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2011年2月

2011年2月22日 (火)

游氣風信 No70「運動と活性酸素」

游氣風信 No70「運動と活性酸素 」

 

三島治療室便り'95,10,1

 

 

 

三島広志

 

E-mail h-mishima@nifty.com

 

 

《游々雑感》

 

運動と活性酸素

 

 このところ《游氣風信》では続けて栄養学を取り上げています。
 今月も懲りずに少し栄養学に触れようと思います。
 なぜなら、

 

 活性酸素に対抗する力価が○○云々

 

などとうたった広告が全国紙の最終面の三分の二を費やして打ち出してあったからです
。大変驚きました。
 女性雑誌の美容欄には以前から、太陽の紫外線は皮膚に活性酸素を作ってシミ・ソバ
カスの原因になるからビタミンC含有の化粧水を補って予防しようなどという記事はあ
ったようですが、それ以外で目にすることは一般の雑誌ではありませんでした。
 先の広告からすると、もうすっかり活性酸素という専門用語は市民権を得たようです
。長年、活性酸素を研究をしてきた人やその実態の啓蒙に努力してきた人には隔世の感
があるといえるのではないでしょうか。

 

 ちょっと前までは、このような気軽な読み物(この通信の読者はおおむね治療に関わ
った人たち)に自分でもよく理解できない活性酸素などという固い専門用語を用いるの
はどうかと思ったのですが、今述べたように今日では新聞や雑誌などで頻繁に目にする
ようになり、もはや、現代人必須のことばになっているようです。

 

 わたしが初めて活性酸素ということばに出会ったのは、かれこれ十年位前になるでし
ょうか。以前所属していた治療研究会に栄養学の講師が招かれたのです。その時のセミ
ナーで講師が盛んに活性酸素の害を訴え、近い将来このことばはとても身近になると断
言したのですが、それがとうとう当たり前になってきたようです。

 

 活性酸素は酸素の仲間ですが、不安定で他の物質と非常に反応しやすい性質がありま
す。
近くにある分子を手当たりしだい酸化してしまうのです。酸化とは物質から電子が奪わ
れることですが、身近な例を上げますと鉄のさびがそうです。さびは酸化によってでき
るのです。

 

 活性酸素は悪いことばかりではありません。わたしたちの体の維持のために活性酸素
はなくてはならないものです。エネルギーを作り出したり、白血球が病原菌を殺したり
するとき、活性酸素が利用されています。しかし、過剰にできると体の各組織を傷めつ
け、老化を早め、遺伝子にまで及ぶとがんやさまざまな病気を作ってしまうのです。
 多くの生物は生きていくために酸素に依存しています。脳細胞など数分間の呼吸停止
で死んでしまうと言われています。一般に人間は通常1日に700グラムの酸素を吸ってい
るそうですが、そのうちの2から5%が活性酸素になります。70年生きる間に約18トンの
酸素を吸っている計算になるので、活性酸素の量はなんと1トンにもなるとか。

 

 体の方もただ手をこまねいているばかりの無策ではありません。わたしたちの体には
活性酸素の害を押さえるためのSOD(活性酸素除去酵素)という物質を作ってその害
から体を守っているのです。けれども、この酵素は高齢になるとどんどん減少しますし
、たばこやストレスで活性酸素が増えるとそれに対応しきれなくなります。

 

 もう少し詳しく説明しますと、水の分子は水素原子1つに対して酸素原子2つで安定し
ています。水は凍っても溶けても蒸気になっても水として安定していますね。それは水
の分子の中の酸素原子がペアになって仲良くしているからです。このように酸素原子が
偶数でうまくペアを作っているとその物質は安定しています。

 

 ところが、なんらかの理由で酸素原子が1つなくなってしまったら、それまでの穏や

な酸素原子は形相を一変し、近くにある他の分子から電子を奪い取ってしまうのです。
そうして自分は安定しますが、取られたほうはまた他からむしり取らなければ落ち着か
ないと言う具合に次々に波及してしまいます。

 

 たとえてみれば、わたしが高校生の時、上履きスリッパを誰かに盗まれたことがあり
ました。高校生の軽いノリです。そこでわたしも他人のを拝借しました。するとそいつ
もまた他からと言う具合に、常に上履きスリッパは手から手へ(足から足へ)たらい回
しにされたものでした。このようなことが体の中でも行われていると理解してください

 まあ、そんな具合に、体の中では酸素を盗られたから他所から盗みかえすという波及
作用が暴走的、爆発的に起こっているわけです。

 

 で、体の中では具体的にはどうなるのでしょう。かなりはっきり分かっているのは血
管障害です。いわゆる動脈硬化。特に重大なのが心筋梗塞や狭心症などの心臓病、また
脳梗塞などの脳血管障害です。そのほか、目や腎臓、すい臓など全身に問題が出ます。

 

 成人病検診でコレステロールが高いから注意するようにとお医者さんから言われるこ
とがあります。それは何故でしょう。コレステロールと動脈硬化の間には深い因果関係
があるからです。

 

 以前は動脈硬化は血中コレステロールの量が関係すると考えられていました。しかし
、今日では質が問題視されるようになりました。ご存じでしょう。善玉コレステロール
(HDL)と悪玉コレステロール(LDL)ですね。しかし、悪玉即悪玉とは言えない
ことが分かりました。正常であれば悪玉コレステロールと言えども悪さをしないのです
。悪役俳優と同じで顔が怖いだけで本当の悪人ではないらしいのです。
 問題にされるべきは「酸化された悪玉コレステロール」だったのです。悪玉コレステ
ロールが酸化されると動脈の壁に脂肪の蓄積が起こります。これが動脈硬化の原因です

 動脈の壁に付着したコレステロールが酸化すると細胞膜が損傷します。血管が切れや
すくなるのはこのためです。ですから運動中に心臓が止まってしまうのも悪玉コレステ
ロールの酸化が原因となるのです。

 

 この恐ろしい酸化を全身いたるところで暴力的に行うのが先程から何回も出てくる活
性酸素だったのです。
 たばこを吸うときニコチンの量を気にする人がいます。ところが今ではニコチンはむ
しろ痴呆の予防になると分かりました(潰瘍性大腸炎、パーキンソン病、痴呆症は喫煙
をしない人に多い)。たばこで怖いのは煙の中の過酸化水素なのです。過酸化水素、名
前の通り、酸化が過ぎている、すなわち活性酸素なのです。

 

 わたしが小学校の頃、ケガをしたらすぐに保健室の先生がオキシドールで消毒殺菌し
てくれました。オキシドールは過酸化水素の薬方名なのです。この事実からも過酸化水
素の力の強さが証明されようというものです。その力で体の細胞を傷つけられてはたま
りません。たばこの害はそこが問題なのです。一頃、うどんなどの保存殺菌のために過
酸化水素が使用されて問題になりました。現在はどうなったのでしょう。

 

 紫外線を浴びると皮膚細胞の水の分子が分解されて活性酸素を産出します。これも軽
くは日焼けやシミ・ソバカスですが、皮膚がんの元でもあり、今では日焼けは推奨され
なくなって来ました。

 

 さて、では活性酸素の害を防ぐにはどうしたらいいでしょう。
 先程も書きましたが体の中では活性酸素の働きを弱めるSODという酵素を作ってい
ます。この力は40歳過ぎから衰えていきますから、激しい運動をするときは注意しなけ
ればなりません。

 

 わたしたちの遺伝子には一生のうちでその人が処理できる酸素の量が決められている
と言います。運動のやり過ぎやたばこの吸い過ぎ、ストレス過多はすべて活性酸素を産
出しますから、そのためのSODも合成しなければなりません。しかし遺伝子によって
その合成能力に差があるとしたらあとは栄養とライフスタイルで予防するしかないので
す。

 

 ところが神の配慮か自然の叡知、SODの代わりをするものがあります。抗酸化物質
と呼ばれるものです。よく知られたものを上げましょう。
 ビタミンA、C、E、ベータカロチン、セレニウム、フラボノイドなどの栄養素です
。これらを十分に補うことで活性酸素の害を減らすことが可能であることが分かって来
ています。
 十分とは通常の食生活で十分な人もあれば、その100倍の量を補助食品として食べ
なければならないレベルの人もあります。その固体差は無限に異なるのです。そこから
、ビタミン大量主義が生まれてきたわけですね。通常の食生活でなんらかの問題がある
方は試みる価値はあります。また、高齢になるにしたがって栄養はどんどん増やさなけ
ればならないのは言うまでもありません。

 

 生涯に消費できる酸素量が遺伝子によって決定されるということです。ここから興味
深いことが思い出されます。それは、漢方の考え方に非常に近いのです。

 

 漢方では、わたしたちの命は親からもらった先天の気(元気ともいいます)を枯渇さ
せると死にいたるとします。そのために後天の気が大切なのです。後天の気は天の気、
すなわち呼吸と、地の気、すなわち水や食物、これらを摂取することで先天の気を減ら
さないようにしなさい三千年以上前に書かれた本にあるのです。この考え方は実証を伴
わないけれども遺伝子と酸素の話に似ています。

 

 さらに、漢方では風、熱、湿、燥、寒という環境や、働き過ぎや睡眠不足、セックス
過多が体に異常をきたす原因になるというのです。感情も喜び、怒り、憂い、思い、悲
しみ、
驚き、恐れがすぎると元気を失うと考えます。この辺り、ストレスと活性酸素の関係と
似ていますね。一方は仮定として、一方は実験による実証という思考方法は決定的に違
いますが。

 

 ところで、運動と活性酸素に関係する新聞記事が日本経済新聞に載っていました。

 

運動はがん防ぐ

 

産業医大教授ら研究
日本経済新聞 1995、10、2

 

 遺伝子のデオキシリボ核酸(DNA)の損傷とがんの関係を研究している産業医大(
北九州市)の葛西宏教授[職業性腫瘍学]らは「運動するとがんにかかりにくくなる」
との研究成果を三日から京都市で開かれる日本癌学会で発表する。
 DNAとがんについては、DNAが酸化し損傷を受けるとがん抑制遺伝子が働かなく
なりがんにかかりやすくなるとされている。これまで運動は酸素を大量に消費するため
DNAが損傷を受ける、とされていた。
 しかし葛西教授によると、運動するとDNAの損傷を治そうとする修復酵素の働きが
高まり、DNAの損傷は逆に減少することが分かった。 葛西教授らは、十九~五十歳
の男性二十四人に約三十分間自転車をこがせ、こぐ前と後でDNAを構成する塩基の一
種グアニンの損傷度と修復酵素の働きを数値で調べた。
 その結果、二十二人は運動後にDNAの損傷が減少し、修復酵素の活性は上昇してい
た。
最も変化の大きかった人では、DNAの損傷は約半分になり、修復酵素の活性は一・五
倍になった。
 葛西教授は「運動することで修復酵素の活性が高まる上、日ごろ運動を続けていると
DNAの酸化を防ぐ働きも高まるので結果的にがん予防になる」としている。

 

 

 実験の運動の程度が知りたいものですが、日ごろ適度の運動が健康増進に役立つとい
う理論的説明になるでしょうね。
 このように活性酸素が遺伝子を傷つけないよう修復酵素がでるそうです。修復酵素と
SODが同じものなのか別の酵素なのかはまだ調査できていません。

 

 それにしても、体の中ではがんになろうとする作用とそれを抑制しようとする作用、
遺伝子を破損する作用と修復しよとする作用などわたしたちの知らないうちにさまざま
な営みがなされているものですね。
 いかに体と協力して行くか。これがこれからの健康法の指針につながると思います。

 

参考
動脈硬化を防ぐビタミンE(NHKきょうの健康1994年1月号)

 

 

 

 

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游氣風信 No69「アトピー治療 秋の七草」

游氣風信 No69「アトピー治療 秋の七草」

三島治療室便り'95,9,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


《游々雑感》

アトピー治療

 《游氣風信》七月号に、「生命の鎖」という文を書きました。
 人体には現在分かっているだけで、約四十種類の栄養素が必要です。それら約四十
種類の栄養素がそれぞれ十分に摂取できていないと、栄養の価値は摂取したうちの最
低レベルの効力しか発揮できないので、健康で活動的な生活を送るためには、全ての
栄養素をまんべんなく食べなければなりません。

 ちょうど、鎖の輪のひと連なりが、一か所でも切れると、その鎖の輪は壊れてしま
います。そこで、栄養の連環を「生命の鎖」とたとえたのです。
 説明のために風呂桶を想像してください。風呂桶は縦に板が何枚も組み合わせてそ
れを、針金で固定することで作られています。その立て板の長さにばらつきがあった
らどうでしょう。水を入れると一番短い立て板のところから水は溢れてしまいます。
どんなに大きな桶を作っても、その中の一枚の板が寸足らずならそこまでしか水を入
れることはできないのです。
 栄養素もそれと同じで、ある種類をどんなに一杯摂取しても、何か一つの栄養素が
必要量に足りなければ、その人の栄養のレベルはその最低量になってしまうのです。

 全ての栄養素を効率よく取るためには、近年、アメリカで行われているように総合
ビタミン・ミネラルの栄養補助食品を食べることで取り敢えず全ての栄養素の必要量
を摂取し、あとは、食べ物をことをあまり気にせずにおいしくいただきましょうとい
うのが七月号の内容でした。

 その文の中で、鹿児島大学で行われているアトピー治療について紹介しました。簡
単な食事制限とビタミン剤を用いて、免疫異常を防ぎ、活性酸素の害を減らすことで
アトピー治療に目を見張る効果を上げているという新聞記事です。
 読者からそれに関してもう少し知りたいと聞かれました。

新聞にもっと分かりやすい記事が出ていましたので、ここに全文掲載します。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ユニークなアトピー治療
   食事改善とビタミン服用
信濃毎日新聞平成7年8月12日

 植物性脂肪と砂糖を多く含む食品の摂取をやめ、抗酸化ビタミンとビオチンなどを
服用することで、幼児や成人の重症アトピー性皮膚炎が治る・・。
 鹿児島大学医学部産婦人科講師の堂園晴彦(堂園産婦人科院長)、同衛生学助教授
の吉岡満城さんらのチームが、重症アトピーのユニークな治療法を考案、約二百の症
例で例外なく好成績を挙げたと、このほど日本ビタミン学会の委員会に報告した。
 堂園さんは婦人科がんの専門医で、患部の炎症治療にビタミンC、E、ベータカロ
チンの抗酸化ビタミンや、皮膚のビタミンといわれるビオチンが有効なことから、ア
レルギー疾患の炎症にもビタミン治療を思いつき、出産後の子供のアトピーに悩む母
親に、食事療法とビタミン剤を勧めた。
 アトピーの食事療法は、従来は抗原になる食品の排除が主だが、吉岡さんの理論に
よる食事療法はちょっと違う。アトピー患者の血液や免疫機能を調べると、高脂血症、
糖代謝異常、免疫機能異常が見られるので、脂肪や砂糖の過剰摂取やビタミン不足を
正すことが重要というものだ。
 毎日の食事から、油脂、特に炎症を起こす物質の原料になるリノール酸を含む植物
油脂を制限、フライパンを使ったいためもの、揚げ物、マヨネーズ、ドレッシング、
ポテトチップスなどをやめる。また、砂糖や果糖を含む食物、卵や牛乳、肉を制限し、
代わりに魚、煮野菜、酢のものをたくさん食べる。おやつもケーキをやめておにぎり
や芋にする。
 こうした食事療法を守れることを条件に患者を診療し、抗酸化ビタミン剤やビオチ
ンを投与、人によっては魚の成分として知られるDHA・EPA製剤や漢方の甘草製
剤を併用する。胎児、乳児のために母親の食生活を正し、母乳によってアトピーを防
ぐことを狙う。
 患者の血液や免疫細胞の変化などで有効性を実証する基礎的研究はこれからだが、
これまで約二百例の経験では、ステロイドホルモンを使っていない幼児では約三カ月、
難治性の思春期や壮年の人でも半年でほぼ良くなり、いろいろな食品を食べても再発
しないという。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

という記事です。

 アトピーに苦しんでいる人は大変大勢います。こうした治療がさらに研究をされて、
広く行われるといいですね。また、上記の記事の内容はある程度わたしたちも行われ
ることですし、おやつの芋だけでなく、昔の食事にすればいいのではないかという気
もします。

 免疫学の大家が言っています。
 「今はあまりに清潔になり過ぎた。昔の子供は鼻から青い鼻水を垂らしていた。周
囲にばい菌が一杯いたから入り口である鼻で必死にくい止めていたからだ。それで、
そこの免疫機構は異常に発達した。しかし、今は清潔になってばい菌はいなくなった。
それでも、空気の出入り口である鼻の免疫機能は発達したままである。その結果、発
達した免疫機構がわずかなタンパク質にさえ過剰反応しているのが、花粉症やアトピ
ー性皮膚炎ではないか。」
というのです。

 大いにうなずける点がありますね。
 逆に、風邪を引いてもすぐ薬で押さえてしまって、熱を下げ、肝機能の働きを低下
させ、解毒能力が落ち、また、リンパや白血球も十分働けないために、体の奥の免疫
機能が働き切れずにガン細胞をやっつけることができないとも言います。
 と言っても、今さら環境を汚すわけにはいきません。その他の弊害が多いからです。
そこで、先程の、食事が参考になることでしょう。つまり、日本の伝統食に加えて十
分なビタミン・ミネラルを補うことです。

 それから、食べ物には栄養ではないが体の中でさまざまな役割をするものがありま
すから、けっして食べ物をおろそかにしないように。例えば、アブラナ科の野菜には
抗ガン物質があることがしられています。タマネギにも有用なものがあるそうです。
また、食物繊維の重要性はどなたもご存じですね。
 食べ物はそれ以外に、嗜好品として楽しむことも大切な働きです。
 おいしく食べて、人生や人間関係の潤いとしたいもの。

秋の七草

 田舎道を歩いていると、道端にさまざまな秋の雑草が咲いています。昔の人はそれ
の代表的なものを秋の七草と称して親しんできました。しかし、今ではなかなか見る
ことができません。七草は次の草花です。

 萩(はぎ)、薄(芒・すすき)、葛(くず)の花、女郎花(おみなえし)、藤袴(ふ
じばかま)、朝顔、撫子(なでしこ)。ただし、朝顔は今の桔梗(ききょう)もしく
は木槿(むくげ)と言われていますが、七草というからには木の花である木槿よりは
桔梗が一般的でしょう。

 萩(はぎ)は今でも道端でよく見かけます。もっともこれは萩は萩でも盗人萩。子
供の頃、種をくっつけあって遊んだ記憶があるでしょう。豆科の低木で赤紫か白い清
楚な花をつけます。なんといっても秋の七草の筆頭。愛知県稲沢市には世界中の萩を
集めた萩寺があって拝観者を集めています。
 よく似た字に荻(おぎ)がありますが、こちらは稲科のすすきの仲間。昔はこれで
屋根を葺いたのです。屋根を葺く草を総称して茅(かや)と呼ぶそうです。

  行々てたふれ伏すとも萩の原 曽良(そら)

 別名尾花はすすきです。秋の野原で夕日に白銀色に輝いている風情は秋の代名詞。
冬になると枯れすすきで
「俺は河原の枯れすすき、同じお前も枯れすすき・・・」
と哀れさの象徴になってしまいます。。

  をりとりてはらりとおもき芒かな 飯田蛇笏

 葛の花は妖艶な紅紫色。ブドウの房を逆さまにしたように咲きます。根っこはさら
して葛粉として料理に使ったり葛湯として楽しみますし、風邪の初期に効果がある漢
方薬で有名な葛根湯の材料になります。筋肉を緩め体を暖める作用があるそうです。

  葛の花水に引きずるあらし哉 一茶

 女郎花(おみなえし)は1メートルくらいの草花。黄色い花が可憐に咲くので優し
い名前がつきました。白い花の男郎花(おとこえし)もあります。

  日の当るところといへば女郎花 星野麦丘人

 一番なじみの薄いのが藤袴でしょう。キク科の多年草で、先端に薄い紫色の花を密
生させます。

 藤袴歌によむべき名なりけり 佐藤紅緑

 問題は朝顔ですが、これは現在の桔梗(ききょう)のこととされています。桔梗は
最近では庭で園芸種としてよく育てられています。紫色の清潔感漂う輪郭線の美しい
花で、白い花も見かけますね。
 俳句では時に「きちこう」と呼びます。

 桔梗や昼を濡らせる山の雨 森澄雄

 撫子は清楚で控えめな日本女性の代名詞になっている花ですが、野生種は激減し、
ふだん見かけるのは園芸種のセキチクばかりです。本家の花がこの状態ですから、た
とえられる女性に大和撫子がいなくなったのは当然でしょう。

 かさねとは八重撫子の名なるべし 曽良

 秋の七草は万葉集に
 
 萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへし又藤袴あさがほの花

と歌われているところを由来にしているそうです。

 ついでに言えば、本来、七草は春の七草、正月七日に食べる七草粥のことを指しま
す。その歌もあります。苦労して調べた難しい漢字で表しましょう。
 芹、薺、御行、愠萋、仏の座、菘、蘿蔔これぞ七草
 順番にせり、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ
となります。すずなは蕪(かぶら)、すずしろは大根のことですが難しい漢字もある
のものと呆れかえるばかり。


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游氣風信 No68「宮沢賢治生誕百年」

游氣風信 No68「宮沢賢治生誕百年」

三島治療室便り'95,8,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


《游々雑感》

生誕百年

 先だって、敬愛する俳句仲間で鳳来寺在住のOさんのお母さんが九十九歳で亡くな
られました。九十九歳と言えば俗に言う白寿。世間的には天寿を全うしたということ
になりましょう。

 しかし、ここ数年、忙しい山の管理業の傍ら、献身的にお母さんのお世話をしてこ
られたOさんからは、六十三年間ずっと一緒に暮らしてきた母との決別の寂しさはと
ても深いものであること、またその寂しさは時間によって解決してもらうしかないと
いう内容のお手紙をいただきました。

 特にお父さんが亡くなってからの二十五年間の自分の人生はお母さんの大きな愛に
支えられてきたと言われるのです。なぜなら、江戸時代から続く広大な森を相続し、
それを維持し、働く人達の生活を保障しなければなりません。円高で輸入材がとても
安く、国内の林業不況は深刻です。林業家にとって相続はもっとも厳しい選択と言え
ます。

 森は景観と空気と水の最後の砦です。今、その森を保護している人達が大変苦しん
でいるのですが、Oさんはあえて、森を相続して維持するという厳しい道を選びまし
た。売って相続税を払ってしまった方がどんなに楽か分からないと言います。

 そんなOさんをお母さんが励ましてくださった訳ですね。もちろん、日常の生活全
体にお母さんとの掛け替えのない交流があったことでしょうが。
 そのお母さんとの六十三年に及ぶ暮らしが終わってしまったと言う寂しさの中にお
られるのです。

