游氣風信 No50「忘れられない贈り物 信州に上医あり」
游氣風信 No50「忘れられない贈り物 信州に上医あり」
三島治療室便り'94,2,1
三島広志
E-mail h-mishima@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/yukijuku/
《游々雑感》
忘れられない贈り物
絵本は子供のための本でしょうか。
明らかに子供を読者と意識して書かれた本もありますが、良質の絵本はむしろ大人
をより引き付けるものです。そうでない本は子供に媚びていて子供から敬遠されるか
その場限りの読み捨て本になってしまいます。
親の情というのか、子供時代に読んだ質の高い絵本を自分の子供に読ませたくなる
ものです。現実に親子二代で愛読するに耐える絵本も実に多いのです。
「どろんこハリー」(ジオン著 グレアム絵 わたなべしげお訳 1956年)という
イギリスの絵本があります。これは洗われるのが大嫌いなハリーという白黒のブチ犬
の物語です。
洗われるのが嫌なハリーは風呂のブラシを隠した後、町中を駆け回ってどろんこに
なって帰宅しますがあまりの汚さにハリーと気付いてもらえません。芸をしても駄目。
そこで隠したブラシをくわえて風呂に飛び込みます。家族がきれいに洗ったところど
ろんこ犬が実はハリーと分かって子供も犬のハリーも大喜びという他愛ない話です。
「ハリーだ。ハリーだ。やっぱりハリーだ。」というところに差しかかると子供達
は何度でも嬉しがって、もう一度最初から読んでくれとせがむのです。
案外元は風呂嫌いの子供に読み聞かせる教養絵本だったのかも知れませんが、その
生き生きと駆け回る楽しげなハリーの絵が子供にとても人気がありロングセラーになっ
ています。
イエラ・マリの「あかいふうせん (1976年)」という絵本は上質のイラスト集と呼
べるもので、文章は一切ありません。色も赤と白だけ。風船ガムがリンゴの実、ちょ
うちょ、傘に変化していく絵によるストーリーです。言葉が無いからよけいにイメー
ジが広がっていきます。同じ作者の「りんごとちょう」も優れた作品です。さすがイ
タリアという芸術性ですが、子供にはあまり人気がありませんでした。
レイモンド・ブリッグスの「さむがりやのサンタ (1974)」やウクライナ民話「て
ぶくろ (1950年)」、岸田衿子の「かばくん (1962年)」なども人気作品でしょう。
いつも苦虫をかんでいる不機嫌なサンタクロースの作品全体から醸し出されるユー
モアはイギリスならではのもの、「てぶくろ」は落ちている手袋の中にねずみやかえ
る、うさぎやきつね、おおかみ、いのしし、果ては熊までが入って一緒に生活すると
いう荒唐無稽さが愉快です。何回繰り返して読まされたか分かりません。「かばくん」
は日本語の美しさをたっぷり感じさせてくれます。
そんな中で評論社から出ているスーザン・バーレイ(イギリス)の「わすれられな
いおくりもの (1984年)」こそはそれこそ忘れられない絵本です。
内容の深さと控えめな文章、著者自身による温かい絵が子供だけでなく広く大人ま
で考えさせるだけの問題意識をはらんでいて、決して読者におもねっていません。
テーマは死です。そして支え合って生きることと伝え合って生きることの素晴らし
さです。
ストーリーは年老いたアナグマとその仲間の交流を通して死と別離とその克服につ
いて著者自身の考えを物語として決して押し付けないよう十分な配慮の上で展開して
いきます。
冒頭はアナグマの老いの自覚と受容で始まります。そして死。
森の仲間はアナグマの遺書「長いトンネルの むこうに行くよ さようなら アナ
グマより」を読んでとても悲しみますが、それをどうやって克服して行くのでしょう。
モグラはアナグマからはさみの使い方を習い、紙を切ってさまざまな形を表せるよ
うになったことを思い出します。カエルはスケートをアナグマから親切に教わりまし
た。キツネはネクタイの結び方、ウサギはパンの作り方をそれぞれアナグマから習い、
皆自分なりの工夫までできるようになったのです。
「みんなだれにも、なにかしら、アナグマの思い出がありました。アナグマは、ひ
とりひとりに、別れたあとでも、たからものとなるような、ちえやくふうを残してく
れたのです。みんなはそれで、たがいに助けあうこともできました。」
このように仲間たちはアナグマの思い出を語り合い、学んだことを自分なりに工夫
発展させることで助け合いながら寂しさを克服していったのです。
