« 游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」 | トップページ | 游氣風信 No65「五月」 »

2011年2月22日 (火)

游氣風信 No64「個人本・寄贈本 」

游氣風信 No64「個人本・寄贈本 」

三島治療室便り'95,4,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


《游々雑感》

個人本・寄贈本

 このごろ個人出版が盛んになっているようです。
定年退職を期に自分の半生を日記のように追憶したもの、趣味で続けてきた俳句や
短歌を整理して句集や歌集にまとめたもの、市井の学者として長年の研究の成果を世
に問うもの、亡き親を偲んでその業績を一冊にして供養とするものなどです。

 わたしも最近いろいろな方からそうした出版物をいただく機会が増えました。社会
が豊かになったので意外と簡単に出版できるようになったのでしょう。ただし、書く
ことが簡単なのではなく、経費的に簡単になったということですから誤解ないように。

 わたしが初めていただいた個人出版物は俳句仲間の句集でした。そのとき、これは
一応いっぱしの大人として認められたのかなという印象を抱いたものです。今から12
年くらい前のことでしょうか。その句集の鑑賞文を当時所属していた小さな俳句結社
に掲載した覚えがあります。懐かしい思い出です。

 次にいただいたのは「思い出の小田木小学校」という本でした。10年くらい前のこ
とです。
 著者は小出鑑一さん。元校長先生で、教員人生のふりだしとなった小学校が閉校と
なったのを機縁として書かれたものです。
 奥付を見ると昭和59年12月発行とあります。折り込み年譜の最後は「昭和58年2月1
0日、66歳、内孫誕生」となっていますが、著者は奥さん共々、今日ますますご健在
で、そのお孫さんもこの春はれて中学生になられました。

 著者の小出鑑一さんは何十年も前から岩波新書全冊読破に挑戦中。難解なことで知
られる岩波新書を毎月数冊づつ読みのは大変な努力と知力が必要です。また地区の老
人会長として活躍され、健康のためにゲートボールや一日1万歩も実行中とかくしゃ
くたる毎日を過ごしておられるまさに名前の通り人の鑑みのような方です。

 本の内容は昭和12年、師範学校を出たばかりの新米教師、小出さんの最初の赴任先
愛知県北設楽郡小田木尋常高等小学校の日常が当時の日記とその解説という形式で描
かれているものです。
 名古屋の中心部に住んでおられた著者の初めての職場が僻地担当。突然の田舎暮ら
しの戸惑いや教師として得た感動が、土地の子供達や人々との触れ合いを通じて丁寧
に綴られています。当時の田舎の生活ぶりや学校生活が心情を交えて生き生きと、ま
た細かく記録されていて読み進んでも飽きません。

 しかしなんといっても、迫りくる戦争に若い教師としてどう対応して行くか、また
当時の一般的若者として国や戦争にどういう感慨を抱いていたかが正直に書かれてい
るという点で、歴史的資料としても価値のある書物となっています。つまり個人史を
超えて時代を反映しているということです。
 この小学校は閉校後、郷土資料館という新しい息吹を与えられていると小出さんか
らお聞きしました。

 昨年、小出さんは台湾で戦病死された弟さんの五十回忌法要記念としてコピー本を
身近の方に配布されました。手作りのものですが内容は素晴らしいものです。
 先の戦争から50年を経て、戦争は遠い日の出来事として人々の記憶から薄れつつあ
りますが、あの悲惨な出来事を風化させてはいけないという戦災体験者の義務感と、
ご令弟の供養のためにまとめられたのです。

 弟さんが終戦から数えて四カ月目の昭和20年12月17日、台湾の高雄陸軍病院で数え
年20歳という若さで亡くなったという無念。それを知ったのが翌年6月。戦後一年近
くも、両親と一緒に弟は必ず帰ってくると待ち続けていただけにその落胆と悲しみは
大変だったことでしょう。家も空襲で全壊全焼。

 小冊子ながら大変な時代の記録です。小出さんはこれらの体験を決して個人の追憶
に止めず、空襲で廃都となった写真などの社会的資料と重ねながら肉親への哀悼の意
を込められたので、価値の高いものとなっています。
 生涯を教育に捧げられた方らしい視野の広さと思慮の深さで完成されました。多く
の自家本が読み手のことを考えない一人よがりなものになりがちですが、2冊ともさ
すがと感心せずにはおれません。

 昨年から今年にかけて何冊か本を寄贈されました。
 俳句の師、黒田杏子先生からは句集「一木一草」を贈呈されました。この句集は一
般書店でも好評で、この種の本としてはめずらしく発売後まもなく増刷されるという
売れ行きだそうです。さすがに当代有数の人気俳人だけのことはあり、自分の師なが
らうれしく思います。わたしは黒田先生主宰の俳句結社「藍生(あおい)」の第一回
新人賞に選ばれた縁でプレゼントされたのです。
 何句か紹介しましょう。

