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2011年2月22日 (火)

游氣風信 No52「まるごとひとつ・野口三千三・増永静人」

游氣風信 No52「まるごとひとつ・野口三千三・増永静人」

三島治療室便り'92,12,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


《游々雑感》

まるごとひとつ

 「今日は肩がひどく凝っているの。だから肩だけしっかりやってちょうだい。」身
体調整にみえてこのように言われる方があります。
 そんな時は次のように答えます。「それじゃあ、とりあえず肩だけ取りはずして置
いて帰ってください。明日までに治しておきましょう。」
 これではまるで一休さんのとんち話みたいですね。調整にみえた方ははきょとんと
してしまいます。もちろん言うまでもなく身体調整と機械の修理とは違うのですから
そんなことは不可能です。機械は部品の集合体、それに対して身体は全体が有機的に
つながっているのですから。

 しかし、いつからか、わたしたちは身体を手や足や胴体、肩や胃や骨盤などの部品
の寄せ集めのように考えるようになってしまいました。けれども一体どこからが肩で
どこからが首でどこからが背中なのでしょうか。
 解剖学ではしっかり分類してあります。カルテをつけたり手術するとき客観的に誰
もが場所を間違えないために約束事として取り決めてあるのです。
 でも、実際にわたしたちが身体から受ける感覚はそんなに厳密なものではありませ
ん。漠然と首の辺りが凝るとか、肩から腕の付け根にかけてしびれるとかという感じ
です。

 腰が痛いと言う人の腰に手を当てて「この辺ですか。」と聞きますと「そう、そこ
そこ。」と返事があります。
 もっと場所を限定しようともう一度触りなおしますとこんどは全然違うところで「そ
う、そこです。」と答えます。
 こちらはあれっと思ってもう一度最初の所を押して「ここでしたね。」と質問する
と「いえ。もっと上です。」「じゃあ、ここ。」「違う違うもっと左。」
 だんだんいらいらしてくるのが手に伝わってきます。「なんだこいつは。痛いとこ
ろくらいさっさと見つけんかい。高い金ふんだくるくせに。」
 そんな気配がひしひしと伝わって来るのでこちらもあせって「するとここですね。」
などとあてずっぽうに言ったりしてますます感情を害されてしまいます。
 「感情」を害されると「勘定」が貰いにくくなるのが商売の常ですからこうなって
は大変です。
 つまりかかる具合に身体の感覚とは当てにならないので、冒頭のように肩だけやっ
てくれという指示は根本的に正しくないのです。

 感覚だけでなく、身体は全体が一つの目的すなわち生命の維持発展のために協力し
あっています。つまり別の言い方をすると肩が凝るのは身体のほかの部分に理由があ
る、肩凝りはその結果ということが多いです。

 医療の現場では肩凝りに対してさまざまな捕らえ方をします。いろんな原因の確定
をすると言ってもいいでしょう。曰く
 「筋肉疲労による乳酸の蓄積」「頚椎椎間軟骨の問題」「頚椎椎間関節の問題」「筋
肉リウマチ」今話題の「骨粗鬆症」「コンピューターに向かい続ける姿勢からくる慢
性疲労」胃やすい臓などの「内臓からの関連痛」「目からの関連痛」などなど。

 それらは状況に応じて治療法を決定するためにとても重要です。こうした研究や治
療でじつに多くの人が恩恵を受けていることはまぎれもない事実でしょう。

 しかし、そこにとどまらずにもう一歩考えを深めたいのです。それは治療を離れて、
どうして自分の肩が凝るのだろう、何がいけないのだろうと自分をとりまく現状の認
識をすること、および今をより良い将来への礎とするための積極的な捕らえ方です。
そうしないとせっかく肩凝りのために莫大なエネルギーを費やした我が生命力に申し
訳がないというものです。(肩凝り自体のためにかなりの栄養やエネルギーが浪費さ
れています。さらには苦痛、不快感も。これは周囲の人をも不快にしますのはどなた
も体験済み。)

 生活環境を含めた肩凝りの考え方はだいぶ以前のこの通信にていねいに書きました
から今回は深入りはしません。

 今月のテーマはまるごとひとつでした。
 わたしたちの身体から肩だけ取り出せない、すなわち言い換えると身体全体でまる
まるひとつということです。

 手を高く上げてみてください。その時の手を支えているのは肩であり背中でしょう。
さらにお尻や足が身体と床の間にあって身体全体を支持しています。でもわたしたち
の関心は手にあって他の部分にはいきません。凝りに対してはもっとも自覚的な肩に
さえ関心は向かないのです。凝りという手段で身体が訴えるまでは。ここに肩の悲劇
があるのです。
 「右手をよく使う仕事をしているのになぜ左の肩が凝るのでしょう。」
とはよくされる質問です。それに対する解答は実はすでに「左・右」の漢字の中にあ
るのです。
 「右」という字を分解すると「ナ」と「口」です。「ナ」は手の象形、「口」はく
ちの象形です。すなわち右手とは食べ物を口に運ぶ手という意味です。つまり「右」
は一字で右手のことを示しているのです。
 では「左」はどうでしょう。これは「ナ」と「工」から成立しています。「ナ」は
右と同じく手。「工」はものさしのような工具の象形です。これも「左」一字で左手
の意味があります。「左」とはものさしをきっちり固定している手のことなんです。

