

しかし一本の万年筆を大切に愛蔵している人もいます。いずれも愛好家と呼んでいいでしょう。

 

 現在手元にあるのは、大学のとき買ったプラチナ製のごく普通の万年筆。これが意外と書き易いペンで、細かい字はもっぱらこれで書いていましたが、この頃はワープロで書くことが多いのでインクを抜いて机の引き出しの奥にしまってあります。たまには命を吹き込んでやらねば。

 

 23歳の頃、一点豪華主義とばかりに無理に無理を重ねて買った万年筆があります。当時28000円。どう逆立ちしても、清水の舞台から飛び降りても手が出ない値段でした。ところがある日、名古屋駅前の専門店に特価6000円で出ていました。その頃、大卒初任給70000円位だったでしょうか。わたしは鍼の学校の貧乏学生でたいした収入はありませんでした。当分、昼飯は無いものと覚悟してショーケースの万年筆を握り締めたのでした。

 

 これが万年筆の代名詞とも称されるモンブラン社のマイスターシュッティック149。太い軸にプラチナコーティングされたペン先がついている万年筆の中の万年筆という名品です。おそらく日本の作家に一番愛用されているものではないでしょうか。毛筆に近い書き味と言われています。

 現在買えば60000円位。随分身近な値段になりました。が、興味の無い人には高いものでしょうね。

 

 高い万年筆を使うと上手な字が書けるのかと聞かれますが、残念ながら、そうはいきません。その辺りは高級化粧品に近いものがあり、本人の満足感の問題としか言いようがありません。

 

 もう一本、モンブランのマイスターシュッティックを所有しています。購入したのは30代半ばだったでしょうか。こちらは146。149よりやや細みです。ペン先の大きい万年筆は金の高騰と同時に価格も高くなり、これは確か39000円で入手したと思います。

 

 149も146もインクはポンプ式。軸のお尻を回転させてインクを軸の中に直接吸入します。その作業はいかにも万年筆を使っているという趣があり、原稿用紙に向かうときなどは満タンに満たしてからおもむろにペン先を原稿用紙に下ろします。一種の儀式です。

 

 最後に買ったのは三年前。これはいつも鞄に入れています。

 知り合いのアメリカ人がフランスを旅行するとき頼んで買って来てもらったものです。ウォーターマン社の万年筆ル・マン100パトリシアングリーン。

 万年筆の発明者の名を冠したウォーターマン社は氏の創設によるものですがいろいろあって現在経営母体はアメリカからフランスに移っています。

 

 重量感ある鮮やかな宝石の翡翠(ひすい)を思わせるグリーンの軸は、発明者の名をいささかも汚すことのない輝きで持つ者に喜びを与えてくれます。

  このペンは重心がやや軸のお尻側にあり全体のバランスが良く、書き易いのでお気に入り。インクはスペア式ですが、吸入式の道具をスペアの代わりにセットしてあります。ペン先はモンブランのものよりやや固め。

 

萬年筆くらぶ

 

 神奈川に物好きな高校の先生がいます。「萬年筆くらぶ」を主宰し、「fuente(フエンテ)」なる怪しげな会報を発行し、全国の万年筆愛好家の秘密アジトとなっているのです。首謀者はその名も怪しい「中谷でべそ」。

 事務局は

  243-0405 神奈川県海老名市国分南1-6-30 中谷でべそ様方 萬年筆くらぶ

(活動は会報発行、会費はカンパのみ)

 

 手元にある会報(19号)にはインクの検討や、万年筆の思い出、収集の苦労と喜びなどが書かれています。また万年筆のバザールや「売ります買います」
なども。

 文章を読んで気が付くことは万年筆が親との思い出につながっていることです。すでに初老に達した方が、一本の万年筆に親を思い起こす。そんな文章を良く見かけます。

 

 確かに子供にとって万年筆は大人の香りのする筆記具でした。万年筆を用いる大人に一種の尊敬の念を抱き、高校生になるとついに親から万年筆を贈られたのです。

 

 万年筆を手にする、それは成長の証しでした。筆記具にも世代的な区分けがなされていたのです。万年筆の持つ魅力は、道具として字を書くという価値やモノとして工芸的な価値(デザインや機構)だけでなく、成長過程のノスタルジーでもあったのです。

 

 上質な万年筆のどっしりとしたスキのない重厚感はどこかに「人生かくありたし」という思いが込められているような気がしてなりません。

 
参考図書 平凡社カラー新書「万年筆」梅田晴夫著

ワールドフォトプレス「世界の万年筆」

モノ・マガジン「文房具現役博物館」

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No,124 介護保険開始

 四月から介護保険制度が始まりました。

 連日、各新聞で特集記事が編まれているように、駆け込みで成立させた法案ですから、今一つ分かりにくく、制度そのものもいろいろな矛盾をはらんでいます。

 

◎介護保険は分かりにくい

 (制度の複雑さと抱える矛盾)

 わたしは20年前から健康保険による在宅ケアを実施し、現在も10名ほどのお宅を訪問していますから、介護保険の門外漢にもかかわらず新しい保険制度に対するいろいろな質問を受けました。

 例えば

 「どうして高齢者から保険料を徴収するのか。これではあまりに弱者に冷たいではないか」

という不満を込めた質問。

 「わたしらの世代は戦争があって苦労の連続だったのに、老後も苦労させられるのか」

という方が多いですね。

 確かにご苦労に関してはそうなのですが、そのことをあまり声高に述べるとどこかの国の外交手段とどっちこっちの感情論になりますから、とりあえずこうした思いは横に置いておくか、括弧(カッコ)でくくってしまっておいてか
ら現実的な論点を考えていただかなければなりません。

 

◎高齢者は弱者か

 (同世代相互扶助)

 介護保険の保険料は40歳以上が健康保険税と同時に納めることになります。

しかも65歳以上の方は若年層の倍額を納税することになるので、従来の福祉のありかたからすれば累進課税ならぬ逆進課税、福祉が一挙に後退することになります。

 なぜそうなってしまったのでしょうか。(ただし、65歳以上の方の保険料は半年先送り、さらに一年間は半額とされましたことはご存じの通り) 新聞などの情報の拾遺からあくまでもわたしなりの理解を記せば、介護保険制度は年金制度のように働く現役世代が引退した世代を支える世代間援助ではなく、介護を必要とする年代になった高齢者同士が助け合う、同世代間での相互扶助という意味合いがあるからだと思います。

 日本社会の高齢化は我が国がお手本にしている先進国とは比較にならないほどの速度で進行しています。これからは社会を支えていく若い世代の人口比率がどんどん減り、高齢者の比率が増えるため、経済的にも人的にも若い世代だけで高齢層を支えることが難しくなったのです。

 あえて批判を承知の上で言えば、今の高齢者にはまだまだ不十分ですがおおむね必要な福祉はなされていると思います(BESTではなくBETTER。あくまでもおおむねです)。厚生年金や共済年金受給者は、月々子育てに追われ、家賃や家のローンを抱える三十代のサラリーマン層と同等あるいはそれ以上の収入を得ています。

 さらに日本人の預貯金の半分以上は65歳以上が保持していますし、多くの個人資産もその世代に帰属します。今日、高齢者層は経済的には決して弱者ではありません。

 この事実が介護保険に踏み切る一因であったと聞いています。

 それより今の高齢者を支えている現役世代が高齢層になった時、その世代を支える制度の整備が急務でしょう。その世代を支える現役層は今よりもっと数が減少していますし、経済状態も多くを期待できないでしょう。介護保険制度は今日から将来に連なる制度として期待されています。

 新聞やテレビなどのマスコミは福祉の手から漏れた一部の弱者を拡大、全体にかかわる問題点として誇大に報道しているという点は否めないのではないでしょうか。もちろんその方たちは行政や地域によって柔軟に保護されるべきですが、一部の例を全ての人にかかわる問題とすり替えると事を前に運ぶことができません。

 これは個別問題の深層に踏み込み本質的な論議をすることなしに、表層だけを問題視して一般論化するという詭弁につながるものです。

 

◎予算が無い

 (新税と民営化)

 介護保険で多くの人が一番矛盾に感じるのが、保険料を納めるようになったら福祉が向上するべきなのに、逆に今まで無料だった介護にかかわる費用が一割自己負担という有料になったことでしょう。これは以前からの在宅介護利用者にとって最も大きな疑問点です。

 従来、在宅介護は市町村を中心にした行政による福祉が主だったですが、これからは介護保険制度に則って民間の業者に委託することになりました。わたしは介護保険制度は福祉の民営化だと乱暴に理解しています。民間活力導入ははっきりとうたわれているはずです。

 ぶっちゃけた話、従来通り一般税から福祉予算を割り当てるやり方ですと福祉予算が枯渇するので、介護のための財源として介護保険料を徴収するという新しい税金制度ができたのです。ケアマネージャーも介護業者も民間活力ですから自由競争が生まれ、業者間で介護料の値下げ合戦を招きます。これも一つの狙いです。

 

◎民営化の功罪

 (保険制度は性善説)

 介護保険制度の入り口で重要な役割をするケアマネージャーは多くの国では公務員になります。それによって公正を期していますが、これでは人件費が膨大なものになるので民間委託にしています。

 日本では施設の職員がケアマネージャーをしているので、いきおい介護を必要とする人を自分の施設に取り込もうとします。既にその弊害も一部に出ています。最も重度の要介護5とされた方を市の職員が訪問したら本人が歩いて出迎えたというとんでもない詐欺行為が発覚したのです。これでは性善説に立脚する介護保険制度を初めから反古にすることになりかねせん。

 逆に民間委託は競争原理が働くので利用料の値下げを招くという利点があります。

 わたしの訪問している方が利用しているある業者は四月より介護サービスにかかる費用を一割値下げしました。かかった費用の総額の一割は利用者が負担しなければなりませんから、自己負担額も一割安くすみます。これは大きいですね。

 こうした値崩れがサービスの質の低下を招かないことを前提条件とすれば政府の目論見どおりで大変歓迎されることです。ただし、僻地では業者の参入が少なく業者間競争が発生しませんから地域による不公平はますます大きくなることでしょう。財源の基礎になる保険料からして地域格差は少なくありませんから。

 

◎ランク分けの矛盾

 (痴呆の問題)

 介護施設が介護を必要とする人を入所させる場合、経済性(もうかるか、利益が上がるか)が無視できないことは民間機関である以上避けられません。
 最も重い要介護5に認定された方と一番軽い要支援の方では一カ月で施設が手にする収入は15万円ほど差がでるそうです。

 意識がしっかりして身体機能のみが不自由、しかも食事は胃ろう栄養(胃に直接チューブがさしてあり、口を介さずに流動食を胃に流し込む)や鼻腔栄養(鼻からチューブで流動食を胃に流し込む)なら手間もかからず、施設にとっては人手を節約できるので歓迎される上客となります。

 反対に、体は健康だが痴呆で徘徊したり、大声を出して同室の人に迷惑をかける人は目が離せないため、手間暇がかかります。こうした問題は施設の人件費に反映されてしまいます。

 収益を上げなければ施設の存続さえも危うくなりますから、どうしても施設としては要介護5と認定されたおとなしい、手間のかからない人を求める傾向が出てしまいます。

 これは痴呆の認定が軽すぎる点にあると思えますから、今後是正をしなければならないでしょう。

 民間活力を最大限に利用するなら、民間が経営維持しやすいような制度にしないと、民間の善意やボランティア精神に依存するのは限界があります。

 これは看護婦という激務を「白衣の天使」などと持ち上げて犠牲的な行動を要求したり、医師が経営を云々すると「医は算術に堕落した」などと揶揄してしてきた過去にもつながる問題でしょう。

 善意と経営維持。この相克をどう乗り越えるかは介護保険の重要課題です。

 

◎権利意識の芽生え

 (国賊から市民の権利と義務)

 介護保険制度は国民が保険料を納め、利用者は利用料の一割を払うことで、介護が「お上」のお慈悲でなされるものではなく、国民の要求できる当然の権利として認識されるという意識改革をも期待しています。一割負担は確かに厳しい負担ですが、そうすることで、どうどうと行政に要求する国民の立場も強くなるのです。

 わたしが初めて在宅ケアに訪れたのは先程述べたように20年前。その方は明治34年生まれの男性で当時77歳位、謹厳実直を絵に描いたような方でした。

 その人生は苦難そのもので実に三度も徴兵を受け、三度目の出征中、空襲で家を消失、二人の息子さんを亡くされたのです。そのとき同居していた息子さんは奥さんに背負われていて助かったのでした。

 最初のリハビリのあと、

 「お勘定は」

と聞かれたので、

 「〇〇先生から保険治療の同意書をいただいています。歩行困難の方の在宅治療は健康保健でできるから無料ですよ」

と答えましたらその方は

 「わしは病気になって入院して多大な医療費を『お上』から出してもらった。

家に戻ってもこうして先生から無料で治療してもらえる。すっかり『お上』の世話になる役立たずになってしまった。わしは国賊じゃ」と悔し涙を流されました。

 戦争でそこまでの犠牲を払いながらこの国家への忠誠意識は何なんだろうと20代半ばのまだまだ若かったわたしは疑問に思いつつも、不憫に感じ、 「〇〇さんの治療をすることで僕は家族を養っていけるのですから、負担に

感じなくてもいいんですよ」

と変な励まし方をしましたら、

 「そうか、こんなわしでもお役に立っておるのか」

元皇軍上等兵の誇りに刻まれた苦虫を噛みつぶしたような顔から、今度はうれし涙を流されたことを昨日のことのように覚えています。

 「お上」の世話になるのは恥ずかしいという時代であり世代だったのです。

今日でもそれに近いものはあります。わたしが訪問しているある方は近所の方に

 「市の世話になっていいきなもんだ」

と嫌みを言われると嘆いておられます。

 あるいは

 「大事な亭主を施設に預けてよう自分だけ旅行に行けるもんだ」

と妻が夫の兄弟に非難されるとも聞きます。

 何の助けもしてくれないくせに文句だけ言うから親戚は一番嫌だという方は少なくありません。

 介護には自分がしてみなければ分からない厳しさがあるのです。介護保険はそうした厳しさをみんなで共有しようということでもあるのです。

 介護保険は40歳以上の国民が全員、国民の義務として保険料を納めるのですから何臆する事なく権利を主張できる素地は作られたわけです。誰もがいつかは介護する側か、される側に回るという、この極めて当たり前のことを考える切っ掛けとなることでしょう。

 意識の大きな転換です。

 

◎業者を選ぶ権利

 (遠慮は無用)

 介護保険は「お上」(市町村)に遠慮しながら与えていただくものではなく、こちらから選択していけるものです。案外知られていませんが、今利用している業者がいやなら他の業者に代えることもできるのです。

 3月28日の読売新聞にケアマネージャーの選び方を特集しています。参考のために掲載しましょう。

良いケアマネージャー選びの10か条

1 話を十分に聞くか

2 一緒に問題を解決しようとするか

3 希望と食い違った場合、十分に話し合おうとするか

4 ケアプランの目的や、ケアマネージャーの考えを説明するか

5 介護保険外のサービスを計画しているか

6 ケアマネージャーとヘルパーなどに意見の食い違いはないか

7 別居している家族や民生委員などとの連絡が必要な時にこまめに動いてく

  れるか

8 サービス開始後も、様子を見にきたり、電話で様子をたずねるか

9 ケアプランの修正に応じるか

10 生活支援全体に責任を持とうとするか

(竹内孝仁・日本医科大学教授)

 

 余談ながらケアマネージャーの報酬は一人につき年間10万円だそうです。

 

◎ともかく走りだした

 (悔悟と改悟)

 介護保険はわれわれ一般の者には理解が難しい複雑な制度です。しかも財政難の折から今後もさまざまな問題が噴出してくることでしょう。しかし、介護は待ったなしですから、紆余曲折して走りながら方向を定めていかなければなりません。

 この文章は知り合いのケースワーカーやケアマネージャーなどの福祉や介護の専門家にも読んでもらうことになります。間違いなどの指摘がありましたらまた訂正文を載せます。

 いずれにしても将来、「介護保険」が実は「悔悟保険」であったということにならないことを祈るばかりです。そのためには時に応じて「改悟保険」として修正していくことでしょう。

 

〈後記〉

 今回、《游氣風信》を書くに当たって指折り数えてみますと、在宅介護を初めてもう20年。早いものです。その間の印象的な方の話は[游氣風信]にも数回取り上げたことがあります。本文の謹厳実直な元皇軍兵士〇さんのことは特に力作として評価されました。いわゆる古き良き日本人の典型のような懐かしい方でした。

 その後今までに随分大勢の方とかかわってきました。

 在宅介護の終点はその方が入院されるか、亡くなることです。これは残念ですがしかたありません。しかし、現実には介護している家族の病気や疲弊などの問題で終了することも多かったのです。

 介護保険がうまく機能して、介護者を少しでも助けてくれるなら望外のことですが、果たしてどうなることでしょう。

 なお、わたしたちの業界(鍼灸・マッサージ)は介護保険制度の中には参入せず、従来通り医療保険でかかわることになります。ただし、やる気のある人はケアマネージャーの資格を取ることも可能です。

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No,123 2000,3,1春は風に乗って・・・

 今年は三月の五日が啓蟄(けいちつ)。

 寒い冬の間、地中に潜んでいた虫たちが、春の到来とともにのこのこ地表に出てくる日とされています。

 俳句では「地虫穴を出づ」とか「蛇穴を出づ」、あるいは「蟻穴を出づ」「蜥蜴(とかげ)穴を出づ」などとも言い、春の季語として用います。

 三月ともなると冬の堅く引き締まった空気が緩んでは締まり、緩んでは締まりして、だんだん春の陽光が鮮明になってきます。

 

 冬も終わりに近づいて、寒さの中にも僥倖のように暖かい光のさす日があります。そんな日に出会った人々は、どちらからともなく
「寒い中にもこうした暖かい日が続きます。三寒四温。もうすぐ春ですね」
と春を待つ心を「三寒四温」という言葉で分かち合うことでしょう。
 しかし、「三寒四温」の本来の意味は違います。

 

 古来から中国や朝鮮などでは、冬の間、三日寒い日が続いた後、四日暖かい日が続き、これが交互に繰り返されるという意味で用いられたものです。つまり「三寒四温」は春の訪れを予感させるものではなく冬の間を通じて使われる言葉なのです。

 

 大陸の厳しい冬と言えども寒い日が三日続けば暖かい日がくる、寒い日ばっかりではないよと励ましあったのでしょうか。

 日本では大正時代に編纂された歳時記にこの言葉が冬の季語として登録されたようです。(平井照敏編 新歳時記 河出文庫)

 

 もっともこの頃では、「三寒四温」を近づく春の兆し、あるいは春を待ち焦がれる気持ちに使用することは普通になってきました。こうした事例をもってこの頃の日本語は乱れてきたと目くじらを立てる必要はありません。もともと
日本語でもなかったのですし。

 

 そもそも人は春の兆しを何で感じるのでしょうか。
 どことなく緩んできた空気。
 霞がかかった空。
 水が温んで楽になった台所。
 道端に青々と芽生え始めた草花。
 日差しが奥まで届かなくなった部屋。
 いつの間にか遅くなった日暮。
 街行く女性の衣装が白っぽくなったとき・・あ、これはちょっと違います。
いずれにしても、人それぞれが、それぞれの感じ方で春を発見することでしょう。

 

 わたしが春を一番感じるとき。それは冷たさの中にも柔らかさをはらんだ春風です。

 治療室に閉じこもっているとなかなか風に対して敏感になれません。まして移動も車。季節から取り残されそうになります。

 けれども自転車などで来室された方から風が暖かくなったとか、南風に乗ってやってきたなどと聞くと、ああ、春だなと実感し、改めて風に吹かれてみようと表に出たりします。とりわけ農家のお年寄りは長年の農作業の習慣から風や雲に関心が深く、いろいろ示唆されることが多いのです。

 

 春の訪れ。それは

 七色の谷を越えて

 流れていく 風のリボン

    「花の街 江間章子作詞」

 

まさにこの歌のように風とともに春が到来するのです。

 風は見えないながらも、木の葉を揺さぶったり、塵を巻き上げたり、音を立てたりして不思議な存在感。映画や小説などの心象風景としてうってつけ。昔から人の関心を集めてきました。

 

 季節を感じさせるものとして俳句歳時記にも多く取り上げられています。

 冬の代表的な風は凩(こがらし)や隙間風、北風や颪(おろし・伊吹颪や比叡颪など)。

 

 四季の風が俳句ではどう詠まれたかざっと見てみましょう。

 

 北風や多摩の渡し場真暗がり 水原秋桜子

 樹には樹の哀しみのありもがり笛 木下夕爾

 

 二句目の「もがり笛」は「虎落笛」。「虎落」は竹の枝を利用した物干しのこと。紺屋の物干しを指すことが多いようです。また元は軍事的な意味で、竹槍状に斜めにカットした竹を編んでこしらえた柵のこと。虎を落とすとはここ
からきたのでしょう。

 虎落笛は、物干しの枝に当たった寒風がピューピューと寒そうな音をたてること。今日ではもっと広く用い、北風が枯れ木の枝や電線に当たって笛を吹くような音を出すことも含みます。音の出る原理はフルートや尺八、口笛の発音と同じです。

 

 凩の果はありけり海の音 池西言水

 海に出て木枯帰るところなし 山口誓子

 

 凩ではこれらの句が有名です。

 言水は江戸時代の人。この句をもって「凩の言水」と称せられました。誓子の句はそれを土台に特攻隊で出立する若者達を木枯に重ねた切実な句。

 こうした厳しい冬の風からしだいに暖かさを含む風に移行して春の近さを物語ってくれます。

 

 東風吹かば匂ひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな 菅原道真

 

 これはついにわたしとは縁の無かった学問の神様菅原道真(すがわらのみちざね)の有名な歌。下の句は「春な忘れそ」とも記憶していますが定かではありません。梅の頃ですから極めて早春。「春は名のみの風の寒さや(早春賦)」というところでしょうか。

 

 われもまた人にすなほに東風の街 中村汀女

 

 現代の東風はこのように軽く詠まれます。どこかで冬の終わり、春の兆しを感じて心身が緩んできているのでしょう。

 

 春風に尾をひろげたる孔雀かな 正岡子規

 

 これは春風駘蕩。いかにもゆったりした暖かい春の風です。小学校か中学校の教科書に出ていました。

 

 空曲げて旗をひろげる涅槃西風 秋元不死男

 

 涅槃西風(ねはんにし)は陰暦二月十五日の釈迦入寂の頃吹く西風のこと。

今年は三月二十日、ちょうど彼岸の中日になります。まだ幾分冷たさが残っていることでしょう。

 

 春一番柩ぐらりとかつぎ出す 宮下翠舟

 春疾風木々は根を緊めおのれ鳴らす 楠本憲吉

 

 天気予報などでおなじみの春一番。立春後初めて吹く強い南風ですが、災害をもたらすほどの突風になることもあります。春疾風(はるはやて)は春特有の疾風。作者の楠本憲吉はテレビタレントとして知られていましたが、俳句研究でも立派な業績を残しています。生涯を遊んで暮らせた高級料亭の息子で灘中・慶大と作家の遠藤周作の友人でした。

 

 この疾風に乗って中国大陸の砂漠の砂が運ばれてくることがあります。黄砂とか霾(ばい・つちふり)とかいう現象です。

 

 黄塵のくらき空より鳩の列 鈴木元

 

 春もたけなわを過ぎると爽やかな初夏の風が吹き渡って心地よい五月そして暑い夏へと駆け巡っていきます。

 

 鶏百羽一羽ころげし青嵐 加藤楸邨

 南国に死して御恩のみなみかぜ 摂津幸彦

 

 以後季節は風に乗って秋・冬と巡り四季を繰り返して行くのです。

 

 大いなるものが過ぎ行く野分かな 高浜虚子

 秋風や模様のちがふ皿二つ 原石鼎

 

 わが宿のい小竹群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも 家持

 秋きぬとめにはさやかにみえねども風の音にぞおどろかれぬる 敏行

 

 季節と風の関係を詩歌でたどってみました。しかし、風は何も季節だけを感じさせるものではありません。

 

 見えないけれども確かな存在感は古くから人を魅了し、また畏れの対象にもなりました。

 それらを思いつくままに羅列してみましょう。

 

 漢方医学では風は体内に入って病を生ずるとも考えていました。今日でも「風邪」とか「中風」「風疹」「破傷風」「痛風」などという病名が残っています。これらは見えない何かが風のように体の中に入って病の原因になるとい
う認識。風の恐ろしい一面です。

 

 誰が風を見たでしょう

 僕もあなたも見やしない

 けれども風は木の葉を吹いて

 (以下忘失)

 

 これは小学一年生の時に読んだ世界名作物語集の中に出ていた詩です。詩はうろ覚えで正確ではありません。しかしわたしが初めて接したまともな詩であると言っていいでしょう。それまでは「死んだはずだよ、お富さん」とか「もしもしベンチで囁くお二人さん」などといった流行歌しか知らなかったからです。

 この詩はそれなりに有名な詩であることは確かですし、作者はアメリカのロングフェローであったような気もしますがこれも正確ではありません。

 

 アメリカと言えば、フォークソングの草分けボブ・ディランに「風に吹かれて」という名曲があります。さまざまな疑問を投げかけては次のように答えま

す。

 

 The answer, my friend is blowin' in the wind.

 The answer is blowin' in the wind.

(その答えは、友よ、風の中で吹かれ続けている)

 

 風前の灯火と言うように風は不安の象徴でもあるのです。

 

 青春の寂しさを美しいことばに置き換えて、六十年代の若者の絶大な支持を得たフォークグループ「フォーククルセダーズ」の作詞を担当していた北山修は現在活動的な精神科医として知られています。そのデビュー曲が「帰ってきた酔っ払い」であることはもはや伝説です。

 

 何かを求めて振り返っても

 そこにはただ風が吹いているだけ

          「風(北山修作)」

 

 この歌は現在高校の教科書に出ています。ここでも風が重要なテーマ。空しさや懐かしさの象徴です。

 

 ストーリー展開の要所要所に効果的に風をおいていたのは宮沢賢治。そのものずばり「風の又三郎」という童話も書いています。賢治にとっての風は基本的に大循環から生まれるというスケールの大きさがあります。大循環とは正確には大気大循環。つまり赤道周辺は年中地表が暖かく、北極や南極に近づくほど寒くなるという温度差から生じる風に、地球の自転が加わって生じる季節風や偏西風のことです。その一切れが妖精となったのが風の又三郎。この辺りを踏まえて、次の詩を読んでみてください。

 

 これは「疾中」と分類される詩群の中にあり、賢治が病気療養中の思いを詠んだものです。推定で昭和四年頃、賢治三十四歳位の作品です。

 

[風がおもてで呼んでゐる]

 

風がおもてで呼んでゐる

「さあ起きて

赤いシャッツと

いつものぼろぼろの外套を着て

早くおもてへ出て来るんだ」と

風が交々叫んでゐる

「おれたちはみな

おまへの出るのを迎へるために

おまへのすきなみぞれの粒を

横ぞっぱうに飛ばしてゐる

おまへも早く飛びだして来て

あすこの稜ある巌の上

葉のない黒い林のなかで

うつくしいソプラノをもった

おれたちのなかのひとりと

約束通り結婚しろ」と

繰り返し繰り返し

風がおもてで叫んでゐる

          宮沢賢治「疾中」より

 

 自然からの呼びかけにただ仰臥するのみの日常を嘆いていたのでしょう。それをこうした美しい詩に昇華するところが詩人の詩人たる所以です。

 詩人でないわたしたちも、風に代表される自然との関わりを時に楽しみ、時に畏れつつ暮らしています。

 

 季節とは仮に床に伏せっていようとも、こちらから探しに出なくても、向こうから自ずとやって来てくれるありがたい自然の営みにほかなりません。その先駆けが風なのです。

 とりわけ俳句のある生活は季節の変化と出会うことで毎日を新鮮に感受することができます。高齢者や療養中の人に多く作られる理由がここにあるのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No,122 2000,2,1寒星  [賢治の星巡り]

 今年は暖冬。

 年が明けても暖かく過ごし易い日々が続いていましたが、さすがに立春を過ぎてからきっちりと寒い日がやって来ました。

 二月四日の立春は旧暦に直すと十二月三十一日のおおみそか。旧暦の立春は新暦では三月十日前後。その頃ならば寒さの中にも春の気配を秘めた時節として立春という言葉の実感が湧くというものですが、新暦の立春である二月初頭は一年で最も寒い頃。

「なにが春じゃ」

と言いたくなるのが人情。

 ことほどさよう、新暦と旧暦の実感的乖離にはいかんともしがたいものがあると、いつも「游氣風信」で愚痴っています。

 冬は寒いので首を縮め、地面ばかり見て歩きがちです。

 しかし、冬の寒気は空気を緻密に緊張させ、星々の最も美しい夜空を演出します。それはあたかも空気の淀んだ生活空間を高い山の頂に変えてくれるようです。

 今からおよそ八十年前、26歳の詩人宮沢賢治は地元の農学校の教師、ある秋の夜、生徒を伴って岩手山に登ります。

 

 さうさう 北はこつちです

 北斗七星は

 いま山の下の方に落ちてゐますが

 北斗星はあれです

 それは小熊座といふ

 あすこの七つの中なのです

 それから向ふに

 縦に三つならんだ星がみえませう

 下には斜めに房が下つたやうになり

 右と左とには

 赤と青の大きな星がありませう

 あれはオリオンです オライオンです

 あの房の下のあたりに

 星雲があるといふのです

 いま見えません

 その下は大犬のアルファ

 冬の晩いちばん光つて目立つやつです

 夏の蠍とうら表です

 

(宮沢賢治 「東岩手火山」より一部抜粋 

       日付一九二二、九、一八 

       参考:宮沢賢治全集ちくま文庫版1)

 

 賢治が生徒達と生き生きと接している様子がよく読み取れる詩です。

 山頂から見える雄大な光景。

 漆黒の空に輝く無数の星。

 指さして星の名を唱える賢治の声。

 この時の経験はきっとのちのちまで生徒達の心の中にきらめく記憶として止まったに違いありません。

 この詩を科学評論家の故草下英明さんはその著書「星の百科(教養文庫)」では

 

 さうさう 北はこつちです

 北斗七星は

 いま山の下の方に落ちてゐますが

 北極星はあれです

 それは小熊座といふ

 あすこの七つの中なのです

 

と引用されています。

 ここで注意すべきは賢治の原文の「北斗星」が草下さんの引用では「北極星」とされている点です。草下さんが意図的に修正されたか、誤記されたか、あるいは草下さんの引用された本がそうなっていたのかもしれません。

 

 賢治は詩の中で北斗七星は

「いま山の下の方に落ちてゐます」

と書いています。つまり

「今は見えていない」

ということです。しかし続けて

「北斗星はあれです」

と言い、その星は小熊座に属すると言っています。

 ここに問題点があります。


 北斗星と北斗七星は同じことですから、この夜、北斗七星は山の下に落ちていて見えてないはずです。しかも北斗七星は小熊座ではなく大熊座の星。小熊座に属するのは北極星です。

 

 柄杓の形の北斗七星は大熊座の一部、ちょうど熊のしっぽに当たります。

 また、北極星は七つの星からなる小熊座のしっぽの先端の星になります。まぎらわしいことに小熊座も柄杓の形をしています。

 以上の点からどう考えてもこの星は「北極星」としか考えられませんから、「北斗星」は賢治の間違いだと思われます。

 

 そこで天文を専門とする草下さんが気をきかせて「北極星」と修正したのではないかと推理するのです。

 しかし文献に正確を旨とする評論家ですから勝手に直すことはしないでしょう。疑問は疑問のままで残っています。

 この辺は実にややこしい話です。

 

 わたしはこの草下英明という教育テレビなどでもおなじみだった科学評論家には思い出があります。

 20代半ば、どうしても欲しかった「宮沢賢治と星 草下英明私家版」を売ってもらえないかと作者に手紙を書いたところ、当時既に入手困難だったその本が草下さんの手元に数部残っているということで贈呈していただいたのです。実にありがたい思い出です。(この本は後に出版社から増補復刻されました)

 

 北極星は北の空にあって、ほとんど動かないために、海上の運行などで方位を知るために頼りにされてきた星です。すなわち地球上から見上げると夜空は北極星を中心に回転しているのです。

 ややこしいことはここまで。

 

 詩の後半は有名なオリオン座のことです。

 オリオン座は冬の夜空を彩る代表的な星座で、北極星や北斗七星の反対側、南の空に見えます。

三つ並んだ星を四角で囲んだ極めてバランスのよい形、しかも明るい星で構成されているので誰もが知っている星座です。

 賢治の詩の

 

 縦に三つならんだ星が見えませう

 

が、この三つの星のことです。

 

 赤と青の大きな星がありませう

 

 この赤い星はベテルギウス。太陽の一千倍近くもある巨大な星。

 青い方はリゲル。太陽の二万倍も明るいとか。

 オリオンはギリシャ神話に出てくる無敵の猟師。不遜な態度を神に嫌われて神のつかわした蠍(さそり)の毒で殺されます。そこで夏の代表的な星座であるさそり座が顔を出すとオリオン座は逃げて西の山に沈んでしまうというまことによくできた夜空のドラマになっています。

 これが引用した詩の末尾

 

 夏の蠍とうら表です

 

につながるのです。

 オリオン座を絵に表すと三つ星はオリオンのベルト。赤いベテルギウスは右肩、青いリゲルは左足に相当し、右手でこん棒を振り上げ、左手に毛皮をたれ下げています。

 

 あの房の下のあたりに

 星雲があるといふのです

 

 三つ星の下にぼんやり見えるのがオリオンの大星雲。星雲はガスのかたまり。

これは肉眼でしっかり見えます。そのすぐ上にも「馬の首」と呼ばれる小さい星雲があってこちらの肉眼で見えますが、馬の首の形までは無理。写真で見るとタツノオトシゴのよう。賢治の詩では大星雲は「いまは見えません」と書かれています。

 

 その下は大犬のアルファ

 冬の晩いちばん光つて目立つやつです

 

 大犬座のアルファはオリオン座の三つ星を斜め左下に延長すると嫌でも目に入る、全天で一番明るい恒星です。星座の中の星をアルファ、ベータ、シータなどと呼び、通常アルファは一番明るいことが多いです。大犬座のアルファはかの有名なシリウス、中国でも狼と見立て、天狼(てんろう)と呼びます。日本では青星とか大星と呼んでいたようです。

 

 生徒を率いた賢治は子供達に星の見つけ方を通して宇宙の雄大さ、その知識を連綿と紡いで来た人類の知の歴史の素晴らしさを教えたことでしょう。今日、80歳を越えたこの教え子たちが賢治の授業を実に細かく記憶し、再現するようすは映画に記録されています。これは賢治の教育が知に片寄らず、感動とともに心身に刻んでいったからに違いないでしょう。

 

 現在でも小学校でW型のカシオペヤや柄杓型の北斗七星から北極星を見つける方法を習っているはずですが、そこに感動を伴っているかは疑問です。

 

 冬の空にはまだおうし座やふたご座、昴(すばる)などのスター(まさにスター)が燦然と輝いていますが、なにはともあれ、カーテンや雨戸を閉めるときでも一度、寒さをこらえて星空を見上げていただくと冬の過ごし方も多少は違ってくることでしょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信   No,121 2000,1,1お正月の挨拶

明けましておめでとうございます

旧年中はいろいろとお世話になりました。

本年もよろしくお願い申し上げます。

                二〇〇〇年元旦

游氣の塾 三島治療室 

三島広志

 

 1990年の1月から発行開始した《游氣風信》も昨年末で丸十年、120号を出すことができました。わたしの歳もその間に35歳から45歳になり、年が明けて46歳の新春を迎えました。

 

 この通信は当初、自分自身の勉強と同時に仕事を通じて縁のできた方が「読んでためになる」健康情報誌〈遊気健康便り〉を目指してスタートしました。

しかし、途中でむしろ現代社会に於ける健康情報過多の弊による健康不安症候群に思いを致し、そういう高邁なる啓蒙行為はかの高名なる“みのもんた”氏に任せ、「楽しくてためになる」読み物《游氣風信》と改名、取り上げる内容もわたしの興味のおもむくままに幅広く、とりとめのないものにしました。

 

 とにもかくにも、数号で頓挫するという当初の予想を裏切って十年。その間一回だけワープロの故障から二カ月合併号となっていますが、あとは月刊を貫いて120号まで到達できました。

 

 これもひとえに読者として支えてくださる方々の存在のお陰です。拙く、独善的で誤謬も散見する《游氣風信》に対して、手紙やEメール、あるいは口頭でいろいろと感想を述べていただいた方も、ただ一言「読みましたよ」と静かにほほ笑んでくださった方も共に有り難い、得難い読み手として心より感謝いたします。また、無理やり郵便受けやパソコンの“メールボックス”に送り付けられてご迷惑をおかけしている方にはお詫びいたします。

 

 ほそぼそと治療室便り《游氣風信》を書いている十年の間に情報世界の爆発的変化が勃発しました。それはここ数年で起こったインターネットという情報インフラ(情報伝達を下支えするモノやコト)の急成長です。人類は今、産業革命以来の大変革の中にいると考える人もいます。

 

 パソコン通信が始まったばかりの十年前から、一応わたしのワープロは電話線につながっていましたが、それは一つのパソコン通信会社に登録した人達だけの極めてローカルなものでした。別の会社に登録した人とはメールのやり取りができなかったのです。

 

 ところがインターネットの広がりはパソコン通信会社の枠を一気に粉砕し、世界中のコンピューターを電話線(あるいは携帯電話)で結んでしまったのです。アメリカに住むエリザベスやインドに滞在するヘレン、スウェーデンに短期赴任の谷口さんから「HAPPY NEW YAER!」という年賀状が、また、中国の見知らぬ医師から「日本の治療院で働きたい」という手紙がわたしの携帯電話の画面に届くようになったのです。これはちょっと前では考えられないことでした。

 

 インターネットの発展は一個人でもホームページをもち、情報を不特定多数の人とやり取りできる時代を到来させました。市民は歴史上初めて、市民による市民のための情報網を手にしたのです(犯罪を喜ぶ人も市民ですから、よからぬことにも利用できます)。

 

 わたしが身を置く業態はともすれば旧態依然のままで世を処することができます。気を抜けば生来の怠け者であるわたしなど、せっかく20世紀後半の日本に生まれたという奇跡的幸運をただ無為にその日暮らしに過ごすという愚を犯しかねません。

 

 わたしはどの時代でもなく、どの地域でもなく、この自由がかなり保証され、ちょっとした自己努力によりさまざまな情報を得ることができ、経済と余暇、機械や道具などの手段に恵まれている1900年代後半の日本という実に類い希な時代空間に、人並みの健康体と頭脳をもって生まれた幸運を精一杯謳歌するということは人間としての義務だと思うのです。

 

 ともかくも自分でできそうなことを精一杯やってみることは、毎日食べている米や魚や牛やニンジンなどわたしの命のために自らのいのちを犠牲にしてくれている生き物や、有形無形にわたしを支えている人々(歴史や社会を越えて)や素材を提供してくれる自然に対して義理を果たすことだと思うのです。

 

 「人は生まれながらに負債を負っている。生きるとはそれを返していくことだ」

とは、戦争で両足を失ったある僧侶のことばです。これには大いに共感する所があります。

 

 負債を返すといっても、眉間にしわを寄せて悲壮感を漂わせたり、額に汗し、奥歯を噛み締めて「人生即ち苦汁である」などといった重々しさでやるのではなく、人から見てアホみたいにお気楽に、さも涼しげにひょうひょうとやっていく、これがある意味でわたしの美学なのです。

 

 などといろいろ理を屈して述べましたが、つまるところは時代に遅れては現代人として恥ずかしい、偉そうに言えば、過去の人々の知の集積の上に生かされている身としてはある程度の努力をしないと歴史を築いてきた先人に対して申し訳ないと考え、知人や友人、娘の協力で取り敢えずインターネットにホームページを立ち上げたのです。

 ホームページ「三島広志のページ」には《游氣風信》の創刊号から最新号までが自由に読めるようにしてあります。

 その他、専門誌などに投稿、寄稿、講演した身体調整論や宮沢賢治論、俳句論も掲載してあります。もしご興味がお在りでしたら一度ホームページ 

 三島広志のページ http://homepage3.nifty.com/yukijuku/
 

をご訪問ください。文字ばっかりのそっけない資料保管庫のようなもので面白みに欠けるので恐縮ですが。

 

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 今年は西暦2000年。海外ではミレニアムと叫んでいます。

 外国の友人からの年賀状も例年なら

 

 A HAPPY NEW YEAR!

 

「新年おめでとう!」という常套挨拶なのですが、今年は

 

 A HAPPY NEW YEAR,CENTURY,MILLENNIUM!

 

「新年、新世紀、千年紀おめでとう!」というものが多くありました。かの国の人達は希望をもって未来に向かおうという気持ちが強いのでしょう。

 「過去のことはともかく水に流して、無事に年が明けておめでとう」という日本の正月気分とはいささか異なるようです。

 

 日本滞在15年を数える米国人M夫人は、日本の正月をこよなく愛すると言います。閑静で、清々しく、時間や空気が前日とはすっかり変わってしまう元旦の様子(即ち清新あるいは淑気)にはアメリカでは決して味わえない良さがあるのだそうです。

 しかし逆に若い人の間では大みそかの深夜、花火など打ち上げて新年に向けてカウントダウンするという米国式が浸透しつつあります。

 西洋ではクリスマスを家庭や教会で静かに過ごし、新年は馬鹿騒ぎすると聞きました。日本人はクリスマスも新年も馬鹿騒ぎでは正真正銘のおバカさんになってしまいますから、ここはM夫人の感動に耳を傾けたいものです。

 

 それで毎年恒例のようになってしまいましたが、新年を彩る言葉を幾つか俳句とともにたどって新年のご挨拶に代えようと思います。参考文献は角川文庫旧版の歳時記です。

 

初春

 陰暦の正月は立春から始まりましたから、正月はすなわち春です。それで正月は初春。これは新暦になってどうにもそぐわない言葉になってしまいました。

わたしの好きな新年の挨拶は「春風献上」なのですが、意味がうまく伝わらないことがあります。

  初春の風にひらくよ象の耳 原和子

 

去年今年(こぞことし)

 大みそか、十二時を過ぎるとたちまち元日。この時の過ぎる様をいうことばです。

  去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子

 

元日

 一年の一番初めの日。

  元日の手を洗ひをる夕ごころ 芥川龍之介

 

元旦

 大旦(おおあした)とも。元日の朝のこと。旦の字は横線の上に日と書きます。これは地平線から日が昇ることを表しているのです。

  ひたすらに風が吹くなり大旦 中川宗淵

 

二日

 二日は仕事初めの吉日。初湯、初荷、書初めなどをします。

  二日はや青三日月に塵もなし 原コウ子

 

三日

 三が日の最後の日。

  三日はや雲おほき日となりにけり 久保田万太郎

 

四日

 仕事始め。

  餅網も焦げて四日となりにけり 石塚友二

 

五日

 宮中では叙位が行われました。

  五日まだ賀状整理に更くる妻 水島濤子

 

六日

 まだ正月気分が残っています。

  六日はや睦月は古りぬ雨と風 渡辺水巴

 

七日

 七草粥の日。正月の締めの行事をしました。

  息白く七日の家長家を出づ 石田波郷

 

人日

 七日のこと。「東方朔占書」に「一日を鶏、二日を狗、三日を豕、四日を羊、五日を牛、六日を馬、七日を人、八日を穀となす」とあるそうです。

  賀状机辺に散つて人日たよりなし 石原八束

 

松の内

 門松を立てておく期間。関東では元日から六日まで、関西では元日から十四日までが一般的。

  訪ね来る髪美しき松の内 中村朔風

 

女正月

 正月十五日のこと。松の内、女性は接客で忙しいので、一段落したこの頃より年始の挨拶に回る。

  芝居見に妻出してやる女正月 志摩芳次郎

 

初御空(はつみそら)

 元旦の空。

  初御空わが手に風のとどまれり 石原君代

 

初茜(はつあかね)

 初日の出る前、東の空が明るく茜色になる様。

  初茜してふるさとのやすけさよ 木下夕爾

 

御降(おさがり)

 元日もしくは三が日に降る雨や雪。

  お降りといへる言葉も美しく 高野素十

 

淑気(しゅくき)

 正月の改まった天地の気分。

  芭蕉枯るゝ音新たなる淑気かな 鈴木頑石

 

屠蘇(とそ)

 山椒・肉桂・防風・桔梗・白朮などを調合した薬。元旦に飲めば一年の邪気を避けるという中国渡来の習慣。

 「屠蘇」の「屠」は屠殺の「屠」で「屠(ほふ)る」、「屠蘇」の「蘇」は蘇生の「蘇」で「蘇(よみがえ)る」。以前からどうしてめでたいお屠蘇に死を意味する「屠」の字があるのか気になっていましたが、どうもこれは「邪を屠り、新たに蘇る」という意味がある、すなわち屠蘇とは「死と再生の儀式」ではないかと勝手に解釈しています。

  火の国に住みて地酒を屠蘇がはり 大島民朗

 

初電話

 説明は不要です。これからは初Eメールなどということばも使われるようになるでしょうか。

  初電話果して彼の声なりし 高浜年尾

 

初刷(はつずり)

 一般には元旦の新聞を指します。

  初刷のうすき一片事繁し 永野孫柳

 

初鏡

 新年初めての化粧。

  総身を映して立てり初鏡 星野立子

 

梳初(すきぞめ)

 初櫛とも。新年初めて髪を梳(くしけず)ること。

  梳初に抜毛もあらずめでたけれ 真下喜太郎

 

 まだまだ目出度い季語はいくらでもありますが、ここらで紙面も尽きたようです。

 

《後記》

 

 以前この欄で指圧教室に出入りしてたルーマニア人女医のミハエラさんが世界保健機構(WHO)に就職したとお知らせしました。ところが今度は同じく指圧教室に来ていたアメリカ人のマーガレット嬢もWHOに就職して突然神戸に引っ越しました。一人ならともかく、わたしの知り合いが二人もWHOに入るなんて・・・WHOの将来が心配になってきました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No,120 1999,12,1 ミレニアム(千年紀) -ある引き際-

この文章の後半に登場するヒゲオヤジさんこと三島寛さんは現在もお元気に人生を楽しまれ、同人誌を発行したり、川柳の選をしたり、ネットに様々な意見を投げ込んだりされています。

六文錢で検索するとどこかでお目にかかることでしょう。

《游々雑感》


 今年は1999年。来年が2000年であることは言わずと知れたこと。

 今年の夏頃から唐突に聞き馴れないことばがマスコミでたびたび使われるようになりました。そう、ミレニアム(millennium)。この怪しい英語が知らないうちに巷を闊歩しています。

 

 わたしの頼りない直感ではこれはミリ(milli)に関係していると思うのですがはっきりしたことは分かりません。しかしそう考える根拠はこうです。

 milliは1000を表す言葉。1メートルの1000分の1が1ミリメートル。1気圧が1000ミリバール(現在は国際単位のヘクトパスカル)。つまりこれらの単位と関係すると睨んでいるのです。

 

 スペイン語では1000のことをミルと言います。

 わたしはこのことを昔ミル・マスカラスというメキシコの覆面レスラーが「千の顔を持つ男」と呼ばれていたことで学習しました。マスカラスはマスク(仮面)に関係することばです。なぜ彼が「千の顔を持つ男」と呼ばれていたかというと、我らがヒーロー、ミル・マスカラス選手は試合毎に異なったマスクを被って、ジャイアント馬場やアントニオ猪木に立ち向かっていたのです。

 

 さて、話を戻します。

 昨今やたらとミレニアムということばが目や耳に飛び込んでくるので広辞苑(第四版)を調べてみました。ところがミレニアムは出ていません。しからばと千年で当たってみると・・・ありました、ありました。

 

せんねん説[千年説]

(宗)(millenarianism)キリスト教で、キリスト再来の日に、死んだ義人が復活して、地上に平和の王国(千年王国)が建設され、一千年間キリストがこの王国に君臨し、その後一般人の復活があって、最後に審判があるという信仰。

千福年説。至福千年説。

 

 何やらたいそうなことのようです。

 ではmillenarianismを研究社の英和辞典で調べてみましょう。

 残念ながらmillenarianismはありません。しかし、こちらにはミレニアムmillenniumが出ていました。

 

millennium

 1 千年間、千年期。

 2 千年祭。

 3 [キリスト教]至福千年「キリストが再臨してこの世を統治するという神聖な千年間」。

 4 (特に、正義と幸福の行き渡る想像上の)黄金[理想]時代。

 

 ということはミレニアムは単純に1000年間を示す言葉であると同時にキリスト教においては理想の時代を指す重要な意味を持つわけです

 現在一般に使われているのは1000年の区切りだという意味でしょう。もっとも西暦はキリストの誕生した年を基準に作られていますからいずれにしてもキリスト教と全く無関係とは言えません。

 

 イエス・キリストは紀元前4年に生まれ紀元28年に刑死しています。なんと32歳の短い生涯。しかしキリストの誕生が紀元前4年なら来年は本当は2004年になると思いますが、どこでどうなったのかイエス没後4年目が西暦の始まりとされているようです。

 

 来年が西暦(キリスト紀元)2000年で二十世紀末となります。しかし、これとて人為的に決めた約束事。信者以外にはさしたる意味はありません。ちなみにイスラム教では西暦622年がイスラム紀元。日本では明治5年に西暦紀元前660年が神武天皇即位の年であるとしてこの年を皇紀元年と定めました(以上広辞苑)。

 きっと年配の方なら「紀元は二千六百年」という歌をご記憶でしょう。皇紀2600年は1940年になりますか。時は日米開戦前夜、国民の士気を高めるために作られた歌かもしれません。

 

 こうして調べてみると、さしたる根拠はないにもかかわらず世紀末は妙な実感を伴ってやってきます。その理由の一つは十九世紀末のヨーロッパで頽廃的な思想が広がり、社会がどことなく不安で落ち着かなくなった事実があったからのようです。

 十九世紀末のフランスで生じた頽廃的、耽美的、虚無的、病的、怪奇的傾向の強い文学活動はデカダンスと呼ばれていますが、今世紀末もまたそれをなぞったような傾向を感じないでもありません。

 一世紀と言っても具体的には太陽の回りを地球が百回廻っただけなのですがね。

 

 それでも今世紀末も何かことがあれば、前世紀末に倣って「やっぱり世紀末よねー」と、世紀末に結び付けるというご都合主義に終始してさまざまな問題を深く考えることなく過ぎてしまっているような気がします。これは悪いことがあると何の根拠もないのに「やっぱり厄年だった」

と決めつけることで妙に納得してしまうことと似ているようです。

 

 このように社会の風潮に対して利便的に何でも世紀末とするのが昨今の流行です。

 

 しかし、自らの意志で自らのミレニアムに線を引こうとする人もいます。

 今年もあと余すところ一カ月にせまった11月28日の朝、朝日新聞尾張版に次のようなコラム記事が載りました。

 

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

    朝日新聞尾張版 1999年11月28日

 

「ひげおやじ」の引き際

 

 魚を焼いたり、ネギマをひっくり返したりする炉端のわきには小さな黒板があって、そこにはいつも機知に富んだ川柳が記されている。

 とある寒い夜の一句はこうだっだ。

 

 身ぐるみじゃ足りぬ内臓だせという  芳泉

 

 名古屋・今池の居酒屋「六文錢」は、いささかくたびれた雑居ビルの地下にある。

 「芳泉」とは、店のあるじ、三嶋寛さん(61)の雅号。いうまでもなく、いま問題の商工ローンへ放った一矢だ。

 庶民の生活のにおいがするこの街に店を構えてから、はや二十七年。

 はちまきに半てん姿。高げたをはいて炉端に立つ三嶋さんは、その口ひげから「ひげおやじ」の名で親しまれている。

 が、こんど突然、故あって店を閉じることにした。

 伏線はあった。

 

 言い換えても末世は末世ミレニアム

 

 以前、そんな句が掲げられていたからだ。

 来年は二〇〇〇年。それを区切りにした決断だった。

     ・

 「このまま老醜をさらすより、きっぱりと店じまいしたほうがいいと思って」

とは本人の弁。

 戦後の闇市から出発し、焼き肉や中華料理、キャバレー、パチンコ、大衆酒場などがひしめいていた今池も、最近は再開発の波に乗り遅れて、往時のにぎわいは消えた。

 「六文錢」もかつては金のない若い人たちが集まり、政治や文学、映画などをめぐって議論の花を咲かせていた。

 が、そんな「疾風怒涛(しっぷうどとう)」の時代は幕を閉じた。

 いま目立つのは若い女性客。仕事帰りに立ち寄っていた人たちもバブルの崩壊とリストラの影響でめっきり減った。

 客層の変化に対応するには店を改装しないといけない。

 けれど、昨年の暮れ、軽い脳血栓で倒れて入院した。もう無理はきかないと感じた。それで改装をあきらめた。

 「なにごとにも潮時というものがある」。そう思った。

     ・

 できれば今池を特色のある面白い街にしたかった。発起人の一人となって「いきいき今池お祭りウイーク」を誕生させたのも、そのためだった。

 いったん会社勤めをしたものの「管理」という言葉にどうもなじめず、そこを辞めてここにやって来た。

 そんな三嶋さんにとって、このごった煮のような大衆的な街はぴったり波長に合ったのだ。

 『名古屋を呑む!』と題する本を出版。人間本位の街づくりを訴えたこともあった。

     ・

 店の営業は、今年いっぱい続ける(この点はお間違いのないように)。 

「もっと頑張れ」という人が多い。もちろん三嶋さん自身、愛する街を見捨てるようで心苦しい。が、仕方がない。

 客に配っていた「かわら版」もなくなる。

 そこに「新・外来語辞典」を掲載していたが、その締めくくりの項でいわく。

 

 「ン 皆さんの幸ンを祈ります」

 

                            (小沢 俊夫)

 

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 

 以上の新聞記事でお解りのように、わたしの《游氣風信》でもたびたび紹介したことのある今池・夜の哲学者「ひげおやじ」こと三嶋寛さんが、名物居酒屋「六文錢」を年内で畳むというのです。

 

 ひょんなことで知り合ったひげおやじさんとわたしの交流は、わたしが年に数回六文錢に呑みに行くだけでなく、折りに触れEメールの交換などもしています。

 この十五才年長の、非常に迷惑なことに「ミシマ ヒロシ」というわたしと同音異義語の名前を持つひげおやじさんは、その洞察力と表現力、巧みなユーモアで多くの人から慕われています。人生の先輩としてわたしも最も敬愛している方です。

 

 それが突然二十数年続けた六文錢を閉店するというのです。

 実はこのことはわたしにとって晴天の霹靂かというとそうではありません。

先月いただいたEメールからですでにその伏線を感じてはいたのです。否、ひげおやじさんが匂わせていたのです。

 

 先月号の《游氣風信》は吉田拓郎や井上陽水の歌に触れながら、わたしの個人史と時代および世代論を述べたものでした。それに対して一世代前のひげおやじさんからご自身の歴史を戦後史に重ねた丁寧なメールが届いたのです。そしてその末尾に今度発行する、お店のチラシ「瓦版 六文錢」に一身上のお知らせがあると書かれていたのでした。

 「瓦版 六文錢」はお店の宣伝チラシで、内容はユーモアと世相を切る鋭い目をないまぜにした傑作読み物ですが、この一身上のお知らせがとても気になっていました。そしてその不安通りついに閉店のお知らせが届いたのです。

 

 なぜ店を閉じられるのか。詳細は分かりませんし、知る必要もありません。

先に引用した新聞記事で十分でしょう。

 むしろこれからあの卓越した自由人が還暦を過ぎてどのように生きていかれるかに尽きない興味があります。

 幸い、インターネット上に開いてあるホームページ

「電脳六文錢」

(URL http://www.nicnet.co.jp/imaike_t/rokumon/)

はそのまま継続されるそうですから、どこに行かれようとわたしとひげおやじさんの縁は切れることはありません。

 

 先程述べたようにもともとわたしはお店には年に数回しか顔を出さない、いわゆる上客ではありませんでした。カッコよくいうと「君子の交わり、水のごとし」の関係。もっともわたしたちは君子ではないし、店に顔を出すのは酒を呑みに行くためですから「凡夫の交わり、酒のごとし」かも。

 今の時代、インターネットがあればお互いがどこに行こうと一応の関係は継続できます。これからは酒の仲立ちがなくなりますからそれこそ「水のごとき」交わりになるかもしれません。

 それにしても六文錢が伊那の蔵元に特注していたオリジナル銘酒「もへいじ」が呑めなくなるのは返す返すも無念です。白ワインのようにフルーティな味わいで、日本酒嫌いの外国人も美味しいと喜んだものでした。

 

 ひげおやじさんは《游氣風信》の最もよい読者の一人でした。

 今まで《游氣風信》を読んで「文章がうまい」とか、「博識である」とか、「根気よく出されますね」などのお世辞をたっぷり含んだお褒めのことばは時々いただきましたが、ひげおやじさんからの読後メールは必ずご自身の問題として再措定して書いてこられましたからこちらも襟を直し、膝を正し、呼吸を整えて読む必要がありました。その点においては最高の読者であり、最も畏ろしい読者でもありました。

 畏ろしい読者というのは書くとき常にその目を意識せざるを得ない人のことです。

 

 「マニュアルが、機能本位で事態を処理する点で、一定の有効性を持つことは言うまでもないが、同時に、そこには、作業者とその相手を、主体と対象を、同一化のうちに留めようという強固な要請が潜んでいるように思えるのである。

それは均質化した時間と空間のうちにあらゆることがらが配列されていて、私たちが充分理性的でありさえすれば、その中から自分に都合のいい部分のみを取り出し、利用し得るという、近代合理主義の一つの帰結でもあろう。」

 

 以上はひげおやじこと三嶋寛さんの著書「名古屋を呑む!--居酒屋ひげおやじ名古屋を語る 風媒社」から引きました。「名古屋を呑む!」はユーモアとペーソス、実にくだらない駄洒落満載の本ですが、中には上記のような論理がちがちの都市論、マニュアル論もあって、いかにも雑然を好むひげおやじさんらしい好著です。著者の申すことによれば読まなくてもいいから買って欲しいそうです。

 

 「主体と対象を、同一化のうちに留めようとする」マニュアル的な在り方は「近代合理主義の一つの帰結」ではあるものの、それはどこか非人間的で、その均一化は過去の歴史が示すような恐ろしさも伺わせます。

 

 わたしの業界も昨今マニュアル化した「クイック・マッサージ」や「フット・リフレクソロジー(足もみ)」などが隆盛を誇っていますが、マニュアルに馴染めないわたしは、ひげおやじさんとおおいに共感するところがあるのです。

 

 わたしが白衣を着用しないで、いつも外国土産のはではでTシャツなどで治療しているのを不謹慎とか不真面目とか不思議に思われる方もおられるようですが、それはわたし自身も「主体と対象を、同一化のうちに留め」たくないからこそなのです。

 

 それはつまるところ治療者と患者の関係を固定することなく、治療者も患者もともに学び合い・癒し合える関係を作りたいということ、そこでは「治療」や「患者」ということばすらなくなるということです。白衣は治療者を治療者として留めようとする武器に外なりませんから、わたしは敢えて着用しないのです。

 決して貧しくて買えないからではありません。

 

 この辺りが年齢や職域を超えて、わたしたち「ミシマ ヒロシ」がなんとなく気の合うところなのかもしれません。

 

《後記》

 

 来年がひげおやじさんにとって、《游氣風信》の読者にとって、地球全てにとってよい年でありますように。

(游)


 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信   No,119 1999,11,1 拓郎と陽水

拓郎と陽水

 

 今年になってわたしの世代には懐かしいCDアルバムが相次いでリリース(発売)されました。高校生から大学生にかけてよく聴いた吉田拓郎と井上陽水です。

 

 井上陽水は今回のCDアルバムが売上ベスト1位になりました。売上一番になった最高齢者だそうです。若者に人気のパフィに音楽を提供したりして親子二代に指示されているからでしょう。わが家でも娘が「お母さんの好きな陽水だから」と、母親からお金をせしめて「GOLDEN BEST/YOSUI INOUE」を購入しました。

 

 吉田拓郎はレコード会社を幾つか移動したため、意外なことにこれが初めてのベストアルバムです。息子とパルコに買い物に行ったとき、タワーレコードで見つけて買いました。タイトルは「TAKURO YOSHIDA THE PENNY LANE」。拓郎も若者に人気のKinki Kidsなどとテレビに出ていて広い世代に指示されています。このためか、こちらのCDもすごい勢いで売れているそうです。

 

 「歌は世に連れ、世は歌に連れ」とは口にするのも恥ずかしいほど言い古された言葉ですが、二人の歌はわたしにとっての青春の歌と呼べるものです。そこには誰もがもつ個人の歴史といささかの社会とのかかわりがあります。

 

:::::::::::::::::::::::::::::::::::

 

 わたしの誕生日は昭和29年(1954)1月1日。

 敗戦からすでに九年が経過しています。

 この頃には戦後の貧困と食糧難、混乱が一段落ついていたと聞きます。

 日本がわずか九年で立ち直りを見せた理由は米国の支援と勤勉な国民性、さらにそれを後押しすることになった昭和25年から三年間続いた朝鮮戦争による需要ブームがあると思いますが、ともかくわたしたちは飢えを経験していない世代の走りでしょう。

 

 政界では総理大臣が吉田茂から鳩山一郎に代わり、警察予備隊から保安隊を経て自衛隊が発足しました。同時に防衛庁も。

 米国によるビキニ環礁の水爆実験で日本の漁船が被爆し、それを題材に水爆批判映画「ゴジラ」が作られました。原子力船ノーチラス号が作られたのもこの年のこと。

 NHKがテレビ放送を始めたのはその前年。

 三年後の昭和32年(1957)には東海村に原子の火が灯ります。

 こうして「原子力と大量情報」という二つの巨大な存在を抱え込むことになるのがこの時代です。これは「火と言葉」を手に入れた原始人類からの大きな飛躍でしょう。

 それからはただひたすら高度成長を目指す時代となります。

 

 わたしが生まれた場所は広島県福山市。幼稚園時代をそこで過ごしました。

 幼稚園の帰りにはキイチゴを摘んで食べたり、川面を走る魚影に石を投げたりして道草を食っていました。当時は自然と人間がとても都合よくバランスを取っていたのではないかと思います。子供の足でも行けるところに小高い丘があり、大きな川が河口に向かって流れている。わたしたちは子供だけで車の恐怖にさらされる事なく外で遊び回っていました。

 

 昭和35年(1960)、小学校に上がると同時に愛知県にやってきました。最初に住んだ知立という町も田舎で田圃や畑の中を走り回って遊び農家の人に叱られたものです。

 しかしここでわたしは交通事故を経験しました。軽トラック(ミゼット)がお尻にコツンと当たって転倒し、膝を擦りむいたのです。運転手の恐縮ぶりは今でも覚えています。大したことはないと走って帰ろうとしましたら、見知ら
ぬおじさんに「ケガが隠れているかもしれないから医者へいけ」と腕を掴まれました。その人の片腕はありませんでした。こういところに戦争の傷跡が見られた時代です。

この年に15年続くベトナム戦争が始まります。

 

 二年生の途中で苗木と裸祭りで有名な稲沢市へ移りました。ここも知立と同じく田園地帯。

 名鉄本線沿いの田圃のあちこちには爆弾池と称する丸い池がありましたが、これは戦争中の爆撃の後に水が溜まったものだそうです。随分後まで残っていましたが、今は影も形もありません。

 

 四年生の頃、教室の窓から見える建設中の東海道新幹線で「夢の超特急」の試運転が始まりました。誰かが「新幹線が来た!」と叫ぶと、授業そっちのけ。

先生まで窓辺に駆け寄って

「新幹線だ!新幹線だ!」

「違うよ、新幹線は線路。あれは夢の超特急だ!」

「もう走っているのだから夢じゃないよ!」

と騒いでおりました。翌年の東京オリンピックに備えてのものです。

 当時は少年も大人も未来に限りない夢を抱いていました。

 この年ケネディ大統領暗殺。

 

 五年生(昭和39年、1964)は東京オリンピックの年。

 わたしたちより上の世代ではオリンピックと言えば東京に決まっていますが、若い人たちに

「オリンピックの年は・・」

などと言うと

「いつのオリンピックですか」

と聞き返されてしまいます。

 この頃、オリンピックを見るためにカラーテレビが飛ぶように売れました。

 民家の屋根には先を争うように赤や黄色に彩られたテレビアンテナが立ち並び、

「わが家はカラーテレビである、白黒テレビではないのである」

と誇示していましたが、別にカラーテレビだからといってアンテナに色を着ける必要は無かったのです。

 

 昭和41年(1966)、中学一年の時、ビートルズ来日。グループサウンズ全盛の先駆けとなりました。平行して加山雄三の若大将が人気。

 ビートルズは今日でも国境を越えた当時の若者の共通言語となりえています。

それは音楽性と同時に社会運動でもありました。少しおおげさに言えば、大人社会に対する若者からの反抗が地球規模で動き出したのです。

 

 無邪気な少年時代も終え、物思う高校生(昭和44年・1969)になると必然的に時代意識が芽生えてきました。それは内面からの自然発生的なものであると同時に環境からの影響も無視できないものがありました。目線が急に広がる年齢なのです。

 

 その頃はどんな時代だったのでしょう。

 七十年安保闘争で学生運動が盛んでした。東大安田講堂に立てこもった学生に対する警察の放水の模様はテレビで何回も放映されました。六十年安保と比べると関わった学生の数はたいしたことはないのでしょうが、多くの大学生は何らかの形でその運動に関与したと思います。

 

  ぼくは不精髭と髪を伸ばして

  学生集会へも時々出掛けた

  (「いちご白書をもう一度」 作詞・作曲 松任谷由美)

 

という具合にごく普通の学生も集会などに顔を出していたようです。

 その影響は高校にも及んでいました。

 学校の文化祭などでは期せずして岡林信康の「友よ」の大合唱が興ったりしたのです。

 

  友よ、夜明け前の闇の中で

  友よ、戦いの炎を燃やせ

  夜明けは近い 夜明けは近い

 

 当時はこうした体制に対する戦いの歌が若者の心を捕らえていました。それはわたしのようなノンポリ(non-political 政治に関心を示さないこと)高校生にも十分浸透していました。

 A高校では生徒総代が壇上で校長から受け取った卒業証書を破り捨てた事件がありました。わたしたちの高校でも校内でベトナム反戦集会があったり、教員がデモに参加して処分されたりして、知らず知らずの内に社会雰囲気に巻き込まれていったのです。

  

 高校二年(昭和45年・1970)の時、クラブをサボって図書館にいましたら、知らない上級生たちがひそひそと会話を交わしていました。

 「三島由紀夫が自殺したらしいぞ」

 「なんで」

 「どうも自衛隊で腹を切ったらしい」

 

 日本を代表する作家の自裁は衝撃でした。少し前に「剣」を読んだばかりでしたからなおさらでした。その決着のつけ方は衝撃的ではあるものの共感を得ることはありませんでした。むしろ一種のシラケを招いたような気がします。

「なんだ、太宰と同じじゃないか」。

 二年後、三島を可愛がった川端康成も自殺。

 

  私は今日まで生きてみました

  時には誰かの力を借りて

  時には誰かにしがみついて

  私は今日まで生きてみました

  そして今私は思っています

  明日からもこうして生きて行くだろうと

  (「今日までそして明日から」 作詞・作曲 吉田拓郎)

 

 その頃、上記のような歌が高校生の心を捕らえて毎夜、深夜放送で流れていました。

 若者の心は先程の岡林信康の「友よ」のような戦いを鼓舞し、将来に夢を託す歌よりも、自らの内面に向かう歌に次第にシフトしていたのです。現実の重さから若者が少し目を逸らし始めたのかも知れません。

 

  僕は呼びかけはしない 遠く過ぎ去るものに

  僕は呼びかけはしない かたわらを行くものさえ

  (「さらば青春」 作詞・作曲 小椋佳)

 

 銀行員だった小椋佳がややくぐもった声で自らに語りかけるように歌うこの歌も好きでした。この周辺への無関心。これは青春のもう一つの真実です。

 

  これこそはと信じれるものが

  この世にあるだろうか

  信じるものがあったとしても

  信じないそぶり

  (「イメージの詩」 作詞・作曲 吉田拓郎)

 

 たとえ外に関心があっても、信じないそぶりをする若者たち。

 

  たたかい続ける人の心を

  誰もがわかってるなら

  たたかい続ける人の心は

  あんなには 燃えないだろう

        (同)

 

 たたかうことに対する冷めた距離感がここには歌われています。けれどもたたかう人に無関心ではおれない気持ちも読み取れるのではないでしょうか。

 

 昭和47年(1972)2月19日、高校生活もあと少し。大学受験もあらかた終わるころ、多くの人をテレビ画面に釘付けにした事件がありました。連合赤軍浅間山荘事件です。七十年安保闘争に端を発した学生運動の終焉のおぞましさにそれ以後の学生運動は急速に衰退していきました。

 

  まつりごとなど もう問わないさ

  気になることといえば

  今をどうするかだ

(「おきざりにした悲しみは」 作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎)

 

 こうした詩には当時の私たちの気持ちが込められていると同時に、わたしたちをその方面に導いていくことにもなったでしょう。

 もっと明確に歌った歌手もいます。

 

  都会では自殺する若者が増えている

  今朝来た新聞の片隅に書いていた

  けれども問題は今日の雨 傘がない

  (「傘がない」 作詞・作曲 井上陽水)

 

 見事に社会性を否定した歌です。

 元来、アメリカに発生したフォークソングの源はベトナム反戦の歌「花はどこへ行ったの」や「風に歌えば」辺りへ遡行できると思うのですが、社会批判を中心にラブソングなども交ざって若者文化として発展して来ました。ピート・シーガーやジョーン・バエズ、ボブ・ディランなどが有名です。

 日本でも高石ともやや先程の岡林信康などが社会問題を歌にしていました。
フォークゲリラなどという言葉もあったくらいです。

 

 その後に続く吉田拓郎や井上陽水の関心は次第に社会から個人へ向かい、その後の南こうせつの四畳フォーク(《游氣風信》116号)へと続き、やがてポップなニューミュージックとなり今日にいたります。

 

  休む事も許されず

  笑う事は止められて

  はいつくばって はいつくばって

  いったい何を探しているのか

  (「夢の中へ」 作詞・作曲 井上陽水)

 

 フォークとニューミュージックの端境期にある、あるいは仲立ちをしたのが拓郎と陽水であるとはすでに定説です。

 

 吉田拓郎には次のような曲もあります。

 

  日々の暮らしはいやでも やってくるけど

  静かに 笑ってしまおう

  (「襟裳岬」 作詞 岡本おさみ 作曲 吉田拓郎)

 

 森進一で大ヒットした曲。拓郎は演歌とフォークの仲立ちもしたようです。

 

 陽水の繊細でかつ力強いボーカル。

 拓郎の演歌に通じる泥臭い歌声。

 ともに同時代を生きてきた者として今改めて懐かしく聞いています。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

日本人のしつけは衰退したか   No,118 1999,10,1

日本人のしつけは衰退したか

 

No,118 1999,10,1

 

最近の若者はなっていない。

 これはひとえに家庭教育やしつけのなさによるものである・・・という意見がよく聞かれます。

 それと平行して昔の家庭教育は良かった。だから若者も迷わず立派に育ったという意見。

 

 わたしはそれにはさまざまな面から否を唱えたいのですが、素人の悲しさ。はっきり反論する根拠を持ちませんでした。

 しつけ衰退が根拠のない推論だと思いつつ、その反論も感性的推論に過ぎないというジレンマに陥っていたのです。

 

 ところが最近、しっかりとした資料を元にわたしの疑問に答えてくれる本と出会いました。それは

 

 日本人のしつけは衰退したか 

「教育する家族」のゆくえ(講談社現代新書)

 

 著者は広田照幸(東京大学大学院教育学研究科助教授。専攻は、教育社会学、

教育史、社会史)さんです。

 

 表紙には

 

礼儀正しく、子どもらしく、勉強好き。パーフェクト・チャイルド願望は何をもたらしたか。しつけの変遷から子育てを問い直す。

 

と書かれ、表紙裏の本からの抜き書きは

 

「パーフェクト・チャイルド」

 しかしながら、大正・昭和の新中間層の教育関心を、単に童心主義・厳格主義・学歴主義の三者の相互の対立・矛盾という相でのみとらえるのは、まだ不十分である。第一に、多くの場合、彼らはそれら全てを達成しようとしていた。

子供たちを礼儀正しく道徳的にふるまう子供にしようとしながら、同時に、読書や遊びの領域で子供独自の世界を満喫させる。さらに、予習・復習にも注意を払って望ましい進学先に子供たちを送り込もうと努力する。

 すなわち、童心主義・厳格主義・学歴主義の三つの目標をすべてわが子に実現しようとして、努力と注意を惜しまず払っていた。それは「望ましい子供」像をあれもこれもとりこんだ、いわが「完璧な子供=パーフェクト・チャイル
ド」(perfect child)を作ろうとするものであった。

 

 少し難しい引用でしたが、今月はこの本を頼りにちょっとだけしつけについて考えてみましょう。

 

◎若者の実態

 

 このところ若者の傍若無人ぶり、無軌道な犯罪の深刻さが新聞を始めマスコミを通じて社会の耳目を集めています。

 

 今ではすっかり町に馴染んでしまいましたが、髪を茶色や金色に染めたり、はなはだしきは赤や青に染めたりした若者が闊歩しています。チャパツなどと総称されます。

 

 駅のホームや地下街の階段には醤油で煮しめたような薄汚いズボンをはいた若者が座りこんでアイスクリームやハンバーガーなど食べています。地べたに座っているのでジベタリアンと命名されています。

 

 人の迷惑顧みず、雑踏だろうと満員電車の中だろうと辺りかまわず携帯電話で大声をはり上げている人もよく見かけます。これは年齢を問いません。

 

 その他、

 高校性による援助交際(早い話が売春。買うのは大人)。

 携帯電話やインターネットによる新しい形の犯罪(高齢者には分かりにくい世界)。

 自分の人生や自分を支えてくれている人達に思いをはせることなく実に軽々と刹那的にドラッグやシンナーに手を染め人生を破壊する若者。

 これといった罪の意識も無く、生活に追われる訳でもなく遊びの金欲しさや、アバンチュールから他人の物を引ったくったり、店の商品を万引きする少年たち。

 周囲からはそんな些細なことと思われる理由から突然キレてナイフを振り回す子供。
 生徒と教師の間に心の交流が築けない学級崩壊。
 陰湿に水面下に沈んだ生徒間のいじめ。

 

 連日、こうした記事が紙面を飾り、テレビ画面を賑わせて、まさに世は犯罪列島のおもむき。

 

 新聞記事にならないまでも親や老人を大切にしない、挨拶ができないなどの目に余る生活上の常識の欠如。

 

◎昔の子は良かったか

 

 戦前、戦中、戦後の混乱期を生き抜いてきた多くの高齢者は、こんなことではこの先日本はどうなることだろうかと心配しておられます。我々が若いころはこんなことはなかったとも。

 厳しいしつけによって若い時代をお国のためにと一途に生きてこられた高齢者から見ると、今の若者はとても同じ日本人とは思えないに違いありません。

いかにも今日の若者は頼りなく、情けなく感じられることでしょう。さらには何を考えているのか全く読めない不安も感じておられることでしょう。

 

 こうした情けない現象の原因の槍玉に上がるのが家庭における「しつけ」の欠如と学校での「修身教育」の廃止です。「教育勅語」を習わないからだとも言います。

 (「修身」や「教育勅語」に関しては治療室便りにそぐわないので横に置いておきます)

 

 ごく一般的な家庭のしつけに関してはどうでしょう。

 今の子は基本的なしつけがきちんとできていないと言われます。

 いや、その子たちの親でさえ既にきちんとしたしつけを受けていないともいいます。

 昔の家庭はきちんとしつけをしていたのだ、だから昔の社会はきちんとしていた。今のようなだらしない若者などいなかったとはよく聞くことです。

 

 本当に昔の家庭教育はしっかりしていて、今の家庭教育は駄目なのでしょうか。だから無礼な若者や平気で犯罪を犯す少年が増えているのでしょうか。

 

◎少年犯罪は減っている

 

 前掲書には1955年から今日までの「殺人による検挙少年の推移」がグラフで表されています。元になっているのは「犯罪白書」です。

 そこに書かれている数字をわたしは数名の人に見せたところ一様に大きく驚かれました。皆さん、「実に意外だ」とか「信じられない」と言われました。

 

 少年による殺人が最も多かったのは1960年で検挙された少年が約450名。

65年から75年にかけて急激に減少し、75年から今日まで約80名から100名以下を推移しています。

 子供の数が少なくなっているとは言え、その差はすごいものです。1960年は社会党委員長が講演中壇上で山口という右翼少年に刺殺された年です。その後子供にナイフを持たせない運動が起こり、わたしもこの頃小学校に入学したのですが、鉛筆削りのための刃物通称肥後守を学校へ持ち込むことが禁止されました。

 

 数字で見る限り少年による凶悪な犯罪が数の上では減っているのに、感覚としては昔よりずっと増えていると感じるところに問題があります。

 過去を美化したがる人の習性に加えて、特異な事件をやたらと偏狭的に拡大して報道する多くのマスコミにその原因の一半はあると思います。

 

◎昔のしつけは良かったへの疑義

 

 わたしは「昔はしつけがしっかりしていた。だから犯罪も少なかった」という見解には、以前からいささかの疑義を持っていました。

 確かに昔の社会は安定していました。しかしそれは一人一人がしっかりとしつけられていたと言うより、地域という枠組みがきっちりと機能していたことが大きな理由だと思っていたからです。

 人々はその枠組みからはみ出さないように整然と生きざるを得なかった。これが大きな理由だと思うのです。

 

◎安定という平和

 

 極端に言えば、日本史上最も平和で安定していた時代は江戸時代です。

 今の高齢者が生き抜いてきた明治・大正・昭和前半という時代は、ほとんど戦争史にほかなりません。日本史分類上「続・戦国時代」と呼んでもいいほどの時代でした。

 平和な安定した時代なら江戸時代という意見に異論はないことと思います。

 しかしその平和は身分制度という自由を排除した固定的な社会であればこその安定でした。士農工商と身分の位を分別し、職業を世襲とし、居住区域を身分で住み分けることで社会の安定を図ったのです。即ち、平和と安定のために自由を犠牲にしたからこそ落ち着いた社会ができたといえるでしょう。

 海外からの干渉を避けるため鎖国までしました。

 その成果として今日見直されている江戸文化が派生しました。

 

 この260年に及ぶ江戸時代の枠組みは明治になってもすぐには消えず、陰に陽につい最近まで伝承されてきました。いや、今だに薄くはなったものの続いているといってもいいかもしれません。

 薄まった分だけ自由気ままな人達が増えたのです。

 

 わたしの住んでいる町の周辺には昔ながらのムラが散在しています。むしろわたしなどはその人達からすると困った侵入者、異端者だったのです。

 そうしたムラですと、何代もその土地に住んでいますから、その家の家族構成は全て明け透けでした。財産はいかほどで、何歳の子供がいて、嫁はどこから来た人で、おじいさんは今入院しているなどといったことも近所の人達はよく知っています。