 他人は九十九歳という年齢を聞くと
「大往生だね。」
と簡単に言いますが、当人にとっては年齢は関係ありません。

 俳句仲間の話では、Oさんのお母さんの訃報は林業に多大な功績のある人の死とし
て新聞にも書かれていたそうです。長寿であり、業績も果たした、つまり、功なり名
とげた立派な人生を静かに終えられたのです。
 ご冥福をお祈りいたします。

 ところで、Oさんには大変失礼ですが、わたしは全く別の意味で感慨を覚えました。
それは、Oさんのお母さんが明治二十九年生まれとお聞きしたからです。

 この《游氣風信》にも度々書いたようにわたしは少年時代から宮沢賢治が好きで、
二十代には拙いながら研究論文を書いたり、作品の舞台になった岩手県を徒歩や単車
で旅行したことがあります。当時はまだ今ほど賢治ブームではなく、地元の人もなん
で宮沢賢治なんか訪ねてきたのか不思議そうでした。むしろ、空襲を逃れて賢治の実
家にやって来て、そのまま花巻の田舎に生活の場を求めた高村光太郎の方を地元の人
々は尊敬していました。
 その宮沢賢治が生まれたのも明治二十九年。賢治とOさんのお母さんの生まれが同
じ年と知って、ひとしお感慨深いものがあったのです。

 賢治は昭和八年に三十七歳で亡くなっています。当時不治の病であった結核でした。

 わたしが初めて賢治の童話「どんぐりと山猫」を読んだのが小学校五年位の時でし
た。その時すでに賢治は遥か昔に死んだ偉い人という印象だったのです。なにしろ、
図書室の本棚には賢治の偉人伝まであったのですから。これではまるっきり歴史上の
人ではありませんか。

 ところが、Oさんのお母さんを知って、賢治の人生が本当はさほど遠くないのだと
改めて思い至りました。賢治と同じ時代の空気を呼吸した人が身近に生きておられた
のですから。

 このことは意外な驚きと同時に、賢治をより身近に感じる契機ともなったのです。
しかし、これは本当にOさんには失礼な感慨でした。お詫びします。

 折しも、来年は宮沢賢治生誕百年。出版業界を中心として演劇やテレビ、その他で
大きなイベントが計画されているようです。
 とりわけ、近年、賢治の生態学を先取りしたような環境に対する付き合い方の先見
性や、教育者として卓越した感性(八十才を過ぎた教え子たちが今でも賢治から受け
た当時の授業を再現して懐かしむことができるのです)を持っていたことなどが評価
され、以前からの詩人、童話作家、広範な芸術活動、農村運動家、信仰者、土壌科学
者などという実に多くの側面を見せていた賢治像にまた、新たな照明が当たりそうな
のです。

 生誕百年に先駆けて、筑摩書房から新校本「宮沢賢治全集」の発刊が始まりました。
これは二十年前に刊行された校本が改定されるものです。前回は十四巻(十五冊)、
今回は十六巻に別巻一冊という計画だそうで、現在までに四冊出ています。
 校本というのは遺された賢治の原稿はもちろん、手紙、絵画やいたずらがき、学校
の作文や手帳のメモまで全ての遺墨を明らかにして世に示そうというものです。
 さらに原稿の書き直した所はもちろん、消しゴムで消したあとの凹みまで光を当て
て解読して明らかにしてしまおうという徹底的な試みです。それによって、賢治の創
作や思考の後を、逐一時間的変化を鑑みながら辿るという他の作家全集には行われて
いない画期的な個人文学全集でした。

 二十年前は、わたしはまだ貧乏学生でしたから、食費を削って一冊数千円の本を買っ
たものです。何しろ、わたしの一カ月の小遣いでは買えない額でした。今回は驚いた
ことに当時とそんなに値段が変わらないので助かります。ただし、本の置き場にはい
ささか困窮していますが。

 また、すでに「宮沢賢治の世界」展が各地で行われており、名古屋では九月十四日
から二十六日まで栄の松阪屋本店大催事場で朝日新聞社主催で開催されます。東京で
は新宿の小田急美術館で開催され大好評だったようです。
 展示品は賢治の原稿や手帳、初版の心象スケッチ「春と修羅」、童話集「注文の多
い料理店」、作曲した楽譜、手紙、賢治の画いた絵、当時の写真、愛用のチェロなど
で、わたしも今からわくわくして待っています。

 先頃、宮沢賢治学会から「賢治イベント情報 賢治百年祭」というパンフレットが
届きました。それを見ますとあるはあるは・・・。
 賢治の出身地岩手県花巻市主催の「賢治百年祭」。色々な展示、講演、映画、劇、
外国人が見た賢治、合唱、縁(ゆかり)の地のウォーキング、トークショウなどが、
文化会館や河川敷、賢治設計の花壇の前、市内の公園などで行われ、同時に東京でも
有楽町マリオンで外国人研究者の講演が行われるようです。

 その他、各地でもさまざまな催しが計画されています。
 全国的に活動して評価の高い林洋子さんの薩摩琵琶の弾き語り「なめとこ山の熊」。

 作曲家林光さんのクラシックコンサート「セロ弾きのゴーシュ」。
 オペレッタ「かしわばやしの夜」。
 映画観賞「風の又三郎」。
 茨城大学による公開講座「イーハトーブの世界-宮沢賢治入門」。
 賢治の学校主催の「よむ・キク・話す・舞う・演じる プラス オイリュトミーと
クラウン」。
 オペラシアターこんにゃく座によるオペラ「セロ弾きのゴーシュ」。
 花巻出身のベテラン女優、長岡輝子による朗読会。
 その他、合唱、リーコーダー、偲ぶ会、エスペラント大会、農民劇。
とてもかき切れません。

 変わったところでは阪神大震災チャリティー「賢治白寿祭 映画と朗読の会」や、
俳句大会、なんとイーハトーブレディース駅伝まであります。(イーハトーブについ
ては後述)

 出版の方ではいくつかのCDや、カレンダー、絵葉書など。
 研究書や賢治の作品集などの計画は目白押しでしょう。

 それらが地元の岩手県だけでなく北海道、東京、関東、愛知、大阪、神戸、徳島。
その他、広い地域で行われるのですから驚きです。
 主催も大学や愛好者グループから子供会、地方自治体や教育者のグループ、詩人を
中心とした会、宗教団体などさまざま。

 紹介した中にイーハトーブという聞きなれない言葉がありました。これは宮沢賢治
が生まれ、生涯を過ごした岩手県をドリームランドとして呼ぶときに名付けたもので、
エスペラント風に呼んだのだとされています。
 エスペラントとは「希望のある人」という意味で、ポーランドのザメンホフという
眼科医が考案した世界共通語です。明治時代に日本エスペラント協会ができています
が、賢治はその理念に打たれて一生懸命勉強したようです。
 「世界が全体に幸福にならないうちは個人の幸福はありえない。」
と望んでいた賢治にとって世界共通語はまさに理想の言葉だったのでしょう。
 今日、実質的な世界共通語は英語ですが、これは大英帝国の植民地が世界中にあっ
たという名残でしかありません。つまり強者の言語に従わなければならなかったとい
う歴史的な現実主義によるものです。
 同様にアジアにおいて、今でも韓国や台湾の高齢者が日本語を上手に話すのは、戦
前の日本の植民地政策によって母国語を禁じられ日本語を無理強いされたという歴史
の証なのです。英語のアジア版と言えます。

 しかし、エスペラントはそういう弱い者が強い者から無理やり押し付けられた言葉
ではない点で高く評価できます。が、現実的な実用性でははるかに英語に劣っていま
す。それが、エスペラントが広がらない理由でしょう。

 それから、知り合いのアメリカ人が興味深いことを言っていました。
 「言葉にはその国の文化がある。しかし、エスペラントにはそれが無い。だから僕
はエスペラントの理念に賛同はするけど勉強はしない。それなら、タイ語や日本語の
勉強をしたほうがいいのだ。」
 これも優れた見識です。彼は各民族の精神を研究していました。アジア、中でも特
に日本に興味があって、日本に住み、いろいろな体験をしたのち、アフリカのセネガ
ルに二年ほど暮らし、今はニューヨークに戻っています。

 賢治に話を戻しましょう。なぜ賢治は岩手県をわざわざエスペラント風にイーハト
ーブなどと名付けたのでしょう。
 賢治は厳しい気象と、封建性の厳しかった時代の岩手に生活する貧しい農民たちに、
宗教・科学・芸術を統合した精神革命を通して、希望を持って欲しかったのです。そ
のために農村の青年を集めて、ささやかながらオーケストラを結成したり農民劇を作っ
て貧しく暗い農村の生活を少しでも明るく創造性あるものに変換したかったのです。

 「そこでは、生きることそれ自体が芸術なのだよ。」
と。
 大ざっぱに言えば、それが岩手県をイーハトーブとエスペラント風に名づけた理由
なのです。

 この試みは今日でも多くの人々によって静かに各地で実践されています。

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游氣風信 No67「マザーグース 生命の鎖」

游氣風信 No67「マザーグース 生命の鎖」

 

三島治療室便り'95,7,1

 朝日新聞の日曜版に「おはよう!マザーグース」という連載があります。著者は鷲津名都江さんという大学の先生。(註:童謡歌手小鳩くるみさんです)

 マザーグースとはイギリスの人達が子供のころから親しんでいる、いわば日本の童歌のようなものです。イギリス伝承童謡を総称してマザーグースと呼ぶようです。

 北原白秋が翻訳した大正時代には北米にマザーグースというおばあさんがいて、そののために創作したものを彼女の養子が出版したという俗説が流布し広く信じられていたそうですが、今日ではマザーグースおばさんの存在も出版されたという本も実在が証明されたいません。

 わたしは遠き少年時代、イギリスの童話作家ヒュー・ロフティングのドリトル先生シリーズが大好きで、とりわけ「ドリトル先生航海記」(井伏鱒二訳)は何度繰り返して読んだか分かりません。

 物語のドリトル先生は世界で唯一、動物語が話せる博物学者であり、冒険家であり、人間の医者であり、動物の医者でもあるという小太りのやさしい人物です。 原作は「DOCTOR DOLITTLE」。「ドクター・ドゥーリトル」と読んで、意味は薮医者というものらしいのです。岩波書店から訳されているのは全て井伏鱒二のもので、全十二巻になります。順に「アフリカゆき」「航海記」「郵便局」「サーカス」「動物園」「キャラバン」「月からの使い」「月へゆく」「月から帰る」「秘密の湖」「緑のカナリア」「楽しい家」となります。

 わたしはしばらくの間、ドリトル先生は実在した人物だと思っていましたし、イギリスには先生が住むという「沼のほとりのパドルビー」という町も本当にあると信じていました。さらには、物語りに登場する自分と年の違わないドリトル先生の助手トーマス・スタビンズ(10歳位)が本当にうらやましかったものでした。

 その航海記の中に次のくだりがあります。

 ドリトル先生が行方不明になった偉大なるアメリカ・インディアンの博物学者ロング・アローの居場所を探しているときのことです。先生の一行が唯一の手掛かりであるかぶとむしの後を根気よくついて歩いていましたら、アフリカにあるジョリキンキ王国の王子カアブウブウ・バンポ(もちろん創作)が退屈して変な唄を歌うのです。

  テントウムシ、テントウムシ、おまえのお家に飛んでゆけ。

おまえのお家は焼けちゃって、おまえの子どもは・・・。

 これがマザーグースの中の歌と知るのはずっと後になってからでした。北原白秋の訳で紹介しますと

  てんとうむし、てんとうむし、  

はよう家へかえれ、  

おまえの家ゃ火事だ。  

みんな子供がやけしんだ。  

むすめのアンヌがたったひとり、ブッジングのなべの下に  

つんぐりむんぐりもぐった。

 童謡とか童話というのは結構残酷なものです。また、残酷なものを子供は好むのでしょう。日本の「かちかち山」でも、タヌキに火をつけて大やけどさせたり、泥船で溺れさせたりしますし、なにより、タヌキがタヌキ汁で食べられる仕返しとしてお婆さんを「ばば汁」にして食べるなどという話も伝わっています。

 ドリトル先生に戻りましょう。「ドリトル先生のサーカス」という巻ではドリトル先生がマザーグースの人気者ハンプティ・ダンプティにされてしまいます。

 

 それで先生は、やぐらの上によじのぼってゆきましたが、(中略)そのサーカス団長は、いきなりまた人だかりの方に向きなおって、先生のほうへ腕を振りながらさけびました。 「さて、紳士淑女諸君、この人物は、ほんもののズングリムックリ・デッカクであります。王さまのおそばの人たちをさんざんこまらせた人物であることは、御承知でもありましょう。木戸銭を払って、おはいりなさい!さあ、いらっしゃい、こやつが壁から落ちるのをごらんください!」

 

 欄外にズングリムックリ・デッカクの(注)として

 「イギリスの有名な童唄集「マザー・グース」の中に出てくるハンプティ・ダンプティのこと。壁から落ちて、卵のようにつぶれてしまったと、うたわれている。」と説明がありましたが、当時はこれが何のことやら全く分かりませんでした。その正体を知ったのはずっと後にルーイス・キャロルの「鏡の国のアリス」を読んだ時です。アリスが出会ったハンプティ・ダンプティは狭いへいのてっぺんに、トルコ人みたいに足を組んで腰掛けていました。そこで、アリスは歌を暗唱します。

 

  ハンプティ・ダンプティ、へいの上

  ハンプティ・ダンプティ、ずっでんどう、

  王さまの馬と兵隊みんなでも  

ハンプティ・ダンプティ、もとの場所に返すわけにはまいらない

 

 ハンプティ・ダンプティを日本語に置き換えるとズングリ・ムックリという意味らしいのですが、実はこれは卵の謎かけなのです。へいから落ちた卵は王様の家来だってもとに戻すわけにはいかないという意味が隠されています。また、朝日新聞連載中の文によれば、実在したイギリスの人物という説もあるようですが詳細は忘れました。

 

 イギリスの本を読むときはこのようにマザーグースがやたらとちりばめられていて、その方面の教養がないと読めない訳ですね。有名なシャーロック・ホームズも例外ではありません。ですから、日本訳されたものには、やたらと(注)が必要になるのです。

 

 マザーグースに関してはこんな経験があります。

 アメリカの若い奥さんに足指を一本ずつマッサージする方法を教えましたら、唐突に何かを唱え出しました。興味をもったので書いてもらいました。

 

  One little pigy went to the market

One little pigy stayed at home

One little pigy had roast beef

One little pigy had none

One little pigy cried “Wee,Wee,Wee!” All the way home.

 

 これは手持ちの本では「This little pig」となっています。白秋の訳では

このぶた、ちびすけ

     (五つの指のさきをつついてうたう)

  このぶた、ちびすけ、市場へまいった。

  このぶた、ちびすけ、お留守番でござる。

  このぶた、ちびすけ、、牛肉あぶった。

  このぶた、ちびすけ、なァんにももたなんだ。

  このぶた、ちびすけ、ういういうい。

  いっしょにお家へ、よいとこらしょ。

 

 いかに北原白秋といえども、大正時代の訳は古すぎて、おもしろくないですね。原語のおもしろさを伝えようという気迫は十分うかがえますが。

 歌の最初に書かれているようにこれはゲームです。指先をつつきながら歌うのです。彼女は子供の頃、お母さんからこの歌を歌いながら足の指を一本ずつマッサージしてもらって、最後にウィウィウィ(豚の鳴き声)と言いながら全身をくすぐってもらってから眠ったと言うのです。欧米人の親子の触れ合いのための歌なのですね。日本ですとさしずめ「いっぽんばーし、こーちょこちょ」でしょうか。 

 

しかし、彼女はこれがマザーグースであることは知りませんでした。むしろ、わたしがそのことをたまたま知っていたことに大変驚いたようでした。

 

 

生命の鎖

 

 アメリカ人は世界で一番高価なおしっこをしていると言われたのは今から15年くらい
前のことになるでしょうか。
 ノーベル賞を2回受賞したライナス・ポーリング博士が、ビタミンCの大量摂取が風

に効くと唱えたため、多くの人がビタミンCを摂取し、そのほとんどが排泄されている
と考えられたからです。

 

 それまでは、ビタミンは過剰にならず、不足にせずという栄養学的な考え方をされて
いたのですが、遺伝子が発見されてから栄養学が大転換しました。従来のビタミンに対
する見方は体の機能の調整とされていたのが、今日では遺伝子情報を正しく引き出すた
めに必要だということ、必要量の固体差が非常に大きいこと、多量に取ると薬としての
効果があることなどが解明され、とりわけ、今日、新聞や雑誌などでも目にするように
、老化や慢性病、ガン、心筋梗塞などに大きな影響を与える活性酸素が注目されてから
は、ビタミンにその活性酸素(毒性のある酸素)の害を減らす効果が期待され出したの
です。そのためには、従来の厚生省のいう所要量では全く足りないこともはっきりして
きました。

 

 鹿児島大学医学部では、アトピー性皮膚炎の原因を免疫異常と活性酸素とみて、代謝
能力を越えているとみられる植物性脂肪や砂糖、たまご、牛乳の摂取を控え、魚や野菜
を多く食べ、炎症の原因とされる活性酸素を除去する抗酸化作用のあるビタミンC・E
、ベータ・カロチン、ビオチンなどの投与で200例ほぼ全員に効果を上げていると読売
新聞に記
事が出ていました(平成7年7月15日)。ステロイド投与で効かなかった患者に対しても
顕著な効果があったと報告されています。

 

 ところが、体にいいからとビタミンCだけを大量にとるとこれも活性酸素を生じるの
で、
バランスよく十分な量をとるべきだという学者もいます。つまり、ある種類を突出して
取っ
ても、ひとつの栄養素が不足したら、意味がないというのです。

 

 人間には約40種類の栄養素がくまなく必要で、ひとつでも不足したら命の維持ができ
なくなります。これを「生命の鎖」と呼びます。アメリカのウイリアムス博士などがこ
の提唱者ですが、その著書「からだの機能を開発する」(中央公論)では、独特の円形
グラフで各食物の栄養が一目で分かるように示されています。
 これら約40の栄養素には重要性の順位がなく、全体でひとつのチームワークをなして
いると考えられます。どれかひとつの栄養素が切れても用をなさなくなるわけで、その
関係はまさに鎖のひとつひとつの輪なのです。

 

 ウイリアムス博士のグラフにはアミノ酸が8種、ビタミンが15種、ミネラルが16種の39
の輪が書かれています。
 いろいろな食品の栄養バランスが書かれているのですが、3つの栄養に富んだ食品があ
ります。ミネラルなら牡蛎(カキ)、ビタミンならレバー、アミノ酸は卵黄、それぞれ
が100点満点の食べ物だというのです。しかし、いずれも公害の影響を受けやすい点でも共
通していますね。やはり良かれ悪しかれ、栄養素つまり化学物質が蓄積しやすい食品な
のでしょう。
 また、無精白の米(玄米)や麦も理想に近い食品とされていますが、これも農薬の残
留も多いものです。

 

 これらのグラフを参考に各食品の過剰な部分と足りない部分を補い合ってメニューを
考えれば栄養的にはバランスがとれるというのがウイリアムス博士の提案です。

 

 ところが現実にはそれはとても困難なので、同博士は著書「健康になるための栄養早
わかり」ではマルチ・ビタミン/ミネラルのサプリメント(総合栄養補助食品)を保険
の意味でとることで、ガンをはじめとする取り返しのつかない疾病の危険から多くの人
が逃れ得ると提唱しておられます。

 

 そのためには理想のバランスが必要ですが、それに近いものがアメリカで市販され出
したのが今から約30年前。その後起こった変化として顕著なのが心臓病の減少で、ビタ
ミンCの売れ行きと心臓病の発生は反比例しているそうです。また、胃ガンにおいてもC
の多量摂取が減少させているという報告がハーバード大学医学部からなされています。
(これには冷蔵庫が広まって塩分摂取が減ったことを上げる学者もいます。)

 

 あくまで、保険の意味ですから、絶対病気にならないという保証はありませんが、栄
養補助食品である程度栄養の底上げして、あとは美味しいものを楽しみながらいただく
という食生活もよろしいのではないでしょうか。
 同じ料理を食べても、例えば、一人っ子が寂しい夕飯を取るのと、楽しく家族たちと
語らいながら食べるのでは吸収率は異なってくることは間違いないでしょう。でしたら
、あれが体にいいとか悪いとかあまり神経質に考えずに、保険としてちょっと栄養食品
を食べて、あとは食べることを楽しむのも一つの行き方だと思うのです。

 

 食べ物には
栄養
嗜好
機能
の3つがあります。機能とは繊維が便通をよくするというような類いです。栄養だけでも
嗜好だけでもよくありません。栄養素のバランスだけでなく、こちらのバランスも大切
ですね。

 

 生命の鎖についてあなたもお考えになってはいかがですか。

 

参考 いま、家庭料理をとりもどすには 丸元淑生 中公文庫


 

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游氣風信 No66「逢うは別れの(指圧の縁)」

游氣風信 No66「逢うは別れの(指圧の縁)」

三島治療室便り'95,6,1

 

三島広志

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《游々雑感》

逢うは別れの・・

 逢うは別れの始めと言います。これは白居易の「和夢遊春詩」の句「合者離之始」
を出展とすることばで、逢った人とはいつかは必ず別れなければならないという無常
(無情ではありません)を表した有名な詩句です。(大辞林参考)

 会った人だけでなく、出会った風景とも必ず別れなければならないことは昔の人ほ
ど身に染みて分かっていたのだと思いませんか。現代と違って新幹線も飛行機も自動
車も電話も無い時代には、遠方の人と次に会えるという確たる信念などもてなかった
に違いありません。

 また、世に戦乱が続き、病気に対しても手をこまねいてただ看病するのみという厳
しい時代にあっては、人との出会いと別れは今よりずっと真剣なものであったの思う
のです。 戦後五十年もの間、国内においては全く平和であったという希有な時代を
生きて来た者としては、別れをさほど深刻には考えません。「またいつか会えるさ。」
という思いがあるからです。

 日本の誇る茶の湯の文化の基本理念のひとつに「一期一会」がおかれているのは、
戦乱の世に波乱の人生を生きた千利休の切実な思いの反映に外ならないでしょう。

 最近、私は三名の親しい外国人と別れを経験しました。二人はアメリカ人、一人は
カナダ人です。仲よくしている外国人がぽつりぽつりと帰国することはいつものこと
なのですが、特に親愛の情をもって交流していた人達が三人ほぼ同時に帰国するとい
うのは初めてでした。そこで冒頭のことば「逢は別れの始め」が身をもって響いてき
たのです。