  能面のくだけて月の港かな 杏子
  たいまつを星の鞍馬に押し立てゝ 杏子
  指さして雪大文字茜さす 杏子
  生涯の女書生や柚子湯して 杏子
  一の橋二の橋ほたるふぶきけり 杏子

 いずれも俳壇で話題になった句です。「雪大文字」や「蛍吹雪」は新しい季語と認
めてもいいのではないかという意見もあります。今年の俳句界の大きな収穫であるこ
とは間違いありません。

 同じ結社に属する仲間からもいただきました。
 大阪の若手俳人、高田正子さんは「玩具」という句集を出版され、俳壇の注目を集
めました。とりわけ朝日新聞の一面の大岡信氏による「折々の歌」に掲載されたのは
素晴らしいことでした。この欄に載るのは詩歌にかかわる人として最高の名誉とも言
えます。

 多くの俳人からも注目され、現在、関西から発行されている総合俳句雑誌の鑑賞欄
を受け持つまでになられました。もっとも正子さんはただ今子育て真っ最中で俳人と
しての活動はやや押さえ気味です。
 ここに彼女の俳句を何句か紹介したいのですが、数カ月前、ある女性に貸してから
それっきり返してもらえません。何でも写経のように書き写しているとか。これを彼
女の俳句に対する情熱と取るか単なるケチと見るかは難しいところです。

 深紅のカバーのとても瀟洒な句集なのですが以上の理由で手元にないので、残念な
がら俳句の紹介はできません。全体に若い女性らしいつややかな把握が情景を描写し
ていますが、集中の圧巻は死産の長子に対する悲嘆の句でしょう。自らの悲しみのど
ん底にあっても俳句をものしていく、これが俳人の性と言えます。俳句を作ることで
厳しい現実から立ち上がる気力を駆り立てていくのです。

 同じく結社の仲間、浦部熾さんも「春陽」という句集を出されました。表紙はスイ
センの花をあしらった朱色の美しいものでご主人の装丁だとのことです。文化的なご
夫婦ですね。
 彼女の句に関しては以前に結社誌「藍生」に鑑賞文を書いたことがありました。そ
の時の句は

  厳かにみんみんの鳴き始めたる 熾

というものでした。ミンミン蝉の鳴き初めをおごそかと捕らえた感覚に感心したので
す。
 そのほか次のような素敵な俳句があります。

  鰯雲林の中にこぼれけり 熾
  冬木立人の暮しの透きて見ゆ 熾
  いぬふぐり幸せなんてここにある 熾

 感性の優れた作家です。特に2句目の深い人間鑑賞と3句目の断定は素晴らしいもの
です。
 浦部さんは16歳から49歳まで書きためた作品をすっかり放出されて、また新たな俳
句人生に立たれたのです。句集を出されたことで生まれ変わったような喜びを得られ
たに違いありません。

 一宮の北部にある運善寺の酒井住職は書の大家で日展に何度も入選されている方で
すが、先頃、ご自分の寺の沿革を一冊の本にまとめられました。これは寺の歴代住職
と親鸞に始まる浄土真宗史を踏まえて書き上げられた労作です。なぜなら運善寺は親
鸞聖人の直弟子入信上人が息を引き取ったという歴史の長いお寺だからです。親鸞聖
人自らが立ち寄ったとも言われます。

 西暦1200年代初頭、親鸞聖人が尾張地方に教えを広めたとき、関東から同行した弟
子の入信上人がこの運善寺で亡くなったという伝承があり、上人の木像がお寺に残っ
ています。この木像は運善寺の住職が彫ったとも、親鸞聖人自らが彫られたとも言い
伝えられているそうですが今となっては詳しいことはわかりません。
 長い間、このあたりの消息の真偽が不明のままだったのが、何と一昨年、入信上人
の開かれた茨城県つくば市常福寺の現住職がお越しになり、入信像と感激の体面をさ
れたのです。常福寺にもそっくりの入信像が保存されている由。関東と尾張という遠
隔の地によく似た僧侶の像。この事実が「運善寺史」という書物を尾張地方の一古寺
の沿革を越えた歴史的ロマンをほうふつとさせる読み物にしてくれました。

 運善寺の表門は廃藩置県のとき売りに出された犬山城の山門です。これは荘厳で見
ごたえのあるものですが由緒もあるものだったのですね。

 このように正直言って失礼ながら、そのへんのちょっとした田舎のお寺でも一歩中
に入るとさすがに歴史的重みをたたえていると感服させられるのです。あなたも旦那
寺の歴史を住職さんにたずねてみられたらいかがでしょうか。