 子供達はそうした周囲の目の中で活動しています。必然的に「悪さ」はやりにくくなります。また地域によって「悪さ」の定義も違ってきます。

 

 わたしが子供のころ、ちょっとおなかが減ったとき畑のイチジクを失敬したり、夏蜜柑を枝からもいで食べたりしました。柿を盗んだり西瓜泥棒をしたりと通りいっぺんのいたずらをしてきました。しかし、地域の子供はお互い様だ
からとそれに対して大人はさほど目くじらを立てることもありませんでした。

これは枠組みが優しく機能している例です。

 

 町の子はどうでしょう。ちょっと失敬する場所はお店しかありません。これでは経済活動を妨げるので犯罪になってしまいます。同じ他人のものを失敬するという行為も意味がとても異なってきます。

 

◎安定という不自由

 

 地域という枠組みがしっかりしているということは、常に他人の目を気にせざるを得ないという犯罪の抑止力になったはずです。これは社会の安定に極めて有効に作用します。しかし反面、人目を気にせざるをえない暮らしは実に窮屈なことでもあります。昔の若者はそれを嫌って何とか家から出ようとしたはずです。

 わたしの父も長男ながらそれが嫌で広島から愛知に逃げてきたようなものです。

 

 蟾蜍長子家去る由もなし 中村草田男

 

 という知られた俳句があります。最初の難しい二文字は「ひきがえる」。ヒキガエルは家の床下などに住み着いています。この作品は長男として生まれた以上家を出る理由がないという嘆きを家に住み着くヒキガエルに託して詠んだものです。枠から脱出したい。これは若さです。

 

 ともかく安定とは視点を変えると不自由といううことでもあったのです。

 

◎家庭はいろいろ

 

 「昔の家庭のしつけは良かったが今はだめだ」という今昔の比較はあまり意味がないのではないかと思います。家庭を囲む地域が先ほど述べたように違いますし、時代が変わって地域自体がすっかり変化し、家庭自体一まとめにくくれるほど単純なものではありません。

 

 家庭は農家・商家・サラリーマンなどさまざまな職業的な分類が可能でその差はわたしが子供の頃、つまり今から30年から40年前は実にはっきりしていました。

 わたしが小学校の三年生位のことです。あるとき知らない上級生たちが近寄って来て尋ねました。

「おまえ、団地に住んでいるだろう」

「うん」

「ほれ見ろ。俺の言うとおりだろう」

連れに向かって得意げに話しています。

「な、きれいな服を着ている奴は団地の子だ」

(この場合団地の子はサラリーマンの子、地元の子は農村の子です)

 

 当時はこのように外観から家庭環境が容易に分かったのです。しかしそれも数年を経ずして分からなくなりました。それは日本経済の高度成長によって本来自給自足を旨とした農村が構造を一変させたからです。

 どの農家もお父さんが会社に勤めに出るようになり現金収入が各段に増えたため、親戚で古着の持ち回りをしなくても良くなったのです。それで団地の子だけでなく農家の子もきれいな服を着るようになりました。

 

 この頃の農業を「三ちゃん農業」と呼びました。「じいちゃん・ばあちゃん・かあちゃん」の三ちゃんが農作業をして、とうちゃんは会社員になったことを言います。当時の小中学校は名古屋郊外でもまだ農繁期のための「田植え休み」がありました。

 この高度成長期を境目に日本の家庭および家庭を囲む環境が大きく変わるとは前掲書に詳しく述べてあります。

 

◎しつけは家庭だけではできない

 

 家庭でのしつけもその成果を云々するのは実社会に出てからです。家庭という枠組みを出て、地域という枠組みからも脱皮した後、今度は社会という枠組みがしつけの最終的な成長を促すはずです。ところがこれがどうもまずいのです。

 

 わたしは田舎町の中学校から名古屋市内の高校に通いました。朝も帰りもひどいラッシュにもまれての通学です。高校に入りたての時、苦い経験があります。

 学校でも家庭でも電車に乗るときはきちんとプラットホームに並び、降りる人が終わってから乗ることと教わりました。まじめなわたしはもちろんそれを実行しました。

 朝、満員電車がプラットホームに入ってきました。名古屋駅で降りる人ばかりですから途中の駅では誰も降りません。ホームに溢れるようにいた会社員や学生は一斉にドアに駆け寄り我先に乗り込みます。まじめなわたしはプラットホームに置いてきぼりになり呆然としていました。

 次の電車が来ました。ドアが開きました。誰も降りません。どっと人が駆け寄るとわたしを弾き飛ばし、電車は去っていきました。

 三台目。これを逃すと遅刻です。遅刻と割り込み乗車。どちらの非道徳的行為を選ぶか。素早く計算したわたしは、遅刻を回避するために割り込みを選択。

人波を泳いで今度は見事に満員電車に乗り込むことに成功。入学早々の遅刻を免れたのです。

 この体験を通じていかに愚かなわたしでも次の学習をしました。

 

 正直者はばかを見る

 

 ここにおいて過去に学校や家庭で受けたしつけはもろくも瓦解してしまったのでした。

 

◎しつけは一生

 

 「昔はよかった」は何につけ言われることです。人は過去を自分に都合よく美化します。だからこそつらい人生も生きていけるのでしょう。

 しかし、何もかも過去の幻想で片付ける訳にはいきません。

 時にはきちんとしたものの見方をすることも必要です。

 過去の幻想にとらわれず、偏向したマスコミに振り回されず、足元をしっかりして生きたいものです。

 これこそが自分自身による自分自身に対する生涯を通じてのしつけかもしれません。

 

《後記》

 

 今月号は

「今時の親のしつけはなっていない」

と言われ続けて、何かと肩身を狭くせざるを得ない今の親の立場からのささやかな反論でした。

 広田照幸著「日本人のしつけは衰退したか」(講談社現代新書)のごく一部しか紹介できていません。これでは一部のことを偏向して拡大していることになりますから、ぜひ、実際に本を手にとって読んでみてください。640円です。

 

(游)

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 虫の移ろい   蝉から蟋蟀へ

No,117 1999,9,1

 

 八月もお盆を過ぎるころから、夕暮れになると草むらや家の隅で秋の虫が鳴きだします。

 鳴く虫の代表は、夏なら蝉、秋なら蟋蟀(コオロギ)の仲間でしょう。

 俳句で鳴く虫と言えば秋の夜長を鳴きとおすコオロギやカネタタキなどの類を指します。

 

 虫の声は季節の移ろいの指標です。

 初夏にはハルゼミが松林で「ゲーゲー」鳴いていますが、声は聞いていても今時蝉が鳴いていると気づく人はあまりいません。35ミリほどの無色透明の羽根をもった蝉。

 

春蝉や松はこぞりて花となりぬ  水原秋桜子

 

 梅雨が明けるころ、ニイニイゼミが鳴き始めて夏の到来を告げます。梅雨の終盤、空気の重たい日々の中にもほっとする青空がのぞきます。こんなとき鳴き出すのです。このセミの鳴き声は「ニーニー」と静かです。命名がこの声から来ているのは間違いないでしょう。全長(頭から羽根の先まで)35ミリと小型。薄い茶色のまだら模様の羽。

 

 松尾芭蕉の

 

 閑かさや岩にしみ入る蝉の声

 

がニイニイゼミであることは以前に《游氣風信》に書きました。

 

 梅雨が明けると途端に炎暑到来。

 アブラゼミやクマゼミが猛暑を演出してくれるので「夏が来た」と浮き浮きします。暑さと湿気で頭や体はクラクラしますが、やはり夏は暑くなければビールがまずい。涼しさの演出には風鈴、ビールの演出にはアブラゼミです。

 

 アブラゼミの声は「ギリギリギリ」とか「ジリジリジリ」と聞こえますから「じりじり暑い」真夏の日差しを連想させます。わたしは羽根が油紙みたいだから油蝉かと思っていましたが、正解は鳴き声が油炒めの音に似ているところ
から油蝉と名付けられたそうです。サイズは55から60ミリ。羽根は茶色で最も身近な蝉です。

 
油蝉ねぢゆるみきて鳴きやみぬ  鈴木青園

 
 アブラゼミのあとに出てくるのがクマゼミ。体長65ミリと日本では最も大きい蝉。

 小学生のころ祖父の住む広島の山村で初めてこの蝉を捕まえたとき、手の中で暴れる大きさと翼の力にとても感動した覚えがあります。当時、クマゼミはなかなか捕まえることのできない、貴重な蝉だったように記憶しますが、ここ何年か、名古屋地区ではクマゼミがとても増え、その分アブラゼミが減ったような気がします。気のせいでしょうか。

 羽根は無色透明で胴体が黒く大きく見えるので熊蝉。「シャーシャーシャーシャー」とうるさく鳴きます。これが「暑暑暑暑」とも聞こえるので暑さ嫌いの人の感情を逆なでします。東京より西に分布。

 

熊蝉や水惑星の昼下り  三島広志

 

 八月も下旬になって秋が近づくとツクツクボウシ。「オーシンツクツク、オーシンツクツク、ムクレンギョー、ムクレンギョー、ジー」とおもしろい鳴き方をします。なんと言っても夏の果てを実感させてくれるのがこの蝉。

 「さあ、ツクツクボウシが鳴き出したから夏休みも残り少ない。がんばって宿題やらなきゃ」

と子供にいささかの焦りと気合を入れてくれる蝉です。

 45ミリとやや小型。羽根は無色透明。

 

 その他、名古屋周辺では聞くことができませんがミンミンゼミやヒグラシもいます。

 夏の盛り、山間に行けば、ミンミンゼミがその鳴き声をもってして昼下がりの長閑さを際立たせてくれます。また、朝な夕なにはヒグラシ、別名カナカナが涼しげな哀歓のある声を山間に響かせています。陳腐なたとえながらそれはまさに一服の清涼剤。

 

 山の蝉は涼しい印象を与えてくれるのはなぜでしょう。

 暑いところにいる蝉はやはり人間と同じく「暑い暑い」と叫びまくり、涼しい山にいる蝉は「ああいいな。せいせいするな」と涼を満喫しているからなのでしょうか。

 

 俳句歳時記では蜩(ヒグラシ)は秋の蝉に分類されています。しかし実際にはこの蝉はニイニイゼミに次いで七月には姿を現し、八月末まで「カナカナカナカナ」と哀愁を帯びたかん高い声で鳴いています。蝉とは思えない情緒があり、鳥の声と誤解している人も多いようです。

 普通早朝と夕暮れに鳴くのでヒグラシと言うのでしょうが、時間に関係なく日が陰ったときにも鳴くことはあまり知られていません。日光に強く反応する蝉なのです。羽根は無色透明。全長48ミリ。

 

かなかなや素足少女が灯をともす  森澄雄

 

 ミンミンゼミは誰でも分かります。「ミーンミンミンミーン」と最後のミーンを長く延ばして鳴く声は鼻詰まりの人間の声そっくり。寒冷地に多く分布し無色透明の羽根で62ミリと熊蝉に継ぐ大型。遠くの山から聞こえてくる声はい
いものです。七月から九月と長い期間声を聞くことができます。

 

厳かにみんみんの鳴き始めたる  浦部熾

 

 夏場、山に行くとエゾゼミというクマゼミと同じくらいの大きさの蝉がいて、「ギー、ギー」と鳴いているそうですがわたしは見たことも聞いたこともありません。体調65ミリ前後、羽根は無色透明。

 

 今年の夏、わたしは八月の二十二日に初めてツクツクボウシを聞きました。

今年の夏はお盆のころから雨が多く涼しい日が多かったですから、秋の到来も早かったのでしょう。仕事前に部屋の空気を入れ替えようと窓を開けたら「オーシンツクツク」と静かな声がとどいてきました。

「ああ、ツクツクボウシが鳴いてますね」

「ほんと、これで夏も終わりで暮らしやすくなるねえ」

という会話から治療が始まりました。

 ところが九月に入ってからは一転、とても暑くなりましたから、今日(九月五日)これを書いている窓の外では復活した油蝉が鳴いています。

 

 ツクツクボウシが最後の蝉かと思いきや、まだまだ。チッチゼミという20ミリに満たない無色透明の翼の蝉が十月まで鳴いているそうです。これも見たことはありません。鳴き声はご想像どおり「チッチッチッ」です。

 

遠き樹に眩しさのこる秋の蝉  林 翔

法師蝉しみじみ耳のうしろかな   川端茅舎

 

 

 さて、鳴く虫の本命は秋の虫。

 蝉は分類学では半翅目に属します。カメムシやヨコバイも同じです。

 それに対して秋に鳴く虫は直翅目に分類されます。コオロギ、キリギリス、マツムシ、クツワムシ、スズムシ、カネタタキ、カンタン、クサヒバリなどがこれに属します。

 また、鳴かないトノサマバッタやオンブバッタやイナゴ、嫌われもののカマキリやゴキブリ、擬態の名人ナナフシも直翅目の仲間になります。ただしゴキブリ類やカマキリ類を直翅目から独立させ網翅目とする分類もあるそうです。

わたしとしてはこれは鳴かないからと仲間外れにするようで好きではありません。

 

 俳句歳時記に出ている鳴く虫を紹介します。

 

蟋蟀(こおろぎ)

 俳句では「ちちろ」といいます。昔はキリギリスと混同。

 エンマコオロギ、ミツカドコオロギ、ツヅレサセコオロギ、オカメコオロギなど色々な種類がいます。

 エンマコオロギは最も大きいコオロギで、暑いころから草むらで「コロコロリー」と鳴いています。一番身近に耳にする虫の音。

 ツヅレサセコオロギは晩秋「針刺せ、糸刺せ、綴れ刺せ」と鳴きます。綴れとは継ぎ布のこと。寒くなるから綴れを刺して冬に備えよと鳴くというのです。

平安時代からそう呼ばれていたと広辞苑にあります。

 さる知り合いの年配の男性にお聞きしたところ、ツヅレサセのことは母親から聞かされて知っていると言われました。平安からの伝統は着実に継承されていたのですが、ここへきて途絶えつつあるようで残念です。

 

こほろぎのこの一徹の貌を見よ 山口青邨

蟋蟀が深き地中を覗き込む  山口誓子

 

鈴虫

 コオロギ類。江戸時代より庶民に飼われて親しまれてきました。いかに早く鳴かすかという競争もあったようです。今では郵便局でも鈴虫を売っているようで、「リーン リーン」という優しい声音が聞こえてきます。

 

鈴虫を聴く庭下駄の揃へあり  高浜虚子

泣きしむかし鈴虫飼ひて泣かぬいま  鈴木真砂女

 

松虫

 コオロギ類。「ちんちろ」とも言います。「あれ松虫が鳴き出した ちんちろ ちんちろ ちんちろりん」で知られていますが、天然の声を聞くことは難しくなりました。実際には澄んだ音色で「ちん ちろりん」と鳴きます。

 

人は寝て籠の松虫啼きいでぬ  正岡子規

松虫におもてもわかぬ人と居り  水原秋桜子

 

邯鄲(かんたん)

 コオロギ類。邯鄲は中国の古代都市の名でもありますし、「邯鄲の夢」の故事でも知られています。何でも願いのかなう不思議な枕をして寝た青年が人生の栄枯盛衰を見てふと目覚めたらまだほんのしばらくしか経っていなかったという故事。人生のはかなさを示すものですが、この虫の鳴き声も「ル、ル、ル」とはかないことから邯鄲と名付けられたと言います。

 

こときれてなほ邯鄲のうすみどり  富安風生

月の出の邯鄲の闇うすれつつ  大野林火

 

草雲雀(くさひばり)

 コオロギ類。「フィリリリリ」と澄んだ哀れな声で鳴きます。見た目は鈴虫に似ていますが、ヒバリというイメージは声からも姿からもありません。早朝聞かれるので、関西では「朝鈴」と呼ぶそうです。その方がこの虫の感じからすると適切であるとは飯田龍太の意見。

 

一と息の長さ短さ草雲雀  早船白洗

大いなる月こそ落つれ草ひばり 竹下しづの女

 

鉦叩(かねたたき)

 コオロギ類。名前のとおり「チン、チン」と鉦を叩くような音色で鳴きます。

姿はコオロギに似て、肩掛けくらいの短い羽根が特徴的。

 

鉦叩風に消されてあと打たず  阿部みどり女

暁は宵より寂し鉦叩  星野立子

わが云へば妻が言ひ消す鉦叩  加藤楸邨

 

きりぎりす

 昼間、暑い盛りに「チョンギース」となきます。姿は殿様バッタのよう。肉食ですごい顎をしているので持つときは慎重にしないと噛まれます。

 

むざんやな甲の下のきりぎりす  芭蕉

きりぎりす山中の昼虚しうす  原コウ子

一塔婆一死に増えてきりぎりす  平畑静塔

 

馬追

 キリギリス類。「すいっちょ」とも「すいと」とも。鳴き声が「スーイッチョ」と馬を追う声に似ているとか。

 

宿題のある子無き子にすいと来ぬ  及川貞

馬追の緑逆立つ萩の上  高野素十

 

轡虫(くつわむし)

 キリギリス類。これはうるさい虫。「ガチャ ガチャ ガチャ ガチャ クツワムシ」と童謡にあります。轡の音が名の由来。「がちゃがちゃ」とも。

 

湯冷めしてしらけし肌やくつわむし  日野草城

森を出て会ふ灯はまぶし轡虫  石田波郷

 

螻蛄鳴く(けらなく)

 螻蛄はおけら。モグラのような土中に住む虫で前足が土を掘るのに適しています。「螻蛄鳴く」で季語とされています。庭に出ると「ジーンジーン」と結

構大きな声で鳴いていますが、昔は蚯蚓(ミミズ)が鳴く声だと思われていました。もちろんミミズは鳴きません。

 前出のツヅレサセのことをご存じの年配男性はミミズが鳴くということも親から聞かされて、「そんなことはあるまい」と疑問に思っていたそうです。こうしたことをご存じの方は古典の世界に残っているだけだと思っていたのです
がまだまだ現存しているのですね。

 

高嶺にて高嶺仰ぐや螻蛄がなく 加藤知世子

螻蛄鳴くや濡れ手で粟の仕事はなし  成瀬桜桃子

 

 以上が歳時記に載っている鳴く虫です。

 

 明治になって、中国大陸から移住してきた虫にアオマツムシがいます。マツムシとよく似ているのですが、マツムシが茶色系なのに対してこれは名前の通り緑色。通常、秋の虫たちは草むらで鳴きますがアオマツムシは木の枝で鳴きます。

 アオマツムシは近年、異常に繁殖して夕闇を席巻していますが、その理由として樹上にいるので除草剤の影響から逃れているのではないかという説があります。

 声はリリリリリと機械的でかん高く、とても強い声で、いわゆる風情は吹き飛ばしてしまうので困り者です。

 

 日本人は虫の音に風情を感じますが西洋人は単なる雑音にしか聞こえないといいます。知り合いのアメリカ人に聞きましたらやはりクリケット(こおろぎ)の声はうるさいだけだと答えました。本当でしょうか。

 

 ここに興味深い研究があります。

 

 角田忠信博士(東京医科歯科大教授)は、日本人と西欧人の脳の臨床学的比較研究をしました。その結果、日本人は虫の鳴声や鳥の鳴声を左脳(言語脳)で受取るが、西洋人は右脳(芸術脳)で受取ることを発見しました。

 これはどういうことでしょう。

 日本人は西洋人と異なり虫や鳥の鳴声を言語として聞きなすことができるということです。つまり意味のない音声を受け取ってもそれを言語のように意味付けしてしまうということなのです。

 

 20年以上前、このことを本で読んだわたしはショックを受けました。ところがこの研究も近年、専門家の間で疑問視されてきています。興味深い結論だけがジャンルを越えて一人歩きしていると。

 科学は再現性が重要視される学問です。ところがこの研究の追試をしてもそのような結果がでないというのです。

 外国人にも虫の音や鳥の鳴声を詩情をもって感受する人もいるし、日本人でも虫や蛙の声がうるさくて眠れないから駆除してほしいと市役所に要望してくる人がいます。

 

 虫の声を風雅と感じることは、日本人だけの特性と決めつけることは戒めなければならないでしょう。

 

 以前外国人たちと飲みにいった時の会話です。

M「日本人はどうして自分たちだけ特別だと思いたがるのだろう」

S「そうそう、日本人は菜食だったから腸が欧米人より長いという話題を好むわ」

R「飲み付けなかった牛乳を飲むと下痢するともね」

M「アルコールの分解能力も西洋人より弱いと言うよ。でもね、ぼくの空手の先生は底無しに飲む。付き合っていたら死んじゃうよ」

S「日本人とひとくくりしないで、一人一人を見ればいいじゃない」

R「そうだよ。だから日本人は個性が無くてのっぺりした顔をしているんだ」

 

 虫の音を愛でるのは日本人だけというのはある種の優越感を招くことは間違いないでしょう。でもそれは日本人だけの感性だと結論づけるのは早急なことです。

 今うちに出入りしているSというカナダの巨漢は大学院で日本の保険制度を研究していますが、彼の趣味は三味線。彼の友人のアメリカ人は琵琶を習っているそうです。また、今は帰国しているフランス人禅尼僧のMは尺八を習っています。

 こうした邦楽のよさを理解するということは虫の音を味わう感性もあるということだと想像します。同時に、日本人の心性からこれらがどんどん失われていることも危惧されます。

 音楽大学の先生が、ある時、尺八の講師に来てもらったそうですが、その講師はアメリカ人で、その講義風景は不思議であったと述べておられました。

 

 秋の夜長を鳴き通す虫の音。

 こうした情緒は金銭にもまして後世に残していくべきものでしょう。そのためには虫の住める環境も残していかなければなりません。

 

 それにしても、もし、前述のうるさい外来のアオマツムシが日本中を制覇したら虫の音に風情を感じるなんてことは日本人の心情から完全になくなってしまうかもしれません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信   若かったあの頃 ・・・やさしさの世代

No,116 1999,8,1
 

「貯金通帳、どげん捜しても見あたらんばってん、困ったなあ」

 

 初夏のある暑い日、〇さんの在宅リハビリに訪問すると奥さんが困惑顔。大切な貯金通帳が行方不明になっているとのこと。

 

「通帳がないって、それは大変。印鑑はあるの?」

「印鑑はここにあるばってん、通帳ばどげん捜しても出てこんのよ」

「よーく思い出して。一番最後に出したのはいつ?」

「昼前に農協の人が来よらしたばってん、どこにも持ち出しちゃおらんけん、うちの中にあるのは確かなんじゃ」

「いつもしまうのはどこ?」

「この鞄のポケット」

「ああ、いつも持っている鞄ね。入ってないの?」

「なか。どげん捜してもなかか。」

「仏壇とかタンスの引き出しとかは調べたの?」

「通帳ば、そげなとこにはしまわんけえ、こん鞄の中にあるはずばってんが、どうにもわからん。困ったなぁ」

「諦めないでいろいろな所を捜してごらん。全然関係ないところも。こういう時はとんでもないところから出てくるもんだよ」

「どうしてん出てこんかったらどないしたらよかかねぇ」

「家にあるなら心配ないでしょ。盗まれてない限りは。それにどうせたいして入っちゃいないしね。でも、引き落としや入金に困るね」

「そうじゃ。金はなかかけん心配なかばってん、引き落としに困る」

「どうしても見つからないか。うーん。あちこち捜して見つからんばってんじゃけえ、困ったばってん」

「そげな『ばってん』の使い方はおかしかぁ。ここらの人には熊本弁は無理たい。それにわたしは熊本からこちらに来て長かばってん、40年にはなるばってん、最近はちっとも『ばってん』とは言わんばってんが、みんなはわたしがやたらと『ばってん、ばってん』言うと言わっせるばってんが、おかしかなぁ。

わたし『ばってん』ち言う?」

「・・・・・」

 

 『ばってん』談義はともかく、通帳を捜そうとご主人の訓練が終わった後、許可を得て部屋の中を細かく捜しました。

 サイドボード、小机、タンスの引き出し、状差し、洋服ダンスの背広のポケット、書類ケース、仏壇。タンスの衣類を引っ繰り返し、茶ダンスの食器を引っ張り出し、封筒の中を逐一確認し、本箱の本を引きずり出し・・・。けれども
結局見つかりませんでした。

 

 もともと〇さん夫妻は廃品回収業。

 お宝のような瓦落多が家の内外に山積みにされていました。二人であちこちの廃棄物を集めて、業者に出したり、中古自転車を修理して新品同様にしたりして生計を立てていました。〇さん修理の自転車は乗りやすいと指名買いがあるほどだったそうです。

 

 数年前、ご主人が脳血管障害で倒れられてからは闘病と介護に明け暮れるご夫妻。

 初めて訪問した時は、庭は廃棄物の山。自動車、自転車、単車、机、本箱、農機具、葦簾、絨毯、訳の分からない缶や箱など足の踏み場もないほどでした。

 

 しかしその後は奥さんが大活躍。

 家まで入浴サービス車を入れるために庭を片付け、車椅子の移動に便利なように部屋の中のものを処分しと、ご自身もあまり丈夫でないのに八面六臂の働きぶり。久しぶりに訪れたケースワーカーはその行き届いた整頓ぶりに感動していました。

 

 右手の機能と言語を失ってイライラしがちなご主人をなだめながら還暦を遠く過ぎた奥さんは全力投球の毎日。それが通帳を無くして困っていたのです。

 

 わたしと奥さんとで手分けして貯金通帳を捜しまくりましたがついに見つかりません。けれどもそのとき、代わりにとてもいいものを見つけてしまいました。瓦落多の中からお宝を発見したのです。

 

 一つは南米の蝶々の飾り。

 モルフォ蝶とかトリバネアゲハというきらきらと輝く翼を持った美しい蝶の飾りが壁に掛かっていました。何十匹の蝶を使った壁飾りは残酷で嫌いなのですが、確かにその光沢ある羽根は美しく、しばらく見とれて、疲れを忘れることができました。

 

 もう一つは懐かしい劇画。

 わが悩める青春時代に大評判だった時代を代表する作品、上村一夫の「同棲時代」です。

 この名作劇画は映画にもなりました。後に水戸黄門の入浴シーンでおじいさんたちのアイドルになった由美かおるが主演して美しい裸身を見せて話題に上りましたが、映画の出来は散々。結局、裸だけが売りでした。こういうことはよくあることです。

 

 わたしは20数年ぶりに出会った「同棲時代」に懐かしさを覚え、ぜひ売って欲しいと懇願して、結局、貰い受けました。どうしてもお金は要らないと言われたのです。しかし、もともとこれは〇さんの商売の品ですからそうはいきません。お金を受け取らないので代わりに次回に訪問したとき電気液体蚊取り器を差し上げました。

 なんせ家の裏が竹やぶ。ヤブ蚊がすごいのです。蚊取り器は自己防衛の意味もあります。蚊取り線香は煙でご主人が息苦しくなるので使えません。

 

 結局、その日は通帳を見つけることができないまま、次に訪問するお宅の約束の時間が大きく過ぎてしまいました。

 わたしは奥さんに

「もしかしたら洗濯物と一緒にタンスにしまい込んだ可能性があるからタンスの中の服をくまなく調べるように、もし今晩見つからなかったら、明日一番に農協にいって通帳のことを相談するように」

と指示してお宅を引き上げました。

 

 帰宅すると大学二年の娘がパソコンの前に座ってメールチェックなどしていました。

 目ざとくわたしが抱えた「同棲時代」を見つけると、

「同棲って憧れるね。嫌ならいつでも止められるからね」

と恐ろしいことをさらりと宣(のたま)いました。

「うん、若いということは、やり直せることかもしれないな」

「結婚したらそうはいかないもんね」

「やり直しができるからという気楽な思いから、逆に取り返しのつかないことをする。これも若さか・・・」

などとぶつぶつ呟きながら本を開き、25年ぶりに同棲時代を読みました

 

「同棲時代」

     上村一夫

 

愛はいつも

いくつかの過ちに

満たされている

 

もし

愛がうつくしいものなら

 

それは男と女が犯す

この過ちの美しさに

ほかならぬであろう

 

そして

愛がいつも

涙で終るものなら

 

それは

愛がもともと

涙の棲家だからだ

 

愛のくらし

同棲時代

 

 

 作者の上村一夫は昭和の絵師と呼ばれた劇画家。その線一本から匂い立つ妖しい魅力、高貴なエロティシズムは他の追随を許しません。

 

上村一夫

 

1940年(昭和15年)、横須賀生まれ。
武蔵野美術大学卒業後イラストレーターを経て1967年(昭和42年)「カワイコ小百合ちゃんの堕落」(月刊タウン)でデビュー1967年(昭和42年)「パラダ」原作・阿久悠(平凡パンチ)で本格的に劇画へ1986年(昭和61年)1月逝去。享年45歳

 

代表作 

同棲時代・関東平野サチコの幸・すみれ白書60センチの女・星をまちがえた女・怨獄紅・離婚倶楽部密猟記・乱華抄完全なる答案用紙・一葉裏日記・おんな教師・ゆーとぴあ・修羅雪姫・狂人関係・蛍子・菊坂ホテル・夢化粧・ヘイ!マスター・しなの川街の灯・バーボン警察蛍 妖艶篇・マリア・妄想鬼
 

 先月号の寺山修司が1935年(昭和10年)に生まれ、1983年(昭和58年)で没していますからほぼ同世代です。享年も47歳と45歳。才能は命を削るのでしょうか。

 

 
 久しぶりに「同棲時代」を読んでみてその暗さに辟易しました。

 これが劇画雑誌に連載されたのが1972年から73年にかけて。ちょうどわたしが19歳から20歳の頃で、今の娘の年齢です。

 当時は70年安保闘争に端を発する学生運動が浅間山荘事件で終焉を迎えた後の、若者が気力を喪失していた時代でした。その無気力さから「しらけの時代」と呼ぶ人もいます。

 

 国際問題として第四次中東戦争の影響からアラブ諸国による自主的な原油生産調整がなされ、世に言うオイルショックが起き、その影響で国内でもトイレットペーパーの買い占め騒動があったのが73年です。わたしも困窮してデパートのトイレのペーパーを余分に巻き取ってポケットに失敬したりしていましたが、そのころからペーパーホルダーに盗難防止のカギがかかるようになりました。

 

 そうした時代背景から若者の無気力さをすくい取って作品に仕立てたのが「同棲時代」だったのです。であればこそ時代を代表する劇画となったのでしょう。

 上村一夫の絵は日本的な線で、登場人物の顔も能面に通じるところがありますから、なおさら時代的な暗さや社会的な桎梏を漂わせています。

 

 しかし、登場人物の暗さは社会情勢だけが原因ではありません。

 当時の社会通念として同棲は罪悪として主人公の若い女性を苦しめます。今日でも同棲は勧められるものではありませんが、結婚前のワンステップとして以前ほど冷ややかに見られることはないでしょう。でもこの当時はまだまだ歴史を引きずった倫理観が厳しかったのです。

 

 劇画の中のでは恋人でも夫婦でもないという中途半端な関係に若い二人が自己嫌悪に陥るほど悩み、苦しみ、落ち込み、周囲からは冷ややかに見られ、彼女はついに精神を病んでしまうのです。とても娘が憧れるような甘い同棲生活は描かれてはいません。


 当時、もう一つ、同棲を思わせる時代的なヒット曲があります。それは 

「神田川」

     喜多条忠作詞・南こうせつ作曲

 

貴方は もう忘れたかしら

赤い手拭い マフラーにして

二人で行った 横丁の風呂屋

一緒に出ようねって

言ったのに

いつも私が 待たされた

洗い髪が 芯まで冷えて

小さな石鹸 カタカタ鳴った

貴方は 私の身体を抱いて

冷たいねって 言ったのよ

若かったあの頃

何も怖くなかった

ただ 貴方のやさしさが

怖かった

 

貴方は もう捨てたのかしら

二十四色の クレパス買って

貴方がかいた 私の似顔絵

巧(うま)くかいてねって

言ったのに

いつもちっとも 似てないの

窓の下には 神田川

三畳一間の 小さな下宿

貴方は 私の指先見つめ

悲しいかいって きいたのよ

若かったあの頃

何も怖くなかった

ただ 貴方のやさしさが

怖かった

 

 南こうせつの繊細な歌声がバイオリンの伴奏とともに連日テレビやラジオから流れ、こうして同棲が隠微な存在から白日の下に出てきたのではないでしょうか。

 

 友人と二人、東京で行われる地上最強の空手、極真会館主催第五回日本空手道選手権を東京まで見に出かけたのはこの頃でした。

 

 友人の友人が住む下宿は杉並にあり、地下鉄を下りて探していたら、汚いどぶ川がありました。欄干には「神田川」と書かれており、このゴミと生活排水で汚染した小川がかの名曲に出てくる神田川かと驚きと感慨で欄干に彫られた文字を撫でたものです。

 

 友人の友人の下宿はいわゆる下宿屋。真ん中に廊下があり両側に部屋がずらりと並ぶもの。トイレと洗面所は共有。

 夕方訪れたものの友人はおらず、仕方がないので隣人にドライバーを借りてカギを外しておりましたら、そこへ楚々とした同世代の美女がやってきて、すれ違いざま目礼をして奥の部屋に入って行きました。玄関を振り返ると朱塗りの下駄が揃えてあります。男二人は呆然と彼女の消えさった薄暗い空間を見つめていました。

 

 主のいないまま部屋に上がり込んだわたしたちは冷蔵庫から食い物を出しては喰い散らかし、飲み物を出しては飲み散らかし、いつしか万年床で眠ったのでした。

 

 翌朝、空手大会を見るために下宿を出るとき、玄関にきれいな朱塗りの下駄が昨夜のまま揃えてあります。

「あ、昨夜の美人の下駄だ」

「ということは野郎の部屋に泊まったんだな」

「これが世に言う通い同棲かな」

「うむ、若い男女が不謹慎だ。天誅を加えよう」

 もてない男二人連れは公憤・義憤にかられ、おのおの朱塗りの下駄を手にすると表の神田川に放り投げたのでした。

 朱塗りの下駄は放物線を描いて川面に落ちるとしばらくその場に漂いながらしずかに流れ去っていきました。

 こうしてわたしと友人は善を成した後の快感を胸に意気揚々と空手会場に向かったのでした。

 

 この話を娘にしたところ初めはまったく信用しませんでしたが、本当だと知ると今度は変態おやじと軽蔑の目を向けられてしまいました。

 

 神田川に放物線を描いた朱塗りの下駄。

 わが青春の痂皮(かひ・かさぶた)として今でもときどき疼くのです。

 

若かったあの頃

何も怖くなかった

ただ 貴方のやさしさが

怖かった

 
 この歌のヒット以後、若者は「しらけの世代」から「やさしさの世代」と呼ばれるようになりました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No,115 1999,7,1 寺山修司

寺山修司

 

-少年時代にわたしがもっとも熱中したのは俳句を作ることであった-

寺山修司「次の一句」より

 

 

寺山修司って誰?

 

 もう七年ほども前のことになります。

 大学院で英文学を専攻している23歳くらいの女性が来ました。紹介者はわたしの指圧の生徒で、当時、彼女が英会話を習っていたカナダ人です。

 

 彼女はカナダ人教師から次のような苦言を呈せられました。

 

 「自分はカナダの大学で東洋哲学、特に日本のキタロー・ニシダやダイセツ・スズキ、それに禅を勉強した。それで日本文化に憧れて来日したけど、日本の若者はアメリカの文化にばかり興味をもって、日本古来のものには関心を示さない。これはとても残念なことだ。そんなことで英会話が上手になっても意味がない」

 

と。さらに続けて

 

 「自分の指圧の先生は日本の文化である指圧や武道、俳句などに詳しい。もともと日本の今日的発展もそうした伝統という土台の上に成り立っているのではないか。君も一度指圧の先生に会ってみたらどうか」

 

 そこで彼女は指圧などには全く興味がないにもかかわらずのこのこやって来た次第。

 

 彼女は英文学、中でもフォースターを専攻していると言っていました。フォースターは異文化協調の困難さをテーマにした「インドへの道」で知られたイギリスの作家です。残念ながらわたしはその映画こそ見ましたが本は読んでいません。

 

 彼女はなぜわたしが俳句などに興味があるのか。何歳からやっているのか聞きました。

 

 「俳句はね、誰でも学校で習うじゃないですか。宿題で作らされたり。ぼくはそれが嫌でね。

 

  冬の夜俳句作りの指を折る

 

 これは中一のとき、宿題で出されてイヤイヤ作った俳句。先生が三島らしいと呆れていたな。だけどそのとき、なぜか興味を持ったんだね。特に関心を持った点は五七五の調べと最も短い形式ということかな。

 あなたは文学部に入ったほど文学好きだから、受験勉強のとき国語の問題に短歌や俳句や詩がでてきたら作品の世界に引きずり込まれてしまったでしょう。

えっ、そんなことないって。受験は受験か。うーん、だから君は優秀な大学に入れたんだね。ぼくはそこで勉強ストップ。成績が悪かったわけだ」

 

 彼女はきょろきょろした目で変なことをいうおっさんだなとわたしを見つめていました。

 

 「決定的だったのは高校三年の校内模試。国語の問題になんと放浪の俳人として知られる山頭火が出題されていたんだ。

 

 しぐるるや死なないでゐる

 うしろすがたのしぐれてゆくか

 この旅、果もない旅のつくつくぼうし

 分け入つても分け入つても青い山

 

 こんなのが問題文の中にあってすっかり興味を抱いてしまってね。俳句がすっかり好きになった。それから数年して山頭火の大ブームが起きるんだけどね。

出題した先生は先見の明があったのかな」

 

 「山頭火なら知っています」

 

と彼女はうなずきました。

 

 「それできちんと俳句を勉強しようと大学に進んでからある有名な俳句結社に入ったんだ。以後、何回かの中断を経て今も細々と作っている。ま、簡単に言えばそういうこと」

 「若くから作っておられるのですね。でも、俳句ってどこか年寄り染みてませんか」

 「俳句の先生には高齢者が多いからね。でも彼らだって始めたのは中学のころだよ。俳句は若いときから始めて、年齢とともに深めていくものだから。結果として一般の人の目に触れるのは高齢者の作品になる。でも、あの寺山修司だって文学的出発は俳句なんだ。彼が中学から高校のころだよ」

 「寺山修司って誰ですか」

 「知らないの、君。テラヤマを・・・」

 

 寺山修司(1935~1983)が亡くなって10年近く経っていたものの、まさか文学部修士課程に席をおくほどの才媛から、いかに専門外とはいえ、このことばを聞こうとは思いませんでした。まずは唖然と、さらには呆然としました。

 

寺山修司

 劇作家・歌人・俳人。昭和一〇(一九三五)・一二・一〇~昭和五八(一九八三)・五・四、四七歳。青森県生れ。一〇代で俳壇・歌壇に登場。劇団「天井桟敷」を核に多彩な前衛活動に挺身。句集「花粉航海」(昭五〇)、句文集「寺山修司俳句全集」(昭六一)ほか。句「父を嗅ぐ書斎に犀を幻想し」

川名大(俳文学大辞典・角川書店)より

 

 わたし自身、雑誌のエッセイなどを読んだ程度で、取り立てて言うほどの寺山修司の読者ではありませんでした。しかし、彼は60年代後半から70年代を象徴する一種の社会現象として知っていましたし、彼の名前は嫌でもどこかから目に入ってきたものでした。

 アングラ演劇、ラジオ放送、競馬評論、映画、流行歌・・・往時の文化的旗手としてジャンルを超えて精力的に活動していました。

 今はつまらないテレビタレントになってしまったタモリも、デビュー当時は寺山修司のモノマネで受けを取っていたものです。それはただの口真似ではなく、思想をちゃかす見事なものでした。

 

 しかし、こうも考えられます。

 むしろ寺山修司は社会現象であったればこそ、没後わずか10年ほどで知られぬ存在になったとも。昭和の石川啄木を目指した彼は、啄木が今日すでに忘れられかけた存在であるように、社会の変化とともに消え去るのでしょうか。

 

年譜

 

寺山修司

 

昭和10年、弘前市に生まれる。

5歳(昭和16年) 父が出征。

9歳(昭和20年) 九月二日父が外地で戦病死。

 中学時代俳句に熱中。

16歳(昭和27年) 全国の十代の俳句誌「牧羊神」創刊。中村草田男や山口誓子などの著名俳人の知遇を得る。

18歳(昭和29年) 早稲田大学教育学部国語国文科入学。「チエホフ祭」で「短歌研究」新人賞受賞。このころからたびたび腎臓病で入院、宿痾となる。詩も書き始める。

23歳(昭和34年) 谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書き始め様々な賞を得る。

24歳(昭和35年) 戯曲「血は立ったまま眠っている」が劇団四季によって上演。実験映画「猫学Catlogy」監督。小説を「文学界」に発表。テレビドラマを書く。早稲田中退。

25歳(昭和36年) ボクシング評論。以降戯曲、詩、ラジオドラマ、テレビドラマ、歌集などを次々発表。

27歳(昭和37年) 女優九条映子と結婚。

 久保田万太郎賞や芸術祭奨励賞、イタリア賞グランプリ、芸術祭賞、放送記者クラブ賞、ヴェネチア映画祭短編部門グランプリなど数々の賞に輝く。

31歳(昭和42年) 演劇実験室「天井桟敷」設立。

33歳(昭和44年) 天井桟敷館完成。作詞したカルメン・マキの「時には母のない子のように」が大ヒット。

34歳(昭和45年) 離婚。マンガ「あしたのジョー」のライバル力石徹が作中で死んだことを受け葬儀を挙行、喪主となる。

35歳(昭和46年) 脚本、監督を担当した「書を捨てよ町へでよう」がサンレモ映画祭グランプリ。以後パリ、オランダ、ドイツ、イラン、アテネ、ベルギー、スペイン、アメリカなどで世界的に活動する。

47歳(昭和58年) 五月四日、敗血症で死去。

 

 こうして寺山修司はジャンルの垣根と時をあっさりと擦り抜けて、多くの天才がそうであったように夭折してしまったのです。

 

十七回忌

 

 今年は寺山修司の十七回忌。月刊俳句総合誌「俳句現代(角川春樹事務所刊)」は六月号で総力を挙げて寺山修司を特集しています。一冊まるごとが個人の特集になるのは俳句雑誌では極めて異例のこと。

 これは寺山修司を時代に埋没させたくない、時代の流れの中で風化させたくないという多くの人々の願望の結晶のような特集でした。

 

寺山修司と俳句雑誌

 

 この組み合わせに戸惑いを覚える方もあるでしょう。

 天井桟敷の劇作家として、カルメン・マキのヒット曲「時には母のない子のように」や人気アニメ「あしたのジョー」のテーマ曲の作詞家として、あるいは「田園に死す」の映画監督、その他エッセイストで競馬評論などの寺山修司はよく知られていても、寺山修司と短歌や俳句はミスマッチの気がします。何よりあの前衛アングラ劇団を率いた寺山修司が伝統的アナクロ(時代錯誤)の俳句や短歌を作っていたなんて信じられない、と思われるに違いありません。

 

 しかし冒頭に書いたように寺山修司の文学的出発点は俳句でした。その後、短歌に転向。以後さまざまな世界を駆け抜けていきます。しかし、俳句や短歌には二度と戻っていません。

 

 俳句や短歌に溢れるみずみずしい抒情か次第に土俗的なものに移行するにしたがって、寺山修司の思いを短い形式に押し込むことは困難になったのでしょう。ドラマや劇や映画に活動の場をシフトしたのです。

 

 そんな彼が晩年、病気のために体力の衰えを自覚したとき、もう一度俳句に戻りたいと友人に語り、雑誌のタイトルまで考えながらも不帰の人となりました。彼にとって俳句は出発点であり帰結点だったのでしょうか。懐かしい精神の故郷であったのかもしれません。

 

俳壇との確執

 

 俳句と寺山修司の組み合わせの意外性には別の確執があります。

 俳句の世界では寺山修司アレルギーがまだ蔓延しており、ベテランの中には寺山修司嫌いの俳人が大勢います。昭和52年に角川書店が発行した「現代俳句辞典」には寺山修司の項目はありません。昭和53年刊の「現代短歌辞典」にはあるにもかかわらずです(前出の平成七年版「俳文学大辞典」には記載)。

 その理由の一つは知名度に比して俳句界での実績の無さでしょうが、もう一つ大きな原因は次のことに違いありません。

 

向日葵の下に饒舌高きかな人を訪わずば自己なき男 修司

人を訪はずば自己なき男月見草 中村草田男

 

莨火を床に踏み消して立ち上がるチエホフ祭の若き俳優 修司

燭の火を莨火としつチエホフ祭 中村草田男

 

かわきたる桶に肥料を満たすとき黒人悲歌は大地に沈む 修司

紙の桜黒人悲歌は地に沈む 西東三鬼

 

わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る 修司

わが天使なるやも知れず寒雀 西東三鬼

 

マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや 修司

一本のマッチをすれば海は霧 富沢赤黄男

 

胸にひらく海の花火をみてかえりひとりの鍵を音立てて挿す 修司

ねむりても旅の花火は胸にひらく 大野林火

 

 いかがでしょう。寺山修司は草田男や三鬼や赤黄男や林火などの俳句を下敷きに自分の短歌を作り上げてしまいました。当時、これを剽窃と非難する人が多かったのです。中には和歌の伝統である本歌取りであるとか、全く別の世界を構築し得ているので素晴らしいという評をした人もありました。

 

 「俳句現代」で俳人の角川春樹と歌人の岡井隆が対談しています。その対談で岡井は次のように述べていますが、わたしも同感です。

 

 「膨大な短歌・俳句というものは、古代からあって、その中に我々が付け加えるのは、ほんの一歩の新なのだから、それに我々、腐心してて、ようやく考えてみたら至る所に、人のラベルが貼られている言葉がいっぱいあるんだけど、それをどうやってモンタージュして自分の世界を作るか。

 

 そういうことをやっているのが定型詩の世界で、寺山さんはたまたま目立つことをやっちゃったものだから、いろいろ言われるけど、結構モンタージュ上手いよ」

 

 歌の世界では好意的に評価され、俳句では阻害されているのは歌人のこうした柔軟性がかかわっているのか、あるいは真似されたのが俳句だから被害者意識が強いのか・・・。もっとも現在の若手俳人は旧来の俳句にはない寺山修司の作品のみずみずい抒情を好意的に愛しているようです。

 

 今日でも俳句は似ている発想の句が先行する場合、自分の句は引っ込めるのがルールとされています。その点からはこれは許されない行為であり、天才寺山修司だけに認められた特例でしょう。しかも先行作品とは別の世界を築き上げなければなりませんから、誰にでもできるものではありません。

 

 こうした別の作品をモチーフに自分の世界を築き上げることは、自分自身の俳句から短歌への移行という形でも行われており、彼は作品のオリジナリティに関する考え方が少し異なっていたようです。

 彼は人生そのものを虚構としたかったと考えることも可能です。そこに不思議なあるいは怪しい魅力を感じるのです。

 

わが通る果樹園の小屋いつも暗く父と呼びたき番人が棲む 修司

父と呼びたき番人が棲む林檎園 修司

 

海を知らぬ少女の前に麦藁帽のわれは両手をひろげていたり 修司

夏井戸や故郷の少女は海知らず 修司

 

ころがりしカンカン帽を追うごとくふるさとの道駈けて帰らん 修司

わが夏帽どこまで転べども故郷 修司

 

夏蝶の屍をひきてゆく蟻一匹どこまでゆけどわが影を出ず 修司

影を出ておどろきやすき蟻となる 修司

 

 作品の評価だけからすれば前述の岡井隆さんの意見がまっとうですが、俳句を作ることは自分自身の世界を深め、改めていくことであると考える多くの俳人には許しがたいことであることもまた、確かです。

 

 寺山修司の才能は換骨奪胎にあると言っても過言ではないでしょう。彼は俳句に止まらずあらゆる現実をもとに虚を構築し、ついには自分自身の人生を虚とすることで寺山修司という実在者を永遠とすることに成功したのです。

 

寺山修司の俳句と短歌・詩

 

 さて、こんな話には興味のない方も以下に紹介する寺山修司の俳句や短歌をご覧になればその世界の鮮度がまだまだ落ちていないことは肯えるものと確信します。

 初々しいと言える程の抒情は今までの俳句にはなかったもので、若い人がこうした作品を読むと俳句への印象が異なってくることでしょう。

 彼の作品は今までの俳句とは相当印象が異なると思います。しかし俳句から大きくはみ出してもいません。そこにこれからの俳句の息吹が感じられます。

 

昭和二六年から三二年

 

流すべき流灯われの胸照らす

軒燕古書売りし日は海へ行く

便所より青空見えて啄木忌

大揚羽教師ひとりのときは優し

詩人死して舞台は閉じぬ冬の鼻

いまは床屋となりたる友の落葉の詩

林檎の木ゆさぶりやまず逢いたきとき

目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹

       (あをすぶ)

ラグビーの頬傷ほてる海見ては

同人誌は明日配らむ銀河の冷え

 

花粉航海(昭和五〇年)

 

秋風やひとさし指は誰の墓

螢来てともす手相の迷路かな

かくれんぼ三つかぞえて冬となる

心中を見にゆく髪に椿挿し

黒髪が畳にとどく近松忌

     *

父ありき書物の中に春を閉じ

 

「空には本」(昭和三三年刊)

 

森駈けてきてほてりたるわが頬をうずめむとするに紫陽花くらし

とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を

そら豆の殻一せいになる夕母につながるわれのソネット

煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし

ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲はかくまでにがし

一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき

向日葵は枯れつつ花を捧げおり父の墓標はわれより低し

 

 「田園に死す」という歌集からは土俗的な傾向が深まります。これも寺山修司の大きな特徴です。その後、彼は演劇に活動の拠点を移し、歌わぬ歌人となりました。

 

「田園に死す」(昭和四八年刊)

 

大工町寺町米町仏町母買ふ町あらずやつばめよ

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きにして枯野ゆくとき

間引かれしゆゑに一生欠席する学校地獄のおとうとの椅子

かくれんぼの鬼とかれざるまま老いて誰をさがしにくる村祭

地球儀の陽のあたらざる裏がはにわれ在り一人青ざめながら

 

 俳句は中学・高校で止めたとは本人の言ですが、一説には三〇歳を過ぎても書き続けていたとも言います。

 この辺りの脚色性こそ寺山修司の世界なのです。

 

 こうして青春の抒情から土俗的な生存への深みへと関心を移した寺山修司は亡くなる前年、朝日新聞に次の詩を発表します。ここには死を自覚した者の思いの深さが伝わってきます。

 

  懐かしのわが家

 

昭和十年十二月十日に

ぼくは不完全な死体として生まれ

何十年かかゝって

完全な死体となるのである。

そのときが来たら

ぼくは思いあたるだろう

青森市浦町橋本の

小さな陽あたりのいゝ家の庭で

外に向つて育ちすぎた梅の木が

内部から成長をはじめるときが来たことを

子供の頃、ぼくは

汽車の口真似が上手かつた

ぼくは

世界の涯てが

自分自身の夢のなかにしかなかつたことを

知つていたのだ

 

読み継がれる寺山修司

 

 冒頭の女性はその後寺山修司の本を何冊か買い、ファンになりました。

 若い人たちにも確実に読み継がれているようです。彼は決して社会現象としては終わらないでしょう。

 むしろ前衛的な劇や映画は忘れられても伝統に根をはった俳句と短歌はその命脈を長く保つものと信じます。それは逆に彼にとっての宿命かもしれませんが。

 

 寺山修司没後、歌人の全国的な集まりで寺山修司作の劇「新・病草子」を春日井健(歌人)の演出で観ました。その帰り道、短歌を作りました。

 

歯冠まだ馴染まざりせば舌で嘗め寺山修司の青き劇観る

 

 劇中の寺山修司の世界には惹かれるもののなぜか説明不能の違和感を覚えずにはいられませんでした。それは治したばかりの歯の違和感とどこかで共鳴しあっていたのです。

 

 平成九年、青森県三沢市に寺山修司記念館がオープンしました。

__________________________________

 

 今月は俳句現代(角川春樹事務所)1999年6月号と俳句α(毎日新聞社)創刊2号、および俳句結社誌「藍生」にわたしが書いた文を参考にしました。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信   No,114 「大陸移動説その2」

大陸移動説(その2)

 

 先月号に続いて「大陸移動説」を取り上げます。

 先月号ではウェゲナーというドイツの気象学者が地図を見て南アメリカとアフリカがジズソーパズルのようにつながるのではないかという閃きから「大陸移動説」を唱えたこと、その証明のために古生物学をもってきたことまでを書きました。

 「大陸移動説」とはもともと一つであった大陸が何らかの原因で移動して今日の形になったというものです。

 ウェゲナーは実に膨大な論文を、それも幅広いジャンルにわたって渉猟し、直感的に思いついた「大陸移動説」を科学として成立させようとしました。

 

 また先月号では、わたし自身が大学の一般教養でこの論に触れ、「学問の面白さ」と「学問する面白さ」を学んだとも書きました。その面白さを分かち合いたいと思います。

 

 今月は先月号に続けて「大陸移動説」の衰退と再生について説明します。
 少しむつかしい内容になりましたが、むつかしいところは本当はわたしもよく分からないところですから、あまり気にしないで読み進めてください。

 

 では、「大陸移動説」はその後どういう経緯を辿るのか、はてさて、その消息や如何。

 

(註:「」で囲んである文章は岩波新書「新しい地球観 上田誠也著」からの引用です)

 

-----------------------------------

 

氷河の痕跡(地質学)

 

 地質学者の間では南アメリカのブラジルとオーストラリア南部、赤道に近いアフリカやインドに氷河の痕跡があることが知られていました。しかしなぜ赤道に近い暑いところに氷河があったのか謎でした。

 驚くべきことに、この問題に対してはウェゲナーの「大陸移動説」により、氷河の痕跡地帯はもとは南極を中心にしたひとつの大陸であったと推定すれば実にあっさりと解決してしまいます。

 

山脈の生成(地質学)

 

 山脈がどうしてできたか。

 かつては、地球という火の玉が冷えて収縮し、その襞が山脈になったという説が通説でした。つまり水気の抜けた夏蜜柑のようなものです。しかしそれはどうも物理的に不合理であると分かりました。なぜなら、それほどの収縮は何千度もの冷却を必要とするからです。

 

 そこで我がウェゲナーはおもしろい仮説を唱えます。

 「地層の褶曲(シュウキョク。布にできたシワのように曲がること・・三島)を起こすのには収縮はいらない。大陸が移動すれば、その前面は抵抗を受けて褶曲を起こすだろう。あたかも水上を走る船の舳先に波が立つように。大西洋を後ろに開きながら西進してきた南北アメリカ大陸の西海岸部に連綿と連なるロッキー、アンデスの山並みがまさにそれである。また、ゴンドワナ大陸(現在の形に移動する前の仮定された南半球の大陸の名前・・三島)の分裂に伴って北進したインド大陸が、アジア大陸にぶつかって褶曲を起こしたものが、ヒマラヤの峰々である」

 

 これがわたしが車を走らせながら八ヶ岳や南アルプスを見て思いを馳せた部分です。

 わたしはアイロンがけでよくシワ(山脈)をこしらえてしまいますが、これも「大陸移動説」と同様の褶曲です。

 

大陸を動かす力(地球物理学)

 

 「なにがどう働いて、大陸が何千キロメートルという距離を動いたかという問題、すなわち大陸を動かす原動力の問題」は困難なものでした。ウェゲナーもそれはよく承知して、この問題を解決しないことには「大陸移動説」は近代科学足りえないと考えていました。

 彼はそこに苦慮して地球の自転による遠心力などと仮説を唱えましたが、地球物理学者たちに一蹴されてしまうのです。

 これが彼の学説の致命的欠陥でした。

 

大陸移動説の死

 

 ウェゲナーの「大陸移動説」は

 

 1 大陸を動かす原動力に対する説明に欠けている

 2 当時の常識である地球が固いという根深い地球観

 3 地球の高温起源説(当時の正統)なら地球のやわらかい初期に移動するべきで、固くなった今日に移動するとは思えない

 

という否定的意見を覆すには至りませんでした。

 

 こうして「大陸移動説」は1910年頃にウェゲナーの手によって世に出て1930年代には忘れ去られてしまいます。1930年にはウェゲナーも50歳で没してしまいます。

 

大陸移動説の再生

 

 ところが1950年代、ウェゲナーの死後20数年を経て「大陸移動説」は復活します。それは地磁気の移動の問題が明らかにしたものですが、これの説明は繁雑で難しくなります。

 

地球は電磁石(地磁気学)

 

 簡単に言えば、地球はスイカのように殻(地殻)があり、「中はほぼ2900キロメートルの深さまではマントルと呼ばれる固体の層になっている。それより深い部分(核)は流体の状態にあり、さらにいちばん深い部分、1000キロメートルぐらい(内核)は、再び固体になっていると考えられている」

ということです。

 

 地球のこの構造から地球は電磁石なっていることが分かりました。つまり 

 1 地球の核が金属程度に電気を通す物質であること

 2 その物質が流動状態であること

 
 これらは地球自体が発電機として働くための必要条件です。 これによって地球に磁極ができます。

 

磁極の移動と大陸移動(地磁気学)
 

 イギリス人学者たちの詳細な岩石調査により古代の地磁気の移動状態が解明されました。その動きは「約三億年前には、磁極の位置は現在の北極からはるか離れて、日本列島あたりにあったし、さらに六億年ほど前にはもっと離れて、南太平洋にあった。この現象は磁極の移動、あるいは極移動と呼ばれた」という驚くべき事実です。

 

 今の極は誰でも知っているように北極を指しますが昔はどうも違っていたようなのです。ここは天才バカボンのパパみたいに「不思議だが本当だ」と言うしかありません。

 

 この詳細な調査はイギリス人学者によって、当時失われつつあった英国植民地に於いて大変綿密に行われたそうですが、同様に北米大陸でも行われました。

 北米での調査結果とヨーロッパでの調査結果を対比したところ、極を示す軌跡がとてもよく似ていることが判明しました。

 

 しかも「二つの曲線は傾向がほぼ一致しているにもかかわらず、厳密には一致していないことに注目するだろう。このずれはどうやら系統的なずれのように思われる。この結果をにらんだランコーンは、一つのひらめきを得た。そしてそれが大陸移動説復活の、大きな鍵となったのである」。

 

 こうして一旦は死んだ「大陸移動説」は再び学者たちに脚光を浴び始めることになったのです。

 

 ふたつの曲線のずれは約30度。

「その動いた分だけ適当な補正をしなければ、ほんとうの極の軌跡は求められない。このように考えて、北米大陸を東のほうへ30度ほど戻してやる。そして二つの極移動の軌跡を一致させてやると、まことに見事なことであるが、大西洋はほとんど存在しなくなり、北米大陸とヨーロッパ大陸は、ほぼくっついてしまう」と、極移動の調査はウェゲナーの復権を予見させるものでした。

 

 さらに「地質時代的に見ても、古地磁気学の結果はウェゲナーのいった大陸移動の歴史(それは主として古生物学的な証拠に基づいて行われたものであるが)と、きわめてよい一致を見せた」のです。

 

 ここに至ってパズルゲームの思いつきが現代科学の装いを帯びて復権したのでした。

 

マントル対流(地球物理学)
 

 1930年代、動きの原動力の説明ができなくて滅んだ「大陸移動説」ですが、実はそのころからひとつの原動力説がありました。それは「マントル対流論」です。これはアーサー・ホームズという学者が唱えたものです。

 当時、すでに固体であると立証されていたマントル(地球の地殻から核までの層。梅干しでいうと果肉の部分)も本当はゆっくりと対流する性質を有している、その対流が大陸移動の原動力であるというものです。

 

 対流とは温度差によって流動現象が起こるもので、卑近な例を上げれば味噌汁の中の溶けた味噌や具がぐるぐる回っているのがそれです。あるいはストーブを点けるとタバコの煙が渦巻いて動き出すことなどで知ることができるでしょう。無論今のファンヒーターではありません。この旧式のストーブのことを対流式と言いますがこれは年配の方ならご存じですね。

 要するに、「マントル対流論」とは地面の下でマントルというどろどろの溶岩が味噌汁の味噌のようにぐるぐる回っていると考えればいいのです。

 

 「もしマントル内の流れが巨大大陸の真中で上昇してきて、左右に分かれるとすれば、その巨大な大陸はそこで割れて、両側に離れ去り、離れ去ったあとには海が広がっていく。それがまさに大西洋であるとホームズは述べて」います。

 

中央海嶺(海洋地底学)

 

 レーダーなどの測定器の発達により、海底探索の技術が急速に進歩して、海底のようすがあたかも陸上を観るように知ることができるようになりました。

こうした技術進歩とそれによる調査結果も大陸移動説を大いに支えることになります。

 

 ハリー・ヘスという学者は「中央海嶺(大洋の中央にある海底山脈)はマントルからの物質の出口、つまりベルト・コンベア(地中からマントルが吹き出して噴水のように左右に分かれて、ベルト・コンベアのようにどんどん移動していく)が地表にあらわれてくるところである。

 そしてそこではあたらしい海底地殻が誕生する。誕生した海底は、海嶺の両側にひろがり、海溝(海底の谷)にいたるとそこでふたたびマントルに沈みこんでゆく。

 流れの速さ、すなわちベルト・コンベアのスピードは、種々の根拠から年間約数センチメートルであると考えられるので、中央海嶺で湧き出した海底が大洋を横断して、海溝地域で再び沈み込んで行くまでには、2-3億年しかかからない」と述べています(括弧内の説明は三島による)。

 

 毎年数センチずつハワイが日本に近づいていて、いずれは日本領になるという俗説はここに因ります。でも日本に近づけば常夏の島ではなくなるので残念です。

 

 このベルト・コンベアによる速度は海底の「堆積物の厚さが海が何十億年も存在したにしては、まったく薄すぎることなどに、合理的な説明をあたえるもので」した。

 

海底テープレコーダー(古地磁気学)

 

 ここらから難しくなります。でも食らいついてください。

 

 「高温であったマントル物質が中央海嶺において新しい海底となるときはキューリー点(磁石は熱するとある温度を越えた段階で磁石の性質を無くす。その温度のことを発見者ピエール・キューリーにちなんでこう呼ぶ・・三島)を通って温度が降下する。

 その時に地球磁場が北を向いたり南を向いたりしているとするならば、ある時期に生まれる海底は全部北向きに磁化するし、次の時期に生まれる海底はすべて南向きに磁化することになる。そのような過程で拡大が進めば、南北交互に逆向きに帯磁した縞目が広がっていくことは当然の論理的帰結である。

 今までベルト・コンベアーにたとえられてきた拡大する海底は、同時にテープレコーダーであるということになる。マントルからでてくる海底地殻は磁気テープであって、それには地磁気逆転の歴史が録音されている」ことになるのだそうです。

 

 さらには海底土という海底堆積物にも正逆交互の磁気変化が発見されここで地磁気の歴史の三位一体が解明されることになりました。

 三位一体とは

 1 世界の火山岩の残留磁気

 2 海上地磁気の縞模様(幅何十キロ・長さ何百キロメートル)

 3 海底土の磁気(長さ10メートル位)

の三つをいい、この発見は当時の学者たちに深い感銘を与えました。科学とは無味乾燥な冷たいものではなくこうした感銘の集積なのでしょう。それが方法(技術)として一人歩きすると時にとてつもなく恐ろしい存在になるのです。

 

 さてここからはもっと難しくなります。あっさりと済ませましょう。

 

プレート・テクトニクス

 

 この名称は大きな地震があったときなど、テレビや新聞の解説に出てきますからよくご存じでしょう。

 簡単に言えば地球の表面は何枚かの大きなプレートから成り立っており、それが移動しつつ互いに干渉し合っているということです。

 

 「新しい地球観」には「プレート・テクトニクスでは、二つのプレートを境するのは海嶺と海溝とトランスフォーム断層(ふたつのプレートがずれ動く境界・・三島)の三種の構造」からなり、その性質はこれらの構造を「幾何学的な一般論で展開」すればいいと書かれていますが、要するにそういうことです。

深い追求は止めましょう。

 簡単に言ってしまえば、大陸はプレートという薄い板に乗っかって動いていて、プレート同志が干渉しあうとき地震なども起きるのです。

 

 日本の海底型地震はマントルが日本海溝に流れ込むときのエネルギーの蓄積の排出とも言われています。活断層による阪神大震災はまた別です。

 

日本列島(火山帯)の成立

 

 日本列島は日本海溝で沈み込むプレートが作り出す摩擦熱で火山帯が形成されたという説があります。そうすると日本の山は皺ではなく、腫れ物と考えた方が良いでしょうね。

 

 以上が「大陸移動説」の概要です。後半は難しくなり過ぎました。

 

 一つの説が生まれ、否定され、再生するには一人の卓越した科学者の情熱だけでなく、多くのジャンルを越えた学者の努力と、科学技術の進歩がありました。それでも、まだ、細かな点で矛盾も多く、「大陸移動説」は決定的なものではなく、壮大なロマンを秘めた仮説なのです。

 なにしろ地球単位の時・空間は悠久かつ雄大。立証も実験も困難です。考古学や天文学同様、科学者のロマンによるところが多い学問と言えるでしょう。

《後記》


 指圧と空手を習っている若きカナダ美人Dさんに大学では何を専攻したのかと尋ねましたら

 「human geography」

と答えました。

 「ヒューマン・ジオグラフィ。人間の地理学? それは何? 例えば胸が山でおなかが平野で・・・」

 「NO~!!!」

きれいな眉をきりきり吊り上げて叱られてしまいました。

 

 human geographyは人間の地理学ではなくて人文地理学でした。人文地理学とは広辞苑によれば「地表上の人文現象すなわち人口・集落・産業・交通・文化などを地域特性の構成要素として考察する学問」だそうで、自然地理学(natural geography)の対立概念のようです。決して人体上に地理的要素を見いだす学問ではありません。

 

 けれども人体を地球と置換して考えれば地球に「大陸移動説」が存在するように身体でも移動が見られます。即ち年々歳々、皮下脂肪がマントルのように移動していると思われるのです。否、移動ではなく重力に従って下降しています。すると「体脂肪下降説」が医学の一部として成立するかも。

 

 しかしたとえ真理がそうであっても、ゆめゆめ「胸が山で、脂肪が移動して、おなかが小高い丘になって・・・」などと指さして口に出さないように。我が良識に鑑みて判断するに、それはとっても失礼なことだと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信   No,113 「大陸移動説その1」

1999,5,1


 大陸移動説(その1)

 
 それは悠久な地球的時間の中で絶対に不動と思われた大陸が実は刻々と浮遊しているという説です。

 

 もともとは一つの大陸だったものがしだいに移動して今日の地図のような配置になったという意外な学説。地震のメカニズムの証明に役立つことで有名になりましたが発表当時の人達には地動説にも匹敵する驚きだったことでしょう。

 細かなことはすっかり忘れてしまいましたが壮大な時間と空間にわたるこのテーマは地質学や地球物理学を越えて古生物学や海底学、地磁気の問題もはらむ総合科学であったと記憶しています。

 
 学生当時、教養課程で使用したテキスト、岩波新書「新しい地球観(上田誠也著)」。1971年初版。わたしが高校生の時に出版されています。あらためて引っ張り出してみました。
 

 古ぼけた本には重要な所に線がいっぱい引いてありました。これは好都合。

 わたしは全くのグータラ学生で部室以外へはほとんど顔を出さず、行っても講義は受けず、教授と学問しあう専攻していた経済学のゼミでさえ出席していないにもかかわらず、なぜかこのテキストだけは鮮明に記憶しているのです。

 なぜそうなのか考えてみるとその理由は明らか。
 わたしはこの講義からは大陸移動に関する知識だけでなくジャンルを越えて縦横に絡み合う「学問の面白さ」と真理を探究すること、すなわち「学問する面白さ」を学んだような気がするのです。しかしそれほどの興味をもちながらも結局は「学問する心」が育たず今日に至ってしまいました。まさに「少年老い易く、学成り難し」です。今ではその一般教養の教授の名前すらも覚えていません。
 
 さて、では学生に戻った気分で「大陸移動説」の分かりやすいところを紐解いていきましょう。簡単にはしょります。細かく検討したらとても手に負えるものではありませんから。

 そもそも「大陸移動説」とは一体どういうものなんでしょう。「新しい地球観」から引きます。以下の文で「」で囲んであるのはその本からの引用です。

 
・大陸移動説

 1910年頃、ドイツの気象学者アルフレッド・ウェゲナー(1880年~1930年)は、地図上の南米大陸とアフリカ大陸がジグソーパズルのように組み合わせることができることに気づきました。

 そこで彼は直感から得た説を立証するために様々な文献を漁り、自信をもって新説を発表したのです。

 

 本から引用しましょう。

 ウェゲナーは「大西洋をはさむ、南・北アメリカ大陸と、ヨーロッパ・アフリカ大陸とはもともとは一体であったものが、分裂して現在のような姿になったのだ、といいだした。それにとどまらず、インド、オーストラリア、南アメリカ、アフリカ、南極などの諸大陸もかつては一塊の巨大大陸だったのだといいはった。すなわち、まず石炭紀後期(約三億年前)には南・北アメリカ大陸は、アジア・ヨーロッパ大陸及びアフリカ大陸と密着し、その他、オーストラリア、南極、インドなどもこれにくっついて、全世界には一つの巨大な大陸が存在していた。ウェゲナーはこの巨大仮想大陸にパンゲア(Pangea)という名を冠した。パンゲア大陸はジュラ、白亜、第三紀と地質時代の進行とともに分裂をおこし、現在のような分布をするにいたった。もともとは大陸が一塊であったから、大西洋も、インド洋も北極海も昔は存在せず、海もパンゲアをとりかこむたった一つの巨大海洋があっただけなのであった」

 

 絵が描けないので申し訳ありませんが、三億年前、南極とアフリカと南アメリカとインドとオーストラリアがくっついて、すべての大陸が一枚の陸地だったと想像してください。

 このひとつの巨大大陸だったものがだんだんと動いて今の地図のような配置になった。これが「大陸移動説」です。

 ひらめきの発端は大陸のジグソーパズルだったのです。これがおもしろい所。

 

・世界地図

 

 ところがここにひとつの問題があります。

 どの国の地図もその国を中心に書かれています。手持ちの世界地図があれば見ながら読んで下さい。

  日本の世界地図は中心に日本を置き、しかも赤く塗り、右(東)が太平洋でその右が南北のアメリカ大陸、その先は大西洋で終わります。

 左側(西)にはアジア大陸が広がりさらにヨーロッパ大陸とアフリカ大陸。

その先がやはり大西洋。


 つまり日本製の世界地図ではアフリカと南アメリカは地図の両端に振り分けられているので大陸のパズル合わせには気づきにくのです。ということは日本人からは「大陸移動説」は生まれにくかったということが考えられます。

 
 これがヨーロッパ製の地図なら中心がヨーロッパのですから南アメリカとアフリカは大西洋を挟んでまさに触れんばかり。日本は極東の小島で地図からこぼれ落ちそうな位置です。欧米人からは本当に遠い国。

 

 ヨーロッパ製の地図を眺めれば誰でもパズル合わせには気づきそうです。そして実際大陸がくっついていたのではないかという意見はウェゲナーの専売特許ではなく、多くの人が言っていたことらしいのです。実はわたしも小学校の時、地球儀を見ながら友達たちとそのことを話題にしたことがありました。

 

 ただ、その考えはあまりに荒唐無稽だったのでアカデミズムの場で日の目を見るにはいたりませんでした。ウェゲナーはそれに学問の光を当てて立証の手掛かりを付けたことで名を残したのです。

 

 着想を得たのが1910年。探検や欧州大戦、戦傷などを経て発表したのが1915年に刊行した「大陸および大洋の起源」。

 二十世紀に入ってさえ、ウェゲナーは大陸が動くなどという反体制的な持論を発表するにはためらいがあったようです。ガリレオの糾弾裁判が脳裏にちらついたのかもしれません。

 そんな彼が我が意を得たりと論拠にした学問の一つが古生物学でした。

 

・地質学の原理

 

 地質学には二つの基本的な原理があります。

 

 1 重なった二つの地層があるときには、上側の地層は、下側の地層より新しい。

 2 同種の生物化石をふくむ地層は同時代に作られた。

 

 これをふまえることが大陸移動説を学問として成立させるための大原則でした。

 

・陸橋(古生物学)

 

 ウェゲナーは偶然、ブラジルとアフリカがかつては結合していたらしいという古生物学の論文に出会います。それは「みみずやかたつむり、猿などの哺乳類、種々の植物の化石の分布などからみると、アフリカと南米、ヨーロッパと北米、マダガスカルとインドなどの諸大陸の間には密接な関係がある。かたつむりなどは広い大洋を渡って泳いでゆくわけにはいかないから、ヨーロッパ西部と北米当部にそれが存在することは、かつては両大陸の間は陸でつながっていたらしい」という論文です。

 

 古生物学者はその説明のために陸橋というものを想定していますが、ウェゲナーはもともとひとつの大陸だったものが分かれたとすればいいと考えたのです。

 地質学の原理がこうした古生物の化石から時代を特定してくれるのは、気象学者であったウェゲナーにとっては極めて重要なことでした。

 今日、陸橋は存在も痕跡も認められていません。

 

以下次号

 
 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

《游氣風信》インタビュー『鍼灸指圧師』

No,112 1999,4,1

転職情報誌「デューダ」(学生援護会刊)の「しごとウォッチング」という欄に1ページ写真付で掲載されました。

 ここはさまざまな仕事を紹介していくコーナーのようで、わたしの前後の号には空手指導員や乗馬指導員などめずらしい職業が掲載されていました。するとわたしの仕事もめずらしいものの範疇に入るのでしょうか。

 

 どうして取材を受けることになったか。ことの顛末を紹介します。

 二月のとある寒い夕暮れ。この地方にはめずらしく激しい雪の降りしきる日でした。その日は午後から車で在宅ケアの患者さん宅を訪問していました。訪問は家庭で困難な生活を強いられている方たちに些少なりとも役に立つことができればとこの仕事を初めて20年間途切れることなく続けています。もちろんわたしの生活のためでもあります。

 

 たまたま少しの開き時間ができたのでスーパーの駐車場に車を止めてフロントガラスにどんどん積もる雪を見ながら暖かい缶コーヒーを飲んでいました。

 そのとき突然、どこからか鳴り響く携帯電話の音(電話の呼び出し音はいつも突然ですが)。

 電話の向こうは聞き馴れぬ若い女性の声。その方が取材にみえた編集者でした。

 

 名古屋のオフィスに電話がかかると、留守の場合、自動的に携帯電話に転送されるようにしてあります。かのNTTのサービス、ボイスワープです。それでどこにいても電話を受けることができます。これがわたしが携帯電話を持った理由でした。

 そのとき電話を受けたのは江南市です。しかし先方は言わなければそうとは気づきません。

 

 「こちらは〇〇出版のFと申します。雑誌の記事のために鍼灸師の仕事について取材したいのですがご協力願えませんでしょうか。記事は『AN(旧名アルバイトニュース)』でお馴染みの学生援護会発行転職情報誌『デューダ』に載せます。カメラマン同行で写真も撮影します。つきましては先生のご都合に合わせてそちらのオフィスに出向いてもよろしいでしょうか」というような電話でした。

 とても落ち着いた知性あふれる語り口。感心しました。

 

 しかし、話の相手が若い女性であることだの知性的な語り口だのに惑わされる訳にはまいりません。なぜなら、わたしの所のような零細治療室にも時々、取材申し込みの電話はかかってくるのです。とこらがそれらは掲載料と称して後から膨大な金額を要求してくることは知っています。

 

 この依頼もきっとその類いかと思い、
「なぜわたしのような無名の零細治療室に取材に来るのですか。それにいったいどこでわたしの存在を知ったのですか。掲載料を取る広告のための取材なら
お断りです」

と率直にその旨をたずねましたら、彼女の返事は
「掲載料をいただくのではなく、まったくの仕事紹介のための純粋な取材です。先生のことはインターネットのホームページで知りました」

とのことなので、インタビューに応じることにしたのでした。

 

 ちょうど指圧教室の時間にFさんという予想通りの知性的な女性編集者がカメラマンを伴ってオフィスを訪れました。

 彼女があらかじめ用意していたであろう色々なインタビューを受け、指圧教室を見学して、結局都合1時間半ほど滞在されました。その間カメラマン氏は生徒達を写したり、ツボの人形をいろいろ置き場を考えながら移動したりしていました。

 最後に口づけできるほど極限まで近づいてわたしの顔写真を撮影したのですが、カメラマン氏はわたしの顔がアップに耐えられないと判断されたのか、部屋の隅に立っている実物大の骸骨模型と一緒に撮りたいと要求され、結局骸骨とのツーショットという怪しい写真が大きく掲載されることになりました。

 

 雑誌に掲載された写真を見ると実物の自分より老けているので内心「チェッ。あのカメラマン、たかだかあれだけの取材に仰々しく何台もカメラを持参してこの写真。たいした腕ではないな。フン」と思っていたのですが、見た人は「やあ先生、実物より若く写っていますね。さすがはプロのカメラマンだ。それに骸骨と一緒なのが最高!」と誉めそやします。

 

 ・・・というわけで写真をお見せすることは意に添いませんが、本文は著者である編集者Fさんに許可を得たので掲載させていただきます。

 

 本文はわたしがインタビューでとりとめもなく話したことを、実に簡素にツボを押さえてまとめてあり、さすがにプロの仕事と感嘆。カメラマンとはえらい違いです。

 

 文章は一字一句原文通りですが、ネット上で読みやすくするために段落を短めに切ってあります。

 

しごとウォッチング(Work Watching)

  『鍼灸指圧師』 游氣の塾 三島治療室 三島広志さん

 デューダDODA(学生援護会刊) 1999年3月10日発行

TVドラマなどの題材になったり、有資格者を目指し専門学校に通う人が増えていたり。古臭い治療法と敬遠されがちだった鍼灸や指圧が今、再び注目されている。鍼灸指圧師の仕事と魅力とは・・・・?