 しかもなお、飛行機が飛び交う今日では、たかが日本とアメリカやカナダ、いつで
も会いに来ることができるし、行くこともできるという気持ちも強いのです。現に彼
らが三名とも
「今までは自分が日本に来たのだから次はそちらが我が国にくる番だよ。」
と同じことを言い残して帰って行ったのです。 

 おそらく今の日米加の距離は、江戸時代の人達が江戸と京都に離れ離れになること
よりずっと身近な距離であることは間違いないでしょう。
 彼ら三名はわたしの指圧教室の生徒であり、身体調整のクライアントでもありまし
た。(彼らは特に病んでいたのでなく、養生法として調整を受けていたので、患者で
はなくクライアントと呼びます。意味は心理療法に訪問した来談者のこと。広告の依
頼主の意味もあります。)

 五月末に帰国した米国人女性のBさんが初めてここへやって来たのははもう5年く
らい前になるでしょうか。アメリカ人男性と結婚している日本人女性Sさんの紹介で
指圧が習いたいとやって来たのです。ところが通訳と期待したSさんがすぐに妊娠し
てしまい、通訳なしで教えなければならなくなってしまったのはいい経験になりまし
た。はるか昔に習った英語の単語を乏しい脳みそを絞りながらの会話はそれは楽しい
ものでした。わたしのとんでもない英語を聞かされた彼女はいい迷惑でしょうがしか
たありません。ここは日本なのですから。

 体の細いBさんは結構神経質で日本の生活とはうまくなじめないようでしたが、そ
れでも多くの日本人の友達を作っていろいろな活動をしていました。彼女はつごう1
2年近く日本で暮らしましたがついに日本語は上手になりませんでした。そのかわり
彼女の英語はとても理解しやすいもので、わたしのつたない英語力でも互いに話し合
いができたのです。その理由の一つとして彼女が上げたのは興味深いものでした。

 彼女の親族に耳が聞こえない人がいたのです。Bさんはその人が理解できるように、
唇の動きやことばの使い方を工夫しながら成長したので、自分の英語は日本人にも理
解しやすいのではないかというのです。これはおもしろい見解です。

 なぜ外国人が指圧を学びにくるのでしょう。
 海外に指圧を広めたのは、国内に指圧ブームを作った例の「指圧の心母心。押せば
命の泉湧く。」で知られる浪越徳次郎先生です。そのブームを学術的に固めたのがわ
たしの恩師故増永静人先生でした。

 増永静人先生は五十才を過ぎてから外国人の弟子ができて、必死で英会話の勉強を
しておられたのをよく記憶しています。カッセトテープを片時も話さず、外国人生徒
と英語で丁々発止とやっておられました。発音はお世辞にもうまいとは言えませんで
したが、ともかく根性で聞き取り情熱で理解させるという感じ。いかに京都三高・京
都帝大という秀才コースを履歴に持たれる先生とは言え、敵国語禁止の時代に十代を
過ごされた方ですから大変だったと思います。

 先生のそうした努力で指圧は海外に広がり先生の本の英語訳(数カ国後に訳されて
います)はベストセラーになりました。今日ではSHIATSU(指圧)は英語とし
てかなり知られています。
 そのお陰でわたしも外国人生徒を持つことができたのです。なにしろ、何人かの生
徒はアメリカで買った増永先生の英語版テキスト「禅指圧」に一杯赤線を引いてぼろ
ぼろになったものを持参したのですから。

 わたしは東京の先生の治療センターにしばらく泊まり込んで勉強させていただいた
のですが、そこにイタリア人Mがいて、彼とはなんとか英語でコミュニケーションを
とっていました。そのとき、ことばなどなんとかなるという経験があったので、Bさ
んとも案外平気で指圧授業ができたのです。

 Bさんの夫のお父さんが亡くなり、年老いた姑ひとりになったので帰国して世話を
することになり、急遽アメリカへ小学生の娘さんを連れて立ちました。嫁が姑の面倒
をみるというのは日本と同じですね。
 Bさんの夫R氏は日本にあと数年残って大学教授を続けるそうです。
 「タンシンフニン(単身赴任)デス。」
と寂しがっていました。

 このBさんから多くの外国人生徒が派生しました。
 Bさんは自分のパートナーに友人のアメリカ人女性Sさんを連れて来たのです。彼
女はアースデイ(地球の日)という世界的な環境保護市民運動の名古屋のリーダーで
長良川河口堰の反対運動などでも活躍していましたが、2年前帰国して、マッサージ
の学校に進みました。驚いたことに、わたしのところで勉強していた時間が考慮され
て、向こうの学校の授業時間が短縮できるのだそうです。わたしはSさんに頼まれて
証明書を2通書いて送ったのです。

 SさんはD君というハンサムな米国人青年を連れて来ました。今度はそのD君がカ
ナダ人のT君という大きな熊のような青年を伴って勉強するようになりました。
 D君はニューヨークに住む母親が肺ガンで余命いくばくもないという理由で帰国し、
その後アフリカに2度ほどわたり、現在ニューヨークに戻っているそうです。今、彼
の弟のC君が調整に来ています。

 熊のようなT君はいったん帰国して大学に戻り、先生の資格を取りしばらくパート
の教員をしていましたが、前から興味のあった禅の勉強のために再来日、広島県にあ
る国際禅堂で9カ月修行したのち、今年の5月末に帰国しました。
 帰国の数日前、わたしのところに調整を受けがてら別れの挨拶にきました。プレゼ
ントに白隠禅師の「夜船閑話」という健康法として有名な本をくれました。その表紙
裏にメッセージが書いてありました。

Misima-sensei,
You are a perfect example of living Zen.
Your work, your effort and your compassion
shows the true spirit of a BOSATSU.
Thank you, Gassho(合掌).
                   呑海

 呑海というのは得度を受けた彼の仏弟子としての名前です。
 メッセージの意味は、気恥ずかしくて訳せません。辞書を片手にどうぞ。
ことほどさように彼は真摯に禅を日常生活の中に取り込み、あらゆるものを我が師匠と
してとらえた行き方を念願しているのです。実に人当たりのよい好青年でした。カナダ
にはJという以前からのガールフレンドが待っていますから、近い将来結婚の報が入る
ことでしょう。

 T君からA君、A君からS、R、P、M、R、C・・・という具合にもう数えきれな
い程の外国人がやって来ては帰国していきました。

 さて、親しかった3人のうち、Bさん、T君については書きました。最後のひとりは
J君です。
 J君はアメリカでアマレスを8年練習し、日本では合気道を2段までとって帰国しと
いう格闘技の好きな青年です。優しい顔と頑丈な体と周囲に対する気配りの行き届いた
心の持ち主でした。その幅広い心くばりはアメリカの大学でユングの心理学を学んだた
めでしょ
うか。
 現在アジア各国を旅行中で、9月からアメリカのマッサージ学校へ通うそうです。わ
たしは彼のために入学に必要な紹介状を書きました。

 この紹介状の中にアメリカ的な考えを表すおもしろい例があります。
 たくさんの質問のうち、彼の人生観、知的能力、他人から見た長所、短所などはまだ
分かるのですが、中に、

  彼がこの学校に入ることで我が校はいかなる利益を得るか

という項目があったのには驚きました。

 生徒として我が校に入学するからには当校から生徒に利益(知識・技術・資格)を与
えると同時に生徒も我が校に利益をもたらす人物でなければならないという考えでしょ
う。何につけ自主性・自立性を重んじる国民性です。自分を中心に世界を眺め、そのた
めに負う責任を明確に自覚することを大切にするのです。なるほど、こうことがアメリ
カ的なのかと深く考えさせられました。

 その点日本人は自分が益を得ることばかり考えて、先方に自分がいかなる益を与えら
れるかをあまり考えないのではないでしょうか。その代わり相手の責任もあまり深追い
しないのです。
 自分も権利を主張する代わりに相手の権利も尊重するという二方向性の視点、これは
日本人も大いに学ばねばならない点でしょうね。

 今、大リーグで野茂投手が活躍しています。その実力と活躍をアメリカ人も素直に評
価してくれています。すごいものはすごいと。それに対して、横綱曙が勝つと座布団が
舞うという日本人の狭量さ。自分の応援チームが不利になるとグラウンドにものを投げ
込むという幼稚さ。敵味方を越えて素晴らしいプレーを評価できないのです。
 今後、野茂投手のように日本人もどうどうを自分の実力を示していけば、だんだんこ
うした島国的劣等感はなくなっていくのでしょうか。そうありたいものです。

 J君は5年間の日本での生活でアメリカの独立心と日本人の相互にもたれ合う生活を
体験し、今は日本の方が暮らしやすいと言っています。名古屋が一番リラックスできる
とも言います。確かに彼の目配りは日本的な印象は受けました。どちらかというとアメ
リカ人は集団の中で常にリーダーであろうとします。無理にそうしなくても自然になっ
ているのです。

 その点ではJ君は日本に住むほうが気楽なのかもしれません。しかし、彼は他国の文
化を素直に認める腹の大きさを持っています。タイの文化も、韓国の文化も素晴らしい
もの、
同様に日本人も好き、つまり、物事の良いところを素直に掬い上げることができる性格
なのです。これはアメリカ人というより彼の独自のものでしょう。国際関係で練り上げ
られた真の国際人と言えるかも知れません。
 こうした好漢が日本にも大勢増えることを願います。

 今、わたしの教室にはアメリカ、オーストラリア、イギリス、オランダ、ニュージー
ランド、ブラジル、ルーマニア、カナダ、日本の人が来てわいわいがやがややっていま
す。そのわたしとオランダ人の会話の仲立ちをルーマニア人が英語でするという奇妙な
組み合わせ。
 そこに共通している感情はとにかく指圧の勉強を通じて、みんなでうまく仲良くやっ
ていこうというものです。この互いに互いを思いやること、これは洋の東西を越えた人
類の持っている共通の優れた感情であり、知性なのだと思っています。そしてそれは努
力を必要とするものであることも特記しなければならないでしょうが、それは夫婦も同
じことですね。

《後記》

 先日、梅雨の晴れ間をぬうようにして、名古屋の伽藍、覚王山日泰寺に行ってきまし
た。
名前が示すように日本とタイの友好の為に明治37年間に作られた比較的新しい寺院で
す。
 明治31年、ネパールで発見された釈迦の遺骨をタイ王室より分けていただいたもの
を奉納するために建立されたそうです。この寺は特定の宗派を持たず、現在仏教19の
宗派の管長が3年毎に住職をつとめるという珍しいものです。
 境内には残念ながら歴史の重さがなく、建物は立派ですが趣には欠けました。むしろ
、周辺にあった、庶民信仰のお地蔵さんなどが祭ってあるうっそうとした場所の方がそ
れらしく感じられたのは致し方のないことでしょう。宗教の持つ陰の部分が日泰寺には
全くないのですから。
(游)

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游氣風信 No65「五月」

游氣風信 No65「五月」

三島治療室便り'95,5,1

 

三島広志

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http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


《游々雑感》

五月

旅上
       萩原朔太郎

  ふらんすへ行きたしと思へども
  ふらんすはあまりに遠し
  せめては新しき背広をきて
  きままなる旅にいでてみん。
  汽車が山道をゆくとき
  みづいろの窓によりかかりて
  われひとりうれしきことを思わん
  五月の朝のしののめ
  うら若草のもえいづる心まかせに。

 五月は風がもっとも美しい季節です。
 澄んだ初夏の空を切り裂さいてつばめが飛びかい、樹々は若葉が生い茂った新樹と
なって光りだします。
 木の枝が緑の若葉を育みながらぐんぐんと大空へ向かって伸びゆくさまは命の勢い
のほとばしりとしかたとえようがありません。

 五月になるといつも思い出すのが上に紹介した朔太郎の詩。とりわけ、最後の二行

  五月の朝のしののめ
  うら若草のもえいづる心まかせに

は車の運転中などに知らず知らずに口ずさんでいることがあります。

 フランスへの憧れがこの詩のテーマでしょうが、わたしはむしろこの詩から初夏の
朝のさわやかな生命感を読み取りたいのです。

  われひとりうれしきことを思わん

と詩人が記した心の奥から湧き出てくる至福感は五月の朝の透明な空気からもたらさ
れるのではないでしょうか。その背景、遠くの空に浮いているのが「しののめ」。漢
字で書くと「東雲」。
 「しののめ」は朝方、東にかかる雲のこと。調べの美しいことばです。このことば
に象徴されるように上に掲げた詩全体の調べもしっとりとした五月の朝の気分に満ち
ていますね。

 さらに五月にふさわしいのが新緑です。
 新緑が新鮮な空気を生み、それを吸い込んだ胸が「うれしきこと」を思わせるてく
れるのです。秋の空の透明感は純粋さを感じさせますが、初夏の風はもっと密度の濃
い充実感をもっています。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆

 五月の連休は新緑を堪能(たんのう)するために信州へ出かけました。信州の山々
はどこて行っても落葉松(からまつ)の若緑が目に鮮やかで、山全体が勢いづいてい
るようでした。

 落葉松は一年を通して魅力的なたたずまいを見せてくれる木です。
 一本だけで屹立していても、立派な林を形成していても、その姿は多くの人々の目
と心を引き付けてきました。
 生い茂った深緑の枝影で静まりかえった秋の落葉松林のおもむき。
 黙々と葉が散りこめる上にこんこんと雪が降り積む冬の孤独。
 しかし、何と言っても初夏の新緑のさわやかさと明日への命の萌え出す魅力には他
の季節を圧倒するものがあります。

 本来、落葉松という木は太い幹から枝をしっかり横へ張りだし、森全体がうっそう
とした印象で、なんとなく哲学的な重厚感をみなぎらせているのですが、初夏の落葉
松はすがすがしく青春の輝きを思い起こさせるのです。

 五月の初め、信州の山道を車で駆け抜けると、散り遅れた桜や満開の辛夷も見られ
ますが、一山全体が新緑の落葉松山となって鮮やかに迫ってくる前にはそれら花咲く
樹々も落葉松新樹にはひけを取っていると思わざるをえません。

 そんな落葉松に混じって個性を発揮しているのが白樺。
 白い幹と若草色の若葉が鋭いアクセントになっていて、遠景に雪を残した高嶺を置
けば、これはもういかにも信州の初夏という風光です。
 白樺の幹の白さは山の高度や気温に影響されるようですが、空気の透明度も大いに
かかわっているのではないでしょうか。純白としか呼びようもないほど白い木に山で
出会うことがあります。

 朔太郎の「旅上」という詩には、落葉松も白樺も信州も出てきませんが、どうして
もわたしは五月の信州の高原を汽車で旅をしていると想像してしまうのです。

  五月の朝のしののめ
  うら若草のもえいづる心まかせに

 何度繰り返しても爽快な気分に浸れます。肺の中が新鮮な空気で一杯に満たされて
しまうのです。

☆☆☆☆☆☆☆

 俳句では五月を「聖五月」などと呼ぶことがあります。
 五月の空の美しさやすがすがしさを聖と感じたのでしょうが、元来はカソリックの
人達の聖母月が由来しているそうです。つまり、キリスト教では五月はイエス・キリ
ストの母マリアの月と定められていて、聖母マリアとさわやかな五月のイメージが合
わさって「聖母月」が「聖五月」になったと考えられるのです。

  鳩踏む地かたくすこやか聖五月  平畑静塔

 聖五月の気分をもっとも見事に表している俳句。鳩が降り立った大地を堅く健やか
と表現したのです。それがいかにも聖五月の気分と合います。作者は精神科医で熱心
なクリスチャン。

  子の髪の風に流るる五月来ぬ  大野林火
  暮れ際の紫紺の五月来りけり  森澄雄
  初夏に開く郵便切手ほどの窓  有馬朗人

 これらの俳句も五月の頃の雰囲気をよく表現しています。
 最初の句。風が子どもの髪をさらさらと梳(くしけず)って吹き過ぎるとき、作者
は五月の到来を見て取ったのでしょう。流れる髪にきらめきがあります。作者は俳句
史に大きな足跡を残した方です。
 次の句は暮れ際に身ほとりが薄暗くなっていくさまをを紫紺ととらえ、そこに五月
の夕暮れを直覚しています。次第に闇が深まる中に身をおいて心静かな、しかも豊か
な時間を味わっているようです。「来りけり」という表現から五月を発見した喜びが
分かります。作者は昭和戦後を代表する俳人。
 三句目はおそらく海外で詠まれたものではないでしょうか。作者は海外詠に定評の
ある方です。どこかヨーロッパの古い町の光景かなと思いますが、間違いかも知れま
せん。「郵便切手ほどの窓」という把握からは日本でない町並みを思い浮かべます。
作者は元東大総長。俳人として、物理学者として一流を超えている方です。

 五月の風物で忘れてはならないものがあります。それは初夏の空を彩る鯉幟。鯉幟
こそは初夏の空と風と光の申し子なのですから。

  町変り人も変りし鯉のぼり  百合山羽公
  雀らも海かけて飛べ吹流し  石田波郷
  矢車の音して谷戸の夜は暗し  中村七三郎

 一句目、鯉幟の泳ぐ空は昔も今も変らないのに、町の情景も住んでいる人もすっか
り変ってしまったという感慨。五七五という短い中に極めて長い時間の経過を詠み込
むことに成功しています。作者は著名な俳人。

 次の句はとても有名な句です。吹流しは鯉幟の上で泳いでいる顔の無い鯉幟。海際
の強い風の中を雀たちが風に逆らって飛んでいるのでしょう。作者は「海かけて飛べ」
と命令に近い応援をしています。石田波郷は人間探究派と呼ばれる俳人。人間探究派
とは俳句に自己を詠み込もうと試みたグループです。彼の結核療養中の俳句は俳壇を
越えて同病で苦しむ人達の共感を得ました。この句も雀に作者の自己投影を読み取る
ことが可能です。

 三句目の矢車は鯉幟の竿の上でからから回っている飾り。夜になって鯉幟はしまわ
れているでしょう。しかし、竿の先の矢車の音が谷間の村の闇に響きわたっていると
いうどことなく寂しい世界。この作者は知られた方ではありませんが、日本の初夏の
夜を見事に詠みきって余すところがありません。

 初夏の詩をもうひとつ紹介します。それは川上澄生という版画家で詩人の作ったも
のです。
 横浜生まれの澄生はカナダ・アメリカを放浪したのち、文明開化の頃の明治情緒や
異国情緒豊かな版画を創作し、多くのファンをもっています。今年生誕百年。栃木県
鹿沼市に市立の川上澄生美術館があり、確か中央公論社から全集が発刊されているは
ずです。
 以下の詩は彼の版画に書かれていたものに基づいていますから、詩作品としての表
記は異なるかもしれません。漢字の使い方や行の分け方などがです。

初夏の風
     川上澄生

  かぜとなりたや
  はつなつのかぜとなりたや
  かのひとのまへにはだかり
  かのひとのうしろよりふく
  はつなつの はつなつの
  かぜとなりたや

《後記》

 今年は雨が多いようです。あいさつは「よく降りますね。」「また、いやな雨だな
も。」ばかり。
 今月は詩歌を特集しましたから、《後記》も詩でまとめましょう。


         西脇順三郎

  南風は柔い女神をもたらした
  青銅をぬらした 噴水をぬらした
  ツバメの羽と黄金の毛をぬらした
  湖をぬらし 砂をぬらし 魚をぬらした
  静かに寺院と風呂場と劇場をぬらした
  この静かな柔らかい女神の行列が
  私の舌をぬらした

 いやな雨も詩人の目で見ればなかなかのものです。
 詩人はことばで現実を転換しようとするからでしょうね。
(游)


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游氣風信 No64「個人本・寄贈本 」

游氣風信 No64「個人本・寄贈本 」

三島治療室便り'95,4,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


《游々雑感》

個人本・寄贈本

 このごろ個人出版が盛んになっているようです。
定年退職を期に自分の半生を日記のように追憶したもの、趣味で続けてきた俳句や
短歌を整理して句集や歌集にまとめたもの、市井の学者として長年の研究の成果を世
に問うもの、亡き親を偲んでその業績を一冊にして供養とするものなどです。

 わたしも最近いろいろな方からそうした出版物をいただく機会が増えました。社会
が豊かになったので意外と簡単に出版できるようになったのでしょう。ただし、書く
ことが簡単なのではなく、経費的に簡単になったということですから誤解ないように。

 わたしが初めていただいた個人出版物は俳句仲間の句集でした。そのとき、これは
一応いっぱしの大人として認められたのかなという印象を抱いたものです。今から12
年くらい前のことでしょうか。その句集の鑑賞文を当時所属していた小さな俳句結社
に掲載した覚えがあります。懐かしい思い出です。

 次にいただいたのは「思い出の小田木小学校」という本でした。10年くらい前のこ
とです。
 著者は小出鑑一さん。元校長先生で、教員人生のふりだしとなった小学校が閉校と
なったのを機縁として書かれたものです。
 奥付を見ると昭和59年12月発行とあります。折り込み年譜の最後は「昭和58年2月1
0日、66歳、内孫誕生」となっていますが、著者は奥さん共々、今日ますますご健在
で、そのお孫さんもこの春はれて中学生になられました。

 著者の小出鑑一さんは何十年も前から岩波新書全冊読破に挑戦中。難解なことで知
られる岩波新書を毎月数冊づつ読みのは大変な努力と知力が必要です。また地区の老
人会長として活躍され、健康のためにゲートボールや一日1万歩も実行中とかくしゃ
くたる毎日を過ごしておられるまさに名前の通り人の鑑みのような方です。

 本の内容は昭和12年、師範学校を出たばかりの新米教師、小出さんの最初の赴任先
愛知県北設楽郡小田木尋常高等小学校の日常が当時の日記とその解説という形式で描
かれているものです。
 名古屋の中心部に住んでおられた著者の初めての職場が僻地担当。突然の田舎暮ら
しの戸惑いや教師として得た感動が、土地の子供達や人々との触れ合いを通じて丁寧
に綴られています。当時の田舎の生活ぶりや学校生活が心情を交えて生き生きと、ま
た細かく記録されていて読み進んでも飽きません。

 しかしなんといっても、迫りくる戦争に若い教師としてどう対応して行くか、また
当時の一般的若者として国や戦争にどういう感慨を抱いていたかが正直に書かれてい
るという点で、歴史的資料としても価値のある書物となっています。つまり個人史を
超えて時代を反映しているということです。
 この小学校は閉校後、郷土資料館という新しい息吹を与えられていると小出さんか
らお聞きしました。

 昨年、小出さんは台湾で戦病死された弟さんの五十回忌法要記念としてコピー本を
身近の方に配布されました。手作りのものですが内容は素晴らしいものです。
 先の戦争から50年を経て、戦争は遠い日の出来事として人々の記憶から薄れつつあ
りますが、あの悲惨な出来事を風化させてはいけないという戦災体験者の義務感と、
ご令弟の供養のためにまとめられたのです。

