« 游氣風信 No53「落葉松 美味しんぼ(タイ米)」 | トップページ | 游氣風信 No55「蝉」 »

2011年2月22日 (火)

游氣風信 No54「自分探し(小椋佳) 大往生(永六輔)」

游氣風信 No54「自分探し(小椋佳) 大往生(永六輔)」

三島治療室便り'94,6,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


自分探し

  ちゃんと死にたいからなんですよ。そろそろ死をターゲットにした自己形成をし
  たいと思っているんです。自分が死を見つめて行動しているときは、無駄な時間
  を過ごしているという思いがないんですね。

 ちょっとどきっとされたかも知れませんが、これは昨年、長年勤務した銀行を退社
し、もう一方の仕事である音楽活動に専念することになった小椋佳さんがインタビュ
ーに答えたことばです。

おぐら・けい
作詞家。作曲家。歌手。
本名・神田紘爾(こうじ)。1944(昭和19)年生まれ。67年東京大学法学部卒業。日
本勧業銀行(現・第一勧業銀行)入社。その前後から音楽活動を始める。週末の夜を
曲作りにあててきた。93年退社。94年東大法学部に学士入学。

  銀行を辞めたのも、東大に再入学したのも、青春期の未完成な「自分探し」を再
  開したかったからです。

 小椋さんは退社と同時に出身校である東京大学にもう一度入学して、若いときやり
残した自分探しに再挑戦するのだそうです。齢50の再挑戦です。
 なぜ、功なり名を遂げた人が再挑戦なのでしょうか。理由を次のように述べておら
れます。

  「いかにいきるべきか」の結論に暫定的な答えを出してというより、結論はない
  ものとして、僕は社会に出たのですね。でも、どこかに「答えはあるのかもしれ
  ない」という思いが残っていたんですね。いまその答えをもう一度確かめてみた
  いと思っています。

 彼の初期の歌に「さらば青春」というヒット曲があります。

  僕は呼びかけはしない
  遠くすぎ去るものに
  僕は呼びかけはしない
  かたわらを行くものさえ
     (中略)
  みんな みんな たわむれの口笛を吹く
     (中略)
  みんな みんな うつろな輝きだ

 高校生のころだったでしょう。この歌をラジオで聞きながらその詩に強く共感を覚
えました。これがわたしの小椋佳との出会いでした。当時どの流行歌も青春に漂流す
るわたしを慰めるものは見当たらなかったころ、この詩は鮮烈に胸に響いたのです。

 青春時代は自己が激しく揺れ動いているときです。揺れる自己からはすべてのもの
が不安定にしか見えません。そんなとき他者に呼びかけるなんてことは不可能です。
ただ自分自身に置いてきぼりにされないよう揺らいでいるだけで精一杯でした。そこ
から見えるのはうつろな輝き、聞こえるのはたわむれの口笛。
 この象徴的な詩は素直な柔らかい歌声と共に多くの悩める若者の心をつかんだので
した。

 いま彼のインタビューを読んでみますと、当時の彼は答えは無いものとして社会人
となったが反面どこかに答えを求め続けていたとあります。それを知ってこの詩の意
味がより一層深みを増して迫ってくるのです。
 当時は青春真っ只中にいたわたし、今はとっくに青春とおさらばしてしまったわた
し、しかし今も以前も変わらぬものが彭湃(ほうはい)と胸中深く流れていることを
この歌は教えてくれるのです。

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 銀行員としてやるべきことはすべて成就したからでしょうか。小椋佳さんの中には
再び青春時代の未回答をはっきりさせたいという願望が強くなってきたのです。

  巧みに生きるのでなく、もう一度突き詰めて考えてしまう自分のタチ通りに生き
  てみようかなと。

 長年サラリーマン生活を送っているとどうしても生きる上でごまかしの部分が必要
になってきて、その方面でいやでも巧みな技術が身についてしまいます。それを処世
術として自らの誇りとする人にとってはどうでもないことですが、そうした側面を素
直に認められない人にとってはこのような巧みさは納得できないでしょう。疎んじら
れるのです。
 これは何もサラリーマンに限ったことではありません。

 小椋佳とは一方でエリートサラリーマン、一方で優れたミュージシャンと傍から見
るとまさに垂涎の才能がなんら相互負担になることなく成立し続けた希有の人物です
が、そんな人だからこそ自己を厳しく写す自分自身の目からは逃れえない、耐えられ
ない問題点が醸し出されてきたのでしょう。