 

 鍼灸や指圧は、身体の滞りを促すために経穴(ツボ)を鍼で刺激したり、灸を据えたり、揉みほぐしたりする手技。

 鍼灸や指圧を用いて“治療院”の看板を揚げるには、それぞれ国家資格(はり師、きゅう師、あん摩マッサージ指圧師)を取得する必要がある。

 リラクゼーション目的のクイックマッサージとは一線を画す、東洋医学に基づいた治療法の一つである。

 

 「身体の悪い部分を治療するだけでなく、疲れを取る、身体の調子を整えるなど、心身を健やかにする場合に鍼灸や指圧は有効です。

 今の世の中あらゆる面で整備されていますが、極度の整備は窮屈さを生む。

窮屈だと身体も緊張して、筋肉に凝りが生じる。すると身体に歪みが出て、いずれ病気になる。

 

 たいていの病気は西洋医学で駆逐できますが、鍼灸指圧師は西洋医学で癒されない部分を癒す・・・言うなれば、ホリスティックに“ひずみをほぐす”仕事。現代こそ東洋医学の出番でしょうね」

 

 診察は、予約電話での声の調子を診ることから始まっている。治療室では患者の顔色、姿勢、歩き方などもチェックした上で、触診。腹、背中を中心に全身の筋肉の硬い柔らかい、力のあるなしなどを診る。脉も含め、全身の様子を掴んだ後、施術法を決定する。

 

 「触診の際は、患者さんの痛い!という言葉だけで判断してはダメなんです。

客観的に診ることが大事。あくまでも主導権はこちらで、かつフラットな立場での治療を心がけています。

 開業するにしても病院や鍼灸院で働くにしても、この道は決して甘くはないのが現状。社会的成功ではなく、自分を高めつつ周囲と関わりたいという人には向いていると言えます。

 ただ、これだけ人にお礼をいわれつつお金を貰える仕事も、そうないでしょうね」

 
以下は写真に添えられた文


◎わたしと骸骨のアップ写真には

  三島さんは、大学経済学部卒業後専門学校へ通い、はり師、きゅう師、あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。すぐに独立開業した。現在名古屋市千種区に治療院を構え、火・木・土・日はここで施術。他の日には個人宅や病院へ出張という忙しい毎日を送る。東洋医学の良さを広く再認識してもらうべくホームページも開設中。

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

◎外国人生徒が練習している写真とわたしが指導している二枚の写真に添えて

  鍼灸や指圧に興味をもつ外国人たちが口コミでここにやってきて、後を絶たない。三島さんはそんな彼らを対象に、惜しみなく施術法を伝授している。 

◎腰に鍼を打つところの写真に添えて

 施術前に手と患部は必ず消毒、使用する鍼などの道具は一回ごとに使い捨てと、衛生面も徹底。鍼=痛そうと未経験者は思ってしまうものだが、実際の鍼は髪の毛ほど細く、ベテランはり師に打ってもらうと痛みは感じないのだ。

 上記のように実に簡潔に言葉を殺(そ)いでまとめてあります。ともすれば饒舌になりがちなわたしも見習わなければならないところです。

  いろいろとお骨折りいただいた上に、ここへの転載を快諾して下さったF編集者に感謝。Fさんはその後本当に骨折をされたそうです。お見舞い申し上げます。一日も早いご快癒を。

 

《後記》

 四月は年度の始まり。桜吹雪の下をゆく新入生は日本の春の風物詩。街の中にも真新しいスーツを身にまとった初々しい男女が通勤していきます。

  けれども新しい一歩は過去への決別の証しでもあります。それまでいた保育園や学校と別れてこそ、新人となれるのです。

 大人には区切りがありませんから、折に触れて自分で決着をつけるしかありませんね。毎年の正月や人生数回の厄年、不惑や還暦、古希などの節目はそのためのものでもあります。

 あるいは病を得たときや、大病が快癒したときなども転機となることでしょう。

 
 この春はわたしにとっても別れの季節でした。親しくした人達が大勢それぞれの新生活へと去っていったのです。

  静岡の大学へ就職した女性心理学者の卵。たった一年のお付き合いでしたがなつかしい人です。実は秘密なのですがあるホームページにわたしと彼女のツーショット写真が掲載されています。なぜそんな美しい人と一緒に写っているのか、二人の間に何かあったのかと物議をかもしましたが、残念ながら何にもありません。

 
 夫の転勤に不承不承くっついて大阪へ引っ越したカウンセラー。ものごしのおだやかな育ちのよさを感じさせる気品あるご婦人ですが、気が付くと意外なことにわたしより20歳近くも若かったのです。驚きましたが今でも半信半疑。 

 移動は国内だけではありません。

 スエーデンの大学へ心理学研究のために赴任する夫に付随するわたしと同世代のベテランカウンセラー。子連れの引っ越しです。彼女は日本とE-mailがやり取りできるように新しいパソコンを仕入れていきました。北欧といえばオーロラ。一年という短い滞在ですが見られたらいいですね。

 
 名古屋の大学を終えた二枚目ベルギー人A君は彼女のいるイギリスへ。秋には彼女と一緒に日本に戻ってくるとか。本場ベルギーのチョコレートをお土産に置いていきましたが、なぜか箱の中からは日本語の説明書が・・・。

  米国の大学院で国際関係学の勉強をすることになった根っからのアメリカ娘Bさんは可愛いお転婆。大学を出てからスイス(ヨーロッパ)一年、ジンバブエ(アフリカ)二年、日本(アジア)四年の滞在経験が国際理解に役立つことでしょう。帰る間際には外国人にはとても気味の悪い生魚や寿司も食べられるようになりました。


 仲間と素晴らしいコミューンを作るんだと勇んでオーストラリアへ行ったオーストラリア生まれのカナダ女性Bさん。ある日本人女性が「きれいな人ですね」と嘆息したほど黙っていれば美しい人です。しかし内実はちょっと変わった大学の先生。とても優しい人で長い間病気に苦しむ犬を放置する近所の飼い主を見かねて直談判、我がことのように気にしていました。そして日本人の犬の飼い方に憤慨もしていました。

  恋人の両親の住む国カナダへ胸を弾ませて飛び立つ米国女性Jさんはフリスビーが大好きな清楚で控えめ美人。この夏に恋人と結婚してカナダの美しい町に住みます。

 
 大学院へもどる米国男性のE君は二年半ごとに日米を行ったり来りしている東洋文化大好き人間。わたしのエッセイ「いのちと環境」などをネタに東洋文化論を仕上げて大学院に合格しました。題して「生命の共感」。合気道が得意な気配り青年です。

  こうして多くの知人が希望と不安を胸に桜の便りとともに各地へ散っていきました。

 日本を離れた外国人にとっては日本がよき思い出でありますように。

 わたしと出会ったことが彼らの人生にとってささやかながらも付加価値となりますように。

 Have a nice life.(良い人生を)


 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 賢治の短詩(その2)

No,111 1999,3,1

賢治の短詩(その2)

 

 先月号に続いて宮沢賢治の比較的短い詩を紹介します。

 

 世の中には意外に賢治ファンが大勢います。信者と呼べるほどの人もいるくらいです。

 文学部の卒業論文に宮沢賢治を取り上げる学生は大変多く、ベスト5に入るのではないでしょうか。

 現在活躍中の詩人や作家の間に隠れファンが多いことでも知られています。

 俳優で詩人の内田朝雄さん(故人)などは「私の宮沢賢治」という賢治研究史に残る素晴らしい本を書かれています。

 井上ひさしさんの「イーハトーボの劇列車」という戯曲は演目として優れているだけでなく、賢治論としても白眉のものです。

 教育者の西郷竹彦さんにも「宮沢賢治やまなしの世界」という大著があります。

 

 ただ大人になるにつれて、いつしか「昔は愛読したなあ」というかたちで離れていく方も多いようです。それでも心の奥底にはしずかに賢治の記憶が沈潜していることでしょう。

 それは賢治に限らず若いときに読んだ文学作品全てにいえることです。

 

 大人になっても賢治ワールドに居座っている中途半端な人達がインターネット上に膨大な賢治関連のホームページを作っています。

 

 渡辺宏という方はソフトウェア関連の仕事の傍ら「宮沢賢治童話館 http://www.cypress.ne.jp」というホームページを起こし、さらにメールマガジン「Kenji Review」を発行しておられます。これは登録しておくと自動的にE-mailの形式で文章が届くという便利なものです。

 

 渡辺さんは賢治の全作品のテキスト化(簡単に言えばワープロの文書にすること)を目指しておられます。その情熱には頭が下がります。

 あまり熱心に取り組んでいるので仕事がおろそかになり、どうやら奥さんの目が怖くて正視できないようです。

 「どんな立派な趣味でも家族との葛藤は避けられません」とわたし自身の実体験から学んだ事実を実感をもって申し添えておきましょう。

 

ホームページと言えば、わたしが所属している宮沢賢治学会(本部は花巻市)も近々ホームページを立ち上げるそうです。先述の渡辺さんももちろん会員です。

 宮沢賢治学会の会員には賢治に関心のある方なら年会費3000円を納めれば誰でもなれます。新発見資料や講演会などを掲載した会報が届きます。

 

宮沢賢治学会イーハトーブセンター

 岩手県花巻市高松1-1-1 電話:0198-31-2116 FAX:0198-31-2132

 

 宮沢賢治学会は賢治の出身地花巻市にある宮沢賢治イーハトーブ館という市の施設に本部を置く非営利の組織です。イーハトーブ館は展示室や図書室、200名収容のホールがある立派なもの。

 規約の第2章(目的)第2条に

 

 本会は、宮沢賢治とその作品を研究並びに愛好する者が交流し、相互に理解を深めることを目的とする。また、宮沢賢治に関する資料・情報のセンターとする。

 

とあります。花巻市も補助金として年間800万円の予算を組み、郷土の誇りとしてバックアップしているのです。宮沢賢治記念館と宮沢賢治イーハトーブ館が賢治顕彰の拠点の両輪となり、それを支えるのが宮沢賢治学会会員と言えるでしょう。

 

 では先月に続いて、今月も賢治の短めの詩を紹介します。

 

  開墾

   (春と修羅第三集所収)

     日付 一九二七、三、二七、

 

野ばらの籔を、

やうやくとってしまったときは

日がかうかうと照ってゐて

空はがらんと暗かった

おれも太市も忠作も

そのまゝ笹に陥ち込んで、

ぐうぐうぐうぐうねむりたかった

川が一秒九噸の針を流してゐて

鷺がたくさん東へ飛んだ

 

 

 これは農作業の辛さと成し遂げたときの満足感を歌った佳作でしょう。調べの良さに労働を楽しんでいることが伺えます。

 中でも

「日がかうかうと照ってゐて/空はがらんと暗かった」

は秀逸です。真夏の空は明る過ぎてかえって暗いとは誰もが実感することですがなかなか言えません。

 「ぐうぐうぐうぐう」は眠りのオノマトペとしてはあまりに当たり前でつまらないものですが、「ぐうぐう」ではなくて「ぐうぐうぐうぐう」と四回繰り返すところが賢治調。

 

 太市や忠作は人名。太市は名作「家なき子」の邦訳で主人公レミを日本人の少年太市に置き換えたもの。当時はこんな乱暴な訳がなされていたようです。

賢治はこの物語を小学校の八木先生から読み聞かされて感動したと伝えられています。他の作品にもたびたび太市は出てきますが、忠作は不明。

 

 最後から二行目。九噸は9トンです。川が針を流すとは、川面が毎秒9トンの針を流したようにきらきらきらめいているということの比喩です。

 

 最後の行、唐突に「鷺がたくさん東へ飛んだ」とあります。このように地上から一気に大空に視線を移すことで雄大な心象を描くことができます。賢治の好きな手法。

 この作品でも視線が[野ばらの薮]から[がらんと暗い空]へ上昇、再び[笹]へ降り、次に水平移動して[輝く川]、そこからひるがえって[東へ飛ぶ鷺]という具合に大きく変化して詩のふところを深くしているのです。

 

 賢治は生涯をアマチュアで過ごしましたから、いわゆるプロの作家のような校正者や編集者を持ちませんでした。ですから自分で気の済むまで書き直すことが可能でした。

 あるものはこの作品とあの作品を混ぜて別の作品に仕立てたり(例えば「種山が原」や「さいかち淵」などの小品を寄せ集めて「風の又三郎」に)、晩年、病床で若いときのテーマを文語詩に改作したり、ひとつの作品をどんどん発展させて果ては全く違う作品にしたり(たとえば怪物の世界を描いた「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」が自己犠牲がテーマの「グスコーブドリの伝記」に)と、その作品の足跡はじつに複雑です。

 

 そこで次の詩では少し繁雑になりますが賢治の推敲のあとを具体的にたどってみましょう。この過程は先程書いた校本宮沢賢治全集に詳しく書かれています。苦労してお付き合いください。

 

 まず最初に紹介するのが決定稿。賢治が「春と修羅第三集」として原稿を整理していながら結局は出版できなかったものの中にある作品です。整理しながら出版できなかった点では「春と修羅第二集」も同様でした。

 

  札幌市

  (「春と修羅」第三集所収)

    日付 一九二七、三、廿八、

 

遠くなだれる灰光と

貨物列車のふるひのなかで

わたくしは湧き上がるかなしさを

きれぎれ青い神話変へて

開拓紀念の楡の広場に

力いっぱい撒いたけれども

小鳥はそれを啄まなかった

 

 この詩に先立って次の詩「札幌市(下書稿二)」があります。これを推敲したものがその後に紹介してあるものです(下書稿二の推敲形)。

 

  札幌市(下書稿二)

 

遠くなだれる灰光のそらと

歪んだ町の広場のなかで

わたくしは湧きあがるかなしさを

青い神話としてまきちらしたけれども

小鳥らはそれを啄まなかった

 

 

 この詩を賢治は次のように変えました。

 

  札幌市(下書稿二の推敲形)

 

遠くなだれる灰光と

歪んだ町の広場の砂に

わたくしはかなしさを

青い神話にしてまきちらしたけれども

小鳥らはそれを啄まなかった

 

 わたしはこの形が一番好きです。その理由はこれが校本刊行以前の賢治作品として流布されていたもので、前々から暗唱してなじんでいたことにあります。

 

 しかし、それだけではありません。もう一つの理由は技法的なものです。決定稿では「貨物列車」とか「開拓祈念の楡の広場」という具体的なもので読者に地理的状況を明瞭に示しています。それによって読者ははっきりした映像を描くことが可能になります。けれどもかえって読者に許された鑑賞の自由を狭くしていることは否めません。。

 さらに調べのよろしさ。読んで一番心地よいのが最後に紹介した作品であることは間違いないしょう。

 

 最初に掲載した決定稿は、校本全集によれば「下書稿三の推敲形」となります。詳細はともかくこのように賢治は絶えず作品をいじっていたことはお解りいただけることと思います。

 

一〇五五

  [こぶしの咲き]

   (詩ノート)

     日付 (一九二七)五、三、

 

こぶしの咲き

きれぎれに雲のとぶ

この巨きななまこ山のはてに

紅い一つの擦り傷がある

これがわたくしも花壇をつくってゐる

花巻温泉の遊園地なのだ

 

 

 作品としては取るに足らないものですが資料的には価値のあるものです。

 この作品には作者による題がついていません。こういう場合便宜上最初の一行を題として[]でくくってあります。「詩ノート」というのは賢治没後、宮澤家に「詩ノート」と書かれたケースに整理されていた原稿の総称で、賢治作

品分類上そのまま利用されています。「一〇五五」という番号は賢治によって書かれた通し番号です。ですから以前は「作品一〇五五番」などと呼ばれていました。

 

 賢治は今日でも東北有数の温泉地として知られる花巻温泉郷の南斜花壇(現在は賢治記念館に復元)と日時計花壇(花巻温泉に現存)を設計しました。

 その構想は温泉郷全体の雰囲気を考慮したもので、花壇の造形や照明などの芸術面、季節毎の花の種類や色などの知識だけでなく、花の仕入れ先や値段などの実務までと極めて多岐にわたり、総合造形芸術家としての資質をいかんなく発揮しています。

 

 ただし、この作品の注目点は「この巨きななまこ山のはてに/紅い一つの擦り傷がある」の二行です。自分が造形している山の斜面を擦り傷ととらえる感受性は自然に杭打つ痛みを表白しているようです。

 

 こうした感性が昨今のエコロジストの教祖のように持ち上げられる一因でしょう。もっとも賢治の生態学は「地球を守ろう」とか「地球にやさしく」などという人間中心のエゴイズムでないことは火を見るよりも明らかです。

 

 あと二題紹介します。

 [胸はいま]は「疾中」と題して賢治自らが綴じていたものの中のひとつです。1928年(昭和3年)9月頃、32歳の賢治は花巻病院で両側性肺浸潤と診断され療養に入り、病気を通して生や死、親への感謝など自らを深く見つめる作品群を書きました。

 

[胸はいま](疾中)

   一九二八、一二から一九二九、四の間と推測

胸はいま

熱くかなしい鹹湖であって

岸にはじつに二百里の

鱗木類の林がつゞく

そしていったいわたくしは

爬虫がどれか鳥の形にかはるまで

じっとうごかず

寝てゐなければならないのか

 

 鹹湖(かんこ)は塩水の湖。中東の死海やアメリカのソルトレークが有名。

鱗木(りんぼく)は木肌が鱗のようになったシダの大木。古生代石炭紀に栄え今日石炭として発掘されます。

 病中の鬱屈した思いを鹹湖や鱗木に託し、時間の経過の長さを爬虫類が鳥に進化するまで寝ていなければならないのかと飛び抜けた時間感覚で表現しています。

 

 最後は賢治31歳の作品。あまり注目されることのない作品で、アンソロジー(選集)にもめったに取り上げられません。しかし、賢治らしい言葉の用い方と賢治の女性観が述べられていて興味深い作品です。

 

  [わたくしどもは]

   (詩ノート)

       日付一九二七、六、一、

 

わたくしどもは

ちゃうど一年いっしょに暮しました

その女はやさしく蒼白く

その眼はいつでも何かわたくしのわからない夢を見てゐるやうでした

いっしょになったその夏のある朝

わたくしは町はづれの橋で

村の娘が持って来た花があまり美しかったので

二十戔だけ買ってうちに帰りましたら

妻は空いてゐた金魚の壷にさして

店へ並べて居りました

夕方帰って来ましたら

妻はわたくしの顔を見てふしぎな笑ひやうをしました

見ると食卓にはいろいろな菓物や

白い洋皿などまで並べてありますので

どうしたのかとたづねましたら

あの花が今日ひるの間にちゃうど二円に売れたといふのです

・・・その青い夜の風や星、

   すだれや魂を送る火や・・・

そしてその冬

妻は何の苦しみといふのでもなく

萎れるやうに崩れるやうに一日病んで没くなりました

 

 

 全体が淡く冷たく青白い不思議な雰囲気を醸し出しています。

 「その青い夜の風や星、/すだれや魂を送る火や」という幽玄に象徴される実体感のない女性。まるで雪女の化身のようです。ここに賢治が生涯を独身で過ごした秘密が見え隠れしていますし、賢治にとってあらゆる現実とはまるで気体のように手応えなく見えていたのではないか、そんな気がしてならないのです。そしてそれが賢治ワールドの魅力と同時に限界を示唆しているようでもあります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

賢治の短詩(その1)

1999,2,1 110号

三島広志


 宮沢賢治生誕百年の喧噪も、すでに三年という月日が経って遠い記憶となりつつあります。

 賢治は明治二十九年生まれですから今年は生誕百三年になるでしょうか。名古屋の名物双子きんさん・ぎんさんより年下です。

 

 ブームを当て込んだ賢治に関する出版や催事も祭りの後の落ち着きを取り戻してきました。むしろ祭りの反動でそれ以前よりも少ないかもしれません。し

かし今の状態がほどよいものだと思います。あまりの騒がしさは賢治の好むところではないでしょうし、賢治の作品や考えがブームを呼ぶほど広く受け入れられるとも思いません。

 

 なによりブームにはその勢いで本質を覆い隠し、何事もなかったようにあっさり過ぎ去ってしまうという怖さがあります。

 

 賢治への安易な同調は率直に言って危険な側面も露呈します。

 賢治の考えの中には大乗仏教が大きく根を張っています。これは一歩間違うと簡単に全体主義に取り込まれるものです。揚げ句の果ては国粋主義。そうした危険性は現実に戦前戦中、すでに賢治作品が通過してきています。このことに関しては前に《游氣風信》で軽く触れました。

 

 今月と来月はむつかしいことは抜きにして、賢治の比較的短い詩について書こうと思います。

 

 賢治の詩はどちらかと言うと長く、饒舌であるとの批判があります。生前に刊行された唯一の詩集「春と修羅」に収録され賢治の代表作と目されている「小岩井農場」や「オホーツク挽歌」の一連は数百行に及び、日本の近代詩では異例の長さです。しかし、反面緊張感に乏しく、言葉ひとつひとつが詩語として生かしきれていないのも事実です。

 

 「小岩井農場」は小岩井チーズで有名です。日本初の近代的農場として岩手山麓に興され、賢治はたびたび訪れました。

 「オホーツク挽歌」のシリーズのなかには高校の教科書に取り上げられている「永訣の朝」があり、亡き妹への熱い思慕で貫かれています。

 

 賢治の詩はなぜ、異例とも言える程長いのでしょうか。それには訳があります。賢治は当時まだ珍しかったレコードが好きで、農学校の先生をしていた時など給料(なんと大正時代の八十円)のほとんどをレコードに費やしたこともあると伝えられています。

 

 彼はとりわけベートーベンのシンフォニーが好きで、レコードに触発されていろいろな色彩が見えたり、身体の内在律にしたがって踊りまわったり、曲に応じて映像が浮かんだり、一種の神秘体験のように作曲家の声が聞こえたりしたようです。

 

 そうした音楽に対するするどい感受性のためか、ついに賢治は詩で交響曲を作ろうと意図したのです。賢治の代表作「小岩井農場」はベートーベンの交響曲六番「田園」を意識しているとされています。賢治が田園で帽子を被りコートの襟を立ててうつむきがちに立っている写真をご存じでしょうか。あれはベートーベンを気取っているように見えてなりません。

 

 賢治は自分自身では作品を詩や童話と呼ばず「心象スケッチ」と称していました。その方法は現実に触発されて作者の心象中に湧き上がるイメージを言葉でどんどんスケッチしていくものです。決して現実をスケッチするのではありません。賢治の歩調と同じ速度で心の像が展開していくのです。

 

 この方法を用いれば心のうねりを忠実に言葉に置き換えることが可能で、読者に作者と同じ体験を同じリズムで再現させてくれます。けれども、これではどうしても冗長であることを避けれらませんし、現実が自己中心に矮小化される欠陥も有します。

 

 こうした方法論から自ずと長編が多くなりがちながらも、賢治は、一方で短い佳品をたくさん残してします。むしろ短詩の方が詩という観点からは評価できるものが少なくないのです。今月と来月はいくつか紹介しますから味読してみてください。

 

  雲の信号

   (「春と修羅」所収)

 

あゝいゝな せいせいするな

風が吹くし

農具はぴかぴか光つてゐるし

山はぼんやり

岩頸だつて岩鐘だつて

みんな時間のないころのゆめをみてゐるのだ

  そのとき雲の信号は

  もう青白い春の

  禁慾のそら高く掲げられてゐた

山はぼんやり

きつと四本杉には

今夜は雁もおりてくる

 

 

 わたしの大好きな作品です。爽快で心が清々しくなります。田園で風に吹かれながら遠くの山を望んでいる至福の時間。山々の見る「時間のないころ」の夢。時間の概念がない暮らしはなんと落ち着いていることでしょう。

 

 岩頸(火山の噴出の名残、地下から火口へ向かう途中で固まった火成岩が、後に山が侵食されて露出したもの)は岩に関する鉱石学の専門用語。賢治は盛岡高等農林学校でこうした学問を修めました。岩鐘は賢治の造語。鐘状火山であろうとされています。(宮澤賢治語彙辞典より)

 

 「春と修羅」は一九二四年(大正十三年)賢治が二十八歳のとき刊行した生前唯一の詩集。自費出版で佐藤惣之助や辻潤などのごく少数の詩人や評論家に絶賛されましたが全く売れず、神田の古本屋に積まれていたという逸話が残っています。

 

 賢治は一旦は決定稿として出版したにもかかわらずのちのち未練がましく手持ちの本だけでなく知人に上げた本にまでいろいろ手を入れています。

 こうした賢治の偏執的とも思える作品に対する執着性は、作品を絶えず書き換えて生成的に発展・統合して複雑で特異な作品群を形成していくことに役立ちました。

 曰く「永遠の未完成、これ完成なり」。

 

 二十数年前、筑摩書房からこうした賢治の特性を解明すべく全ての原稿の移り変わりを公開した画期的な校本全集が刊行されました。貧乏学生だったわたしはアルバイトに精を出し、食事を削って全十四巻計十五冊を購入したのです。

今回の作品はその汗と涙の校本全集から引いてあります。

 

  岩手山

   (「春と修羅」所収)

 

そらの散乱反射のなかに

古ぼけて黒くえぐるもの

ひかりの微塵系列の底に

きたなくしろく澱むもの

 

 

 教科書にも出ているこの作品は賢治の詩の特徴をよく表しています。それは上へ下へ、あるいはこちらから向こうから(向こうへではない)という視点のダイナミズムです。先程の「雲の信号」は地質学的な時間のダイナミズムでしたがこの作品は空間のダイナミズムと言ってもいいでしょう。

 

 この詩の構成は前の二行は下から見上げた構図、後の二行は空から俯瞰したものから成り立っています。そして前二行の山は黒々と空をえぐるようにそびえ立つ夏の山。後の方の高い空から見下ろせば山は大地にへばり付いている真っ白な雪の山。

 この辺りには岩手山より高いものはありませんし、飛行機などもありませんでしたから、賢治は自らの気持ちを空高くほうり上げて山を見下ろしているのです。

 

 この詩のもう一つの特徴は空を「散乱反射(科学用語)」とか「微塵(宗教用語)」と専門用語を用いて表現していることです。これはおよそ文学的美文からは掛け離れています。

 さらに空を美しく表現していながら、自然の象徴たる岩手山を「古ぼけて黒くえぐる」、「きたなくしろく澱む」と一種の違和感をもって見ています。この自然に対して少し距離をおいてみる意識も賢治の特徴で、彼は決して自然礼讚の詩人ではないのです。

 

  高原

  (「春と修羅」所収)

 

海だべがど おら おもたれば

やつぱり光る山だたぢやい

ホウ

髪毛 風吹けば

鹿踊りだぢやい

 

 

 方言を生かした作品として日本文学史上でも価値のある作品だと思います。

身近に東北出身とりわけ岩手県花巻市周辺の人がいたらぜひ朗読してもらってください。

 風が草原を波立てて過ぎるのを見て、一瞬、海かと思ったけど、やっぱり光る山だった。ホウ、髪の毛が風で吹き乱れるとまるで鹿踊りのようだ。

 こんな意味です。短さゆえに読者には果てしない光景が想像されます。深々と呼吸できる詩。

 

 

  春

  (「春と修羅」第三集所収)

   日付 一九二六、五、二、

 

陽が照って鳥が啼き

あちこちの楢の林も、

けむるとき

ぎちぎちと鳴る 汚い掌を、

おれはこれからもつことになる

 

 

 大正十五年五月、賢治三十歳の作品です。この年の三月で大正十年十二月から勤めた花巻農学校の教諭を辞し、農耕自炊の暮らしに入りました。

 村有数の素封家に生まれ、月給八十円という高給取りの身で、貧しい農村の子供たちに農業を継ぐように説得する後ろめたさと、学校での人間関係の難しさから退職して農耕に入ったとされています。

 

 この作品はその折りの決意の表明でしょうが、農耕自炊の生活に立ち向かうというには「汚い掌をもつことになる」と高揚感に欠けます。

 詩としてみると「ぎちぎち」というオノマトペ(擬音・擬態語)に賢治らしい特徴がでていますが、中学時代から書いていた短歌の形式に近い趣を感じます。

 

・・・以下次号・・・

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年6月22日 (水)

游氣風信 No109「新年の詩歌」

三島治療室便り'99,1,1

《游々雑感》

新年の詩歌

 先月号は長文の私的養生論(未完)を提示して読者に大変ご苦労をおかけしました。あれはまだ要点が羅列されただけで骨格模型同様なんら肉付けがされていません。

 その結果
「分量が多過ぎる」
「文章が粗削りで読みにくい」
「用語の説明が不十分で理解しがたい」
などといろいろな方からご苦言をいただく結果となりました。

 嗚呼、諾(むべ)なるかな。
 先月号はまだまだ叩き台であり、いずれ何回も推(お)したり、敲(たた)いたり、捏(こ)ねたり、膨らませたり、盗作したり(?)してもっと読みやすく、しかも内容の充実したものにする予定です。

 しかしうれしい報告もあります。
 さるうら若き女性がスキーにでかけ、転んで股関節を痛め歩きにくくなったたとき、ふと先月号の《游氣風信》の股関節の項目を思い出し、「四股立ち」をしたところ、「コツン!」と音が鳴ってその場でずっと楽になったというの
です。面目躍如とはこのことでしょう。


 毎年年頭に書くことですが、一年は宇宙空間で地球が太陽を一回り公転(太陽の周りを惑星が回ること)するだけのこと。そのことに特別な意味はありません。

 そもそも一年とは地球が太陽の回りを廻る軌道の任意の一点の元日と定め、ぐるりと一周して元の一点に到達するまでの万有引力の法則に則った時間のことです。ご存じのようにその間に地球はおよそ365回自転(天体が独楽のように回ること)します。
 もっとも太陽は地球などの惑星を引き連れて宇宙空間を猛然と吹っ飛んでいますから、永遠に元の一点には戻ることはないのですが。

 天体の運行により昼夜ができ、季節が生まれ、その結果周期的な穀物や果実などの実りが繰り返されます。季節に応じた農耕は生活感と共に一年を意識させてくれますし、鳥の渡りや木の葉の変化、雪などの自然現象も時の流れを知らせてくれます。
 が、それらも畢竟(ひっきょう)するに天体の運行に準じたもの。一年とはそうした変化に対する人為的な区切りでしかありません。その始まりの一日が元日なのです。

 しかもややこしいことに、東洋と西洋(細かくは各文化圏によって)では暦の初日を区切る点が異なっていました。そのため日本が鎖国を解き国際化するために諸国との基準に合わせる必要が生じてきました。
 そこで明治政府は明治五年に新暦法を発令して明治五年十二月三日を明治六年一月一日と調整したのです。

 今日でも日本には旧暦と新暦が混在し、さまざまな行事は旧暦の日付を新暦に移行して行われます。たとえば旧暦十月十二日に没した芭蕉の忌日はそのまま新暦十月十二日に移行して時雨忌として祭ります。しかし十月では時雨には早過ぎて現実感を伴いません。
 逆に旧暦で行われる行事も多くあります。たとえば愛知県尾張地方で有名な国府宮の裸祭りは旧暦一月十三日に行うので新暦では毎年日程が異なってしまいます。

 真冬なのに一月一日を「初春」と呼ぶのはこの暦のずれがあるためです。
 正月は季節として冬真っ盛りであるにもかかわらず、旧暦ではこの日から春が始まりますから「新春」「初春」などと挨拶を交わさなければならなくなりました。今年は二月十六日が旧暦の元日です。その頃なら春も近いので「初春」と呼ぶにやぶさかではなくなるでしょう。
 ただし「立春」は二十四節気の一つですからまた別の意味があります。

 長々と書いたように、単なる天体の運動という自然現象の一過程でしかない十二月三十一日から一月一日への移行を、新しい年が始まるとして人為的に区切ることで“現実としての自然”を精神に写る“心象としての自然”に置換し、心を清新な気分に改める機会とすることはまことにすばらしい先人の知恵と感服しています。
 こうしたけじめがないと人生は惰性で過ぎてしまうことでしょう。

----------------------------------

 それはさておき今月号は先月号の読みにくさの口直しのため、また新年でもあるため、初春を詠った詩歌を幾つか紹介して、新たな年への思いを深めていただくことにしました。

 年改まると同時に心も改まる、そんな気分を詩人や歌人や俳人がいろいろな作品にしたためています。今月はそれを率直に鑑賞していただきましょう。
新年前夜のための詩
        中桐雅夫

 最後の夜
 最初の日に向う暗い時間
 しずかに降る雪とともに
 とおくの獣たちとともに在る夜
 さだかならぬもの
 冷たくまたあわれなすべてのもののなかに
 形づくられてゆくこの夜
 
 ちいさな不幸が窓ガラスをたたき
 人間の目は灰の悲しみに光る
 最後の歌は地をおおい
 闇のなかに
 聖なる瞬間はしだいに近づいてくる
 死と生が重なりあうその瞬間
 「時」のなかのそのちいさな点が
 われわれに襲いかかってくるまえに
 なにかなすべきことがわれわれに残されているだろうか

 おお その聖なる瞬間
 われわれはただ知らされるのだ
 すべての偉大な言葉はすでに言いつくされ
 生の約束も死の約束の変形にすぎないいことを
 おお その聖なる瞬間
 あすに向かって開かれたドアからは
 すべての未来が流れこみ
 室内は水晶と闇の光に輝く
 おお その聖なる瞬間
 わたしは忘れ わたしはわすれ去られる
 死骸が墓のなかに落ちこんでゆくように
 わたしはわたし自身のなかに落ちてゆく
 わたしの細く深い海峡のなかに
 わたしの暗いあすのなかに

(「日本の詩歌27 現代詩集 中央公論社」より)


 この詩は新年の気分に浸るにはあまりに深刻だったようです。
 詩人は年が明ける聖なる瞬間に「すべての偉大な言葉はすでに言いつくされ/生の約束も死の約束の変形にすぎないいことを」知り、自らを見つめつつ「わたしは忘れ わたしはわすれ去られる/(略)/わたしはわたし自身のなかに落ちてゆく」と個に思いを沈めます。


 次の詩は特に新年を詠んだものではありませんが、清新な気分に満ちています。

障子
     田中冬二

 夜があけかかると
 暗い家の中に
 まづしろばんでくる障子は
 なんといふなつかしいものであらう
 またなんといふうれしいものであらう
 しづかな夜あけの障子には
 神様がおいでになるといふ
 夜があけかかり
 暗い家の中に
 まづひとところから白馬の大雪渓のやうに
 しろばんでくる障子は
 なんといふうれしいものであらう

(「日本の名詩 集英社」より)

 障子は冬の季語ですからこの詩が冬、とりわけ正月の詩と読んでもあながち無理ではないと思います。なかんずく「しづかな夜あけの障子には/神様がおいでになるといふ」の二行は正月という行事が神を迎えるという意味合いをもっていることにも合致します。

 次ぎは現代短歌です。

おごそかに歳かはりゆく雪の庭願はくはわれの歌きよくあれ
                          岡野弘彦

あたらしき年の晨に思ふかないまひとつ宇宙あるという説
                          島田修二

(ともに「現代の短歌 講談社」より)

 現代短歌はどことなく理屈っぽいですね。
 やはり季節の歌なら俳句が楽しいようです。というより大多数の俳人は不景気になろうと、戦争が起ころうと、災害があろうと、自然・環境破壊が進もうと、常に変わらず自然賛歌を詠むという能天気なところが取り柄です。

 俳人にとっての自然とは眼前にあるだけでなく、心の中に写し取られた観念として存在しています。それは「日本人の心の歴史」によって肉付けされた「虚」としての自然であり、現実の自然とは必ずしも一致していないのです。
そしてこれは俳人のみならず日本人の一般的傾向でした。
 目の前の山が崩されていても、川が護岸工事で惨憺たるありさまになろうとも、心の中に別の映像として美しい「兎追ひしかの山 小鮒釣りしかの川」が存在しているからあまり心が傷まないのです。
 この心の二重性は不思議なものですが、おそらくあらゆる文化圏でその文化圏ならではの二重の自然があるものと思われます。

 ここで言う自然は自然科学的な客観的自然とは全く異なるものです。先に述べた眼前にある“現実としての自然”と精神に写る“心象としての自然”の違いです。
 よく知られているように俳句は五七五というあまりに短い「ものの言えない」形式です。だからこそ結果的に二重性を顕著に顕すことが可能な形式だと言えるでしょう。逆に言えばその二重性に頼らなければ何も伝えられない形式なのです。
 この辺りは作り手と読み手の関係に秘密があります。さらにそのためにはあるもっと大きな共同的な背景が必要となりますがこの「三島治療室便り」ではそこまで詳細に立ち入るわけにはいきません(本当はこれ以上かくとボロがでる・・)。

 では面倒臭い理屈は置いて新年のめでたい俳句を紹介しましょう。

去年今年障子明りに襲はれし  平畑静塔

 先の詩と同じように障子の明るさに気持ちを動かされています。精神科医師でクリスチャン。論・作で偉大な功績を遺した人。

去年今年貫く棒の如きもの  高浜虚子

 あまりにも有名な句です。このず太さが虚子のイメージとして俳句界に毀誉褒貶を超えて厳然と存在し続けています。

去年の土つけしまま鍬立つてをり  大串章

 こうした何でもないところに俳句が存在しています。作者は今もっとも精力的に活動している現代俳人。

元日の日があたりをり土不踏  石田波郷

 土不踏はつちふまず。この句は作られた時期からすると結核病棟の光景だと思われます。波郷は俳句史に残る人。結核に苦しみ療養俳句を広く知らしめましたが青春期の俳句の若々しさは不滅。

人日の灯ともしてすぐ夕ごころ  神尾久美子

 人日は正月七日のこと。

くらがりに猫すべり込む初御空  中山純子

 初御空は元日の空のこと。

生ひたちの町に城あり初茜  岡本差知子

 元日の朝、初日が出る前の茜色に染まった空のことを初茜。

お降りやからくれなゐに暮れしあと 松澤昭

 元日もしくは三ケ日に雨か雪が降るとお降り(おさがり)。降る(ふる)を忌む言葉。

灯台の一徹の白初景色  片山由美子

 新年明けてすぐの景色を初景色。漠然としていますが正月ならではの気分です。作者は作句と評論に活躍する若手俳人。俳句で若手とは五十才以前のことです。

若水や人の声する垣の間  室生犀星

 若水は元日の朝初めて汲む水。一年の邪気を払うと言われます。作者は有名
な詩人。

門松を立てて鰈を干してある  辻桃子

 漁村の正月風景か。ユニークな句作りの結社主宰として知られた人。

鏡餅わけても西の遥かかな  飯田龍太

 西は西方浄土。現実の行為に重ねて遥かなる思いに浸っています。作者は現代を代表する俳人。蛇笏の子息。

海の子の海の一字の筆始  野上飛雲

 筆始は書き初めのこと。

独酌のごまめばかりを拾ひをり  石川桂郎

 ごまめは田作り。作者は横光利一のもとで小説を学び、俳句のジャーナリズムを切り開いた人として知られています。

(俳句はいずれも「俳句歳時記 角川書店」より)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No108「養生について」

三島治療室便り'98,12,1

 

東洋医療の根幹は養生です。
今日とは考え方が大分変ってしまいましたが、記録としてあまり手を加えないで掲載します。

 

 

養生

 

 三島治療室便り《游氣風信》では最近ちっとも健康情報を取り上げないではないか。これでは単なる気ままな個人紙に過ぎない。健康に役に立つことを書かないでは、とうてい「治療室便り」とは言えないのではないか。

 

と、お叱りを受けることがあります。

 

 いや、そうじゃないんです。
 病気の人は症状を苦にするのがそもそも病気の始まり。むしろ病中こそ病気を忘れたほうがいいのです。むろんそれはとても難しい。それは重々承知しています。しかし難しいからこそ、こんな書き散らした文書を読んでいただいて、少しでも病気を忘れていただこうと腐心しているのです・・・とはわたしの弁明。

 

 大体《游氣風信》の「游」とはふわふわ水に浮いているマンボウかクラゲのような状態を意味しますし、「氣」は変幻自在、「形なくして勢い」ありというものごとの根源的存在。
 「游氣」とは以上を踏まえたわたしの造語。
 さらに「風信」は「風の便り」。
 つまり《游氣風信》とは「ふわふわ揺蕩(たゆた)うような風の便り」なのです。
 早い話が何から何まで「いい加減」ということです。しかし「いい加減」はまた「好い加減」でもあります。どちらに転ぶか。それは読み手にお任せしましょう。
 この通信の名称《游氣風信》は以上を踏まえて、さまざまな偶然から奇跡的に得たこの愛しい「いのち」の本来あるべき健やかな状態を体現したい、現実に拘泥しないでもっといきいきと暮らしていきたい

 

という意味で作りました。

 

 とは言うものの実際にどうすれば健康に役立つのか、毎日を気楽に暮らすことができるのかという情報も必要でしょう。そんな人々の思いを反映して世の中には健康情報と称するものはゴマンとあり、毎月発行の健康情報誌も十誌に余る盛況振。新聞でもテレビでも毎日「健康」に役に立つ記事や番組をやっています。
 それ故に、あえて健康情報などここで書かなくてもいいのですが、たまには治療院らしく養生として使えそうなものを書き出してみます。

 

 ただし、以下は丁寧にまとめ上げたものではなく、今、ワープロに向かって思いつくままに書き綴っているもです。ここでも先程のクラゲのようないい加減さが露呈してしまいました。
 これからも折に触れて丹念に修正加筆しながら、将来はもっときちんとしたものに仕上げたいと思っています。

 

 今回は個々の疾患治療に関しては触れませんでした。つまり治療でなく養生に的を絞ってあります。

 

序論

 

 何事の最初は概論が必要です。ものの考え方のまとめと方向づけです。ざっと思いつくまま箇条書きします。

 

1)以下に出てくる肝・腎・胃・大腸などの内臓名は現代医学のものとは概念が全く異なることを承知の上で一つの符丁としてお読みください。つまり漢方で言うところの「肝」と現代医学の「肝臓」とは名前が似ていても全く異なるものなのです。
 そもそもは江戸時代に蘭方(オランダ)医学が入ってきた時、漢方の五臓六腑の呼び名を無理やり西洋医学の臓器名に翻訳したのが混乱の始まり。そのまま今日に至っています。

 

2)もともと漢方的発想には良い悪いという二分法はありません。したがって健康と病気という対立概念もありません。あらゆる物事はすべからくひとつの過程的状態と考えます。健康と病気の間にも明確な境界線はありません。
 人生は絶えずどちらかに揺れながら過ぎるのが普通です。

 

3)健康を目的とするのは金銭を目的とするのと同じく、人生の本来の意味を見失わせます。一人一人の人生の目的のために健康である方が望ましいとするのがわたしたちの考えです。それは事を成すには資金がいると同じです。
 書生っぽい理想論と言えばそれまでですが理想無くして何の人生でしょう。

 

4)不都合に固定化された状態を障害と言いますが、そうした人たちの存在自体が多くの人に人生の意味を考えさせる契機となります。その意味では彼らの存在自体がすぐれて社会性を有しているのです。
 その方たちとどう対応していくか。
 自分がそうなったらどうするか。
 老いもまたひとつの類似した現象です。
 一人一人が厳しく問い詰めなければならない問題でしょう。

 

5)本当に医療機関へ出向かなければならない疾患はそれほど多くはないはずです。例えば風邪は外的環境の変化から生じた内的環境のずれを回復しようとする極めて自然な反応であって病気ではありません。安静にして体の治癒力にゆだねておけばいい段階ですぐに注射をしたり薬を飲んだりするのは愚かしいものです。
 仕事や学校を休めないから早く治したいというのは病気の問題ではなく社会的問題に入ります。

 

6)疾患や症状があっても即病気とは限りません。それらが自分の生き方を阻害するまでになった時病気と言います。加齢によって阻害されるならそれは老いです。

 

養生各論

 

栄養
 とりあえずその民族の伝統食を食べることは無難な選択です。今日まで民族がその食事で生き延びてきたということは気候や土地にあっているからです。
しかし今日では伝統食は農薬や食品添加物、公害、栽培方法の劇的変化で実際に作ることは困難です。しかも実情に合わなくなってきました。

 人には体重の1000分の1グラムのタンパク質が必要だと言われています。60キログラムの人なら60グラム。運動選手はもっと多く必要となります。これは結構な量で、肉や穀物や魚などの普通食から摂取するのは大変です。
 目安としては最高に優れたタンパク質である卵の黄身が一個で約6~8グラム。
牛乳200CCで6グラム。肉や魚100グラムで20グラム。ご飯1ぜんで5グラム。大体このように摂取できます。これを基準に考えるといいでしょう。

 

 ただし、タンパク質の質を評価する物差しとしてプロテインスコアというものがあります。スコアが100のものが最高のタンパク質。天然の食品では卵の黄身とイワシが100です。必須アミノ酸が全てバランスよく存在しているのが100。大豆や牛乳は70台。大豆とお米の組み合わせは100に近づけます。

 

 タンパク質は構造的に体を作る材料であり、同時に機能を司る酵素の材料です。タンパク質にビタミンやミネラルが協力して酵素になります。酵素は生物学用語で化学で言うところの触媒のことです。体のさまざまな反応は全てこの酵素があるお陰で平熱(およそ36.5度)という化学的には極めて低い熱で効率的に行われます。
 また酵素は遺伝子情報を正確に取り出すために不可欠です。

 

 健康のために注意したいことはできるだけ体を錆びさせないこと。あらゆる活動は酸素消費の結果として体を錆びさせます。
 つまり体の活動は酸素をともなった化学反応を行いますから、結果として酸化が起こるのです。それを簡単に言えば錆びるということです。金属の酸化がすなわち錆び。人体の老化や炎症も同じことです。

 

 体の錆び(老化)には活性酸素がかかわります。ビタミンのEやCやA、ミネラルのセレニウム、イチョウの緑葉のフラボノイドなどがその予防になると言われています。漢方薬の効果もこの方面から研究されています。

 

 現代の栄養学では、人体に必要な栄養素が40種ほどあるとしています。ビタミン17種、ミネラル15種、アミノ酸8種です。それ以外にも必要なものは一杯ありますが体内で合成されたり、比較的摂取が容易なもので普通の食事で賄えるものです。
 アメリカの栄養学者は普通の食事以外にこれらの含まれた栄養補完食品をとりあえず必要量摂取しておくことが保険がわりになると勧めています。

 

 また近年、機能性食品と称する概念が認められました。これは直接の栄養ではしないが、食物繊維のように食物の中には体に有用な成分もたくさんあることが分かってきたのです。
 これからも食品や栄養素の研究は進んでいくことでしょう。

 

 しかし食事は栄養素を取るだけでなく、美味しいという感性を満足させるものでもあり、家族や仲間との団欒の場でもあります。こうした充実感は健康的な明るい生活には不可欠です。

 

免疫力
 免疫とは体内に異種タンパクが侵入したとき、それが異物であることを判断し、攻撃し、その異種タンパク情報を記憶し、次回からの侵入には速やかに対応するという、いわゆる身体防衛作用のことです。

 

 鍼や灸の効果を免疫から考える研究があります。
 特にツボにこだわらなくても、鍼や灸をすると血液中の免疫物質が増えるというものです。これを鍼灸の一般効果と呼びます。らを強化することで感染からの防衛力が増強します。

 

 感染は悪いことばかりではありません。生物は細菌やウイルスなどと熾烈な関係を持ちながら今日の形態を獲得しました。軽い感染は免疫機構を刺激し免疫力を起爆剤のように活性化させます。軽い風邪は免疫力を高めるという有効な働きをしてくれるのです。すぐに薬で症状を押さえ付けるのは健康的ではありません。
 また、ガン細胞なども毎日体内のどこかで芽を出していますが、免疫で退治しています。ちょっとした風邪はその力に拍車をかける有用な作用と考えられます。今日、医師が以前ほど風邪に対して簡単に注射をしないで様子を見るのはこのことがはっきり分かってきたからです。

 

 現代の先端医療でも免疫を高めることでガンを駆逐しよう、共存しようとする研究が進められています。

 

 しかし体の仕組みも完全ではなく、時々自分自身の体を異種と勘違いして攻撃し続ける自己免疫疾患というやっかいな病気もあります。リウマチやアレルギー疾患などがその代表でしょう。

 

 細菌やバクテリアと戦うのは白血球やリンパで武器は活性酸素です。ところがその武器は平民(自分の細胞)までも傷つけてしまいます。その対策としてSODという酵素が働きますが、40歳を過ぎると途端にSODの製造能力が低下してしまいます。ガンもそれに比例して増えていきます。
 SODを補うためにビタミンA・C・Eなどが有効と言われています。緑黄色野菜が叫ばれる理由です。

 

自律神経系
 自律神経系はわたしたちの意識にかかわりなく心臓や肺や胃や肝臓など全身を支配して無意識的に生命保持のために作用している神経系統のことです。以前は植物神経とも呼ばれました。植物人間とはこの神経の働きのみで生きている人のことです。

 

 それに対して、自分で意識的に操作出来る神経系統を脳-脊髄神経と言います。一般的には運動神経(本来は感覚神経との対概念)といった方が分かりやすいでしょう。昔は動物神経と呼ばれました。運動神経は反復練習によって発達して運動能力が高まることはよくご存じでしょう。

 

 具体的に説明すると、机の上にリンゴがあるとします。リンゴを見つけて食べようと手を伸ばし、リンゴをつかみ、口に運び、口を開けて、噛み、飲み込むまでは意識的な動作です。しかし口に入れてから唾液が出たり、飲み込んだ後、食道から胃腸を経て大腸まで運ばれ、途中、消化酵素が分泌され、胃袋や腸が動くなどは意識しなくても体が勝手にやってくれます。逆に意識して胃袋を止めることなどはできません。これらが自律神経の働きなのです。心臓の拍動も尿の生成も、自律神経のコントロール下にあります。

 

 呼吸は普段は無意識的な自律神経の作用ですが、意識的に遅速や強弱をつけることが可能です。肛門も意識的にコントロールできます。肛門のコントロールが完全に無意識にゆだねられたら垂れ流しになって困ることになってしまいます。赤ん坊は全くその通りですが社会的に容認されていますから問題ありませんが、少し成長した場合は問題になります。

 

 呼吸法は呼吸が自律神経と脳-脊髄神経の両方の影響下にあることを利用して自律神経調整に役立てているわけです。

 

 自律神経には二つあります。交感神経と副交感神経です。それぞれの器官に両者が関与しおおむね拮抗的(一方が働けば一方が休む)に作用します。
 このバランスがよければ体調は極めて良好ですが、うまくいかないと自律神経失調の状態になってしまいます。それで諸器官に異常は見当たらないにもかかわらず不調を訴えると医師から自律神経失調症という病名が付けらることになるのです。

 

 脊柱に沿った筋肉(脊柱起立筋)には「交感神経」の反応がでます。神経が脊髄から別れて内臓などに分布する出口だからです。内臓情報の入り口でもあります。

 

 首や仙骨周辺には「副交感神経」の反応がでます。神経の出入り口だからです。
 そこで頭蓋骨の下から首や背骨の両脇、仙骨や臀部を刺激して自律神経のバランスを調えます。指圧や鍼の重要拠点になるのです。

 

 また全身をゆったりと深く静かに指圧するととてもリラックスできます。このリラックスは心地よさが生み出すものです。快い感覚は脳の脳下垂体などを刺激して自律神経やホルモンに影響を与えます。
 また、静かな安定圧は母親の胎内にいたころの安心感に結び付き、深いリラックスを生み出します。
 鍼で全身調整することも筋膜や筋肉を緩めるので有効です。

 

 先程述べたように、深いリラックスには深いゆったりとした呼吸が必要です。
そのとき意識的に筋肉の緊張をゆるめる体操をすると効果的。ヨガやストレッチがそれです。
 繰り返しになりますが、呼吸は自律神経と脳-脊髄神経の両方にかかわりますから、呼吸法が自律神経調整法になるのです。

 

ストレス
 ストレスは外的環境からの刺激に体が対応する際の機能的変化のことです。
その刺激(ストレッサー)には物理的・化学的・生物的・社会的なものなどがあります。

 

 一般にストレスというと人間関係や心の悩みのことを考えますが、疲労、気候の寒暖、喜び過ぎ、怠け過ぎ、楽しくない作業、食べ過ぎ、我慢、先の見えない苦労、食品添加物、ばい菌など全てストレスになります。要するにありとあらゆる心身の刺激に対して反応することをストレスと呼び、その刺激をストレッサーと言います。

 

 少々のストレスは生きる励みとなり、生命力を活性化します。
 この「少々」の量や質に個人差があり、ある人はものすごい緊張を喜び、別の人は些細な刺激で苦しみます。

 

 ストレスは脳下垂体(神経系とホルモン系の橋渡しをする)や副腎のホルモンに深くかかわります。
 副腎の作用は大量のビタミンCを消費しますから、積極的に補給しなければなりません。またホルモンを合成する際、大量の活性酸素も発生しますから二重の意味でビタミンCが要ります。ただしCの大量摂取は胃の中に活性酸素を生じますからビタミンEも同時に摂しておく方がいいそうです。

 

 副腎皮質ホルモン剤を用いて効果の上がる病気には免疫の問題が大きいはずです。

 

 以上の免疫・自律神経・ストレスは皆深くかかわっています。同時に人生観や心の持ち方も大変重要です。

 

身体各部位

 

毛髪
 毛根のためには弱酸性のシャンプーがいいようです。
 毛根の栄養促進にビタミンEオイルによる頭皮マッサージ。
 漢方的には腎を酷使しないことも大切。冷えや睡眠不足、過度のストレスやセックス過多は危険因子。したがってバイアグラは逆効果。

 

皮膚
 皮膚の健康のためには紫外線を避けてあとはあまり清潔にし過ぎないようにして放っておけばいいですが、女性は美しく見せかけるために化粧という徒労をしなければならないので、そこから先はお化粧品の会社と相談していただきましょう。

 

 紫外線の害(シミ・ソバカス。甚だしきは皮膚がん)はビタミンCが防ぎます。最近の化粧品にはビタミンCが使われているようです。オゾン層破壊が進むと紫外線の害が深刻になります。

 

 お肌の潤いのためにはビタミンAの保水性。
 皮膚の弾力のためにはコラーゲンですがこれはタンパク質とビタミンCで作られます。
 栄養補給の血行促進はビタミンE。

 

 漢方的には皮膚は肺の影響かにあります。深い落ち着いた呼吸が皮膚を守ります。
 息を詰めるような環境にはできるだけ身を置かないで、胸や背中、肋骨部の筋肉を緩めておくことが大切。

 


 光が入ってくる目のレンズは最も紫外線の影響を受けるところです。ビタミンCが大量に必要になります。眼科でもらう点眼薬にもCが入っています。
 網膜はビタミンAの大量に存在する所。湿気のあるところはビタミンAが必要だと覚えておいてください。つまり粘膜や関節軟骨など。ただしくどいようですがどこでもタンパク質あってのビタミンであることにお忘れなく。

 

 漢方的には肝機能。大腿内側部の指圧が有効。足の親指も大切。
 眼窩(目のくぼみ)の骨を上は上方に指圧、下は下方に指圧、眼窩のくぼみを押し広げるようにします。あと眼窩を内から外へさすり、こめかみを揉むように指圧しておきます。
 目のストレッチも有効です。目玉を思いっきり左右上下に動かし、大きくゆっくりぐるりぐるりと回すと目のまわりのリンパの循環を助け、眼球を動かす筋肉の疲労回復に役立ちます。
 そのあと自分の鼻を見て、壁を見て、窓の外を見て、遠くの雲を見てという具合に次第に目線を遠くに放ってぼーっとすることでレンズの焦点を調整する筋肉のストレッチをします。次に逆に順番に戻ってくるのもいいでしょう。

 

 拳を軽く握って手首をぐるぐる回すと目の緊張がゆるみます。
 これらの眼の体操はパソコンによる眼精疲労や仮性近視の予防に有効です。

 


 耳は外耳・中耳・内耳から成り立っています。働きは「聞く」ことだけでなく「平衡感覚」も司っています。具合が悪くなるとめまいや吐き気をもよおすのはこのためです。
 いずれにしても血行をよくすることが大切。ビタミンEに期待しましょう。

 

 漢方的には腎が関係します。冷え・心身の過労が禁物。
 冷えに関しては「冷え取り健康法 進藤義晴著 農文協刊」が参考になります。

 

 養生としては耳たぶマッサージが有効。耳たぶを上は上に、下は下に、後ろは後ろに刺激的に引っ張るようにこすります。
 耳の周辺の血行をよくして、年を取って耳が遠くなることや耳鳴りを予防します。

 


 首は7つの頸椎と複雑に入り組んだ筋肉、筋肉や骨の隙間を走る神経や血管、食道や気管という複雑な構造をしています。
 また首は重い頭を支えていますから、姿勢の善し悪しが筋緊張に随分影響します。

 

 頭脳労働の影響も受けやすい部位で、精神疲労や目のストレスも首こりを発生させます。
 頭をアドバルーンのように空中に浮いているものだとイメージすると首と背骨が自然に伸びて緊張のとれたよい姿勢になるでしょう。
 顎の噛み合わせの関節の緊張も首のこりを作ります。ときどき大きく口を開いて咬む筋肉をストレッチしましょう。仕事中はいつも知らず知らずに噛み締めていますから。

 

 首のストレッチは息を吐きながら頭の重さを利用してゆっくりうなだれる、左に傾げる、右に傾げる、天井を見る(無理をしない)、左を振り返る、右を振り返るという具合に行います。
 ゆっくりのびのびリラックスして筋肉の伸び具合を感じながらすることが肝要。いずれも普通呼吸で10秒から20秒伸ばします。
そのとき、腕はだらりと投げ捨てるように肩からぶら下げておきます。

 

 

 自分で自分の首の指圧は難しいのでマッサージをします。右手のひらで左の首をゆっくり撫で下ろします。こりをじっくり感じながら溶かす気持ちで。右側は左の手で。

 


 歯周病の予防は堅いものをよく噛んで食べることと、しっかりブラッシングすることです。歯垢は24時間で虫歯菌の住処になるそうですから、一日に最低一回はていねいにブラッシングすることです。
 知り合いの歯科衛生士は「歯を磨く」と言わないで「歯を洗う」と表現します。洗うつもりで小さめの歯ブラシを用いて一本一本まんべんなくこすっていきます。
 ブラッシングする場所にこだわらず、テレビを見ながらでも、湯船の中でもいいので実行することです。一回20から30分。時間が作れないときは小分けにして総合で30分。洗面所でやろうとするとどうしてもおっくうになりがちです
から。

 

 ブラシの幅は歯2枚以下がいいようです。子供用がちょうどいいのです。大人用は歯のすみずみに届きません。テレビで宣伝しているようなこったものでなくごくありきたりの歯ブラシで結構。
 フロスや歯間ブラシも必要になります。詳細は歯医者さんで指導を受けるといいでしょう。

 

 歯と歯茎の間のポケットという空間に歯石ができると歯周病(歯槽膿漏など)になりやすいですからていねいに。

 

 ブラッシングして出血したらうっ血しているところが見つかったということで優しくていねいに洗ってください。
 歯茎の具合の悪い人は歯茎の指圧も有効です。挟むように指圧すると血膿が絞り出されます。

 


 肩も首と同じくこりやすいところです。
 深い、ゆったりとした呼吸で肋骨をストレッチしましょう。自分の胴体が風船になったイメージです。何より吐き出すことが基本です。

 

 腹式呼吸のできる人はまず吐ききり、腹だけでなく腰や脇腹にもしっかり吸い込みます。次にそのまま胸に吸い上げ最後は妊婦のように肩呼吸。こうすると深い呼吸になります。
 息を吐くときは呼吸の「呼」の字が示すように「おーい」と人に呼びかけるように細く長くクモが糸を出すように吐きます。

 

 腹式呼吸のできない人は、息を十分に吐いたあと、胸一杯(脇や背中にも)に息を吸い、次にその息を止めておなかにストンと落とします。できますか。
それをまた胸に上げます。腹と胸がフイゴのように数回繰り返して吐きます。

 

 ストレッチとしては肩をすくめてそのまま保持し、首を左右に大きく回すと首と肩の境目の緊張がほぐれます。
 首と肩は意識上は境界線があいまいですから、どちらもよく動かしたほうが効果的。

 

 筋肉をゴリゴリ揉むとその場は気持ちよく、あともさっぱりして楽ですが、長い目で見ると結果的には筋繊維や毛細血管を破壊しますからこりを恒常的に作る体になってしまいます。

 

 筋肉を堅くしないためには精神的にほっとくつろぐことが肝心です。ビジネス街では手っ取り早い10分間マッサージなどもはやっていますが、本来はじっくりと数十分ていねいに指圧を受けた方が心身ともにはるかにくつろぐことができます。
 指圧を受ける間、いろいろの身の上話や愚痴などをされる人もありますが、それも心を解放することに役立っています。

 

 内臓、特に肺や心臓の問題、時には胃や肝臓や胆のう、十二指腸の違和感が肩のこりや痛みとして出現することがあります。骨の問題も。あまりしつこい場合は要注意。

 

背中
 現代は思い切り体を動かすことが少ない生活スタイルになってきました。特に職場や学校などの組織に属するとそうなりがちです。動かないと本来が動物である人間には不都合なのです。
 動かないとリンパや血液の循環が悪くなり、筋肉の硬化を招いてしまいます。
あまり意識されませんが背中も例外ではありません。

 

 背中には12個の脊椎骨があります。それにそれぞれ一対の肋骨がつながっています。
 運動不足を解消するために意識的に伸びをしたりひねったりなどのストレッチが大切です。
 猫のように背中を丸くしたり、蛇のように背中を反らしたりする方法がヨガにあります。
 背中がはってきたなと思ったら体を前方に倒す・後方に反らす・左右に倒す・左右にねじる・背伸びするという動作をゆっくり息を吐きながら行います。

 

 背骨の両側の筋肉(脊柱起立筋)には自律神経の反射によるコリが生じます。
 背中のコリに対しては指圧してもらうのがいいのですが多少の技術がいります。そこでお薦めはせんねん灸とかカマヤミニという手軽な家庭用のお灸です。
こっているところ、圧して気持ちのいいところや少し痛い所に置いて刺激すると気持ち良くほぐれるでしょう。

 

 指圧もお灸も家族の協力を求めることになります。協力してくれる人がいるならそれだけで社会的に孤立していないという安らぎが得られます。

 

 神経緊張が続くと背中がばんばんに張ってきます。こうなるとぎっくり腰や寝違いの予備軍。その原因としては精神緊張や運動不足に加えて内臓の病気もあります。
 内臓の疲れが反射的に筋肉のこりを作るのです。こった所を指圧で気持ち良くほぐすことで逆に内臓によい影響が与えられます。
 鍼で筋肉を緩める操作もあります。

 

 肩こりと肺や肝臓、背中のこりと膵臓、腰痛と子宮や腎臓などの関連は看過できません。
 内臓からくる症状の特徴はあまり姿勢の変化の影響を受けないことです。特に夜間、就寝中に痛みだす場合は注意が必要なこともあります。

 

 鍼や指圧などをしてもしだいに悪化する場合は「たかが肩こり、ちょっとした腰痛」とたかをくくらないで医療機関での精密検査が必要です。

 


 腰は背中との間で意識できる明確な境界線はありません。解剖学的には骨盤の上で肋骨の無い部分が腰です。肋骨のあるところは背中。英語では腰は「背中の下の方」と言いはっきりした概念はありません。
 腰には5個の脊椎骨があります。下の方からは座骨神経が出ています。

 

 腹筋の低下や肥満が腰痛の原因になります。腰椎が反るからです。
 虚弱体質の胃下垂や遊走腎、婦人科の疾患も腰痛を発生させるのでそちらの調整も必要です。
 骨盤と大腿骨をつなぐ複雑な筋肉構造のアンバランスが腰痛の原因であることも多く、臀部の深い指圧が有効です。

 

 ウエストラインにはベルトのように帯脉という漢方で呼ぶスジがあります。
これを引き絞るようにマッサージすると内臓下垂に効果があり、全身の筋肉体系を調整します。

 

 日常の養生としては痛いときはすぐ横になるにつきます。痛くないときには腹筋を鍛えたり、大腿内側部のストレッチをして筋肉を柔らかく保つことです。
 漢方で言う肝経や腎経のスジが走っています。

 

 大腿の後ろ側は英語でハムストリングと言います。すぐ堅くなるところです。
床に座り脚を前に投げ出して膝が浮かないように前屈すると伸ばすことができます。柔軟体操の代表的なポーズです。無理しないで体重でじわじわ伸ばしま
す。息は決して止めないように。

 

 次に足の裏を合わせてあぐらをかくように座り、脚に胸を近づけるストレッチ。仰向けに寝て、両膝を抱えて胸に近づけるストレッチも効果があります。

 

 腰痛の陰に、ごくまれに重大な病気が隠れていることは背中と同じです。

 

肩甲骨
 肩甲骨は鎖骨を介して胸の骨に連結しているだけで肋骨の背中側に筋肉に支えられて浮かんでいます。ところがこれが筋緊張で背中に張り付いてしまうのです。こうなるとひどい肩こりに悩むことでしょう。

 

 腕立て伏せの形で肩甲骨の前後移動をするといいのですが難しいですね。腕立て伏せは肘を屈伸しますが、肩甲骨の体操は肘は伸ばしたままで肩の前後運動をすると動きます。

 

 鳥が羽ばたく気持ちで腕を下から上にゆっくり大きく動かすのも有効です。
肩の力でなく全身を波打たせるように行うのですが説明は困難。見れば簡単なのですが。

 


 疲労回復には腕のストレッチが有効。
 まず天井を支えるように両手を頭上にしっかり伸ばします。無理しない範囲で思い切り。
 次に左右の壁を支えるように左右に思いっきり伸ばします。やや体より後ろまで広げると腕と胸のストレッチになります。
 前方の壁も押さえるように伸ばしましょう。
 さらに、腰の後ろで両手の指を組んで後ろに伸ばしましょう。胸が広がります。
 万歳して手をブルブル震わせるのも疲労回復になります。
 
 前腕には精神緊張が出ます。また吐き気やめまい、乗り物酔いでも前腕がつよく張ります。しっかり揉みほぐすと効果的。

 

骨盤
 骨盤に手を当てて腰をフラフープのように回すと骨盤の体操になります。左右30回くらい。
 全身の力をゆるめて足の指を浮かすようにして立って腰回しを行うと体の芯から動きます。

 

股関節
 時々お相撲さんの四股立ちをしましょう。四股で体を左右にねじると背骨の体操になります。

 


 関節面が変形して、膝に水が溜まるようになると大変痛みます。それを過ぎるとO脚になる可能性もあります。
 いつも大腿の内側と後ろ側を重点に指圧して柔らかくしておくことが大切です。水が溜まっているときはその周縁にお灸をします。
 痛みが強いときは痛い所にします。

 

 歩くとき少し大股で足をまっすぐに出すように心掛けると大腿部の内側の筋肉が鍛えられて足の筋力低下の予防になります。
 仰向けに寝て、膝を伸ばしたまま脚を上下するのも有効。
 年とともにO脚になり、上体を左右に揺すって歩くようになると膝がかなり悪くなった状態です。

 

 漢方的には膝は脾経(大腿の前内側)や胃経(大腿の前外側)というスジに関係が深く、そのスジの力が弱っています。

 

 膝の悪い人は脚の横のスジの胆経(大腿の外側)に過度の緊張がみられます。
また、後内側の腎経も堅くなっています。
 それらを指圧したりストレッチして予防しましょう。

 

 また、ふくらはぎがぱんぱんに張っている人もいます。スネの骨の後ろ側のくぼみをじっくり指圧すると膝が楽になります。

 

ふくらはぎ
 堅くなりやすい筋肉です。堅くなると夜間痙攣します。はなはだしい場合はちょっとのことでアキレス腱を切る恐れもあります。
 疲労の溜まりやすい場所ですから普段からストレッチをしておくこと。和式トイレの座り方、通称ウンチ座り、別名暴走族座りは下半身全体のストレッチになります。
 足首を回すのもいいです。

 

足の裏
 ここを指圧してもらうと全身がゆるみます。頭の中もゆるみます。自分でやってもいいのですが、誰かにしてもらうのが一番。
 やり方は気持ちいいか少し痛いくらいで、隅から隅まで刺激すればいいでしょう。
 足の裏に全身の絵を描いて、そこが痛いと関連臓器に問題がある。そこを押さえると関連臓器が治るという足裏療法が大流行しています。根拠は不明ですが何らかの効果があることは経験的に実証されています。
 やたらと痛くする方法もありますが、痛くすることが目的ではなく、じーんと響かせる圧え方が大切なのです。

 

 

内臓全体
 全身の疲れやストレスが内臓に反映します。ですから内臓を大切にするためには感情のコントロールも肝腎です。

 

 漢方では怒りは肝、喜びは心、思いは脾、悲しみは肺、恐れ驚きは腎にかかわるとしています。
 問題に立ち向かう勇気と逃げる勇気。
 失敗には後悔でなく内省。
 さまざまな局面でちょっと立ち止まり人生を味わう心境になれば自らを相対化できます。それはゆとりにつながります。

 

 誰でものその人の立場に応じて人生に目的を持って楽しく生きることが肝腎です。肝腎は肝心とも書きます。肝要とも言います。要は腰のことです。「肝・心・腎・腰」など大切なことの意味に体の部位を用いるところはおもしろいで
すね。

 

 内臓は基本的には自律神経にお任せですから、自律神経のバランスを崩さないライフスタイルが肝心です。
 体の声に耳を傾けて、精神と肉体の調和を取っていくのが意識の働きです。
どうしても現代社会では肉体が精神に隷属してしまいます。
 指圧や鍼を受けると体の内側からの声がよく聞こえます。思わぬところが痛かったり堅くなっていたり、とても気持ちよかったり。これが自律神経によく作用するのです。

 

呼吸器
 肺を中心に横隔膜や肋間筋群、その他呼吸に関連する神経や血管、骨格全ての総称です。
 呼吸しようという思い(意識・無意識にかかわらず)で筋肉に静かな緊張がおこるところです。
 深呼吸する場合は足の先から頭のてっぺんまで、また手の指先、細胞一個一個つまり全身がが協調して呼吸をします。こうした一連のつながりを漢方では経絡といいます。
 呼吸は大空を体内に引き込み、また返すこと。早朝の林の新鮮な空気が肺を癒してくれるでしょう。

 

 漢方の経絡では肺・大腸という組み合わせ。胸から手の親指までのラインが肺経。人差し指から肩を通って鼻へ通じているのが大腸経。
 増永指圧の場合、脚の裏外側にも走ると想定しています。深呼吸は全身で行うのですから妥当な考えです。

 

 呼吸の働きは生物の進化に応じて空気だけでなくその場の雰囲気なども感じ取るようになりました。心を閉ざすときは胸の筋肉が堅くなり、逆に心を開くときは胸をくつろがせる、すなわち胸襟を開くのです。

 

消化器系
 食物を摂取し消化し排泄する器官です。
 唇から歯や舌、喉から食道、胃、十二指腸、小腸、大腸、肛門という一連の中空器官と消化酵素を担当する肝臓、胆のう、膵臓。それらにかかわる神経や血管。内臓を支える筋膜や腹筋や背筋。さらには獲物を取りに行ったり果物を収穫に出掛けるための脚の筋肉も関係します。

 

 中空器官は体内にありますが、口から肛門までは一本の管ですから体の外が体内に入り込んだとも考えられます。つまり胴体の中を貫いているホースのよ
うなものなのです。

 

 腸は畑の土のようなものと考えられます。なぜなら腸の壁には無数の毛のような突起があって食べた物から栄養分を吸収するのですがこれは形態的に土から栄養を吸収する植物の毛根そっくりです。

 

 小腸は食物を一生懸命消化吸収するところで、大腸はかすを処理するところです。

 

 大腸のなかにはご存じのように多くのバクテリアがいます。代表的なのが大腸菌とビフィズス菌。これも畑にいるバクテリアと相似的です。
 ビフィズス菌は有用菌といって、体にはなくてはならない菌です。大腸の管理はいかにビフィズス菌を上手に飼うかが重要課題となります。

 

 朝、目覚めたらすぐに液体ヨーグルトにビフィズス菌を入れて飲み、以後2~30分なにも食べないでいるとビフィズス菌が腸に到達します。時々腸のために食べるといいでしょう。普通にビフィズス菌を食べたのでは胃液で殺菌されてしまい、腸までは到達できません。

 

 さらに腸内にいるビフィズス菌のために餌をやります。餌はすっかり有名になったフラクトオリゴ糖。タマネギやバナナなどに多く含まれていますが、食品として販売されているものを補う方が圧倒的に効果的です。

 

 大腸は便の水分を吸収し、固形にして排便しやすくします。そうでないと下痢ばかりで困ってしまいます。しかし長く逗留していると今度は便が堅くなって排泄困難になります。これが便秘。
 これは食物繊維で刺激してやる必要があります。野菜のおひたしを小鉢一杯くらいを毎日食べなければなりません。リンゴのペクチンという水溶性の繊維は美味しくて食べやすいものです。
 干しプルーンも効果があると常用している人がいます。栄養化も高いものです。

 

 呼吸が大空を体内に取り込むことなら、消化は食物を通して大地を体内に取り込むことです。同化作用(消化吸収)はそれを身に変え、異化作用(排泄)は大地に返すこと。

 

 この働きは人間ではモノを取り込む欲望になりました。過食や拒食など精神的問題が食事形態に現れるのはそのためです。

 

 この経絡(スジ)は体の前面を走っています。

 

循環器系
 心臓を中心にした血液循環と体内をくまなく流れているリンパ液があります。
体液循環にかかわる全てです。ですから小腸からの栄養を取り込む肝臓や、古い血を漉す腎臓、新しい血液を造ったり古い血を壊したりする脾臓も関係します。

 

 その働きは栄養や酸素を運んだり、不要物を持ち帰ること。また外的環境の変化から内的環境を保護する防衛も行います。

 

 経絡は腕の全面中央と背面中央を走ります。

 

 血液は太古の海を体内貯蔵したものと考えられます。海の成分と血液成分と植物の葉緑素が非常に似ているといわれます。植物にとっては葉緑素が血液なのです。貧血の人が緑黄色野菜を必要とするのはそのためでしょうか。

 

 漢方独自の考え方にお血(悪血ではありません。お血の「お」は病垂れに於という字)というものがあります。体内のいたる所に貯留して血行を妨げるもの、あるいは妨げられた結果、三日月湖のように組織に残ってしまた血液のことです。

 

 特に腹部にある圧痛はそれの存在を示します。これを除去することが慢性病治療には不可欠です。
 頭部などにもみられますが、事故やケガ、手術の後にもお血が発生します。

 

 これら機能の弱い人は環境に対する適応能力も弱くなりがちです。

 

ホルモン・自律神経系
 この両者は前にも書きましたが、いのちの維持はこのコントロールにかかっています。

 

 脳下垂体や副腎や胸腺を中心にした内分泌(ホルモン)と脳・脊髄を中心にした自律神経。これらはいのちの作用そのものにかかわり、全体のバランスを取っています。
 
 体では主として背骨の両側の脊柱起立筋に自律神経、腰に副腎の反応が見られます。ストレスの反応が顕著にでるところ。

 

 これらの不調は免疫力の低下にかかわりますから、精神緊張を除き、ほっとくつろぐ時間が大切です。生活を楽しんで生き切ることがよいリズムを作ってくれます。

 

 背骨の両側や腰の指圧、足裏や手のひら、頭のマッサージは有効です。

 

水分調節系
 腎臓や膀胱の泌尿器に代表されますが、それ以外にも皮膚からの発汗や呼吸による水分蒸散があります。水分調節に血液循環は極めて重要な役割を果たし、心臓が悪いと浮腫みがでるのが知られています。

 

 ツボの中には水に関した名称を持つものが多く、体験的にそれらが水分代謝に有効であることが知られています。特に内くるぶしの上や腹、足の裏の刺激が機能を高めます。

 

 漢方では不要な水分を水毒と称し、気・血と合わせて三毒と言います。

 

運動器系
 筋肉や骨格です。体の中では脳と一緒で例外的に鍛えられるところです。
 筋肉をや骨を鍛えるのは適度な負荷を掛けることですが、負荷には二種類あります。ひとつはアイソメトリックス(等縮運動)、もうひとうつはアイソトニック(等張運動)。ダンベルを上下したりするような動的な体操はアイソト
ニックで、重いものをじっともち続け、一見運動していないような体操がアイソメトリックス。
 アイソメトリックスは老人にも安全な鍛練です。最大筋力の70%くらいの力を呼吸しながら7秒間持続することで確実に筋力をつけることが可能です。

 

 酸素消費からみると、無酸素運動と有酸素運動(エアロビクス)。心肺機能を鍛えるのはエアロビクスです。心拍数を一定以上に保って15分以上継続することですから、ジョギングやサイクリング、エアロビックダンスなどが代表的ですが、テニスやバドミントンなどのボールゲームは楽しく実行できます。趣味で楽しむ程度の野球やゴルフでは駄目です。

 

 反動運動と無反動運動(ストレッチ)。静かに筋肉を伸ばし呼吸も止めないで10から20秒静かにしている体操がストレッチ。本来はヨガの応用です。筋肉を柔軟にし、運動能力を高め、疲労回復やケガの予防に役立ちます。
 反動を使って筋肉を伸ばすとどうしても反射で筋肉が逆に堅くなってしまいます。無理せずにやれば体を暖めるにはよろしい。

 

 漢方では肝と胆が筋肉や関節に関係しています。脚の内側と胴体の外側のスジをよくストレッチしましょう。開脚して前屈すると脚の内側、側屈すると胴体の外側が伸びます。

 

感覚器系
 脳と感覚器官です。眼耳鼻舌身はお経のことばですがそれぞれ視覚(眼)、聴覚(耳)、嗅覚(鼻)、味覚(舌)、痛覚・触覚・温冷覚(身即ち皮膚)です。
 ここは最前線で外的環境からの情報を仕入れるところですが、内部からの情報もとらえます。
 過敏になると神経質と呼ばれる不安定な状態になります。

 

 美しいものを見て、いい音や音楽を聴き、よい匂いを嗅ぎ、美味しいものを食べ、心地よい刺激に身を任せることはストレス解消にもってこいです。

 

まとめ
 以上、日常簡単にできる養生法と身体調整の考え方を列記しました。治療ではなくあくまでも養生として日頃の生活に組み込んでいくものです。出来そうなものがありましたら、心掛けてみてください。

 

 三島治療室の基本理念として、マイナスレベルをノーマルに移行するのに手助けするのが「治療」、日ごろの心掛けは「養生」、よりパワフルにと発展的に試みるのが「鍛練」と分け、全体を総称して「身体調整」と呼んでいます。
 便宜上を除いて意識的に「治療」という言葉を避けているのは意味が狭くなるためです。
 同じく対象とする人を患者と呼ばず、お客とも呼ばずカウンセラーが用いているクライアント(依頼者)を使用しているのもそのためです。

 

 ですから本当は治療室ではなく互いに学び合う場として「游氣の塾」なのです。

 

 これらの養生法は当然のこととして医療機関の各専門分野の方法を阻害するものではありません。むしろ協合してクライアント(依頼者)の人生設計実現への「手当て」となるものです。

 

 以上、今回は粗雑な身体調整論でした。度々練り上げてもっとしっかりしたものに仕上げていくつもりです。

 

後記

 

 先月の間違い。
 先月の漢字の話はとてもおもしろかったと珍しく多くのレスポンス(反応)がありました。
 ところが勝手知ったるとばかりに記憶に任せて書きなぐったため、大きな間違いをしてしまいました。「臣」の字の成り立ちを目を潰された奴隷と書いてしまいましたが「臣」は伏し目がちに控えている奴隷のことでした。「臣」と
いう字は目の変形なのです。そういえば形が似ています。
 伏し目がちに控えているから家来つまり家臣の意味が派生したのです。さらには大臣、臣民、君臣、重臣、家臣、逆臣、忠臣、臣下などなど。
 さすがに今の総理大臣はその辺りをわきまえて本来の意味通り何事も控えめ。
何一つ建設的な意見もおっしゃらないのは「臣」の意義通りです。気配りだけ
で総理大臣になった人らしいと感心しています。

 

 

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No107「指圧と漢字」

三島治療室便り'98,11,1

 わたしの治療室では指圧教室を行っています。
 「游氣の塾」といういかにも不審な名称はこの教室のことを指しているのです。
 教室とは仰々しいですが、素朴な手当の代表である指圧療法を広く知って貰おうと思って気楽な集いを細々と、かつ綿々と続けているものです。対象はごく普通の主婦や会社員で将来これで食べていこうという人は相手にしていません。
 免許を持っているプロや鍼灸指圧学生用のコースは以前は別口でやっていましたが、現在は休眠中です。