 ここから類推すれば右手は動的な働きを表し、左手は右手を補佐する静的な働きを
表現していることになります。
 よって右手を使うときは目立たないが左手も固定という緊張を強いられていると考
えられます。
 これをさらに拡大解釈していけば身体全体が支え合い助け合って働いていると言っ
ても過言ではないのです。両手を使っているときは胴体が両手を支えているというこ
とです。そのとき手には関心が向かいますが胴体のことは忘れているでしょう。
 本を読むとき、目は意識しますが本を持っている手には無関心です。万事がこんな
調子。
 肩凝りはそうした犠牲者、あわれな生贄(いけにえ)というわけです。けっして目
の敵にする対象ではないことがお解りいただけるでしょう。「肩だけ揉みほぐせ。」
という感覚には一種傲慢(ごうまん)さ、根本に身体は精神に隷属(れいぞく)して
いるというおごった考えがあるのです。それが時として他人にも向けられますから争
いが絶えません。 今はやりの気功法はそうした身体観を是正する体操という側面も
持っています。

 こうして見ると肩凝りに対する意識のしかたが、身体の問題だけでなく会社や家庭
の人間関係、さらには経済や教育など幅広い分野にわたる根幹の問題意識ということ
が理解されますね。

 東洋の医療は基本的にこの考えに立っていますから肩凝りひとつとっても全身の処
置をするわけです。
 現代医学は肉体と精神をとりあえずはっきり分けて、特に肉体の方を微にいり細に
いって研究した結果すばらしい成果を上げ、わたしたちは膨大な恩恵を受けています。

 その成果は医療だけでなく公共施設の完備による衛生や経済発展による食生活の充
実、高度な教育などとあいまって長寿社会を築き上げました。
 現代医学の細菌駆除によるさまざまな伝染病駆逐という成果や素晴らしい手術、そ
れらを支えている精密な検査や組織的な看護の発達は素晴らしいものです。
 しかし反面、あまりに専門化し過ぎて全体を統一する見方や心と体の相関に関して
はいま一歩軽視されてきました。分化し過ぎ、専門化し過ぎの欠陥が全体を見えにく
くしてしまったのです。研究ならそれはとても重要なことですが一般の臨床にはいろ
いろと不都合があるのです。
 その反省から今日では心療内科や神経科などでその間隙を埋める方向にきています。
さらにもともと未分化ながらも生命の全体性と心身相関を重視してきた漢方に代表さ
れる伝統医療にも関心が集まってきている理由でしょう。
 だからと言ってひたすら漢方がいい、古い伝統が正しいと考える狭量な視野は危険
です。医療と衛生と栄養の整備という建物で言えば下部構造の充実があって初めてそ
こに伝統の知恵が上部構造として生かせる時代が来たということを忘れてはいけない
でしょう。
 (もっとも今日では行き過ぎた潔癖症とも言うべき衛生と薬による過剰な防衛、か
つ大きく偏った豊かな栄養という歪んだ問題も派生してきました。一人一人が自分自
身の身体観を捨てて安易に権威に任せてしまおう、管理される側に回ってしまおうと
いう傾向も加速度化しているように見受けられます。)

 そもそも私たちの身体は六十億の細胞から成り立っています。しかしそれは六十億
の細胞の寄せ集めではなく、一個の受精卵が六十億に分裂したものなんですね。けっ
して寄せ集めたものではないのです。
 そして脳によって統御されて全体として統一した行動ができるようになっているの
です。もっともなかなか完全な統一とはいきませんが。その脳も他の器官によって育
まれている点では同じ身体の一員なのです。
 ちょうど夫婦が一対で夫婦であって一対一ではないように身体も全体で一つの生命
体であって、各器官がばらばらで自己主張しあっているのではないのです。こういう
状態をまるごと全体と呼ぶのです。

 さて、あなたがもし肩凝りやぎっくり腰などちょっとした身体の訴えを得る機会が
あれば以上のようなことを考えてはいかがでしょうか。

 次の人々のことばは身体および身体と環境とのかかわりにおいて大きなヒントにな
ることでしょう。

野口三千三(野口体操創始者 元東京芸術大学教授)
「生きている人間のからだは、皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい
入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいるのだ」
「地球上のすべての存在は、今、地球の中心との関係にによって、確実に結ばれてい
る」「自分自身のまるごと全体のからだが“重さという生きもの”になり得る能力を
力という」「野口体操からだに貞(き)く」柏樹社刊より
増永静人(経絡指圧提唱者 我が恩師)
「自分の生命を大切にすること、そのことが相手の生命を尊重し、自分のまわりの生
命をすべて大切に扱うことに連なっていくという実感を味わってほしいのです。これ
はいくら言葉で知って頭で理解していても、“もの”を中心にする生活をしている間
に、バラバラに離れた存在になって、自分しか見えない幻想のとりこになってしまい
ます。今までの健康法は、そうした個人だけの長生きだけを目的としたため誤ってき
たのです。」
「スジとツボの健康法」潮文社刊より

《後記》
 このごろ普段から関心を抱いている人の特集号が続けざまに出版されて、読む時間
ないまま机の隅に積み重ねられています。読み切る時間も読み込む能力もない、ただ
金を浪費するだけと分かってはいるのですが。
 岩波新書の「大往生」(永六輔著)はお薦めです。実に読みやすい。
(游)

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