技術や知識などは楽しい思い出とともに世代と集団を越えた共通財産として伝達・
普遍化さらには発展していくものです。私たちの暮らしはこうした親から子へ、大人
から子供へ、教師から生徒へ、師から弟子へとずっと受け継がれてきた結果で成立し
ているものでしょう。
人間は肉体として皮膚の中だけに存在しているのではなく、皮膚をはみ出して広く
人々の心の中に思い出としても生きているのです。ですから本当の死は人々のこころ
から忘れ去られたときを言うのだと思います。
「わすれられないおくりもの」は優しい絵本の形式を用いてそれらのことを子供に
もさりげなく考えさせてくれますし、大人が読めば胸中深くさざ波が立つことでしょ
う。
一番の驚きはなんとこの本、小学生低学年向けの課題図書だったのです。わたしは
こと課題図書に関してはつまらない本が多すぎると思っていたのですが、これは別格。
文部省侮るべからずと感心したものでした。今から6・7年前のことです。
《気楽図書館》
信州に上医あり
-若月俊一と佐久病院-
南木佳士著 岩波新書
長野県南佐久郡臼田町は浅間山と 八ケ岳に挟まれた佐久平の千曲川沿いの小さな町
です。その川の堤防沿いにまるで要 塞のごとくそびえているのが佐久病院です。
佐久病院と院長の名は当時すでに知ってはいました。しかし実際に建物を見て、足
を踏み入れてみますと、何でこんな田舎にこんな巨大な病院があるのか、経営は成り
立つのか、そもそも若月俊一とはいかなる人かという疑問がふつふつと沸き出たので
した。
その疑問はわたしだけでなくそこを昭和51年、採用試験のために訪問した若き著者、
南木先生も同様の感慨を持たれたのです。次のように。
佐久平と呼ばれる田園地帯を四十分余り走ると、いきなり右側の車窓に七階建ての巨
大な建物が姿を現した。(中略)いよいよ八ケ岳山麓の過疎地帯に入って行くのかい
ささか心細くなっていた私の目に、この建物の大きさは異様に写った。(中略)実際
に周囲のひなびた風景を背景にして見ると、佐久病院はあたかも城のような大きさで
あった。その依って立つ基盤は何なのか。交通の便も悪いこんな田舎町になぜこれほ
どの大規模な病院が建てられたのだろう。誰が、いかなる情念で・・・。
著者の興味は院長の若月俊一先生にあります。あるときはその理想に感銘し、また
あるときはその俗物的側面に落胆もしますが、著者自身がタイの農村医療に関わった
経験から、若月院長が初めて赴任した昭和19年当時の農村とは現在目にしているタイ
の農村の状況と同じではないかと思い至り、若月院長の心に深く共感を覚えるくだり
はなかなか感動的です。
著者南木医師はタイの現実の前にこう考えました。
貧しいタイの農村を前にして、絶望感しか抱けなかった私は、これとおなじような状
況の戦後の信州の農村で、文字どおり「病気とたたかった」若月のバイタリティーに
素直に脱帽した。(中略)私の胸の中に若月に対する尊敬の念が湧いたのはこのとき
が初めてだった。「あなたはえらい」
著者はタイの極貧の農民の現実に対して全くの無力感にさいなまれてしまいます。
腹部にガン性の腫瘤を触れた患者に入院を勧めても金が無い。医者にかかるのは大変
な贅沢なこと、これは佐久地方に限らず日本中の戦前から戦後のある時期までの農村
の実態と重なるのです。
若月院長はそこでの現実に屈せず、学生時代に学んだ理想的マルクス主義と現実主
義の間を縦横に駆け回ってついに小さな村の診療所を今日医師総数130名という大病
院に作り上げました。
もともと若月院長が東大医学部卒業というエリートでありながら何故佐久くんだり
まで来たのかと言えば、学生時代反戦運動をし、その後1年間留置された結果、都落
ちしたというのが事実で決して最初から農村医療、地域医療に貢献しようという高邁
な理想からスタートしたのではありません。
悲惨な医療状況を目の当たりにして学生時代に描いた理想を彼の地に実現しようと
持ち前の不屈の反抗心で腐心したのでしょう。
我が国の農村医療、地域医療のメッカとして、国の内外に高く評価されている佐久
病院はこの傑出した院長の力量とそれを支えてきた医師や医療従事者の手によって今
日の巨大な近代化された総合病院として発展成長してきたのでしょう。
この本で特にうれしかったのは次のくだりです。昭和20年11月に医師や看護婦など
病院勤務者によって劇団が創設されたのです。
病院で手遅れの患者ばかり診せられてきた若月は、病気の早期発見と予防のために
は自ら村に入って行くしかない考えたのだった。診療も大事だが、予防のための啓蒙