 指圧教室は経営的には全くマイナスなのです。それでももう20年近く継続しています。知人からは時間の無駄使いだと揶揄されていますし、わたし自身もしょっちゅうこんな儲からないことは止めてしまおうと思っているのですけれどもなかなか止める切っ掛けがないというのが本音です。

 なぜ切っ掛けがないか。それは今現在、来ても来なくてもとりあえず在籍している生徒20数人の内、20人位は外国人で、本人が帰国しても次の人を紹介していくことが多く、結局途切れることなく生徒がやってくるからです。
 忘れたころに、「以前こちらで指圧の勉強をしていたJakeにクラスのことを聞いて知っていました。それで前から勉強に来たかったのですが仕事との折り合いがうまくつきませんでした。今年はクラスに参加できるように仕事を組んだからお願いします」
などとやって来るのです。これでは受け入れざるを得ません。ささやかな民間国際交流でもありますし、日本のいい思い出を持って帰ってもらいたいという思いもあります。

 最近も
「昨日日本に来たばかりですが、ECC(英会話学校)の外国人教師から三島先生のことを聞きました。わたしも指圧を習いたい。カナダにいるときからずっと興味がありました。行ってもいいですか」
などと若いカナダ人から電話がありました。

 指圧はSHIATSUとして外国でもそのまま通用します。中でも恩師増永静人先生の経絡指圧は海外でZEN SHIATSU(禅指圧)としてとても知られています。
彼らにとって指圧は現代医学とは異なった代替療法・自然医療であると同時に東洋思想を体現するものとして興味深い対象なのです。

 わたしの所では外国人に指圧を教えるときも日本人と同様に「指圧」という漢字の説明から入ります。そうすると指圧と同時に漢字の勉強にもなるので彼らは日本人以上に喜びます。

 授業は次のような具合に始まります。多くは増永静人先生の受け売りか漢字学者藤堂明保先生の本から得た知識です。

 では、みなさん。
 指圧の勉強を開始しましょう。まず、「指圧」の漢字の意味を説明します。

 「指」は手偏(てへん)に旨(シという音を表す)で「ゆび」のこと、つまり指圧に使う主たる道具である指を表しています。

 「圧」は旧字で「壓」。これは雁垂(がんだれ)と土と犬と口と月からできています。口と月は肉を表し、犬はそれが犬の肉であることを説明しています。
昔(今でも)中国人は犬を食べましたから、犬の肉は大事な食料なのですね。

 「壓」という漢字は犬の肉が土の上に置かれ、それを何かで蓋をしているというのが成り立ちです。つまり「壓」は犬の肉が大地を圧している状態。そこから古代中国人はある物が別の物にじっと圧力(重力)をかけていることを「壓」と表現したと理解できるのです。

 物理では物体をどれだけ動かしたかが「仕事(力×距離)・ジュール」であり、どれだけ強く圧力をかけても物体が動かなければ仕事は0でしかないとします。
 時々身体調整にみえる物理学の教授に「それは変だ」と訴えたことがありました。なぜならわたしの仕事である指圧はどれだけ頑張っても物体を動かしませんから物理学上は仕事をしていることにならないからです。これでは料金がいただけないではありませんか。指圧は物理学上は仕事ではないのです。何かすっきりしません。

 と、こんな具合にクラスを進めて行くのです。もっとずっと砕けた感じで冗談を混ぜながら進めます。
 例えば
「え、中国では犬を食べるの」
「そう」
「可哀想。あんなに可愛いのに」
「それは偏見。中国人は何でも食べます。鳥も魚も四つ足も。中国人が食べない四つ足は椅子とテーブルだけなんです」

 さらに、漢字の話を進めます。

 今まで説明しましたように「指圧」とは指に代表される体のある部分を用いて(逆に言えば道具を使わないで)クライアントの体に圧(静かな動揺させない力)を加える技法であるということが名前の由来になっているのです。
 「指圧」という名称は大正時代、玉井天碧という指圧療法家が使い出したとされています。

 巷間よく見かける「整体」は、以前は指圧とセットで「整体指圧」と呼ばれていましたが、今日では法制上「指圧」と一本化して括られました。しかし「整体」という名称は技法ではなく「体を整える」という目的を明確にしてい
ますから一般の人達には分かりやすいものです。
 現在では法制上指圧業をしたくても国家資格を持たない人達は「指圧」という看板を掲げることは許されません。けれども「整体」と自称することで法の規制から逃れることが可能です。それは非常にずるいやり方ですが、「整体」自体は誠に分かりやすいネーミングと言えるでしょう。 昔風の「整体指圧」なら「体を整えるために、指を使って圧力をかける療法」と完全な説明になるのです。

 指圧によく似たものに「按摩(あんま)」があります。
 本来は按摩が指圧の元祖で中国から奈良時代前に伝来しました。その証拠は大宝律令に「按摩師、按摩生、按摩博士」という医業が法制化されていることから確認できます。「鍼灸」も全く同様です。

 中国には「婆羅門導引・天竺按摩」ということばがあります。
 婆羅門(バラモン)は婆羅門教のことで仏教が生まれる前のインドの宗教です。
 導引(どういん)は「大気を導き体内に引き入れる」という健康体操でヨガを源流とした現在の気功のようなものだろうと推定できます。
 天竺(てんじく)は三蔵法師が仏典を手に入れるために孫悟空(行者)と猪悟能(八戒)、沙悟淨(和尚)を供にして目指した土地でやはり今のインドです。したがって気功も按摩もインドを源としていると考えていいでしょう。
 蛇足ながら孫悟空などの活躍する「西遊記」は呉承恩が書いた魑魅魍魎(ちみもうりょう)の跋扈(ばっこ)する架空の物語ですが、三蔵法師(玄奘)は実在の高僧でインド旅行記「大唐西域記」を著しました。

 さて「按摩」の説明に戻ります。
 「按摩」の「按」は字の通り手を安定させること。
 「安」はウ冠に女。ウ冠は家を意味し、普段は豚が屋根の下にいるので「家」という字ができました。決して女房が豚みたいだという意味ではありません。
 「安」の字は女は家にいるべきだという意味か、女が家にいるから安心なのか不明ですが、いずれにしてもじっとしている意味、「安定」や「安心」を意味する文字になりました。
 「摩」は磨くことです。石で磨かず手で磨くということで、摩(さす)るという字。

 「鍼」はどうでしょう。
 「箴言」ということばをご存じでしょうか。いましめとなる短い格言で、ずばり本質を突くことば。「箴」は竹の針。竹の針のように鋭く核心を突くことです。昔の針は竹だったのでしょう。だから竹冠の「箴」。後に金属製になっ
て金偏の「鍼」。心に深く突き刺されば「感」。「灸」は「久」しいに「火」ですから何となく分かります。

 先程、医業ということばがでましたが「医」には二つの旧字があります。
 一つは「醫」です。
 これは医と几と又。それと酉。
 「医」は「箱に収めた矢」のことで今ならさしずめ手術用メスのことでしょう。うっ血部を切って瀉血したものと思われます。
 「又」は手のことで、「几」が道具。手に道具を持って何か行うという意味です。つまりメスを扱うという意味。

 下の「酉」は酉(とり)のことではなく「酒」です。酒は酒でも薬用酒。植物の薬用成分をアルコール抽出した物です。これが「酒は百薬の長」の本当の由来。ですから日本酒やビールやウイスキーは「百薬の長」ではありません。
 以上のことから「醫」とはメスでの外科手術と薬酒による内科治療を指すと察することが可能です。

 もう一つの「医」の旧字はワープロの辞書にはありません。「醫」の下が酉の代わりに「巫」のようになったものです。これは巫女(みこ)さんのことで、祈祷で治療したと考えられます。

 「健康」はどうでしょう。
 「健」と「康」に共通するのは「筆」です。筆はすっくと立たせて持ちますから「健康」とはしなやかに健やかに立ち上がっている状態を言うのです。
 では「病」は如何。
 病垂(やまいだれ)は床几(ベッド)を立てた形です。病垂の垂にちょんちょんとある二つの点はベッドの脚なのです。
 「丙」は人が具合が悪く、大の字になってベッドに寝ている姿を上から見下ろした図です。そうです、「寝」にもちょんちょんがありますね。意外に思いますが、中国人はベッドと腰掛けで生活しているのです。

 よくリラックスした時、大の字になって寝るといいます。
 「大」の字はずばり人が両手両足を広げた図です。

 「人」は人がお辞儀をしている様子を横から見たところで、奴隷のことだと本に出ています。

 大の字になった人の上に横線を引いて示したのが「天」。
 人が大地を踏み締めている絵が「立」。
 人が両手を広げて足を閉じて立つと「十」。その上に天を示す横線を引き、下に地を表す横線を書く。すると「王」という字になります。「王」は天と地を貫く存在なのです。
 この辺りは実に何とも感動的ですね。
 では「太」の点は何かと質問されて困るのですが研究してみてください。

 病気の「気」は元の字が「氣」。
 米を炊いた時に出る蒸気と言われます。汽車の「汽」も同じで蒸気です。
 米を覆っている部分が蒸気の象形、湯気のたなびく様子です。
 何か良く分からないがある種の力を感じるときに「気」といいます。お釜の蓋をカタカタ動かす力から想像したのでしょうか。
 イギリス人のジェームズ・ワットも少年の頃蒸気がヤカンの蓋を動かすことに興味を持ったことから蒸気機関を開発したと言われています。少年の時に蒸気が漏れないように栓をしてヤカンを爆発させるという実験もしたはずです。

 「人」という字は奴隷から由来していると言いました。漢字には同じ傾向の字がたくさんあります。
 民主主義の「民」。これは目に針を刺して失明させ、逃亡できないようにした奴隷。ですから「人民」とはすなわち奴隷なのです。
 戦後「汝臣民飢えて死ね」という片言が密かに流行ったそうです。臣民の「臣」も民と同じく目に針を刺して失明させられた奴隷の由。「臣民」も「人民」もみな元は奴隷なのです。
 そこから「民」と「目」を合わせて「眠」という字が派生しました。目を閉じて眠ること。

 「昏」もそれに近い字です。黄昏(たそがれ)。「氏」と「日」からなり暗いという意味になります。「氏」は「民」から来ている字ですからやはり残酷にも目を潰されていることなんです。

 ではなぜ御目出度い結婚に暗い意味の「婚」の字があるのでしょう。女偏に黄昏で「婚」。どうしてでしょう。それは結婚生活は暗澹としているからもはや人生の黄昏になるのだという・・・これはウソです。結婚の儀式、特に男女が結ばれる床入りの儀は夜に行われるから、黄昏に結ばれるということで「結婚」と書くのです。

 これまで見てきた漢字には奴隷と女が多いことに気づかれたと思います。どちらも古代中国で虐げられた人です。奴隷の多くは部族闘争で負けた側が反抗できないように目を潰されて苦役をさせられたようです。

 女も戦利品だったかもしれません。女の奴隷は「辛(はり)」で入れ墨をされました。
その字が「妾(めかけ)」。「辛」の略字が「立」。「立」と「女」で「妾」。「妾」の意味は性行為目的の奴隷なのです。そういえば奴隷も女偏(おんなへん)でした。
 性行為は古くは「交接」。つなぐことです。「接」は手偏に「妾」。ずばり性行為を示す字です。

 また似たものに「童」。「童」は今は子供のことですが、元々は「目」に「辛(はり)」を通した字。奴隷のことです。「目」の上に「辛」を乗せればよく分かります。それが時代を経て子供を表す字に変化していったのです。

 それと関係あるのか関係ないのか分かりませんが女偏の漢字は一杯あります。
以下は角川文庫の「女へんの漢字 藤堂明保著」より。今まで書いたこともこの本からの知識が一杯ありました。増永静人先生も藤堂先生のファンでした。

 「女」はくねくねとしなを作って座っている女性の象形。
 「女」の乳房を強調すれば「母」。ちゃんと二つ乳首が描いてあります。
 女が良いのは「娘」の時だけ・・・これはウソです。どちらもなよなよして可愛い・優しいということです。

 女が古くなるとうるさい「姑」。古は固い頭蓋骨。口の中に古いと書くと「固」。「故」、「枯」、「涸」などに使われます。ですから堅苦しい女性のことを「姑」というが正しいと思われます。

 「思」という字は「田」と「心」から成り立っています。「心」は心臓の象形で心もそこに宿ると考えられていました。「田」は「古」と同じで頭蓋骨。
頭蓋骨の縫合の象形です。昔の中国人は「思う」のは頭と心だと考えたのです。
これを知ったときは衝撃的でした。

 「息」を分解すると「自」と「心」。「自」は鼻のこと。「息」は鼻と心臓でするという意味です。息をするとき鼻を自覚しますが、息が切れると心臓がどきどきするから「息」と書くのでしょう。

 「自」は「鼻」の字の一部ですね。「鼻」は象形文字で鼻の形を表し、「自」はその省略型です。
 外国人は日本に来ておもしろいことの一つに次のことを上げます。
「日本人は『僕ですか?』と自分を指すとき鼻を指しますね。どうしてですか。
欧米人はそういうとき心の在りかである胸を指しますよ」
 これはおもしろい指摘です。
 なぜ日本人が自分を示すとき鼻を指すのか分かりません。しかし、鼻を指すから鼻の省略型の「自」が自分を示すようになったことは確かです。とすると漢字の本家中国でも自分を指すときは鼻を指すのでしょうか。

 女偏の字に戻ります。
 「好」の字は「女」と「子」。女も子供も可愛いから良いとか好きの意味に。

 焼き餅焼きの「嫉妬」はどちらも女偏。「嫉」の「疾」は疾病の意味。矢のように早く悪化する病気のことです。
 女三人寄れば「姦」しい。姦淫の意味もあり「婬」という字もあります。

 「妄」は妄想。みだらな想いのこと。女を亡くすと書きます。「亡」の字は何かに捕らわれてあるいは集中して心を亡くすという意味がありますから、女に夢中になるという意味があるかも知れません。「望」という字は小高い丘
(王)に立って、月の出を待ち心を亡くしたということから作られました。
 男が二人がかりで女を「嬲(なぶ)る」。これはひどい字です。
 女が箒(ほうき)を持てば「婦」。「掃く女」です。
 女がはたきを持てば「妻」。はたきは高いところで振り回すので女の上に置かれたのでしょうか。
 「姉」の「市」は上の方に伸びた蔓を意味する字で「市」とは厳密には異なります。
 「妹」の「未」は未だ未熟な小枝のことで末娘。「未」は「未だならず」で曖昧の昧も三昧も同じ。


 「末」は梢(木末)。根元は「本」。「末」も「未」も「本」も木に印をつけた字。木陰に人が寄れば「休」む。人の根本は「体」。
 年老いた女性は「姥」。なるほど。
 年を取ると波のように皺(しわ)がよるので「婆」。本当でしょうか。
 女が少ないと「妙」だ。これは信用しない方がいいです。
 女は「奸計(わるだくみ)」がうまいので要注意。「姦計」とも書きます。
要注意の「要」はくびれたということで身体では「腰」になります。「要」にも「女」があり女性のウエストのこと。

《後記》

 まだまだ漢字の成り立ちを書いていけばきりがありません。ただ言えることは漢字を考えた人はきっと女性にもてなくて、その怨念から底意地悪く「女」を漢字で用いたに違いありません。その努力(女の又の力・・・これはウソ)は認めましょう。
 しかし今回はこれで止めましょう。
 これ以上書くと女性の怒り(女の又の心・・・これもウソ)が怖いですから。

(游)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No106「朋あり、遠方より来る」

三島治療室便り'98,10,1

《游々雑感》

朋あり、遠方より来る


 高校の教室です。
 「満州の夕日は大きいぞ。こんなのが地平線に沈んでいくんだ。見たことないだろう」
 地理の老教師は両手を一杯に広げて生徒達を見回しました。
 「こんなでっかい太陽、想像もできんだろう」
 相変わらず両手を広げたまま、得意げに教室を見回しています。
 「日の出もすごいぞ。こんなに大きいのが大地からばっと出てくるんだ」
 万歳するように両手を上げながら大声で「ばっと」言ったので女生徒がくすくす笑いました。

 笑いを取って得意になった老教師は
 「こんな太陽がばっばっと出てくるんだ」
 同じように繰り返すと、生徒達からはしつこさに対する失笑が漏れました。
 しかしギャグが受けたと勘違いした老教師は満足し、いつものごとく滔々(とうと
う)と満州の思い出やら漢籍の断片知識を繰り広げ、地理の授業はどこかに吹っ飛んでしまうのでした。

 毎回同じ思い出話なので生徒達は飽き飽きしていますが、老教師は実に楽しくてならないとばかりに戦争や中国の話を続けるのです。時に怒りや涙を見せながら・・・。

 「歸りなん、いざ、田園まさに蕪(あ)れんとす

 君らにはこの心境は分からんだろう。まだ若い兵隊だったわしは満州から遠く本土を思って涙したもんだ。空襲を受けたと聞いたからな」

 この漢語好きの愛すべき老教師。
 おそらく中国が大好きであったに違いありません。
 その憧憬の国と日本がついに戦争を始め、大好きな国を自らの軍靴で踏み散らそうとは思ってもいなかったことでしょう。
 しかも彼の地から焦土となった本土を

  田園まさに蕪れんとす

と遠望するほかなかった厳しい青春を過ごした人であったと知るなら、また、そこまでその老教師の心情を測ることができたならば同情を禁じ得えなかったことでしょう。


 しかし高校生の悪がきだった当時のわたし達にそんなことは望むべくもなく、
 「あ~あ、爺さん、また満州の夕焼け話だ」
 「しつけえなあ」
 「授業、ちょっとも進めへんがや」
とすっかり白けていたのでした。

 「昨日、戦友が何年振かで訪ねてきたんだ。

  朋(友)有り遠方より來る また樂しからずや

だな。分かるかこの気持ち、分からんだろうなあ」
 僧侶でもある老教師はお経を読むように漢文の有名な一説を朗しました。

 この一説は孔子のことばであることは知られています。つまり論語です。

學而
子曰
「學びて時にこれを習ふ。また説(よろこばしから)ずや。
 朋有り遠方より來る。また樂しからずや。
 人知らずして慍(うらま)ず。また君子ならずや」と。

 これら三つの文からなり、「朋有り」が一番詩的で知られています。
 最初の「学びて時にこれを習ふ」は学習の喜びを述べた言葉でこれも有名ですが、
「人知らず」は今一つ知られていません。まさに「人知らず」。
 この文は高校の漢文で習った記憶がありますから、今し方しまっておいた漢文の教科書を急いで引っ張り出して調べたものです。教科書は卒業と同時に全部捨ててしまいましたが、漢文だけは資料になると思って保存しておきました。

 ところが高校時代は大変不勉強だった生徒だったため、まともに授業を聞いておらず教科書に読み下し文さえ書き込んでありません。先程の読み下しでは間違っているかも知れません。わたしは漢文は苦手で珍紛漢紛(ちんぷんかんぷん)ですから。

 現代語訳(誤訳)すれば

 孔子先生が言われました「学んでおりにふれて習う。喜ばしいことではないか。
朋が遠くから訪ねてやって来る。楽しいことではないか。
人が自分を理解してくれなくとも恨まない。これこそが君子ではないか」と。

 最後の一節からは生涯を浪人で過ごさざるを得なかった孔子のひがみも多少感じられると書くと論語読みには叱られるでしょうか。

 ちなみに文中に出た
「歸りなん、いざ、田園まさに蕪(あ)れんとす」
は陶淵明の「歸去來辭(帰去来辞)」です。意にそぐわない官吏は辞して、故郷へ帰ろうという内容の詩。彼は故郷に隠棲して詩人として一派を立てました。これは余談です。

 「朋有り。遠方より来る」と述べた孔子は今からおよそ2500年前の人です。
 この頃の遠方とは今から思えばたいした距離ではないでしょう。けれども徒かせいぜい牛馬か船という交通手段しかない時代ですから数十キロ離れたらおいそれとは会いには行けません。

 一期一会という禅の言葉があります。茶道の根幹を示す理念でもあります。今のように交通機関が発達しなかった時代には
 「今日別れたらもはやあなたとは二度と会う機会はないだろう、これが今生の別れかもしれない」
という思いが常にあったに違いないでしょう。そんな時代において再会はいかほどの価値をもっていたか想像に難くありません。

 一刻の出会いの真摯な重み、時間を共に過ごす密度が今日とは較べものにならないほど濃かったに違いないはずです。

 現代はアメリカ大陸まで10時間ほどで到着してしまいますから距離に関しては遠方でもさほどの足かせにはなりません。もっともこれはここ数十年のことで、それ以前は孔子の時代も昭和前半もたいした違いはないようです。

 距離の問題は科学技術がほとんど駆逐してくれました。
 むしろ今は一人一人が忙しくてなかなか時間的制約から会うことができないのが実情でしょう。これは矛盾していますが科学技術が発達すればするほど地図上の距離は短くなりますが体感的な時間は少なくなってしまうようです。
 今日では
「朋有り。忙中を來る。また樂しからずや」
です。

 さて、わたしも最近
「朋有り。遠方より忙中を來る」
を経験しました。
 9月25日。デュオ服部20周年記念コンサートが開催されたのです。

 デュオ服部に関しては《游氣風信》で度々取り上げていますから、古い読者はご存じでしょう。このデュオは服部吉之・真理子夫妻によるサックスとピアノの合奏。
 吉之君はわたしの高校の同級生で、卒業後東京芸大・同大学院、フランス音楽院でサックスを学んだのです。芸大で知り合った真理子さんも彼と一緒にフランスへ勉強に行きました。デュオですからピアノは伴奏でなく共演です。
 二人がデュオを結成して今年で20年になるそうです。早いものです。
 現在夫妻は鎌倉に住み、活動の拠点は東京。ほぼ年に一回名古屋に来てリサイタルをしています。

 当夜のプログラムはドビュッシーのソナタ、ベートーヴェンのトリオ作品37、フランクのソナタでした。ベートーヴェンのトリオには服部君の教え子で昨年の日本サクソフォンコンクールで見事一位に輝いた原博巳君が加わりました。

 彼らのコンサートがあると
「朋有り。遠方より來る」
とばかりに高校時代の友人たちが集まります。まさに
「また樂しからずや」
なのです。
 40歳半ばを迎えた今のわたしなら先の漢籍好き老教師に惻隠(そくいん)の情をもつこともできるのですが当時はまだまだ若かった・・・と言うより幼かった。

 今回はいつも集まる仲間以外に陸上部のW君が来ました。
 彼は今は小学校の教師をしています。彼の奥さん(教師)が以前、わたしのところへ別の関係者の紹介で調整に来たという奇遇もあり20数年振の再開に心が躍ったのでした。

 W君は高校時代「マス・メディア」というコミックバンドをやっていて、文化祭でフォークソングを歌ったり、馬鹿なギャグをしていたので校内ではかなり知られた存在でした。地味なわたしは彼らの舞台の照明係をしたことがあります。
 彼は現在障害児教育に情熱を燃やしつつ、バンドも別のメンバーと続けているそうです。今はコミックバンドではないのが残念です。

 コンサート後の酒の席で
「ミッドナイト東海というラジオの深夜番組覚えているだろう(我々が高校のころ、誰もが聞いた人気番組)。司会がアマチン(天野鎮雄・・・名古屋で有名な俳優。夫人の山田昌と劇塾主宰。山田昌は植木等の奥さん役で有名)とかリコタン(女性アナウンサーで現在消息不明。今も東海ラジオにいるらしい)、それから東京に出て有名
になったレオ(森本レオ)。あの番組のオーディションがあって、我々マス・メディアも出たんだ。結果は駄目だったけど売れない頃のかぐや姫(神田川などのヒットで知られる)と控室が同じだったよ」などという秘話を公表してくれました。これぞ

  朋有り、遠方より來る。また樂しからずや

です。

 サッカーの天才少年A君がコンサート会場に新聞の切り抜きをもってきました。
 「みっちゃん。おもしろいものを見せてやろう」
 みっちゃんとは子供のころからのわたしの愛称です。
 《游氣風信》で以前A君のことをサッカーの「天災少年」と誤植してしまったのですが、「天才」より「天災」の方がA君のイメージを正しく伝えて余りあると好評でした。しかし今度は敬意を表して天才少年。

 A君のもってきた切り抜きはある大学医学部での汚職事件を報じたもの。そこには大勢の刑事が押収物を段ボールに詰めている写真が掲載されていました。よく見ると奥の方から眼光鋭くカメラマンを睨みつけている恐持ての男がいます。彼こそ何を隠そう、高校同期の悪徳デカではありませんか。彼もこの汚職事件捜査に関与していたのです。
 本人はわたしの横で烏龍茶を飲みながらにやにやしています。

 名古屋の高校生なら誰もが一度は入りたいと思う名門大学を舞台に医学部元教授が白昼堂々と暗躍した汚職事件。
 刑事の彼はこの事件の捜査名目でついに憧れの学内に入ることができたのでした・・・と思ったのですが、よく見るとその写真の現場は東京にあるダミー会社でした。まだまだ名門校への道は険しいものです。

 刑事という職業は捜査をする必要上顔や名前が知られることは捜査の邪魔になるので好まないそうで、ああした写真は迷惑だとのこと。もっとも彼の眼力にカメラマンが震え上がったのか写真は焦点があっておらず、そうと知らなければ彼とは誰も気づきません。

 ではなぜA君がその写真を見てすぐ彼と見破ったのか。実に明瞭な理由があるのですが、むろんその理由をここに書くことはできません。

 こうして

  朋有り、遠方より來る。また樂しからずや

の夜は更け、わたしは酒宴解散後、一人で別の再会のために深夜の街に出たのでした。
どこへ行って誰と会ったか、むろんそれもここに書くことはできません。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No105「今こそ賢治とともに」

三島治療室便り'98,9,1

今となれば気恥ずかしいタイトルですが・・・・
インターネット黎明期の文章です。

《游々雑感》

今こそ賢治とともに

 インターネットはご存じですか。このところ毎日新聞やテレビに登場してきます。
簡単にいえば世界のコンピューターを電話回線で結んで文字や映像が相互にやり取りできるようにしたものです。

 意外ですが、わたしの仕事関連の鍼灸のページインターネット上ににたくさんあります。
 意外にというのは中国四千年の歴史を取り扱うような古い印象の業種なのに最新のインターネットにホームページを持つということです。
 鍼灸業界にインターネットが多い理由はホームページは広告を兼ねつつ情報発信できるという性格をもっていますから、まことに自由業的な鍼灸師向けだからです。鍼灸という一般に理解されがたい医療ですからホームページで説明することはとても意味があります。
 また、一九九〇年にはすでに業界の有志によって鍼灸ネットが組織されていました。
わたしも末席を汚していたのです。これは他の業種を圧倒する早さではないかと思います。

 ことばの芸である俳句のページはどうでしょう。
 インターネットは極めて俳句にふさわしい情報網です。とりわけE-mail(パソコン通信)は家に居ながらにして全国の同志と句会が開催できます。わたしのようにあまり外出できない人間には実に重宝なものです。体の不自由な方ならなおさら。
 しかし、どちらかというと俳句の愛好家は年齢層が高く、インターネットなど何が何やらさっぱり分からない。
「インターネットなんざあ俺の辞書には書いてねえ」
とか
「小生、得たいの分からないものには近づかないのが家訓である」
あるいは
「そういう結構なものはまだ食したことはございませんの」
などという方がまだまだ多く、まだまだこれからのようです。

 賢治ファンは年令層が比較的若く、しかも文学好きだけでなく、賢治の作品の特性から天文学や生物学などに詳しい人も多いのでパソコンになじみが深く、結果としてホームページがたくさん立ち上げられていることも予想されます。もちろん文学好きはものを書くことも好きですから旧来からパソコン大好きという人が多いことは間違いありません。

 林立する情報洪水の中、宮沢賢治関連のホームページを総花的に紹介した親切なところもいくつかあります。
 その一つが加倉井厚夫さんの

  賢治の事務所 http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/index.html

 「賢治の事務所」という名は賢治の童話「猫の事務所」にちなんでいるそうです。

 先日、暇な時間に賢治関連のページを逍遥していました。花巻や盛岡など賢治の作品に出てくる舞台の写真が豊富なのでゆっくり楽しませていただいていたのです。
 中でもすばらしい出来のページには拝見させていただいたお礼の言葉を残しておきました。その縁で加倉井さんからお返事が届いたのです。

 うれしいことに加倉井さんはわたしのページを見て、「賢治の事務所」の中で紹介してくださるというのです。それならそれに恥じないよう雑文ばかりでなく賢治に関連したことも時々は書かねばなりません。
 といってもおいそれと書けるものではありませんから今月は二十年近く前に書いた文章を紹介します。

 正直に申しますとこの文章はとても恥ずかしくて門外不出にしていたのです。

 市井の賢治研究家で研究誌「啄木と賢治」主幹の故佐藤勝治さんが、なんでもいいから原稿を書いて送れと言ってきました。そこで書いたのが次の文章です。昭和五十七年、わたしが二十八歳の時でした。
 無題で送ったものに佐藤さんが「今こそ賢治とともに」という立派なタイトルを付け、経済や健康問題などもろもろの事情で発行不可能になっていた「啄木と賢治」に代わって、岩手県盛岡市から出ている地方新聞「盛岡タイムス」に掲載してくださいました。

 若書きで恥ずかしく、誰にも見せないようにしていたものですが、改めて読んでみて、現在の私たちが置かれている環境にそのまま当てはまることに驚きました。そこで、恥を忍んで公開します。
 ただしこの文は「啄木と賢治」という研究誌のために書いたものですから、賢治の作品を当然深く読んでいるものという前提で書いています。しかし、《游氣風信》は全く賢治に関心の無い方を対象にした治療室便りです。そこで文章の終わりに簡単な解説を付けてありますから参考にしてお読みください。

今こそ賢治とともに

 二十世紀末、地球は人々の手によってその生態系を著しく破壊されつつある。
 人々の内なる欲望を限りなく外に求め続けたからである。
 山を崩し、海や河を汚染し、空気や日の光りさえも自らの手で遠くに追いやってしまった。
 人々が数千年かけて積み上げてきた知識や科学は一体何だったのだろう。
 人々の幸福のために存在したはずの種々の技術がなぜ人々に新たな不幸を運んできたのだろうか。

 昔、人々は神に挑戦するかのごとくバベルの塔という人工の極をなす建物を造ろうとして神の怒りに触れたことがあった。今、人々はまさにバベルの塔を造りつつあり、そろそろ神の怒りが具体化してきたのではないだろうか。

 ここ数年続いている世界的な異常気象、不気味な大地の揺らめき、底知れず人々の胸の中を去来する言いようのない不安。これらが人々を相乗的に悩ませ「もう今以上の繁栄はないのではないか」
と失望させる。
 人類の発明した自動車も、贅を尽くした無駄な食べ物も、チャラチャラした衣服も、皆、石油と共に無くなってしまう。
 今頃になって人々は、自分たちも地球の中では一生物に過ぎず、人間はそれ自体では存在し得ず、他の動物や植物や鉱物たちと共存関係にあることに気づきはじめた。日光が大地や水や空気に命を与え、植物を育むことによってはじめて人や動物は存在し得たのだ。人は他の動物や植物や土や水や空気に支えられていくしか生存する道はなかったのだ。それなのに我々は愚かにも、人間こそは万物の霊長だから自然を自由に操作して良いし、そこに人間の独自性があると信じて疑っていなかった。

 五十年前(昭和五十七年からみて)、このことにすでに気づいていた詩人が東北にいた。

 彼は彼なりに、その暗い時代と厳しい環境の中で自己を精一杯止揚して朽ちた。農民の上に立つことの可能な生い立ちを恥じ、彼らに距離を置かれ、厄介者あつかいされながらも、自分も農民も同じ人間であることを行動をもって貫こうと努力した。少しでも彼らの役に立てるならと全力を尽くして田畑にでてついには敗れた。

 一生を親掛かりで過ごしたり、土地問題を避けたりした現実への適応の甘さは、後々多くの批判を招いたが、方法論はともかくその心意気は我々の胸を打つ。詩人宮沢賢治は、深い絶対宇宙への信と人間の本来もっている善意への信をもち続けたからこそ近視的な方法論を必要としなかったのだろう。

 彼の至言
「世界が全体に幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
の全体とは人類だけでなく、鳥や獣、魚や草木、石も含むのである。すべてのものにいのちを感じていた彼ならではのことばなのだ。
 賢治は生態系のバランスの取れた状態を幸福といったのであって、人間を至上とした物質の充足や感情の一過性の満足を幸福と言ったのではない。そんなものは誰かが独り占めすれば他の誰かに行き渡らないに決まっている。

 今日の地球は、人間が満足を得ようと牙を剥き出しにした結果、人類の足元にまで火がついてしまった状態だ。といって打開策を科学だけに求めることは無駄である。なぜなら、科学は部分的に解決こそしてくれるが、全体から見るとやはりバランスを壊してしまうからだ。
 そこで賢治は、多くの人々が共有する「場」としての芸術を求めた。
 この芸術とは才能を切り売りするようなものではなく、人と人、人と環境とを原初的に交流させるものであり、生態系を一つに融合させる力をもつ。童話「鹿踊りのはじまり」や詩「原体剣舞連」の世界である。

 さらに賢治は、労働さえその域に高めようとした。
 小さな共同体を創り、その中では人と動物と植物と土が、自然の流れの中で食物連鎖の輪を壊すことなく生存する。これこそが賢治の共同体(羅須地人協会)の理想としたものではなかったろうか。科学技術はあくまでその中で生かされるべきなのである。

 今日、物質万能主義、人間至上主義の限界に多くの人が気づき始めた。
 愛しい大地、宇宙船地球号の総司令官は確かに人間たちであろう。しかしその任務は全体をしっかり捉える必要がある。
 動物は本能のおもむくままに食し、眠り、生殖をするが、人間は欲のままにそれらを貪る。人間が本能という箍(たが)を外し、自由を得たとき、節度も必要となった。

 「もう少し食べよう」
と手にした食物は我々の同胞の命なのだ。童話「よだかの星」のよだかの悩みは一人一人の悩みにほかならない。賢治の世界を愛するものは皆、全体の幸福を心の奥底で求めているに違いない。
 しかし、それは反面、自分の欲求を制御することでもある。決して安易なことではない。
 地球が危機から脱することも同じである。日本人一人が食べる量で、アフリカの飢餓の人達が何人助かるだろうか。一人でも飢えている人がいるとき、自分は幸福でないことを忘れてはならない。

 賢治が残したものは数々の伝説に彩られた伝記と多くの作品のみである。我々はその作品を味わったり、伝記を読んで尊敬したり批評したりする。
 数多くの評論が出版されそれぞれもっともなことが書いてある。しかし、わたしのような一読者はそれらに気を取られることなく、やらなけらばならないことがある。
それは、これから賢治の世界をわたしの心の中でどのように発展させていったらよいかである。
 賢治が夢見、実行しようとしたことを
「ああ、そうか」
で済ますことなく、一人一人が自分の生き方の中にどのように組み込んでゆくか、それこそが賢治が真に望んでいたことではないだろうか。

 賢治という電灯は失われても、みんなの心の中に明かりは残っているのである。賢治の光が野に咲くつめくさの火のように広がっていくこと、これが世界全体の幸福への第一歩であろう。
 もっともこんなことを書くと賢治は例のもそっとした顔で
「そんなことを言われると恥ずかしいっす」
と照れるかもしれない。

(初出:盛岡タイムス 昭和57年3月7日)

解説
生態系
 多様な生物が無生物とバランスをとって生存している環境。

バベルの塔
 聖書より。奢った人々が天に達する塔をつくろうとしたが、神が怒り、人々の言葉を混乱させ工事を中止させた。

異常気象
 二十年前の文章だが、今年も相変わらず使われている。

大地の揺らめき
 今年も地震が各地で頻発。とりわけ賢治や啄木の信仰の対象ともなっていた岩手山も揺らぎ、噴火の可能性を示している。

言いようのない不安
 今年も不景気や毒物事件、ミサイルなど先の見えない不安な社会情勢。

石油
 石油はほどなく尽きるという学者とまだまだ無尽蔵という学者がいる。しかし石油製品から派生する排気ガスや環境ホルモンが社会一般の問題になりだした。

宮沢賢治
 詩人・童話作家。岩手県花巻市生れ。盛岡高農卒。早く法華経に帰依し、農業研究者・農村指導者として献身。詩「雨ニモマケズ」、童話「銀河鉄道の夜」「風の又三郎」など。(1896~1933)・・・広辞苑より

「世界が全体に幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」
 賢治の理想も最も端的に表現したものだが、このことばは戦争前と中、大東亜共栄圏のプロパガンダ(国家的宣伝)に流用された。
 方法論無き理想主義と賢治が揶揄される核心のことば。

童話「鹿踊りのはじまり」
 少年が落とした手ぬぐいと残した団子を囲んで鹿たちが示した好奇心一杯の仕草が岩手の伝承芸能である鹿踊りのはじまりであると解釈した童話。微妙な自然描写に優れ、自然と人が混然一体になるかのような傑作だが、結局作中の少年は自然から拒絶される(鹿の仲間に入れない)という示唆的な童話。賢治にはこうした自然とはついに一体になれないという作品が多い。

詩「原体剣舞連」
 これも岩手県の伝統芸能を題材にしている。剣舞は子供達がお面を着けて、刀を振り激しく舞う踊り。鬼剣舞で知られる。リズムの雄渾な詩で朗読するとぞくぞくする。折りに触れてこうした踊りを舞い、伝承してきたことに自然と人の営みが混然とした暮らしぶりが伺われる。

羅須地人協会
 賢治が農学校の教師を辞したあと、宮沢家の別宅があった下根子桜というところで開いた私塾。農村の若者に農芸科学や芸術を説き、レコード鑑賞会や不用品の交換会を行った。原始共産的物々交換を中心にした自給自足の生活を夢見たようであるが、時代の暗雲から官憲に目を付けられるとあっさり解散した。
 今日、高村光太郎筆による「雨ニモマケズ」の詩碑が建ち、賢治ファンのメッカとなっている。碑の下には賢治の髪とお経が納められている。

電灯は失われても・・・
 わたくしといふ現象は
 仮定された有機交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (あらゆる透明な幽霊の複合体)
 風景やみんなといつしょに
 せはしくせはしく明滅しながら
 いかにもたしかにともりつづける
 因果交流電燈の
 ひとつの青い照明です
 (ひかりはたもち その電燈は失はれ)

(春と修羅/序)

による。難解で知られた詩。
 賢治の基本理念を詩にしたもので、「春と修羅」という彼の出版した唯一の詩集の序。

つめくさの火
 童話「ポラーノの広場」の中に、つめくさの花の灯を数えていくとたどり着くという伝説のポランの広場が出てくる。童話は現実に力を合わせて理想の農場を作ろうとするもの。

つめくさの花の かをる夜は
ポランの広場の 夏まつり
(以下略)

という賢治の作詞作曲の歌曲があり、賢治ファンに愛唱されている。
 過去には「ポラーノの広場」と「ポランの広場」が混同されてきたが、今では「ポランの広場」は先駆形で「ポラーノの広場」が決定稿とされている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No104「理不尽な話-ボーデの法則-」

三島治療室便り'98,8,1

《游々雑感》
  
 天文愛好家の間でよく知られた法則に「ボーデの法則」があります。法則と称していてもちょっと怪しげなものです。

 太陽の周りを回っている水星や火星や金星など地球の兄弟星のことを惑星というのはご存じでしょう。それらを総称して太陽系といいます。これもご存じですね。
 太陽系の星は毎晩少しずつ見える位置がずれていくので空を迷っているという意味から惑星と名付けられました。
 太陽系以外の星は常に同じ位置に配置され、北極星を中心に空を回転しているように見えるので恒久的に動かない意味の恒星と呼びます。

 惑星を太陽に近い順、つまり内側から外側に向かって並べると

 水星、金星、地球、火星、小惑星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星(2006年に太陽系から外されました)

となります。小惑星は一つの星ではなく同じ軌道を巡る星のかけらの総称です。

 「ボーデの法則」とはその太陽系の惑星の距離間の比率に一定の数列が存在することを発見した経験法則(科学的根拠はないが、経験的に法則を見いだしたもの)です。

 なぜその法則が成立するかの論理的根拠は不明。もっともそれが経験則の経験則たる所以ですが。
 理由は不明でも当時まだ存在を知られていなかった惑星の発見に大いに力を発揮した不思議なロマンあふれる法則です。

 「ボーデの法則」は正式名称を「ティチウス・ボーデの法則」といいます。
 1766年、ドイツの天文学者ヨハン・D・ティチウスは、惑星の距離がある意味ありげな数列にしたがっていることを発見しました。
 同じドイツ人のボーデがこれを支持、熱心に論文などを発表して広めたのでこの法則は「ティチウス・ボーデの法則」と呼ばれるようになりました。

 その法則の詳細は次のようなものです。

 まず、3の倍数で次の数列を作ります。

  0 3 6 12 24 48 96 192 384

 次に、それぞれに4を加えます。すると以下の数列ができます。

  4 7 10 16 28 52 100 196 388

 この3番目の数字、[10]を太陽から地球までの距離とします。

 今度は実際の太陽から各惑星間の距離比を書き出しますから比較してみてください。

 水星(3.9)    [4]
 金星(7.2) [7]
 地球(10.0) [10]
 火星(15.2) [16]
 小惑星(27.7) [28]
 木星(52.0)  [52]
 土星(95.4)  [100]
 天王星(191.8)  [196]
 海王星(301.0) 
 冥王星(395.0) [388]

 どうです。ご覧のようにティチウスの考えた数列と惑星間の距離比が驚くほど一致します(海王星は例外)。
 これが天文愛好家の間で音に名高い「ティチウス・ボーデの法則」です。

 「なぜ3の倍数なのか」
 「どうしてそれに4を加えるのか」
 「一体全体どうやってこんな珍妙な法則を発見したのか」
など理由は全く分かりませんが、海王星以外は見事な一致です。

 しかも、この法則には驚くべき事実がありました。
 なんと「ティチウス・ボーデの法則」は論理的根拠がないにもかかわらず当時未発見だった小惑星や海王星発見に寄与したのです。

 「ティチウス・ボーデの法則」が発表されたころ、小惑星も天王星も海王星も冥王星も発見されてはいませんでした。
 ところが1781年、ハーシェルという学者が天王星を発見するとこの距離が「ティチウス・ボーデの法則」に一致するではありませんか(法則では[196]で実際には191)

 それではと火星と木星の間の[28]辺りにも惑星があるかも知れないと天文学者たちがその辺りの宇宙空間を一生懸命さがすと何と本当に星がありました。
 1801年、[28]とほぼ同じ距離比27.7のところに後にケレスと名付けられた小惑星を発見することができたのです。小惑星は昔大きな惑星であったものが何らかの理由で粉々に砕けてしまいその軌道上を無数の星のかけらになって回っているものとされています。今日までに約4000個見つかっているそうです。

 さらに後になって発見された冥王星(太陽系で一番外側の惑星)は軌道が大きな楕円形で太陽からの距離は一定ではないにもかかわらず、平均すると上記のように大体「ティチウス・ボーデの法則」に当てはまるのでこの法則の面目は保たれたのでした。


 冥王星の内側の海王星はニュートン力学に基づきルヴァリとアダムスによってその存在が予報され現実に発見されました。この発見はニュートン力学の勝利と呼ばれています。

 海王星の発見に際しても「ティチウス・ボーデの法則」が「気運」を高めるのに貢献し、実際見つかるのですが、残念ながらその数字はさらに外側の冥王星に符合してしまい、海王星のみ「ティチウス・ボーデの法則」から全く外れるということになりました。

 いずれにしても意味があるのか無いのか良く分からないなりに「ティチウス・ボーデの法則」は18世紀末から19世紀にかけて、天文学の発展に大きく寄与したのです。

 さて、この項のタイトルは理不尽な話でした。
 意味も無いのに星間の距離比を当てたことが理不尽という訳ではありません。
 何が理不尽かと言いますと、この法則を考え出したのはティチウスであるにもかかわらず、それを広めたボーデの名前が有名になり、当初「ティチウス・ボーデの法則」と呼ばれていたものがいつのまにか「ボーデの法則」になってしまった点です。
 確かに
 「ティチウスとは覚えにくいし、呼びにくい」
 「ボーデは読みやすいし、覚えやすい」
 「ティチウスは書いていても長ったらしくて嫌になる」
 「その点ボーデは書きやすい」
色々な理由はあることでしょう。しかしこのままではトンビに油揚をさらわれたようなティチウスさん。
 これでは法則を編み出したティチウスさんが
 「あまりに哀れだ」
 「かわいそうだ」
 「理不尽だ」
 「ボーデはうまい汁を吸い過ぎだ」
と強く同情しているのです。

 これに似たケースには地動説を唱えたコペルニクスとガリレオ・ガリレイの関係もあります。

 コペルニクス(1473~1543。ポーランド)は肉眼による観測とギリシャ思想に基づいてかの暗黒の中世に、当時常識とされた天動説に反対して太陽中心宇宙説を説き、権力に屈せず地動説を唱えた聖職者です。彼は近世世界観を樹立した功労者とされています。
 コペルニクスは太陽が地球を中心にして動いている(天動説)という当時の宇宙観を根底から否定して、大胆にも地球が自転している(地動説)と言ったのです。

 それを引き継いでガリレオ(1564~1642。イタリア)は望遠鏡(ガリレオはガリレオ式望遠鏡という今日の望遠鏡の発明者)を用いたり、実験的・実証的方法を用いてアリストテレスの自然哲学を否定し、近代科学の道を開いた学者として知られています。
 ピサの斜塔から大小二つのボールを落とす実験は有名。

 ガリレオはコペルニクスの地動説を是認したために宗教裁判にかけられ、一旦は裁判の場で地動説を否定しますが
 「それでも地球は動いている」
という名言を残しています。
 この真意は
「俺が否定しようと、宗教が否定しようと、誰が何と言おうと地球が動いている事実は真実なのだ」
というものでしょう。

 コペルニクスとガリレオ・ガリレイ。
 聖職者と科学者、近世と近代、演繹的と帰納的との違いはありますが、共に地球が太陽の周りを回っていると考えたことは同じです。しかし、今日、地動説と言えばガリレオのものとされて、コペルニクスはあまり表に出てきません。

 もっとも哲学などで発想が根底から覆ったりしたとき
「コペルニクス的転回(コペ転)」
などと言います。コペルニクスの名前は主にこちらに残っています。
 「コペルニクス的転回」はカントに由来しているそうです。
 ふだんでも考え方ががらりと変わるとき使います。

 先程、コペルニクスはギリシャ思想に基づいて地動説を唱えたと書きました。そうです。驚くべきことに地動説(太陽中心宇宙説)は古代ギリシャの天文学者アリスタルコス(紀元前320頃~紀元前250頃)によって既に説かれていたそうですからコペルニクスが言い出しっぺではありません。

 ならば地動説を言うときはガリレオ・ガリレイでなく、コペルニクスでもなくアリスタルコスを思い浮かべなければ理不尽と言うべきでしょう。
 けれどもやっぱりガリレオが一番覚えやすい名前ですね。コペルニクスは舌を噛みそうですし、アリスタルコスに至っては早口言葉さながら。

 地動説の場合、三名によって説かれた中身の質の問題や時代のズレもありますが、何よりも言い易く覚え易い名前が広まるのはボーデと場合と同じです。
 畢竟「人は易きに付く」ものなのです。
 かなり強引な結論でした。

 今回の文章は草下英明著「星の百科(現代教養文庫)」および「天文用語辞典(天文ガイド編)」と広辞苑を参考に書きました。


ホームページ

 以前からやろうやろうと思っていながらなかなかできなかったことにインターネットのホームページに今まで書いた文章を登録することがありました。それが今月になって俳句仲間のIさんの協力でほとんどやり終えることができました。
 初めて千葉の4代目鍼灸師酒井茂一さんのお骨折りでわたしのホームページができたとき、何人かの方から、
「三島さん、今までの《游氣風信》を掲載してくださいよ。ホームページはそのためにあるようなものです」
と助言してくださいました。

 しかしわたしにはその技術力も機械もないのでした。
 そこに現れた救世主がIさんだったのです。
 Iさんはコンピューターを扱う仕事のかたわら、わたしのホームページをこつこつ作り上げて下さいました。と言うより、ホームページをこつこつ作り上げるかたわら仕事をしていたと申し上げた方が正確かもしれません。
 大変感謝しています。

 さて、ホームページに掲載した文章は《游氣風信》の創刊号から最新号までと俳句の会報「からふね」、その他今まで書き散らしてあった何本かの俳句に関する文章です。
 
 ここに繋いでいただけば(現在終了)、過去の《游氣風信》や句会報「からふね」、俳句に関して書いた物などが自由に読めるようになっています。

 登録に当たって書いた物全てをざっと読み返しましたが、我ながら実にいろいろなことを書き散らしてきたものと驚いています。《游氣風信》はそのときそのときで思いついたテーマを好き勝手に書き綴るやり方ですからまさに雑居ビル。一貫しているのはできるだけものごとの表面に止まらないで少しでも奥に分け入ろうという心根だ
けです。

 ざっと眺めなおしてみると、印象深いものも結構ありました。簡単に整理してみると

◎基本理念として
 游氣の塾とは・触れる心・気とことばとからだの冒険・游氣風信の意味・・など

◎人の死を通していろいろ考えたこと
 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」・出会いの深さ・・など

◎健康関連
 花粉症・風邪・胆石・食中毒・日焼け・ぎっくり腰・がん・二日酔い・五十肩・過敏性腸症候群・血圧・胃カメラ体験・老化を防ぐ歩行・心臓発作・ほほえみ・アトピー治療・運動と活性酸素・体に良い?悪い?・癒しとアロマテラピー・未来免疫学と自律神経・・など

◎宮沢賢治関連
 宮沢賢治は何故舞ったか1~5・悼佐藤勝治先生・凶作の詩人(賢治と信治・ 宮沢賢治生誕百年・賢治特集雑誌・11月3日・・など

◎食事関連
 食養生1~11・・など

◎絵本や児童文学関連
 モモと時間泥棒・オズの魔法使い・マザーグース・忘れられない贈り物・絵本再び・・など

◎デュオ服部関連
 芸術性と大衆性・デュオ服部リサイタル・青は藍より出でて・・など

◎俳句関連
 俳句という遊び・新年の遊び・中秋の名月・芭蕉没後三百年・紅葉・蝉・啓蟄・虫のいろいろ・雨のいろいろ・めでたい俳句・七夕・梅雨・NHK俳壇出演・・など

◎指圧・増永静人関連
 身体調整と心臓発作・まるごとひとつ・指圧と利休百首・逢うは別れの(指圧の縁)・うれしい便り・・など

◎在宅ケア関連
 障害者Kさん・在宅Oさん・・など

◎その他
 湾岸戦争・古典落語・情報事始め・からだと環境・・など

 とても全部は書ききれません。何の脈絡もなく実にいろいろ話題を変えて書き続けてきたものと我ながら感心しつつ呆れています。

 もしホームページを読む環境にあるなら一度覗いて見て下さい。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No103「七夕」

三島治療室便り'98,7,12


≪游々雑感≫

文月や六日も常の日には似ず 芭蕉

 この俳句は元禄二年、当時の辺境みちのく(今の東北)に旅立った松尾芭蕉が七月六日、今の直江津ではるかに佐渡を望みながら詠んだ句です。
 この旅程は大ざっぱに書けば、三月二十七日江戸深川出発。この時の句が

行く春や鳥啼き魚の目は泪

以後日光、白河、松島、平泉、天童、象潟、新潟、今町(直江津)、金沢、敦賀などと東日本をぐるっと巡って、八月二十日ころ大垣着。九月六日の日付のある

蛤のふたみにわかれ行く秋ぞ

をもって結びとしています。

 冒頭の句と同時に作ったのが有名な

荒海や佐渡によこたふ天河

共に、紀行文「おくのほそ道」に収められています。

 しかし現実には当日は「風雨甚」ということで、天の川などは見えなかったということです。
 では、芭蕉は嘘つきかという言うとそうではありません。
 紀行文「おくのほそ道」は事実を書いた旅日記ではなく、旅という虚の世界を文と句によって超時空間芸術に高める試みでしたから事実などはどうでもよかったのです。
いわば全編演出なのです。

 冒頭の句

文月や六日も常の日には似ず 芭蕉

は、文月(旧暦の七月)の六日、したがって七夕の前夜のことを句にしてあります。

 今日はまだ七月六日で七夕ではないが、それでも空の様子や街の情景はどことなく常の夜とは異なっているようだ。

というような意味でしょう。

 あえて七夕を詠まず、その前の日に注目させることでより七夕の雰囲気を漂わせるとは憎い演出です。

 七夕は季語ですが春夏秋冬のいつに分類されるかご存じですか。
 当然「夏」だと思われるでしょう。ところが実は「秋」に分類されています。なぜでしょう。
 それは太陽暦(今の暦)と太陰暦(昔からの暦)のずれが原因です。詳しくは後述します。

 さて、七夕は七月七日と決まっていて、今日ではほとんど太陽暦で行われます。

 一宮市は尾張地区最大の七夕祭で知られています。終戦後、織物で賑わった町ですから織り姫にちなんで商工会が始めたのです。
 しかし日程は七月七日ではありません。子供達が夏休みに入るころの数日間駅前商店街で七夕祭を行います。これは商店街の営業効率と訪問客の利便性を考慮したからでしょう。近在から大勢の人が集まって大盛況です。

 他所はどうでしょう。
 江戸時代からの歴史を誇り、日本一と言われる仙台の七夕祭は一月遅れの八月七日前後を当てているようです。これも日程の便宜上がなせるわざで、本来の七夕の日ではありません。
 そのころから「みちのく三大祭ツアー」があります。仙台の七夕祭り、秋田の竿灯、青森のねぶた祭りがそれですが、いずれも陰暦七月七日が本当だということです。

 七夕は古来の日本の風習に中国からの行事が混ざったものとされていますから旧暦で行うのが本当です。しかし現実の暦とのずれからそれもままならなくなりました。
仕方のないことです。

 では、今年はいつが本来の七月七日でしょうか。
 暦を調べましたらなんと八月二十八日になります。とても遅いですね。夏休みが終わるころです。寒い地方などはもう二学期が始まっています。
 しかしそのころなら美しく澄み渡った秋の空、天の川もはっきり見えるころです。
 これが歳時記で七夕は秋の季語に分類される所以です。

 太陽暦で七夕を行うことで一番困るのは夜空に輝く彦星と織り姫星でしょう。なぜならそのころは梅雨の真っ盛り。天の川が氾濫してなかなか夜空のランデブーとはいきません。年に一回しか許されないデイトも雨で流れては情けなくて泣くに泣けません。

 ここに古い資料があります。
一九五九年 晴
一九六〇年 晴れたりくもったり
一九六一年 晴
一九六二年 くもり
一九六三年 晴
一九六四年 くもり一時小雨
一九六五年 くもり時々雨
一九六六年 くもりのち雨
一九六七年 くもり一時晴、のち雨
「星座の楽しみ(草下英明著)」より

 七月七日の東京地方の夜の天気です。このように太陽暦の七月七日は晴れるのが難しいころなのです。

 前掲書にはもう一つ新暦ではまずい理由が述べてあります。
 それは星座がずれているということです。文章を引きます。

「第一、かんじんの星座がずれている。新暦の七月七日のころ、夕空では織女・牽牛はまだ東の空にかなり低くて、星空の中にひときわめだつ存在とはみえないのだ。旧暦ならば、天の川は東北の空から南の地平線へと銀色のアーチをえがき、その両岸にかがやく織女と牽牛は、ほとんど頭の真上近くまで昇ってくる」

 そもそも織女(織り姫星)と牽牛(彦星)のラブストーリーが作られたのは天の川を挟んだ明るいふたつの星からイメージを膨らませたものに違いありません。今日、それらの星がはっきり見えないときに七夕を祭るのは滑稽でもあります。

 「ちょっと待てよ」
と心の声が聞こえてきました。
 「七夕のストーリーは何だっけ」
どうも細かな物語りは忘れているようです。思い出さなければなりません。

 こういうときはまず広辞苑に当たります。

七夕
 天の川の両岸にある牽牛星と織女星とが年に一度相会するという、七月七日夜、星を祭る年中行事。中国伝来の乞巧奠(きこうでん)の風習とわが国の神を持つ「たなばたつめ」の信仰とが習合したものであろう。奈良時代から行われ、江戸時代には民間にも広がった。庭前に供物をし、葉竹を立て、五色の短冊に歌や字を書いて飾りつ
け、書道や裁縫の上達を祈る。七夕祭。銀河祭。星祭。《季・秋》。

 堅苦しいですね。

 記憶をたどれば、仲良しの牛飼いと織女が恋に堕ちて、怠けてばかりいるので、怒った神様(帝?)によって星にされ、天の川の両岸に分けられてしまった。二人は年に一度、七月七日の夜だけ会うことを許された。その日は鵲(かささぎ)が羽を広げて橋を作ってくれるから天の川を渡ることができる。しかし、雨が降ると水嵩が増すの
で橋が作れないという悲恋物語・・・細かな所に自信がありませんがこんなところだったと思います。

 前掲の草下英明氏の本によると、織女牽牛の物語のルーツはかなり興を殺ぐ現実的なもののようです。悲惨な現実でもありました。

 織女星が文献上に現れたのは何と何と西暦紀元前1100年ごろの「夏小正」。このころ、中国は古代の殷帝国から武王の周に移ったころだそうです。
 織女と牽牛がいっしょに文献にあらわれてくるのは、あの孔子が編纂したとされる詩経(前500年ごろ成立。世界最古の詩集)。

 大意は
「つまさきだって、急ぎ足の天の機織り娘は、一日に七回も機織り小屋と家とを往復してはたらいているが、機はいくら織っても足りなくなってしまう。

 美しくかがやいく天の牛ひきの若者は、畑をたがやそうと牛をひきだすが、いくら作物をつくってもまたとりあげられるかと思うと、牛に荷車をとりつける気もおこらない・・・」

 譚という国の大臣が作者。周の悪政に苦しむ農民の恨みを天に訴えたものであるということです。

 つまり七夕伝説のルーツは酷税に悩む庶民の密かな反抗だったのです。それを美しいに星に託して行政批判していたです。今の感覚とは全く異なります。
 七夕祭りが日本に伝わったのが奈良時代(710年から)、庶民に広がったのが江戸時代とのことですから中国の歴史は気が遠くなります。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 夜空を見上げてどれが牽牛(彦星)で織女(織り姫星)かお分かりですか。
 実際に探しに出ましょう。
 ちょっとした郊外にでると星に不案内な私でもさほど苦労しないで見つけることができます。
 では、郊外からさらに離れて空気のきれいな山や海辺などまで行くとどうでしょう。
手に触れるように、あるいは天が落ちてくるように全天の星が輝き、その美しさには圧倒されますが、あまりにたくさんの星が見えてかえって素人には見つけにくいものです。

 まず、天の川を見つけることができますか。名古屋近郊ではあまりたいした川には見えません。

 次に、天の川の中にいる白鳥座を見つけることができますか。これは比較的簡単です。身近に知っている人がいればすぐ分かります。
 白鳥座は十文字の極めて整った形をしています。首を伸ばして大空を羽ばたく白鳥の姿そのものです。これは白鳥に変身した全能の神ゼウスが人の女房のところに夜ばいに行くところらしいです。

 白鳥座は南十字星に大して北十字とも呼ばれます。この形は十字架とも見え、その頭にあたるとても明るい星がデネブという星です。
 白鳥に置き換えると上下逆転してデネブは尻尾の位置になります。
 見つかったでしょうか。

 その近くの天の川の岸辺にひときわ明るい星があります。これが琴座のヴェガ(織女)。天の頂きに輝いています。北の空ではもっとも輝いている星です。

 ヴェガの対岸(東南方向)にすこし明るさは落ちるけれども十分に明るい星を見つけることができます。これが鷲座のアルタイル(牽牛)。

 白鳥座のデネブと琴座のヴェガと鷲座のアルタイルを結ぶと夜空に大きな三角ができます。これを「夏の夜の大三角」と称して他の星を見つける指標とするのです。

 星座を見るとき、本のイラストなどから想像してちまちま探しているとなかなか見つかりません。星座は相当広い範囲に大きく描かれています。夏の大三角もかなり大きい三角ですから、見つからないときはもう一回り二回り大きい三角を想像して下さ
い。

 中学生の理科の本には出ています。あるいは小学校の高学年でも習うかもしれません。子供さんがいらっしゃる方はたずねてみてください。

 夜空にきらめく二つの星を眺めながら今も昔も変わらぬロマンスに酔うもよし、悪政に怒るもよし。
 悠久の時を隔てた古代中国の人達の精神や、中世の日本人の心情に共感するのも夏の夜の一興です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No102「未来免疫学と自律神経」

三島治療室便り'98,6,1

以下の文章はマスコミの寵児となって多くのファンを持つ前の安保徹先生の話です。
その後の活躍に驚くと同時に、学会ではトンデモ本の作者として相手にされなくなってしまいました。
この頃の論文は面白かったのですが・・・・。
2011/06/15


≪游々雑感≫

 昨年のお盆、おもしろい新聞記事に遭遇しました。

 それは免疫に関する試論ですが、
「なるほど、言われてみれば納得いくぞ」
という内容です。
 要旨を簡単に紹介しましょう。しかし何分当時要点をメモしただけですし、10カ月も経っていますので内容はおおよそあっていると思いますが、表現は原文とはほど遠いことをお含みの上お読みください。

免疫未来学

   信濃毎日新聞1997年8月13日より

新潟大学医学部教授安保徹先生の「未来免疫学」。
骨子は人間の寿命は気圧に影響されるというもの。

 新潟大学の安保教授が「未来免疫学」を提唱されています。
 その考えに至る経緯がなかなかおもしろいもので多分に脚色されていると見ていますが次のような逸話です。

 免疫学専攻の安保先生はある日、知人の外科医福田実先生から
「俺はゴルフが大好きなのに、天気のいい日に限ってアッペ(虫垂炎)の患者が来て、ゴルフに行けないんだ」
という愚痴を聞かされたそうです。
 免疫専門家はその時、ピンときたのか次のような推論を立てました。これが「未来免疫学」の始まりです。

 なぜ晴れた日に虫垂炎(一般にいう盲腸炎)が多いのだろうか。
 医学的に考えると天候と虫垂炎は無関係のようで以下のような関係がある。

◎晴天と虫垂炎の関係
 ・晴れた日は高気圧である。
 ・高気圧は酸素が多い。
 ・酸素はからだにとってストレスになる。
 ・ストレスは自律神経を交感神経緊張に導く。
 ・交感神経緊張で体から出るホルモンはアドレナリン。
 ・アドレナリンを感知するレセプター(受容体)を持った白血球は顆粒球。
 ・以上の理由によって晴れた日は気圧が高く、自律神経の内の交感神経が緊張して白血球の中の顆粒球が増える。
 ・顆粒球は細菌を殺すために活性酸素を出す。
 ・その活性酸素が細菌だけでなく虫垂の粘膜までも破壊して虫垂炎になる。

これを「福田-安保の法則」と半分冗談で名付ける。

というものです。

 なにやら「風が吹いたら桶屋が儲かる」みたいですね。
 余談ですがどうして「風が吹いたら桶屋が儲かる」かご存じですか。
 詳細はかくのごとしです。

 風が吹く
 砂ぼこりが立つ
 砂に目をやられて盲人が増える
 盲人は三味線を弾いて生計を立てる
 三味線は猫の革を使う
 猫が捕まえられて少なくなる
 猫が減ればネズミが増える
 ネズミが桶を齧る
 桶屋が儲かる

 いや、これと「未来免疫学」をいっしょにしてはいけません。
 「未来免疫学」にはさらに詳細な医学的説明がありました。

 わたしたちの体のさまざまな生体反応は自律神経が請け負っています。
 自律神経はわたしたちの意識に関係なく生命維持に関与していて、通常わたしたちには何ともできませんし、意識に登ることもありません。古くは植物性神経とも言われました。
 具体的に説明しましょう。

 机の上にリンゴがあるとします。
 それを見たとたんおなかがグーっと鳴ります。胃が動いたのですね。
 胃が動いたのは自律神経の作用です。ただし、リンゴを見ただけで胃が動くのは条件反射(梅干しを見たら唾液が出る等)の一種。
 次にリンゴを食べたくなって手を伸ばします。これは意識動作ですから自律神経ではありません。
 口に運んだリンゴを齧るために口を開けます。これも自律神経ではありません。
 噛みます。これも自律神経ではありません。
 唾がじわっと出てきます。これは自律神経。
 飲み込んだら食道から胃、小腸、大腸、直腸と順次送られていきます。これは全て自律神経の働き。
 消化・吸収のために胃液や胆汁、膵臓から膵液などが出ますがこれも自律神経の働き。
 最後の排便は・・本来は意識に関係ない自律神経の作用なのですが、学習によってトイレに行くまで我慢するという人間社会に適応するために必要かつ不可欠な高度な技術を身につけて意識動作にしました。この技術は人だけでなく犬や猫でも体得します。

 呼吸はどうでしょう。
 普段は知らず知らずに行っています。
 一息ごとに
「さあ、ここらで息を吸おう。よし、今度は吐こう」
などと意気込まなくても(息込まなくても)自然に呼吸しています。これは自律神経のお陰。
 でも、ときどき気を取り直して深呼吸をします。これは意識動作です。純然たる自律神経の作用ではありません。
 ですから呼吸は自律神経だけの作用ではないのです。
 ちなみに呼吸法が自律神経失調症のトレーニングに利用されるのはそれが意識と無意識の両方に係わる運動だからです。

 自律神経がうまく働かなくなると昼間はやや興奮気味で活動的、夜間はおだやかで休息的というリズムが崩れます。
 そうなると夜は自然に眠くなって安らかな眠りに陥るはずなのに、妙に心身が緊張してしまい、寝所に入ってもなかなか眠れない・・などの問題が生じます。他に理由が見当たらなければ自律神経失調症と診断されます。

 さて自律神経についての説明はだいたいお分かりいただけたでしょうか。
 先に進みます。さらに細かくなります。
 自律神経には交感神経と副交感神経があります。
 例えば緊張した状態。試合の前などを想像してください。
 心臓はどきどきし、血圧があがり、血流も増大、呼吸も荒く速くなります。血液の多くは筋肉に集まり、活動に備えます。目は見開いていかにも興奮した状態。そのとき、胃腸などの消化に関係する臓器は休んでいます。
 臨戦体制でおなかが減ったりしたら困ってしまいますからね。
 このように試合の前のような緊張状態を作るのが交感神経です。

 逆に休息状態にある時は副交感神経が優位になっています。
 心臓はゆっくり穏やかに拍動し血圧が下がり、血流は減少、呼吸もしずかにゆっくりになります。
 反対に消化吸収のために胃腸などに血液が集まり、心肺器官以外の臓器は活発になります。寝る前に食べると太るというのはこのためですし、給食の後の授業が眠たくなるのは、胃腸に血液が集まって頭が軽い健康的な貧血になるからです。

 交感神経と副交感神経はシーソーのようにいつも反対に働き、一方が強くなると一方は休みます。あらゆる器官には両方の神経が行き渡り絶えずバランスを取っているのです。
 こうして知らず知らずにわたしたちのいのちは努力しなくても環境の変化に適応し生存していけるのです。

 自律神経の勉強が終わったところでまた「未来免疫学」に戻ります。

 この自律神経と免疫の主役である白血球に複雑な絡み合いがあります。
1 交感神経と顆粒球(白血球の一種)
2 副交感神経とリンパ球(白血球の一種)
 これらがそれぞれセットになっていて、人体に影響を及ぼす。

自律神経のうち
1 交感神経は活動的な機能に係わる。
2 副交感神経は安静などの機能に係わる。
  

1 顆粒球(白血球の一種)は交感神経緊張で分泌されるアドレナリンを感知するレセプターを持っている。
2 リンパ球(白血球の一種)は副交感神経の伝達物質であるアセチルコリンを感知するレセプターを持っている。

タイプに分類すると
1 顆粒球型人間
  やせ型、色黒、活動的で働き者。便秘、胃潰瘍になりやすくがん体質。
2 リンパ球型人間
  色白ぽっちゃり、のんびり。下痢でアレルギー体質。
(タイプ分類も新聞に書かれていましたから掲載しましたが、こうした分類を深刻に考えないでください。人はこんなに単純に分類出来るものではありません。やせ型で色白でのんびりで便秘なんていう具合にパターンに合わない人はゴマンといます。自律神経の作用を決定する環境の変化は無限ですし、反応する人も千差万別ですから形通りの反応などパターン化は困難です。あくまでも参考に・・・三島)

長寿県と短命県

 長寿県の長野、沖縄、山形などは気圧が低くリンパ球優位。
 短命県の青森、秋田、大阪、福岡などは高気圧で顆粒球優位。
(これも同様で、じゃあ、そこへ引っ越ししようかなどと考えるのは無益なことです。
長野県に住む人が全員色白ぽっちゃり、のんびり。下痢でアレルギーなんてことはありえませんから・・・三島)

先行研究として
 故斎藤章東北大教授の生物学二進法(安保先生の恩師)があります。
 白血球の中の食細胞の仲間とリンパ球が、それぞれ交感神経と副交感神経に対応するというもの。

「免疫未来学」の考案者・安保徹先生の談話

 水の特徴を知りたい時、分子、原子、クウォーク・・とどんどん細かく調べていくとする。ところが、それでは結局、水とは何なのか最後まで分からないと思う。水を知りたければ水そのものを研究するしかないんです。同じように、人体について知りたいのなら、人体そのものを研究するしかない。遺伝子をいくら研究しても、人間の生命は分からないとおもいますよ。

安保徹(あぼ・とおる)
 47年青森県生まれ。東北大学医学部卒。胸腺外分化T細胞発見(89年)などの実績がある。91年より新潟大学医学部動物免疫学教授。著書に「未来免疫学」(インターメディカル)。

;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;

 気圧が免疫機構にこうした影響を与えているとは興味深い意見ですね。
 それまでは漠然と体験的に思われていたことですが、高気圧と交感神経と顆粒球とアドレナリン、低気圧と副交感神経とリンパ球とアセチルコリンに関連づけられて説明されるとなるほどと思います。
 また、こうした関係が複雑に絡み合って生命が維持されていることに感動します。
 分析的に要素を関連づけて仮説を唱えつつも、結局人体は人体そのものを研究しなければ分からないという意見にも貴重なものがあります。

 以上が「未来免疫学」の骨子を新聞のメモを元に紹介したものです。
 ところで、肝心な免疫の説明がしてありませんでした。
 免疫とは何でしょう。
 日常何げなく使っていますが改めて問われてみると難しいですね。専門家は「自己と非自己の認識と排除」などと簡潔に言い切ります。
 自分(自己)を守るために、自分以外の異物(非自己)を排除して体を守るシステムを免疫といいます。
 簡単には、風邪のばい菌が入ってきたらやっつけるシステムです。ガン細胞などもこのシステムで常に芽を摘んでいます。
 免疫のシステムは次々に新事実や仕組みが明らかにされ、今日では神経系や内分泌系などと密接な関係があることが知られ、近年には精神との関係もあることから「精神神経免疫学」などという分野も登場してきました。

 昔の子供はいつも鼻から青い鼻水を二本垂らしていました。
 あれの多くは鼻に侵入した非自己であるばい菌を自己である白血球などの免疫最前線部隊がやっつけたばい菌や犠牲になった白血球の死骸です。ところが、今日、きれいになった社会ではあまりばい菌がいません。鼻に配備した強力殺菌部隊は手持無沙汰になっています。活性酸素という核兵器にも劣らぬ最終兵器を遊ばせているだけでは退屈になっています。そこで鼻の奥の部隊ではばい菌に代わる攻撃目標はないかとうずうずしていました。
 そこへやって来ました。念願かなって仮想敵国が見つかったのです。それは何でしょう。
 そう、花粉です。
 強力部隊はここぞとばかりに攻撃をしかけました。敵は単なる花粉。ちょろいもんです。しかし、攻撃力があまりに過度で鼻粘膜をも多大に損傷してしまいました。
 これが花粉症であるという医学者がいます。頷けます。

 同様に、皮膚の免疫部隊がばい菌の代わりに無害なダニの死体やら排泄物やら家の埃などに戦いを挑みました。これがアトピー性皮膚炎です。
 どうも今日の国際社会と同様、最終兵器の扱いに苦慮しているようです。

「しからば」
と、おもむろに口を開く人がいます。
「最終兵器を平和利用しようではないか」
と寄生虫の専門家。
「今日の社会はきれいになり過ぎた。それがそもそも免疫の働く場を奪う結果につながっている。解決策としておなかの中に寄生虫を飼ったらいかがか」
というのです。寄生虫がいる人にアレルギー性鼻炎は少ないとか。
 これはかなり知られた話になりました。

 清潔な現代社会は免疫の働く場を奪うと書きました。
 ところが現代社会には全く別の面から免疫機構を酷使するという現実があるということが最近のニューズウイーク誌に書かれています。それは先に出た「精神神経免疫学」の学者から提出された意見です。

 「精神神経免疫学」とは脳内の情報伝達物質の複雑な動きを分析し、心と神経系と免疫系の相互関係を探ろうとする分野です。

 その学者は
 「猛獣と出会ったとき、私たちの祖先はとっさに、戦うか逃げるかを決める必要があった。そのときには鼓動が速くなり、血管と筋肉が収縮し、血圧は急上昇していただろう。これがストレスだが、昔はこういう反応が起こる事態はまれだったと考えられる。かつてストレス反応は、生存のために必要だった。だが現代ではストレスが慢
性化した(現代に生きる私たちは怒りっぽい上司や情け容赦ない借金取り、乱暴なドライバーと日常的に遭遇している。朝から晩まで猛獣に出くわしているようなものだ)結果、その身体反応が健康を害し、悪くすれば命さえ奪いかねない(ディーン・オーニッシュ医学博士)」
と言うのです。

 別の学者はストレス反応から起こる諸問題を解決する一番いい方法はリラックスすることだと力説します。ニューズウイーク誌にはリラクゼーションの効果として「痛みや不整脈、不安、抑鬱、ガン、エイズの諸症状」
と書かれています。

 特殊なリラックス技法を持たなくとも、最良の方法は「いい友人」を持つことであり、「喜びや笑い」も有効だとのこと。

 もちろんそのために鍼や指圧が極めて有効であることは言うまでもないことです。

後記

 中日新聞6月14日付の「100億人に20世紀」というシリーズに敬愛する居酒屋「六文銭」のひげおやじこと三嶋寛さんのことが書かれています。

 時は60年安保闘争および岸内閣退陣という激動の時代。名古屋大学哲学科学生だったひげおやじさんは愛知県の学生連盟のリーダーとしてデモやオルグ(考えを説いて運動への参加を促す)などをしていたという回顧から、その時代を浮き彫りにし、さらに会社員を辞めて居酒屋店主になった経緯や、今のインドネシアの学生と往時のご自身を見比べたりという内容です。

 誰もが、いかなる時代でも、どんな社会でも、積極的にせよ、無自覚であるにせよ、時代の奔流に抗って生きることは不可能です。ひげおやじさんが時代と社会に積極的に係わった揚げ句の充実感と虚無感がその時代を背景にして正直に吐露された好企画だと思いました。

 現在、「今池の夜の哲学者」と呼ばれる見目麗しきひげおやじさんの顔も必見。あのお顔でも味には影響しませんからご安心ください。
 「六文銭」は雑然に徹した昔風の居酒屋。酒がうまい店です。おっと、料理も褒めなければ不味いですね。
 それからホームページも必見です。

炉端酒房 六文銭(1999年 惜しまれて閉店しました。ひげおやじさんは髭を剃髪して、今のなおネット上のあちこちに鋭くユーモアのある文章を掲載されています)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No101「下手物(ゲテモノ)あれこれ」

三島治療室便り'98,5,1


≪游々雑感≫

 食べ物の趣向には地域や個人によっていろいろな違いがあります。

 えてして人は自分の趣向に合わないものを下手物(げてもの)などと言って見下したり非難したり避けたりしますがこれはいけません。なぜなら同じ日本でも北海道から沖縄までいろいろな郷土料理があって、けっこう珍奇なものの存在に驚かされるからです。

 ましてや異国の食文化などに遭遇するとなおさらうろたえることが多いようですがそれを非難しては逆にこちらの文化程度の低さを露呈することになります。

 食習慣の違いは土地柄だけではなく、家庭の味、いわゆる「おふくろの味」に代表される家庭環境や生活習慣、個人の体験や生まれつきの性質からも大いに異なることは誰もが経験することでしょう。

 今月は実体験に基づいて、できるだけ正確に、真実に近い形でゲテモノあれこれを紹介します。一片たりとも脚色して無いことを明言します。

蝮と鮫(マムシとサメ)

 わたしが在宅ケアに訪問するTさんは秋田の山村の出身。難病と脳卒中で10年来寝たきりながらも実に明るいの50代半ばの男性です。

 テレビに動物などが写るとしばしば
「あ、あれ食ったごどある。旨いよぉ」
と言われます。
 画面にはニョロニョロと蛇などが登場中。

「山仕事さ、すでるどねぇ、マムシが出はってぐるがら、

  『おーい、御馳走さ出てきたぞー』

とみんな呼ばって捕まえでさ、皮をネ、ごやってビーと裂いでさ、串刺すにすて焼いで食うど、これが旨えんだなあ。こたえられんよー。
あー、もいっぺんでいいがら、マムシさ食いでーなー」

「何かタレつけて食べるの?」
「うんにゃ、なーんもつけんでも旨いよ。刺し身もええよ」
「どんな味?」
「どんなと言ってもなー。食ったごとねー人さ、教えるのむづがし。
ウナギかな、ウサギがな、いやいや、やっぱり蛇の味だな」
「ウサギも食べたことあるの?」
「あるよ、もぢろん。山仕事すでるとピョンピョン出はってぐるがら、

  『おーい、御馳走さ出てきたぞー』

とみんなを呼ばってさ、捕まえでさ、皮さ、ごやってビーと裂いで、焼いで食うど旨いよー」
「・・・・・・」

 かくのごとくにTさんの胃袋は動物図鑑さながら、何でも収まるようです。

 きつい仕事をしながらTさんを甲斐甲斐しく介護しているのが奥さんのS子さん。
広島県の山村出身。

「私らの里は広島の山奥じゃけーね、フカを食うんよ」
「フカってサメのことでしょ」
「うちらはフカゆうとった」
「広島と島根の県境の庄原から三次の辺りは全国でも珍しくサメを食べるんだよね。サメやエイは排尿器官をもたないからアンモニアが全身に貯まるので身が腐りにくいそうだよ。
 だから交通機関の発達していない時代から海から遠い山奥で珍重されたんだ。その代わりアンモニアが全身に染み込んでいて臭い」
「サメみでえな気持ぢ悪いもん食えるがっ。おっかあはろぐなもん食はってねえな」
「あんたこそ子供の頃からマムシやムカデばっかり食べとってでしょうが。わたしらそげなゲテモン食べたことないけえね」
「馬鹿こぐでねえ。マムシさゲテモンでねえ。それにそっだらムカデなんが食ったごとねえど。噛まれっと痛えったらねえんだがら」