 弟さんが終戦から数えて四カ月目の昭和20年12月17日、台湾の高雄陸軍病院で数え
年20歳という若さで亡くなったという無念。それを知ったのが翌年6月。戦後一年近
くも、両親と一緒に弟は必ず帰ってくると待ち続けていただけにその落胆と悲しみは
大変だったことでしょう。家も空襲で全壊全焼。

 小冊子ながら大変な時代の記録です。小出さんはこれらの体験を決して個人の追憶
に止めず、空襲で廃都となった写真などの社会的資料と重ねながら肉親への哀悼の意
を込められたので、価値の高いものとなっています。
 生涯を教育に捧げられた方らしい視野の広さと思慮の深さで完成されました。多く
の自家本が読み手のことを考えない一人よがりなものになりがちですが、2冊ともさ
すがと感心せずにはおれません。

 昨年から今年にかけて何冊か本を寄贈されました。
 俳句の師、黒田杏子先生からは句集「一木一草」を贈呈されました。この句集は一
般書店でも好評で、この種の本としてはめずらしく発売後まもなく増刷されるという
売れ行きだそうです。さすがに当代有数の人気俳人だけのことはあり、自分の師なが
らうれしく思います。わたしは黒田先生主宰の俳句結社「藍生(あおい)」の第一回
新人賞に選ばれた縁でプレゼントされたのです。
 何句か紹介しましょう。

  能面のくだけて月の港かな 杏子
  たいまつを星の鞍馬に押し立てゝ 杏子
  指さして雪大文字茜さす 杏子
  生涯の女書生や柚子湯して 杏子
  一の橋二の橋ほたるふぶきけり 杏子

 いずれも俳壇で話題になった句です。「雪大文字」や「蛍吹雪」は新しい季語と認
めてもいいのではないかという意見もあります。今年の俳句界の大きな収穫であるこ
とは間違いありません。

 同じ結社に属する仲間からもいただきました。
 大阪の若手俳人、高田正子さんは「玩具」という句集を出版され、俳壇の注目を集
めました。とりわけ朝日新聞の一面の大岡信氏による「折々の歌」に掲載されたのは
素晴らしいことでした。この欄に載るのは詩歌にかかわる人として最高の名誉とも言
えます。

 多くの俳人からも注目され、現在、関西から発行されている総合俳句雑誌の鑑賞欄
を受け持つまでになられました。もっとも正子さんはただ今子育て真っ最中で俳人と
しての活動はやや押さえ気味です。
 ここに彼女の俳句を何句か紹介したいのですが、数カ月前、ある女性に貸してから
それっきり返してもらえません。何でも写経のように書き写しているとか。これを彼
女の俳句に対する情熱と取るか単なるケチと見るかは難しいところです。

 深紅のカバーのとても瀟洒な句集なのですが以上の理由で手元にないので、残念な
がら俳句の紹介はできません。全体に若い女性らしいつややかな把握が情景を描写し
ていますが、集中の圧巻は死産の長子に対する悲嘆の句でしょう。自らの悲しみのど
ん底にあっても俳句をものしていく、これが俳人の性と言えます。俳句を作ることで
厳しい現実から立ち上がる気力を駆り立てていくのです。

 同じく結社の仲間、浦部熾さんも「春陽」という句集を出されました。表紙はスイ
センの花をあしらった朱色の美しいものでご主人の装丁だとのことです。文化的なご
夫婦ですね。
 彼女の句に関しては以前に結社誌「藍生」に鑑賞文を書いたことがありました。そ
の時の句は

  厳かにみんみんの鳴き始めたる 熾

というものでした。ミンミン蝉の鳴き初めをおごそかと捕らえた感覚に感心したので
す。
 そのほか次のような素敵な俳句があります。

  鰯雲林の中にこぼれけり 熾
  冬木立人の暮しの透きて見ゆ 熾
  いぬふぐり幸せなんてここにある 熾

 感性の優れた作家です。特に2句目の深い人間鑑賞と3句目の断定は素晴らしいもの
です。
 浦部さんは16歳から49歳まで書きためた作品をすっかり放出されて、また新たな俳
句人生に立たれたのです。句集を出されたことで生まれ変わったような喜びを得られ
たに違いありません。

 一宮の北部にある運善寺の酒井住職は書の大家で日展に何度も入選されている方で
すが、先頃、ご自分の寺の沿革を一冊の本にまとめられました。これは寺の歴代住職
と親鸞に始まる浄土真宗史を踏まえて書き上げられた労作です。なぜなら運善寺は親
鸞聖人の直弟子入信上人が息を引き取ったという歴史の長いお寺だからです。親鸞聖
人自らが立ち寄ったとも言われます。

 西暦1200年代初頭、親鸞聖人が尾張地方に教えを広めたとき、関東から同行した弟
子の入信上人がこの運善寺で亡くなったという伝承があり、上人の木像がお寺に残っ
ています。この木像は運善寺の住職が彫ったとも、親鸞聖人自らが彫られたとも言い
伝えられているそうですが今となっては詳しいことはわかりません。
 長い間、このあたりの消息の真偽が不明のままだったのが、何と一昨年、入信上人
の開かれた茨城県つくば市常福寺の現住職がお越しになり、入信像と感激の体面をさ
れたのです。常福寺にもそっくりの入信像が保存されている由。関東と尾張という遠
隔の地によく似た僧侶の像。この事実が「運善寺史」という書物を尾張地方の一古寺
の沿革を越えた歴史的ロマンをほうふつとさせる読み物にしてくれました。

 運善寺の表門は廃藩置県のとき売りに出された犬山城の山門です。これは荘厳で見
ごたえのあるものですが由緒もあるものだったのですね。

 このように正直言って失礼ながら、そのへんのちょっとした田舎のお寺でも一歩中
に入るとさすがに歴史的重みをたたえていると感服させられるのです。あなたも旦那
寺の歴史を住職さんにたずねてみられたらいかがでしょうか。

 昨年、鳳来寺山在住の林業家で俳句の仲間の大橋和子さんからは「山づくり 林業
最前線」という本をいただきました。奥付きによれば第3版となっています。3回も印
刷したということは多くの人に読まれているということなのです。これは実にたいし
たもの。

 大橋さんは木を相手にしている方ですから、時間の単位が100年200年と長いのです。
そのせいか、おおらかでこせこせしていない、それでいてこまやかな思いやりと潤い
のあるとても魅力的なご婦人です。わたしの母と同い年ですが女性としても魅力を十
分にたたえた素敵な山女として多くの人から慕われています。
 林業の抱えたさまざまな問題を本や新聞に書き、講演や会議に引っ張りだこ、土地
の名士でもある彼女はそうそうたる学歴・経歴と受賞歴の持ち主ですがここに一々上
げることは彼女の含羞が許さないでしょうから控えます。
 「あとがき」を紹介しましょう。
 山の木は、自然に、太陽と水と土とで育ち、人間の手助けは、無用であると、考え
る方もあり、「緑」とか「自然保護」とかの論議はなされるけれども、「水」を養う
源の、木を育てる仕事は、山村に住み、山で働く人々であることを、広く皆様に知っ
てほしいという、私の願いも込められております。
 木材は輸入できても、山や川の自然まで、輸入はできません。
 緑の美しい環境を維持するためには、山林は、つねに木材生産を営みながら、森林
の公益的機能も満たす事ができると信じます。

 彼女の視線はいつも緑の山に向けられています。その彼方にははるか未来の子孫の
ためにこの美しい自然を伝えたいという願いが込められているのです。
 ただ、山を見て「自然はいいなあ。」と言っている我々とは根本的に違っています。
山を維持するために斜面を這い、泥にまみれ、林業不況と高い相続税にあえぎ、それ
でも子孫のために祖先から受け継いだ山を守ろうと必死なのです。

 そしてこうした一部の方の恩恵を多くの人間がこうむっていることを、わたしたち
は気付かず、知ってもすぐ忘れてしまいがちです。これは寂しいことですね。彼女が
こうした本を書かねばならない気持ち、これは痛切。書かれる必然性のある出版物な
のです。

 大阪在の山野上加寿恵句集「砂丘の月」は家族愛の結晶です。
 加寿恵さんの米寿をお子さんやお孫さんたちが句集発行という形でお祝いしたもの
で地元新聞でも紹介されて評判になったそうです。
 加寿恵さんは明治40年生まれ。大正14年に作られた

  涼しさや砂丘の月に寝て語る

という句が巻頭を飾り

  番傘を片手でひらく男梅雨

で結ばれています。
 集中には

  つばくらめ土佐は海藻の匂ふころ
  きりぎりす親も子もゐる草の花
  モジリアニの女の瞳森の湖
  いしぶみの誓ひは重し原爆忌

などの句が1ページ2句づつ計206句が掲載されています。それらのほとんどが平成以
降すなわち80歳位からの作品だそうです。実に中断60余年ののちの再開。
 さらに、句集の終わりの方には息子さんや娘さん、さらにはお孫さんの句とお祝い
の言葉も紹介されていて、俳句一家のむつまじさが伝わってきます。

このご家族は5年前から家族の俳句ミニ通信「満天星(どうだん)」を続けられている
という俳句一家なのです。
 紹介句に見られるように加寿恵さんは原爆に被災されたりの決して安易な人生では
なかったようですが、今は家族に支えられて俳句を真剣に楽しみながらの人生を送ら
れているようです。

 ますますお元気で所属雑誌の最近号には

  海染めてせりあがり来る初日かな

という若々しい句が拝見できます。はるか未来を見据えた希望にあふれる俳句と感心
しました。見習わなくては。

《後記》

 世間は毒物テロと宗教団体の話題でもちきりです。神戸の震災の復興も終わらない
うちに次々と起こる事件、それに拍車をかける円高とどなたも暗澹とした毎日ではな
いでしょうか。どこかすっきりしない、雨も多いという愚痴が挨拶がわりとは困った
ものです。
 犯罪行為は一日も早い解決を、被災地は復興をと祈るばかりです。
 お体ご自愛してください。
(游)

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游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」

游氣風信 No63 忘れ得ぬ患者「三百万円の納得」

三島治療室便り'95,3,1

 

三島広志

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《游々雑感》

忘れられない患者さん

 二十五歳から治療の仕事を始めて今年で十六年目に入ります。
 そのうちには忘れられない患者さんが何人もおられました。そういう方たちの魅力
は様々です。ある人はその闘病精神に感服させられました。また別の方の生きて来し
方の素晴らしさに静かな感動を覚えたこともありました。病に倒れた現在の生きよう
がご家族を含めて実に魅力な印象の人も多くいます。いずれの方々も治療するわたし
の方に素晴らしい喜びをを残してくださったのです。

 中でもN氏はとりわけ強く印象に残る方でした。この方に関しては以前にある機関
紙に書いたことがあります。その原稿をもとに改めて書き直しました。

[三百万円の納得]

 N氏は十年ほど前に八十歳で亡くなりました。
 最後の三年間は脳卒中の後遺症でほとんど寝たきり状態でしたが、明治生まれの頑
固さで毎日仏間の椅子に腰掛けて、自分は「寝たきり老人」ではないと得心していま
した。
 私はN氏が退院して半年目からリハビリに往診し、約二年半のお付き合いをしまし
た。大変明晰な頭脳の持ち主で、時事に関してはテレビ報道を欠かさず見て、絶えず
社会の動きに注意しておられた。とりわけ好きだったのが国会中継。時の総理大臣中
曽根氏のファンのようでした。
 私がリハビリに訪問した初期の頃は、N氏の目的はひたすら歩行能力を回復するこ
とにありました。症状安定と病室不足のため、病院から歩行できないままに退院とな
りましたので、氏は病院から見捨てられたとひどく怒っていました。そこで私は氏の
病院に対する恨みのエネルギーを逆利用して訓練を行うことにしたのです。
 その結果は大成功。N氏の努力と人並み以上の体力の賜物でしょう、一月経った頃
には一本杖で室内の歩行ができるほどになったのです。

 N氏はまだまだ良くなり、何としても自転車に乗れるようになるまで頑張るつもり
でした。しかしどうも私には、それまでの進歩の状況や現在の残っている手足の運動
能力から室内歩行が限界のように思えました。
 リハビリの困難な点は、身体調整(訓練や治療)の結果、必ずしも以前の健康で障
害のない時の状態には回復しないと思われる人に対しても、希望を与えつつ身体調整
を行なわなければならないことです。
 さらに、身体調整の成果が本人にとって、もはや限界と考えられる時点で、以前に
比べれば不満であろうけれども、現在の状態がその人の今から将来への最高の状態な
んですよと、諦めと希望の両方を持って本人や家族に受け入れてもらうように心掛け
なければならないこと、これも大変難しくつらいことなのです。
 患者は元のように上手に歩けるようになると信じています。なりたいと強く願って
いるのです。わたしの方としてもそれに極力応えたいのですが、しかし、多くの場合、
現実にはもう回復はこれ以上は無理と思われるときが必ずやってきます。その時、い
たずらに甘い期待を抱かせるのはリハビリの本意ではありません。といって、絶望感
を持つことは本人にとって耐え難く苦しいことであろうし、看病している家族の失望
も計り知れません。
 どうやってN氏と対応すれば良いかさんざん迷った揚げ句、私は努めて体や病気の
話を避け、N氏の生い立ち、戦争体験、戦後の苦労話や商売のコツなどの聞き役に徹
しました。
 N氏の家はI市にあります。そこは戦争中、名古屋の人々が荷物の疎開をする程の
田舎でしたが、皮肉なことに空襲によって爆弾の直撃を受け全焼してしまいました。

 当時N氏は出征中で、家には奥さんと三人の幼い子供がいました。しかしその時の
爆撃で上の子二人が爆死し、奥さんと背負っていた子だけが助かりました。その子が
今の跡取り息子さんです。
 奥さんは、
「自分たちが何不自由なく暮らしていけるのは、死んだ子どもたちがあの世から見守っ
てくれているお陰だと思っているけど、当時の悲しさはとても言葉には言い表せない。
アメリカを恨み、東条英機を憾み、気も狂わんばかりだった。」
と言われます。
 爆撃されたとき、お母さんと子どもたちはそれぞれ家の表と裏に逃げ出しました。
そのままなら助かったのに、子どもたちは再びお母さんを追って家の中に飛び込んだ
ために爆弾の衝撃と炎で亡くなったそうです。
 お母さんは自分が子どもたちの手を引いて外に飛び出していたら死なせずに済んだ
と今でも強く後悔しているのです。こういう人にとって戦争は一体何時になったら終
わるのでしょうか。

 四十歳過ぎての復員後、N氏は家が焼け、二人の愛児が爆死したことを知り、呆然
自失の日々を送りました。しかし持ち前の気丈さで家の復興に立ち上がったのでした。

 廃材を入手して大工に家を建ててもらい、中古の仏壇を購入し、毎日、自転車で箒
や箕(み)の行商に出て、田畑を買い、米や野菜を作りながら必死で働いたそうです。

 七十七歳で脳卒中になるまでひたすら行商の毎日で、リヤカー付きの自転車で朝早
くから夜遅くまで1日百キロ近く走り回ったと懐かしそうに語ってくれました。
 七十五歳で逆上がりができたというのが自慢の、人一倍丈夫な体の持ち主でした。
ところが頑健と過信していた体が脳卒中で突然動かなくなったのです。雪の早朝、上
半身裸で鍬をふるっていた位元気だったそうですが無理を重ね過ぎたのでしょう。
 N氏は倒れた時のショックは子供を失ったショックと等しい位であったと述懐され
ました。
 N氏が自転車に再び乗る日を夢見るのは、自転車こそまさにN氏のN氏たる証明だ
からなのでしょう。

 しかし日々回復に努めるにも関わらず、歩行能力が向上するどころか次第に低下し
始めました。本人はその事実を必死で否定し、
「今日は体調が悪いからだ。」
「今日は雨模様の気候のせいだ。」
と毎日歩けない理由を探して口にしていましたが、とうとう自分ながらに真実を認め
ざるを得ないところまできてしまいました。
 以前なら横に奥さんを従えて軽く一人で歩いて来れた寝室から居間までのおよそ十
メートル。今では息子さんにしっかり抱えてもらってやっと歩いて来るという状態に
なってしまったのです。
 その頃からN氏は極めて無口になりました。日がな、絶えず何かを考えているよう
でした。いくら否定しても、歩く力が衰えた現実は否定できないことに気がついたの
でしょうか。あるいはほかのことを考えたり、思い出にふけっていたのでしょうか。

 ある日、
「先生よ、わしはお経に書いてあるようになも、往生安楽国に暮らしたいわや。」
とポツリと言われたことがありました。
 私は答えに窮して、
 「安楽国に住むにはその前に書いてある菩提心が必要なんだよ。」
とお経の本を見せてもらい、ほほ笑みでごまかしながら答えたりもしたのです。

 すっかり寡黙になられたN氏を見て、私は父がガンで亡くなる前の数週間を思い出
しました。
 父は、痛み止めの注射のために四六時中意識が朦朧としていたようでした。しかし、
時々頭がはっきりするするらしく、当時二十歳の私に向かって、子供の頃の他愛ない
罪を懴悔することがあったのです。
 「友達と蟹を路面電車の線路の上に置いてひき殺して遊んだことがあったが、今思
うと可哀想なことをしたもんだ。」
などという具合に。
 その経験から、もしかしたら人は死ぬ前に人生を清算する期間が与えられているの
かも知れないなと感じたのでした。父は死を目前にして、自分の人生の肯定作業に取
り掛かっていたのではないでしょうか。死んで行くにあたって心残りないように心の
整理をしているように見えたのです。
 そう考えると闘病期間が与えられた病気はとてもありがたい病気です。昨今、闘病
記を読む機会が増えましたが、どの著者も皆そのようなことを書かれていますから、
あながち間違いではないのかも知れません。あるいはそう考えないとやり切れないの
かも知れませんが。

 N氏もまさに人生肯定に取り組み始めたのでしょう。
 ある時奥さんに対して
 「われ(お前)はわしみたいな男と一緒になって損な人生だったなも。」
と問いかけたそうです。
 奥さんは
 「いいえ。何を言やぁす。おじいさんと一緒に生活ができて、とても良い人生を送
らせてもらったがなも。」
と答えたと言われました。
 その返事を聞いたN氏はめったに見せない割れるような笑顔を見せたと、N氏の死
後、奥さんが話してくださいました。なにしろN氏はいつも苦虫を噛み締めていたの
です。

 再入院される半年程前、N氏は孫ほどの年齢の私に向かって
「先生、わしはなも、もうこの人生に思い残すことはないんじゃ。ただ一つ気になる
ことはなも、氏神様の井戸の屋根が伊勢湾台風で壊れたままじゃろ。あれをわしの手
で建て直したいんじゃ。」
と話されました。
 N氏は息子さんや奥さんと相談して神社に建立費用を寄付することを快諾させ、宮
大工に見積させると約三百万円かかるというので、N氏が全額寄付して、井戸の屋根
の建築が始まりました。
 それから半月程して再入院されることになりました。今度は手足の機能だけでなく
言葉さえも失ないましたが、一生苦虫を噛み続けていた顔が、再入院してからはニコ
ニコ笑い、奥さんの話かけにも愛想良く頷(うなず)いていたそうです。問いかけに
対する判断力はしっかりしていて決して惚けてはいなかったのです。
 入院して一カ月ほどしてN氏は亡くなられました。

 N氏は井戸の屋根を作るという行為に自分の人生を代表させ、それを実現させるこ
とで人生を納得されたのでしょう。私はN氏によって人生を肯定できた人の本当の穏
やかな表情を見せていただくことができました。
 屋根が完成する前に亡くなられたことを惜しむ人もいましたが、N氏にとって大切
だったのは、井戸の屋根を自分の手で建設の方向へ持っていったという事実であって、
その後のことはさほど重要なことではなかったに違いありません。

 それから数年して懸命に看病に励まれた奥さんも亡くなられました。

《後記》
 春はもうすぐそこまで来ています。わたしは三月に入ってうかつにも風邪を引いて
しまいました。しかし、時々風邪を引くと体の免疫力が高まって、ガン細胞などをやっ
つけるキラー細胞なども元気になるそうです。そう考えると風邪もありがたいもので
しょう。ただし、こじらせることは禁物。風邪かなと思ったら暖かく適度の湿気を保っ
て安静にすることが必要ですね。
(游)

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游氣風信 No62「震災 古本屋にて 」

游氣風信 No62「震災 古本屋にて 」

三島治療室便り'95,2,1

 

三島広志

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阪神大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福を心から哀悼いたします。
また、被災されました方々のお見舞いと、一日も早い復興をお祈りいたします。

 「天災は忘れた頃にやってくる。」とは寺田寅彦の言葉です。まさに、今度の震災
は心の隙を突かれたという気がしてなりません。とりわけ、被災された方々には無念
の気持ちで一杯でしょう。遠く離れた地にいて、全く言葉もありません。

 私事ながら、伯母夫妻(母親の姉)が兵庫区に居住していて、震災後連絡がつかず
心配していましたが、幸い火災は500メートル手前で止まり、家は倒壊も消失も免れ
ました。
 もともと薬局を営業していましたから、食料や飲料に困らなかったため避難所に行
かなかったので何の情報も分からなかったし電話もできなかったとのことでした。
 大阪に住む従兄弟がオートバイにおにぎりを積んで家を訪ねたら、伯母夫妻とその
娘と子供たち(夫は仕事でヨーロッパ)が家の中で不安そうにしていたそうです。
 伯母夫妻は商売的には大成功して生涯遊んでも楽に暮らせるだけの蓄えはあるから、
この震災をきっかけに薬局を閉鎖しようと思ったそうですが、近所の店が壊滅してい
るし、よそ者が便乗値上げをしている現状に腹を立てた伯父が75歳の体に鞭打って商
売再開する意気込みをみせています。そのために、傷んだ店内補修も済ませたと連絡
がありました。 こうした話を聞くと、人は天災の前には無力であるが、いざとなる
と気持ちを立て直して復興に邁進できる生き物であることを知らされました。人間の
強さ、たくましさは素晴らしいものと改めて感心したのです。

 日本人の心の奥に滔々と流れている無常の思想は、過去幾度もこうした災害を経験
して形成されたもののようですが、その度に困難から苦難とともに起き上がってもき
たのですね。
 それは今度の震災でも多くの若者による直接のボランティアや、献血、募金などの
迅速な行動にもみられます。「この頃の若者は・・・。」と昔から繰り返されたお小
言も、一大事があれば「若者を見直した。」と吹き飛ぶというものです。彼らには本
気を出す機会がなかっただけなのです。むしろ若者が遊んでおれる社会の何と素晴ら
しいことか。これも改めて感じました。