  詩曲作りは、自分は何のために生きるのかという根本に戻り、無限の選択肢の中
  から何かを選ぶ作業なんです。それを不問に付してこなかったんですね。歌作り
  の最大の理由はそこにあるのかもしれませんね。

 小椋さんが長年一流のサラリーマン生活をしてこれたのは、勤務生活と音楽作りの
両方を真剣にやり抜いたからに違いないでしょう。
 さらにこうした創作の手段と発表の場を大切にすると同時に、人にも自分にも安易
に妥協しないで詩曲作りをしてきたからこそとも言えます。
 常に自分の根幹を尋ねるという求心性に対して、無限の選択肢の中から何かを選ぶ
という創作はあらたな自分を生み続けてくれます。自己を追及する人が時に行き詰まっ
てしまうのは小椋さんのように無限の世界に向かう遠心の営みを持たないからなので
す。
 逆に言えば優れた求道者は同時にその奥に無限の世界を認めるがゆえに創作者とし
て一流の人がが多いのも同じことでしょう。遠心・求心の動的平衡が活力を生むので
す。

 自分の求めるままに生き、その思考の過程を詩や曲に表現し、あたたかな歌声で人
々に共感と安らぎを与える。これは現代最も恵まれた生き方のひとつではないでしょ
うか。趣味と実益といったレベルではなく、自己存在がそのまま周囲を照らし、その
反響をまた自分の成長に結び付けていく。うらやましい限りです。

  人間は何かを見て「きれいだな」と思うわけですけど、それはなぜなんだろう、
  「きれい」と思うということはどういうことなんだろう。そういうことにすごく
  興味があるんです。そもそも、人間は何のためにきれいか、そうでないかを見分
  けるんだろう。

 これが今の小椋さんの懸案だそうです。ギリシャ哲学にまで逆上って思考を深めて
いるそうですが、そこからどんな歌が出てくることでしょう。
 生まれてから25歳までは人生の基礎作り、次の25年をサラリーマンとして、これか
らの25年をどう生きるか。このようにご自身の人生を整理してこれからの人生は冒頭
のように死を明確に意識した充実の中に生きると言われます。今後も小椋佳の活動に
は注目したいと思っています。

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

借りたら返す

生きているということは  誰かに借りをつくること
生きてゆくということは  その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら  誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう
                      永六輔

 《游氣風信》52号で紹介した永さんの著書「大往生」(岩波新書)は売れに売れて
いるそうです。何でも岩波新書空前絶後の売れ行きとか。それはそうでしょう。どう
見ても「大往生」自体が岩波新書らしからぬ本なのですから。
 「大往生」は永さんが長年にわたって聞き書きした一般市民の名言集を中心にして
います。その内容は死や病気、老いという重いものをテーマとしていますが決して深
刻になってはいません。巷の人々は困難をユーモアに転換する能力があるようです。

 ひとつひとつの名言に「うーんなるほど。」と考えさせられたり、思わず吹き出す
おかしさありと実にバラエティーに富んでいて一冊読み上げるのに数時間で十分。ぜ
ひ買われて読まれることをお勧めします。

 先程述べたようにいずれも重い内容の名言・至言ですが、ほのかな寂しさとユーモ
アをたたえて胸に沈むように残る読みがいのある本でした。
 しかし上掲の詩は永さんの自身の詩です。その出自をお寺とする作者らしく仏教的
な内容ではありませんか。因果応報というやつでしょう。 以前テレビや映画で評判
になった大垣の足無し禅師の「本日ただいま誕生」を思い起こしてくれます。「人は
生まれたときから負債を負っている、生きていくとはその負債を返していくことだ。」
というような内容だったと思いますが情けないことにはっきり覚えていません。(確
かテレビは加藤剛、映画は植木等主演で作られたと記憶しています。)

 難しいことをやさしく、重いことを愉快に表現しようと心掛けている永六輔さんら
しい詩ですが、内容は僧侶だった父上の日常の信条だったそうです。

|

« 游氣風信 No53「落葉松 美味しんぼ(タイ米)」 | トップページ | 游氣風信 No55「蝉」 »

游氣風信」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 游氣風信 No54「自分探し(小椋佳) 大往生(永六輔)」:

« 游氣風信 No53「落葉松 美味しんぼ(タイ米)」 | トップページ | 游氣風信 No55「蝉」 »