「僕も広島の生まれでしょう。小学校の頃、おふくろの田舎へ帰省したらサメだのエイだのの料理を食べたよ。刺し身も食べたことがある」
「先生、そんなゲテモン、うまがったが?」
「はっきり覚えてないけど、エイの刺し身はネチャネチャして気持ち悪かった」
「ほれみれ。サメだらエイだら人様の食えだもんぢゃねえわ」
「あんたこそ。マムシの刺し身食うとって人がなんばゆうとるね。素人にはエイの刺し身は無理じゃわ。最初は火を通さないといけん」
「カマボコやチクワはサメの身を使用してるからみんな知らずにサメを食べてるよ」
「ほれごらん、あんただってフカ食べちょるんよ」

 Tさん宅では秋田弁と広島弁に囲まれて頭がぐらぐらする会話です。
 30年来の夫婦にしてからこの有り様ですから食の好みの難しさ。

山椒魚(サンショウウオ)

「あ、先生、これ尾瀬のお土産」
 調整にみえた近所の40歳ばかりの女性が小さな紙の包みを差し出しました。
「また尾瀬に行かれたんですか。お土産いつもありがとう。これは何ですか・・・ゲ、イモリの黒焼き!?」
「違いますよ。これ、よく見てください。山椒魚の干物」
「山椒魚って、はんざきのことでしょ。もっと大きいかと・・・」
「あれは大山椒魚。これは普通の山椒魚」
「これがね。イモリちょっと大きいぐらいですね。指まできちんと揃ってる。あ、歯も。標本ですか」
「いーえ、食べるの。火で炙(あぶ)って。酒のつまみに最高!」
「どうやって」
「頭からそのままガリガリと・・。これが楽しみで尾瀬に行くようなものですよ、私、オホホホホ」
「・・・・・・・」
 
蝗(イナゴ)

娘「おとうさん、なにこれ」
父「ああ、それはエビだよ。美味しいから食べてごらん」
娘「ほんと?・・・固くて変な味」
父「そうかなあ」
娘「(しげしげと見て)おとうさん、このエビ、バッタの顔してるよ」
父「クスクスクス」
娘「騙したな。何これ」
父「イナゴだよ。田舎では田圃に一杯いるから捕ってきて脚もいで炒めて食べる」
娘「もう大人なんか、絶対に信用するもんか」
 子供にウソをつくのはやめましょう。

西瓜と赤茄子(スイカとトマト)の法則

 いつも忘れた頃にやって来る妙齢のサクソフォン奏者。
「やあ、久しぶり。元気だったの」
「はい、ちょっといろいろあったんですけど、芸大の先輩に相談して何とか乗り越えました」
「先輩もサックスの人ですか」
「いえ、彼は作曲のほうです。先輩はおもしろんですよ、スイカとトマトが全く食べられないんです」
「ほう、スイカとトマトが食べられない。ひょっとして、彼、すごく信頼のおけるいい人ではありませんか」
「はい、そうです。どうしてお分かりですか」
「以前から発見していた“宇宙の法則”なのですが、スイカとトマトが嫌いな人に絶対悪い人はいない。
それどころか善人が多いという決定的事実に気づいたのです」
「本当ですか。実は先輩もそう言ってたんです」
「本当です。スイカだけではだめ。トマトだけでもだめ。スイカとトマトの両方が嫌いな人に善人が多いのです。これは真実かつ法則です」
「なぜでしょうか」
「なぜなら、僕も嫌いだからです」
 これは正真正銘の真実です。

 かくして人々はその人なりのゲテモノを避けつつ、他人のゲテモノをけなしつつ、食生活を楽しんでいるのです。

 本日登場のゲテモノたちを詠んだ名句を巻尾に紹介して口直しとしていただきましょう。

蝮(夏)
曇天や蝮生き居る罎の中 芥川龍之介

鮫(冬)
日輪のかがよふ潮の鮫をあぐ 水原秋桜子

山椒魚(夏)
山椒魚怒り悲しむかたちなす 山本一雄

蝗(秋)
生きている音のいなごの紙袋 北 山河

赤茄子(夏)
虹たつやとりどり熟れしトマト園 石田波郷

西瓜(秋)
いくたびか刃をあてて見て西瓜切る 山口波津女

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No100 「游氣の塾とは?我が人生のコンセプト」

三島治療室便り'98,4,1

 
≪游々雑感≫

 三島治療室の頭に《游氣の塾》という名称がついています。
 これは何だと訝(いぶか)る人がいます。
 あるときなど地元の警察官が戸別訪問でやって来て「ここはいったい何の塾ですか」
と尋ねたほどです。右翼団体とでも思ったのでしょうか。

 聞かれる都度
「指圧などを教える塾ですよ」
と簡単に答えていたのですが、今月号は《游氣風信》100号ということで、先月号に続いて原点回帰を試みたいと思います。

 先月号は「触れる心」と題して32歳の時に鍼灸専門誌「医道の日本」に書いた論文に解説をつけたものを掲載しました。
 「触れる心」はなかなか反響がよく、今までの中で先月号が一番よかったという評もいただきました。それは当然でしょう。専門誌掲載の論文なのですから意気込みが違います。
 教育一筋に生きて来られた方からは
「『触れる心』の内容は教育の心と全く同じだ」
との賛同を得て、広く一般性ある文章だったと意を強くしたものです。

 今月号ではもう少し書いた年代を溯(さかのぼ)ります。
 「触れる心」が12年前の32歳なら、こちらは27歳の頃、およそ17年前にまとめたものです。

 鍼灸の専門学校を卒業し、結婚し、親炙(しんしゃ)していた増永静人先生も亡くなり、そろそろここらで自分の進むべき道を明らかにしておくべきではないか、それをもって自分自身の指標としようではないかと思い始めました。
 学生時代からばらばらに関心のあった宮沢賢治や俳句などの文芸、武道、指圧や針灸・気功などの治療技術を、この際、大づかみに自分の中でまとめたいと考えたのです。精神的に子供から大人になりかけたと言っていいでしょう。

 そんな頃、《游氣風信》でたびたび取り上げた「気流法」の坪井香譲(かじょう)先生との邂逅(かいこう)がありました。当時はまだ本名の坪井繁幸という名で執筆をされていましたが、「極意」とか「黄金の瞑想」などの著書を読んで引き付けられるものがあり関心を抱いていたのです。
 そのうち、ひょんなことから名古屋でヨガや気功法の一種「導引術」を教えていたKさんから坪井先生を紹介され交流するようになりました。
 Kさんの誘いで気流法のセミナーに参加するとさまざまな興味深い身体技法がありました。しかしそれらもさることながら一番興味を抱き、衝撃を受けたのはその大きな身体観でした。

 「気流法」のパンフレットには

  ◎生きる実感(出会い、共感、反発)
  ◎生きる力(活力、体力、精神力)
  ◎生きる方向性(英知、イマジネーション、言葉)

という記載が図式的に書かれていて、それらを∞(メビウス)の輪のように調和し発展するのが「気流法」の目指すところだと言うのです。

 それを読んだわたしは
「ああ、これはすごい」
と強い感動を禁じえませんでした。

 そして自分なりに考えて、坪井先生の意見も聞きながら次の形にしました。

  一 生きる方向の発見
  二 生きる活力の養成
  三 生きる場の解放

 塾名も最初は「気流身体塾」。後に「気流法」に迷惑をかけてはいけないことと、影響が強すぎる点を考慮して独自の名称に改名したのです。

 簡単に説明しましょう。
 「身体」は実質的な“肉体”という空間と、生きてきた“個人史”という蓄積された時間と、脳の活動である“精神”を皮膚で包んだものですが、さらに大きく“環境”との係わりあいの中に存在しています。

 自分が勉強してきた治療術は主として上記の二の「生きる活力の養成」の部分です。しかしそれだけでは我が身大事だけのエゴの塗り固めにもなりかねません。そんな活力なら無い方が世のためになり得ることも大いにあります。
 そもそも生きて行くだけならイヌやネコでも立派に生きています。彼らは子育てだって人間以上にこなします。では人間とイヌ・ネコの違いは何でしょう。

 一つは志です。
 動物は与えられた環境で自分の領域を守りつつ平穏に暮らせるように宿命づけられていますが、人間は何らかの志を持たないことには一時も生きていけません。それは“本能”のままに生きていれば一定の環境下で問題なく生きていける動物と、その進化の過程で“本能”の制約を外したために自ら生きる方向を規定しなければならなくなった人間との違いです。

 「今日の夕飯は何にしようかしら。タマネギが安いからオニオンスープに決めた」 このように食事一つをとっても些細な志を必要とするのです。ライオンのように目の前を通りかかったウサギを捕って食えばいいというものではありません。
 こうした日常の中にある小さな志でなく明治維新の精鋭たちのような大志というものを抱く気概、これも人間にとって不可欠なものです。けれどもこれは成長するなかで自然に身につけるわけにはまいりません。
 明治初期、日本青年に農業指導に来て北海道開拓に功績を残したクラーク博士の有名な

「青年よ、大志を抱け」

という壮大な志ともなればその修得はとても一朝一夕にはなし得ません。
 ここに教育が必要となる所以があります。
 昨今の若者がだらしないと憤慨される方も多いようですが、その若者達は時代に育てられたことに気づかなければなりません。今という時代の教育の成果がその時代の若者に反映しているのです。
 これが一の「生きる方向性の発見」。

 もう一つは環境(場)との関わり方にあります。
 地球上の生物の中で人間だけが環境に働きかける能力を得ました。
 人間は環境を変え、反対にその変えた環境から影響を受けつつ今日までに至る動物です。この過程が“人類史”です。動物は環境の中に完璧に適合する形で進化してきましたが、人間だけは環境を変えつつ適合してきたのです。

 人間は寒いとき火を熾(おこ)し、衣服を着用して部屋を暖め、生存環境を快適な形に変化させました。しかし快適環境に身を置くうちに皮膚が薄くなり、体毛を無くし、ひ弱な体になってしまったのはそのいい例でしょう。

 揚げ句の果て、さまざまな公害、地球温暖化やオゾン層破壊などのエコロジー問題を抱えることになってしまいました。
 身近に視点を移せば、家庭の家族関係や職場の人間関係。生活圏の自然環境や社会環境なども生きていく上で極めて重要になります。さらに見逃しがちなのは自分自身も環境を作っている一員であるということです。

 大きく地球環境を問わずとも、身近な環境を暮らしやすいものにし、自分自身も周囲の人達にとってよい環境であるように心掛けて、たった一度しか無い、しかも後戻りできない人生を謳歌したいものです。

 その視点で環境と身体との関わり方を述べたのが最後の「生きる場の解放」ということなのです。

 このように「気流法」の言葉と身体観に触発されて、それまでいろいろ学習してきたことを自分なりにまとめ上げたのがこれから紹介する文章です。若書きゆえのやや檄文調。
 これを原点として主として「触れる」ということにまとめ上げたのが先月の文章でした。

 今回改めて読み返してみて、
「俺はちっとも変化していないな」
という思いを強くしました。

 身体調整の場だけでなく、身近な人間関係の場でも、その他の何でもない付き合いの場でもここから一歩も出てはいないと呆れてしまうほどです。
 昨年書いたホームページの文章(《游氣風信》で紹介済み)など全くそのままでいやになるほど。

 以下に書かれた文章を読まれてどのような感想をもたれるでしょうか。読みにくい文章ですが興味のある方は最後までお読みください。

 なお、以下の文の「身体調整について」以降はさらに数年間の時間を経て書かれています。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

[生きる場の解放・生きる方向の発見・生きる活力の養成]を求めて
《游氣の塾》

 

  我々は生きていく限り<身体>の問題を看過する訳にはいかない。
 そしてそれは単に健康とか病気だけの問題でもない。
 なぜなら、すべての情報は<身体>によって感受(認識・自覚・勘等)、処理(判断・整理・選択等)され、あらゆる創造(活動・表現・技術等)は<身体>から発せられるからだ。
 即ち、我々の<身体>とは我々の<存在>そのものなのだ。  

 しかし、現実には我々の肉体は、社会という鋳型の中で精神の僕として隷属を強いられ、感性は鈍麻し頽廃し、心身は疲れ強ばり日常に漂流している。

 日常に埋没した自分に気付いたなら、この未知で、大切で、ままならない、いつかは捨てねばならない<身体>をじっくり見直し、親しく対話してみようではないか。
否、むしろそんな<身体>に委ねきってしまうことで、もっともらしい権威やおかしな常識、偏った先入観等の束縛から解放されようではないか。
 それに応えるべく、<身体>こそは完全なる世界を体現しているのだ。

 そこから、活性の湧き出る身体と、自律性に富んだ生活と、共感性に包まれた環境(人と人・人と自然)を得て、健やかな個性の融合した生命共同体が築かれるのではないだろうか。

◎身体とは
ここで言う<身体>とは以下を統合した概念としての身体である。

<肉体> 解剖学的=骨格・筋肉・皮膚・神経・内臓等(構造)
     生物学的=消化・循環・呼吸・運動・感覚等(機能)

<精神> 心理学的=本能・感情・葛藤・知性・欲求・学習等(ヒトとは?)
     哲学的 =意志・目的・欲望・認識・創造・内省等(人間とは?)

<經絡> 身体における氣の循環路といわれるもので、肉体と精神を総括する存在
     生命の流動性を示す概念
     生命を12のパターンで認識し、身体調整のシステムとして応用

<氣>  森羅万象の深奥に潜む実在の力
     身体に影響する内(生命力)、外(環境)の根源的なエネルギー
     不可視でも感応し、強力なパワーとして現象する
     理論的に説明不可能な場合に多用する便利用語
氣といわれると、なんとなく解った氣がする曖昧なコトバ

◎解放された身体とは

脱力性
リラックス、放下、可能性、ゆとり、重力に委ねる、安定性、中心が定まり強さが生じる、バランス
「をりとりてはらりとおもきすゝきかな」飯田蛇笏

柔軟性
やわらかさ、しなやかさ、適応性、多様性、広い視野、自由、自在
「をみなごしめやかに語らひあゆみ」三好達治
感受性
認識、感動、みずみずしい感性、創造のモチーフ、センス
「蔓踏んで一山の露動きけり」原石鼎
流動性
うねり、波動、リズム、エネルギー、カオス(混沌)、スパイラル、体液循環、呼吸、經絡
「筋肉は隆起し消滅する」坪井香譲
方向性
目的意識、自律性、自立性、勢い、パワー、全身がまるごと一体となって向かう(動く)、表現、集中、志向、思考、コトバ、希望、コスモス(秩序)
「はまなすや今も沖には未来あり」中村草田男
共感性
人の痛みを自分の痛みとして感じる、人との調和、自己との調和、宇宙・自然との調和、生命共同体の礎、アガペ 
「世界がぜんたいに幸福にならないうちは個人の幸福はありえない」宮沢賢治

◎身体調整について

 身体調整はコミュニケーション(触れ合い)の一形態である。その根底にあるのは苦しみ、悩み、疲れている人に対する理解と共感であり、その行為は思わず手が出て、触れ、さすり(手当て)、じっと抱きしめる(介抱)などの形で表現される。
 ここで忘れてはならないことは、それらの行為が決して一方的でなく、同時にこちらの手も触れられ、さすられ、じっと抱かれ、そこでさまざまな情報の交換がなされていることである。
 本来、医療とはそうした対等の関係であったはずだが、今日では権威主義と経済関係にとって替わられてしまった。しかし一部で本能的な手当ての歴史が受け継がれ発展してきた。
 それは、患者と治療者との関係性を考慮した身体観に立脚する、おおらかで風通しのよい、解放された対等関係に基づく触れ合いの手作り医療である。

◎身体調整の技術について

 調整手技は武道、スポーツ、ダンス等と同じく身体で表現する体技である。したがって指一本使う時でさえ、全身の協調と意識の統一が必要となる。
 <技>を学ぶためには、手、指はもちろん肘、肩、腰、膝、足、腹の隅々まで神経をいき渡らせて、身体を意識すること(内観)と平行しながら<技>を修得しなければ上達は望めないであろう。
 さらにこの<技>を何の目的で、どんな場合に、どういう人に、どのように使用するのかを前提にした<術>の稽古も必要である。
 そのためには、身体と意識を十分に練って心技体を統一させていくことが極めて重要になる。

◎手技の内容

基本(全ての手技に共通する原理)
 姿勢、手の当て方、手首・肘・肩・腰・足の構えと意識、足底と床との感覚、床からのエネルギーを相手の体まで伝える流動的な身体作り、呼吸と動き、呼吸と意識、意識と技の関係、重心を活かす法、勁力の養成、腹(丹田)と腰の意識、氣の体感と伝え方、一体感(生命共感)

  上記をさまざまな形でトレーニングする。それによって技を使いこなせる身体を 作り、さらなる上達を目指す。
  トレーニングは簡単で、それ自体健康法になる。

検査法(民間療法的手探り療法からの脱却)
 生体反射検査法(BRT)、生体脉反射検査法(BPRT)、經絡診断、操体的動診、モーションパルペーション(可動性検査)、整形外科的検査
  身体調整は、まず相手からの情報収集から始まる。収集した情報を整理し現状把握の後、調整法を決定し、実行する。
  現状把握は予後の判定の判断基準になる。
 
  以上の情報収集と予後判定の方法が検査法である。同時に自らの限界を知る方法でもある。

鍈各種手技(直接的手段)
 カイロプラクティック、モビリゼーション、經絡指圧、操体、ストレッチング、リンパ流動法、生体反射療法等を各人の適性に応じて深める。
 上記の技術を用いて全身の筋肉、骨格(頭蓋・脊椎・骨盤・股関節・四肢)の調整、内臓の活性、リラクセーション、生体エネルギー(氣)の調整と養成を目指す。 
 以上の技術はばらばらに存在する訳ではなく、互いに関係しあっているので、相乗的に上達していくであろう。 

游氣の塾

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No99「触れる心」

三島治療室便り'98,3,1


《游々雑感》

触れる心

 今月号は通巻99号となります。100号を目前にして改めて初心を見直すという意味で、今回は身体調整の原点である「触れる」ということに焦点を当てます。
 以下の文章は12年前、わたしが32歳の時、鍼灸専門誌「医道の日本」の創刊500号特集号に原稿を依頼されて書き下ろしたもので、若書きの気負いがぷんぷんと匂ってくるものですが、原点と称するにふさわしい内容ですので紹介します。

 専門家向けの論稿ですから、なじみの無い言葉がでてきたり、気負いから堅苦しく分かりにくい所もありますから適宜注釈を付けます。
 また、いつもの「です・ます調」でなく、「だ・である調」ですから、少し生意気な文章に感じるかもしれません。
 今となっては修正したい部分も多々ありますが、原点再考という意味でそのまま掲載します。

-------------------------------------

医道の日本1986年(昭和61年)4月号創刊500号記念特集
特集「圧痛点による診断と治療及び指頭感覚」

触れる心
「接触」から「触れ合い」へ
三島広志

 治療行為は、患者と治療家の出会いの場、いわば一つのコミュニケーションの場であって、それはあくまでも対等な人間関係の場であるべきである。

 《註:わたしが対象としている方は患者すなわち病む人だけではないので、今は依頼者という英語のクライアントを用いています》

 ともすれば治療家は、治療する側が優位に立っているという誤解から、患者より上に位置しているものと勘違いする傾向がある。患者もまた、治療される側として自らを下に位置してしまいがちである。しかし、それでは正しい人間関係を形成することは不可能である。
 治療家と患者が対等になって初めて本当の人間像を掴むことができるであろう。病気は人間像の一部に外ならないのであるから、人間像を明確に理解しない限りその人の病気を明らかにすることは困難である。

 そもそも、患者が治療家を訪れたということは、それに先立って患者が、チラシ、評判等から決断を下している。即ち、治療家は患者に選ばれているわけで、治療家が優位に立っているわけではない。
 実際の治療でも、治療家の行為に対して患者が反応し、その反応に合わせて治療家が新たな働きかけをするという、二人の呼吸が合ってこそ納得のいく治療が可能となる。

 《註:クライアントの中には一方的に金で雇ったという態度の方もありますが、それでは良い形での身体調整は不可能です。しかしそうした場合、なぜそんな態度を取るかということがクライアント理解の手掛かりになります》

 こうした治療において「触れる」という行為が大変重要な意味をもってくる。昔から人間関係を「触れ合い」と言い、治療を「手当て」、看護を「介抱」と言うのも、皮膚の接触が人間社会に占める価値の大きさ故であろう。

 《註:触れる、当てる、抱くと皮膚の接触を表す言葉が人間関係、特に医療や介護に用いられることは示唆的です》

 患者からの情報を得る方法として、漢方には望・聞・問・切の四診があり、西洋医学には視診・聴診・問診・触診・打診等と、機器による物理的、化学的な方法がある。


 《註:望診は望の字の成り立ちそのままに「満月の出を待って心を亡くす」ような共感の気持ちで、クライアントを遠くから望むように見ること。視診は悪いところを見つけだそうとする科学者の見方。聞診はクライアントが自ずから発する情報を知ること。問診は問いかけることですが、詰問でなく共感を示しながら行います。切診は
体に触れて深く切り込むように手を当てること。切るの元の意味は刃物を当てて対象に深く切り込むことで、そこから哀切とか親切の言葉が生まれました。
 どちらかと言えば東洋医学の診察はクライアントの心に共感しながら表現形態を調べていくのに対して、西洋医学の診察は患者の悪いところを徹底的に調べます》

 西洋医学は極力主観を排し、客観性を高めることに努めているため、診察は機器に頼る傾向が強いが、漢方では五感による体験的、直感的で主観性の強い診察が主流である。
 四診の中で最終的に最も信頼すべき方法が切診つまり接触による診察である。鍼灸治療家は患者の体に触れることで診察を行い、綜合的判断のもとに診断をし、治療点を体表に決定する。

 《註:主観的な診断は限界をすぐに露呈しますが、客観的な判断による医師の治療が一般化した今日こそ安心して主観的診断も行えます。つまり怪しいと思えば医師に委ねることができるということ。わたしたちが前線で難しい病気を発見することもよくあるのです》 わたしたちの仕事は「医者はいそがしくてちっとも話を聞いてくれん」とか、「具合が悪いのに『検査に異常は認められません』と言われた」という多くの患者の不満を埋め込む役割を果たしているともいえます。

 冒頭、治療家と患者は対等の位置にいなければならないと述べた。それは患者を診断する時の最も基本的な在り方でもあるからだ。
 人と自分が対等の立場にいるためには、まず互いに認め合わなければならない。治療家は患者が病気である現在そのものを受け入れなければならない。腕が挙がらないのは異常であると思うことはすでに患者を受け入れていないことになる。腕が挙がるのが正常で挙がらないのは異常とみるのは一種の差別である。腕が挙がらないことを含めてそっくりそのまま患者を受け入れることが認めるということである。
 すると、患者の肌に触れる時、治療家と患者は同化することができる。二人の人間が一つに融合するような感覚になるのである。

 《註:パラリンピックで活躍している人達がこれを雄弁に語っています。障害は異常の固定化、病気は治る可能性のある異常です。すわなち、どちらも過程的状態のひとつの断面なのです》

@@@

 筆者が今まで、触れるということについて書かれ、ショックを受けた本が二冊ある。
それらを紹介しながら触れるということについて考えてみたい。

 「大事に触れるということは、自分の中身全体が変化し外側の壁がなくなって、中身そのものが対象の中に入り込もうとすることである。そのことによって対象の中にも新しく変化が起こり、外側の壁がなくなり、中身そのものが自分に向かって入ってくる感じになるのである。そして自分と対象という対立するものはなくなり、あるの
はただ文字どおり一体一如となり、新しい何ものかを生みだす実感がある。(中略)
皮膚は原初生命体の界面の膜である。すべての感覚受容器(視・聴・嗅・味・触)をふくむ総合的感覚受容器なのである、と同時に、脳、神経の原初的形態なのである。
(中略)皮膚は脳がからだの表面に、薄く伸び展がったものである、といったらどうであろうか。原初形態の脳(原初生命体の膜)は、受容、伝送、処理、反応のすべての働きをしていたと考えられる。(中略)皮膚は[もの]としてここにある心である、というべきであろう。(中略)人間の触れるという働きの中で、最も強く『体気』が出入りする所のひとつが手・掌・指である。本気で触れた時、どんな驚くべきことが起こるか、体験しないとまったく想像もつかないようなことが起こるのである。本気とは『本当の気』である。協力の在り方の中でぜひ体験してほしいと願っている。」
(野口三千三『原初生命体としての人間』三笠書房・岩波書店より再刊)

 野口体操で知られる野口氏の体操は、芸術、特に演劇や、教育の関係で地味ながら大きな影響を与えている。野口氏は独特のくねくねした体操を通じて人間を探求してこられた方で、筆者もその著書から人生観を変える程の影響を受けた。

 《註:野口体操は人体を革袋に水を入れたものと考え、従来からの外から形態的に動かす体操でなく、身体感覚に委ねながらゆったりと軟体動物のように動く体操です。
東京芸大の体育の先生をされていましたから、同大学では伝説的なコンニャク体操として知られています》

 当時、経絡指圧の増永静人氏の勉強会に参加していた筆者は、両氏の到達した地点の共通性にも驚いた。片や指圧、片や体操で、触れるということの捕らえ方が大変似ているのである。共に人間とは何かといつ命題を求める方向が同じで、たまたま方法が異なっていただけということであろう。

 「経絡が生命に固有のものと考えるならば、それは細胞にみられる原形質流動の発展したものと考えるのが適当だろう。細胞が分化するとき外胚葉は皮膚・神経系となって外と内を連絡した。内胚葉の内臓もやはり外界との適応・交流のために原形質流動を経絡系統として連絡に当てたとみるのである、この交流、適応ののぞき穴が、皮膚の感覚器のように経穴として開孔していると考えてよかろう。(中略)生体の歪みに対して、経穴は内臓へ向かって液性伝導を行うのであるが、これを人為的に代行した時、経絡のヒビキがおこると考えるのが妥当であろう。(中略)ツボをとるときには探ってはいけない。その疑いの心から科学は発達し得ても、生命を掴むことはできない。生命には生命でもって対しなければならないのであって、ツボを知るのは原始感覚によって感じとるのである。(中略)スキンタッチは皮膚接触と訳されるが、生命共感のタッチとは深く挿入される接合である。(中略)皮膚接合によって生命共感は得られ、その原始感覚を通してツボは実感される。指はツボを押さえるのでなく、ツボに受け取られて自ずとツボにはまるのである。」(増永静人『経絡と指圧』医道の日本社)

 《註:経絡は最近では一般にも知られて来ましたが、中国医学では、命の源のエネルギーである気の流れる道のことです。解剖的には証明されないものですが、この観念的なエネルギー論がわたしたちの医療の根幹にあります。経験的に、実証的に、有効であるとして連綿と伝えられています
 増永静人は人体のモデルをアメーバのような単細胞動物に求めていました。野口体操が水の詰まった革袋と考えたのと相似しています。なお中国拳法でも野口体操と同じ考えをします》

 増永氏の言う生命共感とは、指圧を施している時、自分の体と患者の体が全く一体になったように感じ、患者の違和感、苦痛を我が身の苦痛と同様に感じるものである。
それはまさに野口氏の自分と対象との中身がお互いに交じり合い溶け合うことと同じである。

 《増永指圧は一方的にごりごり押し付けるものでなく、治療師もクライアントも同時に味わうような圧を理想とします》

 治療という場において、治療家と患者が本当に一つに溶け合った時、「気」が最高に発揮されるのではないか。この状態は自然との同化と同じで、太極拳に代表される気功やヨガ、自律訓練法等、皆これを目指したものである。

 《註:気は自然や人とのコミュニケーションの際に仮定されるもので、さまざまな捕らえ方がされています。気で人を吹っ飛ばすとか、気でみるみる病気が治るとかという側面が過大に報道されたりしましたが、無論、それは気の力ではなく、吹っ飛んだり、病気が治った人の力であって、吹っ飛ばした人はその優れた誘導者であったわけです。 気という概念を用いると体の運用や心の操作にとても便利なことがあります。もっと気を入れて鍼をしなさいとか、あなたの歌には気がはいっていませんとかと、抽象的な指導に役立ちます》

 その最もスケールの大きなものが古来から行われてきたハレの日の祭ではなかったかと筆者は思っている。祭はケの日の(普段の日常的な日)の束縛から解放されるハレの日(非日常の日)である(今日でもハレてご成婚とか晴れ着というのはその名残)。祭の日は、上下の身分を超え、男女を忘れ、唄と踊りと酒と御馳走を心行くまで堪能する。そこに存在するのはあらゆるものからの解放である。
 治療は治療家と患者の合一によって病気からの解放を目指すが、祭は自然と人とカミの合一によって存在からの解放を目指す。治療において触れることは、祭の酒と同じ作用をする。

 《註:唐突な意見ですが、治療だけでなく、人の営みの多くは、特に非生産的なものの多くはこういうものでしょう》

 今日では、祭のようなハレの日を失い、ケの日も曖昧になってしまい、自らが束縛されていることに気づきにくくなってしまっている。そんな現代人を確実に束縛するのが病気である。病気は、われわれが実は束縛されている存在であることに改めて気づかせてくれる一つの現象である。
 治療家はそれに気づいた患者に何を与えることが可能だろうか。症状を除去することだろうか。症状を除去しても、患者は一応満足こそすれ、すでに束縛された存在であることに気づいた彼らは、一抹の不安を常に抱き続けなければならいだろう。患者に与えるべきものが見つからない時は、治療家は己れ自信に対しても与えるべきものを持っていないということでもある。この点においても、治療家と患者が全く対等の関係にあることが明瞭に見えてくる。

 《註:二度と病気にならない方法はないかと尋ねる人があります。また、そうしたことを教えるというすごい人がいます。しかし、人は常に環境とともに変化しています。だからこそ、赤ん坊は少年に、少年は青年に成長するのです。盛りを過ぎれば衰退するのはしかたがありません。健康とか病気は命のありようの一つの過程的断面で
す。人は病気になったり治ったりしながら生きているのです。治る力があるから病気になり、病気になる力があるから治るのです。若返ることがないように治らない病気もあります。残念ですがどうにもならないことです。医学の発展史はその限界との戦いです》

 この根源的な触れ合いの場を、もっと大きな「気」の渦巻く場として、太古の祭のような場として活かせないものだろうか。
 そこを素通りして小手先の指頭感覚のみを鍛えても無意味であろう。名人とされる人の評伝は皆、彼らが「気」を根底から転換させる力を持っていた事実を伝えている。
患者の病気や人生がその「気」との出会いの中で治り、変化していくのである。

 《註:優れた治療家はクライアントの人生観を転換することで治療しています。そうでない治療家はクライアントの依存心に依存しています。宗教家はクライアントを取り込んで生涯を依存させようとします。医療家はいつかは関係を断ち切るか、卒業させたがっています》

 我々治療家はそうした可能性を持っていることを絶えず自覚して、逆に患者から学ぶ心で治療に当たり、まず自分自身を啓発していかなければならないだろう。
 触れる、その一瞬に治療家の人生の総てが表現され、患者の人生の総てとの出会いがあり、そこから二人の新たな人生が始まるのである。

  《註:別に治療に関わらずどんな世界でも同じことです》

-----------------------------------

 文章がごちゃまぜで読みにくくなってしまったかもしれませんが、これがわたしの身体調整の原点です。

《後記》

 先月号の《游氣風信》を読んだ人から、文中に書かれていたベルギー人のことをいろいろと質問されました。
 彼女はその後、3回ほど調整に来て、帰国前には一人のアメリカ人を伴ってわたしに紹介し、来年末また来日するからその時会いましょうと帰って行きました。

 向こうでよい医師に出会って元気になることを祈っています。

                                 (游) 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No98「鍼が効く?」

三島治療室便り'98,2,1

≪游々雑感≫

鍼が効く?

 昨年秋、アメリカから鍼灸界に朗報が飛び込みました。朝日新聞や毎日新聞などでは既に報じられたのであるいは読まれたかもしれません。
 鍼灸専門誌で戦前からの歴史を持つ「医道の日本」誌の恒例の「新年のことば」は予想されていたとは言え、この件で埋め尽くされた感がありました。
 「新年のことば」には日本だけでなく世界から数百名の鍼灸師や医師などが年頭所感を述べています。実はわたしも一昨年まで原稿を求められていて十年ほど欠かさず書いていました。「游氣風信」で過去に書いた文の特集を組んだこともありました。
けれども、昨年からはお呼びがかからなくなってしまい、ちょっと寂しい思いをしています。
 今年の「新年のことば」をざっと俯瞰しますと、米国舶来の鍼灸情報が日本における黒船になってくれるといいなという願望を述べて方が少なからずおられます。また、その情報内容に関しての特集もタイムリーに取り上げられていて編集者の目利きの様がうかがわれました。

 さて、一体どんな情報がアメリカからやってきたのか。どうして黒船足り得るのかという疑問がおありでしょうから紹介します。
 引用させて戴くのは、全日本鍼灸マッサージ師会の会報「斯界通信」です。

@@@@

鍼灸手技療法「斯界通信」第45号(1998年1月1日号)より
発行所 社団法人 全日本鍼灸マッサージ師会

 1997年11月5日発、インターネットによると、米国国立衛生研究所(NIH)、代替医学研究室アニタ・グリーン氏、応用医学研究室ビル・ホール氏は、鍼に関する統一見解を発表した。この内容は6日付毎日新聞が一早く全国版で報道。大きな話題となったが、ここでは新聞社の了解を得て「点字毎日」(11月23日付掲載分)の全文を
紹介することにした。(引用者注:「点字毎日」は盲人のための点字の新聞。ご存じのように鍼灸・マッサージ業界は盲人によって支えられてきた歴史があります)

 米国の国立衛生研究所(NIH)の専門家委員会は11月5日、ハリ治療が手術後の痛みや抗ガン剤投与に伴う吐き気などの治療に有効であり、医療保険でカバーすべきだとする報告書をまとめた。西洋医学を基本とする米国の医学界が初めて東洋のハリ治療を認知した。
 委員会が有効性を確認したのは、手術や歯科治療後の痛みの除去と、がんの化学療法や妊娠に伴う吐き気の治療。こうした対象に限定して、ハリ治療の医療費を保険で支払うべきだと勧告した。
 また、麻薬中毒や頭痛、生理痛、筋肉痛、テニスひじ、腰痛、ぜんそくの治療や脳卒中リハビリなどに役立つ可能性が示唆された。
 ハリがなぜ効くのかについて報告書は、ツボにハリを刺すことで、鎮痛作用を持つ生体内化学物質の放出が増えるためと推定した。

 この報告について、筑波技術短大の西條一止教授は、
「科学技術の発達が先進国に自然破壊をもたらした反省が欧米で強く出ている。科学技術は人類そのものにも影響を与え、自然にやさしく、自然とともにという考えの東洋医学は、医療において期待が大きい。WHOを中心に世界的で行われている臨床研究を踏まえたNIHの報告は、世界の人々の、自然にやさしい医療への期待に対するある種の指針を示している」
と、話している。

 米国では1972年のニクソン訪中の際、新聞記者が現地で鍼灸治療を受け、その効果を大々的に報じたことがきっかけとなって、ハリ治療が脚光を浴びた。その後、急速に普及が進み、現在、約1000万人がハリ治療を受けているとみられている。一方、資格制度は各州ごとに異なるが、全米50州の七割以上で免許制度があり、約10000人が認可されているといわれる。
 今年7月、都内で開かれた東洋はり医学会の研修会のために来日した、同会全米総支部長の、スティーブ・バーチ氏は、NIHの研究メンバーの一人で、今回報告された研究が進んでいることを会場で報告し、高齢者を対象とする公的医療保険制度「メディカルケア」でもハリ治療をカバーできるかどうかも検討していると話していた。


 以上の他に、インターネットの原文によると、世界保健機構(WHO)によれば、米国では約10000人以上の鍼専門家がおり、米国食品医薬品局(FDA)の報告によると、アメリカ人は年間5億ドル(650億円)を鍼治療に費やしており、患者は約900~1200万人にのぼる。
 現在全米の鍼治療に対して34州で免許制、その他は認可制を行っており、鍼治療を公的に認めるための評価基準の策定をしている。また、保険会社、老人医療保険制度、医療扶助制度を含む合衆国と各州の保険事業および他の第三者支払い機関に適切な鍼治療を受けられるようにすべきであると奨励したい。そうすれば、患者が鍼治療を受ける際の経済的障害が取り払われることだろうと、ラムゼイ博士は述べた。
 このパネルディスカッションは鍼研究専門家による3日間のNIH鍼治療会議において、既存の医学文献と一連の研究発表の成果として、統一見解として発表したものである。 
@@@

 同様の記事は朝日新聞にも掲載されました。

@@@

はりが吐き気や鎮痛に有効

朝日新聞1997年11月30日 日曜版

 米国立保健研究所(NIH)は、東洋医学のはりが、歯の痛みやがんの化学療法後の治療に効果がある、と専門委員会が結論付けたと発表した。
 12人の専門家で構成される委員会によると、はりによる直接の治療効果が明確に認められたのは、抗がん剤投与の副作用による苦しい吐き気やつわり、歯の治療による痛みの治療。また西洋医学と組み合わせるのことにより、脳卒中のリハビリ治療や頭痛、生理痛、腰痛などのほかぜんそくなどの多くの症状にも効果を発揮する可能性が
あるとしたが、これらの調査は十分ではなく今後の研究が必要だとした。
 米食品医薬品局(FDA)によると、米国ではすでに900万~1200万人がはり治療を受けるなど人気が高まっている。委員会のデービッド・ラムゼー委員長は「これまでの西洋医学に東洋医学の手法を組み合わせてより良い治療方法を生み出す第一歩になる」と強調。米厚生省も「いくつかの治療分野で効果をもたらす可能性がある」と、はり治療では初の声明をだした。(共同)

@@@

 こうしてアメリカ合衆国政府から鍼が確かに有効であるとのお墨付きを得たのです。
うがった見方をする人は、では新聞記事に上げられなかった病気には効かないのだなと思うかも知れませんが、それよりは、有効性を認められる方が業界としてはうれしいのです。
 鍼灸が有効であるとは体験的に理解されてきました。
 近年にはなぜ鍼灸に効果があるかを科学的に研究する学者もいて、相当な数の論文も提出されています。けれども今回のような声明が出る以前から、また学者が研究する以前から、鍼灸が有効であるとは自明のこと了解して歴史をつないできているのはご存じだと思います。

 日本では厚生省が定めた専門学校で三年間の履修を行い、国家試験を受け、合格すると鍼灸師になります。あんま・マッサージ・指圧(三つでひとつの資格)も同じです。あと、大阪に鍼灸短大、京都に鍼灸大学があり、やはり卒業後国家試験を受けて鍼灸師の資格を取ります。
 もうひとつは文部省による各都道府県にある盲学校を卒業しても国家試験受験資格を得られます。これは太閤秀吉の頃から、鍼や按摩は盲人にとって目の見える人間と対等に競える数少ない仕事として保護・励行されてきた歴史によります。
 余談ですが、日本の鍼が本家中国のそれとは比較にならないくらい細く柔らかくなったのは江戸時代に杉山和一という検校(盲人の最高位。なぜか時代劇では悪役が多い。
琴・・これも盲人に名人が多かった・・の八橋検校は有名)が管鍼術という筒を使って鍼をさす技法を考案したからです。

 厚生省や文部省認定の学校があるのですから、日本政府は鍼灸を医療の一端として国の資格として認めているのです。ところが医療保険制度からは埒外にして、鍼のことはほとんど知らない医師の同意がなければ健康保健は使わせないという矛盾を抱えています。医師にしてもそんな訳の分からないものの同意書など書きたくないに決まっていますから鍼の保険は普及しません。
 保険対象の病気も疼痛をともなう五つの疾患(神経痛・リウマチ・肩腕症候群・五十肩・腰痛症)に限定されています。しかもその病気で医師にかかっている限りは保険を使用できませんから、要するに鍼灸に健康保健は使うなということでしょう。

 そこに今回の黒船。
 あの鍼の輸入国アメリカでさえ手術後の補助治療や老人医療などに鍼の治療費を保険でカバーすべきだと言っているのです。日本の鍼灸界が沸き立たない訳がありません。
 ところがここにひとつの問題があります。鍼灸師の教育の問題です。アメリカでの鍼灸学校は管見によれば大学卒業を条件としているらしいのです。つまり、アメリカの鍼灸学校は日本で言う大学院のレベルなのです。ひるがえって日本を見ますと、高校卒業が鍼灸学校の受験資格です。わたしが入った二十年前は中学校卒業でも入れました。これでは人の命にかかわる仕事としてはやはり心もとないでしょう。
 入学試験の面接のとき、試験官から
「なんで大学を出た人が受験にくるのかね」
と聞かれたほどでしたから、まだ、大卒はめずらしかったようです。しかし今日、鍼灸学校へ来る人は半分以上が大卒ではないでしょうか。これはいいことです。
 さて、アメリカの話に戻りますが、近い将来、鍼をドクターにしようという動きもあるそうです。医師のことをMD(メディカルドクター)といますから鍼医のことはDA(ドクター オブ アキュパンクチュア)になるのでしょうか。アメリカではカイロプラクターをDC(ドクター オブ カイロプラクティック)と呼びます。

 最近こんな経験をしました。名古屋のヒルトンホテルから突然電話があり外国人女性の鍼治療の依頼があったのです。
「ベルギーの女性が鍼治療を希望しているのですが、先生のところでお願いできるでしょうか」
「年齢は?それと症状は?」
「40代半ばの女性です。数日前、ハイパーベンチレーション(過喚起症候)になり、それが収まっても、以後緊張がとれないので鍼でリラックスしたいとおっしゃってます」
「それは精神的側面の強い病気ですね。言葉のコミュニケーションがないとむつかしいから、本国に帰られてから受診されたらどうでしょう。症状も収まっているし、焦ることはないでしょう。ヨーロッパでは医師が鍼をされるそうですよ。精神科で鍼をする先生を探すのがいいのでは」
「三島先生は英語が話せるとお聞きしています。それにどうしても治療を受けたいとおっしゃってますし」
「うーん。僕の英語はひどいものですよ。どうにかコミュニケーションがとれる程度です。でもどうしてもというなら診ます」
 ということで、彼女はやってきました。四十代半ばで非常に神経が高ぶっている感じ。
 面接しているとき彼女がわたしをドクターと呼ぶので
「わたしはドクターではありません。日本ではドクターはほとんど鍼には興味を持っていませんよ」
と言ったところ
「ドクターでないならあなたは一体何の資格で鍼をするのですか。政府はそんなことを認めるのですか」
「日本では3年間勉強して国家試験に合格すれば資格が取れますよ」
「たった3年?!ベルギーでは医師が鍼をします。いろいろな検査や診断をしないでどうして鍼を体にさすなどという危険なことができるでしょう。6年も8年も勉強してやっとできることではないですか。それに感染も怖い。わたしはあなたがドクターでないなら何を根拠に信用したらいいのでしょう」
「わたしの使う鍼は使い捨てでいつも新品です。お見せしましょう」
「これなら安心ですね。お話していて、あなたも正直な信用できる方だと思います。
でもあなたがドクターでないことはどうしても不安です」
「おっしゃる通りです。よくわかります。では治療は止めましょう」
 結局、心理的にかなり不安定な彼女はオフィスで数十分ほど鍼やコンピューターのことなどとりとめのないことを話し込んでいました。
 そこへ予約してあったカナダ人女性がやってきたので、ベルギー人女性は早速いろいろとわたしに対する情報を仕入れ、その結果、どうもこの日本人は見かけより信用できるかもしれないと思ったのか、来週治療して欲しいと言って帰っていったのでした。
 その時のカナダ人のわたしに対する評価は聞いていても恥ずかしいほど持ち上げたものでした。アメリカ英語ではお世辞たらたらのごますりを「brown nose(茶色い鼻)」と言います。カナダ人の鼻はさぞかし茶色だったことでしょう。

 冗談はさておき、ベルギーで鍼というものがどのように受け止められているのか、また、ヨーロッパ人が自己の責任で自分を守るということの厳しさをしっかり見せられる貴重な経験でした。

 何事も明確な根拠を必要とする西洋主義。それが鍼というなんだか実態のよく分からないものを認めるためには、治療者が西洋医学を収めた医師であるという根拠が必要なのでしょうか。
 それに対して、日本人はあまりにも無防備に訳の分からない治療(治療だけでなく)を受ける傾向はありますね。


後記

 二月九日。尾張国府宮神社の天下の奇祭「裸祭り」が行われます。その日は旧暦正月十三日。地元稲沢市の小・中学校は休み、企業によっては休業するところもあります。

 今はどこでも売っているタコ焼きはわたしが小学校の頃、裸祭りの屋台でだけ食べることができました。とても懐かしい味です。一袋十円で真ん丸いタコ焼きが3個入っていました。毎年、裸祭りが近づくと思い出します。
(游)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No97「めでたい俳句」

三島治療室便り'98,1,1

春風献上

 旧年中はいろいろとお世話になりました。本年もなにとぞよろしくお願い申し上げ
ます。
1998年 元旦

游氣の塾 三島治療室
三島広志

≪游々雑感≫

めでたい俳句の色々

 新年早々わたしの駄文でめでたさを汚してはいけないので、今月は読むだけでめでたくなる俳句を集めてみました。好評「色々シリーズ」の一環です。

 俳句で用いる歳時記には春夏秋冬とは別に新年という項目が独立して存在します。
ですから俳人は新春の俳句を作るのがとても好きなのです。年の初め、正月気分一杯の名句をいくつか紹介しましょう。俳句の引用は山本健吉著「基本季語五〇〇選(講談社学術文庫)」に拠ります。

先づ女房の顔を見て年改まる  虚子

 これはあまりめでたくないようですね。作者は有名な高浜虚子。近代俳句の雄です。
季語は「年改まる」

オリオンの盾新しき年に入る  多佳子

 作者は橋本多佳子。女流俳人の草分け。オリオンは冬の代表的星座。片手に盾、片手にこん棒を持って南の空に輝いています。有名な三つ星はオリオンのベルト。こういう句は現実の星座を神々しいものに変革する力を有します。季語は「新しき年」

寅の年迎ふ一病息災に 源義

 作者の名字は角川。かの角川書店創業者です。なにかとお騒がせの角川春樹(俳人)のお父さん。民俗学にも造詣が深い経営者兼学者。加えて俳人。
 虎は「虎は千里往って千里還る」と言うほどに強さや勢いの権化とされています。
また、寅は東北東の方位や午前四時前後の時空を表します。
 作者源義は体が弱かったので虎の威を借りて元気に暮らしたくてこうした俳句を作ったかもしれません。昔、弱く産まれた子には虎とか熊とか強い動物の名をつける習慣がありました。季語は「年迎ふ」

 余談ですが、時空の指標である寅がどうして動物の虎になったかは十二支の本家中国で十二の宮(子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌。亥)に動物を当てはめたことに由来するようです。
 ついでに言えばこれと十干(甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸)が組み合わされて六十の年となります。つまり暦の一番初めは十干の甲と十二支の子を合わせて甲子(きのえね)。大正時代の甲子の年に作られた球場が有名な甲子園。気が強い女として嫌われるのは丁午(ひのえうま)も同様の組み合わせ。
 「えと」は本来は十干(じっかん)のことで兄と弟という意味です。五行説の「木・火・土・金・水」で「きのえ・きのと・ひのえ・ひのと・かのえ・かのと・つちのえ・つちのと」という具合に進みます。
 このように干支は十干(こう、おつ、へい、てい・・)と十二支の組み合わせであって、「ね、うし、とら」だけを指すのではありません。
 今では十二支(じゅうにし)が十干(えと)と混同されています。
「あなたのえとは何」
「ひつじ」
という具合に。
 分かりやすく書こうとそればするほど話がとってもややこしくなってしまいました。
もう少しで止めます。
 甲子(きのえね)から始まった暦の最後の年が六十年目の癸亥(みずのとい)。暦を一回りすると還暦。赤いちゃんちゃんこでお祝いします。これもめでたい。

わが庭の籔はむらさき初日の出  青邨

 草木がうっそうと茂った薮でさえむらさきに神々しくなる。これが初日の力。けれど初日も常の太陽。つまり神々しいのは初日と定めた人の心の力です。作者は元東大の鉱石学の教授。盛岡中学では石川啄木の後輩で宮沢賢治の先輩。昭和六十三年没。
わたしの俳句の師黒田杏子の師になります。季語は「初日」

はつ空や烟草ふく輪の中の比叡  言水

 作者は池西言水は江戸中期の俳人。「木枯しの果はありけり海の音」で木枯らしの言水と呼ばれています。烟草は煙草のことでたばこ。この句には時代を超えた魅力があります。比叡山をたばこの輪の中に入れてめでたさを際立たせました。演出効果有り。字余りですが強引に五七五のリズムで読むとよろしい。季語は「はつ空」

ふるさとの夜具の重さよ初鴉  青陽人

 作者についての知識はありません。郷に帰って新年を迎えたのでしょう。母のやさしさがたっぷりと夜具を掛けたのか、寒い国なので夜具を厚くするのか分かりませんが、新春の故郷に目覚めたら初日の中で烏が鳴いていた。この言いようもない安堵感と清々しさを新年の烏の声が代弁しています。昔の人は何にでも「初」をつけて、嫌
われものの烏でさえめでたがったのです。季語は「初鴉」

元日や手を洗ひをる夕ごころ  龍之介

 作者は言わずと知れた芥川龍之介。作家龍之介は俳句の名人でもありました。この句は説明ができません。年改まった日の清新な気持ちと夕方になって少しそれが薄れつつある一種の倦怠感。正月俳句の白眉。季語は「元日」

初便ふたりに未来あるばかり  文子

 新年の慶びのひとつに年賀状があります。初便(はつたより)は年賀状のことです(初めてのトイレではありません。念のため)が、近年では初電話、今日では初E-mail(イーメール・パソコンと電話をつないでやり取りする手紙)と風情なきことおびただしくなりつつあります。わたしもそれで何通か済ませていますが・・・。
 決して郵便業務民営化論争に関わるわけではありませんが、はがき一枚五〇円で田舎の果てまで届けて、ついでに、一人暮らしのお年寄りに声をかける。広島の田舎の郵便配達は投函する手紙まで持ち帰ってくれていました。祖父母は郵便配達を実に頼りにしていたのです。季語は「初便」

わらんべの溺るるばかり初湯かな  蛇笏

 いい句ですね。「溺るるばかり」に新年という時間のめでたさ、さらに幼い子供のいる血族の連なりという慶びがあふれています。飯田蛇笏の知られた句。蛇笏は俳句史上に燦然と輝く重鎮。季語は「初湯」

初湯出て青年母の鏡台に  鷹女

 新年にふさわしい若々しい句です。新年は歳を加えることになりますが、同時にすべての人が生まれ変わるという意味もあります。鷹女は姓を三橋。先の橋本多佳子とならぶ女流の巨頭です。季語は同じく「初湯」

青黴の春色ふかし鏡餅  有風

 俳人は黴(かび)さえも慶びます。これも新春ならではのこと。梅雨どきともなればこんな悠長なことは言っておれません。季語は「鏡餅」

ぬば玉の閨かいまみぬ嫁が君  芝 不器男

 「ぬば玉」は黒や夜、闇などにかかる枕詞。和歌なら「ぬばたまの黒髪」という具合に用いるところ俳句では時々このように「ぬば玉」だけで闇や夜などを連想させるように使います。しかし通常、俳句には枕詞はありません。「閨(ねや)」は寝室。
この句の場合、独り寝か二人寝かで意味が全く異なってきます。
 嫁が君は正月の間だけ用いるネズミの忌み言葉です。結婚式で切れるとか別れると言ってはいけないのと同じこと。正月の間は嫌われ者のネズミも嫁御が来たと慶ぶことで新年を祝うのですね。
 作者芝不器男は二十六才で夭折した明治三十六年生まれの天才俳人。季語は「嫁が君」 この句は「新版俳句歳時記(角川書店編)」に拠りました。

老いてだに嬉し正月小袖かな  信徳

 まるで着飾ったきんさん・ぎんさんのようにめでたい俳句です。作者は江戸時代の人ですから、この老いた人は今ならとても若い人に違いありません。今時の句会でこんな句を出そうものならご年配の女性から大顰蹙(だいひんしゅく)をかいます。
「老いてだにのだにとはなによ!」
という具合に。きんさん・ぎんさん位の年齢の人ならこう詠んでもいいだろうと思うのです。季語は「正月小袖」

羽子板の重きが嬉し突かで立つ  かな女

 作者は長谷川かな女。青年俳人の育成に努めました。今では羽子板は飾り用で、羽根突きをしている光景はまず見られなくなりました。この句は可愛い女の子の心情を詠んで余りあるものがあります。季語は「羽子板」

歌留多の灯一途に老いし母のため  みづえ

 作者は多分現代女流俳人の山田みづえ。歌留多を囲む家族のなかに老若男女入り交じるめでたさ。母に灯を明るくする娘のやさしさ。正月は年が改まるだけでなく、家族が集まるというめでたさも加わります。季語は「歌留多」

 俳句ばかりでは疲れるので現代詩をひとつ紹介します。

  ふゆのさくら
              新川和江

おとことおんなが
われなべにとじぶたしきにむすばれて
つぎのひからはやぬかみそくさく
なっていくのはいやなのです
あなたがしゅろうのかねであるなら
わたくしはそのひびきでありたい
あなたがうたのひとふしであるなら
わたくしはそのついくでありたい
あなたがいっこのれもんであるなら
わたくしはかがみのなかのれもん
そのようにあなたとしずかにむかいあいたい
たましいのせかいでは
わたくしもあなたもえいえんのわらべで
そうしたおままごともゆるされてあるでしょう
しめったふとんのにおいのする
まぶたのようにおもたくひさしのたれさがる
ひとつやねのしたにすめないからといって
なにをかなしむひつようがありましょう
ごらんなさいだいりびなのように
わたくしたちがならんですわったござのうえ
そこだけあかるくくれなずんで
たえまなくさくらのはなびらがちりかかる

   詩集「比喩でなく」所収  中公文庫27 現代詩集から

 新年を祝った詩ではありません。しかしここまで純度高く愛を歌い上げてあると貴さを感じます。まるで高砂の翁媼(おきな・おうな)のように。すればやっぱりめでたいとここに登場させました。
 男女の純愛をひらかなばかりでやさしく女性の立場で綴ってあります。結婚という社会的制度をはるかに超えた愛情。作者は1929年茨城県出身。今の若い女性とは異なる恋愛観でしょう。

≪後記≫
 毎年≪後記≫に書いていますが、地球が太陽の回りを一回りすると、なにはともあれ
「明けましておめでとうございます」
「新年おめでとう」
と気分一新してしまうのは、まことにもってよい趣向だと思います。
 とりわけ昨今のように世相が暗い中、
「新年明けましておめでとう」
というのは楽しいものです。

 「(暗~く)色々あってね。資金繰りも苦しいし、体調も悪い。新型ウイルスも上陸しそうだしさ。貯金は無いし、金利は安い。おやじ狩りには会うは、財布は落とすは。円は下落する一方で会社も危ない。よってボーナスもささやか。といって競馬も、宝くじも、株もともかくあらゆる博打は全部駄目。女房には逃げられるし泥棒には入られる。建てた家は手抜きで雨漏り隙間風。ア~ア」
 (パッと明るく)でもまあ、暦が改まって年が明けた。それじゃあともかく、気を取り直して
「(暦の上では年が)明けまして(なんだか知らんが)おめでとう」
 こうして精神的にけりをつけて新しい年の一歩を踏み出すのはまことにもっておめでたい先人の知恵。

 昨年はメビウス気流法の会に招かれて、270名の前で宮沢賢治や治療に関して対談するという貴重な経験をしました。
 また、藍生俳句会愛知県支部で合同句集を発行することもできました。
 おかげさまで仕事もまずまず順調で、健康を害することもなく家族ともども飢えることなく無事過ごせました。

 時代は急変しています。それで時代に置いてきぼりされないようインターネットにホームページを立ち上げました。これは文章はわたしが書き、製作は全面的に千葉県の鍼灸師酒井茂一さんによるものです。ここで改めてお礼申し上げます。酒井さんは鍼灸の先生がパソコンを駆使していると言うよりパソコンのプロが鍼灸もしていると
言っても過言でない人で、高校の演劇部の演出にも出掛けるというマルチな才能にあふれる方です。
 ホームページの住所は≪游氣風信≫のタイトル欄に書いてあります。
 今年はインターネットを用いた俳句会を寺澤慶信さん(藍生俳句会会員)が始めるようですから参加しようと思っています。

 それからついにこの≪游氣風信≫も四月号でめでたく100号となります。90号からはインターネット上でも読めるようにしてあります(酒井さんがして下さってます)。


 今年は一体どんな人と出会い、どんな出来事に遭遇することでしょう。
 いろいろなことがあっても負けずに、また来年
「明けましておめでとうございます」
と言えるようにしたいものです。

 皆様のご多幸、ご健康を祈るとともに、本年もよろしくお願い申し上げます。
(游)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No96「指圧と利久百首」

三島治療室便り'97,12,1


≪游々雑感≫

指圧と利久百首

 右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありとしるべし

 これは千利休が茶の湯の稽古の心構えを説いた「利休百首」のひとつです。

 全くの門外漢のわたしが何故に茶の湯の道歌を知っているのか。それは経絡指圧の師・増永静人の著書に度々出てくるからです。

 増永静人は卓越した理論家指圧師として知られていましたが、昭和五十七年に惜しまれて亡くなりました。享年五七才。無念の夭折でした。

 増永はそれまでの理論的根拠を西洋伝来のマッサージの理論である血液・リンパ循環論やカイロプラクティク(米国で生まれた脊椎矯正法を主とした医療。米国では六年間の大学教育を終了してドクターの資格が必要。日本では無資格)の脊髄神経反射論に依存していた指圧を東洋的な観点からまとめ経絡指圧として体系づけた功労者です。

 どうして日本生まれの指圧を西洋的でなく東洋的に理論化することが斬新であったかは不思議ですが理由はその歴史に準拠します。

 もともと指圧の原型である按摩術と鍼灸術は中国に発し、朝鮮半島を経て日本に伝えられました。婆羅門導引(ヨガのこと)天竺按摩という言葉もありますから、中国以前にインドで原型が生まれている可能性もあります。これは中世以前の他の外来文化と軌を一にしています。

 按摩は古くは按矯導引(あんきょうどういん・矯の字は足編ですがワープロにはありません。簡単に作れますが作った文字はパソコン通信で送れません)と呼ばれ、黄河文化圏に起こり日本には五六二年に伝わったとされています。「按」は揉んだり押したりすること、「矯」は手足を動かして骨格を整えること、「導引」は大気を導き体内に引き入れることで今日の気功体操に分類されます。

 奈良時代の大宝律令(七〇一)には医生・医師・医博士の制度と共に按摩生・按摩師・按摩博士という制度が明文化されています。同様に鍼生・針師・鍼博士。灸生・灸師・灸博士も。そのうち医療の中心は湯液(漢方薬)や鍼灸になり、按摩術は慰安的なものとなり今日まで続いています。江戸時代には盲人の職業として保護もされました。

 しかし、慰安的であるという事実に反発し、按摩術を医療体系の中に止めておきたいという人達も多くいました。その具体的なものとしては江戸時代に生まれた按腹術があります。これは字の通り腹部を重点的に処置することで疾病治癒を目指したもので基本的には中国医学の古典である黄帝内経という本に拠ります。

 明治になって、西洋からマッサージという按摩にそっくりの技術が伝わってきます。
按摩の理論的根拠は漢方医術で言うところの「気血の巡り」を良くすることで、そのために《経絡》というスジを用いることです。経絡はいのちの元となるエネルギーである《気》や、栄養分である《血》が流れるというスジのことで内臓に関係し、心理面も反映するとされています。このスジ上にツボがあるのですが実態は明らかではありません。

 対してマッサージの理論は筋肉や血液・リンパ循環など解剖学や生理学を根拠としていて科学性があり、名称もハイカラなので按摩を自称する人は減り、いつしかマッサージと名乗るようになりました。
 しかし、それでもまだ治療対象が血液循環改善や疲労回復に止まっているという不満がありました。手技と言えども、もっと幅広い分野の治療が可能ではないかと模索する人達も大勢いたのです。

 そんなところにアメリカからカイロプラクティックという脊椎矯正法がやってきました。これは神経生理学的に自律神経を調整し得るという一見科学的整合性があり、多くの病気に対応できるということで多くの治療師が飛びつきました。しかも技法は在来の柔道などに伝わる活法に酷似しています。活法とは姿三四郎などの映画で気絶
した人の背中に膝を当てて「エイッ!」と気合一閃、蘇生させるというあれです。

 というような顛末で、明治末期から大正、昭和の始めにかけて独自性を主張する〇〇療法が雨後の竹ノ子のごとく発生しました。戦後、政府はそれらを法的に整理するために紆余曲折の果て、指圧として統合しました。按摩業界から猛然たる反発があったとは今でも語り種です。なお、指圧という名称は大正時代に玉井天碧という人が使用していたのが最初と言われています。

 今日でも、カイロプラクティックは指圧ではないから法的に指圧に統合されては困る、わたしの療法は神のお告げによって生まれた独自の技術で如何なるものとも異なると称していろいろな治療術が雨後の竹ノ子どころか飯屋のゴキブリほども大発生しています。

 何故なら、指圧とか按摩とかマッサージと名乗るためには学校に通い、国家試験を受けなければなりませんが、我が国には違う名称さえ名乗れば免許は関係ない、いかなる法的拘束は受けないというすばらしい抜け道があるからです。

 ちなみに鍼灸のための学校は京都に大学が一校、大阪に短大が一校、その他全国に十数校の専門学校があり、さらに各都道府県の盲学校でもそのための教育がされています。鍼灸学校を出た後、大学の医学部の研究室で研究し、医学博士を授与された人も昨年から今年にかけて愛知県で三名います。まさに大宝律令の鍼博士を地で行くものですね。

 さて、最初の「利休百首」と増永静人に戻ります。
 増永静人はわたしにとっては指圧の先生というだけでなく、医療の思想や人生哲学など実に多くのことを与えてくださった人です。増永から授与された認可証は次の文面で、今も書斎に掛けてあります。

     証

                        三島広志

  右者医王会に於て現代医学を基礎とし東洋古来の経絡治療
  と日本独自の按腹術を加えた高度な指圧療法を学び証診断
  治療の指圧臨床技術を習得されたので本状を授與します
昭和五三年五月廿日

日本東洋医学会員
日本臨床心理学会員
日本指圧協会理事
                   医王会会長 増永静人

 昭和53年ですからもう二十年も前のことになります。増永の肩書に東洋医学会員(後に評議員)と指圧協会理事というのがあります。これは当然ですが、日本臨床心理学会員というのは不思議でしょう。書いてありませんが日本心理学会員でもありました。これはなぜかというと、増永は京都大学の哲学科心理学部を卒業しているから
なのです。

 大学卒業後、増永は「指圧の心、母心。押せば命の泉湧く」で有名な浪越徳次郎先生の日本指圧学校を卒業し、そのまま教員として後進の指導にあたりました。そこでは心理学と病理学、症候概論、漢方概論などを教えていたようです。しかも増永の恩師は西田幾多郎の弟子ですから、増永のバックグラウンドは心理学と西洋医学と東洋哲学ということになります。これらのことが先の認可状の文面に反映されているのです。

 そんな増永の好きなもののひとつが茶の湯です。やっと冒頭の利休にたどり着きました。
 わたしは増永から利休の道歌「利休百首」を指圧用に作り替えたことがあると直接聞きました。しかし、増永が著書で紹介しているのは冒頭の「右の手を」と

  茶を振るは手先をふると思ふなよ臂(ひじ)よりふれよそれが秘事なり

でした。これを「指圧をば指で押そうと思うなよ肘より押せよそれが肘なり」と替え歌にして紹介していたのです。

 それに習ってわたしも二十年前、自分なりに利休百首を読み、替え歌にしてみました。増永に「五十首くらい変換できた」と言いましたら氏は、「いや、七十首以上できるはずだ」と答えました。残念ながらそのノートは行方不明ですが、もう一度本を読んでいくつか紹介したいと思います。

 今日、受験勉強(この場合、受験だけを目的とした勉強であって、受験を通過点として学習することとは違う)の弊害で習うとか学ぶということが知識の伝達だけになりがちですが、元来文化の伝達には稽古という技法があり、これには「教える側が習う側よりさらに学ぶことができる」という利点があります。学校側が成長するために
は早く一派を起こし教える側に回ることが大切だったのです。かくしてさまざまな流派が乱立するという問題点はあるものの、身をもって学ぶという意味で稽古は古臭い言葉ではありますが重要な方法なのです。

 冒頭の歌「右の手を扱ふ時はわが心左のかたにありとしるべし」とはどういうことでしょう。右手を使うときに右手を意識すると緊張して堅くぎこちない動作になるからあえて左手を意識してごらん。右手が無意識的な自然の動きができるから・・というような意味です。これは全ての身体技法に共通する原理と言っても過言ではありません。
 類似した歌に

  何にても道具扱ふたびごとに取る手は軽く置く手重かれ

があります。

 さて、気に入りの歌をどんどん紹介しましょう。

  その道に入らんと思ふ心こそ我身ながらの師匠なりけり

 決意こそが心の中にある師匠なのだと言うのです。
ならひつゝ見てこそ習へ習はずによしあしいふは愚なりけり
 まずはやってみなさい。体験してみなさい。あれこれ言うのはその後だよということでしょう。体験する、これが稽古の基本です。体験を経験にするという内的処理こそがヒトが人間であるゆえんなのです。

  心ざし深き人にはいくたびもあはれみ深く奥ぞをしふる

 志の高い人でなく深いというところに意味があるようです。そういう人には奥深いことまで教えるのです。ここにすばらしい弟子を持つ喜びがあるのでしょう。師弟は相互に高め合う関係こそが素晴らしい。アメリカの大学教授はうるさく質問する学生を歓迎します。それによって自分が高まるからに外なりません。
はぢをすて人に物問ひ習ふべしこれぞ上手のもとゐなりける こちらは教わる人の心構え。聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥ということわざもあります。

  上手には数寄ときようと功つむと此の三つそろふ人ぞよくなる

 数寄とは興味や好奇心。好きの当て字。きようは器用。功つむとは努力して励むこと。この三つがあれば成長する。

  稽古とは一より習ひ十をしり十よりかへるもとのその一

 これはわたしの大好きな言葉。一から習って十を知ってまた一に帰るのですが、この一は決して最初の一ではありません。次元の異なる一。

  もとよりもなきいにしへの法なれど今ぞ極る本来の法

 本来の法に行き着きたいという強い志。人類未到の世界を目指そうというのです。

  規矩作法守りつくして破るとも離るゝとても本を忘るな

 規はコンパスのこと。矩は物差し。どちらも測定の基準となる道具で手本を意味します。中国では修行の段階を守破離に分けます。書道で説明すると楷書・行書・草書に置き換えることができます。まず先生から教わったことをそのまま守って練習することを守。次にそれを少し壊して自分なりに変化させることを破。外見的には全く異
なるまで自分のものにしてしまうことを離。しかし本質は変えないというのです。ここに芸事の流派がどんどん増える理由の一つがあります。

 百首のうち、冒頭と最後に一般性のある、どの道にも通じる歌を置き、真ん中にはお茶の具体的な技法の教えを説いています。その演出は見事なもの。ここで紹介した歌はすべて芸事一般に流用できる歌です。すなわち「本意」の歌なのです。

 お茶の技法という特殊性を歌ったものも指圧に置換すれば、指圧を習う歌に替えることができます。むろん、料理でも裁縫でも踊りでもなんにでも流用できるところにこの歌の妙味があります。

 道はともすれば形式主義の塊、形の上にほのめいている観念的なものと言えるでしょう。しかし形の上、もしくは奥に潜んでいるあらゆるものに共通する普遍性を垣間見ることは重要なことです。そこに今日一部の西洋人が道(ダオイズム)に関心を抱く理由があるのです。

 増永静人の書いた「禅指圧」はアメリカでロングセラーです。指圧と言えば増永静人というほど知られています。外国人に「君の指圧のスタイルは何だ」と聞かれ「増永のスタイル。禅指圧だ」と答えるととても驚き、さらに直接の弟子だと知ると大喜びします。
 わたしの所に来る西洋人は指圧に対して医療の側面と道の側面の両方を求めています。それに答えたのが増永静人だったわけです。これも西洋人の東洋回帰、物事の奥に本質を見いだそうとする道、ダオイズム大好きの流れに乗っています。

 「虎は死して革を留め、人は死して名を残す」
 増永静人先生は没後もわたしを助けてくださっています。わたしが遺せるのは・・・
借金ぐらいかなぁ。

 ところで千利休はこんな歌も遺しています。

  釜一つあれば茶の湯はなるものを数の道具を持つは愚な
  数多くある道具をば押しかくしなきがまねする人も愚な

 うーむ。お茶の先生はこの歌を知っているのでしょうかね。形式の中の本質を見ようとしない時、形式主義は形骸主義になり、道は奈落への道、ダオイズムはダメイズムになります。

≪後記≫

 本年最後の≪游氣風信≫です。今年はあなたにとってどんな年だったでしょうか。
さまざまな出会いや別れを紡いで年は移っていきます。来年はどんな人や出来事に会うことでしょう。楽しみに今年を終えたいと思います。

  船のやうに年逝く人をこぼしつつ 矢島渚男

 本年一月号に紹介した俳句です。これを巻尾に置かさせていただいて今年を終わりたいと思います。

(游)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No95「知ったかぶりIN落語 芸人(永六輔)」

三島治療室便り'97,11,1


≪游々雑感≫

知ったかぶり IN 落語

 世の中には知ったかぶりをする人がいます。

 こういうタイプは世の中に知らないことがあることを恥と考えます。なにより自分自身を許せません。
 知らないことを聞かれたら嘘・ごまかし・捏造・取り繕いでその場をやり過ごし、決して知らないとは言わない種族なのです。

 ただ、いわゆる嘘とは違います。両者がそれを了解の上で会話を楽しむ知的な遊戯であることが必定なのです。そうでないとただの嘘つきで終わってしまいます。嘘つきは罪なものです。何しろ一般に嘘をついた本人はそのことを知り尽くしているから苦しいものでしょう。決して自分自身に嘘はつけません。これは心が痛みます。
 知ったかぶりするためには心の奥でにやにやと笑いながら会話をする余裕が大切でしょうね。

「もののけ姫、見ましたか。良かったですね。感動しちゃいました」
「あれは宮崎駿監督の最後の作品と言われてるね」
「自然と人がどのように調和して生きて行くのかというテーマだそうですよ」
「うん、あれは宮崎監督の長年のテーマでね。ラピュタもナウシカもトトロもおもひでポロポロも全部同じテーマで貫かれているんだ。見事なもんだよ」
「もののけ姫は主題歌も大ヒットしていて、どこの映画館も満員だそうですよ。どこでご覧になりましたか」
「いや、実はまだ見ていないんですよ・・・(見なくてもそれくらいのことは分かりますよ。ハッハッハッ)」
「・・・(あんたの話振りから見てないことは先刻お見通し。ハッハッハッ)」

 こういうのが罪のない知ったかぶりの会話です。

 古典落語には知ったかぶり、物知り顔をする人を揶揄(やゆ)する話はたくさんあります。
 有名なのは「やかん」と「千早振る」、あるいは「転失気」や「一目上がり」でしょうか。「一目上がり」だけは手持ちの資料に見当たりません。
 手持ちの資料?
 お前はそんなもの持っているのか。落語の資料などあるのかと問われる方もおありでしょう。無理もありません。しかし、それがあるのです。何を隠そう。わたしは講談社文庫「古典落語上・下・続・続々・続々々・大尾全六巻(興津要編)」を秘蔵しているのです。秘蔵と言ってもどこの本屋でも売っていますけど。
 今、手元には上と下が置いてあります。その他はどこかしまい込んであって見当たりませんが、家かオフィスのどこかにあることは間違いありません。
 したがって今月号は決して知ったかぶりで書いているのではないのです。

 さて、落語に出てくる知ったかぶりを紹介しましょう。知らない人はもちろん、知ったかぶりの人もお付き合いください。

 まずは「やかん」。
 この話の枕がすごい。
 「無学者は論に負けず、無法は腕ずくに勝つ、なんてことを申しますが・・」
と始まるのです。真理の一半を衝いていますな。
 ある学者先生のところにそこらにいる八五郎が無駄話に訪れます。
 そこで先生から数々の蘊蓄(うんちく)を聞かされ、話の流れでやかんの段になったところ、先生は困って口から出まかせを言うという有名な落語です。
 この学者先生は落語長屋の住人ですから蘊蓄と言ってもいささか怪しいものです。
例えば魚の名前の由来。とうとうと次のように説明します。
「いわしは、わしのことはなんとでもいわっしからきた」
「まぐろは真っ黒から」
「切り身は赤いですが」
「切り身で泳ぐ魚がいるかい」
「ほうぼうはほうぼうにいるからじゃ」
「こちはこっちにいるから」
「あっちに行ったら?」
「先回りしたらこっちになる」
こうした怪しい蘊蓄をのたまいます。
 そのうち、身の回りの物の名前の由来になり、ついにやかんに話が移る訳です。

 この学者先生の話によれば、やかんは川中島の合戦でそれまで「水わかし」と呼ばれていた道具がやかんになったということです。

 時は戦国。所は上杉謙信と武田信玄が争った有名な川中島の決戦。
 ある雨のひどい夜。こんな夜は戦はあるまいと、皆酒を飲んでくつろいでいた。
 そこへ敵軍の夜襲。皆がうろたえる中、さる立派な若武者は落ち着いて鎧を身につけ、得物を手にし、兜を被ろうとすると見当たらない。代わりになる物はと辺りを見回すと目に入ったのは大きな水わかし。
 ぐらぐらと湯の煮えたぎっている水わかしを手にすると、湯をざざあと捨てて、頭に被っていざ出陣。敵も味方も驚くばかりの大活躍。
 頭に変なものを被った奇怪な侍だと敵がいっせいに矢を放つと、矢が当たってもカーンと撥ね返される。矢が当たってカーン、矢がカーン。これでやかんになったという訳。
 これは結構知られた話ですね。
 しかし、さすがは名作落語。まだ続きがあります。
 戦が終わって、獅子奮迅の活躍の若武者が頭からやかんをとると、あまりに熱いまま被ったので髪の毛がすっかり抜けていた。これ以後、禿げ頭をやかん頭と呼ぶようになった・・・ということです。

 この話はさらに続きます。
 やかんの蓋はどうするかという問いには口にくわえて面にする。取っ手はというと、顎に掛けて顎紐変わり。注ぎ口は音の入り口。下に向いていては音が聞きにくいのではと突っ込めば、当夜は雨だから上向きではまずいではないかと反論。
 話の落ちは、
「それにしてもおかしいよ。耳なら両方にありそうなもんじゃありませんか。片っぽうねえのはどういうわけです?」
「いやあ、ないほうは、枕をつけて寝るほうだ」

 こうしてつぎつぎ出まかせを繰り出す才能は今様代議士に匹敵しますな。

 「転失気(てんしき)」はこれも知られた話。子供向けの昔話にもあります。
 分からないということが決して言えない負け惜しみの強い和尚さんをからかう話です。

 和尚さんがおなかの具合が悪いのでお医者さんに診てもらうと「転失気(おならのこと)」はありますかと聞かれる。「ないこともない」とごまかしたものの、「てんしき」が分からないので小僧の珍念に花屋に行って見てこいと命じる滑稽話。
 医者と和尚の対話のすれ違いが愉快な落語です。和尚の無知に付け込んで「てんしき」をおちょこだと嘘をついて和尚をからかう珍念のいたずらも見事。
 落語の中で説明してありますが「転失気」は漢方薬の原典である傷寒論に出てくる言葉で「気を転(まろ)め失う」からきているそうです。
 単純な内容なればこそ演じるのが難しい落語。

 「千早振る」は有名な和歌を素材にした落語。
 和歌を素材にしたものには他に「崇徳院」が知られています。
 崇徳院の

  瀬をはやみ岩にせかるる滝川の割れても末に逢はむとぞ思ふ

という歌をキーワードに、初な男女の恋心の機微を暖かくお笑いネタにしたものです。

 「千早振る」は在原業平の歌

  千早振る神代もきかず竜田川からくれなゐに水くぐるとは

をモチーフに学者先生と八つあんがやりとりするのです。これは「やかん」と同じ構造で話の枕も同じです。 講談社の古典落語では「無学者は論に負けずなんてことを申します。ろくに知りもしないことを知ったかぶりする人がよくございますな」となっていて、「やかん」とそっくり。同じ落語家の話を書き起こしたものでしょう、きっと。

 「千早振る」の歌を学者先生は牽強付会に八つあんに説明してしまいます。八は怪しいと思いながらも楽しく付き合うのです。
 昔、竜田川という大関がいた。ある時人気絶頂の花魁千早大夫に惚れて言い寄ったが振られてしまう。だから「千早振る」。
 それではと面影のよく似た妹分の神代に迫ったがこれも言うことを聞かない。そこで「神代もきかず」となる。
 落胆した竜田川は相撲を止めて郷里に戻り実家の豆腐屋を継ぐ。そこに落ちぶれた花魁千早が乞食となって現れ、「昔のよしみ、せめておからなりともくれないか」と無心をしたが、竜田川は「お前のせいで相撲を止めたんだ」と断る。悲観した千早は井戸に飛び込んで死んでしまう。それで「からくれないに水くぐる」。
 最後に八つあんは食いつきます。
 「水くぐるとはのとははなんです」
 「あとでよくしらべてみたら、千早の本名だった」

 えー、業平の歌の本当の意味は読者各自で調べるように。わたしは知ったかぶりはしたくありません。
 
 さてもう一つの「一目上がり」ですが、これはわたしの記憶だけが頼りです。この落語は物を知らない男が知ったかぶりをして愉快な失敗をする他愛ない話ですが、実にうまくできています。
 わたしの記憶が確かならば、これは次のようなものです。

 ある人、これもおそらくは八つあんでしょう。大家さんか誰かの家に上がって掛け物を見て聞きます。
「あそこに書いてある字はなんです」
「あれは賛だ(画賛)」
別の家で知ったかぶりをして
「結構な賛ですな」
「いえ、あれは詩です」
次の家でも同様に
「結構な詩ですな」
「いや、あれは論語の語」
またまた別の家で
「結構な語ですな」
「いや、あれは録じゃ(仏典などの語録)」
また別の家で
「立派な録ですね」
「いや、これは七福神です」
「賛と言えば詩、詩と言えば語、語といえば録、録と言えば七福神。待てよ、三四五六七じゃねえか。じゃあ次は八だ」
知恵を働かせて、次の家では先回りして言います。
「結構な八ですな」
「いや、これは芭蕉の句(九)じゃ」

 これに類する話では、五から六に上がるところで、
「いや、六は質屋に入っております」
という落ちのものもあります。

 以上、わたしの知ったかぶりでした。つまらない話にお付き合いいただいてありがとうございました。お後がよろしいようで。

≪後記≫
 永六輔さんがまたまた岩波新書を出しました。
 今月号にぴったりのタイトル「芸人」です。
 「大往生」「二度目の大往生」「職人」に継ぐもので、いずれも永さんが書き留めた一般人の名語録集です。