 地元の自治体は20数万に近い人が非難するというとてつもない非常時に右往左往し
ているようですが、これはわたしの住んでいる一宮市の人口とほぼ同じの数です。今
のところの混迷はしかたのないことでしょう。迅速な回復と願うばかりです。
 それにつけても日本政府の体たらくは普段の国会のありようそのもの。あの程度の
政府しか持てない現状を残念に思います。むしろ国民ははなっから政府を信用してい
ないのでしょうか。信用して先の戦争に引きずり込まれたのですからね。
 しかし、行政側はこれを機会に猛省し、他国の緊急事態に対応する組織や方法を参
考にして、次に備えるべきでしょう。
 今、スイス政府発行の「民間防衛」という本が売れていますが、その緻密な戦争や
災害に対する防衛対策と心構えは驚くものがあると言います。いつも他国に蹂躙され
た国民ならではのものなのでしょう。
 いつも他国を蹂躙してきた日本に緊急事態に対応する組織がないのもむべなるかな
です。
 ともかく、一日も早く避難民の住居が少なくとも最低限の人間らしさを保証された
ものになるよう祈るばかりです。

《游々雑感》

古本屋にて

 「お父さん、新しい古本屋ができたから連れて行ってよ。」
 「新しい古本なんか無いよ。」
 「違うよ。建物は新しいけど本は古いんだよ。冗談言ってないで連れて行ってよ。
○○君も××君もそこの会員になって漫画を安く買ってきたんだから。」
 愚かな親子の会話のあと、息子にせがまれて新しくできた古本屋にでかけました。

 漫画の古本が一冊100円で買えるのだそうです。どんなところかと興味をもって行っ
てみましたら、実にぴかぴかのおよそ古本屋らしくないお店でした。雰囲気は今はや
りのコンビニエンスストア、あるいは郊外型の大型書店。
 清潔で明るい店内は信じられないくらい大勢の親子連れや若者でまるでバーゲンセ
ール真っ只中の賑わい。
 売っているのは漫画の古本を主に一般古書、新旧のCD。
 若者達がどのケースの前にも群がってその活況ぶりは素晴らしいものでした。
 天井のスピーカーからはわたしのようなおじさんには題名も歌手も分からない最新
流行歌が流れ、会員カードと本やCDを手にした客が次々に三台のレジにならんでい
きます。

 古本屋ならわたしは大好きで良く出掛けたものでした。
 以前この「風信」にも宮沢賢治の本を探し回ったことなどのちょっとしたエピソー
ドを書いたことがあります。
 二十代の始め、欲しい本を求めて、上京したおりに神田、高田馬場、高円寺、荻窪

などの古本屋街をはしごして回った事もあるのですから古本屋の客としてセミプロ級
だと自負していたました。

 古書店ではすでに倒産した古い小出版社の名前など出して、
「むむ、この若造、できるな。」
と店のおやじの顔に一瞬の驚きと警戒心を浮かばせ、思わず眼鏡をかけ直させたりも
したのです。

 そうした経験からすると古本屋とは、薄暗く、ほこりっぽく、かび臭く、雑然とし
て、客は自分を含めてせいぜい三人、女性客は絶無。店主は無愛想な鼻眼鏡でじろり
と店内をなめるように睨み、そこは一種隠微な、背徳の匂いのする、禁断の、しかし
悦楽の秘境というものでした。

 学生時代、日がな一日、デートもしないで古本屋で過ごした膨大な時間は、他人か
らすると実に無駄なもったいないものと見えたでしょうが、わたし自身にはけっして
惜しくはない、むしろ豊饒と言ってよかった時間だったのです。

 古本屋の棚の上の隅から順番にくまなく本のタイトルを読みながら、何かおもしろ
い本はないか、以前から欲しかった本は出ていないかと緊張と期待で店中の本を総な
めにしたものでした。本棚の下に積んである絶版の文芸誌などもほこりを払いながら
一冊一冊手に取って注意深く探していったのです。

 何の目的もなくふらりと立ち寄った古本屋で念願の一冊を見つけた興奮と法外な値
段で手が出なかった落胆。
 そうした苦労や徒労の成果が今も本箱の片隅に幾冊かの書物として記憶とともに残っ
ています。もはや入手困難な宮沢賢治の研究書、驚くほど安く入手した医学大辞典、
貴重な句集、古い雑誌等々。

 嗚呼、わたしの青春のかなりのページは古本屋とともにあると言っても過言ではあ
りません。(こう書くとイメージがあまりに暗いですから補足しますが、本当はわた
しは撥刺〈はつらつ〉としたスポーツ青年でしたから誤解無いように。)

 しかるに最近の古本屋の明るくて軽薄で、往時を知るものからすると情けないこと。

 本が出版洪水の中で文化を担う存在から消耗品になって随分の年月が過ぎましたが、
それが古本屋というものの形態もすっかり変えてしまったようです。そこでは大量に
消費された書物、とりわけ漫画が二回目三回目の読者を求めて流通しているようです。

 以前からの古書店が経営難でどんどん閉ざされているのが現状ですから時代に合わ
せて生き抜いていく企業努力はとても大切なことです。いかなる形態でも古書の流通
を停滞させてはいけないと思うのです。貴重な資源でもあり文化財でもあるのですか
ら。それが低俗なら低俗という時代を記録してある訳ですから。戦後のデカダンのカ
ストリ雑誌(粕取り雑誌)などは年配の方なら覚えておられるでしょう。あれも今か
らするともっとも当時の一面を如実に物語っています。ちょうど遺跡のように。

 それにわたしは漫画を否定する立場にはありません。
 「当世の大学生は漫画を読んでいる。」
と言われたころ、わたしはまだ中学生になるかならない年齢でしたから
 「へえ、今は大学生でも漫画を読むんだ。だったら小学生のぼくらが読んだってちっ
とも変じゃない。」
と漫画をよく読みました。今でも読んでいますし子供との会話のネタにもなっている
のです。。

 東大の解剖学の養老孟司先生も書いています。
 「大学生だろうと東大生だろうと漫画は読む。なぜなら大学の先生であるわたしも
大好きで読んでいるのだから。」

 漫画には実に低俗で子供にも大人にも読ませたくないものが多くあります。しかし、
それは小説や映画でも同じでしょう。
 しかも多くの優れた漫画は小説をはるかに凌駕していることはすでに常識です。昔
なら小説家になったような人が、今は漫画家や漫画の原作者になっているのですから。
作家として著名な賞をもらいながら、漫画の原作の方に力をいれている人もいます。

 小説文芸誌の売上がせいぜい月に数万部。「少年ジャンプ」という週刊漫画雑誌が
一誌で700万部。表現者の欲求として漫画がいかに魅力的であるかは一目瞭然でしょ
う。

 また、今の日本の多くの出版社は漫画による利益を、少しも売れない学術的に貴重
な出版物発行に回していることもよく知っています。漫画が日本の出版文化を経済的
に支えている面は看過できません。
 さらに今の日本から世界に発信できる文化は漫画やアニメーションだけと言っても
過言ではない状況なのです。
 お隣の韓国も漫画を重要な輸出文化としてお堅い政府が認めたと新聞に出ていまし
た。
 今度出掛けた新しいスタイルの古本屋がそれなりに出版文化財の保護をしているこ
とは貴重です。ただ、それにしてもあの明るすぎる雰囲気はとても書物の山の中から
渇望の古本を探す喜びを感じさせてはくれないようですが、これは中年の懐古趣味な
のかも知れません。

 わたしは子供が漫画を物色している間に、懐かしい「二十四の瞳」と「トルストイ
民話集」を購入しました。ともに100円。本当に安い。

 世の中は懐古趣味だけでは成り立っていかないのは自明のことです。しっかり時代
について、先を読んで生きていくことはこれからますます大切になります。これは同
時代を生きる者として年齢に関係なく義務ではないかと思えるほどに。もちろん高齢
で引退している方は悠々自適に生きていただいて結構ですが。

 何かにつけて
「昔はよかった。」
と回顧ばかりする人は、ちょっと待ってくださいよ。
 昔は年金も健康保険も水洗トイレもクーラーも自動車もなかったのだと現在の暮ら
しぶりを改めてありがたいものと評価することも必要でしょう。
 昔が良かったのは自分が若かったからなのですね。

《後記》

 大震災の影響は、離れた地でもそれぞれの人の心に影を落としているようです。冒
頭に書いたように一日も早い復興を待つのみです。
 内戦に揺れるアフリカのある国の先生たちは子供達の精神的痛手を癒すために、絵
を画かせていますが、そのための色鉛筆やクレヨンが全く不足しているそうです。日
本ではそんな不自由なことはありませんが、学校で心の癒しがされるのでしょうか。

 復興とは経済や町作りだけでなく、一人一人の気持ちの中も復興されなければ終わ
らないものなのですね。従軍慰安婦や残留孤児の心がいまだに癒されていないように。

(游)

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游氣風信 No61「新年のことば 」

游氣風信 No61「新年のことば 」

三島治療室便り'95,1,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


《游々雑感》

新年のことば

 数年前から「医道の日本」という鍼灸専門誌に「新年のことば」を掲載させていた
だいています。毎年11月頃「来年の新年のことばを200から300字で」と依頼がくるの
です。掲載者は今年の一月号で見ると295人の執筆者からなる膨大なものでした。

 「医道の日本」誌は昭和13年10月(1938)創刊以来月刊を維持してきたと言う我が
国でも希有の雑誌として創刊500号記念号は一般のマスコミでも話題となりました。
(500号には私も原稿を依頼されるという栄誉に浴しました。これはちょとした自慢
です。)

 1995年1月号でなんと通巻605号。一民間業界誌それも比較的地味な鍼灸業界の専門
誌としては驚くべきことではありませんか。

 私は鍼灸師の背後にこうした一本の背骨のごとき支えがあることを誇りにも思うの
です。

 今日改めて古い新年号を引っ張り出してみましたら、初めて「新年のことば」を書
いたのは昭和62年、1987年でした。それから毎年執筆し今年で既に9回目になります。
月日が経つのは早いと月並みな驚きとともに机に積み上げた「医道の日本」誌をしば
らく眺めておりました。
 今月は今までに書いた「新年のことば」をここに抄出して紹介しようと思います。
私の個人の歴史ですが、時代を物語る一面もありますから。

1987年(昭和62年) 33歳

捨てきれない荷物のおもさまへうしろ 山頭火
 自分から捨てられるものをどんどん捨てていったら一体何が残るだろうか。父であ
ること・夫であること・子であること・治療家であること等の肩書、金銭欲・性欲・
食欲・名誉欲等の欲、過去の体験・教育から得た常識、本からの知識、思い出、こだ
わり等々。一切がっさい捨てた時、そこに素裸の、正真正銘の自己が存在しているの
ではないだろうか。 私達の役目は、人の病気と付随する苦しみを除去することであ
る。そのために、鍼も灸も捨て、何もない自分でも人の役に立てる、そんな自分を創
らなければならない。

☆☆☆☆
 この頃は自分とは何かを結構一生懸命考えていました。身ぐるみ脱いだ時、いった
い自分は何なのだろうというおそらくは誰もが抱く疑問を私も人並みに抱いていたの
です。とりわけ私の仕事は会社のような後ろ盾がある訳ではないし、誇れる学歴も家
柄もありません。そんなちっぽけな自分でも存在価値はあるのではないかということ
を、根源から問おうとしていたようです。今はその問題は「ヒト」と「人間」とテー
マを変えています。

1988年(昭和63年) 34歳

 長野県佐久地方にある妻の実家では、毎年味噌・醤油を自家醸造している。こうし
た文化はそれぞれの民族の宝であり永く伝えられるものであろう。 
 人間の歴史は文化を引き継ぎ、何かを付加し、次に伝えることで築かれてきた。と
ころが近年に至って、歴史の流れが次々分断され、先の味噌・醤油も家の伝統から全
く異質の工業製品に換わり、漬物を含めた発酵食品という財産そのものを失いつつあ
る。
 安易さ、経済性を重視することで大切な文化・自然を破壊し、次に伝えられないと
したら、我々の世代の責任は大きい。
 鍼灸も永い歴史を持つ文化である。しかし、本当にその文化を受け止めている治療
家は何人いるだろう。自分自身を含めて、見つめ直したい。

☆☆☆☆
 これも自分探しの一面です。自分を個人の中で突き詰めるのでなく、社会や歴史の
中で捕らえるほうがより鮮明に見えてくるのではないかと考えていたのです。文章が
この《游氣風信》と違ってちょっと横柄というか生意気な印象を与えるかもしれませ
んが、それは購読層の違いと掲載誌の質を落としたくないという気負いからです。《游
氣風信》は無理やり手渡して読んでいただくという意味合いもあって文章を極力てい
ねいにしてあります。

1989年(昭和64年 平成元年) 35歳

 お魚博士で有名な故末広恭雄博士の娘さんで音楽家の末広陽子さんが、雑誌の対談
で興味深い話をしておられる。要約すると「作曲家の作品には作曲家の思いが込めら
れている。同時にそれを演奏する人にも作品に込める思いがある。そこに両者の接点
がある。しかしその接点を捜し出すにはピアノの勉強だけではだめで、両者に人生や
自然から得た豊かなものがないと接点が作れない。」ということである。
 治療師と患者の場合、目的は治癒であるが、今の話のような接点となると何であろ
う。芸術と同様に治療を通して、互いの人生がより豊かになれたら素晴らしい。人と
人との触れ合いから生まれてくる豊かな何か。これこそ文化と呼ぶにふさわしいもの
ではないだろうか。

☆☆☆☆
 これも「自分とは」という問題を文化の中で考えようとしているようです。文化と
は何か。それは人間にあって動物に無いものです。つまり人の営みは善悪を超えて全
て文化となります。文化をより良い方向へ導くのも、愚かな道を歩むのも文化なので
す。例えば原子爆弾などは科学の粋を集めた文化の極みですが同時に人の最も愚かし
い面が巨大化されたものでしょう。

1990年(平成2年) 36歳

 孔子が読まれているそうである。いまさら2500年前の思想でもあるまいと思うが、
科学的成果によるテクノロジーの使い方が分からなくなった混迷の現代に、天命に沿
う孔子の思索から教えられることは多い。まさに子曰温故而知新である。
 流行の“気”も、単にテクノロジーとして重宝がっているとしっぺ返しがくる。

☆☆☆☆
 「気」や「占い」、「霊魂」などのブームの走りがこの頃から始まったのでしょう。
物質文明の行き詰まりから解放されたいという大衆の心がこうした方向に目を向けた
のです。これも根本をしっかり持っていないとブームに躍らされるだけで終わってし
まいます。大切なのは「気」ではなくてそれを用いる人なのですから。孔子も「今の
時代は霊や占いなど怪しい物が流行っているが私はそれを信用しない」と言っていま
す。あの時代も今もあまり変わらないようです。孔子は人の生き方の背後に天という
絶対的実存を立てたのでした。

1991年(平成3年) 37歳

 昨年は2つのことに挑戦した。1つは月刊の個人広報紙を「游氣健康便り」という紙
名で発行したこと、もう1つはパソコン通信を試み始めたこと。
 パソコン通信は、書斎が電話回線を通じて世界に開かれていると思うと、時代を生
きている気持ちにはなる。鍼灸師主催のネットによる成果も本誌に発表された。時間・
空間を超えたコミュニケーションに参加するのも一興。乞う同胞。

☆☆☆☆
 この前年から《游氣風信》が始まったことが分かります。当時は「游氣健康便り」
という名前でした。これは健康情報を中心にしたものでしたが、むしろ健康情報過多
による不安神経症的社会にこれ以上加担する必要もないと軽い読み物に内容を変えた
のです。また、この頃からパソコン通信を始めました。パソコンやワープロを電話線
とつないで手紙を出したり、新聞を読んだり、仲間と話し合いをしたりできるのです。
大もとのコンピューターに全て記録してありますから場所も時間も問いません。何時
でも自分の都合のいいときのつないで手紙を読んだり送ったりできるのです。
 新聞には毎日実態のはっきりしないマルチメディアの記事が出ていますが、それな
らまずパソコン通信を試みられることを提案します。空間も時間も超越した通信媒体
は人生に厚みを加えてくれることは間違いありません。上述のように自分の書斎が世
界につながっていると思うだけでも豊かな気持ちになるのです。しかも今は携帯用の
ワープロで公衆電話や携帯電話からでも交信できるのですから愉快なものです。私は
俳句の結社誌の原稿も時々パソコン通信で送っていますし、若い連中は遠く離れた仲
間とパソコン通信俳句会や連句をしているのですよ。それは時間も場所も限定されな
いから可能なのです。

1992年(平成4年) 38歳

在宅ケア
 最近在宅ケアの機会が増えた。そして訪問先で色々な経験に出会った。付き添って
いる年老いた妻が、精神的に追い詰められて入院することもあった。そこに若い人達
の協力的な介入がない。家族関係がうまく機能していない。親も何故にと考え込んで
しまうほど子供達に遠慮している。
 病む人とその周辺に現代社会の抱える様々な歪みが凝縮して露呈している。医療や
家庭、教育や経済の・・。

 鍼灸師は彼らの苦難に共感しつつ、彼らを明るく励ましていかねばならない。医療
的技術の提供と精神的支えを媒体として。すべては明日は我が身の問題なのだから。

☆☆☆
 これは辛口のコメントです。この年の文は掲載しようか迷いましたがここに書いた
人はすでに亡くなっていますのであえて掲載いたしました。幸いなことにここに書か
れているようなことは急速に改善の方向に向かっています。政府が在宅介護の計画を

明確に打ち出したからです。そのことは翌年の「新年のことば」に伺われます。

1993年(平成5年) 39歳

 本誌に在宅ケアが特集される時代が来た。私も開業以来10数年、常に何人かの在宅
患者を診てきて、現在も保険制度の元で訪問している。彼らの殆どは快方に向かうこ
とは不可能な病気もしくは障害を抱えている。したがって彼らに対する行為の主体は
治すキュアではなくあくまでケアである。
 最近は患者に関わる医師や保健婦、ケースワーカー、ホームヘルパー、家族たちと
の在宅ケアについての会議に呼ばれたりもした。過去の経緯、現状から将来への展望
まで実にきめ細かな話し合いが業種を超えて対等に行われる。その熱意には襟を正さ
ずにはおれない。ところが治療家は訪問先でそれらの業種を一手に引き受けることに
なる。つまり治療家としてマッサージ機能訓練を施すのみならず看護婦、ケースワー
カー、カウンセラー、ホームヘルパー、ちょっとした病気の相談、時には夫婦喧嘩の
調停員や棚作りの便利屋までをこなさなければならないのだ。

☆☆☆☆
 以前は口コミで患者さんから訪問治療の依頼を受けていたものでしたが、この頃か
ら保健婦やホームヘルパー、病院のケースワーカー、あるいは直接主治医から電話を
いただくようになりました。それまでひっそりと障害と闘っていたり、介護に疲れ果
てていた家族に多少なりとも行政の目が向いたのです。福祉に関しては北欧と比べる
とまだまだあまりにお粗末だという記事が朝日新聞に連載されていましたが、まだ過
渡期どころか端緒についたばかりですからしかたありません。急いで充実させて貰い
たいと願うのみです。それでも数年前に比べれば隔世の感とはこのことです。以前は
在宅患者の体は不潔でした。シーツの上に剥離した皮膚が山のように積もっているこ
とも珍しくありませんでした。仕方ありません。高齢の家人が精一杯の努力をしても
体力的に限界があるのですから。しかし、今はどの患者さんも磨かれたようにぴかぴ
かしています。大袈裟でなく。それは月に1~2回の入浴サービス、あるいは週一回の
デイサービス。とりわけ週二回のホームヘルパーの訪問。これら社会資源を有効に利
用できるようになったのです。まだ、こうしたサービスを知らない人もありますし、
かたくなに拒否する人もありますが今のところ良い方向に進んでいるようです。ただ
し、行政の予算がどこまで持つのか。政治改革や行政改革、税制改革、なにより国民
の意識改革など問題は山積み。上手にやり繰りしてもらいたいものです。

1994年(平成6年) 40歳

 社会性とは人は社会に支えられないと生存不可能という認識とそれに報いる行為で
あろう。人間は人から学び人に施すという社会性と、過去の人々の貴い経験考察の蓄
積の恩恵という歴史性を有する。これらを踏まえて生き、将来に伝えようとする人の
ことを社会性ある人間というのである。
 教育者の故林竹二氏は「人間であることと人間になることは違う」と言われた。人
間になることは即ち社会性・歴史性を持つことであり、それは教育によってなされる
のだ。
 鍼灸師の社会性もこの方向にあることは間違いない。

☆☆☆
 《游氣風信》は毎月「医道の日本」編集部へ送っていますので寄贈雑誌コーナーに
紹介していただいていますから、まれにそれを読んだ鍼灸師から送ってほしいと依頼
がきます。今まで何通も送っているのですが「受け取りました。」という返事を受け
取ったことが実にただの一度しかありません。別の一般雑誌に紹介されたときに送っ
た方たちからはていねいな読後感を送っていただいたにも関わらずです。別に礼状が
欲しいわけではありません。何年か前、鍼灸師の間に質的向上をしよう、社会性ある
鍼灸師、社会から認知される鍼灸師になろうという掛け声が上がったことがあったの
ですが、こうしたちょっとしたことが社会性なのではないかと憤りを押さえて書いた
のが上記の「新年のことば」だったのです。ちなみに返事をくださった鍼灸師は彼自
身立派な「治療院便り」を発行している人でした。

1995年(平成7年) 41歳

 友好関係にある地元医師会と鍼灸師会を通じて在宅ケアを依頼された。患者は両親
が介護している。背後に両親の目を感じつつのリハビリは辛い。長寿社会とは親が子
を介護しなければならない社会でもあるのだと痛感した。
 しかし、幾多の困難を内包しつつも新年をおおらかに喜びたい。

☆☆☆
 現在、親が子を介護している家庭を3軒受け持っています。長い人は37年にも及び
ます。その方は最近になるまで在宅治療のことを知らなくて、最近になって保健婦さ
んに私を紹介されたのでした。家族で頑張るのは限界があります。現在は医療の進歩
から介護の期間が依然とは比較にならないほど長くなっていますから患者も家族も疲
労困憊になってしまうのです。しかし、ゆっくりながらも社会の目がこちらに向かい
つつあります。なぜなら自分も何時かは年を取る、あるいはそれ以前に障害という困
難になる可能性も避けられないというしごく当たり前なことに多くの人達が気付き始
めたからです。
 上の文章の末尾と同じく幾多の困難を内包しつつも喜びをもって新年を祝いましょ
う。

《後記》
 新しい年。しかし地球はあいも変わらず宇宙空間を猛然と爆発気流に乗って飛んで
います。そんな悠久な時間の流れを一年毎に区切って、心を新たにするという古人の
知恵に乗っかるのはとても賢い過ごし方ではないでしょうか。
 何はともあれ
「新年おめでとうございます。」
「HAPPY NEW YEAR!(幸せな新しい年を)」