活動はより重要だったから、演劇を通じて予防医学を分かりやすく説明した。
若月が農村演劇に力を入れたのは宮沢賢治に影響されてのことだった。若月は松田
甚次郎の著書「土に叫ぶ」の中で、次のような賢治の言葉と出会った。
「農村で文化活動をするに当たって、二つのことを君たちにおくる。一、小作人た
れ。二、農村演劇をやれ。」
松田甚次郎は明治42年山形県最上生まれ。盛岡高等農林の賢治の後輩に当たります。
19歳の時31歳の賢治を訪問し上記の言葉を受けました。
卒業後村に帰り賢治の教えを実践すべく「最上共働村塾」を主宰し、農村演劇を頻
繁に行い、農村活動に奔走。その記録を「土に叫ぶ」と題して出版しますが、昭和18
年35歳の若さで世を駆け抜けてしまいました。詳しくは([「賢治精神」の実践 松
田甚次郎の共働村塾]安藤玉治著 農文協出版“人間選書”)を参考にしてください。
長年の賢治ファンとしては「ああここにも賢治が生きていたか」と感じいるばかり
です。
さてこの本にはきれいごとが並べてある訳ではありません。佐久病院と若月俊一を
テーマに据えながら、現代の医療の抱える問題のみならず、農業問題やそれを取り巻
く社会、さらには理想を実現するために生まれた組織が逆に理想を封じ込めようとす
る矛盾にも言及されています。初期には理想に燃えた組織の求心力が人を呼び込みま
すが、組織の肥大化ととも遠心力が高まり分裂を生み出すというどこにでも見られる
困難な現実です。
現在、佐久病院では内視鏡検査を早朝6時から行っているそうです。仕事前に受診
できるので検査を受ける人は大変助かりますが、そのための医師や看護婦の労力は大
変でしょう。人件費も莫大なものになります。
気になる点もあります。
送り手の努力ばかりが見えて、受け手はいつも受け手とし てしか現れてこないのです。
送り手と受け手の相互浸透が発展を呼ぶのが唯物論の基本にあるし、そこから若月
院長が若い時情熱を傾けた共産主義が生まれてきたと思うのですが、その観点からす
れば一方的に送る側の努力ばかりが犠牲的に継続できるとは考えられません。むろん
こんなことは若月院長にはとうにお解りのはずですからそこに何か大きな壁があった
のかもしれません。 宮沢賢治も現実にぶち当たって「その真っ暗き大きなものが俺
にはどうにも動かせない」と嘆いていましたから。
今日、巨大化した佐久病院は新たな問題と矛盾を抱えています。医療費抑制策から
平成になって赤字にあえいでいるとも書かれています。若月院長の理想がもう若い医
師たちには届いていないとも。なぜなら純然たる農村などもはやこの国には無いので
すから。
今日の農民は金も土地も持っていてある意味で都会人より実質裕福になっています。
ただそのお金が農業収入でなく給料であるところに農村のみならず今の社会の矛盾が
象徴されているように思えます。
また理想は実現に尽力した人には燦然と輝くものですが、後から実務的に引き継ぐ
者にはえてして重荷になるものでしょう。
それらを踏まえて著者は最後に次のように文学的に見事にまとめます。
旅人の目に、小海線の電車の車窓から見える佐久病院の巨大な建物と周囲のひなび
た風景がミスマッチと映るのは、旅人の目がおかしいからではなく、若月の抱え込ん
だ矛盾がいかに大きなものかであるかの証明なのである。佐久病院は若月と昭和とい
う時代の間にできた子供だと書いたが、もしかしたら、この子は人工交配のために子
孫を残すことができない一代かぎりの雑種かも知れない。(中略)若月が赴任した当
時の理念を失ったとき、佐久病院は単なる大病院の一つに過ぎなくなってしまうのだ
ろうが、少なくとも私は、そうなってしまった佐久病院については二度と書くことは
ないだろう。
農村医療、地域医療に関心ある方のみならず、一人の傑物の一代記として、また組
織論としてとても興味深い本に仕上がっています。さすがにすぐれた筆力です。しか
もこの手の評伝は何よりその人に対して愛情ある人が書くべきという証明です。さも
ないと批判のための批判になりがちですから。その点この著者は若月俊一とい言う人
物に魅了されながらも、努めて平静に中立にと自らの立場を注意深く保って書かれて
いるところがとても読後感、後味の良い一冊になっています。どうぞ一読を。とても
読みやすい文体ですから。
わたしの紹介文のごつごつした読みづらさがこの本の読書欲をそぐとしたらとても
つらいものです。
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