 帯の口上を紹介します。
芸・・・・・芸とは恥をかくことです
テレビ・・・もったいないものも捨ててあります
スポーツ・・プロレスは痛いものです
光と影・・・錦着て 布団の上の 乞食かな
歌・・・・・明日咲くつぼみに
芸人・・・・三波春夫は芸人でございます

 三波春夫さんとの対談は愉快なものです。
 三波さんは舞台ではキンキラキンの純和風衣装ですが、実生活では日本史の研究家として書斎に籠もりきりで本を読んでいるそうです。しかもシベリア抑留中に共産主義思想をみっちり仕込まれた筋金入り。右翼左翼が自由に出入りする体質の方のよう。本も出されるそうです。
 俳句もされます。わたしの先生の黒田杏子とも句会を共にしたことがあると黒田先生から聞きました。もちろんその場には永六輔さんも。

 わたしの知ったかぶりも今月号で95回目になりました。お陰でかなりの年期が入りました。百回目にはお祝いのお捻りが飛んでくるといいのですがね。

 寒さに向かいます。お体ご自愛ください。

(游)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No94「青は藍より出でて」

三島治療室便り'97,10,1

≪游々雑感≫

青は藍より出でて・・

 先月号でお知らせしたように、十月三日、名古屋のザ・コンサートホールで高校の同級生服部吉之君とその夫人真理子さんによるサクソフォン(吉之)&ピアノ(真理子)のリサイタルがありました。

 服部君は小学校からサックスを始め、東京芸大から同大学院を経てパリの音楽院を一等賞で卒業。以後、ソロやサクソフォン・アンサンブル「キャトルロゾー」などの活動。指導者としても洗足学園や尚美で後進の指導に当たっています。

 真理子さんとピアノの出会いは幼少3歳。幼稚園にもいかずにピアノにしがみついたそうです。その精進の結果、東京芸大付属高校から同大学卒業。演奏活動、主として管楽器の伴奏者として活躍しておられます。歌手の故藤山一郎に可愛がられていく度も伴奏したと聞きしました。尚美で芸大を卒業したプロのピアニストの指導をしています。

 二人は個々の活動を精力的に行っていますが、それとは別に、東京、名古屋、北海道などでほぼ毎年一回、「デュオ服部」として夫婦でリサイタルを行っています。今回はなぜか趣向を変えての特別企画でした。

 特別企画。
 それは服部君の弟子で昨年度の日本サクソフォンコンクールで見事一等賞に輝いた原博巳君(尚美・東京芸大)と服部君によるサクソフォン・デュオ。
 真理子さんが3歳から親炙(しんしゃ)している師の吉田よし先生(東京音楽学校現東京芸大卒業)と真理子さんによるピアノ・デュオという変則のプログラム。即ちピアノとサクソフォンの師弟デュオということです。デュオとは二人で演奏することでデュエットのこと。

 今回はなぜ師弟なのでしょう。それは文化一般から考えてみる必要があります。
 そもそも文化とは歴史と社会を持つことで初めて成立する人間独自の営みです。他の生物には決して見られないものなのです。蜂や蟻が社会を形成しているといってもそれらは本能のままに営まれていて、歴史に裏打ちされたものではありません。後代に教育的に継続させるものではないのです。

 文化は広義には科学技術から料理、スポーツ、格闘技、政治、経済、産業などあらゆる分野を含みます。狭義に限定すれば文化庁があつかう音楽や美術、書道や文学、歌舞伎や文楽、演劇、映画などの芸術や芸能がその代表的なものとなるでしょうか。

 もし文化が歴史を持たなければその人限りで滅んでしまいますし(多くの人間国宝がその危機にある)、同じようにもしそれが社会性を得ることがなければ単なる孤立、独りよがりに終始してしまいます。

 そういう意味で師弟とはまさにその歴史性を担う極めて重要な関係であり最小単位の社会なのです。
 40歳を過ぎて服部君も先代から受け継いだモノに自分の得たモノを付加して後代に伝えるという仕事に比重を置いてきたのでしょうか。彼もまた立派に歴史と社会に生きている人と言えます(おお、それに引き換えわたしのふらふらした根無し人生・・自嘲)。

 ついでに社会性のことを言うなら芸術の受け手が社会性の大部分を支えています。
同時に俳壇や画壇、文壇のように作り手の側の社会性もあります。

 さて当夜の演奏は毎度のことながら素晴らしいものでした。

 「俺は原博巳君の師匠ではない。原君のファンなのだ」
と公言して憚(はばか)らない服部君は実にうれしそうに愛弟子と共演していました。
例えて言うなら一人前に成長した若鶏をそっと優しく抱くような師匠らしい喜びとゆとりのある暖かい演奏でした。
 弟子の原君は170名の中でトップに立ったというだけあって21歳とは思えないテクニックとステージ度胸、立ち姿や音色の良さなど器の大きさを師匠を前にしてなんら臆すところなく発揮していました。

 服部君と真理子さんの演奏は時に争うような緊張感(夫婦喧嘩ではない)を醸し出していましたが、当日の師弟コンビはそういった緊張感は漂わせてはいませんでした。
むしろほのぼのとした雰囲気を客席まで伝えて来ていたのです。
 ただし知り合いの演奏家に聞くとプログラムは非常に高度なもので相当な技量を要する曲ばかりだそうです。そうした難しい曲を演奏しながらも客席にはゆとりある至福感として伝わって来たということは両名の音楽技量がいかに高いかを証明するものと言っても過言ではないでしょう。

 ピアノはどうだったでしょう。
 吉田よし先生は女性ですからお齢を書くことは失礼ですので控えます。ただ、原君が21歳でよし先生は彼よりほんの半世紀だけ早くお生まれであると記しておきます。
齢は書かないのが礼儀ですから。

 率直に申し上げて、先生の演奏は齢のことを考慮する必要の無いまるで若々しいものでした。ピアノに向かった美しい姿勢から時に激しく、時に幽かに、あるいは情熱的に、あるいは冷ややかにと鍵盤の上を自在に動き回る指から奏でられる演奏は全く現役の演奏家でした。
 演奏歴はおそらく60年を超えられるのではないでしょうか。まさに練りに練られた動き、それは難曲をあたかも魚が水中を泳ぐがごとくの自然さで弾きこなされるのです。円熟の極みというものでしょうか。日ごろのたゆまない習練の成果以外のなにものでもないでしょう。であればこそ音楽を深く理解し、頭でイメージしたように自然体で奏でることがお出来になると思うのです。

 よし先生の音色は甘く、真理子さんの音は聡明。
 お互いがそれぞれの音をきっちりと受け止め合い、音楽としてまとめていく。服部君たちと同様、まことに師弟の演奏とは素晴らしく、拝聴していて気持ちの良いものでした。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 「出藍の誉」という言葉があります。
 「青は藍より出でて藍より青し」
とも言います。これは荀子の次の言葉に基づきます。
 「青出于藍而青于藍」
 広辞苑によれば、青色は藍から作られるが藍よりも青い。弟子が師よりもまさりすぐれるたとえ、ということです。
 余談ながらわたしの属している俳句会はこの故事からとって「藍生(あおい)俳句会」と言います。主宰は黒田杏子。

 一般には辞書にある通り、青は藍より出でて藍より青いから出世しと解釈します。
だから「出藍の誉」。けれども本当にそうなのでしょうか。ささやかながらも異論を申し上げたいですね、仮に荀子がそういう意味で言ったとしても。

 「出藍の誉」とは言うものの決して青が藍より優れているということではないはです。それよりも藍という個性から青という新しい個性が藍を踏み台として花開いたと見たほうがいいのではないでしょうか。

 確かに「出藍の誉」とは言いますが、決して青と藍を比較して青が優れているという意味ではなく、師から教わったことに、わが個性を加えて新しい世界を開くことができたというように考えたいのです。師を乗り越えるとは師から受けた教育の成果を通して質的に転換をなし得たということなのでしょう。
 本来、優れた師とは本来乗り越えられないほどの境地にある人なのですからその境地が超えられるならその人は最初から師匠ではないのです。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 演奏会の後の酒宴で元全日本レベルのサッカー選手で今は酒屋をやっているA君が言いました。(サッカーと酒屋。わたしの文章にはこうしたエレガントでハイレベルの言葉の修飾が随所にちりばめてありますから、気をつけて読んでください。決して駄洒落ではありません・笑)

 A君が服部君に質問しました。
 「おい、服部。ちょっと聞きたいけど、上手な弟子が出てくるとうれしい反面、追い越されるという焦りを感じないかい」
 体力を必要とする元スポーツ選手らしい率直な質問です。
 「そんなことは全く無い」
と服部君は切り返します。
 「弟子が自分の技量を引き継いで、自分を追い越してさらに成長してくれたら師匠としてはうれしいもんだ。弟子の成長ぶりは自分の励みにもなるし」
 お店の商品をおなかに一杯詰め込んで既にいい気分でやって来たA君はそれには納得せずさらに突っ込みます。
 「弟子の進歩を喜ぶのはある意味でもう敵わないからと、弟子の成長ぶりに目を細めるというポーズで逃避することではないか」
 「体力が技術の大きな部分を占めるサッカーと違って、音楽などの芸能はその年齢に応じた魅力が出せるのだから、追い抜かれるという気持ちはそんなに起きないのではないかな。サッカーみたいにレギュラー人数も決まっていないし。俺は俳句をやっているからそう思う。青春の俳句、働き盛りの俳句。老境に遊ぶ俳句。音楽も同じで
は・・」
と、わたしも議論に参加しました。
 「そうそう、みっちゃん(わたしの小学校からの愛称)の言うとおり」
服部君も同意します。
 「ま、話し合いもそれくらいにしとかんと、パパラッチのみっちゃんがまたこのやり取りを密かに取材して前みたいに通信に書かれるぞ。ネタにされてまうぞ(ちゃんとそうさせてもらいました・・筆者談)」
 元不良で今はこわもて刑事のT君が職業意識のこもった配慮で穏やかに話の中に入って来ました。
 「だいたいよー、Aは天才肌で、途中でクラブを止めても戻って来たら即レギュラー。また止めても戻ってきたらすぐレギュラー。まじめにずっと練習しとっても一回も試合に出れんかった奴もおるのに。俺だってレギュラーになれんから勉強に精を出せとやんわり退部勧告されたんだ。天才のおまえにとっては後進に指導とかは縁のな
い話だ」
 「いや、実は俺、今、小学校のクラブを指導しているんだ・・・」
かつての天才サッカー少年もすでに歴史に参加しているのでした。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

 わたしの指圧の師匠は増永静人という人でその世界では有名な人です。師事できたのはほんの3年ほどで、先生は亡くなられてしまいました。晩年、先生が言われた言葉で記憶に残っているものがあります。

 「論語に
   朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり
  という言葉がある。
   これは朝、真理を知ったらもういつ死んでもいい、それほど真理とは得難いものなのだと解釈されている。しかしわたしは別の解釈をする。それは朝、弟子に真理を伝えることができたらいつ死んでもいいということだ」

 当時、先生はガンに罹っていました。心底切実な思いがあったに違いありません。50代半ばで死を自覚された先生はまだ自らの研究が途中であることと、自分を本当に理解している弟子が一人もいないという二重の寂しさを直視されていたと思うのです。それが論語の解釈になったのでしょう。
 その寂しさは歴史が途絶える寂しさです。
 先生没後十八年。わたしは未だに不肖の弟子どころか弟子と呼ばれるレベルにも達していません。

 それを思えば服部君が原君という優れた弟子に出会えた喜びは計り知れないものがありましょう。同様ににサッカー小僧を相手にし始めたA君や、まるで刑事ドラマさながらに異星人のような若手刑事を現場教育しているT君にも同じ思いにつながるものがあることは想像に難くありません。

 不肖の弟子にもなれていないわたしに弟子が持てるはずもなく、また、現実にいるはずもありません。それは寂しいことですが、まだ成長過程にある、いうならば青春期にある万年青年と呼ばれるわたしにとっては当然のことでしょう。
 今、中途半端のままでいっぱしの師匠気取りになればそれはおそらく師匠でなく支障にしか過ぎないことは自明のことなのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No93「癒し」

三島治療室便り'97,9,1

《游々雑感》

最近の本から

 20年来身体のことにかかわってきた私にとってとても興味深い本「『癒し』のボディ・ワーク(学苑社)」。著者は長年障害児の動作法などを身体運動と心理の両面から研究実践してこられた今野義孝先生。現在は文教大学教育学部教授。専攻は、障害者心理学、臨床心理学、健康心理学。

 今野先生の「『癒し』のボディー・ワーク」は東洋の手技療法の研究をしてきた者にとってはその一般論的な有効性を実験検証的に証明してくれているというありがたい本です。
 「まえがき」の今野先生の心情吐露は学者として画期的なもので、そこまで内省的な思いを研究者が表明していいのだろうかと心配になるほどのものですが、クライアントの立場に立てばこれほど素晴らしい先生は滅多にいないだろうという感動的なものです。
 意訳抄出すれば
 「自分の発見した『腕あげ動作コントロール訓練』という動作法は、それまでの脳性まひの身体動作の援助を中心とした指導法から、こころの動きの援助する方法へと飛躍を遂げた。身体とこころの調和的な体験を援助することが自己活動の再体制化をもたらすことをあたらめて確信できた。
 しかし大きな不安が渦巻いてきた。それは『腕あげ動作コントロール訓練』はクライアントへの一方的な指導・訓練的なかかわりが中心で、真のコミュニケーションを欠いていたのではないだろうか。今にして思えば、私は功名心のとりこになり、自分が他者によって生かされているということや他者の存在の大切さを忘れていたのであ
る。

 そうして辿りついたのが『とけあう体験の援助』である。これは『指導者・クライアント』や『援助者・被援助者』といった主従の対立的な関係を乗り越え、快適な心身の体験を互いに共有することによって真のコミュニケーション関係の確立を目指すものである。つまり、『指導者による一方的なかかわりから、相手との相互のかかわり合いへという視点』や『相手を対象化した客観的理解から、相互のかかわり合いによる間主観的な理解へという視点』が基調になった」と言われています。

 ご自身の成果を大転換してさらに成長して行こうという態度が率直に書かれていて極めて好感と信頼を感じる文章です。その根底にあるのは学者・研究者としての態度ではなく、障害者にかかわって指導すると同時に学び、その成果を自らと障害者で分かち合い、さらなる発展を共に目指そうという姿勢からくるものでしょう。

 今野先生がこうした大きな変化の渦中にいる間に出会ったものに、ボディー・ワークと東洋的な行法があります。
 おなじく「まえがき」に
 「それらに共通すること。ひとつは自分自身の身体の体験に浸り、味わうことによって自分のこころを捉え直すこと。もうひとつは集団で互いに援助しあうことによって、身体の体験やよこに漂う雰囲気を共有することができること。これは『他者とともに存在し、他者とともに癒される』ということであり、個人のレベルや自-他の境を越
えた癒しの世界につながる。
 援助を受ける人も援助をする人も互いに癒される関係にあることこそが、“健常者”と“障害者”の違いを越えた真の“共生”の実現につながるということである」
とあります。

 この場合の“障害者”や“健常者”は字面だけでとらえることなく、ひとつの比喩として大きく“何らかの基準によって区別される者”と受け取った方がいいでしょうね。

 さて、この本のうれしいことはもう一つあります。それは私が直接講習会に出て指導を受けた人や縁あって出会った人、あるいは直接の出会いは無いものの書かれた本に深く親しんだ人の研究が多く掲載されていることです。今までこうした学術的な本にはなかったことで、大変驚くと同時に喜んでいます。
 多少なりとも縁のある人を紹介しましょう。それがある程度この本の内容の紹介にもなるでしょう。

 原口芳明さんは15年くらい前でしょうか、七月号で紹介した気流法の名古屋セミナーに何回も参加しておられて知り合いました。障害者教育のために裾野を拡げて貪欲に研究されておられた方です。現在愛知教育大学の先生。障害者を持つ親から絶大な信頼を集めておられます。この本には「『さわる』ことは相手をモノとして扱うこと
であるのに対して、『ふれる』ということは人格をもった相手への働きかけである」という意見が紹介されています。

 増永静人は私の指圧の先生。亡くなって15・6年経ちます。「指圧の時、相手を指導者に持たれかけさせ、指導者も相手にもたれてゆくとき、それがもちつもたれつの状態である。これが生命的一体感の状態である」と引用してあります。

 西村弁作さんは言語療法の大家。直接お会いしたのは一度だけです。西村さんの奥さんは優秀なカウンセラーでしたが数年前48歳で亡くなられました。彼女の亡くなる数日前にお見舞いに行き、病室でお会いしただけなのです。夫人とは神経難病の患者を共同で担当したことがありました。彼女が心理面を私が身体面を主に受け持っていたのです。
 亡くなる数日前、彼女をマッサージしました。「寝たままで腰が痛いでしょう。マッサージして上げるから横向きになってよ」と言いましたら、「三島先生の名人芸を見せて頂戴」と冗談を言いながら腹水の溜まった体をさっと横向きにされたのを昨日のことのように覚えています。

 野口晴哉(はるちか)さんは有名な野口整体の創始者。今日の民間医療の思想的な面で多大な功績を遺しています。明治以降、民間医療界最大の巨人と呼んでも差し支えないでしょう。私が整体協会へ勉強に行ったとき既に鬼籍の人で、息子さんが指導していました。無意識運動を発現させる「活元運動」と手のひらからの「気」を送る「愉気法(ゆきほう)」は有名ですがフロイトやユングを彷彿させる自在な人間観察は見事なもの。生前、作家の間で大変な信頼を得ていました。

 野口三千三(みちぞう)さん。野口体操、別名コンニャク体操で知られています。
長く東京芸術大学で体操を指導しておられました。「からだは水の詰まった革袋である」という持論からなるユニークな体操です。増永静人先生とも親交がありました。芸大の演奏家の卵たちは、授業でコンニャクのようなくねくね体操をさせられて、「なんじゃこれは」と無為な時間を過ごしていたのですが、一人前になって、特に体の無理がきかなくなって演奏に行き詰まったとき、無性にこの体操が懐かしくなるそうです。

 高岡英夫さんは今日、武道やスポーツ界で最も精力的に活動しておられる方の一人。
ただし、権力や権威からは最も遠い存在での活動です。東大大学院で運動科学を修めた後、野に下って今は自ら興した運動科学研究所所長。ご自身武道家でもあります。
現在、武道・スポーツの分野だけでなく音楽家や舞踏家などさまざまな人が氏の指導を受けています。 この本には著書「身体調整の人間学」の一説が紹介されています。
「世界はそれ自体では意味のあるものではなく、主体によって意味づけられるものである。そのときの主体とは、意識以前の主体、すなわち身体的実存である。(中略)空間を意味づけているのは身体の『運動性』である」

 竹内敏晴さんは南山短大の教授。主として演劇を身体と言語の表現の場として教育されています。故林竹二先生と同行の教育活動でも知られています。林竹二先生のことは昔《游氣風信》に書きました。竹内さんの「ことばが闢かれるとき」は感動的な本でした。

 以上のようにアカデミズムの方も市井の方も同じ土俵に上げて説かれている点でも「『癒し』のボディ・ワーク(今野義孝)」はユニークな本です。学苑社刊、3800円


| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No92「虫のいろいろ」

三島治療室便り'97,8,1

≪游々雑感≫

虫のいろいろ

 先々月の「雨のいろいろ」が好評でした。梅雨にちなんでいろいろな雨の呼称を紹介したものです。そこで今月は二匹目のドジョウを狙って「虫のいろいろ」を思いつきました。夏はなんといっても虫たちの季節です。

 芥川賞作家尾崎一雄(1899~1983)に「虫のいろいろ」という題名の短編小説があります。
 中学の時に読んだ記憶がありますが、内容はほとんど覚えていません。虫好き少年だったのでタイトルに引かれて読んだのでしょう。この作家に対する知識は全然ありませんでした。読後感は残念ながらつまらないものでした。
 「虫のいろいろ」は当時大人気の北杜夫のベストセラー「どくとるマンボウ昆虫記」のように、昆虫そのものに対する愛情や興味、昆虫との関わり方、あるいは博学的知識を満たすものではありませんでした。文章も抱腹絶倒のマンボウ物と違って日常を淡々とした筆遣いで描く私小説でしたので少年心に物足りない思いをしたものです。
今読み返せば全く違った印象を抱くでしょうがすでに本は廃棄してあります。

 尾崎一雄が私小説の大家志賀直哉に憧れて作家になったこと。プロレタリア文学興隆期、最盛期にあってさえも身辺を題材とした志賀直哉の世界に傾倒して私小説を書き続けたこと。「虫のいろいろ」を書いた当時、重患で長く寝付いていたことなどを知ったのは今回これを書くために調べてからです。
 プロレタリアとは自分の労働力を資本家に売って生活するいわゆる労働者階級。それに対する資本家階級のことをブルジョアジー。学生がゲバ棒を振り回していた頃はよく使われていた言葉です。

 「フーテンの寅さん」はプロレタリア、ブルジョアジーのどちらにも属さない人でしたが(あるいは小ブルジョアジーに分類されるか?)おじさん夫婦の経営する団子屋の裏の印刷工場で働く人達に向かって「やあ、労働者諸君、元気でやってるかね」
と呼んでいたのはプロレタリアに対する親近感を表していたのでしょうね。
 それに対して資本家のタコ社長とは喧嘩ばっかり。ブルジョアジーへの反感なのかもしれません。そういう視点で見るとあの娯楽映画にも階級闘争が如実に表現されていることになります。確かに監督が山田洋次ですし。寅さんがスタートした頃はそういう時代だったのですね。

 プロレタリア文学はプロレタリア生活に根差し、階級的自覚に基づいて現実の階級的立場から描く文学。日本では大正期から昭和初頭に大きな勢力に育ったが、弾圧によって一九三四年(昭和九)以後壊滅と「広辞苑」に難しく載っています。広辞苑を引くための辞書が欲しくなりますね。
 獄中で拷問死した小林多喜二の「蟹工船」や徳永直の「太陽のない街」は中学の国語の時間に試験に出るからと習いました。

 今述べたような階級争議の萌芽が潮流として渦巻く時代にあっても、尾崎一雄はただただ日常存問の世界を描き続けた作家だったのです。これはどこか伝統俳句の世界に似ています。もっとも俳句でも京都大学を中心にプロレタリア的俳句や反戦俳句が生まれたのですが、やはり軍部の弾圧によって壊滅しました。以後、俳句は小さな曲折はあるものの、私性に深く執するの様相を今日まで引きずっています。
 今日主流となっている俳句は自然と私性の関わりの中に深い世界を覗こうとするものですが、現実に対する直接的な批判精神は希薄。私個人としては俳句はそれで構わないと思っています。俳句を作るという行為自体が一種の現実批判になっていますから。

 さて、話が横に逸れ過ぎました。
 「虫のいろいろ」の中で覚えているのは、額に皺を寄せたらハエの脚が挟まって飛べなくなり、額でぶんぶん羽ばたいているハエを大声で家人に見せるというくだりと、クモをトイレのガラス窓の隙間に閉じ込めて兵糧攻めしてみたが、いっこう平気であった、さすがにひたすら餌を待つだけの虫は空腹に耐えると感心したくだり、そんなと
ころです。

 手元の万有百科大事典(小学館)の文学の巻を紐解きますと、尾崎一雄の所に「虫のいろいろ」の項目があります。ということはこの作品は彼の代表作と言えますね。

 虫のいろいろ 短編小説。一九四八年(昭和二三)二月「新潮」に発表。クモ、ハエ、ノミなどの生態を通して人間の生を追求した作。重患を生き抜いた作者の心境が、いくぶんのユーモアをまじえながら真率につづられており、志賀直哉の「城の崎にて」をおのずから想起させる。

 なるほど、額で羽ばたいていたハエは人間の生を追求したものだったのです。何事もあなどれないものですね。
 尾崎一雄が生涯の師として目標とした志賀直哉の名作短編「城の崎にて」も、交通事故の後遺症の養生に城崎温泉にでかけた志賀直哉が小動物の生死を目にして、それを的確に表現しつつ感想を述べたもの・・と同大辞典に記載してあります。このあたりが先の解説にある「おのずから想起させる」と言う部分でしょう。

 では、私も尾崎一雄にならって身近な虫たちをみていきましょう。私が書くのですから人間の生を追求するには程遠いものであることは間違いありません。
 夏の虫なら蝉、トンボ、クロアゲハ、カブトムシなど子供に人気の昆虫が目白押し。
ですが今回はあまり日の目を見ない虫を取り上げます。
 曰く「不人気昆虫トップ3(順不同)」。

ボウフラ
 ご存じ蚊の幼虫。漢字で書くと孑々。俳句をやる人以外まず読めませんね。
 淀んだ溝や鉢植えの受け皿の水などに住んでいます。よく観察するとくねくねしながら浮いたり沈んだり。それは呼吸しているからです。水面で息を継いだら沈んで餌(腐敗有機物)を食べ、また苦しくなったら浮いてくる。観察すると結構おもしろく、詩人は詩を詠み俳人は俳句を作ります。

(えゝ 水ゾルですよ/おぼろな寒天〈アガア〉の液ですよ)
日は黄金(きん)の薔薇/赤いちいさな蠕虫(ぜんちゅう)が/
水とひかりをからだにまとひ/ひとりでおどりをやつてゐる/
(えゝ 8 γ e 6 α/ことにもアラベスクの飾り文字)
 -中略-
(ナチラナトラのひいさまは/いまみづ底のみかげのうへに/
黄いろなみかげとおふたりで/せつかくおどつてゐられます/
いゝえ けれども すぐでせう/まもなく浮いておいででせう)
 -後略-

 宮沢賢治はボウフラをこう詠んでいます。タイトルは「蠕虫舞手(アンネリダ タンツェーリン)」とドイツ語の振り仮名?作中でボウフラとは言っていませんが、ボウフラであろうことは定説になっています。
 賢治は科学や宗教用語を誰でも自明の言葉と勘違いしているのか、新しがって喜んでいるのかやたらと専門用語を利用するので難しいと敬遠されます。説明を要します
ね。
 蠕虫(ぜんちゅう・生物用語)の蠕は腸の蠕動と同じくミミズのようにくねくね動くこと。
 ゾル(化学用語)は寒天が水に溶けたような薄いとろとろの溶液状態。トコロテンや豆腐のように固まったらゲル。殺虫剤のエアーゾルは霧のようになったゾル。
 8からあとは「エイト ガンマー イー シックス アルファー」と読みますが、音のおもしろさと同時にボウフラがくねくね動く視覚的な表現でもあります。
 賢治がこの詩を作るとき見つめていたボウフラの住処である御影石の石臼は今でも宮沢家にあるそうです。今日もボウフラが湧いているかどうかは不明。
 ナチラナトラはよく分かりません。ラテン語の自然ナトゥラとドイツ語の自然ナトゥルから来ているという説があります。
 ひいさまは幼児語で姫様。賢治はボウフラを自然の姫様と詠んだのでしょうか。
(一部「宮澤賢治語彙辞典・東京書籍刊」を参考・・・一作家のための立派な中型国語辞典ほどの大きさの語彙辞典が出版されていることがそもそも賢治らしいところ)。
 

 俳句では
  ぼうふら愉し沖に汽船の永眠り  飯田龍太
  つまづけば溝のぼうふりみな沈む 伊藤月草

 二句目の「ぼうふり」はボウフラのこと。そこから鑑みるにボウフラとはボウフリ即ち棒振りから来ているかもしれません。確かに棒が振られているように見えます。
するとオーケストラの指揮者(棒振り)はボウフラの一種か。
 ボウフラはサナギになると角が二本生えて来ますから、オニボウフラと呼びます。
サナギと言えども呼吸のために浮き沈みしなければなりません。
 賢治の詩では「赤い蠕虫舞手は/とがつた二つの耳をもち」とありますからオニボウフラと考えられます。

ゴキブリ
 ハエ・カと並んでゴキブリは不人気昆虫トップ3でしょう。
 ゴキブリは広義にはバッタの仲間であるのに冷遇されています。鈴虫のようにリーンリーンと羽を擦り合わせて美しい音色を奏でる技を持っていたらもっと別の扱いをされたことでしょう。人はなぜ差別するのかという問題にもつながる部分です。

 ゴキブリは漢字で書くと「御器齧り」。ゴキカブリの詰まったものです。食器を齧ると考えられたのでしょうね。うまい命名です。
 一般にアブラムシとも言います。これは油虫。油紙のように油でギトギトヌラヌラしているからでしょう。これは見たままの率直な命名。

 この虫は熱帯性ですから、原則として暖かい地方にしかいません。北海道出身の人は内地に来て初めて遭遇するのです。もっとも最近は北海道でも生息しているようですが。

 娘は昨年修学旅行で長崎方面へ行きました。とりわけオランダ村ハウステンボスはお気に入り。大いに長崎好きになって帰って来たのですが、長崎を印象づけるとんでもない事件にも遭遇しました。
 ホテルの二人部屋(今の修学旅行はホテル。これでは枕投げができません)。
 いざ寝ようとすると
「あれ、壁にゴキブリがいるよ」
「やっつけよう。あ、鏡台の裏に隠れた」
「鏡台どかしてみよ」
「キャーッ!キャーッ!先生~!助けて~!大変!大変!」
 鏡台の裏から卵から孵ったばかりのゴキブリの赤ちゃんがゾロゾロ、ゾロゾロ。その数数千匹(ほんとかな?)。
 二人して担任の先生の部屋に駆け込みましたが、これが運悪く新卒の女教師。こういう時はまるで役に立ちません。
「ギャー!ダメダメダメ!!先生、ゴキブリ嫌い!!!フロント呼んで!!!!フロントー!!!!!」
 女子高生より始末が悪い。
 フロントは平謝り。昼間にバルサンをしたが卵までは効力及ばずとか。その場で強力化学兵器を取り出してゴキブリを駆逐。その夜は戦々恐々寝たそうです。
 さて、翌日も同じ部屋。
「また出て来たよ」
「ほんとだ。二匹。薬でよたってるよ。私やっつける!」
 娘はバドミントンで鍛えた腕にスリッパを構えると、気合一閃、強烈なスマッシュで二匹を撃破したのでした。
 ハウステンボスのお土産、有名ななんとかオバさんのクッキーを頬張りながら聞かされた実話です。

 ゴキブリはカマキリと近い仲間です。卵はカマキリの卵をチョコレートでコーティングしてある感じ。小さい子なら間違えて食べそうです。生まれる様子はカマキリのそれとそっくり。赤ちゃんがソロゾロ出てきます。

 「どくとるマンボウ昆虫記」には、何でも食べる生物は広く繁殖し、特定の餌しか食べないものは環境の変化に弱く、限定された地域にしか住めないか絶滅してしまうと書かれていました。何でも食べて地上を我が物顔に暮らしている生き物の例としてゴキブリとネズミと蟻と我が愛すべき人間が紹介してあったように記憶しています。

  かくながき飛翔ありしや油虫 山口波津女
  一家族初ごきぶりに動顛す 林 翔

ウジ
 不人気昆虫トップ3の最後を飾るのはハエの幼虫、ウジ。漢字では蛆。
 もはや多くを語りますまい。ボウフラとゴキブリは饒舌が過ぎました。ウジは次の一句がすべてを語っています。

  蛆虫のちむまちむまと急ぐかな  松藤夏山

 「ちむまちむま」は現代表記では「ちんま、ちんま」。動く様をこう擬態語で表現したのです。
 夏山氏。蛆虫を見る目に愛があります。偏見を持たない眼差しがあります。そして俳人はなんだって俳句にしてしまうのです。

 以下、夏の虫の俳句を少々。

  夏の蝶一族絶えし墓どころ  柴田白葉女
  ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜  桂 信子
  ひつぱれる糸まつすぐや甲虫  高野素十
  きりきりと髪切虫の昼ふかし  加藤楸邨
  金亀子擲つ闇の深さかな  高浜虚子
(金亀子-こがねむし・擲つ-なげうつ)
  てんと虫一兵われの死なざりし  安住 敦
  唖蝉も鳴く蝉ほどはゐるならむ  山口青邨
  糸とんぼ遊び足らずよ夜も遊ぶ  藤井 亘

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No90「雨のいろいろ 気とことばとからだの冒険」

三島治療室便り'97,6,1


≪游々雑感≫

雨のいろいろ

 梅雨に入りました。
 梅雨に入ることを入梅と言いますが、このあたりの人は
「もうひゃあ(最早・はやくも)、入梅(にゅうびゃあ)に入った(ひゃあった)なも」
と発音します。
 発音はともかく、「入梅に入る」とはおかしな表現ですね。それをいささかも変だと思わず常用しているのもおかしなものです。しかし、
「入梅に入るという言い方はおかしい」
などと指摘しようものなら、
「おまはん(おまえさん)は理屈っぽい奴だなも」
と言われかねません。

 今年は暦の上では六月十一日が入梅です。実際の入梅もだいたいこの前後になります。
 なぜ、六月のじとじと降る長雨を梅雨と呼ぶのでしょう。研究熱心(わたしの周辺では物好きと言い習わします)なわたしはこういうとき手近な辞書や歳時記を紐解きます。電子辞書の登場は辞書を引くという面倒臭い行為を実に容易にしてくれました。
言葉を調べるという面倒臭い作業を全く労を厭うことなくできるのです。ありがたや。ありがたや。

 広辞苑によれば

つゆ[梅雨・黴雨]
六月(陰暦では五月)頃降りつづく長雨。また、その雨季。さみだれ。ばいう。≪季・夏≫

 これは拍子抜けの説明でした。そこで歳時記の登場です。角川書店の「合本俳句歳時記」を持ってきましょう。

入梅(抄出)
 立春から135日目で、六月十一、十二日を入梅とし、太陽が黄経80度に達する日をきめたもの。揚子江流域と我が国特有のもの。

 これではなぜ、梅雨というのか不明ですから山本健吉著の「基本季語五〇〇選」を調べましたら、梅の実が黄熟するころ降るので梅雨(ばいう)、同時に黴が生えるころ降るので黴雨(ばいう)とも言うそうです。

 わたしたちの祖先は雨をいろいろな言葉で表現しています。言葉の百科事典である歳時記にはさまざまな雨が説明してあります。中国から伝わったものや我が国独自のものなど実に風情を際立たせています。今月は梅雨にちなんで雨の言葉をいくつか簡単に紹介したいと思います。

御降(おさがり)
 元旦もしくは三が日に降る雨。嫌な雨も正月に降ればこうして気分も新たになるのです。おなじことばに兄の服を弟に着せる意味がありますが、それは「お下がり」。

菜種梅雨
菜の花の咲くころの雨。本来はそのころの大風を言ったようです。ひところ全く菜の花を見かけなくなりましたが、最近、有機農業の見直しからレンゲ畑や菜の花畑が復活してきました。

卯の花腐し(うのはなくたし)
 陰暦四月は卯月。そのころの長雨。卯の花を腐らせるほど降る雨と言うことでしょう。豆腐の製造過程でできる大豆のかす「おから」のことを卯の花とも呼びます。粗食、貧困、耐乏食の代名詞ですが調理によって大変おいしく食べられます。むろん雨とは何の関係もありません。

五月雨(さみだれ)
 陰暦五月に降る長雨。梅雨と区別はつきません。陽暦五月(今の五月)に降る雨と勘違いしている人が案外多いようです。

虎が雨
 陰暦五月二十八日に降る雨。これは説明を要します。
 昨年四月、俳句の師黒田杏子先生のお招きでNHK俳壇という番組に出演しました。教育テレビというおさぼり学生だったわたしにはまことにふさわしくない番組です。
そのときの俳句にたまたまわたしと同じ一宮市の方の句が先生から選ばれていました。
なんと四千句以上の中から最終的に選ばれた十五句のひとつです。
 一宮市の方の句は
   花冷や兄を叱れば弟なく
というものでした。
 この句をわたしともう一人、岸本尚毅さんが特選三句の一句として選んだのですが、その解釈はまるで違うものでした。
 わたしの解釈は、花冷えの頃はちょうど入学式。新しい一年生になったお兄ちゃんと弟がケンカをしていると、お母さんが
 「お兄ちゃん。あなたはもう一年生でしょう。弟をいじめたらだめでしょう!」
と叱られます。すると本当は悪いのは自分と知っている弟がわーんと泣き出し、それに呼応して兄も泣き出すというどこの家庭にもあるほほえましいひとこまだと読んだわけです。まず妥当な、常識的な解釈です。
 ところが、岸本さんは全く違うスケールの大きな読みをしたのです。突然、曽我兄弟と言い出したのでした。その発想にはたじたじで、さすがは現代の若手を代表する俳人として二十代より注目されている人だわいと感嘆したのでした。

 曽我兄弟は日本の歴史上、頼朝・義経兄弟や若・貴兄弟に次いで有名な兄弟ではないでしょうか。 頼朝・義経兄弟は源平の戦いの勝利の後、兄が弟を討つという非情な結末であり、世に判官贔屓という言葉まで生まれました。
 若・貴兄弟はハワイから来襲した鬼のような巨人を成敗する兄弟として民族意識を満足させる現在進行形の物語り。
 曽我兄弟の方は兄弟愛、親族愛に悲劇性が加わります。
 曽我十郎・五郎の兄弟は鎌倉初期の武士。父の敵工藤某を富士の裾野で仇討ちし、捕らえられて殺された実話です。歌舞伎や能・浄瑠璃などに取り上げられた忠臣蔵と双璧をなす歴史的人気物語。
 二人が殺された日が陰暦五月二十八日。この日の雨を虎が雨と呼びます。これは十郎の愛人虎御前の悲しみの涙が雨になるという伝説からきたものです。

半夏雨(はんげあめ)
 七月二日ころ。半夏(植・からすびしゃく)の咲くころの雨。このころの雨は大雨になるとかの吉凶判断で嫌われます。

氷雨(ひさめ)
 雹(ひょう)のこと。雨は空高くでは氷の粒です。それが地上につくまでに溶けて雨。溶けないときが雪。全く溶けず結晶がかたまって氷のまま降ってくるのが雹です。
意外なことに夏に多く、作物やビニールハウスなどに甚大な被害を与えます。冬の雪交じりの雨を氷雨と呼ぶこともあります。これは歌謡曲で有名になりました。

夕立

 説明は不要です。白雨とか驟雨ともいいます。雷をともなうことも多いですね。雨上がりの爽快さにビールと枝豆が加われば最高です。

喜雨
 真夏の日照りのころ降る雨。慈雨です。このころの畑は灼けこんでキュウリの葉などは見るのも可哀想。

時雨
 冬、さっと降り初めてさっと走り去る雨。こちらは雨が降っているのに向こうの山には日が照っているといった具合で日本人好みのもっとも大切な季題のひとつ。

 梅雨にちなんで雨をざっと散見してみました。風の呼び名などはもっといろいろあるようでいずれ特集したいと思います。

@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

気とことばとからだの冒険
  ≪気≫二十一世紀の共生のために
    7月21日(月)パルテノン多摩小ホール
      午後1時会場 午後1時30分開演

 坪井香譲師が「∞気流法」を世に問い初めて20年が経ちました。それを記念する会が開催されます。
 ∞気流法とは何でしょう。パンフレットから紹介しますと

 あらゆる動作、身振り、技などのエッセンスを〈身体の文法〉とし、それによって大らかで簡素な動きとカタチで根源の≪気≫を展開する活性・共感・思考の総合芸術。
坪井香譲創始。国内の他フランス、ドイツ、イタリアなどで行われている。

 しかしこれでは何のことだか理解できませんね。
 パフォーマンス(実演)を見ると、前衛舞踏のようでもあり、太極拳などの中国武術のようでもあり、アフリカの古式ダンスのようでもあり、日本の神楽や舞、あるいは合気道のような武道を想起させるものでもあります。

 坪井香譲師はさまざまなジャンルの達人の動きの中に通じるある種の共通項を[身体の文法]と名付けました。たとえば優れた野球選手、名人と呼ばれる仕立て屋、楽器の演奏家。町角の大工さん。著名な舞踊家や役者。それらの人々の中に息づいている身体の法則を探求してきたのです。
 そして実際にその法則に沿って動いてみることで身体の活性化を図り、閉塞した身体を解放し、共感性を高めることで生きている環境への関わりを深めよう、そこから自由な思考を展開して生きていこうという活動を続けてこられました。
 同様に[ことば]で捕らえなおすことで、身体の文法の中に潜む構造に迫ろうともされています。

 当初、[身体の文法]自体がジャンルを越えた人々を引き付け、気流法という技法が目的化されることなく、それぞれの人の中に、その専門とする技術の中に生き生きと存在し続けていました。しかし近年は気流法の体系化が進歩し、気流法そのものを目的化する人々も増えています。日常生活の中で硬直化して心身を根源からほぐし、感性の鮮度を回復し、姿勢や動作の潜在能力を顕らかにしてくれるからです。一杯の水を飲んだとき、本当にうまいと感じることのできる身体。それを大切にしたいのです。別に水が酒でもりんごでも構いませんよ。

 当日のプログラムは

ことばとからだのお手前(現代詩×動く多面体)
  佐藤響子(舞い)
  覚和歌子(詩作朗読)
宮沢賢治の詩とピアノ(方言を活かした朗読×エリック・サティ、バッハ)
  竹本初枝(朗読)
  藤本静江(ピアノ)
対談「賢治・身体・情報都市」
  三島広志(東洋医療家)
  坪井香譲(∞気流法創始者)
さらに気流法会員参加の演舞や来場者の体験ワークショップ、坪井香譲師の演武などが予定されています。

 気づかれた方もあるでしょう。驚くべきことにわたしも対談者として名を連ねています。多少宮沢賢治に詳しいということと身体に関わる仕事をしているということ、それに加えて15年前から何年か実際に気流法の練習にも度々参加したことがあるということから指名されたのです。

 対談のテーマを見て驚いたのは「賢治・身体・情報都市」の最後、情報都市です。
これはどういう話になるか皆目検討がつきません。ただ、これからわたしたちの身体に重要な影響を与えてくるのは情報であろうことは予測できます。
 以前はモノやヒトと身体との関係性が重要な問題点でしたが、今後はわたしたちを取り巻く情報洪水と身体との付き合い方、これがとても大事になってきます。そこに昨年生誕100年でかまびすしかった宮沢賢治がどう食い込んでくるか。このあたりが対談の焦点ではないかと思いますが、それは当日舞台に立ってみないと分かりませ
ん。
 では、なぜ宮沢賢治?
 パンフレットに賢治の言葉が引いてあります。

 風とゆききし、雲からエネルギーをとれ。

 すべてがわたくしの中のみんなであるように
 みんなのおのおのの中のすべてですから

 前者は農民芸術概論、後者は詩集「春と修羅」の序です。

 気流法の目指す世界と重なる、否、交流する世界が賢治の中にあるのでしょう。賢治の言葉の中には時代の閉塞感を吹き飛ばす透明なエネルギーがありますから。

 最後に坪井香譲師の経歴をパンフレットから。
坪井香譲
 早大心理学卒。弓道、諸武道、瞑想行などの身体アートやユング心理学、タオイズム等に触れつつ、創造性理論を実践的に研究。国内外で講演、公演、執筆活動を通して「21世紀の身体知」を展開。「ひかりの武」の武道家としても知られる。西武コミュニティカレッジ、朝日カルチャーセンター多摩、IFEDEM(仏国立舞踊教育機関)等で連続講座を担当。パリ第3大学に講師として招聘される。日本人体科学学術会員。著書「気の身体術」(工作舎)、「メビウス身体気流法」(平河出版社)等。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No89「私見:情報伝達事始め」

三島治療室便り'97,5,1
 
≪游々雑感≫
私見・情報伝達事始め

 世の中にはさまざまな情報が飛び交っています。
 世界を動かす重要な情報もあれば、無いほうが世のためという情報もあります。正しい情報や間違った情報、憶測や嘘も入り交じり、情報が否応無くわたしたちの周囲を駆け巡っているのです。

 そんな中、わたしたちは情報の受け渡しをいろいろな方法で行っています。
 原始的なものとしては身振りや手振り、表情や声。高度になりますと言語(定められた信号や記号なども)を用います。また抽象化された音楽や美術、詩などの芸術的方法もあり、こうした複雑に入り組んだ情報伝達は間断なく一人一人に飛び込んできて一時も休ませてはくれません。

 大自然からの情報はこちらの学習程度によって判断することになります。
 風が出てきて空が暗くなるという情報を得れば「雨」という予測を行い、出掛けるときは傘を持っていこうと判断・行動するという具合。

 人と人の情報交換に限ればさまざまな手段を工夫して伝えたり判断したりしていることが分かります。とりわけ近年に至っての急速な伝達方法の進歩には驚いている暇も無く、かといって傍観している訳にもいかず、ただおろおろとついていくばかりです。
 高度情報社会に翻弄されている我が身を振り返りつつ、伝達方法について思いつくまま述べてみましょう。

言語以前
 昨年暮れに赤ちゃんを授かったKさんは、育児疲れの奥さんを身体調整に連れてみえます。もちろん生まれて半年ほどの赤ちゃんを一人で置いてくるわけにはいきませんから抱っこして来るのですが、奥さんの調整中、父と子を見ているとそれが実におもしろい。
 赤ちゃんが「ウー」と言えば、お父さんは「よし、よし」と立ち上がって揺すってやり、「グー」と言えば「そうか、そうか」と目を細め、「ウックン」と甘え声を出そうものなら人目もはばからずホットケーキに乗っかったバターのようにとろとろに溶解してしまいます。
 そのうち赤ちゃんがご機嫌ななめに「イー」と身をのけ反らせると、「どうした、どうした」とこの世の終わりのように慌てふためきだし、全く見ちゃおれません。
 Kさんのように厄年過ぎて初めての赤ちゃんを抱けば誰でもこうなることでしょう。
それに思い起こせば中学三年生のわたしの息子も今でこそ「うっせーなぁ。わかっとるからあっち行っとれ」
と変声期のがらがら声で生意気なことこの上もありませんが、小さいときは確かに可
愛らしかったような記憶がかすかにあります。

 さて、赤ちゃんはお父さんに笑顔と泣き顔と喃語(なんご。赤ちゃんが発する意味不明の声)と仕草で立派に情報を伝えています。この交流はもっぱら受け手のお父さんの理解力に委ねられていること大なのですが、Kさんと赤ちゃんを詳細に観察しますと、明らかに赤ちゃんの意志もその声などに反映してお父さんを操作しているのが
見受けられるのです。たかだか生後半年で・・・すごいものです。
 こうして言語以前の情報交換がみごとに成立しているのですね。

音声言語による伝達
 音声言語いわゆる話言葉による情報は人類だけが獲得した高度な情報交換手段です。

 これは音声の届く距離にいることが前提で行われます。拡声器や電話、無線機などが発明されるまでは肉声の届く周辺に限られました。
 音声言語は重宝なもので、いささかの身振りと表情、声の調子を加味して複雑な情報伝達が可能になります。ただし、音声ですから即刻消滅すること、伝達距離が短いことが欠点です。つまり、時間と空間の制約が極めて大きいということなのです。

文字言語による伝達
 そこで生み出されたのが文字です。文字は音声と違って記録できるという卓越した能力があります。それを何らかの方法で遠くまで移動することで空間も乗り越えることが可能になりました。
 文字は絵文字や簡単な記号から進化して今日使用する形に成長しました。前述のように文字言語は記録によって時間を超越しただけでなく、移動手段を用いることで空間も越えました。
 しかし、欠点としては到達までに時間がかかる、つまり即時性において話言葉に一歩譲ることでしょうか。江戸時代までは飛脚によって運ばれていたのですから時間がかかることおびただしいものがありました。
 また、文盲という言葉があるように学習も音声言語より困難です。

新聞とラジオ
 音声言語と文字言語で文明の利器によって発展的に利用されたという点では文字言語が音声言語にはるかに先んじました。紙の発明と印刷の技術の発展が両者の間を決定的に分けたのです。
 日本でも紙に版画の手法で本を出版していた歴史には長いものがあります。それ以前は書き写していましたし、さらにそれ以前は文字がないために音声言語による口伝えだったのですから大変だったことでしょう。この役職のことを語り部と称したのは歴史で学びましたね。
 音声を音声のまま記録する技術はエジソン(多分)まで待たねばならなかったのです。

 大衆に向かって情報を広く伝える、すなわちマスコミュニケーションとして最も古いのは新聞です(これも多分)。我が国なら瓦版。これは文字言語です。
 新聞は大衆の公器として多くの人の生活に役に立ちました。日々新しい情報が紙に印刷されて各家庭に届けられるのですから、それがいかに人々の暮らしを変えたか、その影響は今思うよりずっと大きなものだったことでしょう。
 政治、経済、社会の出来事、文化、医学、教育、小説、囲碁、将棋、俳句、短歌、広告などの最新情報が家庭に届けられることで生活に潤いを与えたことは想像に難くありません。

 ところが、今世紀の始め、イタリア人マルコーニが無線通信を実用化させました。
それを踏まえてラジオ放送が始まります。ここに至ってついに音声言語が距離という空間的制約を取り払ったのです。さらにエジソンによって蓄音機が発明され、音声言語を音声のまま記録する技術が実用化されて時間的制約を取り払ったのもこの頃です。

「メーリさんの羊、羊、羊、メーリさんの羊、可愛いな」
これが記念すべき録音の第一号だそうです。

 ラジオ(音声言語)は新聞(文字言語)よりはるかに速い情報伝達手段です。放送局から即各家庭に飛んできます。それに対して新聞は印刷し、汽車で各地に運び、そこから各家庭に配られます。そののろまなことはラジオの比ではありません。そこで巷間、新聞無用論が起こります。

 「ラジオなら世界で起こっていることが瞬時に伝わってくるが、新聞は前の日の事しか分からない。非常に遅い」
 「神宮球場の野球の実況中継を聞いた翌日、新聞で勝ち負けを知るのは全く間の抜けたことだ」
 「新聞は紙を大量に消費する。ひいては森林資源の破壊、資源の無駄だ」
 「汽車で運ぶのだから燃料も馬鹿にならない」
 「それに宅配だから人手や手間も大変だ」
 「読み終えた新聞はゴミになってしょうがない。トイレで使うと硬くて痛いし、色がつくし・・」

もちろん新聞養護派もいます。

 「いや、新聞で読むのはニュースだけではない。料理や新聞小説は切り抜いて保存できる」
 「そんなもの、本で買えば良い」
 「新聞一枚の情報量はラジオに比べてすごいものだ」
 「新聞には何と言っても写真がある。百聞は一見にしかずと言うではないか」
 「確かにそれはラジオの負けだ。しかし、浪曲は新聞では聞けまい」
 「何より新聞にはラジオ欄があるが、ラジオには新聞欄はあるまい。これは明らかに文明の利器、ラジオの勝ちである証拠だろう」
明らかに新聞の旗色が悪いようですが、ついに歴史的起死回生の意見がでました。

 「諸君、ラジオで弁当が包めるかね」
 「(一同)おおっ」

ここに各人の意見の同意をみ、今日も新聞が命脈を保っているゆえんなのです。

映像言語
 映像言語は広義には文字言語に分類されます。
 新聞には写真があるがラジオにはないという意見がありましたが、それもほどなくテレビの登場で新聞の優位性は駆逐され、ついに弁当を包むという利点だけになってしまいます。しかもコンビニ弁当の隆盛からビニール袋に取って代わられ、ますます
新聞紙の使い道はなくなり、今日専ら古紙としてトイレットペーパーを作るためだけに存在しています(もちろんこれは冗談ですよ。時々冗談が伝わらない場合があります。これは表情がないという文字言語の大きな欠点です)。

時空を越える言語
 さて、文字言語と音声言語の特徴と歴史的な変化をざっと見てみました。素人が勝手に考えていることですから適当に読んでいただくよう改めて強く要望しておきます。
間違っても卒論などに引用しないでくださいね(もちろんこれも冗談)。

 科学技術はこれらの言語の存在意義をどんどん変えていきました。制約を取り払っていったと言ってもいいでしょう。
 今日、音声言語の欠点である伝達距離の短さは、無線(ラジオやテレビを含む)や電話であっけなく乗り越えられました。しかも携帯電話やPHSによっていつでもど
こでも誰でも持ち運びができるまでになったのです。
 また、音声言語のもう一つの欠点の記録の難しさは、カセットレコーダーや留守番電話で解決してしまいました。ビデオによる映像の記録もあっけないほど簡単です。
 また文字言語の欠点である空間移動のために要する時間の問題はファクシミリで過去のものとなり、伝達に数日を必要とする郵便の存続も率直にいって危うい段階まできています。

電子言語の誕生
 近年に至って、一大革命が起こりました。パソコン通信やインターネットの電子メールの隆盛です。
 1980年代後半、日本でパソコン通信が始まりました。コンピューターと電話回線を介して文字情報のやり取りをするのです。わたしは手持ちのワープロで1989年頃からニフティサーブという会社のパソコン通信を始めました。
 パソコン通信は文字言語をパソコンやワープロが電子言語に置き換え、電話回線を通じてパソコン通信会社(わたしの場合はニフティサーブ)のコンピューターに蓄積、それを相手が同様にパソコンやワープロで電話回線を通じて読み取るものです。画面に全く普通の文字が出てきますから誰にでも可能な通信手段です。
 これは電話と違って相手が向こう側にいなくても良いという郵便配達と同じ文字言語の利点をそのままに、電話の同時性という音声言語の利点も兼ねています。つまり時間と空間をやすやすと越えてしまうのです。しかも蓄積も可能。

 それならファックスも同じではないかと思われますが、大きな違いがあります。ひとつは紙を使わないということですが、もうひとつ大変大きな違いがあります。具体例でわかりやすく説明しましょう。
 わたしは毎月俳句の会報を発行しています。今回、5周年記念で仲間の俳句をまとめたものをワープロで作っています。そのため、10数名の仲間から俳句が30句ずつ送られてきます。直接手渡しもありますが、ほとんどが手紙、中にはファックスの人もいます。それをわたしがワープロに打ち込んでいくのです。総数450句以上になり、
なかなかの労働でしょう。
 もし、仲間が電子メールで送ってくれたら、そのまま電話線を介してわたしのワープロに入ってしまいますから、わたしが改めて打ち込む必要は全くないのです。これはとても大事なことです。
 すなわち、電子言語は時間と空間という制約をやすやすと乗り越えるだけでなく、共有化つまり共通財産化も可能なのです。
 
 4月下旬から埼玉に住むIさんと俳句の原稿の件で頻繁に電子メールのやり取りをしました。これは実に爽快で楽しい経験でした。
 手紙のように何日もかかる方法と違って新鮮な感覚のままで文章の交換ができたのです。また電話のように相手の時間に暴力的に割り込む時間泥棒になる必要もありません。互いに都合のよい隙間時間を利用してパソコンをつなぐだけなのです。しかもやりとりの結果は全て記録されています。
 Iさんはしがない自営業のわたしと違って業界トップ会社のエリート社員です。自分の机に会社のパソコンがしつらえてあり、一日中スイッチが入っていて、わたしの電子メールが着き次第読めるという実にうらやましい環境にあります。
 わたしは昼休みか深夜、ワープロを電話線につないで電子メールを覗きます(郵便受けを覗く感覚)。そうそう費用は市内の普通の電話料金とニフティサーブ使用料1
分につき8円です。手早くすれば明らかに郵送料より安価です。あとニフティサーブの月の管理料として200円。
 この≪游氣風信≫も10数人の方には電子メールで送ります。同時配信といって同時に10数人に送りますが、それもひとり分と同じ金額で済んでしまいます。ひとりにつき幾らではなく、あくまでも時間制ですから切手代や印刷代が大幅に節約できます。
印刷代も不要なら紙資源の節約にもなるのです。
 読みたくない人は読まずに消してしまえますし・・・。

 欠点もあります。パソコン通信の欠点はまだ利用者が限られていること、相手が通信機能のあるワープロかパソコンを持っていることが大前提です。
 また持っていても相手がつながない限り読んでもらえません。郵便受けを覗かないのと同じことです。
 さらにワープロなどを扱い慣れない人には操作が難しいと感じられること。これは大きい欠点です。

 今話題のインターネットを介せば世界中に市内電話料金と1分あたり10円くらいの使用料で文字と音声と絵が送れます(使用料は契約した会社によって異なります)。
 これはまさに情報伝達の革命でしょう。音声言語と文字言語の区別はもはや無く、盲人にもパソコンは操ることができるため、点字に頼らない伝達手段を獲得したことになります。身体障害者も体の一部がかすかに意のまま動くならパソコンを使用できます。体が不自由でもパソコンを通して身体感覚として世界につながることが可能で
す。彼らの世界がどれだけ大きくなることか。

 さまざまな制約を取り払ったのは科学技術の成果です。しかし、見方をかえると、パソコンと言えども口から発生される音声や一本の鉛筆と同じこと。中身は複雑な機械ですが、使い慣れれば人格化した単純な道具です。自動車を我が身の様に操るのと同じく、パソコンをわが頭脳のように操るのです。

 どう使うかは一人一人の問題です。よく言われるようにパソコンで何ができるかでなく、パソコンで何をするかが大切。おなじく電子メールが何になるのかではなく、電子メールで何をするのか、自分の人生にいかなる価値を付加したいのか・・・これが問題ですね。

 一本の鉛筆で遊べない人はパソコンでもやっぱり遊べないのかも知れません。しかし、原始的な情報伝達を先人の努力によって今日の形式まで発展させた歴史を重んじて、たとえ市井の片隅に生息しているだけのわたしですが、一市民として多少なりとも21世紀の懸け橋になる生き方をしたいものです。そのためにインターネットや電子
メールも人類が獲得した情報伝達手段として上手に利用していきたいのです。
 今月はそのための自分自身の稚拙な情報論でした。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No88「体に良い?悪い?」

三島治療室便り'97,4,1

 

《游々雑感》

体に良い?悪い?

 時代の先端情報を身近な商品などで紹介する人気雑誌DIME(小学館発行)におもしろい記事が掲載されていました。無断で引用してしまいましょう。

“抗ガン”日常食品リスト
DIME 4/3 1997より要約引用

 「アメリカでは、ガン抑制に効果があると認められた食品に、“ガンのリスクが低減する効果を持つ”というラベルを付けての販売が許されています」(京都府立医科大学教授・西野輔翼氏)
 抑制効果のある食品を食べることが、ガン予防につながるという考え方だ。(中略)
ただし、過信は禁物。
 「どの研究も立証されていないので、ある種類の食品ばかりを食べるのはむしろ危険です」(前出・西野氏)
 バランスを考えた上で、多くの食品群を品をかえて食べることが大前提だ。
 「日本が世界でも際だつ長寿国となったのは、和食を組み合わせた多様な食生活があったからだと思います」(北里大学衛生学部教授・山本一郎氏)

というコメントとともに次の身近な食品がガン抑制作用があると紹介されていました。


コーヒー(口腔・大腸・膀胱・すい臓ガン)
 コーヒー豆に含まれるクロロゲン酸やカテキンがガン抑制。焙煎で壊れるのでコーヒー中には微量。コーヒーには他に100種類以上の善玉物質。
昆布(結腸・胃ガン)
 アルギン酸などの食物繊維。ビタミン、ミネラル、カロチンを多く含む。フコイダンという物質に強い制ガン作用。動脈硬化の予防。

トマト(肝臓・大腸・前立腺ガン)
 赤い色素リコピンはβカロチンより強い制ガン作用。成人病や痴呆症の予防。

きのこ類(部位未特定)
 食物繊維が多い。ノンカロリー。しめじには抗酸化物質があり強い制ガン作用。

みそ(胃・大腸・肝臓ガン)
 フラボノイドが肝臓ガンに効果的。胃や大腸でもガンの発生を抑制。減塩が良い。


カレー(ターメリック)(皮膚・胃・大腸ガン)
 ターメリックという黄色いスパイスのクルクミンがガン抑制。タクアンにもある。


ビール(部位未特定)
 ホップにガン予防効果が予想される。動物実験の前段階だからこれからの研究を待つが仮定的に効果が期待される。

魚(大腸ガン)
 頭が良くなると評判のDHAにガン予防作用。

バナナ(部位未特定)
 マウス(ねずみ)の実験では白血球を強くし免疫力を高める。ビタミンC多い。

緑茶(大腸・肺・すい臓・胃ガン)
 渋味のカテキンに制ガン作用。食べた方が効果的。

解説
魚のコゲやワラビ・ゼンマイなどに含まれる物質で発ガン物質と称されるものの多くが、一生どころか七生かかっても食べ切れない量を短期間に実験動物の胃袋に無理やり押し込んでガンを作り上げたものです。
 ワラビや魚のコゲにも発ガン物質があるという研究は、食品添加物の発ガン性が騒がれたとき、自然物にも発ガン物質はあるのだという研究結果が欲しかったさる筋のためになされたという説もありますがこれは風説でしょう。

 魚などのタンパク質のおこげを怖がる必要のないことは講談社の科学新書シリーズ・ブルーバックス「人はなぜがんになるのか(永田親義)」に詳しく書かれていますから興味のある方はどうぞ。永田先生はノーベル賞の福井謙一博士の弟子で元国立がんセンター生物物理部長。タバコの害がニコチンでなく過酸化水素であることを確認したことで知られています。

 科学は作為的に状況を操作することで意図的な結果を生み出すことも可能という怖い側面は否めません。その結果だけを取り上げてゼンマイやワラビは「危険!危険!」と騒いでいてもしょうがありません。少なくとも直接死にむすびつくお餅やフグよりは安全でしょう。それだからといって誰もフグやお餅を食べるのは止めません。
 それと同様に制ガン物質もどの程度の現実的効果があるのかは不明ですからこのレポートを読んで一喜一憂しないでください。
 食事はおいしくいただくに限ります。これらの制ガン物質の存在は少なくともコーヒーやビールを健康に悪いと恐る恐る飲んでいる人にとっては朗報でしょう。

 動脈硬化や肺ガン、喉頭ガン、心臓病などの原因として悪の権化のように言われるタバコでも、パーキンソン病、潰瘍性大腸炎、アルツハイマー病などには吸わない人よりかかりにくいという報告があります。それはどうもニコチンの作用のようです。

 「俺はヘビースモーカーなのにパーキンソン病に罹った」
と新聞に連載していた老いを楽しんでいる風体の作家山田風太郎のケースもありますから、どうなるのかははっきりわかりません。
 タバコは案外ストレス発散に役立っているのかも知れませんが、体に悪いと思いながら吸ってはかえってストレスの元ですからつまらないですね。ただし、わたしは吸いませんから近くで吸われると煙くて閉口します。そういう時は「タバコは吸ってもかまいませんから、どうぞ吐かないでください」
とやんわりとお願いしていますが。

 今時の研究ではその人の遺伝子の中に、諸悪の根源(体を酸化=老化させたり、遺伝子情報を狂わせてガンを作る)である活性酸素を除去する酵素を作る能力が決まっていると言います。ですから、その能力の強い人はタバコをスパスパ楽しみながら長生きできるが、活性酸素除去酵素の生産能力の弱い人は健康に気を使ってタバコに限らず体に悪いと言うものをことごとく排除しても病気になってしまうとされています。

 活性酸素の除去を行うのは体内で生産される酵素だけでなく、食べ物の中のビタミンやミネラルその他の微量な物質と言うことも分かってきています。漢方薬の研究もこの方向からされているそうです。
 しかし食べ物は栄養素だけの問題ではありません。同じ栄養価のものを食べるにしても、家族団欒で楽しく美味しく食べるとの、一人わびしく食べたり、親から試験の成績をなじられながら食べたりするのでは吸収に大きな変化もでてきますから、食べ物の中の物質だけにきゅうきゅうとするのは大いに考え物です。

 アルツハイマーにアルミが悪いと脅して高いステンレスの鍋を売り付けるマルチまがい商法がありますが、胃薬や頭痛薬には確実に脳に到達するアルミニウムが含まれていますから、こちらを注意した方が良いとも言われます。常用している方は薬のラベルをよく見てください。

 いずれにしても情報は大切ですが情報に飲み込まれないことはもっと大切・・・と言いながらこういう怪しい情報を毎月印刷して無理やり押し付ける《游氣風信》て何でしょうね。困ったものです。

 ここまで書いたとき、全く偶然ですが最近の日経新聞によると酒の常用も体に良いとの記事が載っていました。
 フランスの研究グループが、一日グラス3・4杯のワインの常飲者はアルツハイマーに罹る率が全く飲まない人の4分の1だという発表をしたのです。今後その他のアルコールとの比較をするそうです(1997/3/25夕刊)。
 研究者グループがワインの名産地にあるボルドー大学というのはちょっと気になるところですが愛飲家には大っぴらに飲む口実ができてうれしい報告ですね。さらに普通の痴呆症の発生率も5分の1だとか。
 タバコやアルコールも一方的な悪役から脱却しつつあるようです。わたしはお酒はたまに飲む程度ですからワインの恩寵にあずかることはないでしょう。

 以前、学者先生諸氏は発ガン物質を暴き出すのに一生懸命でしたが、最近は制ガン物質の発見に忙しそうです。その方がずっと夢はありますね。
 先のボルドーの学者さん曰く
「適度の飲酒を習慣としている高齢者に、酒をやめなさいという医学的な根拠も無い」

判断はこちらに投げられた訳です。

ホームページ

 千葉県の鍼灸師酒井茂一さんはコンピューターに詳しいことで知られています。鍼灸の治療およびカルテの整理にコンピューターをフルに利用し、カルテ管理のためのソフトまで作ってしまうという専門家。アメリカの権威ある雑誌ニューズウイークに大きく紹介されたこともあります。
 酒井さんはインターネットに鍼灸のすばらしいホームページを公開していますが、わたしのためにもホームページを作ってくださるということです。ありがたい。そこで自己PRの文章を考えたのが次のものです。そのまま載るだけのスペースがあるか皆目分かりませんがとりあえず文案を紹介しましょう。

三島治療室のご案内

心ゆくまで楽しみながら暮らしたい。
幸せで長生きしたい。
生き甲斐のある人生を送りたい。
        ・・・それが多くの人の素朴な願いだと思います。

 わたしたちの暮らしは快適な環境(衣食住)と健やかで康らかな身体(こころとからだ)によって支えられています。わたしはその身体にとことんこだわってみたいと思い、東洋医療の仕事を選びました。

身体調整
  治療・・・身体の不調に苦しむ人
  養生・・・日ごろの体調を維持したい人
  鍛練・・・よりパワフルな行動力を求める人

 三島治療室では、治療・養生・鍛練の三者を統合した身体調整を、「氣」に基づく東洋的な身体観と合理主義による西洋的な科学の成果のもとに、鍼・灸・指圧・分子栄養学という技法で実現しようと努力しています。

 鍼灸などの東洋医療は古臭い、非科学的な時代遅れのものと思われるかもしれません。確かに、医療の現場では薬剤と手術が華々しく活躍しています。
 しかし、細菌による病気が医学の進歩と社会インフラの整備からほとんど駆逐された今だからこそ、かえって身体のちょっとした不調がクローズアップされてきました。さらにそこに追い打ちをかけるような仕事の複雑化と人間関係の多様化。硬直し無気質化した社会・・・。
 現代社会に生きる人として宿命的な心身の異常や違和感、疲弊や硬直に対して術者と患者が一体となって手を携えるようにバランスを回復し〈癒す〉のが東洋医療です。

 こうした理由から鍼灸・指圧は、今日、新たな使命を取り戻したと言っても過言ではありません。

 ちょっと考えてみて下さい。
 病院で治療の主力となる薬・手術と、東洋医療の代表的な鍼灸・指圧とでは外見的な療方法は全く異なります。しかし身体の中で“治ろう”とする生命力自体(自然治癒力)は等しく共通のものであるはずです。外見的な方法の差異にこだわって、身体の中で燃えさかる命そのものを見ないのは残念なことでしょう。命そのものを直視
する・・それが鍼灸に代表される東洋医療なのです。

 一刻を争う病気や怪我はそのための最適の方法に委ねるべきですが、そうでない症状はぜひ一度、身体全体の調整をしながら環境に和し、自然治癒力に任せる東洋医療をお試しになることを強くお勧めします。

 「鍼は感染が怖いし、灸は跡がきたなくて嫌!」
という心配があります。しかしご安心ください。
 鍼は使い捨て。鍼も鍼皿も鍼管も毎回新しいものを使用し、指手の消毒に留意しますから衛生的な心配は全くありません。
 灸は跡が残らないよう工夫してあります。灸の嫌な人には代替法が用意されます。

《後記》

 地元中京大中京高校が甲子園で活躍しています。昨日の段階でベスト4決定。
 今池の小さな治療室を買ったばかりの頃、野球小僧の高橋源一郎少年はお母さんと一緒にやってきました。小学校の一年生位です。彼は突如わたしに向かって
「おじさん、キャッチして!」
と、ミカンを投げてきました。受け損ねたミカンは壁に当たり、しずくが飛び散り、ピカピカのマンションの資産価値を大きく損ねたのです。
 それから十年、源一郎少年はたくましい高校球児になりました。何回か身体調整にチームメイトを伴ってやって来ました。甲子園に出発するちょっと前にもやって来てチームメイトの痛みや疲労をとるためにとビタミンマッサージオイルをどっさり購入していったのです。
 中京大中京キャプテンとしてにこやかにプレーをする源一郎君を見て、ふとマンションの壁に目をやりましたら、まだかすかにシミらしきものが残っていました。
(游)

(この少年。その大会で準優勝。その後雌伏を経て平成22年秋から中京大中京高校野球部監督になっています)


| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No87「啓蟄」

三島治療室便り'97,3,1

 

≪游々雑感≫

啓蟄
 今年は三月五日が啓蟄(けいちつ)。
 啓蟄とは冬の間土にもぐっていた虫が春になって出てくること、すなわち冬の終わりから春の初めの暖かくなってきた時候を言います。
 蟄居ということばがあります。家に閉じこもって出てこないことです。自宅謹慎のことも昔は蟄居と称しました。蟄は元来虫が閉じこもるという意味なのでしょう。それが人にも使われるようになったと想像できます。

 啓蟄などという難しい言葉に出会ったとき重宝するのが辞書。とりわけ語彙の豊富さと内容の高さで評価されているのが広辞苑。さっそく当たってみましょう。

けい一ちつ[啓蟄]
(蟄虫、すなわち冬ごもりの虫がはい出る意) 二十四節気の一。太陽の黄経が三四五度の時で、陰暦二月の節(せつ)。太陽暦の三月六日前後。驚蟄。≪季・春≫

 とのこと。
 やれやれ、おわかりでしょうか。かえって難しい言葉が啓蟄の虫のようにぞろぞろ出てきてしまいました。驚蟄は冬籠もりしていた虫が驚いたというニュアンスが伝わってきますが。その他の言葉も順次広辞苑に当たるしかないようです。

 ではまず蟄虫とは如何。

ちっ一ちゅう[蟄虫]
冬季、地中にこもっている虫。太平記一八「春雷一たび動く時、蟄虫萌蘇する心地にて」
 さて、困りました。またもや難しい言葉がぞろぞろです。ふと、昔の忌まわしい記憶を思い起こしてしまいました。辞書を引きながら堂々巡りの迷路にはまったことを。
みなさんも経験がおありでしょう。
 
おとこ[男]
人間の性別の一つで、女でない方。

 ふざけるんじゃねえ!と言いたくなる説明ですよね。これ広辞苑です。別の辞書はもっとまっとうな説明でした。

おとこ
人間の性別の一つで妊娠させる能力を有する方。

こっちの方が理解しやすいかも。

 広辞苑で女を引くと

おんな[女]
人間の性別の一つで、子を産み得る器官をそなえている方。

でした。「人間の性別の一つで、男でない方」なんて書いてなくて安心しました。

 脇道に逸れたようです。辞書を引きながら堂々巡りの迷い道に入り込んだらどうしようかと心配していたのでした。しかし心配していても仕方ないので不明の言葉をつぎつぎやっつけて行きましょう。

 今度は萌蘇です。読みも怪しい。漢字からなんとなく意味は想像できますが・・・
さすがは広辞苑。ちゃんと載っていました。

ほう一そ[萌蘇]ハウ・・
木の芽が萌え出て蟄虫の蘇生すること。太平記一八「蟄虫萌蘇する心地にて」

 なるほど、春になって木の芽が萌え出てくる頃、冬の間土にこもっていた虫が蘇生してくるというのです。古人の季節感の味わい方が偲ばれます。

 啓蟄の説明で次に難しいのが二十四節気です。
 天気予報でときどき
「明日は二十四節気のひとつ雨水です」
とか
「今日は大寒。二十四節気のひとつで、一年中で最も寒さが厳しくなります」
などと紹介されます。

にじゅうし一せっき[二十四節気]・・ジフ・・
太陽年を太陽の黄経に従って二四当分して、季節を示すのに用いる語。中国伝来の語で、その等分点を立春・雨水などと名づける。二十四節。二十四季。節気。

 黄経がわからないと先に進めません。

こう一けい[黄経]クワウ・・
天球上の一点から黄道に下ろした大円の足を、春分点から測った角距離。赤経と同じく、春分点から東の方へ測る。

 こうなってくるとちょっと腹が立ってきました。この項目を書いた人はおよそ一般人に理解させようという気がないのでしょう。専門家ならこんな言葉は自明のこととして引く訳がないのです。一般人にこそ解るように書かねばならないのに。
 しかし誇り高き小市民としては専門家の暴挙に負けてはおれません。気を取り直して黄道の項目へひたすら歩むのみです。黄道は理科で習った記憶があります。

こう一どう[黄道]クワウダウ
[漢書天文志]地球から見て太陽が地球を中心に運行するように見える天球上の大円。
天の赤道に対して約二三度半傾斜する。黄道が赤道と交わる点は春分点・秋分点であ
る。

 いやあ驚きました。漢書の意味を調べましたらなんと西暦八二年に編纂されたものだそうです。そのころ日本は弥生時代。水稲耕作が大陸から伝わってきたころでしょうか。すでに中国では黄道などの天文学が成立していたのです。中国四千年の歴史畏るべしはラーメンだけではないのです。ちなみに卑弥呼はそれから百五十年も後の人なんですよ。卑弥呼の時代、中国は有名な三国志の頃。
 漢書はわたしの仕事、東洋医療の原典でもあります。漢方はここからきていますし、とりわけ漢書藝文志は大切なものとされています。

 話を戻しましょう。黄道は空の太陽の通り道。それが赤道と交差するときが春分と秋分ということです。ありがたいことに日本では祭日で学校や会社が休みになります。


せき一どう[赤道]・・ダウ(equator)
纊地球上の南北両極から九〇度を隔てた大圏。赤道上では、春分・秋分の頃、太陽は真上から照らす。また、緯度は赤道を基準として南北に測る。
褜天球上の想像線で、地球の赤道面と天球との交わりをなす大圏。

 赤道は地球の表面に描かれたウエストラインの様なものです。普通ウエストラインは胴で最もくびれた部分ですが、地球は肥満体ですから最も太くなります。それをさらにフラフープのように大きく拡張した円が想像上の赤道というのです。そこを実際に太陽の通り道である黄道との交差する点が春分・秋分となるようです。
 エクアドルという中米の国の名は赤道に由来しています。スペイン語で赤道の意味。
赤道の上にある国ということです。
 それにしても赤道と黄道のずれが23.5度であることが紀元前から解っていたというのですから人知はすばらしい、と同時に、2000年を経たこの時代に生まれてもよく理解できないというのは情けないような気もします。

 寄り道しながらも、広辞苑だけでどうやら少しずつ啓蟄の実態に迫ってくることができました。
 啓蟄は二十四節気の一つであること。陽暦の三月六日前後で今年は五日でした。
 二十四節気は地球から見た太陽の通り道を二十四に区切った点ということです。ということは月に二回づつあるわけです。
 その区切りの基準点は春分と秋分であること。それは想像上の赤道と太陽の実際の通り道の黄道の交差する点であることなどなど。

 では次に二十四節気の一覧表を調べてみましょう。ここでお世話になった広辞苑を離れて俳句歳時記の登場となります。なぜなら今使用中の広辞苑は本ではなく電子辞書で一覧表が省略してあるからです。

二十四節気一覧表
 一年は春夏秋冬の四季と各季節毎に六の節気があります。それで四×六の計二十四。

 一覧表だけではつまらないので主だった節気に俳句を添えましょう。

立春(二月五日ころ)
 立春の米こぼれをり葛西橋 波郷
雨水(二月二十日ころ)
啓蟄(三月六日ころ)
 啓蟄の蟻が早引く地虫かな 虚子
春分(三月二十一日ころ)
 春分のおどけ雀と目覚めたり 麦丘人
清明(四月五日ころ)
穀雨(四月二十日ころ)

立夏(五月五日ころ)
 滝おもて雲おし移る立夏かな 蛇笏
小満(五日二十一日ころ)
芒種(六月六日ころ)
夏至(六月二十一日ころ)
 夏至の夜の港に白き船数ふ 日郎
小暑(七月七日ころ)
大暑(七月二十三日ころ)
 玉の緒にすがりて耐ふる大暑かな 風生

立秋(八月八日ころ)
 かはたれの人影に秋立ちにけり 源義
処暑(八月二十三日ころ)
白露(九月八日ころ)
 島さらば白露凧上げ待ちきれず 欣一
秋分(九月二十三日ころ)
寒露(十月八日ころ)
 白鷺の畦につくばふ寒露かな 翠舟
霜降(十月二十四日ころ)

立冬(十一月八日ころ)
 音たてて立冬の道掃かれけり 稚魚
小雪(十一月二十三日ころ)
大雪(十二月八日ころ)
冬至(十二月二十二日ころ)
 海の日のありありしづむ冬至かな 万太郎
小寒(一月五日ころ)
大寒(一月二十一日ころ)
 大寒の一戸もかくれなき故郷 龍太

 二十四節気は数学的に時期を切り取ったにしては、いかにもその時候を示すぴったりの呼称がついています。天文学者の考察力のすばらしさと同時に、ネーミングの見事さ。昔は天文学者は詩人であったようですから、もし天文学者が名付けたとしても、それもむべなるかなとうなずくばかりです。

≪後記≫

 指圧教室に勉強にきているアメリカ人女性がたずねます。
 「アメリカでは鍼や指圧のよさが認められ、多くの人が治療を受けている。鍼や指圧を教える学校も増え、免許制度を施行している州もあるのに、どうして日本人はせっかくの伝統的な医療を活用しないのか。ひとつは宣伝不足ではないか。アメリカの鍼の学校などでは地道に雑誌や新聞を発行して啓蒙に努めているのに・・・」
 確かにそうです。
 鍼灸や指圧は厚生省の指定する鍼灸大学、鍼灸短大、専門学校や文部省管轄の盲学校で3年間以上学習してやっと国家試験の受験資格を得ることができます。国家試験に合格しても保健所に届けを出して開業条件を満たしているか調査され、その許可で初めて開業できるのです。そういう繁雑な手数を踏む割りには、国は鍼灸・指圧を医療類似行為と称してまともな医療とは認めてはいません(余談ながら無資格者はそれらの手順を一切踏むことなく簡単に開業して〇〇整体とか〇〇カイロプラクティック研究所と称して治療行為ができます)。

 こんな具合にお上からは疎んじられている鍼灸業界が細々と命脈を保ってこれたのは鍼灸の効果がそれなりに民間に評価されているからにほかならないでしょう(これは無資格者も同じです)。それで、アメリカ女性のきつい質問に応える意味もあって、今後≪游氣風信≫にときどきは鍼や灸や指圧でこんな効果がありましたよという報告も少し書こうかなと思います。今までは理由があって極力そうした内容は避けてきたのですが、微々たる読者しかない≪游氣風信≫でも細々たる鍼灸の命脈の血の一滴たりえて、多少は役に立つかもしれません。

 鍼灸・指圧は現代医学とは全く異なった医療体系の上に立っています。生命観も違います。背景がそうですから当然実技としての診断術や治療術もまるで違うものになるのです。 背景としての医療概論があり、それに基づく診断と技術がある点から鍼灸・指圧は単なる治療技術しかない民間療法とは次元が異なるのです。
 無論鍼灸・指圧は万能ではありません。極めて多くの弱点を持つものです。しかし、その弱点の多くは現代医療が担ってくれる今日こそ、鍼灸指圧などの東洋医療の力がより強く発揮されると強く思っています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No86「腰痛」

三島治療室便り'97,2,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://member.nifty.ne.jp/hmishima/

 

≪游々雑感≫
腰痛

 ≪游氣風信≫の昨年4月号にぎっくり腰のことを書きました。わたし自身がぎくっとやったとても苦い<体験>を、かっこよく言えば≪風信≫読者共有の<経験>として一般化するために文章にしたためたものです。
 ぎっくり腰の具体的な症状やヘルニアなどの重篤な腰痛との鑑別、自宅療法などについて詳細に分かりやすくまとめることで、少しでも読者の方々のお役に立てることになればという気持ちからでした。

 元来、わたしども医療職にある者に対して、患者さん側の人達は不死身という幻想を抱かれるようです。
「先生、どうして休まれたんですか。海外旅行にでも行かれたんですか」
「海外旅行なんて僕みたいな貧乏人にできるわけないでしょう。いやあ、実はぎくっとやりましてね。4日間寝ていたんですよ」
「まあ、ぎっくり腰!先生でもそんなことがあるんですか」
「当然ですよ。生身ですもの」
「言われてみればそうなんでしょうけどねえ・・・。でも何でしょう、体のことはよくご存じですから安心ですよね。だから4日で復帰できたんですよ」
「オホン。まあ、あの、その、一応仕事ですからね。鍼したり灸したり(窮したり)その辺はばっちりです。ハハハ」

 こうして果敢にも自らの苦難を普遍化し、些(いささ)かなりとも人類史に寄与しようと体験記を書いたわけです。ところが困ったことがありました。
 確かに去年の3月、小鳥のカゴを掃除していてぎっくり腰をやったんです。そのことを詳細に≪游氣風信≫に書き綴りました。4日休んだことも。そして仕事を再開したことも。しかしですよ。秋になっても
「その後腰の具合はいかがですか」
という便りが飛び込みます。年賀状にまで
「腰のほうは治りましたか」
と来ます。
 長岡京市在住の同業者Tさんは今年になって詳細なテーピングの方法をイラストつきで書いてよこしました。
「油断大敵」
と。
 ことほどさようにぎっくり腰はインパクトが強かったようです。と同時に一度伝わった情報がいかに根強く残るかということもよく分かりました。

 わたしはその時の文章にぎっくり腰になったときの教訓を「その1からその6」までを書きました。復唱しましょう。

  教訓その1 屈んだ姿勢で首を下に向けるべからず!
  教訓その2 ぎっくり腰になるときは疲労が溜まってなるべくしてなる状態にあるのだから、一度なったら当分再発に注意すべし!
  教訓その3 ぎっくり腰になったら入浴は禁忌!
  教訓その4 ぎっくり腰のあと、脚に強いしびれがあるときは、整形外科か神経内科で精密検査を!
  教訓その5 脚にしびれ、手にしびれがあるとき、背骨を強くひねる治療は絶対だめ!
  教訓その6 ぎっくり腰をやったらまず安静!