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游氣風信 No60「第九コンサート 」

游氣風信 No60「第九コンサート 」

三島治療室便り'94,12,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/


《游々雑感》

第九コンサート

 「今年も早いものでもう師走。」
という毎年恒例の感慨に心動かされる月がやって来ました。
 このところの師走の恒例となれば言わずとしれたベートーヴェンの「第九」です。

 近所に住む稲垣さんのご子息で声楽家の稲垣俊也さん(バス・バリトン・・男声低
音部と中音部)がイタリアで行われたオペラ歌手の登竜門として名高いパルマ国際声
楽コンクールで見事優勝、日本各地で凱旋リサイタルをされたのは1992年12月のこと
でした。
 新婚間も無い遠藤久美子夫人(ソプラノ・・女声高音部)との共演は実に華やかな
もので、リサイタルは同コンクール日本人初の優勝を祝す人達で大盛況でした。

 その時の俊也さんの言葉で印象的だったのが
「地元にオペラという文化を根付かせたい。」
ということでした。

 今回俊也さんはそれを実践すべく、歳末の恒例となった市民によるベートーヴェン
の「第九」を歌う会に出演されたのです。そのために時々地元一宮市のアマチュア合
唱団の指導のために東京から来られたと聞きました。
 わたしは11月になって市の広報や街角のポスターなどで「第九」の開催を知ったの
ですが、正直なところ始めは聞きに行く気は全く無かったのです。なぜなら、いくら
プロの声楽家が4名客演するからと言ってもしょせんは素人の合唱。あえて聞きに出
掛ける程のものではないだろうし、「第九」は結構長くて退屈な曲だし、オーケスト
ラも「一宮第九記念オーケストラ」というのじゃあなんとなく期待できそうもないし・
・・。果たして入場券2500円の価値はあるのだろうかなどとという計算もありました。

 実は12月は20日に旧知のサキソフォン演奏家三日月孝さんが服部真理子さん(高校
同級生の奥さん)のピアノ伴奏でリサイタルをするのでそちらを聞きにいく計画を、
すでに4月頃には立てていました。年末の音楽はそれでいいと決めていたのです。

 そんな訳で、「第九」のことは忘れていました。
 ところが、「一宮第九をうたう会」の練習場になっている市の施設に努めている方
が、「最近めきめき上達してるよ。気の毒なくらいしごかれているから。」
とおっしゃいますし、妻が俊也さんのお母さんから、
「『第九』は第四楽章だけで、あとはワルツやアリア(オペラの美味しいところ)を
やる予定だから是非。」
との情報をお聞きして、じゃあ行ってみようかと重い腰を上げたのでした。

 当日、家族や近所の母娘連れと出掛けてみて予想は見事に裏切られました。良いほ
うにです。とても素晴らしいものでした。
 確かにコーラスのハーモニーは危なっかしくてわたしごときの素人耳にも分かるほ
どあちこち乱れました。歌詞も、もたつくところが一杯ありました。でも原語のドイ
ツ語で歌うのですからしかたありません。
 しかしクライマックスなどは見事に歌い切ったなあと感心いたしました。やはり今
年で七回目ともなれば練れてきているのでしょう。本当に市民合唱としては見事なも
のでした。
 拝見したところ合唱団員は50歳から60歳台の方が多く、女性の方にやや若い人が目
につきましたが意外に年齢層が高いこと、その人達があれだけの曲に挑戦し、歌い切っ
たことに感動は禁じ得ません。
 さらに驚くべきはオーケストラでした。以前に聞いたウィーンフィルほどの透明感
ある演奏は望むべくも無いとしても、これまた素人が聞くには十分すぎる音色で、と
りわけパーカッションの安定した響きとコンサートマスター(バイオリンの首席演奏
者・指揮者を除いたオーケストラ全体のボス)の繊細なバイオリンソロは立派なもの
でした。
 「待てよ。」
と改めてパンフレットを読みますと、何のことはない、このオーケストラは
「平光保を常任指揮者とし、岐阜県下唯一のプロフェッショナルオーケストラである
各務原室内管弦楽団のメンバーを中心に東海地区生え抜きの優秀なメンバーによる云
々」
と書いてあるではありませんか。なんだ、プロの集団だったのです。うまいとか下手
というレベルはとうに越えているのですから演奏が一人前で当然なのでした。

 交響曲第九番「合唱付」を作曲したとき既にベートーヴェンの聴力は無く、初演を
指揮した彼には会場に鳴り響く拍手が聞こえなかったそうです。指揮者は客席に背を
向けているからです。演奏家がそっと彼の向きを変えますと万雷の拍手を打ち鳴らす
手が見えて、大好評であったことを納得したと高校で習いました。
 外界の音を失ったベートーヴェンは自らの内なる声を聞いてこの曲を作ったのだろ
うか、などと考えながら聞く合唱はいかにも感動的だったのです。

 ただ、なぜ年末に、日本全国どこもかしこも「第九」なのかは理解に苦しむところ
です。誰がどこで始めたのかも知りません。臍曲がりかもしれませんが新たな年を迎
えるにふさわしいやり方は外にもあるだろうにと思うのです。
 クラシック音楽は極めてレベルの高いものであることは自明のことです。また日本
の演奏家の能力ももはや西欧に劣らない段階まで来ていることも十分承知しています。
俊也さんのように国際音楽コンクールで毎年何人かの日本人が優勝する時代です。
 しかしクラシックをやらねば文化的でないという考えも偏狭でしょう。日本には日
本の文化と呼べる歌がありますし、ましてや忘年行事なら外にも方法はあるでしょう
し。一か所二か所でやるくらいなら分かりますがどこもかしこも「第九」というのは
解せませんね。この主体性・創造性の無さにはいかに芸術性の高いものを演奏しよう
と、そこに“ものまね”は感じられても文化を見いだすことは困難です。

 まあ理由のひとつはふだん一般に縁の薄い交響曲をこの際身近に感じてもらうため
に演奏しよう、しかも「歓喜の歌」の大合唱に市民参加してもらえば年忘れにふさわ
しいだろうということなのでしょう。
 そこまで譲ってもまだ疑問はあります。ドイツの属国であった訳でも無いのになぜ
意味の分からない原語で歌うのかということ。メロディに日本語が乗らないからでしょ
うか。しかし当日、俊也さんはじめ当日のプロの歌い手たちは皆それぞれアリアを日
本語で歌われたのです。そこには歌の意味を伝えようという意図がくみ取れます。
 無理にドイツの古い言葉で難しくやることは結局はクラシックは高級なんだよとい
う旧来の弊を糊塗するに過ぎないのではないかとも思ってしまうのです。

 あんまりぶつぶつやると「ぼやき漫才」みたいになりますからもう止めます。
 今各地で「第九」をやっている人達もきっと深く考えてはいないのでしょう。惰性
でやっているのです。恒例とは案外そういうことなのかもしれません。一番始めにや
り出した人には明確な意図があったに違いないのでしょうが後に付随する人達は繰り
返すこと、継続することに意義を見いだすのです。(この《游氣風信》もそうじゃな
いかと言われそうですが。)
 NHKの紅白歌合戦もしょうがなく続け、しょうがなく見ているという図式ができ
て何年も経っていますしね。恒例とはそういうものなのでしょう。

《後記》

 名古屋の美大を卒業後スペインにアトリエを構えている紀平晃子(のぶこ)さんの
個展が名古屋栄の画廊“4CATS”で開かれました。知り合いのフリーライター中
村設子さん(先月号で紹介したベータ・カロチンの本を書いた方)の是非にというお
薦めもあって見にでかけました。
 紀平さんはスペイン在住が長くなるにつれて日本的なものの良さに引かれるように
なったとおっしゃいました。確かにそこに置かれている作品は漆喰(しっくい)や日
本紙などの素材とスペインの色合いや紙、ブーゲンビリア(鮮やかな花の一種)など
で不思議な世界を彩っていたのです。

 12月11日は俳句の会の用事と忘年会のために東京まで行ってきました。前日変電所
が火事になった影響で山手線がひどく混乱して、平日のラッシュのようなありさまで
したが、無事その日のうちに帰って来れました。

 当日俳句の黒田杏子先生から古い俳句の仲間で最近評判の本を出版された人を紹介
されました。彼女は4年間世界各国を回って、外国に住む日本人を取材していたのだ
そうです。その録音テープがじつに700時間。回った国は40カ国以上。本に登場する
人だけで108人。
 膨大な労力をそそぎこんだ本の題名は“「在外」日本人”、著者は柳原和子さん。
前著に「カンボジアの24色のクレヨン」などがあります。
 “「在外」日本人”は朝日新聞や読売新聞などの書評で絶賛されていますからご存
じの方もおられるでしょう。
 ここに登場される人達のインタビューに耳を傾けるということは、遠い世界からじっ
くりと日本を見つめなおすことになります。そこでかえって日本とは何か、日本人と
は何かが浮き彫りにされてくるそうです。そのあと国籍を越えて、人間とは何かを深
く考えさせられると書評子が書いていました。

 本文で触れたオペラ歌手稲垣俊也夫妻はイタリア生活が長く、今も行き来されてい
るようですので2つの異なった文化圏の中から何かを学んでおられるでしょう。
 先の画家紀平晃子さんも「在外」日本人の一人になるわけですが、彼女もまた日本
を離れることで日本の美を再発見できたそうですから、こうした人達の視点がこれか
らの日本人に本当に必要になってくるのではないでしょうか。
 日本が国際社会として成熟できるかどうかという大切なときです。柳原さんの“「在
外」日本人”は時機を得た好著と言っても過言ではないでしょう。是非ご購読くださ
い。彼女は世界を遍歴するために大変な借金をしたそうですから。(これはプライバ
シーにかかわる重大秘密ですから本来こんなとこに書いちゃいけないのですが。)
 こうした地道に文化を支えている人達を支援するのは本や絵を購入すること、コン
サートに足を運ぶことです。子供や孫にくだらないテレビゲームソフトを次々買い与
えるくらいならその中のわずかばかりのお金をこうした人達に回してください。(文
化と無縁のわたしに回して下さることもそれはそれで立派な行為だとわたしは思いま
すが・・。)
 “「在外」日本人”2900円、晶文社。ゲームソフトの半分の値段です。573ページ
と分厚い本ですが108人の章仕立ですからどこから読んでも構わないのです。

 1990年(平成2年)1月から始めたこの通信も今月号で60号を達成しました。ちょう
ど丸5年が経過したことになります。ワープロが壊れた一回を除いて月刊を貫きまし
た。よく続いたものと我ながら感心しています。1号からずっとこの駄文に付き合っ
てくださっている方も何名かおられます。心から感謝いたします。
 この先はどうなるか分かりませんが、いままで同様無理せず気楽に続けようと思っ
ています。どうぞお付き合いください。

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游氣風信 No59「紅葉 」

游氣風信 No59「紅葉 」

三島治療室便り'94,11,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


《游々雑感》

紅葉

 大阪の近郊、箕面市(みのおし)は衛星都市として発展していますが、市内を見下
ろす箕面川の渓谷は紅葉の名勝地として知られています。
 わたしは一度だけ遊びに行きました。かれこれ十年近く前になるでしょうか。曲が
りくねったゆるやかな坂道に沿ってずらりと土産物屋が並ぶ極めて落ち着いた観光地
でした。

 軒を連ねていた土産物店がまばらになって坂道を登る足がだんだんがきつく感じる
ころ、紅葉の影がちらちらと道にちりばめられてきます。空気がひんやりと澄み渡っ
て、燃えるごとき楓(かえで)の葉が空をおおいつくし、あたりは青と赤と緑に彩ら
れて、すがすがしい光に包まれるのです。

 ふと山の方を見上げると野生の猿がこちらをうかがい、餌をくれそうな人を物色し
ていました。すっかり人慣れしているのでしょう。木の枝のあちこちにいてびっくり
します。

 こうした紅葉の景勝地は大抵清流に沿い、最後は滝に突き当たるのですが、箕面も
そうであったと記憶しています。

 道の両側のお店には行楽地定番の煎餅や最中、饅頭や木彫りなどのお土産が売られ
ていました。また、これまたどこの観光地でも売られている杖や訳の分からぬ木刀な
ども店の入り口に端然と立てられて買う人を待っているのでした。一体どこの誰がな
ぜ旅行にきて木刀など買うのか皆目見当もつかないのですが、不思議なことに日本中
いたるところの名所には木の刀が売られているのです。
 それから大概、「孫の手」と「肩叩き」が合体した道具も売られていますがこれは
結構重宝します。ところがこの役に立つ道具はその辺の雑貨屋にはなく、こうした土
産物店にしか売られていないのも奇妙なことではありませんか。

 ここ箕面の一番の名産は「紅葉のてんぷら」。
 紅葉の葉を油で揚げたものですが、てんぷらと言うよりも、もっと堅く歯ごたえの
あるカリントウのような揚げ菓子でした。なかなかおいしいものです。けれどもどの
店の前にも実演販売の揚げたて試食品が置いてあって道々つまんで行けば、お店の人
には申し訳無いけど買わなくても済んでしまいます。

 箕面も有名ですが、関西で最も知られた紅葉の名所は何と言っても安芸の宮島、(巌
島・いつくしま)ではないでしょうか。
 宮島の最大の呼び物は海の中に建立された朱色の鳥居で知られる平家ゆかりの巌島
神社ですが、もう一つ有名なものが「紅葉まんじゅう」。昔漫才でこれをネタにして
いた芸人がいましたね。楓(かえで)の形をしたカステラ風の饅頭で中に餡こが入っ
ています。

 宮島は山に映える深紅の紅葉と浅瀬に立つ朱の鳥居、それらを囲む瀬戸内海の透け
る青。その自然と歴史の融合した美しさは多くの人に愛されてきました。

 「紅葉まんじゅう」は宮島だけでなく関東の名跡、日光にもありましたからおそら
く今では全国の紅葉狩りの名所で売られているのではないでしょうか。多分箕面の「紅
葉のてんぷら」も。

 三重県には赤目四十八滝という忍者の里で知られた秘境があります。わたしは十九
才のとき、学校の帰りにふらりと一泊旅行に出掛け、紅葉見物と俳句作りを試みまし
た。
 結構冷えたので途中のお店で熱燗とおでんをやっていましたら、店の前を通り過ぎ
る若い女性のグループがわたしを指さして
「あんな子供がお酒飲んでる。」
とささやいたので大変憤慨(ふんがい)した思い出があります。
 しかし、紅葉を見ながら清流の音に耳をすませてお酒を飲むのはいいもんです。
 さて、冒頭から紅葉にかかわる食べ物の話ばかりでしたが、ことほどさように日本
人は紅葉狩りが好きだと言いたかったわけです。
 秋の紅葉は春の桜と並ぶ日本人の好む景観です。春の花見と秋の紅葉狩りとは伝統
行楽の東西両横綱ではないでしょうか。

 万葉集にもすでに

  秋山に黄反(もみづ)木の葉のうつりなばさらにや秋を見まく欲(ほ)りせむ
山部王(やまべのおきみ)

と紅葉に寄せる心情が詠まれています。夏の間緑色だった木の葉が黄色くなるのでも
みじを黄反と書いたのでしょうか。
 さらに古今集に

  見る人もなくて散りぬる奥山のもみぢは夜の錦なりけり
紀貫之(きのつらゆき)

とあります。率直に歌い上げる万葉集と違って、優美・繊麗(せんれい)を貴んだ古
今集らしく見る人のない夜の紅葉を錦にたとえて詠んであります。

 妖艶・情緒を好んだ新古今集には

  見わたせば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮 藤原定家

と、紅葉の頃なのに見当たらないさびさびとした風景を表現してあります。苫屋(と
まや)とは薄(すすき)などで屋根を葺(ふ)いた粗末な小屋のこと。

 このように万葉・古今・新古今と我が国歌謡の三大潮流いずれにもその思潮そのま
まに親しまれてきました。

 紅葉は俳句歳時記にも重大な季題として取り入れられています。
 ちなみに「季題」と「季語」の違いを説明しておきましょう。
 「季語」は季節を表す言葉、「季題」は季語が文学的伝統を負う位置まで高められ
た言葉です。たとえば扇風機は夏の季語ですが季題とまではなっていません。けれど
も紅葉は先の歌などに詠まれ継がれてきたように、日本人の精神史の中にしっかりと
根付いたものとして季題となっているのです。
 今日、「雪・月・花」は日本を代表する季題としてその最高峰にあります。冬は雪、
秋は月、春は桜ということですが、それ以外に秋の紅葉と夏の時鳥(ほととぎす)を
いれて「五個の景物」とされているのです。

 「春がすみたつたの山に初花をしのぶより、夏はつまごひする神なびの時鳥、秋は
風に散るかつらぎの紅葉、冬は白妙の富士の高嶺に雪積もる年の暮まで、皆折にふれ
たる情なるべし」(新古今)とあるように当時は「花・時鳥・紅葉・雪」が四季を代
表する景物でしたが、今日は時鳥に変わって月がベストスリーの座を占めるにいたっ
ています。

 ここで幾つか紅葉の俳句を紹介しましょう。季語別に。

紅葉
  障子しめて四方の紅葉を感じをり  星野立子
  一枚の紅葉こぼるゝ布団しく  山口青邨

照葉(てりは)
 紅葉が日に照らされて輝いているさま。
  女学生うつしみ匂ふ照葉かな  下村槐太

紅葉は楓(かえで)だけでなく漆(うるし)、櫨(はぜ)、桜、柿、葡萄(ふどう)
なども美しいものです。銀杏(いちょう)は黄葉(もみじ)になります。

  あたりまであかるき漆紅葉かな  高浜虚子
  櫨紅葉ただうとうととねむりたし  加藤楸邨
  紅葉して桜は暗き樹となりぬ  福永耕二
  柿紅葉して豚の子のおとなしき  早川草一路
  紅葉して雲より赤し葡萄園  石塚友二
  銀杏黄葉大阪馴染なく歩む  宮本幸二

黄落(こうらく)
 黄色い葉が散ること。
  ここに来て死ねよと山河黄落す  籏 こと

 今、今生一度きりの今年の秋です。精一杯満喫してください。

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游氣風信 No58「所変われば」

游氣風信 No58「所変われば」

三島治療室便り'94,10,1

 

三島広志

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《游々雑感》

所変われば

 所変われば品変わるとはよく言われることです。
 日本は北は北海道、南は沖縄と亜熱帯から亜寒帯までを連ねた島国で、しかも海辺
もあれば高山地帯もあって、さまざまな気候や地形が人々の暮らしに膨大な影響を与
えて歴史と風土を築いて来ました。
 風土とは人の生活と気候と地理が混然となったものを言います。そしてその地に伝
わる各種の伝統・習慣を風習・風俗と言い習わしているのです。それはよその人が見
れば実に滑稽であったり、荒唐無稽(こうとうむけい)であったり、無意味どころか
有害とさえ思えるようなこともあるのですが、とりあえずはその地に根付いている習
俗を他人がとやかく言う訳にはいかないでしょう。
 自らのものさしでもって他人の測定をすることは愚かなことですからね。

 さて、仰々しいことを書いてしまいましたが、わたしも乏しいながら、何回か「所
変われば」を経験しました。それはとても面白いものですが戸惑いもありました。例
えばわたしたちは「こちらにおいで。」と手招きするとき、手のひらを下に向けて指
を曲げて「おいで、おいで。」とやりますが、これはアメリカでは「シッシッ。」と
相手に追いやることになります。手のひらを上に向けると「おいで。」になるのです。
わたしは一度これを間違えてアメリカの女の子に嫌われました。

 それでは「所変われば」を幾つか紹介いたしましょう。

かき氷

 自然の氷のことではありません。氷水のことです。
 夏の暑い日盛り、汗を拭き拭き歩いているといやでも目に飛び込んでくるのが氷屋
の看板。ご存じ、布地に青い波しぶきの絵が描かれ、その上に重ねて赤く「氷」と書
かれた例の氷屋の前に吊るしてある旗です。デザインの見事さでは鯉幟と双璧の、日
本が世界に誇れるものなんだそうですよ。

 こうしたお店はたいてい葦簀(よしず)が立て掛けられた縁台の奥に雑然と駄菓子
やおもちゃが並べられていて、薄暗い奥に声をかけるとのんびりとおばあさんが前掛
けの帯を絞めながら
「はい、はい、はい。」
と出てきます。
「イチゴ、ちょうだい。」
と注文しますと冷蔵庫から氷の塊を取り出してごりごりと削ってくれます。近代的な
ところではモーターで回しますがこれでは風情が台無し。手動でごりごりやってもら
うに限ります。
 青い透明なガラスの器に削られた氷の山ができ、その上にイチゴシロップを静かに
かけて、
「はい、お待ちどう。」
と手渡されるのですが、炎天で灼かれた身にはそれまでの待ち遠しいこと。
 氷の山を崩さないように慎重にスプーンをつきたて、口にほうり込むと甘いイチゴ
シロップの染み込んだ氷の冷たさが喉を通っておなかに到達し、暑さで火照ったから
だが癒されていきます。
 あわてて食べると頭がきーんと痛くなってきますが、これを医学的に「アイスクリ
ーム頭痛」と呼ぶのはずっと後になって知りました。
 これが少なくとも名古屋地区の氷の食べ方です。と言っても一昔前の風物でしょう
か。今は紙コップに盛られて太いストローが差してあって、歩きながら食べるのが主
流になりました。

  匙なめて童たのしも夏氷  山口誓子

 ところが、かれこれ20年位前に岩手県の花巻の隣にある二枚橋という田舎駅前で食
べた氷は実に驚くべきものでした。
 あれは八月も半ばに近いころでした。みちのくとは申せ、昼間はかなりの暑さです。
閑散とした駅前の食堂に入ってラーメンを注文しましたら、店のおばあさんは
「この暑いのにラーメンだべか。」
と驚きながらも作ってくれました。客はわたし一人。
 テーブルに出されたラーメンをいざ食べようとすると、くだんのおばあさん、「暑
いから食べにくいべ。」
と言って突然ラーメンのどんぶりに氷を入れてくれたのです。
 これには驚きました。たいしておいしくないラーメンが全くひどい味になってしまっ
たのですから。
 しかし本題はここからです。ともかく食べ終えたわたしは続けて注文しました。
「イチゴの氷ください。」
 暑いときに氷を注文されてやっと安心したおばあさんはうれしそうに調理場へ入っ
てごりごりやった後、お盆に乗せて出て来たのです。
 ところが氷は真っ白で、イチゴがかかっていません。
「イチゴがかかっていないよ。」
「そんなことないべ。ちゃんとかかってるす。」
 よく見れば、何と氷の上でなく器にシロップを入れてその上に氷が盛り上げられて
いるのです。
 初めのうち味気無い氷を食べ、だんだん濃厚な味になり、最後は器の中の氷水を飲
む。これは氷を味わうにはとてもいい食べ方ですが、氷が悪いとなんともなりません
し後味が濃すぎます。
 名古屋でなじんだ食べ方なら最初から味付きですから氷の味はごまかせます。果た
してどちらがいいかの判定はその人任せ。所変わればの驚きでした。