 昨年、鳳来寺山在住の林業家で俳句の仲間の大橋和子さんからは「山づくり 林業
最前線」という本をいただきました。奥付きによれば第3版となっています。3回も印
刷したということは多くの人に読まれているということなのです。これは実にたいし
たもの。

 大橋さんは木を相手にしている方ですから、時間の単位が100年200年と長いのです。
そのせいか、おおらかでこせこせしていない、それでいてこまやかな思いやりと潤い
のあるとても魅力的なご婦人です。わたしの母と同い年ですが女性としても魅力を十
分にたたえた素敵な山女として多くの人から慕われています。
 林業の抱えたさまざまな問題を本や新聞に書き、講演や会議に引っ張りだこ、土地
の名士でもある彼女はそうそうたる学歴・経歴と受賞歴の持ち主ですがここに一々上
げることは彼女の含羞が許さないでしょうから控えます。
 「あとがき」を紹介しましょう。
 山の木は、自然に、太陽と水と土とで育ち、人間の手助けは、無用であると、考え
る方もあり、「緑」とか「自然保護」とかの論議はなされるけれども、「水」を養う
源の、木を育てる仕事は、山村に住み、山で働く人々であることを、広く皆様に知っ
てほしいという、私の願いも込められております。
 木材は輸入できても、山や川の自然まで、輸入はできません。
 緑の美しい環境を維持するためには、山林は、つねに木材生産を営みながら、森林
の公益的機能も満たす事ができると信じます。

 彼女の視線はいつも緑の山に向けられています。その彼方にははるか未来の子孫の
ためにこの美しい自然を伝えたいという願いが込められているのです。
 ただ、山を見て「自然はいいなあ。」と言っている我々とは根本的に違っています。
山を維持するために斜面を這い、泥にまみれ、林業不況と高い相続税にあえぎ、それ
でも子孫のために祖先から受け継いだ山を守ろうと必死なのです。

 そしてこうした一部の方の恩恵を多くの人間がこうむっていることを、わたしたち
は気付かず、知ってもすぐ忘れてしまいがちです。これは寂しいことですね。彼女が
こうした本を書かねばならない気持ち、これは痛切。書かれる必然性のある出版物な
のです。

 大阪在の山野上加寿恵句集「砂丘の月」は家族愛の結晶です。
 加寿恵さんの米寿をお子さんやお孫さんたちが句集発行という形でお祝いしたもの
で地元新聞でも紹介されて評判になったそうです。
 加寿恵さんは明治40年生まれ。大正14年に作られた

  涼しさや砂丘の月に寝て語る

という句が巻頭を飾り

  番傘を片手でひらく男梅雨

で結ばれています。
 集中には

  つばくらめ土佐は海藻の匂ふころ
  きりぎりす親も子もゐる草の花
  モジリアニの女の瞳森の湖
  いしぶみの誓ひは重し原爆忌

などの句が1ページ2句づつ計206句が掲載されています。それらのほとんどが平成以
降すなわち80歳位からの作品だそうです。実に中断60余年ののちの再開。
 さらに、句集の終わりの方には息子さんや娘さん、さらにはお孫さんの句とお祝い
の言葉も紹介されていて、俳句一家のむつまじさが伝わってきます。

このご家族は5年前から家族の俳句ミニ通信「満天星(どうだん)」を続けられている
という俳句一家なのです。
 紹介句に見られるように加寿恵さんは原爆に被災されたりの決して安易な人生では
なかったようですが、今は家族に支えられて俳句を真剣に楽しみながらの人生を送ら
れているようです。

 ますますお元気で所属雑誌の最近号には

  海染めてせりあがり来る初日かな

という若々しい句が拝見できます。はるか未来を見据えた希望にあふれる俳句と感心
しました。見習わなくては。

《後記》

 世間は毒物テロと宗教団体の話題でもちきりです。神戸の震災の復興も終わらない
うちに次々と起こる事件、それに拍車をかける円高とどなたも暗澹とした毎日ではな
いでしょうか。どこかすっきりしない、雨も多いという愚痴が挨拶がわりとは困った
ものです。
 犯罪行為は一日も早い解決を、被災地は復興をと祈るばかりです。
 お体ご自愛してください。
(游)

|

« 游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」 | トップページ | 游氣風信 No65「五月」 »

游氣風信」カテゴリの記事

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 游氣風信 No64「個人本・寄贈本 」:

« 游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」 | トップページ | 游氣風信 No65「五月」 »