 ぎっくり腰はふつう最も怖くない腰痛のひとつですから安静と鍼灸・体操・テーピング・ビタミンアロママッサージで自己治療しました。誰でもできる家庭用の鍼灸(鍼はセイリン・ジュニア、灸はカマヤ・ミニやせんねん灸)やキネシオテープは全く知識も技術も持たない中学生の息子にしてもらったのです。ビタミンアロママッサージはマッサージ用のセラリキッドを塗るだけで筋肉の緊張を早く緩めてくれます。
 その後の日常生活で一番助かったのは骨盤ベルトでした。これで骨盤をしめておくと腰が安定し、重度障害の方を抱えて立たせたりするときも安心でした。コルセットのように腹筋にかからず、伸縮性も十分あるので着装感もよく、お勧めできます。(CMタイム 今紹介の商品は游氣の塾で好評発売中!)

 ずっと以前、≪游氣風信≫を始めてまだ間がないころ、肩凝りについて書いたことがありました。肩凝りの外因として疲労や姿勢、冷え、ストレス、栄養などがあり、内因として骨、骨格、筋肉、神経などの問題、それらの対処法についてまとめたものです。今手元にありませんから詳述できませんが、同業者のパソコン通信に乗せたと
ころ、本質的な肩凝り論ですばらしいと評してもらいました。

 腰痛も肩凝りもその他の疾患も、病気や傷害の状態と程度の理解と鑑別がとても重要です。それがあって初めて治療に取り掛かれます。治療の効果も最初の鑑別との変化によって判断できます。
 医療に限らず経営も学問も人付き合いも情報の収集が全てに先んじてありますね。
いやがおうでも飛び込んで来る情報もあれば、こちらから積極的に集めるものもあります。
 例えば、わたしの日常ではめったにないことなのですが、とても素敵な女性に会ったとします。
 素敵というのは顔立ちや髪形、姿勢、服装、声などの表面的なことと、会話や行為や表情などの内面が滲み出るもの、それらがごっちゃになって一挙に飛び込んで来るわけです。これらは向こうから来る情報ですね。
 次にもっと彼女のことを知ろうとこちらから情報収集を働きかけます。直接彼女に対して問いかけ、あるいはさりげなく聞き出し、時には第三者を通してからいろいろ
な情報を探ります。
 「歳は?誕生日は?血液型は?星座は?仕事は?家は?電話番号は?体重は?服や靴や指輪のサイズは?趣味は?好きな食べ物は?好きなタレントは?愛読書は?・・」

 好意を持った人に関してこうした情報を際限なく集めたくなるのが人の常でしょう。

 次に情報を整理統合してその人の理解を深めます。
 愛読書が夏目漱石か赤川次郎かトルストイかヘルマン・ヘッセかでその人の人間像がかなり見えてきます。同様に好きなタレントが豊川悦司か武田鉄也か久米弘かSMAPかウッチャンナンチャンか桂三枝が高倉健か・・こんなことも役に立つでしょうから馬鹿にできません。血液型や星座のような無益なものを喜んで判断基準にいれる
人もいます。いずれにしても多くの情報を整理統合し、価値あるものを取捨選択してその人を判断しようとするのです。
 次にどうやって関係を深めていくかという実践に移ります。
 宝石で攻めるか、それなら真珠かダイヤか。クラシックのコンサートに誘うか、それともフランス料理で落とすか。居酒屋で意表を突いて映画で泣かせるか。湾岸ドライブで酔わせてディズニランドで一気に攻略するか。最初から俳句の会に連れて行くなどという間違った選択は避けたいものです。
 
 医療はどうでしょう。医療現場ではまず患者さんからの情報を集めます。これを診察と言います。古くは視診・問診・触診・打診・聴診など、今日では視診にX線やMRIやCTやエコーなどが加わり、血液や尿の臨床検査、心電図や細胞診など多岐にわたって進歩しています。
 漢方では四診と称して望・聞・問・切が伝わっています。「切」は親切や哀切に使われることから分かるように患者さんの心に切々たる思いで共感しながら切り込むように触ることです。
 次に診察によって集めた情報を医療者の知識や経験を医の体系に照らし合わせて整理し結論を導き出します。これを診断と呼びます。鼻水と熱と咳と寒気という情報から風邪という診断を下すのですね。
 診断が決まれば、それに適した技術を応用します。これを医療では治療と称します。

 つまり収集・整理・応用という原則が医療では診察・診断・治療となるのです。こうかんがえると医療もナンパも構造的には同じということになります。
 患者サイドだって情報によってかかる医療機関を選定していますよね。

 さて長々とした前口上はここらで切り上げて、ここで一冊の本を紹介いたします。
題名はずばり「腰痛」。正式なタイトルは「自分で治せる腰痛-10のタイプに16の治療法で-」。著者は現代民間医療懇話会主宰の吉田元さんと同会技術部長の桶沢万寿夫さん。東京の高田馬場で悠々亭という治療所を開いておられます。
 当然この本の内容が先の長々とした前口上にかかわってくるのです。端的に述べればこの本は腰痛の治療にチャートを応用し詳細に分類することで、誰でもが自己診断できること、腰痛の原因を予測し具体策が知らされ、こういう症状なら専門家に委ねるようにという自己判断ができるように工夫してあるのです。
 そのチャートはわたしが散々述べてきた情報の収集・整理・応用が縦横に組み合わせて一般の人から専門家まで広く利用できるようにしてあります。わたしの説明では平面的な流れとしか読み取れませんが、この本はそれらを立体的に駆使してあります。

 
 吉田元さんは以前わたしが参加していた治療家の勉強グループで学術的な面を主に研究しておられました。極めて論理的な人で、大学の研究者に向いているタイプです。
確かお父さんが大学の先生だとは聞いていましたが。どんなこともきちんと理詰めで考える人です。そのために膨大な資料を収集し、臨床データを蓄積し研究しておられたのです。
 その後、協賛者と現代民間医療懇話会を興して主宰、世界のいろいろな民間医療の研究を始められました。さらに精神障害者の社会復帰や独立という困難な運営業務をされています。
 共著の桶沢万寿夫さんとはお会いしたことはありませんが、吉田さんのよき協力者として専門誌に度々症例報告をされています。出身が国立工専ですから、ものの見方に工学的整合性と論理性がみられます。

 現代民間医療懇話会は民間医療・中国医学・インド医学・諸民族の伝承医療・現代医学の緒医療技術を、実践的・理論的に集約・統合することをめざしたグループで、会員は20数名。参加者は鍼灸師や指圧師に加えて医師・看護婦・助産婦・カイロプラクター・スポーツ医学関係者からなっています。地道な研究やそれらに基づく理論的考察が不得手なわたしは時々資料を送っていただくだけで本格的には参加していません。この本も贈っていただきました。

 「自分で治せる腰痛」という本の内容は実際に見ていただくにかぎります。従来のこうした本は、腰痛の原因を一元的に
 腰椎の組み合わせが悪い
 骨盤特に仙腸関節が原因
 股関節こそが全ての元凶
 すべたは氣にある
と言った具合にひとつの原因と言い切ることで素人にも明快に理解できるようにしてあります。しかし残念ながら牽強付会の感を拭えません。一面は真理ですからそれなりの効果は期待できますが、それゆえの危険も伴います。ここには収集・整理・応用の内の強引な整理とそれにもとづく応用だけがあります。

 あるいは
 この筋肉をマッサージすればよい
 このツボを刺激しなさい

 この体操を毎日繰り返しなさい
という具合に原因より治療法に比重をおいた本も多いのですが、これも一面の妥当性を認めるものの物足りなさを感じます。収集・整理・応用の応用だけだからです。

 整形外科医は整形外科の視点から、鍼灸師は鍼灸の視点から、カイロプラクターはカイロプラクティック(註)の視点で腰痛を解釈します。自家薬籠中に引き込んでしまうのです。
 (註:カイロプラクティックはアメリカ式脊椎矯正。米国では6年間の大学教育を必要とする医師免許に準ずる高い資格。日本でカイロプラクティックを名乗る人は無免許・無認可の人が多い。中には米国免許保有者もいるし、他の国家医療資格所持者もいる。カイロプラクティックや整体の人の多くは技のみを知り、医学を広く学んで
いない。しかし、そのことでかえって独善的な信念に長けファンを引き付ける。指圧やマッサージ、鍼や接骨院は三年間の学校教育と国家試験を経ないと標榜できないが、整体や日本のカイロプラクティックやその他の〇〇療法は短期の養成で開業可能をうたっている玉石混交の業界。既得権や職業選択の自由云々で法的規制が無いためあらゆる制約を受けない自由さがあり、何でも治せるという過大な新聞折込広告も可能。
有免許者は医師を含め広告に厳しい規制があるため広告は地味。日本はこうした法の網を潜る無資格業界を支援する国会議員団もある不思議な法治国家(放置国家?)。)


 多くの民間医療も現代医学も単なる経験主義の蓄積でしかありません。しかし、現代医学は科学的な考察すなわち再現性や客観性を医療の世界に持ち込むことで、効果の評価、安全性の確認、技術の蓄積・伝達法などを学問として成立しました。今日医療の中心足る所以です。
 吉田さんや桶沢さんは現代医学の成果を十分に活用し、なおかつそれを補うさまざまな民間伝承医療を誰もが正しく安全に用いることはできないかと研究してこられたのです。その一つの到達点(通過点?)が「自分で治せる腰痛」という本として日の目を見たのでしょう。

 この本では副題にあるように腰痛を10のタイプに分けてあります。
1 腰背部の筋肉・筋膜に問題がある。
2 腰椎間の関節や骨盤の関節に問題がある。
3 腰椎背面上の靭帯や棘間筋に傷害がある。
4 血液やリンパの流れなどに問題がある。
5 内臓の変調に付随して腰痛が生じている。
6 精神的なものが関係している。
7 脊髄神経の根部刺激症状がある。
8 腰椎に病変がある。
9 脊柱管が圧迫されている。
10 腰椎付近に腫瘍がある。

 著者たちはこの分類のうち1から6までを詳しく説明しています。本書の文を引くなら「1から6については、そのトラブルがどのように起きてきているのか、具体的な原因を推定することができます。そうすれば治療法や養生法の明確になります」ということだそうです。
 そして7から10は専門家に相談しながら対処することを勧めています。「しかし、7から10については、専門家に診てもらわなくては、はっきりとしたことはわかりません。相談しながら対処するのがよいでしょう」とあります。
 また1から6までのものでも症状によっては専門家に委ねることが説明してあります
が、この辺りが著者たちの視点の柔軟性を表しています。

 この本のもう一つの特徴、それは各医学・医術を整理統合するにあたって中国医学を応用していることです。曰く「腰の機能や組織を全体的に知るために西洋医学的見地を活用し、個人差が顕著な腰痛克服においては、中国医学の諸技術も、簡便なかたちで利用できるようにしました」、「腰痛の多くは、自分のタイプを知れば、家庭で
治せる。こう確信して書いた本書は、一面で腰痛克服のハウツー本のようでありながら、別の面では、中国医学と西洋医学の結合(中西医結合)を、新たに具体的に提案する書ともなっており、腰痛論としてばかりでなく医療論としても意義をもつと、ひそかに自負しています」
 これがこの本を強く推す所以です。筋肉の名前やツボになじみの無い方には読みにくい部分もあるでしょうが、著者たちの苦労を思ってぜひ読まれることを。注文は書店に。


自分で治せる腰痛-10のタイプに16の治療で-
現代民間医療懇話会主宰 吉田元
現代民間医療懇話会技術部長 桶沢万寿夫 共著
発行所 法研
定価1442円(本体1400円)
ISBN4-87954-161-3 C0077 P1442E

≪後記≫

 今日は建国記念の日。建国記念日とすると2月11日が建国の日であるという歴史的事実(神武天皇即位の日でしたか)を証明するものがないと反対があるので、「の」を入れてあるそうです。そうすれば成人の日と同じように単に日本の国の誕生を祝うための日ですと言えるからです。おもしろいですね。
 仕事が休みですから午前中に≪游氣風信≫本文を書き上げて午後から岩倉市制25周年市民コンサートにでかけます。ヴィオラ・ダ・ガンバとチェンバロのリサイタル。西洋古典の風に当たってきましょう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No84「モモと時間泥棒」

三島治療室便り'96,12,1

≪游々雑感≫

モモと時間泥棒

 今年もいよいよ最後の月になりました。
 年々歳々時の流れが加速するとは万人共通の感慨のようですが、わたしの俳句仲間が次のような俳句を作りました。

  やり足らぬもうやり切れぬ十二月 小谷隆子

 「やらなければならなくてもできなかったこと、やりたくてもできなかったことが一杯ある。しかし、あれよあれよというまに月日がながれ、今年ももう十二月。ああ、わたしには時間がない。毎年同じことの繰り返し」
という押し迫った師走の感慨を上手に、俳諧的にまとめられました。

 時間の流れにうまく乗って、生き生きとした生活を積み重ねることができるなら理想ですが、普通は時の流れに押し流されてぽろぽろとやり残したことをこぼしつつ一年が過ぎ十年が過ぎ歳月を浪費してしまうのが人生なのでしょうか。しかもわたしたちは歳月と共に大切な人も失っていきます。
 次のような知られた最近の俳句がそれを物語っています。

  船のやうに年逝く人をこぼしつつ 矢島渚男

 歳月はぽろぽろと人までもこぼしつつ過ぎてゆきます。地球丸という船の中には数々の人生が満載されているでしょう。年の移ろいを悠然と大海原を航行してゆく船にたとえられた点がすばらしい俳句です。

  去年今年貫く棒の如きもの 高浜虚子

と、いう極めて有名な句をご存じでしょう。
 去年今年(こぞことし)はちょうど紅白歌合戦が終わって、「ゆく年くる年」が始まり、全国各地のお寺の除夜の鐘を聞いているうちに時報が午前0時を打ち、アナウンスが
「皆様、明けましておめでとうございます。本年が良い年でありますように」
と言うころを表す季語です。

 虚子の句は、去年から今年へと時間が移り行く、しかしそれは単なる一本の棒のようなものだという醒めた感慨。年が過ぎてゆくという事実そのものを客観視して、そこにいっさいの感傷を排しています。
 確かに、一年とは地球が太陽を一回りすることであり、その円周上の任意の点を昔々の人が一月一日と定めただけであって、地球がくるくると365回転しながら太陽を一周して元の場所に戻っただけのことですから、そのことにたいした意味はないのです。ただし、太陽も動いていますから、太陽から見て元の位置であって、宇宙的視野
に立てば大移動しています。

 ですから暦のない世界観なら年が変わることも貫く棒の如しなのでしょう。そこでは時間はまったく同じテンポで時計のまま刻むように流れているはずです。しかし、人間の心の中に流れる時間は主観とともに不規則に過ぎてゆくところはおもしろいですね。

 「人生とは、君ねえ。畢竟、時間なんだよ」
 こんな台詞を何かで読んだのですが、人生は空間と時間の中に存在している人間のみが意識できるものです。動物や植物は空間と時間を共に有しているに違いありませんが、そこに「人生」を意識することはないでしょう。人生とは畢竟いのちと時間(空間も含む)の解け合ったものに違いありません。

 二年前に帰国したカナダ人女性がいみじくもいっていました。
 「男の女の違い?そんなの簡単。買い物をするときね、女は一円を惜しむけど、男は一分を惜しむのよ。そんなところかしら。多分カナダの女性も日本の女性も一緒よ。人生は時間なのに惜しいわよね。」
 男のほうが寿命が短いですから買い物なんぞに時間を浪費するゆとりが少ないのが一分を惜しむ本当の理由なのだとわたしは思いますが、洋の東西にかかわらず女性の買い物時間は長いようです。
 もっとも男が女性を口説くときは一円も一分も両方とも惜しまないとは思うのですが、わたしは口説かれたことこそあれ、自分から女性を口説いたことがないので分かりません。
 しかし時間に追われる人生はどこか歪です。

   「おれの人生はこうしてすぎていくのか。」
  と彼は考えました。

   「はさみと、おしゃべりと、せっけんの泡の人生だ。おれはいったい生きてい
  てなんになった?死んでしまえば、まるでおれなんぞもともといなかったみたい
  に、人にわすれられてしまうんだ。」

 床屋のフージー氏は考えます。

   「おれだって、もしちゃんとしたくらしができていたら、いまとはぜんぜんち
  がう人間になっていたろうになあ!」

   「そんなくらしをするには、おれの仕事じゃ時間のゆとりがなさすぎる。ちゃ
  んとしたくらしは、ひまのある人間じゃなきゃできないんだ。ところがおれとき
  たら、一生のあいだ、はさみとおしゃべりとせっけんの泡にしばられっぱなしだ」

 フージー氏のはさみを鍼に、せっけんを消毒綿に置き換えればまさしくわたしの人生です。おそらくすべての人がおのおののモノに置き換えることが可能でしょう。
 そんなフージー氏のところにしゃれた灰色の自動車に乗った灰色ずくめのセールスマンがやってきます。
 お気づきの方もおられでしょう。これは世界的なロングセラーで映画にもなったドイツの作家ミヒャエル・エンデの「モモ」の一説です。
 灰色ずくめのセールスマンはフージー氏に時間貯蓄銀行に時間を預ければ利子を払うと言います。

   「もしあなたが二十年前に一日わずか二時間の倹約を始めていたら、六十二歳
  のときには、つまりぜんぶで四十年たっていますからね、それまでに倹約した時
  間の二百五十六倍になるはずです。そうすると、二百六十九億一千七十二万秒に
  なります。」

 こうした巧妙なセールストークの詐術に取り込まれて時間を銀行に預けてしまった床屋のフージー氏はどうなったでしょうか。

   彼はだんだんとおこりっぽい、落ちつきのない人になってきました。というの
  は、ひとつ、ふに落ちないことがあるんです。彼が倹約した時間は、じっさい、
  彼の手もとにはひとつものこりませんでした。魔法のようにあとかたもなく消え
  てなくなってしまうのです。彼の一日一日は、はじめはそれとわからないほど、
  けれどしだいにはっきりと、みじかくなってゆきました。あっというまに一週間
  たち、ひと月たち、一年たち、また一年、また一年と時が飛びさってゆきます。

   ほんとうなら、いったいじぶんの時間がどうしてこうも少なくなったのか、し
  んけんに疑問にしていいはずでした。けれどこういう疑問は、ほかの時間貯蓄家
  とどうよう、彼もぜんぜん感じませんでした。もののけにとりつかれて、盲目に
  なってしまったのもおなじです。そして、毎日毎日がますますはやくすぎてゆく
  のに気がついて愕然とすることがあっても、そうするとますます死にものぐるい
  で時間を倹約するようになるだけでした。
   フージー氏とおなじことが、すでに大都会のおおぜいの人に起こっていました。
  そして、いわゆる「時間節約」をはじめる人の数は日ごとにふえてゆきました。

 「モモ」の作者エンデが何を書こうとしたかったのかがはっきりしている場面です。

 わたしたちは時間を節約するために文明の利器をどんどんとりこみ、あげくの果てそれらの器械につかわれて一年一年をあっというまに過ごしているのです。エンデは次のように言います。

   毎日、毎日、ラジオもテレビも新聞も、時間のかからない新しい文明の利器の
  よさを強調し、ほめたたえました。こういう文明の利器こそ、人間が将来「ほん
  とうの生活」ができるようになるための時間のゆとりを生んでくれる、というの
  です。

 文明の利器でなくても、将来を憂い、過去を悔いることが忙しい大人にとって時間は「いままさに目の前の時間」
ではなく、過去や未来の思いで薄められた希薄なものとなり、実感に乏しいまま浪費されているのではないでしょうか。
 本当の子どもは脚下照顧で生ききっていますから時間が濃密なのです。この話の主人公モモはまさにそんな少女でした。
 モモは浮浪児のような女の子ですが不思議な能力をもっています。それは人の話を聞くことができるのです。そんなことは当たり前ですって。そうではないのです。ただ人の話を聞くだけではありません。エンデはモモの役割を次のようにしています。

   モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうか
  んできます。モモがそういう考えを引き出すようなことを言ったり質問したりし
  た、というわけではないのです。彼女はただじっとすわって、注意ぶかく聞いて
  いるだけです。

   モモに話を聞いてもらっていると、どうしてよいかわからずに思いまよってい
  た人は、きゅうにじぶんの意志がはっきりしてきます。ひっこみ思案の人には、
  きゅうに目のまえがひらけ、勇気がでてきます。不幸な人、なやみのある人には、
  希望とあかるさがわいてきます。
   たとえば、こう考えている人がいたとします。おれの人生は失敗で、なんの意
  味もない、おれはなん千万もの人間のなかのケチな一人で、死んだところでこわ
  れたつぼとおなじだ、べつのつぼがすぐにおれの場所をふさぐだけさ、生きてい
  ようと死んでしまおうと、どうってちがいはありゃしない。
   この人がモモのところに出かけていって、その考えをうちあけたとします。す
  るとしゃべっているうちに、ふしぎなことにじぶんがまちがっていたことがわかっ
  てくるのです。いや、おれはおれなんだ、世界じゅうの人間の中で、おれという
  人間はひとりしかいない、だからおれはおれなりに、この世の中で大切な存在な
  んだ。
   こういうふうにモモは人の話が聞けたのです!

 まるでモモは理想のカウンセラーのようです。彼女に鍼ができたらすばらしい身体調整ができたに違いありません。

 「モモ」というストーリーは時間泥棒とモモが対決し、時間を取り返すというものです。そのさい、人の精神の奥底まで入っていくという極めて形而上学的な色彩の濃い物語なのです。一九七三年に発表されて以来、世界30数カ国に翻訳されてベストセラーかつロングセラーになっている名作。

 比較される昨年のベストセラー、ヨースタイン・ゴルデルの「ソフィーの世界」が哲学の歴史とファンタジーの織り合わさったような作品ならミヒャエル・エンデの「モモ」は精神の古里を尋ねるファンタジーです。ソフィーが人類の時間の流れならモモは深さと言っても良いでしょう。
 「モモ」に登場する精神の象徴としての「時間の花」はエンデ自らの精神的な体験から書かれたとも言われます。いわばふだんわたしたちが認識している身体や身体の中を満たしている魂と、他者との関係性の中に認識される精神的な交流(東洋では氣)。その象徴としての「時間の花」とそこに存在するマイスター・ホラというすべての根源のような人物。現実から精神世界へゆききできる妖精のようなモモ。この物語は時間という概念を主題に命の根幹に迫るものです。

 人は押し迫ったとき思索を深めます。戦前の若者が戦争と結核という障壁があるゆえに哲学書を読みあさったように、民主化のただ中に育った段階の世代が学生運動をしたように。
 年末という物理的な切迫感はわたしのようなのほほんおじさんにも思索の機会を与えてくれます。来年の正月は時間があればゆっくりモモを読み直そうかと思います。・
・・ああ、またしても時間があればですね。

≪後記≫

 本文に書いたように、「モモ」に登場する床屋のフージー氏ならずとも、一年が残り少なくなるとてのひらから取りこぼしたいろいろなものに気が向いてついつい思索的になるものです。そんな感慨にぴったりの月の別称が「師走」。十二月は忙しいので先生も走り回ると解釈されています。しかしこの説には 「とんでもない。教師は年がら年中忙しくて、なにも走り回るのは十二月だけではありませんよ。これは教師に対する偏見です」
と反論がでそうです。
 「師走」の「師」は法師。すなわちお坊さんのことです。ふだん悠然としている山寺の和尚さんでさえ走り回ると言われるとなるほどと思います。
 「いや、僧侶だって忙しくて年中走り回っている。世間が思っているほど暇ではない。それにみんなが週休二日の御時世に僧侶の休みは友引の日だけだ。教師だって隔週で土曜日が休みではないか。教師が夏休みで遊んでいるお盆休みは僧侶のかき入れ時だし、日曜祭日は法事だし・・・。師走には異議がある」
という反論は十分承知していますが、今回はあえて無視いたします。
 師走は忘年会などいろいろ忙しく、暴飲暴食の機会もあります。寒中風邪をこじらせないように注意して新しい年を迎えましょう。
(游)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No83「11月3日(宮沢賢治論) 職人(永六輔)」


《游々雑感》

十一月三日

 1931年(昭和6年)。今から65年前のこの年の9月18日、満州事変が勃発します。
 歴史の常としていかなることも突然起こった訳ではなく、それに先立って大陸では
  昭和3年6月4日の張作霖爆死事件
があり、後を追うように
  同年6月29日、治安維持法改正公布
  昭和5年11月14日、浜口首相狙撃
などの不穏な社会情勢と続いた果ての満州事変でした。
 翌年、追い打ちをかけるように
  昭和7年3月1日の満州国建国宣言
と泥沼の戦争へなだれ込んで行きます。
 年表を続けると
  昭和8年3月27日、国際連盟脱退
  昭和11年2月26日、青年将校によるクーデター、俗に言う2・26事件
  昭和16年10月18日、東條内閣成立
  同年12月8日、対米・英宣戦布告
ついに世界を相手に戦争を始めます
 そして
  昭和20年4月、米軍沖縄本島上陸
  同年8月6日、広島に原爆投下
  同年8月9日、長崎に原爆投下
  同年8月14日、ポツダム宣言受諾
  同年8月15日、敗戦の玉音放送
  同年9月2日、無条件降伏文書調印
となり、その後10年近く、敗戦による混迷からの復興で大変な苦労をして、今日にいたるのです。わたしは昭和28年の終わりに生まれていますからそうした苦労は直接は知りません。

 日本が戦争になだれ込んだ背景には関東大震災以来の経済不況や相次ぐ災害・冷害などの農村不況があり国民の不満が鬱積していました。その打開策のひとつとして大陸に触手を伸ばしたとは多くの識者が唱えるところです。
 さて歴史のおさらいはここまで。

 満州事変の起きた昭和6年の11月3日。ある無名詩人でアマチュア童話作家が病床にあって日記を手帳に書き付けます。この日記は詩の体裁をしていましたから、あとあと詩人が著名になったとき、作品として世の評価をまともに受けることになります。
一般によく知られた宮沢賢治の「雨ニモマケズ」のことです。

 全文は意外と知られていないので30行と長いですが紹介します。

「雨ニモマケズ」
         宮沢賢治

  雨ニモマケズ
  風ニモマケズ
  雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
  丈夫ナカラダヲモチ
  慾ハナク
  決シテ瞋ラズ
  イツモシヅカニワラツテヰル
  一日ニ玄米四合ト
  味噌ト少シノ野菜ヲタベ
  アラユルコトヲ
  ジブンヲカンジヨウニ入レズニ
  ヨクミキキシワカリ
  ソシテワスレズ
  野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
  小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
  東ニ病気ノコドモアレバ
  行ツテ看病シテヤリ
  西ニツカレタ母アレバ
  行ツテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
  南ニ死ニサウナ人アレバ
  行ツテコハガラナクテモイヽトイヒ
  北ニケンクワヤソシヨウガアレバ
  ツマラナイカラヤメロトイヒ
  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
  ミンナニデクノボートヨバレ
  ホメラレモセズ
  クニモサレズ
  サウイウモノニ
  ワタシハナリタイ

 「雨ニモマケズ」という題は便宜上つけられたものです。原文のままではカタカナと文語で読みにくいでしょうから、本来はいけないことですが漢字を交えて現代語に訳します。

雨にも負けず風にも負けず、雪にも夏の暑さにも負けぬ丈夫な体を持ち、
欲は無く、決して怒らず、いつも静かに笑っている。
一日に玄米四合と味噌と少しの野菜を食べ、
あらゆることを自分を勘定に入れずによく見聞きし、分かり、そして忘れず、
野原の松の林の蔭の小さな萱葺きの小屋に居て
東に病気の子供あれば、行って看病してやり
西に疲れた母あれば、行ってその稲の束を負い
南に死にそうな人あれば、行って恐がらなくてもいいと言い
北に喧嘩や訴訟があれば、つまらないから止めろと言い
日照りの時は涙を流し、寒さの夏はおろおろ歩き、
みんなにでくの坊と呼ばれ、誉められもせず、苦にもされず、
そういう者に私は成りたい。

 この詩句は後にいろいろな読まれ方をします。その代表が詩人中村稔と哲学者谷川徹三(詩人谷川俊太郎の父)の論争でしょう。
 中公文庫「年譜宮沢賢治(堀尾青史)」から引用します。

   中村稔は、この詩は賢治のあらゆる著作の中でもっとも、とるにたらぬ作品の
  ひとつといい、(中略)賢治がふと書き落とした過失のように思われる。だが、
  ある異常な感動をさそうもののあることも否定はしない。特に「ヒデリノトキハ
  ナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ」のフレーズは、もっとも個性
  的であり心をうたれるという。
   谷川徹三は、この詩は明治以来の日本人の作った凡ゆる詩の中で、最高の詩で
  あるという。もっと美しい詩、もっと深い詩というものはあるかもしれない。し
  かし精神の高さに於いて、これに比べ得る詩を私は知らないと断言する。

 このように意見が極端に対立しています。それに結末をつけた中島健蔵のことばを前掲書から

   中村稔のことばをまともに受けるとすればとんでもない思い上がりで(中略)
  谷川徹三の意見の中にも、ひいきの引き倒しがあると感じる。一ばん大切なこと
  は、賢治の文学の全体の中で、この詩は、彼が死を前にした病床の中で書いたも
  のだ、という事実をよく理解することである。これがギリギリの悲願であること
  はたしかである。同時にこれが賢治の極限でもあるが限界でもあるというのがわ
  たくしの考えである。

 まず常識的な線だと思います。

 「雨ニモマケズ」は今日研究者の間で分類上「雨ニモマケズ手帳」と呼ばれる手帳に書かれており、この手帳は賢治の死後トランクの中から発見されたものでした。その前後に書かれたことばを紹介しましょう。日付は賢治自身によるものです。

 10月20日
  この夜半おどろきさめ/耳をすまして西の階下を聴けば/ああまたあの児が咳しては無き/また咳しては泣いて居ります(以下略)

 床に伏せる賢治のために暖かい日の当たる部屋を与え、妹夫婦は寒い部屋に移りました。その部屋でいたいけない3歳の少女が夜間咳き込んでいるのを聞き付けて、自分に部屋を譲ったばかりに少女に風邪を引かせて申し訳ないという思いを詩に表してあるのです。この詩は最後

  たゞかの病かの痛苦をば/私にうつし賜はらんこと

と終わっています。

 10月28日
  快楽もほしからず/名もほしからず/いまはただ/下賎の廢躯を/法華経に捧げ
  奉りて/一塵をも点じ/許されては/父母の下僕となりて/その億千の恩にも酬
  へ得ん/病苦必死のねがひ/この外になし

 10月29日
  疾すでに治するに近し/(略)/不徳の思想/目前の快楽/つまらぬ見掛け/ 
 (略)/自欺的なる行動に寸毫も委するなく/厳に日課を定め/法を先とし/父母
  を次とし/近縁を三とし/農村を最後の目標として/只猛進せよ/快楽を同じく
  する友/尽く之を遊離せよ

 両日とも両親への感謝と賢治が熱心に信仰していた法華経への思いを述べています。
とりわけ29日の詩からは農村への思いも記してあって「雨ニモマケズ」への関連を読
み取らざるを得ません。そして手帳は11月3日の「雨ニモマケズ」へと続くのです。

 もう少し溯りましょう。なぜ賢治はこうまで弱気に読み方によっては遺書のような
詩を書き連ねていたのでしょう。実は実際にその二カ月前、遺書を書いているのです。

 当時賢治は東北砕石工場という肥料工場に勤務し、農学の知識を利用して土壌改良
のための石灰を売り回っていました。商品見本を持って仙台を経て上京した際、電車
中でひどい熱が出て、死を決意したのです。それは9月20日のことです。
 早朝4時、仙台を発った列車の中でぐっすり眠り込んだ賢治は向かい側の窓が開け
放されていたため、上野に着いたときはひどい発熱と頭痛などで苦しんだのでした。
翌9月21日、両親にはがきを書きす。

   この一生の間どんな子供も受けないような厚いご恩をいたゞきながら、いつも
  我慢でお心に背きたうとうこんなことになりました。今生で万分の一もつひにお
  返しできませんでしたご恩はきつと次の生、又その次の生でご報じいたしたいと
  それのみを念願いたします。 どうかご信仰といふのではなくてもお題目で私を
  お呼びだしください。そのお題目でたえずおわび申しあげお答へいたします。
   九月廿一日
              賢治
  父上様
  母上様

   たうとう一生何ひとつお役に立たずご心配ご迷惑ばかり掛けてしまひました。
  どうかこの我儘者をお赦しください。
  清六様
  しげ様
  主計様
  くに様

 賢治が肥料会社のセールスマンをしていたことに驚かれる人が多いと思います。裕福な家に生まれた賢治は自分の家が農民からの搾取(小作料や質屋・古着屋)で潤っていることを知って大きな矛盾を感じました。盛岡高等農林学校を卒業した後、花巻農学校の教師になり、農民とのかかわりを深めると、退職後、羅須地人協会という私塾を起こし、農村青年に農芸化学や芸術などを説き、厳しい農村生活を少しでも豊かに、実りある、人間的なものにしようと努力たのでした。

 農学の知識を生かして農民のための肥料設計なども精力的におこなったのです。しかし、冒頭に述べたような時代背景でした。こうした集まりは弾圧される時代だったのです。賢治は自分や仲間に害が及ぶ前に羅須地人協会を解散しました。賢治三十才の頃です
 その後、あるきっかけで昭和6年3月から東北砕石工場の嘱託となり、石灰のセールスをすることになったのですが、それは学生のときに結核を患った賢治には苛酷な労働だったのでしょう。ついに結核を再発することになったのです。
 9月21日のはがきで両親に宛てた遺書が賢治と病苦との戦いの序章です。
 9月27日、賢治は東京から岩手県花巻の父のもとへ電話をかけます。

  「もう私も終わりと思います。それで最後におとうさんのお声がききたくなりま
   した」

 驚いた父の厳命と東京の知人の尽力で電車で花巻にもどり、そのまま病臥すること
になりました。今まで紹介した詩などはこの病床で書かれたものです。
 それから二年後の昭和8年くしくも東京で遺書を書いた日と同じ9月21日、永眠しま
す。満37歳でした。

 今年は賢治生誕百年。賢治には全く無関心の方にもその喧噪は届いたことでしょう。

 賢治の幻想的で清潔でさわやかで優しいイメージ。夢と希望にあふれているイーハトーブという架空の地名まで随分有名になりました。環境と人との調和の重大さを当時から考えていたとか、自然と共存した人だとか、弱者に対して菩薩のように慈悲深い人だったとか、断片的な情報は飛び回っています。

 しかし、昭和20年以前の東北の小作農民は稗(ひえ)を常食し、白米はめったに食べられなかったのです。賢治の生まれた明治29年、岩手県の三陸海岸では大津波による甚大な被害がでています。全国的に赤痢などが大流行し、東北では大地震がありました。冷害で米が採れないこともしょっちゅう。まだまだ自然に翻弄されていた時代なのです。

 大正ロマンやデモクラシーは地方まで及ばず、関東大震災頃からの日本列島は真っ暗な不安感と貧困と疲弊が覆い尽くしていたことも事実なのです。
 そんな時代を生きた一人が宮沢賢治でした。彼は素封家(大金持ち)に生まれながらその環境に甘んじる事なく人の苦悩を我がことのように感得できたのでしょう。

 人口に膾炙した「雨ニモマケズ」が、そういう人物の生涯の行き着いた果ての病床で書かれたことの意味を考えてみることも大切なのではないでしょうか。
 今年、生誕百年記念でそこまで掘り下げた企画には残念ながらわたしは行き当たりませんでした。小さくて真摯な会合は一杯あったことでしょうが、商業主義で大々的に催されれたものは、途中でもう、うんざりしてしまったというのが本当です。

 賢治の没後6年目、昭和14年2月9日に政府は国民精神総動員強化策を決定します。
翌月の3月7日、羽田書店刊「宮沢賢治名作選」が文部省推薦になっていますが、そこには時が時だけに不純さを感じない訳にはいきません。
 戦後、当局によって「雨ニモマケズ」の中の一説「一日ニ玄米四合ト」の四合が多すぎると改ざんされた歴史があるのです。しかも健康な体力と耐乏、仏教的諦観に彩られた詩句は戦争に向けて邁進していた為政者にとって魅力的であったに違いありません。

 賢治の人生の血と汗と祈りで書かれた「雨ニモマケズ」。手帳の中に密かに、ふとこぼした、ため息のような「雨ニモマケズ」。歴史の中で毀誉褒貶にもみくちゃにされてきた、いたいたしい作品でもあるのです。

参考図書
 「賢治精神」の実践[松田甚次郎の共働塾] 安藤玉治 農文協
 年譜宮澤賢治 堀尾青史 中公文庫
 年表作家読本 宮沢賢治 河出書房新社

《後記》

 永六輔さんの「職人(岩波新書)」がおもしろい。これは岩波新書の「大往生」

「二度目の大往生」に続く語録集になります。既刊の「普通人名語録」や「一般人名語録(共に講談社文庫)」などから題にふさわしい名語録を集めたという点でも前二冊と同様です。
 以前、さる通販カタログに永さんによって職人言葉が一杯紹介してあり、これはいいぞと保存しておいたはずなのですが、いつのまにか資源ゴミとしてちり紙と交換されてしまった苦い過去がありました。今回はその暗い過去を払拭する本として喜んで拝読いたしました。
 ちょっと紹介します。
「人間〈出世したか〉〈しないか〉ではありません。〈いやしいか〉〈いやしくないか〉ですね」
「田舎の人は木に詳しいから伐り倒す。都会の人は木を知らないけど守りたがる」

 寒さに向かいます。ご自愛を。
(游)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No82「キノコの話」

三島治療室便り'96,10,1

 《游々雑感》

キノコの話

 十月はキノコの季節です。漢字では茸とか菌・蕈などと書きます。意味としては木の子でしょう。茸は形が耳に似ているところからできた漢字に違いありません。中華料理でおなじみのキクラゲなどはずばり木耳と書くほど。この珍妙な形態の菌類は秋の味覚の代表者です。毒茸もというこわい奴もありますが。
 茸という字はクサカンムリになっています。しかし、キノコは植物ではありません。
植物は太陽と水と二酸化炭素があれば光合成によって有機化合物を自分で合成できる生き物です。それに対して動物や菌類は植物を食したり、寄生したりして生存しています。植物が無ければどちらも生存不可能なのです。したがって今日では生物を「植物」「動物」「菌類」の三つに分類する考えが一般的です。

 それにしてもキノコの王者松茸の値段は異常です。シイタケのように木に生えるキノコは養殖が可能ですが、松茸やシメジのように土に生えるキノコの養殖は今のところ不可能です。ですからシイタケやエノキタケ、マイタケのように安定供給はできません。
 ところが戦争中は松茸がいやというほど採れたと言います。また松茸かとうんざりしたとも聞きます。これはどうしたことでしょう。一説には昔は松林の下に溜まった松葉を広い集めたかまどにくべたので、常に松茸の生えやすい環境が保たれていたが、ガスが普及して松の木の下が荒れ放題になったために生えてこないと言われています。


 わたしが中学生だった昭和四十年中頃までは、母の実家の広島に存命の祖父が毎年秋になると松茸やクルミ、栗などを山ほど送ってくれたものでした。段ボールを開けると、松茸の湿った匂いが辺りに広がり、今なら何十万円分の松茸がごろごろ出てきたのです。その頃までは松茸が幾らなどと騒がなかったと思います。
 信じがたいことに母の実家には松茸山と称する固定資産があって、好きなだけ採れたのでした。今は時節柄、盗掘されているようです。
 家の裏口にはクルミの大木があってそれは大人でも抱えられない太さでした。夏休みに帰省したとき、まだ青いクルミの実をみて
「おじいちゃん。クルミが熟れたら送ってね」
「よしよし。このクルミの木はなんぼでも採れるんよ。それに他所のよりうまいけえね」
と約束したクルミもどっさり詰まっていました。

 キノコはその愉快な形態から童話にもよく登場します。

   一郎がまたすこし行きますと、一本のぶなの木のしたに、たくさんの白いきのこが、どってこどってこと、変な楽隊をやっていました。
   一郎はからだをかがめて、
   「おい、きのこ、やまねこが、ここを通らなかったかい」
  とききました。するときのこは、
   「やまねこなら、けさはやく、馬車で南の方へ飛んで行きましたよ」とこたえました。一郎は首をひねりました。
   「みなみならあっちの山のなかだ。おかしいな。まあもすこし行ってみよう。きのこ、ありがとう」
「どんぐりと山猫」 宮沢賢治より

 山猫からめんどうな裁判を手伝って欲しいというおかしな葉書を受け取った金田一郎少年が山猫に会うために森深く入って行く途中、キノコに道をたずねる場面です。
 「どってこどってこ」楽隊をやっているという例えは、実際に山に入って木の根元にずらっと並んだキノコを見たことがある人なら頷けると同時に「なるほど、楽隊とは言い得て妙」と感心されるのではないでしょうか。

  きっ、きっ、木好きの木之助さん

とキノコたちがおかしな歌を歌っている童話は、子供のころ読んだ「きのこ太夫」ですが、家中の本箱を引っ掻き回しても本が見つかりません。作者は誰だったか。巌谷小波だったか・・・他の作者だったか。これは草木が大好きな少年の冒険譚でした。

 木が大好きな木之助(正確な字は不明)少年は、大人から魔物が棲むから決して近づいてはいけないと言われた恐ろしい山に入り、東屋で眠ってしまいます。ところが気が付くと東屋と思ったのは巨大なキノコで、少年はキノコの傘に包まれてしまうのです。そこに先程のおかしな歌が聞こえてきて・・・というストーリーだったと思い
ます。
 キノコ達は草木を愛する木之助少年に向かって、土中に巣くい木の根や草の根を食い散らす性悪のオオナマズを退治して欲しいと懇願したのでした。格闘の末、見事オオナマズ(地震の主でもあります)をやっつけた木之助はお礼にいろいろな植物の種をもらい、それを家の庭に撒いたところ一年中、木の実や花などに不自由せず、近隣に鳴り響く大金持ちになりましたとさ。めでたし。めでたし。どっとはらい。という物語だったと記憶しています。
 この作者をご存じの方はご一報ください。

 外国にはキノコを栽培する蟻がいます。蟻がキノコを育てるとは初耳の方も多いでしょうが、以下の文を読んでいただけば納得できるはず。

   ハキリアリは葉っぱを切りとってきて、自分たちの地下街につみかさねる。 
 (中略)ある者はそれをもっと小さく噛みくだき、ある者はその材料で地下に苗床
  をつくりあげる。するとこの苗床にはある種の菌-ごく小さなキノコといって
  もよい-が生えてくるが、それをハキリアリは食糧にするのである。彼らはま
  ぎれもなくそのキノコを栽培するのだ。人間が畠の雑草をぬくように、べつの菌
  が生えてくるとそれをとりのぞく。自分の排泄物で畠にコヤシをやる。

どくとるマンボウ昆虫記「蟻は人類をおしのけるか」 北杜夫より

 千変万化の蟻の生活ぶりでも、これは白眉。アリマキ(アブラムシ)の乳を集める放牧型、生き物を襲う狩人型といろいろな蟻の形態がありますが、これは農耕型でしょうか。
 逆に生物に寄生して本体以上に目立つキノコもいます。水虫などはじくじくうるさい奴でも体の片隅に生息しているだけですが、菌が異常発達して本体の生存を怪しくさえするのです。同じく北杜夫の本から。

  蝉にとっつくのはセミタケで、蝉の幼虫の頭のほうからキノコのようなものがの びて地上へでる。昔から「冬草夏虫」とよばれ、不思議なものの一つとされてきた。
 地上には植物らしきものが生え、それを掘ってゆくと虫の姿となる。冬には虫で夏には草になるのであろうと考えられていた。
  むかしの中国では「冬虫夏草」を乾燥して薬用とした。肺の病い、腎臓の病い、その他いろいろな病気に効くのだそうである。もっともその姿はいかにも珍で、幽玄の気さえ漂っているから、病人たちも仰天して癒ってしまったのかもしれぬ。
どくとるマンボウ昆虫記「蝉の話」 北杜夫より

 冬虫夏草は今日でも貴重な中華料理の食材です。このスープはおいしいのですが、具としての美的性格には著しい問題があると考えます。冬虫夏草は制ガン効果や慢性病に対する価値が認められて近ごろ大人気の健康食品です。どくとるマンボウの文章からば昔から珍重されていたことが分かります。しかし、どくとるの唱える治療根拠は眉唾物。

 わたしが冬虫夏草のことを初めて知ったのは漫画史上に残る傑作劇画、白土三平の「サスケ」一連の作品だったと思います。木耳も確かそうです。このすぐれた劇画は学園紛争盛んな当時の学生のバイブル的存在だったそうですが、当時中学生だったわたし達にとっては単なるおもしろい忍者漫画に過ぎませんでした。

 漫画と言えば、NHKの大河ドラマ「秀吉」で活躍している竹中直人が監督・主演をして評判になった「無能の人」をご存じでしょうか。その原作者はつげ義春という寡作の異能漫画家で、彼に「初茸狩り」という詩情あふれる小品漫画があるのを思い出しました。
 おじいさんに明日初茸狩りに連れて行ってもらう約束をした幼い少年のうきうきした気分を、つげワールドと呼ばれる不思議な雰囲気で描いたものです。この味わいは絵が無いと紹介不可能。

 最後にキノコの俳句を幾つか紹介いたしましょう。

  秋もはや松茸飯のなごりかな   正岡子規
  在りし日の父の小膝やきのこ飯  石塚友二
  初茸を山浅く狩りて戻りけり   高浜虚子
  松茸の傘が見事と裏返す     京極杞陽
  人のこゑ雲と下りくる菌山    石原舟月

 どれも古い俳句です。
 キノコの雰囲気は時代を超えたなつかしさにあるような気もします。わたし達の周囲には自然や物、行事などの四時の巡りを感じさせる季節のものがあります。それを日本人は季語と呼んで昔からいとおしんできました。

 春の桜、秋の月、冬の雪を雪月花と称して季題はこの三つに尽きるとも言います。
それに加えて夏のほととぎすや秋の紅葉、冬の時雨などがとりわけ大切な季題として尊重されてきました。これらは実生活とは直接関係はありませんが、その時代時代の精神の息吹を保ちながら歴史の中を生き抜いてきた心の風物でもあります。往時の人達の心がこれらの季節のもの(季語)に託されて、その集積として季題と呼ばれるものになっているのです。
 目前の桜だけでなく、過去の人達が桜に寄せた思いも踏まえて今まさに目の前で散り急いでいる桜を愛でるという心の「遊び」を楽しんできたと言えるでしょう。

 キノコは秋の代表的な物として、何か暖かく、なつかしく、愉快だった少年の頃を彷彿とさせるものではありませんか。それは山野での思い出だけでなく、家族が囲んだ食卓の真ん中に湯気を立てていた母の心づくしのキノコ飯でもあります。
 松茸が一本一万円などという市場原理を超えて愛されるのもそんなところにあるのではないでしょうか。昨今はやりのテレビ番組「お宝鑑定団」のように、ものの価値を金額でしか評価できないのではあまりに寂しいことです。松茸の本質は市場原理を超えたところにあるのですから・・・それにしても子どもの頃のようにもう一度松茸
を腹一杯食いたいぞ!

《後記》

 今こうしてワープロを叩いている側で虫が鳴いています。ツヅレサセコオロギのリ、リ、リ、リという力強い鳴き声にクサヒバリのフィリリリという優しい音色が唱和して秋の深まりを感じさせてくれます。
 秋は一年で最も詩情を感じさせる季節。先日アメリカ人から「秋は僕の一番好きな季節。全てのものが色づいてくる」とそのむくつけき髭面からは想像もできないようなやさしい手紙が届きました。
 これから涼しさが寒さに向かいます。ビールの飲み過ぎは禁物の季節。飲みたい時が旨い時。おいしい量が適量。惰性で飲まないことが肝心です。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No81「うれしい便り」

三島治療室便り'96,9,1

≪游々雑感≫

うれしい便り

 三島治療室の頭に≪游氣の塾≫と冠してあります。いったいこれは何かと疑問をもたれる方もおありでしょう。

 地元の警察官が戸別訪問に来たとき、上目使いに
「いったいここは何の塾で、何をするところですか」
と、なにやら怪しい団体を疑ったようでしたが、応答に出たわたしの紅顔を見て、危険を感じなかったのかすぐに帰っていきました。

 「塾」とは「熟」と同類の言葉で、人間として成熟するための場所を意味します。
今の学習塾とは異なり、緒方洪庵の適塾(幕末期、種痘を行い、福沢諭吉などを育てた)や吉田松陰の松下村塾(幕末期、高杉晋作や伊藤博文などを輩出。佐久間象山は松陰の師)などが本筋になります。
新しいところでは松下政経塾でしょうか。

 今日でも国家を憂う青年を集めた〇〇塾がスピーカーで大声を出しながら公道を我が物顔で走っていますが、わたしのところはそんな国家を憂う塾ではありませんし、適塾のような立派なものでもありません。

 一般の学校は文部省によってプログラミングされたシステムに乗って教育をするところです。文部省に定められたマニュアルにしたがって進めていくことで大勢の生徒に対応できるようになっています。しかし当然、生徒の上達進歩は異なりますから、すぐ理解して退屈してしまう生徒や、落ちこぼしと称される生徒もでてくるのです。

 塾は厳密に決められたプログラムがありませんから、その場その場、つまり、生徒と先生のその日の気分でおのずと学習内容が決定されていくという、極めて自在性に富み、生徒個々人との直接交流によって多様的に進めていきます。言い換えると、まともなカリキュラムの無い、いいかげんな教育方法とも言えますが、人生は何が起こるか分からないという特性をもっていますから、塾という方法もそれに即したものとして、それなりに有効なのです。主宰者の全人格と生徒の人格が厳しく交錯する場と言い換えてもいいでしょう。 今の学習塾はそういう観点からすると本来の塾の姿ではありませんが、学校よりは生徒個々人に対応できているでしょう。ただし、内容が
受験のための能力のみに限定されています。

 ≪游氣の塾≫という名称は身体を通じてさまざまなことを学習していこう、また、身体の不調を調整する方法を伝え合い、より有意義な人生を歩んでいこう、その方法で身体の問題に対処して多少は世間の役に立とう、という共通の認識に立つ人たちとの勉強の場を有していた頃の名残です。仲間は治療院や接骨院などを営んでいる者を主体としていました。(「游」とは流れのままに浮いている状態。そこから自由・気まま・自在・伸びやかなどを想起し、「游氣」とすることで身体を流れる氣や包んでいる氣を伸びやかにという意味を持たせた造語)

 わたしの古い名刺には、

  ≪生きる方向の発見・生きる活力の養成・生きる場の解放≫

などと意気がったスローガンを刷り込んでありました。新しい名刺には印刷してありません。しかし、決して放棄した訳ではないのです。
 現在ではもっぱら我が心中に深く沈め、「男は黙って・・」と日常生活での直接の触れ合いの中で体現していけたらという、いわば加齢による含羞のせいもあって表に出さず、密かなスローガンとして胸の奥に脈々と息づいてはいるのです。
 お断りしておきますと、このスローガンは、坪井香譲先生という身体経験を通しながら文化を根源から問い続けている方からの拝借です。先生の研究はメビウス気流法として知られています。

 註:坪井香譲(本名繁幸)1939年、大分県生まれ。早稲田大学文学部心理学専攻科卒業。ヨガ・仏教・ユング等の思想や実践法を研究。十代から弓道・合気道などの各種の武道や芸能に触れ、カナダ、米国、フランス等の演劇協会や舞踊協会で講師として活躍。伝統や時代性、民族のワクにとらわれない、独自の身体-創造の理論を展開中。著書に「極意」「黄金の瞑想」「メビウス気流法」「気の身体術」など。

 スローガンの中の[生きる活力の養成]に関しては日々の身体調整を通じて細々と実行していますが、同様に指圧教室と銘打って、関心ある一般の人に基礎的な指圧や気功の指導もしています。
 日本人は指圧と聞くと年寄りのするジジムサイことと思っているらしく、ほとんどの人は関心を抱きません。また人からしてもらうものであって、自分からするものではないと考えるのが常です。元来、指圧は家庭でできる医療として大正時代に生まれたにもかかわらずです。
 それどころか、他人に対して偉そうにふるまうことを
「人に肩を揉ませる」
人に媚び、へつらうとき
「肩を揉ませていただきます」
と表現することもしばしばで、どちらかというと、指圧を人に施すのは屈辱的、人にしてもらうのは優越的と感じる人も多いようです。

 ところが外国人は指圧を立派な日本の文化の一形態、医療の一分野として評価し、勉強をしたいと言ってやってくるのです。今やSHIATSUは柔道や空手と並んで日本独自の文化として立派な国際語になっています。
 今までわたしの小さな指圧教室に一度でも来た人の国名を挙げますと驚かれるのではないでしょうか。

 アメリカ合衆国・カナダ・ブラジル(含日系)・イギリス・旧チェコスロバキア・ルーマニア・ドイツ・デンマーク・フランス・オランダ・スイス・イタリア・オーストラリア・ニュージーランド・イスラエル・ベルギーと16カ国になります。
 人数としては英語圏が圧倒的。ほとんどが英語学校か大学の英語の先生。英語圏以外のヨーロッパ人は技術指導に来日した技術者の奥さんが主です。日系ブラジル人は日本の工場などで勤務しています。

 ちなみに教室でなく身体調整のために訪れた人はそれ以外に南アフリカ共和国やミャンマーの人がいました。名古屋も国際化したものです。
 生徒の年齢は二十代から四十代。分かっているだけで四名が帰国後、それぞれの国の資格を得るか、そのための学校に通っています。

 こうした雑多な外国人が集まると、共通語はどうしても英語になります。
 英語という言葉は、十九世紀の大英帝国による侵略の名残から世界共通語になってしまったという血なまぐさい歴史に立脚するものの、現実的には極めて有効な意思伝達手段として使えます。わたしももっとまじめに英語の勉強をしておけばよかったのですが、悔やんでもしょうがないので、根性で話しています。
 「てめえら、ここは日本なのだから、日本語喋らんかい。おらおら!」
と、心の中で思いながら回らない舌を噛みつつ英語の単語を思い出し、思い出しして羅列しているのが現状です。

 もっとも最近は外国人も一生懸命日本語を勉強して、わたしの英語能力をはるかに凌駕した日本語を操る外国人も多いので楽は楽です。そういう努力もしない外国人はこの不景気の日本で仕事がなくなってきているのも事実なのです。
 ドイツ人やデンマーク人はラテン語系統の母国語という利点から、普通の奥さんでも英語をぺらぺら喋るのですが、日本の奥さんたちはなかなか国際的なコミュニケーションに入っていけません。これは寂しいことですね。日本の国際化は普通のおじさんやおばさんがそこらにいる外国人とごく自然に交流できることから始まるのではな
いでしょうか。別に英語が上手に話せなくても、身振りと笑顔でコミュニケーションできることが大事なのです。

 外国人たちは言います。
「三島先生は、英語はともかく、コミュニケーションは上手です」
早い話が、三島の英語は下手と言っているのです。しかし、大切なことは言語能力でなく話す内容。中身のない英語をぺらぺら操っても尊敬はされないのです。その点わたしは生徒達から及第点をいただいています。エッヘン。

 先程、指圧はSHIATSUという国際語になっていると言いました。日本の本屋さんで丸善のような洋書を扱っている大きい書店へ行かれるとお解りですが、英語版の指圧の本はけっこうたくさんあるのです。わたしの恩師増永静人先生の指圧のテキスト「禅指圧」は高度な理論が評価されて数カ国後に訳されています。日本人だけでなく、イギリス人やアメリカ人の書いた本もたくさん出ています。そしてこれが肝心ですが、日本の指圧の本よりはるかに内容のレベルが高いのです。

 日本の指圧の本の多くは
「何とか病にはどのツボを押せば効く」
というような健康雑誌程度の知識の断片の本ばかりですが、英語版は東洋医学の思想・哲学から書き起こし、病気の背景を考慮した上で治療の方法を書くというとても質の高いものが多いのです。わたしはあるイギリス人の書いた指圧の本を逆に日本語に翻訳し直したいと思っているくらいなのです。そこには病気も人生の一過程として評価せよと言う思想がみられます。表紙の写真だけでも指圧の理念を雄弁に表現できています。

 さて、外国人と指圧を通じて交流していると、いろいろうれしい経験があるのですが、最近、とても感激するはがきを受け取りました。
 以前、日系ブラジル人のためのポルトガル語の新聞の電話取材を受けて、指圧を指導しているという記事が掲載されました(記事は見ていませんし、見ても読めません)
。その後しばらくの間、在日ブラジル人からの問い合わせがしきりにありました。それも東京や大阪などの遠方から。そういう方はそちらの教室を照会しましたが、近在の方は今までに7・8人、忙しい仕事の合間を縫って勉強にやってきました。
 その中で、特に日本語より英語が上手だったMという22・3歳の女性が印象に残っていました。その彼女が帰国後しばらくして、こんなはがきがきたのでした。

   あなたに感謝する者です。むすめに習って、おしていましたら、すっかりなお
  りました。三十年も続いていた痛みです。
農業K

 Mのお母さんからです。おそらく移民の一世なのでしょう。鉛筆でとても丁寧な楷書で書かれていました。住所はMが英語で書いています。
 お母さんは移民して以来、苛酷な農作業を30年以上続けたのではないでしょうか。
Mの話では、彼女たちが住んでいる所はブラジルの一番南はずれ。南半球の国では南はずれは日本の北海道と同じ。雪が降るそうです。そこでの農業は決して楽なものではないでしょう。Kさんはそんな境遇の中で、娘を大学まで出したのです。彼女が英語が上手だったのはそのせいなのです。
 Mのお母さんは厳しい労働の傍ら、Mを学校にやったのでしょう。Mは日本でお金を貯めて帰国後また勉強すると言っていました。
 Kさんが30年間患っていた痛みが何であるか、なぜ羅患したか、どういう治療をしてきたのか、何もせず手をこまねいていたのか、全く分かりません。ただ、彼女からのはがきから伺い知れるのは30年来の痛みが、おしたら(指圧したら)楽になったということだけです。しかもそれは日本まではがきを書かせるほど劇的なことだったのでしょう。

 Mは指圧教室には月に2回くらいづつ半年ほど来ただけでした。来ても「昨日は残業を含めて15時間働いて腰が痛いよ」と言って見学したり、練習台にだけなったりとあまり熱心な生徒ではありませんでした。労働がきつかったから、練習どころではなかったのでしょう。けれども職場にあまり友達もいなかったのか、教室でアメリカ人やオーストラリア人たちと楽しそうにお喋りをしていました。

 ある日、
「おかあさんの具合が悪いから帰って来いと連絡があったから帰らなければいけない、本当に悪いのか、私を呼び寄せるために嘘をついているのか分からないけど・・」と寂しそうに言って地球の裏側まで帰っていったのでした。そして、それは予想通り娘を呼び返すための仮病だったのです。
 それから彼女のことはすっかり忘れてしまっていましたが、突然、例のはがきを受け取ったのでした。

 奇妙な縁が地球の反対に住むわたしとMを結びました。人類の歴史数千年、未来を含めたら永劫と言っても良いほどの時間の流れのこの一瞬、広い地球の中のこの今池という一点。地球上50億人の中の二人がたまたま出会い、それが一人の農婦の30年来の苦痛を一時なりとも解放したのです。

 Mのお母さんは苦痛という足かせで[生きる場]である環境や身体から責め立てられていたのですが、それから解放されたのはすばらしいことです。最初に書いた≪游氣の塾≫のスローガンのひとつ、「生きる場の解放」がブラジルで実現したことに感動を禁じ得ません。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No79「オズの魔法使い」

三島治療室便り'96,7,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://member.nifty.ne.jp/hmishima/

 


≪游々雑感≫

オズの魔法使い

 所属の俳句結社誌「藍生」からまとまった文章を書く機会をいただきました。題も内容も全て一任されたので、決めた題は「切磋と情ー句会・俳句メディア空間-」。内容は俳句を媒体にした句会という場をわたしなりに理論的に書いたものです。

 掲載誌が九月号なので詳細をここに示すことはできませんが、その文中に進むべき目的やそれに通じる道程を示す一例としてアメリカの童話「オズの魔法使い」を引用しました。やや固めの文章に具体性と親しみやすさを織り込みたかったからです。
 論文という性格上、正確を期する必要があり久しぶりに本箱から引き出して「オズの魔法使い」をぱらぱらと読み返してみました。

 親しいアメリカ人によると、アメリカでは毎年一回はジュディ・ガーランド主演のミュージカル映画「オズの魔法使い」のテレビ放映があるそうです。それほど国民的に愛されている物語なのでしょう。このミュージカル映画は何十年も前の古い作品です。人気のほどがうかがわれようというものですね。
 主題歌「OVER THE RAINBOW(虹の彼方に)」は日本でも知られた名曲で、誰でも聞けばメロディーはご存じのはず。

 原作の「オズの魔法使い」はフランク・バーム(1856-1919)の著したもので、後に十四冊シリーズ化され、なんと作者の死後、別の作者が書き続けたといういわくつ
きの人気物語です。しかし、ことの常として第一作が圧倒的に有名です。

 ミュージカル映画で主役の少女ドロシーを演じたのはジュディ・ガーランド。ハリウッドの往年の大女優。日本でも人気の高いライザ・ミネリのお母さんです。ライザ・ミネリがもう立派な圧しも押されぬ大おばさんです。その大おばさんのお母さんが少女の時に撮影した映画ですから、いかに古い映画かが分かろうというものでしょう。
(調べたところ1939年製作、今は懐かしい総天然色映画) それが毎年テレビで放映されるというのです。我が国の年末恒例「忠臣蔵」みたいですね。目的に向かって困難辛苦を乗り越えて目的を成就するという点でも案外似ているかも知れません。

 この本を始めて読んだのは小学校の高学年だったでしょうか。両親から何かの折りにプレゼントされたものです。講談社発行の少年少女世界文学全集全五十巻の一冊で十六巻目に当たります。奥付からすると昭和三十七年の発行となっています。するとわたしが三年生か四年生に読んだことになります。東京オリンピックの二年前。随分古い話になってしまいました。
 手持ちの本は「ドリトル先生航海記(ロフティング作・井伏鱒二訳)」を表題として「オズの魔法使い(バーム作・松村達雄訳)」「シートン動物記(シートン作・龍口直太郎訳)」の三部で構成されたものです。
 今も本箱に収めてありますが紙はぼろぼろ、綴じ糸はほつれ、背表紙はちぎれ、箱も壊れています。何度も何度も読み返したので原型を止めないほど分厚くなってしまいました。
 当時はドリトル先生が好きで、後に岩波書店版と英語版それぞれ全十二巻を揃えました。なにしろ翻訳があの井伏鱒二ですからそのおもしろさはおそらく原作を凌駕しているのではないでしょうか。
 ところが、成人になってからは「オズの魔法使い」の方にも興味が移りました。ここで御存じない方のためにストーリーを簡単に紹介しましょう。

 アメリカの中央部カンザス州に住んでいる少女ドロシーと愛犬のトートーは、ヘンリーおじさんやエムおばさんと幸せに暮らしていました。
 ある日、ドロシーとトートーは家ごと巨大な竜巻に運ばれて不思議な世界に到着します。そこは四方を広大な砂漠に囲まれた不思議なオズの国。東西南北を魔女が治め、全体をオズという偉大な魔法使いが支配しているという世界だったのです。
 ドロシーは魔法使いのオズに頼んでカンザスに帰る方法を考えてもらうことにしました。オズの住むエメラルドの都まではとても遠く道中はとても危険なのですが黄色いレンガでできた道が続いています。そこを歩いて行けば必ずエメラルドの都に到着できるというのです。
 ドロシーは途中、ワラでできているために脳みそが無いことを嘆く案山子(かかし)と、人を愛する心を求めているブリキのきこり(元は本当の人間、魔女に傷つけられたがブリキ屋に助けられた)、獣の王者にふさわしい勇気に憧れている臆病なライオンと道連れになります。
 このやさしい仲間たちといろいろな冒険の後、ドロシーたちはオズに接見することができ、それぞれが念願かなってめでたし、めでたし。ドロシーも魔法の靴のおかげで無事にカンザスのおじさんやおばさんのところに帰ることができたという物語です。

 登場人物の友情や、困難にくじけない強さ、巧みなユーモア、荒唐無稽の冒険、これらのおもしろさは原作に当たっていただくしかありません。

 この不思議で愉快な物語がなぜアメリカの国民的人気を保っているのでしょう。それは物語の純粋なおもしろさの中に、数々の教訓めいたものを秘めているからだと思うのです。しかも教訓が決して表に顔を出すことなく、話の中に夢中で入って行けると同時に
 「うーむ」
あるいは
 「ニヤリ」
と考えさせられるところもあるのです。

 子どものころはただひたすら夢中になってハラハラドキドキ読んでいたのですが、成長するにしたがって裏の意味を読み取ることができるようになりました。
 教訓がイソップ物語のようにあからさまでは、童話というより寓話になってしまい子どもたちの人気は得られません。そっぽを向くでしょう。もちろん大人だって好きにはなれないはずです。さりげなく、実にさりげなく考えさせられるところにこの話の妙味があるのです。
 その寓意を読み取れるようになることで自らの成長振りを確認できると言い換えてもいいでしょう。それくらい懐の深い物語と称賛して過言ではありません。

 実はオズはいんちきで嘘つきの魔法使いでした。
 もとはサーカスの腹話術使いで、軽気球が風に流されてこの国に漂着したのですが、空から来たオズを見て、土地の人が魔法使いと勝手に勘違いしていたのでした。これは案外思い込みや本質とは違う部分で物事を評価しがちという私たちに対する厳しい皮肉と取れますね。

 そのペテン師のオズがドロシーたちに言います。

案山子 「わしにのうみそをくれることはできないのか」
オズ 「そんなものは、じつは、いらないのだよ。あんたは、まいにち、なにかしらおぼえていくのだ。(一部略)じっさいにいろんなことに出あったり、やってみたりして、はじめてものをおぼえるのだよ(一部略)」
オズ 「のうみそをつめてあげよう(実はおがくずと針)。でも、その使いかたは教えられないよ。それはあんたがじぶんで見つけなくちゃいけないのだ」

ライオン 「おれの勇気はどうなるのだ」
オズ 「だれだって、きけんに出あったら、こわくなるんだ。ほんとうの勇気というものは、こわくても、きけんからにげださないことなんだよ。そういう勇気なら、おまえさんは、もうふんだんにもっているんだよ」

きこり 「わしの心はどうしてくれるんだね」
オズ 「心のせいでたいていの人たちは、ふしあわせになっているんだよ。あんたにそれがわかりさえすれば、心なんかなくても、じつは、しあわせなんだよ」
きこり 「わしにいわせてもらえば、心さえもらえたら、どんなかなしいことだって、ぐちひとつこぼさずにしんぼうしてみせるよ」

 オズはペテン師らしく最後まで魔法使いを演じるのでした。あっぱれと言うべきでしょう。
 このやりとりに作者が少年少女に伝えたいことが網羅されているようです。

 そして全編を貫くテーマがオズの住むエメラルドの都へ通じる黄色いレンガでできた道の存在。こうしたいという目的(志)を立てたら、それに向かって歩き続ける。
これを意志と言います。この黄色いレンガの道はその意志を象徴しているのです。わたしが所属結社誌に書いたのも実にこのことに関してでした。

 さまざまな問題を抱えていながら、開拓精神で難問に向かって行くというのがアメリカ合衆国という大国です。あの国の人は常に黄色いレンガの道を模索しているのではないでしょうか。
 アメリカを批判しながらも追随する国が多いのは、大国の武力的側面だけでなく、目の前の問題を先送りすることなく、失敗しながらもあれこれと実験して行くという実証(案山子の知恵)と行動力(ライオンの勇気)、それを支える博愛(ブリキのきこりの心)の導き出した結論に他の国も敬意を表さずにはおれない部分があるからではないでしょうか。 長い歴史と伝統を持たないという身軽さゆえに、何事も実験しながら乗り越えてきているのがアメリカという国のような気がします。
 案山子やブリキのきこりやライオン、あるいは黄色いブロックの道はそれらを象徴していると思うのです。

 もちろん物語を読むときはこうした解釈は全く無用のもので、物語に入り込んで作中人物と一緒になって喜んだり悲しんだり怒ったりするのが一等楽しい読み方であることは間違いありません。

 この年になっても時々口をついて出てくるおかしな文句があります。
 「エッペ、ペッペ、カッケ」
 「ヒルロ、ヘルロ、ホルロ」
 「ジッジ、ザッジ、ジック」
これは作中でドロシーが翼のはえた猿を呼び出すときの呪文です。
 子どもの頃に覚えたものはどうしようもない役立たずのものまでしっかり脳に刻み込まれています。
 こんなくだらないことの代わりに英単語のひとつも覚えておけば、人生も変わっていたのになぁ・・・と、ふと、思ったりもするのですが、それがよかったかどうかは大魔法使いオズにしか分からないことでしょうね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No78「デュオ服部リサイタル」

三島治療室便り'96,6,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://member.nifty.ne.jp/hmishima/

 


《游々雑感》
デュオ服部リサイタル

 六月十一日、名古屋伏見のザ・コンサートホールで服部夫妻によるリサイタルがありました。この通信では四・五年前にこの二人について書いたことがあります。

 このデュオはサクソフォン服部吉之、ピアノ服部真理子の二人による演奏で(デュオは一般に言うデュエットつまり二重奏の意味)、活動を始めてからすでに十五年以上になります。

 サクソフォンは一般にサックスと呼ばれて親しまれている楽器です。
 昔はブルーコメッツ、ちょっと前ならチェッカーズが吹いていた縦長の首の曲がった楽器。
 あるいはサックスと聞くとソニー・ロリンズやナベサダに代表されるジャズを想像されるかたも多いでしょう。
 フュージョンという新しいジャンルではマルタという演奏家が有名です。彼は服部氏の芸大の先輩にあたるそうです。
 石原裕次郎などのムード歌謡曲ではむせび泣くように吹かれていましたから、そちらの音色が印象的だと思いますが、服部氏のサックスはクラシック音楽ですから同じ楽器が奏でているとは信じられない音色のとても丸く艶やかな美しいものです。

 音量が豊かで、歯切れもよく、演奏者の気持ちを素直に表現できる楽器としていろいろなジャンルの音楽家に使用され、素人演奏家にも人気が高いのですが、クラシックのオーケストラの中では、その個性が強すぎるため、目立ち過ぎるきらいがあるようであまり使用されません。

 この楽器、意外に誕生は新しく、およそ百年前に完成されたと言いますから、ベートーベンもモーツァルトもこの楽器の存在を知りません。クラシック音楽でも新しい曲以外には出番がない楽器です。
 ですから演奏家はチェロやビオラなどの曲を編曲してサックスで発表しているのです。
 名古屋在住のサクソフォニスト(サックス奏者)の三日月孝氏はこの楽器を称して「サイボーグ」と言われます。楽器はほとんどが、古来自然の中から生み出され、年代を経るにしたがって複雑で高度なものになったのですが、サックスは明らかに新しい楽器を作ろうと意図して作られたものだからサイボーグなのでしょうね。発明者は
ベルギー人のアドルフ・サックス(1814~1894)です。

 しかしその音量と音色、表現力の豊かさに、現代の作曲家は魅了されさまざまな音楽を提供していますし、先ほど述べたように、クラシック、ジャス、フュージョン、ロック、歌謡曲、ポップスなどあらゆるジャンルで愛用されている人気のある楽器なのです。
 社会人になってちょっと練習してみようかと言う人も結構多いらしいのですが、その音量に練習場所を選びます。

 服部吉之氏はわたしの高校の同級生ですから、この日は当時の同級生が数名集まって、演奏後、居酒屋で当時を偲んで盛り上がりました。まあ、服部氏を肴に悪童が集合したといっても間違いではないでしょう。どいつもこいつもわたしを含めて、音楽には疎い連中ばかりですから。

 さて、二人の略歴を当日のプログラムから紹介しましょう。

服部吉之 Sax
 1953年名古屋生まれ。県立熱田高校を経て76年東京芸術大学音楽学部卒業。サクソフォンを坂口新、秦賢吾の両氏に師事。79年同大学院卒業と同時に渡仏。パリ市立音楽院にてジャックテリー氏に師事。同年審査員全員一致の一等賞で卒業。(中略)74年以来キャトルロゾーアンサンブルに参加。76年、80年民音コンクール室内楽部門入。現在、北鎌倉女子学園、洗足学園大学講師、東京コンセルヴァトアール尚美講師。
独奏等を中心に全国各地演奏活動を行っている。
(2011年現在、洗足学園大学の教授をされています)

 ため息のでるような経歴ですね。友人ながら格好いいものです。高校時代の彼奴が一体どうしちゃったのだろうと思うほどの活躍ぶりです。高校生の時から彼は何かと目立ってはいました。体が大きい。坊主頭。態度がでかい。行動が粗野・・・褒(ほ)めることもあります。授業熱心で、いつも隣のクラスの授業を受けていました。
 授業中騒いでいて、しかも宿題をやってこなくてしょちゅう先生に叱られていました。

先生「服部。おまえは一体何しに学校へ来ているのだ」
服部「はい!もちろんブラスバンドのために来てます」
先生「・・・・」
 そう、彼はなによりサックスが好きで、授業前、昼休み、放課後のクラブ、帰宅後の個人レッスン。本当にサックスの練習をしていました。
 わたしたちが遊んだり、ボーリング場にいったり、パチンコをしたりしているときも、彼はサックスを吹いていたのです。

 服部氏はサックスを吹くときと、それ以外では人格に著しい差異があって、当夜のリサイタルでも同窓生の間で次のような会話が交わされました。

酒店経営A氏
  「服部の奴、こんな難しい曲ばかり演奏して会場に分かる客がいるのかいな」
刑事T氏
  「昔のあいつを思えば、多分、服部が一番分かっとらんぞ」
洋服店経営S氏
  「本当にどこでどう間違ってこうなったんだろう」
治療室経営M氏
  「そうだ。そうだ」
(A氏は元サッカー選手、今ならJリーグ級。T氏はこわもての刑事で100キロ超級の巨漢。S氏は元柔道部で90キロ超級の秀才。M氏も元柔道部、50キロ級の小心者)

 むろんこれは昔なじみゆえの愛すべき冗談で、彼のますますの精進ぶりが確認できて、印象深いリサイタルの夜となりました。
 すでに一家をなし、多くの俊英を音楽界に送り込んで尊敬を集めている服部氏の高校時代の素行をここであげつらうのは野暮というものでしょう。それにそんな事を書き出したら三カ月はかかってしまいます。

服部真理子 Piano
 ピアノを辛島輝治、吉田よし両氏に師事し、東京芸術大学付属高校を経て、79年同大学を卒業する。同年渡仏。ムニエ女史に師事。81年エピナル国際コンクール4位入賞。「こんにゃく座」をはじめとする数多くの舞台ピアノを手がける。また来日管楽器奏者の伴奏をたびたび行い、高い評価を得る。現在、東京コンセルヴァトアール尚
美ディプロマコース講師。ソロ、室内楽の分野で活躍している。

 この手の紹介文では女性の年齢は秘められていますから、卒業年度から逆算して知るほかありません。それはさておき、彼女はとても美しい方です。約十年前初めてお会いした時は、輝くような美しさでしたが、今はそれにしっとりとした落ち着きが加わって、女性の魅力全開というところです。
 何でも音楽通に言わせますと、東京芸大に入るより東京芸大付属高校に入る方が難しいそうです。しかももっとも厳しいピアノで・・・と感嘆しておりました。
 彼女は三才の頃からピアノを始められたそうですが、その素質を認めた先生の助言により、幼稚園に行かずピアノに向かっていたらしいのです。先天的な才があったのですね。そしてなによりピアノが好きなのでしょう。