葱(ねぎ)

 葱には大ざっぱに分けて二種類あります。青いところを食べる「葉葱」と白い根を
食べる「根深葱」。前者は主に関西地方で、後者は関東中心に食されると言われてい
ます。
 わたしは生まれが広島県の福山市で、小学校入学に合わせて愛知県に来ました。福
山在住の記憶も断片的ながら残っています。たとえば向こうは魚がおいしかったとか、
幼稚園に隣接した教会(経営母体)のシスターの十字架が欲しいとだだをこねて園長
先生を困らせたとか、教会には背丈ほどの巨大なサボテンがあったとかです。このサ
ボテンは高校生のとき再訪してあまりの小ささにがっかりしたことがありました。思
い出のままにして見なきゃよかったと。

 さて、話が逸れました。葱に戻ります。広島県は関西圏ですから、葱は青いところ
を食べる葉葱でしたが根のところももったいないから食べなさいと言わていやいや食
べた覚えがあります。白くてぬるぬるしてとても食べにくかったのです。

 ところが愛知県に来ますと葱は根深と称して、わざわざ根元に土を盛り上げて日光

を遮(さえぎ)り、白いところを多くしてそこを食べ、青いところはあまり食べませ
ん。切り捨てて売っているくらいですから。
 こちらに引っ越したばかりの幼いわたしは何も好んでまずい所ばかりを食べなくて
いいのにと泣きたい気持ちでした。
 洋の東西どころか関西と関東でこんなに違うのですね。鰻のかば焼きやおでんなど
もかなり異なるようです。

味噌煮込み

 名古屋を代表する食べ物が味噌煮込みうどん。
 赤味噌で仕立てた鄙(ひな)びた風味はこの地方の人達の心の食べ物です。海外に
長く駐留している人達が味噌汁を恋しがるのと同じように名古屋に住む人達はしばら
く故郷を離れると
「ああ、味噌煮込みが食べたいがや。」
と望郷の念にかられるのです。

 名古屋を離れたことの無い人達は味噌煮込みも味噌カツも全国どこでも食べること
ができると勘違いしていますから、一度単身赴任してみて、味噌煮込みも味噌カツも
食べられないことを知ると愕然となって一日も早く家に帰りたくて我慢できません。

 週末になってそそくさと新幹線に飛び乗って帰宅するのは決して子供達の顔が見た
い訳でも無く、ましてや奥さんに会いたい気持ちなどさらさらなく、ただひたすら味
噌煮込みを食べたいがために帰ってくるのです。

 そんなに美味しいものかと名古屋を訪れた旅行者が人づてに駅前地下街にある有名
な○○屋に入って味噌煮込みを注文します。すると極めて塩からい濃厚な赤味噌に舌
が痺れ、味覚が麻痺し、倹約の土地柄ゆえ燃料を惜しんだためか生煮えの堅い麺で差
し歯を壊し、ほうほうの体で店から逃げ帰って行くのです。

 広島の親戚の連中は名古屋在住のわたしに遠慮しながら言います。
「あれは食えたもんじゃないで。から過ぎるけーね。」

 しかし、味噌煮込み、ひいては名古屋の名誉のために明記しておきますが、数回な
らずとも食べた人は癖になり絶対にまた食べずにはおれません。これは請け合います。
わたしはまだ数回食べてないので癖にはなっていませんが。

梅干しおにぎり

 長野県出身の人がこちらに来て初めて梅干しおにぎりを食べたときは大変驚いた
と言います。
 なぜなら長野の梅干しおにぎりは混ぜご飯のように梅の実を砕いてご飯にまぶして
から握ってあるのに、こちらで食べた梅干しおにぎりは中心に一個だけあったからだ
そうです。
 ふうつ梅干しおにぎりはいわゆる日の丸弁当のおにぎり版ですから、白いご飯の真
ん中に深紅の梅干しが鎮座めされているのが普通だと思うのですが、長野の方では違
うようなのです。

 さらに長野の梅干しはこちらの小梅のようにこりこりと仕上がるので味も
歯ごたえもいいのだが、こちらのはべたべたしてしょっぱいだけ、食べた気がしない
と郷土愛剥き出しで曰(のたまわ)くのです。

 確かにこりこりとほどよい堅さの梅干しだから砕いてご飯に混ぜることができるの
でしょう。べたべたしていたらご飯に混ぜるとお握りが水っぽくなってしまいます。

 さらに続けて、白いご飯を味気無く食べた後に酸っぱい梅干しが出てきてもしょう
がないと言います。

 しかし、わたしから言わせてもらうと、おにぎりには中に何が入っているか分から
ないというときめきがあります。ミステリー小説で犯人を捜すように、
 「これは何かな。ああ、たらこだ。次は・・・しぐれだった。じゃあこれは、やっ
た、梅干しだ。」
というように期待と不安を込めて弁当を食べる喜びがあります。犯人が最初から分かっ
てしまったらそのミステリーは読む気がしないのと同じです。一口食べて梅干しと分
かってしまったらおにぎりにかじりつく楽しみが半減しようというものではありませ
んか。
 でもどうして長野の梅干しはかりかりと歯ごたえ良くできるのでしょう。おそらく
気候と梅の実と製法が違うのだと思います。(当たり前か。)

 ちょっと思い起こすだけでいろいろな所変わればがあるものです。皆さんも親戚や
友人などとの会話でこれに近い経験は幾度もされたことでしょう。
 これが世界となれば実に無限と言ってもいいほどの多様性と変化に富んでいること

は間違いありません。
 自分のほんの周辺の視点で他国や他民族の食生活、風習などをとやかく言うのは自
らの狭量さを示していることに気がつかなかればならないでしょうね。

《後記》

 大江健三郎氏がノーベル賞を受賞されました。日本という枠を超えた人類共通の問
題意識から書かれた作品群と作家活動が評価されたようです。核兵器の問題やご自身
の子息の障害を乗り越えた経験、こうした普遍性が極東のおかしな国という国際的な
印象を払拭して評価されたことを素直に喜びたいと思います。文化勲章を拒否された
こともご自分に忠実なればこそと好感を抱きました。
 しかしあんな難解な大江作品を読む人がいることも大変な驚きですね。
(游)


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游氣風信 No57「夏去りて」

游氣風信 No57「夏去りて」

三島治療室便り'94,9,1

 

三島広志

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《游々雑感》

夏去りて

 すさまじい暑さと日照りを秋に残したまま夏が去って行きました。
 この夏の暑さは全く厳しく、驚異的、記録的、歴史的、前代未聞、殺人的、かつて
何人たりと言えども体験したことがないなどという形容が少しも誇張でないほど耐え
難いものでした。

 新聞の見出しには猛暑、酷暑、溽暑(じょくしょ・蒸すような暑さ)、極暑、炎暑
などとまるで俳句の歳時記のような言葉が踊って、暑さに一層の拍車をかけたようで
した。しかし、現実はそんな言葉以上の焦げ付くような厳しさで、誰もが犬のように

喘いだ夏の二カ月ではなかったでしょうか。

  極暑の夜父と隔たる広襖(ふすま) 飯田龍太
  念力のゆるめば死ぬる大暑かな    村上鬼城

 それに輪をかけて人々を苦しめたのが日照りです。

 昨年は雨の続く冷夏でした。冷害による米の大凶作で国産米を入手するために恐慌
をきたしたことはまだ記憶に新しいところです。
 それから一転して今年は旱魃(かんばつ・日照りのこと)。四国や九州の一部では
大変苦しい状態が続いています。
 木曾川の豊かな流れに恵まれているここ西尾張地方はさほどの心配もなく秋を迎え
ましたが、知多半島や東尾張地方は給水の時間制限がありました。

 11月に、愛知県と静岡県の境にある鳳来寺山で一泊吟行句会(現地に出掛けてそこ
で俳句を作り、句会を行うこと)を予定していますから、当地にお住まいの林業家O
さんと近郊を下見して来ましたが、川の水は少なく、日本の滝百選に入った「阿寺の
七滝」も寂しい限りでした。鳳来寺山は仏法僧という鳥で名高い景勝地です。

 幸いわたしの住む一宮市は周辺の市町村が小中学校のプールを取り止めたときでさ
えも、子供達は真っ黒に日焼けして水泳を楽しむことができました。水泳の苦手な長
女はプール中止を心待ちしていたのですが。 この地区が水に恵まれているのは豊富
な木曾川の伏流(川底の砂の下を流れる水)と地下水のお陰です。さらに昔からの強
力な水利権。

 宮沢賢治の詩としてよく知られている「雨ニモマケズ(手帳に書かれた11月3日と

いう日付のメモであって発表を意図したものではない)」には次のよく知られたフレ
ーズがあります。

  ヒデリノトキハナミダヲナガシ
  サムサノナツハオロオロアルキ
(日照りのときは涙を流し 寒さの夏はおろおろ歩き)

 「寒さの夏」は昨年のような冷夏、「日照り」は今年の夏。
 この詩は厳しい岩手県の気候の中で農民に共感して必死でもがいた昭和初期の賢治
の絶唱ですが、奇しくもここ二年が詩のようになってしまいました。

 当時は今のように日本が経済大国でなかったので、タイ米やアメリカ米を輸入する
力もなく、またそれらの国に売る余分もなかったでしょう。
 さらに工業用水を韓国から買ったり、スーパーでフランスの水が年中売られている
という信じられない光景が見られるはずもありませんから、人々の苦しみはいかばか
りのものだったでしょうか。その片鱗にほんの少しばかり触れたのがこの二年だった
ようです。

 しかし、夏はこうした厳しい自然の様相を見せる反面、生命が激しく燃え盛る季節
でもあります。
 若者はサーフボードを抱えて海へ出掛け太陽の生気を全身に吸収し、また多くの人
達は連れ立って高原へ涼を求め、深い緑の新鮮な空気を満喫します。

 夏、それは人生にたとえればまさに青年から壮年にかけての最も命のみなぎるとき
でしょう。
 空は濃く青く、入道雲が夏の勢いさながらの激しさでむくむくと湧き上がり、突然
の雷鳴と夕立をもたらします。
 樹々は深緑の葉で空を覆い、蝉は高らかに恋の歓喜の声をほとばしらせ終日倦(う)
むことがありません。
 せせらぎに舞う涼風が人に安らぎを与え、眼前をよぎる小鳥に生きている喜びを覚
えます。
 そう、夏は青春を謳歌するに最もふさわしい季節なのです。

 さらに夏にはもう一つの顔があります。それは誰もが自分自身の深みを否応無く振
り返らざるを得ないという側面。
 夏さなか、暦では立秋を過ぎるとお盆がやって来ます。自分の肉体の中をとうとう
と流れる血潮と魂の源に思いをはせるのがお盆。
 お盆には家を遠く離れた子供達も久しぶりに集って、門前に迎え火を焚いて祖先の
霊を呼びますと、盆提灯の青く灯る仏間には一種荘厳な静寂が立ち上がります。そこ
で時空を超えた家族のきずなを確認し合うのです。おじいさんやおばあさんが孫の手
を引いて身内の和を実感し合う、いわば過去と未来の融合する至福の瞬間と言えるで
しょう。

 そもそもお盆の由来は仏教の大切な行事です。 釈迦の弟子が亡き母の供養のため
にどうしたらいいか釈迦に質問しました。すると釈迦は

 「おまえの母は欲深だった。おまえは母に代わって貧しく飢えている子供達に施し
をしなさい。」
と指示したのです。ですからお盆のことを施餓鬼(せがき)と呼ぶ宗旨もあると聞き
ました(この項、自信はありません。正確には本で調べるなり、詳しい人に聞くなり
してください。)。

 お盆と前後して、夏の風物誌として無くてはならない高校野球があります。
 帰省した子供達が親を囲んでテレビを見ながら、なつかしい故郷の高校の活躍に胸
を躍らせるのが高校野球の醍醐味。帰省できない人達も球児の活躍に故郷を思います。

 試合に勝っても負けても高校球児の懸命なプレーに感動するファンは大勢いて、感
情移入のあまり選手と一緒になって泣きながら観戦する人さえいます。
 近年、高校野球の人気の凋落(ちょうらく)が言われますが、これは家族や故郷へ
の思いが希薄になったものとも考えられるでしょう。

 お盆に先立って誰もが心を痛めるのが8月6日の広島、9日の長崎の原爆記念日。そ
れらに続く15日は敗戦の日です。この日はちょうどお盆と重なって鎮魂(ちんこん)
の思いがなおさらつのります。

 空襲で家を焼かれた方、親族を戦争で失った親や妻や子、あるいは兵隊として外地
に出征した往年の若者、疎開先でつらい少年時代を送った当時の都会の子供たち、戦
後の食料難を必死でしのいだ人たちにとってその記憶はまだまだ生々しく、毎年この
頃になると戦争に対する怒りの感慨が込み上げて来ることでしょう。

 また戦友あるいは同期の桜という苦難を一緒に生き抜いた世代の連帯感と、辛かっ
たけど人生でもっとも充実していたという懐かしさもあるようで複雑な心理を一人一
人が持て余しているようです。
 特に近年は近隣諸国からさまざまな戦争責任を問われ、わたしたち日本国民が単に
軍国主義の被害者としてのみ戦争を語ることができなくなっています。

 情熱のたぎりをつくす生命の謳歌と裏腹に自分自身の遠く深い過去との対話、これ
が日本の夏ではないでしょうか。
 その夏をわたしたちは鮭のような故郷回帰本能で夏の数日をしみじみとした思いと
共に過ごすのです。わたしたちの体内に潜んでいる脈々と受け継がれた血潮が、日本
人全体を過去に向けるのでしょうか。

 一方で燃え盛る命の輝きを燃やし、一方で魂の奥を訪ねる、このふたつの矛盾が混
然と進行するのが夏。

 各地で夏の終わりを告げる精霊流しが行われると、わたしたちは過去への思いを川
の流れとともに混沌たる海に流し去って、再び実生活に戻って行きます。
 こうした営みが毎年繰り返されながら、それでも毎年違った人生を歩む、わたしは
そんな人の営みがどことなく螺旋階段を登り続けているように思われてなりません。

 夏、誰もいない居間に蚊取り線香の煙がくゆらいでいるとき、わたしは日本の夏を
強く感じます。それは燃える太陽でもなければ青く広がる海や緑萌える山でもありま
せん。
 わたしにとって、夏とはどうしようもないなつかしさなのです。故郷や昔の友達の
思い出などでないもっと奥深くから自ずと湧いてくるなつかしさ。

 発生学の三木成夫先生は人には昔々の血潮の記憶があって、それが北方指向、南方
指向を生み出す、あるいは海鳴りに限りない「なつかしみ」を覚えるのは遠い昔、海
で生命が発祥したという記憶が細胞の中に潜んでいるからと書かれていますが、どう
もそういった類いのなつかしさを覚えるのです。

 蚊取り線香に言いようもない日本の夏のなつかしさを感じる。わたしはひょっとし
て、もしかしたら遠い昔「蚊」だったのでしょうか。

《後記》

 大分の俳句仲間から“かぼす”を送っていただきました。箱を明けると鮮烈な香り
が飛び出してきて、口の中に唾がじわっと湧いてくるのを押さえることはできません。

 アメリカ人におすそ分けすると「オオ、ライム!」と言って目を輝かせました。

 徳島のすだち、大分のかぼす、西洋のライム、だいだい、ゆず、いずれもミカンの
仲間で、果肉を食さず、汁の酸味と香りを楽しむもの。
(游)

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游氣風信 No56「かわほり(コウモリ) 」

游氣風信 No56「かわほり(コウモリ) 」

三島治療室便り'94,8,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


《游々雑感》

かわほり

 かわほり。文語で書くと「かはほり」。これは一体なんでしょう。「川掘り」では
ありません。
 正解は蝙蝠(こうもり)の古い呼び名です。

 毎年、台風シーズンを前にして、我が家恒例の一騒動があります。発端は数年前の
ことでした。

 長女が昼間自分の部屋で勉強中、雨戸の奥から「キーキー」という不気味な泣き声
がすると訴えたのです。そっと耳を澄ましますと確かに「キーキー」もしくは「ギー
ギー・チーチー」という小さな声が聞こえます。泣き声ではなく動物の鳴き声です。

 息子の部屋の戸袋からも聞こえると言います。

 懐中電灯で戸袋の中を照らして覗き込むと、驚いたことに何やら黒い袋のようなも
のが雨戸にびっしりぶら下がっています。しかも下は糞の山。以前からネズミの糞ら
しきものがベランダや屋根の上に落ちていて変だなとは思っていたのですがその黒い
袋の正体やいかに。そうコウモリだったのです。コウモリとネズミは近い種類ですか
ら、糞が似ているのもしかり。
 我が家では雨戸は一年のうちで台風の時しか使用しませんからコウモリにとっては
安心できるホーム・スウィート・ホームなのでしょう。

 「エイヤッ!」
と気合もろとも引っぱりますと安普請の雨戸がガタゴト音を立てて引きずり出てきま
す。
 「うわぁ。なにこれぇ!」
 「キャー!気持ち悪い!」
 雨戸には鈴なりにコウモリがへばり付いていて、まるでお化け屋敷のよう。
 子供達は叫び声を上げて逃げ惑い別室に避難します。
 昼間の安眠を邪魔されたコウモリがあわててバサバサと昼の空に飛び立ち、向かい
の屋根の上を旋回。そのうちどこかへか立ち去って行きました。しかし、これらは何
でもありません。
 問題は数匹のコウモリが家の中に逃げ場を求めたから大騒ぎになったのです。

 姉の部屋から弟の部屋へ、はたまた居間へと羽ばたきながら飛び惑います。これこ
そまさにドラキュラ伯爵の屋敷ではありませんか。

 本音を言えば、わたしはこういう小さな動物を見るとうれしくて可愛らしくて心が
浮き立つのですが、子供たちときたらそういった博愛的人道的動物愛に乏しいら
しく逃げ回るばかり。
 息子は
「怖い!」
と言って部屋の隅に岩のように固まって張り付いているし、娘は脱兎のごとく一階
へ駆け降り
「早くなんとかしてよ!」
と布団にもぐりこんでしまいます。

 こういう時だけ一家の大黒柱と認めてもらえるわたしは、壁にぶつかって墜落して
バタバタしているコウモリを捕まえ、外に投げ出し、カーテンに隠れた奴も追い出し
ます。それでもヒラヒラ飛びかう奴はとても捕まえることができないので、家中の窓
を開けて表へ誘導したりの大活躍です。

 ベッドの下に落ちていたコウモリをよく観察しましたら体長は3センチ位、翼を広
げると15センチほど、目は小さく、鼻は天井を向いています。口は耳まで裂け、小さ
な牙がびっしり生えて、隙あれば噛みつこうと精一杯威嚇してギーギー声を上げます。
耳は大きくてパラボラアンテナのよう。
 顔は確かに悪魔のモデルそのものですが、小さいので愛嬌もあります。
 しかもコウモリ傘とはよく言ったもので翼を広げると全く傘そのものの形をしてい
ます。
 息子に
「どうだ、コウモリ傘はここから名付けられたんだぞ。」
と示しますと、
「本当だ。傘と同じだ。」
と感心はしたものの早く逃がしてとおびえ腰。
 娘にも見せようと階下にコウモリを連れて行きました ら
「そんなの見たくない。」
「早く捨てて。」
と普段の父を父とも敬わぬ高慢で傲岸で尊大な態度はどこへや
ら怖がること。
 横で我不関(われかんせず)と編み物をしていた母も
「気持ちいいもんじゃないね。」
と無視。
 おそらく女どもはコウモリに己の姿を投影しているのでしょう。あの脅えと嫌い方
はどこかで自己嫌悪に通じるものがあります。

 「飼って、手乗りコウモリにしよう。」
と提案しましたが家族から激しい拒絶にあい、仕方なく薄暗くなった空へ放してやり
ました。
 不当なる追い立てをくった彼らは今後どこで生活するのでしょう。深い同情を禁じ
得ません。

 こうして騒動を苦もなく解決したわたしは、家中の尊敬を集め、その日の夕食には
ビールも注がれるのですが、翌日にはこの威厳も消え去り、いつもの風采の上がらな
いおじさんになり果てるのです。

 今年も雨戸のレールに糞が山積みになっていたので、7月最後の日曜日に雨戸を開
けましたら、います、います。すっかり慣れた子供達が次々に飛び去るコウモリを数
えましたが、あまりの多さに18匹までしか数えられなかったそうです。

 ここでお勉強です。

コウモリ

哺乳類翼手目の総称。哺乳類唯一の飛行動物。世界中に広く分布し、ネズミに次いで
種類が多く、果実食のオオコウモリ類と虫食のヒナコウモリ類に大別される。昼は洞
穴、樹穴などに頭を下にして後足でぶら下がって休息する。ヒナコウモリ類は超音波
を声帯から出して障害物を探知しながら巧みに飛び回る。

アブラコウモリ
イエコウモリとも。翼手目ヒナコウモリ科。体長4.5センチ、前腕3,3センチ。沖縄を
含む日本全土、台湾、中国大陸、朝鮮に分布。夜行性で日没前後から飛び出し、小さ
なガ、ハエ、カなどを補食。人家の屋根裏などに群生し、そこで冬眠する。初夏に2~
3子を産む。

オオコウモリ
体長20センチほどで、黒褐色。翼を広げると90センチに達する。南西諸島と台湾の特
産。日中は森林の樹枝に垂れさがって眠り、夜行性。果実を好んで食べ、その結実と
ともに小移動する。1腹1子。小笠原諸島、硫黄島などには近似種のオガサワラオオコ
ウモリが住む。マライ地方のマライオオコウモリは翼を広げると1,5メートルにも達
する。

キクガシラコウモリ
体長7,5センチほど。体毛は絹状でやわらかく、赤褐色。欧亜大陸に分布し、日本に
は全国に産する。樹穴や岩穴に群生し、夜飛び出して甲虫、ハエなどを食べる。冬季
洞穴などに群れをなして冬眠する。
(カラー動物百科 平凡社より)

 ドラキュラのモデルになった吸血コウモリは図鑑には出ていませんでした。しかし
テレビではたしかに牛などの血をペロペロ嘗めているのを見たことがあります。もっ
ともつい最近かわいい小鳥が怪我をした大きい鳥の血を吸いにたかっている映像を教
育テレビで見て驚きました。自然界では食物が不足したり、不足した土地で他の生き
物の血を拝借するのはよくあることかも知れません。血液は栄養が満点であることは
確かですし、人間も輸血という名目で他人の血をもらっていますし。