 真理子さんの演奏は音色の透明感とテンポの正確さ、節度ある表現力から管楽器の伴奏者としての評価がとても高いと聞きます。フランスのフルモーという国際的に知られたサックス奏者なども来日演奏には彼女を指名することが多く、わたしも一度フルモー氏と喫茶店で同席させてもらいましたが、この国際的なフランス紳士と服部夫
妻がなんら遜色無く歓談しているのを見て、大したものと感嘆したものです。

 服部氏を今日このように立派な演奏家、指導者として成功させた秘訣の一つが彼女との結婚に違いありません。確か二人は結婚してから渡仏したと聞いていましたが、二人三脚で今日まで努力してきた陰には大変な苦労があったと思います。しかし今のデュオ服部を見ていると仲の良い、支え合い、励まし合い、競争し合いという理想的な夫婦像が見て取れます(競争とはおかしいと思われるかもしれませんが、曲によっては、互いが争うような緊張感を伝えてくるのです)。

 当夜の曲目は難しいものを前半に、親しみやすいものを後半に置いてありました。
 よく分かりませんが紹介しましょう。

パウル・ヒンデミット
 アルトサクソフォンとピアノのためのソナタ
飯島俊成
 消し忘れた夢の破片[委嘱作品・初演]
ジンドリッヒ・フエルド
 アルトサクソフォンとピアノのためのソナタ
J.S.バッハ
 ヴィオラ・ダ・ガンバ ソナタ 3番
C.サン・サーンス
 バスーンのためのソナタ 作品168
アンコール
サン・サーンス「白鳥」、一曲忘失、ハンガリー舞曲「チャルダシュ」

 最後の曲はチャールダッシュともチャランダッシュとも呼ばれる有名な曲で彼らの十八番です。服部氏の初期の弟子で名古屋で頑張っているサクソフォニスト岡田知奈美さんがこの曲を称して
「これを聞かなきゃ帰れないという感じ」
と言っていました。服部夫妻のCDにも入っています。

 東京の大学を出た後、家業の酒屋を継いでいるA氏は、四年ぶりに聞いた演奏について、次のような印象を述べました。

 「四年前は、聴衆に対して突っ張るような感じだったけど、今日の演奏は曲目のせいかも知れないが聴衆と一緒に楽しもうという気持ちが伝わってきてよかったよ」

 わたしも全く同感でした。曲目も確かに影響あったようです。前回より今回の方が後半の曲の親しみ安さが違います。しかし、この選曲そのものに彼らが聴衆と楽しもうという気持ちが表れてはいないでしょうか。
 もっともくだんのA氏、演奏中半分以上はロビーでタバコを吸っていたのに、よくあんなコメントができたものです。

《後記》

 六月八・九日(土日)、京都と滋賀の境、琵琶湖のほとりの比叡山に出掛けました。

所属している藍生俳句会の第三回の全国の集いがあったのです。第一回は長島温泉と桑名、第二回が茨城の筑波、そして今年が比叡山と、歴史の重みを感じさせる場所が選ばれていることが分かります。来年は四国高松で予定されているそうです。

 ちょうど比叡山に出掛けた日がこの辺りの梅雨入りとなり、樹齢一千年はあろうかという巨大な杉が濃い霧の中で枝を広げた様は壮観でした。
 集いは主宰の黒田杏子先生の俳人協会賞受賞のお祝いを兼ねたものとなり、お忙しい中瀬戸内寂聴先生や比叡山の大僧正という偉いお坊さんまで参加してくださいました。 大僧正さんのお話しでは、比叡山は晴れた日の眺望も素晴らしいが、霧こそが最大の見物である。皆さんは幸運ですと場内をわかせましたが、俗人は、もし晴れていたら、別の挨拶になったのではと勘ぐってしまいます。もちろん、霧は素晴らしいし、願っても思い通りにならない天候なら、その時の天候を思いっきり楽しみましょうというのが大僧正の真意とねぎらいの気持ちだと受け取りました。

 梅雨は洗濯物が乾かないし、どこに行くにも傘がいります。食中毒も発生しやすいし、体調もおかしい。でも、梅雨は雨の貯蓄時。アジサイのカタツムリや、梅雨の晴れ間の月なども風情があります。気持ちを切り替えて過ごしましょう。
(游)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No77「NHK俳壇出演」


三島治療室便り'96,5,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://member.nifty.ne.jp/hmishima/

 


≪游々雑感≫

NHK俳壇出演

 宮沢賢治の名作童話「どんぐりと山猫」の冒頭は次のように始まります。

 おかしなはがきが、ある土曜日の夕がた、一郎のうちにきました。

  かねた一郎さま 九月十九日
  あなたは、ごきげんよろしいほで、けっこです。
  あした、めんどなさいばんしますから、おいで
  んなさい。とびどぐもたないでくなさい。
山ねこ 拝

 この手紙を受け取った金田一郎少年はどんぐりの裁判という不思議な体験をするのです。
 さて、三月四日。 わたしのところにも驚くべきファックスが届きました。

  三島広志様

   私の主宰する「NHK俳壇」がこの四月から(向こう二年の契約で)スタート
  します。毎回ゲストは三名です。
   四月十七日(水)の午後にスタジオで収録、打合せをかね約三時間以内。
  ご出演お願いしたくお伺いします。
黒田杏子

 これは一大事。
 なぜなら、わたしの所属している俳句結社「藍生」の黒田杏子先生が今年の四月からNHK俳壇の主宰をされることは知っていましたし、藍生の先輩方が出演されるだろうことは予想していました。しかし、しょっぱなに地方在のわたしのところに出演依頼が来るとは思ってもいなかったからです。

 大体、わたしはいい年をしてはにかみ屋ですので、人前で話をするのが大の苦手です。人と面と向かってしまうと、緊張して思うことの半分も言えない、それどころか、頭の中が混乱して何を話そうかと言葉がもつれるだけで、浮かんでもこないという性格なのです。(と、自分では思っていますが、みんなは違うと言います)

 そんな小心者にテレビに出ろだなんて、相当なプレッシャー。しかも、一緒に出るのはシェークスピアの学究、演劇論の坂本宮尾さんと、若き有力作家として俳句界で広く名を知られた岸本尚毅さん。
「こいつぁー荷が重いぜ」
と言うのが正直な感想でした。

 坂本さんは昨年「天動説」という句集を出され注目されました。その前には「子連れ留学体験記(記憶が不確かですが、こんな題でした)」というルポルタージュ(事実に基づいた報告)も出版されています。彼女は英米両国の大学留学をされているのです。

 普段から大勢の学生の前に立って演劇論を講じている女史ならテレビなどお手の物でしょう。既にBS俳壇(衛星放送)にも出演されていますし、人前で上がらずにお話しできることは誰でもが知っています。内緒の話ですが心臓に○が生えていてもおかしくない方なのです。

 「鶏頭」「舜」と出された二冊の句集がともに評判となり、数年前三十才そこそこで栄えある俳人協会新人賞を受賞されているのが俳句界の若きプリンス岸本さん。彼もBS俳壇に出た経験がおありですし、岩波新書の「俳句という遊び」「俳句という愉しみ」(ともに小林恭二著)という紙上句会に最年少として参加、俳句を志している人なら誰でもその名を知っている俊英です。現在サンケイ新聞で俳壇時評を担当、近々俳句の入門書を出されるとお聞きしました。
 膨大な量の古今の名句を頭の中に貯蔵して自由自在に取り出せるというず抜けた頭脳の持ち主。

 それに比してわたしは句集も出さず、評論集も書けず、著書と言えば治療論文集の共著があるきりで、俳句関係の本には全く縁がありません。ただに二十数年という期間、俳句を細々と続けて来たというだけなのです。
 それが図らずも「藍生」という若い結社に入って三年目に新人賞をいただいた、これが唯一のわたしの俳句のキャリア(誇れる履歴)ですが、それはあくまでも身内のもので、広く俳壇に知られたものではないのです。
 したがって今回のNHK俳壇が表に顔を出す第一回目ということになります。

 四月十七日、収録の日です。
 新幹線の中でコーヒーを嗜みつつ、午後からのテレビ出演に備えるため俳句の雑誌などひもときながらも、ときおりは窓の外を流れて行く景色に注目していました。
 静岡の茶畑に魅入られつつ大井川を過ぎ、霞みの向こうの富士山を眺め、海になだれ込む伊豆の山々に心奪われている内に早くも新横浜に到着です。もう東京はすぐそこ。
 車中では「生活者・三島広志」を「俳人・三島広志」に切り替えるため、車窓の景色から俳句などひねってけなげにも心を高めていたのです。

 渋谷のNHKは丘の上にぎょうぎょうしいアンテナを突き立てていましたからすぐ見つかりました。約束の時間よりかなり早く到着したので正面玄関にある喫茶コーナーで再びコーヒーを飲みながら手帳を出して中庭の新緑を題材に俳句を作ったり、アドレス帳から縁の切れた会うことがないだろうと思われる人の電話番号を抹消したり
して時間を過ごしておりました。

 そうこうする内にアシスタントディレクターの中根さんという知性にくるまれたさわやかな女性が迎えに来て下さいました。
 彼女の先導によって迷路のような廊下をぐるぐる巡って、建物の一番奥の、一番隅の控室に案内されました。その道程は森の奥に捨てに行かれるヘンゼルとグレーテルという気持ち。ヘンゼルのように目印のパンくずを捨てながら来なかったのでもはや一人で逃げ帰ることはできないという諦めが脳裏をよぎりました。NHKがラビリン
ス(迷宮)のような構造になっているのは複雑な道中でゲストが次第に本番に向かう覚悟を決めることができるようにするための配慮だったのでしょう。

 昼食を食べながら簡単な打ち合わせがありました。
 手元に渡されたのは選りすぐりの十五句がプリントされた紙一枚と、当日のシナリオ。この十五句は前もって黒田杏子先生が全国から寄せられた四千句近い投句から選ばれたもの。始めて見るシナリオは赤い表紙の結構分厚いものでしたが中は簡単なものでした。それは当然でしょう。ドラマと違って台詞が書かれていないのですから。
 打ち合わせと言ってもお弁当を食べながらの雑談に近いもので、収録に際しての細かな話はありませんでした。NHKもいいかげんなものです。

わたし「ざっと撮って、あとから編集するのですか」
局の人「いいえ、三十分で撮っちゃいます。時間を計るために各人が選ばれた句を二回ずつ読み上げていただきますが、あとはその場でアドリブでお願いします(シナリオもそうなっている)」
わたし「細かな打ち合わせは?」
局の人「一度やってしまうと臨場感がなくなるので、ぶっつけでやります」
わたし「ぶっつけ本番ですか?」
局の人「三十分間、カメラを長回しします。その緊張が撮りたいんですよ」

こんな感じ。

「では化粧して来てください」
「眉を濃く描いてもらえますか」と岸本さん。
「どうぞ、いろいろご注文ください」
 メイク室ではあっさりと肌色のものを塗られただけで、頬紅も口紅もありませんでした。拍子抜け。もっとも岸本さんは念願がかなってていねいに眉をこしらえてもらっていました。

 メイク室からなかなか帰って来ないのが坂本さん。
 こんなに時間をかけているのだからびっくりするほど奇麗になって来るだろうと皆で期待していましたらびっくりするほど元のままなのでびっくりしました。

 坂本さんが
「あら、ソバカスが隠れたわ」
と喜んだらメイクさんが腕によりをかけてソバカスつぶしをしてくれたようです。聞くところによると、NHKでも三本指に入るほどのメイク名手だとのこと。

 とりあえず十五句の中から三句を選ぶようにと言われ、あわてて選出に集中しました。句を紹介しますと

1 白神の里におくれて辛夷咲く       浅倉滋
2 辛夷咲く頃ばちやばちやと魚釣りぬ   斎藤芳雄
3 花冷や体操服の背番号        遅沢いづみ
4 辛夷咲くひと日何かにせかされて    廣田絹子
5 あともどりできぬ病ひや辛夷咲く    各務雅憲
6 花冷や久しく妻と争わず        角間鋼造
7 花冷や兄を叱れば弟泣く        武内毬子
8 ははのこゑきかむ辛夷の花に佇ち    松川ふさ
9 一堂に女生徒会す辛夷かな       木下信夫
10 花冷や横笛の穴まくれなゐ       竹村竹聲
11 辛夷咲く土曜日曜アルバイト      山本敏雄
12 何となく下駄はき出づる花辛夷     本郷熊胆
13 花冷の仏間に帰り来たりけり      酒井章子
14 花冷や我れ晩学の灯をともす      寺本家治
15 彗星に巡り会ひたる花辛夷         荒尾

 この時点でそれぞれ選んだ句をディレクターに報告しましたから、互いの選んだ句が明らかになり

坂本宮尾選 2 13 15
岸本尚毅選 3 7 13
三島広志選 5 7 13
黒田杏子選 3 5 13

ここで奇しくも13番、酒井章子さんの

 花冷の仏間に帰り来たりけり

が満票であることが分かったのでした。
 選が重なったので念のために第四候補も各人選んで置きました。

 この段階で選考の理由など話す時間的余裕はなく、講評に関してはすべて録画撮りでぶっつけ本番で明かされることとなったのです。各自がどんなことを述べるか分からないという緊張を伴ってスタジオに行くことになりました。

 スタジオはすでにセッティングが完了していました。いつでも取り掛かれるよう準備万端、スタッフが落ち着いた表情でわたしたちを待っていたのです。

 わたしは指定された席に腰掛けてぐるりを見回しました。
 背景にはNHK俳壇でおなじみの和風の飾り戸が置かれていて、花が飾ってありました。よく見るとセットは埃だらけ。それもものすごい埃。スタジオ中に霜が降ったみたい。
 NHKにはきっと野際陽子さんのような怖い怖い姑がいないのでしょう。指で障子のさんをすっと払って
 「あら、○子さん。ここの掃除が行き届いておりませんことよ。当家の嫁にそんな人は要りません」
などと嫁いびりに情熱を傾ける人がいないのでしょう。
 しかし、この埃はありがたいものでした。なぜなら、
 「テレビにこの埃が映らないということは案外たいしたことないぞ」
と、すごい安心感をわたしに与えてくれたのです。テレビ組し易し。
 この埃こそゲストに対するNHKの思いやりに違いありません。この番組の多くの出演者は初めての人です。その人たちがこの埃を見てどんなに安心することか。まさに、

  地獄に仏、掃きだめに鶴、砂漠にオアシス、NHKに埃。

NHKのこの配慮。だてに放送料を徴収している訳ではないのです。

 さてカメラが回って順調に録画撮りが進行しました。大きな間違いはたった一回だけ。
 何と初めて三分位のところでカメラが黒田先生でなく坂本さんを写していたのです。
改めて撮り直し。これもゲストをリラックスさせるための意図的なミスなのでしょう
か。全員の緊張がどっと緩みました。

 さて、あとはテレビを見ていただいた人は見たとおりですし、ご覧にならなかった方はご想像にお任せします。
 多くの人の感想は
「多少緊張しているものの、いつもの三島とあまり変わらない」
ということでした。
 チーフディレクターからは、講評が前の人を受け継ぐ形で進行し、暖かみがある良い絵がとれたとの総評をいただきました。多くの場合、自分の意見を言うのが一生懸命で他人のコメントを引き継ぐ余裕がないのだそうです。

 ということで、まずまず好評の内に収録が終わったのでした。

 収録のあと、朝の連続テレビ小説「ひまわり」と「秀吉」の撮影現場の見学をさせていただき、楽しいときを過ごしました。
 ここだけの秘話ですが、なんと「秀吉」のスタジオでは磔(はりつけ)にされた白い着物の女性が
 「明智光秀の母じやー」
と絶叫して処刑される場面をやっていました。こともあろうにその女性が野際陽子さん。スタジオの埃を見つけて嫁いびりする余裕などあろうはずが無かったのです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No76「続々ぎっくり腰」

游氣風信 No76「続々ぎっくり腰」

三島治療室便り'96,4,1

 

三島広志

http://member.nifty.ne.jp/hmishima/

E-mail h-mishima@nifty.com

 

≪游々雑感≫

続々ぎっくり腰

 3月24日の朝のことでした。
 今日は日曜日ということでのんびりと朝食を済ませ、愛玩している手乗りオカメインコ・オーチャンの鳥かごの餌や水の取り替えをしたあと、かごの奥にある鳥のミネラル補給用の塩土を動かそうと腕を伸ばしたら、腰骨が

 ゴギゴギ!バリバリ!

と音を立てて、全身に電気が走ったのです。
 「しまった。やった!」
これがぎっくり腰第一弾でした。
 そもそも塩土など重さにして100グラムにも満たないごく軽いもの、それをちょっと奥へ押し込んだだけでぎっくり腰になってしまったのですから人体など他愛ないもの。その場にへなへなと横たわったのでした。

 ぎっくり腰は重い物を持ち上げるときより、軽い物をちょっと横へ動かしたり、顔を洗ったり歯を磨いたり、靴紐を結んだりなどのなんでもない動作でなるとは商売柄よく聞いていました。まさに私の場合もそうだったのです。

 かがんで下に手を伸ばすと、自然に目線もそちらに向かいます。首がうなだれる形になります。このとき腰椎には体重の何倍もの圧力が加わります。折あしく腰の周囲の筋肉が疲れ、こわばって柔軟性を失っていると腰の複雑な関節がもろくも捻挫をしてしまうと、これが「魔女の一撃」ぎっくり腰なのです。

 洗顔も歯磨きも靴紐結びもみな首を下に向けるのでこれに当てはまるでしょう。靴下を履くのもそうです。
 また、屈まなくても、咳やクシャミでなることもよくあります。一度ぎっくり腰をやると、しばらくは咳やクシャミが恐怖なのです。

  教訓その1 屈んだ姿勢で首を下に向けるべからず!

 先程、第一弾と書きました。そう、悲劇はこれからが本番です。
 腰骨がゴギゴギバリバリとすごい音を立てた割には幸いさほどひどいぎっくり腰にはなりませんでした。一番楽な姿勢で昼まで寝ころんで、午後になってそろそろ起き上がってみたら、痛みはあるものの、まあ、明日の仕事は根性で切り抜けられるという確信がもてたのです。ところが、この心の隙が次の駄目押しを呼び込んでしまいま
した。

 クライアント(一般に言う患者さん)には、必ず、ぎっくり腰や強く頭を打ったときは数日間入浴しないように指導します。ところが私自身はたいしたことはないと馬鹿にして、うかつにも風呂に入ってしまったのでした。
 湯船につかったり、体を洗ったりは慎重に行動してなんともありませんでした。しかし、風呂上がり。暖まって腰が軽くなったのもいけません。体を拭くためについうっかりといつもと同じようにしゃがんで足先まで手を伸ばしました。そう、教訓その1の最悪の姿勢です。

 ゴギゴギゴギ!!バリバリバリ!!!

相当大きな悲鳴が口から飛び出しました。
「しまった。油断した!」
という思いとともに、更衣室にある洗濯機につかまって体を起こしました。またもや
 ゴリゴリバキバキ!!グキッ!

ダブルパンチならぬトリプルバンチ。3回目のぎっくり腰は決定的でした。

  教訓その2 ぎっくり腰になるときは疲労が溜まってなるべくしてなる状態にあるのだから、一度なったら当分再発に注意すべし!

  教訓その3 ぎっくり腰になったら入浴は禁忌!

 かくして4日間の休業をよぎなくされたのでした。仕事関係の方々には大変ご迷惑と心配をおかけしまた。この場で深くお詫びと、ご心配に対する感謝の気持ちを申し上げます。

 「言っちゃあ悪いが、先生の代わりは探せば見つかる。けんど家族の代わりはおらん。無理したらいかんぜ。」
とのありがたい言葉には泣けました。

 仕事再開の時、
私 「ご迷惑おかけしました」
相手 「もうすっかりいいんですか。先生でもぎっくり腰になるんですね
(言葉と裏腹、顔が笑ってる)」
私 「当然ですよ。みんなして僕を鋼鉄の機械みたいに言わないでくださいよ。同情
   どころかみんな笑うんですよ。このままでは僕はいじけて性格が悪くなるじゃ
   ないですか」
相手 「まあまあ。みんなたいしたこと無いと安心したから笑うんだから、いい年し
    たおじさんがいじけるんじゃありませんよ(それでもおかしさを我慢してい
    る)」
私 「まあ、それはわかっちゃいるんですがね(すっかりいじけた顔)」
相手 「どうやって治したんですか(興味深々)」
私 「ぎっくり腰になるということは、(気を取り直して、カッコをつけて)根本に
   全身の疲労がありますから、全身を休めるために横になっているのが一番。実
   は前の晩、若い連中と夜遅くまで飲んでいたんです。ビールと氷を浮かべた水
   割りでおなかをしっかり冷やしてね。
    治療は自分でしました。楽な姿勢で横になって、おなかの指圧とお尻の筋肉
   の指圧。足首のツボに鍼をしたかったのですが、一番腰に響く姿勢だからでき
   ませんでした。手首の近くのツボも指圧しました。2日経って痛みが軽くなっ
   たところで中学の息子に背中全体に家庭用お灸(商品名カマヤ・ミニ。その他
   色々な種類が市販されている)をさせ、小さい置き鍼(円皮鍼・家庭用商品名
   セイリンジュニア)を痛い部位に画鋲の要領でささせて絆創膏で止め、その上
   からキネシオテープで固定です。再発予防のために今もそうして仕事をしてい
   ますよ」
相手 「ほう。(やっと笑い顔が消えてちょっと尊敬のまなざし)」
私 「フフフ。(面目躍如、してやったり)」

 ぎっくり腰は椎間板ヘルニアと混同されますが全く違うと心得るべきです。ヘルニアはまれなことで、一般的なぎっくり腰は腰椎か骨盤の関節の捻挫(筋違い)なのです。

 椎間板ヘルニアは、どういう病気でしょうか。
 背骨はたくさんの骨が積み重なってできています。首の骨、すなわち頚椎は七個、胸の裏側の胸椎は十二個、ここには十二対の肋骨がつきます。今回問題のぎっくり腰になる腰椎は五個、その下に仙骨というお尻の骨と、尾骨いわゆるしっぽの骨が一つながりになって背骨を形成しているのです。

 背骨が人体の大黒柱となり、体を支えると同時に、中に脳から続いている脊髄を腰まで保護し、積み重なった骨の透き間の穴を通して自律神経が全身に分布しています。

 骨同志がただ重なっていると、体を自由に動かすことができません。左右を向いたりお辞儀をしたり、体を捩るという大きな動作をするためには関節が必要です。上下の骨(椎骨と言います)のつなぎに余裕がなければならないのです。その役目をしているのが椎間関節で、椎骨の間でクッションの役目をしているのが椎間板です。椎骨
の間の板ということですね。

 椎間板を想像するには中に餡この入った大福餅をモデルにすると便利です。堅い椎骨と椎骨の間に柔らかいが丈夫な軟骨で出来た大福餅のような椎間板がいちいち収まっていて、地面からのショックを和らげ、頭の重さから腰の負担を軽くし、全身が動きやすくしているのです。板の間に直接座るとすぐ脚が痛くなりますが、座布団を敷く
と楽になるのと同じ理由ですね。

 ところが無理が続くと、大福餅がつぶれてきます。ひどくなると中の餡こがはみ出してきます。これがヘルニアなのです。ヘルニアとは中身が出て来ることをいい、腸が股の付け根のところに飛び出す脱腸のことを鼠径ヘルニア、へそが飛び出すのを臍ヘルニアと呼ぶように、椎間板の軟骨の中身が飛び出すのを椎間板ヘルニアを言うの
です。

 飛び出した中身が背骨から出ている神経に当たると猛烈な痛みを発します。これが椎間板ヘルニア。特徴は足がしびれたり、力が入らなくなります。痺れた側の足で爪先だちもしくは踵立ちが非常に難しくなります。また、仰向けに寝て、足を伸ばしたままで高く上げることができません。
 こういう症状があるときは、強く腰を捻る整体やカイロプラクティクの治療は絶対禁物です。

 腰の痛みに伴って、足の症状がある場合は、医師のもとできちんと診断してもらう必要があります。

  教訓その4 ぎっくり腰のあと、脚に強いしびれがあるときは、整形外科か神経内科で精密検査を!

  教訓その5 脚にしびれ、手にしびれがあるとき、背骨を強くひねる治療は絶対だめ!

 ぎっくり腰のほとんどは、足に症状のでない、腰椎の捻挫か腰の筋肉の挫傷(筋違い)です。椎間板は関係ありません。固い腰骨を上下に支えている椎間関節というところの捻挫か、その周辺の筋肉の挫傷だと思って差し支えありません。
 ぎっくり腰になったらまず安静が大切。さる整形外科の先生も痛いときは自宅で横になり、歩けるようになってからいらっしゃいと言われるくらい初期の安静が後に響いてきます。
 なにしろ腰の捻挫です。足首を捻挫した時と同じく動かすことは避けなければいけないのです。

  教訓その6 ぎっくり腰をやったらまず安静!

 患部はそのままにしておくか、24時間以内なら冷やすといいでしょう。お風呂は禁物です。ともかく時間の許す限り楽な姿勢で寝ることです。

 その時、次のことをするとよろしいでしょう。
 おなかの筋肉を緩めるように、静かに、かつ、深い指圧をする。手のひらで優しくおなかを圧するのです。ぎゅうぎゅう押してはいけません。圧えて気持ちの良いところがあったらていねいに長い時間圧します。

 おなかがすんだら、今度は股関節と骨盤の間の筋肉を強く指圧します。中臀筋と小臀筋という筋肉があって、腰痛の特効部位です。「気をつけ」の姿勢を取ったとき、手首がちょうどお尻の横の出っ張った骨に触ります。そこから骨盤の真横の骨に向かう筋肉を親指で強く刺激するのです。
 以上は寝たままでできます。

 さらに、お尻の下に手が入れられるなら、仙骨というお尻にある逆三角の骨の輪郭をごしごしマッサージします。少々痛くてもかまいません。げんこつを使ってもいいでしょう。ごりごりやると、小さな筋のようなつぶつぶのようなしこりが一杯ありま
すから、それを均すように刺激するのです。痛いけど気持ちいい複雑な気分です。
 これらの処置を気が向いたとき試みると治るのがうんと早くなります。

 ぎっくり腰にしても寝違い(首に出たぎっくり腰)にしても深部の損傷をかばうために表面の筋肉が堅くなっています。体を動かすと奥の損傷がひどくなりますから、筋肉でよろいのように守っている訳です。しかし、それが続くと血液やリンパの流れが阻害され、筋肉の緊張が神経を圧迫するので逆に治りが悪く、痛みもひどくなります。そこで安静にしたときにはしずかに筋肉を緩めるマッサージが功を奏するのです。
しかし、患部を動揺させるような刺激は禁物であることは言うまでもありません。

 うつ伏せになれるなら(この姿勢は腰に大変悪い)、家の人にカマヤミニという小さな筒に入った火傷しないお灸がありますから、それを背中にずらっとすえてもらうと気持ちよくなります。これも静かな治療ですから安心です。

 どうしても完治する前から仕事をしなければならない方がほとんどだと思います。
そんな方には骨盤ベルトとキネシオテープ、さらにセイリンジュニアという家庭でできる鍼をお勧めします。

 キネシオテープはお相撲さんがべったりと肌色のテープを貼っているのを見たことがおありでしょう。あれは加瀬建造という創意あふれる治療師が開発したもので、スポーツ選手を初め多くの人に愛用されています。私はこのテーピングが有名になる前、多分第一番に臨床報告を専門誌に発表し、加瀬さんに大変喜ばれ、誌上座談会に招かれたことがあります。昭和60年のことでした。

 詳しい貼り方は書店に本が出ていますから、購読されるか、私のところに来て下されはお教えできます。

 骨盤ベルトはテレビでも宣伝しているようですが、骨盤に生ゴムでできたベルトをしめるのです。自転車のチューブでもよろしいです。

 セイリンジュニアは鍼ですが、先程、私が中学の息子にやらせたと書いたように家で簡単に、安全にできます。うまくツボに当たると信じられないほど痛みが和らぎます。

 テーピングは筋肉を安定させ、筋力を高め、骨盤ベルトは骨盤を安定させます。鍼は血行を促進し、鎮痛物質を発生することで痛みを和らげることが証明されています。


 ぎっくり腰は体が疲れて、もうだめだという限界になる前に、体からストップをかけてくる、いわばショックアブソーバー・安全弁です。今までの生活ぶりを猛省して、体を労りつつやっていく必要があるでしょう。

 私の仕事は鍼にしても指圧にしても、一日中中腰です。さらに寝たきりの方の訓練や運動法も腰に負担をかけます。直接介護をしている家族の人とは比較にならないくらいたいしたことではないのですが。しかし、長年の仕事が必要以上に腰に無理をし、疲れを溜めていたのでしょう。バドミントンも無関係ではありません。そこに夜遅く
まで飲み歩いたのが決定打となったのもと思われます。

 治療に携わるこちらが体を傷めるようなことがあっては、治療を受ける人に申し訳がたちません。引け目を感じさせてしまいます。本当に注意しやっていかねばと目下反省の日々を送っている毎日です。

 しかし、4日間不自由だったことで、病気のつらさを再学習できました。それに伴う社会的障害も。
 さらに介護を受けている人の気持ちのほんのさわりを学ぶ機会にもなりました。体が自由にならない辛さ、痛さ、不自由さ。さらに家人の世話になる心苦しさ、うっとうしさ、いらいら・・・たった4日でさえこうです。これが永劫に続くとしたらそれは本人にも家族にも大変な重圧です。
 もう一つあります。介護者がぎっくり腰になったら誰が障害をもつ人を介護するのでしょう。これは家族だけでなく社会的な大問題です。

 私は毎日介護をしたりされたりする人にかかわることで生活の糧を得ているのですからこれくらいの体験学習をしなければ済まない、ぎっくり腰に申し訳が立たないというものです。
 この感慨ですらその方たちからすればちゃんちゃらおかしいと言うべきものなんですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No75「江戸再考」

三島治療室便り'96,3,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://member.nifty.ne.jp/hmishima/

 

≪游々雑感≫

江戸再考

 毎月、社団法人 出版梓会というところから「出版ダイジェスト」という新刊案内紙が送られてきます。四つの出版社による共同発行のようです。
 「出版ダイジェスト」と大きく書かれた下に「毎月3回発行、購読料1ケ年送料とも1545円」などとあります。しかし実際のところ購読料は一回も払ったことはありません。

 先方でも出版紹介のための広報紙ですから、あわよくば新刊を買ってもらおうと無料で送ってくださるのでしょう。けれども内容は実に立派なもので、新聞や雑誌の書評に匹敵するものだと思います。

 宣伝広報を目的とした新聞ですから一般紙の書評のような厳しい批評などはありませんが、発行元の出版社がそれぞれ中堅ながら極めてまじめな本造りをしていることで知られているところですから、紹介されている本もすばらしいものが多いのです。
しかも各社ともに個性的。

 出版社を紹介しますと晶文社・草思社・農山漁村文化協会(農文協)・ミネルヴァ書房です。

 晶文社からは「『在外』日本人(柳原和子)」という優れたルポが出ています。これに関してはいつかこの《游氣風信》で紹介しました。

 草思社の「間違いだらけの自動車選び(徳大寺有恒)」は辛口の自動車評論と同時に日本文化批評でもある点が高く評価されて毎年度版がベストセラーに顔を連ねます。
自動車好きの男性なら一度は手に取られたのではないでしょうか。その他、「ツルはなぜ一本足で眠るのか」とか科学評論家として知られた故草下英明氏の「鉱物採集フィールド・ガイド」などがわたしの本箱に眠っています。

 雑誌「現代農業」の出版や安藤昌益の研究書で知られる農文協は、健康法の紹介にも力を入れていますが、出版社の名称から推察するに、本来は農村・山村・漁村の文化交流や発展を目指したものなのでしょう。

 宮沢賢治研究家として知られる俳優の内田朝雄さんの「私の宮沢賢治」「続・私の宮沢賢治」などの本も人間選書というシリーズとして出版していますし、健康関係ではベストセラー「冷えとり健康法(進藤義晴)」があります。この作者は元小牧市民病院の副院長で温顔の名医です。その他、故橋本敬三先生考案の「操体法」という一
世を風靡した健康法を最初に世に出したのもここです。これらは健康双書。

 意味がよく分からないのがミネルヴァ書房。学術書で知られ、学生時代何冊かのテキストはこの出版社のものだったと記憶しています。辞書によればミネルヴァとはローマやギリシャ神話に出てくる最高の女神で学問・技芸・知恵・戦争をつかさどるとされているそうです。哲学や歴史、法律の本を主に出している会社。

 さて、前置きが長くなりました。その「出版ダイジェスト」の先月号を眺めていましたら、おもしろい記事が目に飛び込んで来ましたので早速ワープロに打ち込んでおきました。紹介しましょう。

  増刊現代農業(農文協刊)編集後記にみると、「少し長い目で見ると、二十世紀 は階級(生産力と生産の関係)の時代だった。そして二十一世紀は環境(人間と自 然の関係)の時代だ・・といえないでしょうか。ものの面でもこころの面でも、人 類史はそうした意味で新しい段階に入ったとわたしたちは考えています。そのよう に考えると、日本の江戸時代のもつ意味がきわめて明瞭かつ重要になってきます」
 とある。

  これに応えるかのように、「鎖国再考」を提唱して注目されている経済史家・川 勝平太氏(早大教授)は巻頭論文で、「地球は限りある《鎖国》世界であり、人類 は『限りある世界の中での生活世界を、近世江戸社会に一度経験した』といい、  『江戸社会を世界大の視点で見直す』時代に入った」という認識を示している。

 江戸時代とは、徳川幕府による治世二六〇年間のことであることはよく知られてい
ますね。正確を期すために辞書に当たってみますと一六〇三年、徳川家康が江戸に幕
府を開き、一八六七年、徳川慶喜が大政奉還をして一八六八年、明治の新国家体制に
なるまでの間をいいます。

 わたしの江戸時代に対する認識は徳川安定政権の維持のために自由を規制し、当時忍び寄って来た西洋から国勢を守ることを目的に国を閉ざした時代。それゆえに結果として世界史上例のない長期の平和が保たれ、閉ざされた中で独自の文化が花開き、豊かさの結果「読み書き算盤」という教育が国民のすみずみまで行き届き、オランダ一国に絞った流通から国力を蓄えることができた反面、西洋の近代文明からは遠く遅れ、閉ざされた社会ゆえの閉鎖的な思考や独特の差別意識が固定してしまった毀誉褒貶相半ばする時代。そんなところでしょうか。

 そんな折り、別の本を読んでいましたら、先の論評を補足するような江戸時代観が述べられていました。著者は高岡英夫という方で元東大講師、現在は在野で「運動科学研究所」を開設し、執筆・講演・指導などの活動を幅広く行われている方です。わたしは氏の書かれた本、十数冊を全部読んでいますが、その守備範囲と深さ、精密さにはただ舌を巻くのみと白状します。

 今回読んだ本は講談社刊の「意識のかたち」という本。そこには次のように江戸に触れてあります。ただし、文体は飲み屋で古き友人達との会話形式になっていますから、随分軽い感じがしますが、内容はすばらしいものです。

  江戸時代か・・・環境問題・資源問題という観点で見ると、江戸時代というのは 極めて素晴らしい社会だったそうだな。自然に調和し、自然的な生産力を最大限有 効に活かす、例えばリサイクルのシステムなどは、大変に見事なものだったらしい。
 
  世界的に見ても最大級の都市であったにもかかわらず、江戸というのはゴミ一つ ない、世界で最も美しく、清潔な都市だった。同じ時代のロンドン、パリなど、今 日からは想像出来ないほど、ゴミと汚物にまみれた不衛生な都市だった。
  ヨーロッパ社会の疫病の流行はこうした都市環境にも、大いに関係しているわけ だ。この点だけを取り上げてみても、江戸時代が余程優れた人々の能力で支えられ ていたことは、想像にかたくないな。

  環境・資源・衛生問題と文化・学術と個人の身体運動能力とが、見事な調和をな していたのではないかな。例えば歌舞伎の美しさや浮世絵の芸術性は、ゴミと汚物 にまみれた街を平気で歩くよう個人を成員とする社会からは、生まれ得なかった のではないかな。

 こうして、偶然、江戸を見直す二つの文章に出会い、これは少し江戸時代の勉強をしければいけないなと、書店でそれらしき本を探しましたら、講談社現代新書が「新書・江戸時代」というシリーズで五冊出していました。早速全巻購入して駆け足で読んでいるところです。
 各巻の表紙のキャッチコピーと表紙裏に要約してある文章を紹介しましょう。それだけでも十分江戸をいう時代に対するイメージが変わると思われます。

  新書・江戸時代全五巻・・江戸時代暗黒史観を排し、政治・身分・農業・情報・ 流通の五つの切り口から、新しい江戸時代を立体的に描く。

 纊将軍と側用人の政治「大石慎三郎」
  社会の経済化が進んだ江戸中期の百年間。激動の時代の舵取りをした柳沢吉保、間部詮房、田沼意次らの軌跡を追い、これまで不当に貶められてきた「側用人の時代」に光を当てる。

  これまで「側用人」というと、必ずしもいい意味では語られたこなかった。むしろ「君側の奸」といった悪いイメージがつきまといがちだったのではないだろうか。
 しかし、私は、この「側用人政治」こそが、二百七十年近くにわたる徳川体制の維持を可能にし、さらに日本の「近代」を用意したものではなかったかと考えている。
 江戸時代を通じて、この制度が悪用されることはなかったし、無能な側用人がいたずらに政治を混乱させるということもなかった。

 褜身分差別社会の真実「斎藤洋一+大石慎三郎」
  身分とは何か?誰が差別されたのか?非差別民の起源は?身分制度の矛盾を追求し、江戸の社会構造を捉え直す。

  (三島注・・この項目には特殊な歴史的用語が使用されています。学術書ではなく治療院便りである≪游氣風信≫にはなじまないので割愛します)

 鍈貧農史観を見直す「佐藤常雄+大石慎三郎」
  むしろ旗を立てて一揆を繰り返す“貧しき農民たち”は事実か?年貢率、生産力のデータを検証し、江戸期の「農民貧窮史観」を覆す。

  江戸時代における在来農法の生産力水準は、近代農法と比べても決して見劣りしているわけではなく、一定の生産力を確保していたのである。むしろ、飢饉問題の本質は、幕藩領主の支配領域が錯綜していたことにある。つまり幕藩領主の農民救済策や藩外への穀物の移出を禁じた津留などの制度上の側面、農作物の流通のあり方に求められるのである。

 銈鎖国・ゆるやかな情報革命「市村佑一+大石慎三郎」 「鎖国によって日本の文明化は遅れた」ことが定説となっているが、事実か?
  幕府は海外の情報を独占・管理し、それを的確に解析できるシステムを作った。
  江戸期の情報管理を再評価する。

  いわゆる「鎖国」以来、幕末まで二百数十年の江戸時代は、これまで、世界の情報から取り残された時代という観点から、とにかくネガティブにとらえられることが多かった。江戸時代においては、それまで未知の国であった「ヨーロッパ」に関する海外の情報を的確にとらえ、同時に今日の情報化社会へのインフラストラクチャ
 ー(社会的基盤)が、徐々に形成されつつあったように思われる。「鎖国」は、いわば日本が情報の「発信」を停止した時代であり、海外からの情報を丹念に「受信」していた時代である。

 蓜流通列島の誕生「林玲子+大石慎三郎」
  庶民層の需要が高まるにつれ、江戸期二百七十年の間に流通網は発展し、政治の世界をも動かした。江戸期の商品流通を分析。

  荘園制の社会では貴族・寺社の生活物質が強制的に年貢として徴発されたのであるが、米・貨幣を庶民層からとりあげ、領主層が家禄として分配するため、年貢米をほとんど貨幣に変えなければならなかった江戸時代は領主層も流通に関心をもつ必要があった。なお、庶民層は農民・町民すべてが自ら働き、諸物資の生産・流通

 を行ったのであって、そこでは階級間の差はあれ、横のつながりが重視されたのである。その意味で、社会の大多数を占めた庶民層の需要にもとづく流通は、二百七十年ほどの江戸時代の間に大きく変化し、武士が握っている政治の世界をゆり動かす力にもなっていったと思われる。

 今回の学習で、鎖国のもつ意外な意義や庶民の総力により発展した流通の発展。武士層の命令をタテマエで受け止めホンネで受け流した町民・農民の知恵。米より儲かる名産品の生産に力を入れた農民層のしたたかさ。経済立て直しのために置かれた側用人の家格が低かった、すなわち身分制度を柔軟に横断できたという事実など、今までの江戸認識とは別の見方が得られて有益でした。

 また今日まで尾を引いている旧弊な習俗が江戸の名残であることも確認できました。しかも、今なお歴史的人物の評価において皇国史観的影響が強いことにも気づくことができたのです。
 なお、全巻共に興味深く読み進むことができましたが、第二巻の「身分差別社会の真実」のみは暗澹たる読後感でした。多くの人に読んでいただきたいと切望します。
 ぼけっとその日暮らしをしないで、たまにはこうしたまとまった勉強をするものだと反省しきり。

 それにしても、類型化されたテレビの時代劇がわたしたちに与えている江戸時代に対する悪印象には侮りがたいものがあります。
 「今も当時も本質的にはほとんど変わっていないんだな、日本人は」という実感と同時に、どうも今の日本は江戸時代の良いところを捨ててしまい、嫌な部分ばかり残ってしまったような気もします。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No74「賢治特集雑誌」

游氣風信 No74「賢治特集雑誌」

三島治療室便り'96,2,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://member.nifty.ne.jp/hmishima/

 


≪游々雑感≫

賢治特集

 昨年の夏、この≪游氣風信≫で、来年は宮沢賢治生誕100年に当たるため、数々の 催しや出版が実施されたり計画されていると書きました。年が明けて、今年が生誕百 年になるわけですが、早くも新年早々賢治特集を組む雑誌が登場しました。それも多 方面にわたって活躍した賢治らしく傾向の異なる雑誌です。

 宮沢賢治を紹介するときは誰でもその肩書の多様さにいささか困惑するでしょう。
それは肩書というより、じつは宮沢賢治は宮沢賢治として生きたから、本当は肩書な どいらないということなのです。

 通常、賢治は童話作家・詩人と紹介されます。
 ジョバンニ少年が夢の中で死後の宇宙空間を友人カムパネルラと汽車に乗って旅す る賢治の代表作「銀河鉄道の夜」、風変わりな転校生と村の子ども達の交流を描いて 度々映画にもなった「風の又三郎」、教科書によく採用される水中のカニの兄弟のス ケッチ「やまなし」、山猫に頼まれた一郎少年がどんぐりの裁判を行う「どんぐりと
山猫」、山奥の西洋料理店で、じつは食べられるのは人間の方だったというどんでん 返しの傑作「注文の多い料理店」などの童話はよく知られています。

 一昔前、我が国の優れた童話作家を三種の神器と別格官幣大社という古めかしい呼 称で並び称したことがありました。三種の神器は浜田広介と小川未明、それに坪田譲 二を指し、宮沢賢治が別格官幣大社と称されたのです。今ではまずこんな呼び方はし ないでしょう。意味もぴんときません。ただ、賢治が別格扱い、言い方を変えると児 童文学史に収めきれない、その当時から学者を困惑させる存在であったことがうかが えます。

 詩人としてはどうでしょう。
 賢治自身は心象スケッチと命名した、普通には詩とされている作品集「春と修羅」 は、童話と同様に発表当時ほとんど顧みられませんでしたが、後に多くの詩人に影響 を与え、特に中原中也は精神の奥底で賢治に通底していたと言われます。中でも「永 決の朝」は高校の教科書に取り上げられる機会が多い純度の高い絶唱で高村光太郎に 大きな影響を与えました。
 没後トランクの中から見つかった手帳の中に書かれていた走り書きの用のメモ「雨 ニモ負ケズ」は今日でも標語のように使われてとりわけ有名です。

 しかしそうした文学活動以外に農村指導や宗教活動、教育者としても高く評価され、 土壌学、鉱石学、農業化学、造園学なども相当に専門的に修め、盛岡高等農林学校(今 の岩手大学)の助教授にという声もあったそうです。
 近年、教育者としての賢治がとても重要視されて、昨年「賢治の学校」が開講しま した。後述する照井さんは賢治の教え子で、のちに花巻市の有力者として文化面で活 躍され91歳の今日も幼稚園の園長先生を努めておられますが、75年も前に受けた賢治 の授業を今でも再現できるほどよく覚えておられます。それは知識だけでなく、感動 を与えられた授業だったからに違いありません。彼だけでなく多くの生徒がそうなの です。それを目の当たりにした元小学校教師鳥山敏子さんなどが中心になって「賢治 の学校」が旗揚げされたのです。

 さて、特集雑誌を見ていきましょう。
 十数年前、まだアウトドアなどという言葉が一般的でないころから、自然の中で遊 び、それを機会に楽しみながら自然や環境に目を向けようという娯楽雑誌「BE-P AL(ビーパル)」が小学館から月刊で発行されました。今日でもアウトドアブーム のけん引誌として多く読まれています。
 キャンプ用品や野外で着る服、野遊びに最適な自動車などを紹介しつつ、自然保護 に地道に取り組んでいる人を丁寧に紹介したり、自然派生活をしている人のエッセイ や身近な生物・鉱物図鑑などを載せている雑誌です。ちょうど発刊当時からはやり始 めたポパイなどのファッションカタログ雑誌のアウトドア版という感じの手軽な本で
すが、中身はかなり濃い記事もあります。

 この「BEーPAL」が2月号で生誕100年記念スペシャル「ナチュラリスト 宮沢 賢治の詩的・野遊び術」という特集を写真を豊富にした内容で取り上げています。こ れなら賢治になじみがない人にも興味を持たせるに十分な内容の記事だと思えます。

 宮沢賢治は、その類いまれなる自然への観察眼と、瑞々しい感性を生かして、数々 の美しい詩や、童話を創作した。ナチュラリスト・賢治は、当時、どのように自然を 楽しんできたのか。作品と、証言から説き明かす賢治の自然生活。

 この導入部から賢治の野遊び術を具体的に同好者の証言とともに紹介してあります。
それによると賢治は当時最もハイカラなスタイルで野山を歩き回ったようです。手近 な野歩きなら売り出されたばかりのダルマ靴を履き、手帳を携え、シャープペンシル を首にぶら下げ、道々、心に思い浮かぶことばをスケッチするようにどしどし書き連 ねていったのです。

 ダルマ靴は今日の革靴の形で材質はゴム。岩手県花巻市に生まれ育ち生涯を終えた 賢治は何回も東京の土を踏んでいます。このダルマ靴は普及間もないころ銀座で購入 したと言い伝えられているそうです。シャープペンシルだって当時まだ珍しく高価な ものであったに違いありません。

 岩手山などを本格的に登山するときは、洒落たニッカボッカなどを身につけ、携帯 食料としてチョコレートとクッキー、携帯寝具として新聞紙を携えるという軽装。歩 くのがとても早かったと誰もが証言しています。
 岩石学が専門だった賢治は常にハンマーを携帯しこれと思う岩を叩いて観察したり 収集したりしたそうで、花巻近郊で賢治に叩かれなかった岩はないという逸話まで残 しています。

 また、当時日本に導入されたばかりのスキー(写真を見るとストックは一本でイカ ダを漕ぐように使っています)や下駄に刃を付けた下駄スケートも楽しんだようです。

 これと同類の下駄スケートは長野出身の家内も子どものころ田圃を凍らせた簡易ス ケート場で冬になると遊んだと言っています。男用の下駄の歯がないものにスケート の刃が固定してあるだけ。こんなのでよく滑れるものと感心しますが、足袋を履いて 鼻緒に指を通し、つまり、普通の下駄の履き方に加えて、踵が浮かないように紐で縛 るのだそうです。足と下駄を結び付ける紐がすぐにほどけて、かじかんだ手が痛く、 泣きそうに結んだと兄弟が集まるとよく話題にしています。

 わたしが子どものころ、スケート場の貸すスケート靴は今のものと同じでしたから この特集の写真を見るまでは下駄スケートなど何度ことばで説明を受けても想像もで きませんでした。今の40歳位までが下駄スケートの最後の世代のようです。もちろん 長野でも当時からスケート場に行けばきちんとしたスケート靴だったのでしょうが自
前で持ったり、学校が揃えたりできるのは安価な下駄スケートだったそうです。

 先に登場しました賢治の教え子で現在91歳の照井謹二郎氏は賢治と一緒に岩手山登 山をしたことのある生き証人ですが、興味深いことを話されています。
 「宮澤先生は焚き火をする前に、薪に向かって挨拶をするんです。『使わしてもら います』って深々と頭を下げて、それからそっと、火をつけるんです」

 賢治の人柄が彷彿とさせられる証言ですね。

1896年8月27日に宮沢賢治は生まれました。
賢治の中では、詩や童話、音楽などの芸術も、
科学や技術も、宗教も、一つに融合されていました。
あらゆるひとのいちばんの幸福。
賢治は岩手県を「イーハトーブ」と呼び、
そこに理想郷を思い描きましたが、それはまた、
はるかな4次元時空への入り口だったようです。
賢治が生まれて100年。
この間に世界は大きく変わりました。
しかし、今もこの地球上のどこかで
争いがあり、憎しみがうずを巻き、
飢えや寒さにふるえる子供たちがいます。
死後、ますます読みつがれ、語りつがれる賢治。
その夢にまだ終わりはありません。

  「われらに要るものは
  銀河を包む
  透明な意志
  巨きな力と
  熱である」(「農民芸術概論綱要」より)

という壮大な文章で始まるのは科学雑誌の老舗「科学朝日(朝日新聞社発行)」の特
集です。

  生誕100年イーハトーブ・・科学の彼方に 宮沢賢治が求めた世界

これが特集のタイトル。
 先程の「BE-PAL」が野遊びの面に焦点を当てていたのに対し、こちらは科学 雑誌らしく科学的側面に焦点を当てつつ、賢治の目指した世界の追求も怠っていませ ん。つまり科学雑誌と言えども科学のみに拘泥していないのです。タイトルも「科学 の彼方に」ですから。

 科学はものの見方考え方であり、そこから生みだれた技術が科学技術。それを用い るのが人間であれば、科学技術の一人歩きをしっかり規制しなければならないのも人 間の仕事です。ここに賢治の宗教・科学・芸術を融和統合しようとした生き方が現代 から未来に向けて求められたいるのでしょう。ですから、「科学朝日」が賢治を特集 したのだと思います。

 特集の中で特に興味を引いたのは「児童文学者が読む『よだかの星』」でした。著 者は児童文学作家で日本野鳥の会の国松俊英さん。
 「よだかの星」という話は切なく、どうにも解決できない命題すなわち「生き物が 生きるためには他の生き物を殺して食べなければならない」ということを主題にして います。

 よだかという鳥は嫌われもので、鳥仲間からいじめられて行き所がないどころか、 鷹に食べると脅されます。そんな時、よだかは口の中に飛び込んだかぶとむしを呑み 込んでしまいます。自分は鷹に食べられることを恐れていながら、生きるために虫を 食べる。このしがらみから抜けるためによだかは天に舞い上がって星になるという美
しくも哀しい物語で内容の深さから賢治の作中でも感性度の高い傑作とされています。

 その主題とは全く関係ない瑣末なことですが、以前から疑問に思っていたことがあ りました。それはヨダカにはカワセミと蜂すずめ(ハチドリ)という弟がいるという 設定です。確か詩にも同じことが書かれていたと記憶しています。しかし、なぜフク ロウみたいなヨダカ(正式にはヨタカ)と鳥の宝石と称されるカワセミやハチドリが 兄弟なのでしょう。著者の国松さんも同様の疑問を持たれたようです。しかも野鳥の 会の人らしく専門的に。文を引きましょう。
 
  現在の鳥類の分類では、ヨタカはヨタカ目、カワセミはブッポウソウ目、ハチドリはアマツバメ目となっている。このように異なって分類されている3つの鳥が、どうして賢治の作品では兄弟になるのか、最初私にはわからなかった。なにか理   由があるのか、それとも賢治が思いつきで書いたか。(中略)1920年発行の「東京帝室博物館天産部・列品案内目録」である。その目録は、当時学習院大学教授で動物学者だった飯塚啓の監修で、鳥類の分類は英国の鳥類学者R・B・シャープが 著した「A HAND-LIST of THE GENERA andSPECIES of BIRDS(鳥類種属表)」に  したがっていた。その目録を見ていくと、現在の分類と違って、ヨタカ、カワセミ、ハチドリの3つの鳥は、みんなブッポウソウ目に入っていた。「よだかの星」に出てきた3種の鳥は、当時最新の分類とされていたシャープの分類表では同じ目だったのである。3つを兄弟にしていたのは思いつきではなかった。(中略) 賢治が作品に書いたのは、科学的な裏づけがあるものだった。

 これでわたしの疑問も氷解しました。専門家は細かなことまできちんと調べるもの と感心しています。

 次の記事「地質学者が読む「グスコーブドリの伝記」(高橋正樹)」も読みごたえ がありました。
 賢治の思想の根幹をなすものに「自己犠牲」があると言われています。多くの人達
のために自らを犠牲にする。先程のよだかも他の生物を食べて生きることを放棄して 星として輝く道を求めました。自己犠牲などきれいごとで、誰だっていざとなれば自 分が可愛いものですが、時に我が身を顧みず人を助ける人がいることも事実です。「グ スコーブドリの伝記」は自己犠牲を主題とした作品として知られています。骨格はしっ かりした作品ですが肉付けの方が今一つ薄いと感じているのですが、賢治を考えるう えでとても貴重な作品です。

 賢治は自分が生き物の命を食している以上、最後には命をお返しするという気持ち があったように思います。先程、薪を燃やすときに「燃やさせてもらいます」と頭を 下げたという逸話にもそれは見て取れます。賢治の思想には人も動物も植物も鉱物も 同じ命としてバランスを取り合って地球という星に生きているという発想がすでにあっ
たのです。それは自然科学と化学、それに仏教から学んだもののようです。

 地質学者の高橋さんは最後の方でこう述べます。

 賢治の中では、宗教と科学と合理主義とが、実に見事な調和を示している。悪いの は科学そのものではなく、それを扱う人間の心にある。この単純明快な命題が、今、 忘れ去られてはいないか。賢治の死後すでに60余年の歳月が過ぎ去ったが、自然災害 にしろ、経済問題にしろ、山積みする世紀末の不条理で困難な課題の前で、ともすれ ば非合理主義へと逃避してしまいがちな、正しくもなければ強くもない凡庸な私たち に、彼の「グスコーブドリの伝記」は朽ちることのない勇気と希望を与え続けてくれ ることだろう。

として、最後に賢治の有名な言葉で締めくくっています。

 正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
 われらは世界のまことの幸福を索ねよう
 求道すでに道である
(「農民芸術概論綱要」より)

 生誕100年、没後62年。生前全く無名のままに37年の生涯を終えた風変わりな青年。

 まだまともなオーケストラが日本に無いころから、楽器を買い込んで農村の若者達 とオーケストラを作ろうとしたした夢見る理想家。
 貧しい農家の人が持ち込んだ全く無用なものに同情心から高い値をつけた感受性の 強い古着屋の若旦那。
 一生を東北の花巻という小さな町で旧弊な慣習と大正時代の新しい風の中でもがく ように、泳ぐように過ごした宮沢賢治という人の作品や生き方が、今日、広く海外に まで紹介され共感されている理由が、これらの特集を通じてお解りいただけたでしょ うか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No73「年頭に当たって」

三島治療室便り'96,1,1

≪游々雑感≫

年頭に当たって

 昨年は実にいろいろなことがあった年でした。
 一月十七日の阪神淡路の大地震。
 狂信的集団による無差別テロ。これは一昨年の松本事件に続いたものでした。
 新卒者の就職不況、銀行の破綻などの経済活動の沈滞。
 高齢者対策、医療や年金などの福祉の限界。
 政治の混迷。
 戦後五十年の集大成がこれではとても寂しいことですが、しかし、わたしたちの生 活は未来に向かうのみです。

 未来に向かって新聞等をにぎわせている大きな話題もあります。
 昨年はインターネット元年と呼んでもいいほど、新しい情報社会の幕開けとなりま した。まだ、実体が明瞭には把握されていませんが、およそ世界のコンピューター一 千万台が電話回線を介して繋がったということは、産業革命に匹敵する情報革命のた だ中に放りこまれていると言っても過言ではありません。考えてみてください。何も 無かった家に突然テレビがやってきた時の驚き。今回のインターネットは電話とテレ ビとビデオとステレオが合体してやってきたのです。それはテレビのような単なる受 け身ではなく、こちらからさまざまな操作や選択ができるというものです。
 テレビ電話もインターネットを介して実際のものとなり、自宅のボタンひとつでル ーブル美術館を拝観でき、アメリカの図書館の百科大事典が操れる、さまざまな商品 が国家の定めた通貨でなく電子マネーと呼ばれる形で売買される時代。それが現実と なってきているのです。わたしたちは目に見えない空間に脳と社会を共有していると 言っても過言ではないでしょう。

 すでにインターネットと電話回線を結んでいる人も、いずれ参加してみようと思っ ている人も、全く興味が無いという人も否応無くこの空間脳の世界に住むことになる のです。いえ、もう住んでいるのです。しっかりとした自分の足で、目で生きていく ことがこれほど要求される時代もなかったのではないでしょうか。
 そう考えるとインターネットがはたして明るい話題と言い切れる自信はなくなって しまいますが大いなる可能性があることは確かです。

 今月号で≪游氣風信≫も月刊で七十三号、七年目に入ります。わたしにとって≪游 氣風信≫はすでに自分自身の「行」のような存在になってしまっていますので、また 今年一年頑張ってみます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No72「出会いの深さ(追悼島田和江さん)」

三島治療室便り'95,12,1

《游々雑感》

出会いの深さ

 今年九月八日朝、一人の女性が六三才でこの世を去りました。
 この方は昨年春、胃ガンの手術を受け、今年夏、再発。一カ月の厳しい闘病の末、 亡くなられたのです。
 わたしはこの方の娘さんとの縁で、名古屋市立大学病院入院中の患者さんの手技治 療に数回訪問しました。その時の手技治療の効果は、残念ながら治癒へ向けてではあ りませんでしたが、結果として患者さんの終末医療に大きく貢献できました。それは 主として精神的な支えとしてです。

 基本的な手当(薬物による苦痛緩和、尿の管理、栄養補給の点滴など)は病院で医 師の管理下、看護婦さんが献身的にされていました。当然のことです。
 わたしは一日置きに訪問して約一時間、全身の静かな指圧を行ったのです。東洋医 学で免疫力を高めるとされるツボ刺激や、寝たままの窮屈な体を伸びやかにストレッ チを加味して。
 少なくともその間、患者さんの心身の苦痛は非常に緩和され、意識のしっかりされ ていた間はわたしの訪問を心待ちされていたようです。

 優れたフリーランス(特定の組織に所属していないこと)の編集者でもある娘さん はお母さんの思い出や闘病の様子を本として残したいと考えられ、わたしにも原稿を 依頼されました。
 今月号に掲載する文章はその本のために書いたものを、娘さんの許可を得てこの《游 氣風信》の読者にお見せするものです。その際、名を伏せてという申し出に対し、娘 の中村設子さんは 「自分たちのつらかった体験や母のことを多くの人に知ってもらいたいし、すべて事 実のことですから実名で結構です」 とおっしゃいました。
 そのご厚意に甘えて、全文を紹介します。

出会いの深さ

 人にはさまざまな出会いがある。
 出会いが新しい出会いを生み、周囲を巻き込みながら渦巻いていく。
 人の世を生きるとはこうした出会いを綾なしていくことなのだろう。
 出会いの中で、人は人間として育てられるのだ。

 「お母さん、背中をマッサージしますから、力を抜いて楽にしてください」
 島田和江さんは衰弱した体をベッドに横たえ、あちこちにチューブを通した、いわ ゆるスパゲッティ状態であった。しかし彼女はそんな極限状態にもかかわらず、わた しがマッサージしやすいようにからだを起こそうと力を振り絞っているのだ。

 ふたたび声をかけた。
 「頑張らなくていいから、楽にしてくださいね」
するとベッドの脇の手摺りを持つ痩せた手がほっとしたように緩んだ。
 数十分に及ぶマッサージの間、幾度となくこうしたやり取りを繰り返した。亡くな る数日前のことだったろうか。

 島田和江さんは当時、がん末期の腸閉塞のために昼夜あえぎの中にいた。
 嘔吐の苦しみ。
 排尿困難からの腹水。
 悪液質というがん特有の衰弱。
 それでもなお、島田さんはわたしのためにマッサージしやすい姿勢を作ろうとして いる。わたしは彼女をマッサージしながらその行為に感嘆を禁ずるわけにはいかなかっ た。
 さらには彼女の懸命な行為から、人間の最期のこと、同時にその生きて来し方を問 わずにはおれなかった。
 なぜなら、島田さんは言語を絶する困窮状態にあったにも関わらず、治療を受ける 間、他人への心遣いを絶え間無く示された。彼女の頑張りや他人への思いやりは一朝 一夕で身に着くものではない。おそらくそれは彼女の生涯を通じて育まれた信条では なかったかと考えたからである。
 他者への思いがこんな極限にあっても自ずから出てくるというのは驚異的なことだ ろう。何回か病室に伺いながらいつも島田さんの言動に強い感動をもって退室したの だ。

 わたしと島田和江さんの関わりは本当に短い。正味一カ月ほどである。実際にお会 いしたのはかっきり十日でしかない。しかもその間、会話らしい会話はほとんどない。
当然である。彼女はずっと闘病の中におられたのだから。
 意識が半ば遠のき、脳の中には苦しさ以外の情報が届かないのではないかと思われ る彼女に対してわたしのできること、それは、祈りに近い思いを込めたマッサージだ けであった。掌を通して彼女にひとときの安らぎを与えられたらとそれだけを願った のである。
 彼女とわたしの関わりはそれが全てであった。

 あれは入院される前、七月二十九日だった。 娘の設子さんに伴われてわたしの治 療室を訪れた島田さんはまだしっかりした足取りであった。前年の春、胃がんの手術 をされて多少痩せられたにもかかわらず・・・。
 その時点ではそれから一月半足らずで亡くなるとは誰にも想像しえなかっただろう。
その日の彼女はそれほどしっかりしておられた。
 初対面の印象はいまだに明瞭に記憶している。
 穏やかな人当たりの中にも、どこか自らを厳しく律するような物腰。
 物おじしない姿勢の良さ。
 表情や言葉遣いの端々にみられる気品。
 それらは娘さんと共通していながらそれ以上にやさしく練られていた。

 それから二十日ほどして、急に病状が悪化し、W病院に入られた時は、もはや重大 な状況にあることは一目で見て取れた。
 その後、大学病院に移られた島田さんの自然治癒を高めるための手技治療を主治医 承認の上で引き受けたわたしは、背中に設子さんのお母さんの再起を願う切実な眼差 しを感じながら病室に通うことになる。
 同時に病気の妻を支えつつ自分自身を賢明に励まそうとしておられる島田さんのご 主人の寡黙で温和な表情を通じて、長年の夫婦の有り様に思いを巡らせもした。

 日に日に衰えていく母を決して諦めることなく情熱的に看病し、あらゆる手立てを 講じようとしいる娘と、妻を失う現実を必死で耐えながらも許容しようとしている夫。

 こうした人達に見守られての厳しい闘病は結果としては残念な結末を迎えた。
 しかしただ一日だけ、まるで神様からのご褒美のように、すっかり衰弱し、意識す ら無くしたと思われた島田さんが奇跡的に盛り返した日があった。九月五日のことで ある。
 彼女は看病の人たちに、
「もしや」
という期待を持たせるに十分な元気さで反応した。
 胃の中に滞留していたものの排出がうまくいったのだろうか。利尿剤も効いたに違 いない。それに加えて痛み止めも意識を阻害することなく奏功したのだろう。あるい は彼女の精根振り絞った頑張り。それら全てがうまく作用したのだ。まさに僥倖のよ うな一日だった。
 顔の表情は撥刺として、周囲の人達と会話もできた。
 マッサージの時も姿勢の移動をてきぱきこなし、足の運動や手の運動を自分から積 極的に行い、看護の人達を喜ばせたのである。
 けれどもそれは丁度、ロウソクが燃え尽きる前の一瞬のほのめきであったのであろ う。わたしはそのあまりの元気すぎる行動にかえって最期の時の近いことを直感せず にはいられなかった。
 二十一年前、鬼籍へ送った父のときもそうであったからだ。

 二十一年前、わたしが二十才、父が四十七才であった。あと半年と宣告された月日 が残り少なくなった頃、父は奈良に住む妹のお土産のブドウをおいしそうに食べ、上 機嫌で話をしていた。
 帰り道、父の妹はわたしに
「このぶんなら、兄さん、まだまだ大丈夫ね」
と言ってわたしを励ましながら別れた。
 その夜、父は急に昏睡状態となり、ついに目覚めることなく、田舎の両親の到着を 待つように亡くなったのだ。次の日のことだ。
 わたしは島田和江さんの元気さに、ふと、それを思い出さざるを得なかった。

 島田さんの衰弱が目に見えて厳しさを増してきたある日、わたしは階下まで見送り に来てくれた設子さんの肩を別れ際にぽんと叩きながら、こう胸の中でつぶやいた。

「もう、覚悟したほうがいいよ」
しかし、ついに声には出せなかった。
 その段階で設子さんに母を諦める気持ちが微塵も感じられなかったからだ。設子さ んの中には、まだまだ母の生を心底信じ切っている、何とか良くしたいという信念が 燃え盛っていることを強く感じたからだ。その母に寄せる思いに他人が口を出せよう か。

 母を見送るのは順番だからいいのだという意見がある。
 それは対象を突き放して見たときには一理ある。真理と言っても良いだろう。しか し、真理かならずしも人を救うことはない。
 見送る人と見送られる人とが二人で築き上げてきた歴史に誰が口を挟めようか。一 般論は空しいだけだ。こんな時他人はただ見守るだけである。
 その点、設子さんのご主人の態度は看護から葬儀まで一貫して実に見事であった。

 まだこの掌に彼女がこの世に生きてあった肉体の感覚がしっかりと残っている。背 筋を正して、正面を向いて生き抜いたであろうひとりの女性の温もりが。
 昭和の日本という激動に翻弄されながら、すばらしい子供たちを育み、家庭を築き、 周りから慕われ、頼りにされ、愛されて六十三歳で逝ったひとりの女性に対してわた しができること、それは彼女との出会いをわたしのこれからの人生の礎にさせていた だくことだ。
 これが亡くなるわずか一カ月前に知り合い、闘病に付き合い、生死のはざまの厳し さを教えてくださった島田さんとの出会いに報い、その出会いの意味を深める唯一の 方法だと信じている。
 わたしにできる供養はそれしかない。

 島田和江さんの背筋正しく生きる姿勢は娘の設子さんにしっかりと受け継がれてい る。 これこそ、彼女の生きた証に違いないだろう。
 これから設子さんが和江さんの命を引き継ぐ。
 肉体の命だけでなく魂の命をもだ。
 この追悼本は彼女がこれから生きていく決意と証にほかならない。



| | コメント (0) | トラックバック (0)

游氣風信 No71「乱読・積読 」

三島治療室便り'95,11,1

《游々雑感》

乱読積読
(らんどく・つんどく)

 今、読みかけの本は「ソフィーの世界」。
 ノルウェーの作家ヨースタイン・ゴルデルの世界的ベストセラーです。日本で も今年の六月にNHK出版から刊行以来、すでに百万部を越える勢いだそうで、 厚さが4センチ、667頁もあるハードカバーの本の売れ方としては驚異的な数でしょ う。今年の出版界の一番大きな話題となることは間違いありません。
 作者は元高校教師で専門は哲学だったそうですが、今は作家に専念しています。

 「哲学者からの不思議な手紙」という副題をもつこの本の内容は上質なファン タジー(幻想)と、謎をはらんだミステリー、高校か大学教養科目レベルの西洋 哲学史を同時進行させるという全く新しい形式の小説で、物語の中ほどでファン タジーらしく大どんでん返しがあり、あっと驚かせてくれます。

 哲学の歴史を神話時代から今日に至るまで順に分かりやすく説いて、人類の思 考の流れを大づかみにできるという知的好奇心を満足させながら、不思議なスト ーリーの展開に興味を持たせ、なおかつ現代文明への警鐘やフェミニズム(女性 解放)、国際平和問題などもさりげなくちりばめるなど心憎い演出があり、内容 が重層的に濃い作品で、世界各国で売れに売れている理由が分かります。

 わたしは夏の終わりから読みかけて現在四分の三ほど読み進んでいます。夏の 終わりから読み出してまだ読み終えていないとは、分厚い本とはいえいかにも遅 いでしょう。
 理由のひとつには、哲学講義の部分をていねいに読んでいるということがあり ます。ストーリーだけを読むなら斜めに読み飛ばしてもいいのですが、せっかく 講義形式をとってあるので吟味しながら読み進んでいるわけです。
 それから言い訳がましいことを言えば、まとまって読書に集中できる時間が案 外少ないことや、電車に持ち込むにはこの本はあまりも重くて適さないというこ ともあります。通勤時間はとても大切な読書の時間なのです。

 でも、読書が遅い一番の理由は違います。
 それは、わたしは本は熟読せず、いつも乱読でごまかして一冊の本に集中しな いからなのです。その本だけに時間を裂かないで同時に何冊かの本を平行して読 む方法を昔からとってきました。なぜならば、興味の範囲が偏るのを避けるため と、飽きっぽい性格をなだめながら読書するためです。

 けれども、こういう読書方法をとる人は案外いるのではないでしょうか。忙し い人ほどまとまった読書時間を作ることができないので、空いた時間に見合う本 をその場その場で選んで読んでいるのです。
 ある程度長い時間が作れる時は分厚い本を机に向かって読みます。あるいは集 中して学習しながら読まなければならない本を選ぶでしょう。短い時間が空いた 時は内容の軽い読み飛ばせる本、電車の中で読むなら携帯性に優れた文庫や新書 という具合。

 東京行の新幹線の中で「情報整理のすべて」(PHP出版THE21増刊号) を読んでいましたら、岐阜選出の国会議員野田聖子氏の読書法が載っていました。
それがわたしと似ていて、氏は「あちこち置い読(とく)法」と名付けています。
空き時間を有効に使うためにあらかじめ「あちこち」に本を置いておくのです。
なぜなら一冊の本をちまちま読んでいては、情報が「単数」になりかねないから、 いくつもの本を同時並行して読むのだと書かれています。
 氏は「コマ切れに」「あちこちで」「同時並行に」という読書法で年間200冊 も読まれるそうです。政治家は世間で考えられる以上に勉強しているとは氏のお 言葉です。なるほど、さすが政治家と言いたいところですが、勉強の内容を吟味 したい政治家も多いと思いますよね。

 ちなみに、わたしが先の「ソフィーの世界」とほぼ同時進行で読んだ本を列記 しますと、

天動説(坂本宮尾・句集・花神社)
脳内革命(春山茂雄・サンマーク出版)
神経内科(小長谷正明・岩波新書)
ゾウの時間 ネズミの時間(本川達雄・中公新書)
二度目の大往生(永六輔・岩波新書)
パソコンをどう使うか(諏訪邦夫・中公新書)
日本語はどういう言語か(三浦つとむ・講談社学術文庫)
俳句関係の雑誌数冊
仕事に関係した鍼灸専門誌
その他、各種の週刊誌や写真週刊誌、新商品紹介雑誌、自動車雑誌、格闘技系雑
誌など。

 ざっと内容を紹介しましょうか。

 句集「天動説」
を書かれた坂本宮尾さんは俳句の仲間、大先輩です。東洋大学文学部教授で、英 文学が専門。イギリス留学中に知り合ったご主人を早くに亡くされた彼女は、先 年、四十代半ばでアメリカに子連れ留学をされ、「アメリカは楽しかったー息子 たちの異文化体験」という本をサイマル出版から出されています。
 彼女の句集としてはこの「天動説」が始めてとなります。
 俳句は山口青邨、有馬朗人、黒田杏子先生に師事。

  ぬばたまの夜やひと触れし髪洗ふ
  ほうたるとひとつ息してゐたりけり
  はるかなる天動説や畑を打つ

などの句が注目されています。
 昨年、長島温泉でわたしたちの所属している俳句の会の全国大会があったとき 彼女の作った

  ひと畝の紫蘇を育てて木曽輪中
  万太郎ほたるのごとき仮名散らし

は印象的な句でした。
 万太郎とは劇作家で俳人の久保田万太郎。彼が桑名の船津屋という古い旅館に 逗留していたときに書いた軸の繊細な文字を詠んだ俳句です。この軸が船津屋の 主の計らいで床に掛けてあり、その演出に参加者が感動したのでした。この句は その感動に対する挨拶です。

 「脳内革命」
はこの風信でたびたび取り上げました。楽しいことに集中したり、プラス思考で ものごとをとらえていくと、脳の中に良いホルモンが生まれ、これは体にも良い 作用を及ぼし、毒性の強い活性酸素も押さえるが、怒ったり、マイナス思考で考 えると体に害を及ぼす物質が発生し、活性酸素も増えるという内容でした。

 人のためや、周囲を生かす行為をするとこの良い脳内ホルモンが無尽蔵に出て くるので、二十一世紀は人類全体がこうした方向に進むべきだと、医学的見地か らこの地球という星の将来を見据えた啓蒙の書となっています。今、大変読まれ ています。

 鍼や指圧のように心地よい刺激を身体に与えることでも良いホルモンが作られ るというので、わたし達の仕事には素晴らしい応援になります。

 運動・食事・瞑想が健康の三本柱と解かれていますが詳細は読んでみてくださ い。いろいろと啓発されます。
 こうした本が広く読まれているのは「ソフィーの世界」と同様すばらしことで す。この一年、オウム真理教に振り回されてきた日本人も、まだまだ捨てたもの ではないと感じさせてくれますよ。

 「神経内科」
は仕事上、神経性難病の方の在宅ケアに携わっていますから必要知識を学習する ために読みました。

 「ゾウの時間 ネズミの時間」
は副題に「サイズの生物学」と銘打ち、体のサイズから生物をみるとその可能性 や限界が見えてくるというものです。作者は教育テレビで半年間講座をもってい ましたからご覧になった方もおありでしょう。おかしな自作自演の歌を生真面目 に歌いながらの生物学講座「歌う生物学」は笑えました。
 通常わたしたちは一生を時間で捕らえます。しかし、それは人間を中心とした 時間です。サイズの異なる生き物は違う時間を生きているのではないかとこの著 者本川教授は言います。そして次のような歌を作られたのです。

一生のうた

1、ゾウさんも
  ネコも ネズミも 心臓は
  ドッキン ドッキン ドッキンと
  二〇億回 打って止まる
2、ウグイスも
  カラス トンビに ツル ダチョウ
  スゥハァ スゥハァ スゥハァと
  息を 三億回 吸って終わる
3、けものなら
  みんな変わらず 一生に
  一キログラムの 体重あたり
  十五億ジュールの 消費する

 哺乳類はゾウもネズミももちろん人間も一生の間に20億回心臓が鼓動して一生 を終えるそうです。ネズミのように小さい心臓では早く血液を送らないと体が冷 えてしまうので忙しいのです。ゾウは体が大きいのでゆっくりでいいのです。ネ ズミの寿命が短くて、ゾウは長生きといいますが、一生に心臓の打つ数はほとん ど同じというのはおもしろいですね。
 この本は三年前のベストセラーでしたが、わたしは買ってずっと積ん読、今頃 になって読んだのでした。

 「二度目の大往生」
からは次の文を引いておきます。

「あなた、悲しいだろうが、これでいいんだ。
いいかい、これが、あなたが死んで、年寄りが残ったりしてみろ、一人娘を先に 逝かせた老人、これは他人が慰められるものじゃない。 しかし、父親を亡くした娘さん、これは物の順序だ。これが世の中というもんだ。 寂しかったら私のところに遊びにいらっしゃい!いや、いい仏になった」

 ☆藍染めの名手の片野元彦さんが亡くなられたとき、岡山から葬儀に駆けつけ たという老人が、遺された娘さんに言ったことば。僕はこの老人こそ、名僧の資 格があると感動した。

 永さんには昨年「大往生」の紹介文をこの風信に書いた時、出版社気付で送り ましたら、とんぼ返りに葉書をいただきました。多い日は100通も返事を書く人 だとは以前から知っていましたが、その迅速さには驚いたのです。
 ついでの折りに永さんと親しい俳句の師、黒田杏子先生にこのことを手紙で書 きましたら 「永さんとはそういう人です。」
と、お返事をいただきました。そういう人とはどういう人かよくわかりませんが、 なんとなくそういう人だなという印象は受けたのです。俳句の師弟らしいまこと に俳句的なやり取りでした。
 ちなみに、黒田先生は来年度のテレビ、NHK俳壇の講師を月に1回担当され ます。興味ある方はご覧ください。

 「パソコンをどう使うか」
 この本は大ベストセラーになった野口悠紀男著「超整理法」の中ですばらしい と紹介された「ナースのためのパソコン入門(諏訪邦夫著・中外医学社)」を、 多くの人からの要望に応えて諏訪氏が一般向けに書きおろされ爆発的に火がつい た本です。著者は医師。実際に苦労して使いこなしてきた体験から導かれた初心 者向けのパソコン本です。

 パソコン雑誌はマニアのために書かれているのであまりに難しくまた、パソコ ンのためのパソコンといった無用な記事が多く、これからパソコンを仕事に使お うという人の役に立ちにくいのに比べ、この本は実務でどう使うかがしっかりと した著者の哲学のもとに書かれていて人々の共感を得ました。

 ただ惜しむらくはこの本が出た95年4月以降、パソコンの世界はパソコン本体 の急激な進歩やソフトウェアの大変化があり、内容の一部が、早くも時代遅れに なりつつあることです。しかし、これはこの種の本としてはしかたありません。 パソコンとの付き合い方などは大いに参考になります。

 「日本語はどういう言語か」
は内容が難しくて、考えながら読まなければならない本なのでまだ読みかけ。
 例えば〈助詞〉「が」と「は」の使いわけの項。

 わたし(は)頭(が)痛い。
 象(は)鼻(が)長い。

から、「が」を小さなせまい部分に「は」を大きくひろい部分に使って組み合わ せるという使いかたを読み取り、

 からたちのとげはいたいいよ
 からたち(は)畑の垣根よ

から、「は」には特殊性を扱う場合と普遍性を扱う場合と二種類の使い方がある という重大な事実を読み取ることができると書かれています。
 「からたちの刺は痛い」というのは「からたちの刺」の普遍性を表し、「から たちを利用した畑の垣根」は四季を通じてあるという普遍性を表す、つまり、助 詞の「は」は特殊性を表すときも普遍性を表すときにも用いられるというのです。
全編こんな感じですからなかなか読み進めないことにご理解いただけると思いま す。

 雑誌類は興味ある記事を拾い読みするだけで、必要とあればその記事は切り取っ て袋に入れて保存し、あとはさっさと捨ててしまいます。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年2月 | トップページ | 2011年7月 »