 話がずれました。さてこの動物百科からすると、我が家の戸袋に潜んでいたのはア
ブラコウモリに違いないでしょう。イエコウモリと言う別名を持っているのですから。

 人家の屋根裏などで冬眠するということはつまり一冬をみんなと一緒に家で過ごし
たということになりますね。

  こうもりこーい
  ぞうりやろ
  おちたらたんばの水のまそ
  そっちの みーずはにーがいぞ
  こっちの みーずはあーまいぞ
  あーまいほうへ とーんでこい

 夏の夕暮れ、子供達が歌を歌いながらコウモリに草履をぶつけて遊んでいるところ
へ一人の大人が近づいて来ます。

  「きみ、きみ。きみ、一郎? 太田一郎?
   一郎だね、一郎だろ。おとうさんだよ。大きく、なったなあ。
   これが、赤ん坊かい。もう赤ん坊でもないんだな。さ、おいで。」

 戦争で埼玉の家を焼かれ、身内のおとら小母さんを頼った疎開先の小豆島で母を亡
くした幼い兄弟のもとに、復員してきた父親が声をかける場面です。すっかり成長し
た我が子に戸惑いを感じながらのぎこちない再会。
 これは壺井栄の長編小説「母のない子と子のない母と」の一節です。同氏には有名
な同じ小豆島を舞台にした「二十四の瞳」がありますが、「母のない子と子のない母
と」の方も北林谷栄主演で映画になりましたから、年配の方はご存じでしょう。
 どちらの物語りも反戦というテーマが子供達の生き生きとした日常生活を描写しな
がら書かれていますが、淡々とした筆遣いゆえにわたしは「母のない子と子のない母
と」の方がが好きです。「二十四の瞳」にはちょっと受けねらいを感じるからです。

 この再会の場面に効果的にコウモリが使われています。コウモリの出る季節は夏、
時刻は夕暮れ。薄くらがりの中でこそ久々の親子の対面が感動的になるでしょう。冬
ではあっと言う間に暗くなってしまいますし、秋ではあまりに感傷的です。暗くなる
まで子供達が表で遊んでいる夏の夕暮れが一番ふさわしいとは思いませんか。

 わたしが幼稚園のころ、まだ広島県福山市に住んでいましたが、そこで大きな子た
ちがこの話のような草履ではなく、物干し竿を空に振り回してコウモリを捕まえるの
について行った記憶があります。捕れたかどうだかは全く覚えていませんが、夏の暗
がりと闇より暗い川の風景は妙にはっきりと思い出せます。

 「母のない子と子のない母と」の光景が親しく感じられるのはそうした体験の恩恵
でしょう。また雨戸のコウモリを可愛く感じるのもあるいはその追憶のせいかもしれ
ません。少年時代という最も豊かな時の記憶は珠玉のごとく心にきらめいているもの
です。
 子供にそんな記憶を与えるのは親の役目と思っていますが果たしてどんなものを心
に蓄えてくれることでしょうか。

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游氣風信 No55「蝉」

游氣風信 No55「蝉」

三島治療室便り'94,7,1

 

三島広志

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《游々雑感》

セミ

 どんよりした空を吹き払って、一気に夏がやってきました。梅雨明け宣言は出てい
ませんが(七月五日現在)、梅雨とは明らかに違った灼けるような夏空が広がったの
です。わたしは夏にはあまり強くないたちなのですがカッとした夏空は心が浮き立つ
ようで大好きなんです。(夏はビールを美味しく飲むために暑いという説もあります。
その証拠に夏になると枝豆が食卓に出てくるのだそうです。)

 車を走らせながら窓を開けると、驚いたことに万緑のポプラ並木からクマゼミの群
声が飛び込んできました。シャーシャーシャーシャーという鳴き声は「暑々々々」と
聞こえます。炎天下にもっともふさわしい大合唱ではありませんか。

 しかし蝉には鳴き出す順番があります。いきなりクマゼミではちょっと困るのです。
ものには順序というものがあると言うではありませんか。まず最初に梅雨の合間に木
陰からジーと静かに鳴き出すのはニイニイゼミでなくてはいけないのです。薄茶色の
可愛い蝉です。
 実はそれに先だってハルゼミというのが五月ごろ松林で聞かれるそうですが、その
鳴き声はギーギーという地虫のようなものですから、それを蝉と気付く人はよほどの
虫好き以外まずいません。したがって、蝉らしい第一声はニイニイゼミというのが一
般的でしょう。
 その次に聞かれるのが夏の真昼間のBGMにふさわしいアブラゼミ。夏の暑さをい
やというほど際立たせてくれますね。鳴き声はギリギリジリジリといったようにまさ
に焼け付く感じです。油蝉という名の由来が油を煮えたぎらせたような音からきたそ
うですからいかにも暑そうなのも頷(うなず)けます。
 わたしは羽根がギラギラテラテラして油紙のようだから油蝉と思っていましたが。

 アブラゼミと前後して登場するのがクマゼミ。黒くて大きいから熊のようだという
ことから命名されています。
 小学三年の夏、広島の山の中で初めてクマゼミを捕まえたとき、手の中で力強くブ
ルブルと羽根を震わせていた感触は今でもしっかり残っています。体は黒くて太く、
羽根は無色透明。
 このクマゼミを今年の蝉の第一声として聞いたので大変驚いているのです。おそら
く急に暑くなったのでいろいろな蝉がびっくりして地中から飛び出してきたのでしょ
う。

 蝉の名前は大体鳴き声から名付けられています。これは蝉の特徴がその鳴き声にあ
るからにほかなりません。姿を見せずにやたらと大きな声で鳴いているのですから当
然です。随分以前に、ある高名な外国人が「あの鳴く木を本国に持ち帰りたい。」と
言ったという有名な逸話もあるくらいです。

 ニイニイゼミ、アブラゼミ、カナカナ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシなど身近な
蝉はクマゼミ以外、全て鳴き声をその名にしています。ただし、カナカナはヒグラシ
が本当の名前で、それは光りの陰りを好んで鳴くからと言われます。すると「日暗し」
ということでしょうか。あるいは「日暮れ」の意味でしょうか。はっきりとは分かり
ません。

 さて、蝉の出てくる順序ですが、先ほど書いたようにハルゼミ、ニイニイゼミ、ア
ブラゼミ、クマゼミときて、秋口ちょうどお盆のころから九月中頃までツクツクボウ
シ、その後がチッチゼミとなります。
 チッチゼミは十月半ばまで鳴くそうですがその声は秋の虫の音のようでハルゼミ同
様蝉と分かる人はよほどの通で、まず身近にはいないでしょう。わたしですか?もち
ろん分かりません。

 以上は名古屋近辺の平野ことですが、関東以北ではあまりクマゼミはいないようで
すし、山に行きますと、ニイニイゼミのあとヒグラシ、ミンミンゼミときてアブラゼ
ミの順番のようです。

 お盆休みにちょっとした山に出掛けますと、昼日中はミンミンゼミ、午前中と夕方、
それからちょっとした日の陰りや雨の前にはヒグラシを聞くことができます。
 ミンミンゼミのミーンミンミンミーンという鼻が詰まったような声を聞くと「嗚呼、
日本の故郷に来たな。」という感慨もひとしおになりますし、ヒグラシのカナカナカ
ナカナという哀愁を帯びた声が山々に静かに響き渡ると感傷的な世界に浸ることがで
きます。

  うぶすなの深閑として蝉涼し  荻野杏子
           (うぶすなは生まれた土地のこと。産土と書く。)
俳句仲間の荻野さんの句の蝉はヒグラシのことだと思います。

 ミンミンゼミは黒い胴体ですが、クマゼミより一回り細く頭の緑色が印象的です。
翼は無色透明。カナカナはさらに小さい黒い胴体に無色透明の羽根です。

 北杜夫さんの「どくとるマンボウ昆虫記」に、芭蕉の

  しづかさや岩にしみ入る蝉のこゑ

という有名な俳句に対するおもしろいエピソードが紹介してあります。この蝉とはいっ
たい何の種類かということです。

 北杜夫さんのお父さんはかの高名なる歌人斎藤茂吉ですが、茂吉はこれをアブラゼ
ミと考えました。それに対して小宮豊隆という著名な評論家から次のような反論をさ
れたのです。

 「第一にアブラゼミでは俳句の雰囲気にそぐわない。第二に芭蕉が出羽(今の山形
県)立石寺に入ったのは元禄二年五月下旬、今になおすと七月始めであり、まだアブ
ラゼミは鳴かない季節だ。」

 短気で負けず嫌いな茂吉も反駁(はんばく)します。
 「ほそい声のニイニイゼミをしずかとか岩にしみいると聞くのは当たり前すぎる。
わたしは近代的感覚から群れ鳴く蝉の中にいて静かさを感じ取ったと解釈したのだ。
しかしわたしは芭蕉を近代人として買いかぶっていたようだ。」と第一の件には反論
しましたが、第二の季節のほうは言葉でごまかすわけにはいかないので、実地検査を
試みたのです。

 昭和三年夏、茂吉先生、ついでの用事で立石寺にでかけました。しかしこれは八月
三日のことで遅すぎて役にはたちません。翌年現地の人から七月始めにアブラゼミが
鳴くこともあるとの便りを得て勢いたち、翌年太陰暦で元禄二年五月二十日頃を太陽
暦に換算して七月七日頃出掛けたのです。しかし当日は大雨で蝉の声聞けず、翌日も
同じ、断念せざるを得なかったのです。
 その八月、現地に出掛けた彼の目の前には頼んでおいた蝉の標本がずらりと並べら
れました。大部分はニイニイゼミだったのですがアブラゼミの標本もあり、我が意を
得たりと早速写真に撮らせたそうです。
 
 彼の負け惜しみの文章は原文のまま紹介しなければならないでしょう。
 「私の結論にはその道程に落度があって駄目であった。動物学的には油蝉を絶対に
否定し得ざること標本の示すごとくであるが、文学的にはまず油蝉を否定していい云
々。」

 斎藤茂吉の執念には脱帽です。傍線のように昭和三年、四年、五年と頑張ったので
すから。またその負け惜しみの強さも尋常ではないでしょう。まさに感動ものです。

 彼が自説を引き込めることは極めて希なことであったと子息の北杜夫氏は書いてお
られます。いざケンカとなるとホノオのごとくいきりたち「俺と戦う者はかならず死
ぬ」などとわめいたとのことです。どくとるマンボウさんならではのユーモアエッセ
イ小説のことですからどこまでが本当か分かりりませんが、茂吉という人の卓越した
個性を物語る面白いエピソードですね。

 立秋も過ぎ、庭の朝顔が日ごとに鮮やかになる頃、どこかからツクツクボウシの声
が聞こえだします。この頃になるとめっきり朝夕の風の涼しさに夏も終わりだなとい
う安堵と一抹の寂しさを味わうことになりますが、この蝉の声が秋の訪れを決定的に
告げてくれるのです。

 オーシンツクツク・オーシンツクツク・オーシンツクツク・ムクレンギョー・ムク
レンギョー・ムクレンギョー・ジーと聞きなします。(聞きなしとは虫や鳥の声を人
間の言葉に置き換えること。意味を持つことも持たないこともある。カッコーを閑古、
ブッポーソーを仏法僧と言うように。)
 オーシンツクツクと繰り返し威勢よく鳴いているところに人が近づくとムクレンギョ
ーと変わり、最後にジーと鳴き止むのです。地方によってオウシンゼミとか法師蝉と
かの呼び名があります。
 色は暗い緑色の小さな蝉で、羽根は無色透明。

 蝉は地中で数年間の幼虫時代を過ごした後、わずか一週間ばかりの成虫の期間を子
孫を残すために雄は雌を求めてせわしく鳴き叫び、子孫繁栄の営みの後その生涯を終
えます。雌も受精、産卵をして短い地上生活を生き急ぐのです。
 たった一週間は短いようですが、幼虫期間をいれると最も長生きな昆虫です。
 暗い長い、しかし安全であろう地中生活を経てからが大変です。残された一週間の
間に恋愛の相手を探し、求愛し、一挙に産卵まで持って行かねばなりませんから。映
画に誘ったりダイヤを贈ったりの無駄な手順を踏む事なく、ただ種族保存のために邁
進(まいしん)するとなればあの鳴き声の騒がしさも理解できようものです。
 
 こうして喧噪とも言える蝉の短い夏が終わり、主役の座はコオロギなどの秋の虫た
ちに移ります。

 今回参考にした手持ちの「どくとるマンボウ昆虫記」は昭和四十三年発行の角川文
庫で、紙が茶色く変色し、作中のすべての昆虫名には横線が引いてあります。われな
がら随分一生懸命読んだとみえます。四十三年ならわたしが中学三年生ですから、な
んと我が娘の年齢です。感無量。
 同書にクセナークスという人の詩が紹介してあります。

  蝉の生涯は幸いなるかな
  彼らは声なき妻を有すればなり

 蝉が鳴くのは求愛する雄だけで、雌は声を発しません。蝉の雄は物静かな妻を娶(め
と)ることができて幸せだという皮肉だが的を得た詩。いずれにしてもクセナークス
に乾杯。

《後記》

 今年になってわたしが以前業界誌に書かせていただいた原稿が共著という形で相次
いで出版されました。
 一つはエンタープライズ社刊の「マニピュレーション症例報告集」(マニピュレー
ションとは手による治療のことです。)に「身体調整と心臓発作」という題の論文。

 もう一つは8年前のものの再刊ですが医道の日本社刊「創刊500号記念特集 圧痛点
による診断と治療及び指頭感覚」に「触れる心『接触』から『触れ合い』へ」という
もの。
 どちらも大勢の著者の中の一人として参加しています。ご希望の方にはコピーをお
送りします。
(游)

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游氣風信 No54「自分探し(小椋佳) 大往生(永六輔)」

游氣風信 No54「自分探し(小椋佳) 大往生(永六輔)」

三島治療室便り'94,6,1

 

三島広志

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自分探し

  ちゃんと死にたいからなんですよ。そろそろ死をターゲットにした自己形成をし
  たいと思っているんです。自分が死を見つめて行動しているときは、無駄な時間
  を過ごしているという思いがないんですね。

 ちょっとどきっとされたかも知れませんが、これは昨年、長年勤務した銀行を退社
し、もう一方の仕事である音楽活動に専念することになった小椋佳さんがインタビュ
ーに答えたことばです。

おぐら・けい
作詞家。作曲家。歌手。
本名・神田紘爾(こうじ)。1944(昭和19)年生まれ。67年東京大学法学部卒業。日
本勧業銀行(現・第一勧業銀行)入社。その前後から音楽活動を始める。週末の夜を
曲作りにあててきた。93年退社。94年東大法学部に学士入学。

  銀行を辞めたのも、東大に再入学したのも、青春期の未完成な「自分探し」を再
  開したかったからです。

 小椋さんは退社と同時に出身校である東京大学にもう一度入学して、若いときやり
残した自分探しに再挑戦するのだそうです。齢50の再挑戦です。
 なぜ、功なり名を遂げた人が再挑戦なのでしょうか。理由を次のように述べておら
れます。

  「いかにいきるべきか」の結論に暫定的な答えを出してというより、結論はない
  ものとして、僕は社会に出たのですね。でも、どこかに「答えはあるのかもしれ
  ない」という思いが残っていたんですね。いまその答えをもう一度確かめてみた
  いと思っています。

 彼の初期の歌に「さらば青春」というヒット曲があります。

  僕は呼びかけはしない
  遠くすぎ去るものに
  僕は呼びかけはしない
  かたわらを行くものさえ
     (中略)
  みんな みんな たわむれの口笛を吹く
     (中略)
  みんな みんな うつろな輝きだ

 高校生のころだったでしょう。この歌をラジオで聞きながらその詩に強く共感を覚
えました。これがわたしの小椋佳との出会いでした。当時どの流行歌も青春に漂流す
るわたしを慰めるものは見当たらなかったころ、この詩は鮮烈に胸に響いたのです。

 青春時代は自己が激しく揺れ動いているときです。揺れる自己からはすべてのもの
が不安定にしか見えません。そんなとき他者に呼びかけるなんてことは不可能です。
ただ自分自身に置いてきぼりにされないよう揺らいでいるだけで精一杯でした。そこ
から見えるのはうつろな輝き、聞こえるのはたわむれの口笛。
 この象徴的な詩は素直な柔らかい歌声と共に多くの悩める若者の心をつかんだので
した。

 いま彼のインタビューを読んでみますと、当時の彼は答えは無いものとして社会人
となったが反面どこかに答えを求め続けていたとあります。それを知ってこの詩の意
味がより一層深みを増して迫ってくるのです。
 当時は青春真っ只中にいたわたし、今はとっくに青春とおさらばしてしまったわた
し、しかし今も以前も変わらぬものが彭湃(ほうはい)と胸中深く流れていることを
この歌は教えてくれるのです。

◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎◎

 銀行員としてやるべきことはすべて成就したからでしょうか。小椋佳さんの中には
再び青春時代の未回答をはっきりさせたいという願望が強くなってきたのです。

  巧みに生きるのでなく、もう一度突き詰めて考えてしまう自分のタチ通りに生き
  てみようかなと。

 長年サラリーマン生活を送っているとどうしても生きる上でごまかしの部分が必要
になってきて、その方面でいやでも巧みな技術が身についてしまいます。それを処世
術として自らの誇りとする人にとってはどうでもないことですが、そうした側面を素
直に認められない人にとってはこのような巧みさは納得できないでしょう。疎んじら
れるのです。
 これは何もサラリーマンに限ったことではありません。

 小椋佳とは一方でエリートサラリーマン、一方で優れたミュージシャンと傍から見
るとまさに垂涎の才能がなんら相互負担になることなく成立し続けた希有の人物です
が、そんな人だからこそ自己を厳しく写す自分自身の目からは逃れえない、耐えられ
ない問題点が醸し出されてきたのでしょう。

  詩曲作りは、自分は何のために生きるのかという根本に戻り、無限の選択肢の中
  から何かを選ぶ作業なんです。それを不問に付してこなかったんですね。歌作り
  の最大の理由はそこにあるのかもしれませんね。

 小椋さんが長年一流のサラリーマン生活をしてこれたのは、勤務生活と音楽作りの
両方を真剣にやり抜いたからに違いないでしょう。
 さらにこうした創作の手段と発表の場を大切にすると同時に、人にも自分にも安易
に妥協しないで詩曲作りをしてきたからこそとも言えます。
 常に自分の根幹を尋ねるという求心性に対して、無限の選択肢の中から何かを選ぶ
という創作はあらたな自分を生み続けてくれます。自己を追及する人が時に行き詰まっ
てしまうのは小椋さんのように無限の世界に向かう遠心の営みを持たないからなので
す。
 逆に言えば優れた求道者は同時にその奥に無限の世界を認めるがゆえに創作者とし
て一流の人がが多いのも同じことでしょう。遠心・求心の動的平衡が活力を生むので
す。

 自分の求めるままに生き、その思考の過程を詩や曲に表現し、あたたかな歌声で人
々に共感と安らぎを与える。これは現代最も恵まれた生き方のひとつではないでしょ
うか。趣味と実益といったレベルではなく、自己存在がそのまま周囲を照らし、その
反響をまた自分の成長に結び付けていく。うらやましい限りです。

  人間は何かを見て「きれいだな」と思うわけですけど、それはなぜなんだろう、
  「きれい」と思うということはどういうことなんだろう。そういうことにすごく
  興味があるんです。そもそも、人間は何のためにきれいか、そうでないかを見分
  けるんだろう。

 これが今の小椋さんの懸案だそうです。ギリシャ哲学にまで逆上って思考を深めて
いるそうですが、そこからどんな歌が出てくることでしょう。
 生まれてから25歳までは人生の基礎作り、次の25年をサラリーマンとして、これか
らの25年をどう生きるか。このようにご自身の人生を整理してこれからの人生は冒頭
のように死を明確に意識した充実の中に生きると言われます。今後も小椋佳の活動に
は注目したいと思っています。

!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

借りたら返す

生きているということは  誰かに借りをつくること
生きてゆくということは  その借りを返してゆくこと
誰かに借りたら  誰かに返そう
誰かにそうして貰ったように
誰かにそうしてあげよう
                      永六輔

 《游氣風信》52号で紹介した永さんの著書「大往生」(岩波新書)は売れに売れて
いるそうです。何でも岩波新書空前絶後の売れ行きとか。それはそうでしょう。どう
見ても「大往生」自体が岩波新書らしからぬ本なのですから。
 「大往生」は永さんが長年にわたって聞き書きした一般市民の名言集を中心にして
います。その内容は死や病気、老いという重いものをテーマとしていますが決して深
刻になってはいません。巷の人々は困難をユーモアに転換する能力があるようです。

 ひとつひとつの名言に「うーんなるほど。」と考えさせられたり、思わず吹き出す
おかしさありと実にバラエティーに富んでいて一冊読み上げるのに数時間で十分。ぜ
ひ買われて読まれることをお勧めします。

 先程述べたようにいずれも重い内容の名言・至言ですが、ほのかな寂しさとユーモ
アをたたえて胸に沈むように残る読みがいのある本でした。
 しかし上掲の詩は永さんの自身の詩です。その出自をお寺とする作者らしく仏教的
な内容ではありませんか。因果応報というやつでしょう。 以前テレビや映画で評判
になった大垣の足無し禅師の「本日ただいま誕生」を思い起こしてくれます。「人は
生まれたときから負債を負っている、生きていくとはその負債を返していくことだ。」
というような内容だったと思いますが情けないことにはっきり覚えていません。(確
かテレビは加藤剛、映画は植木等主演で作られたと記憶しています。)

 難しいことをやさしく、重いことを愉快に表現しようと心掛けている永六輔さんら
しい詩ですが、内容は僧侶だった父上の日常の信条だったそうです。

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游氣風信 No53「落葉松 美味しんぼ(タイ米)」

游氣風信 No53「落葉松 美味しんぼ(タイ米)」

三島治療室便り'94,5,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

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《游々雑感》

落葉松あれこれ

 五月の連休は例年のごとく信州行。
 山々を彩るの新緑、とりわけ落葉松(からまつ)の新樹と白樺の若葉は輝きと爽や
かさで抜きん出ていました。

  からまつの林を過ぎて、
  からまつをしみじみと見き。
  からまつはさびしかりかけり。
  たびゆくはさびしかりけり。

 これは有名な「落葉松」という八連からなる北原白秋の詩の冒頭です。晩秋の軽井
沢を散策しながら作ったものでしょう。なぜ晩秋と思うかというと第三連に

  霧雨のかかる道なり。
  山風のかよふ道なり。

と歌っていますが、霧雨は秋の風物だからです。また

  からまつはさびしかりけり

というリフレイン(語句の繰り返し)もまさに秋のものでしょう。

 場所が軽井沢と特定するのは第六連に

  浅間嶺にけぶり立つ見つ。

とあるからです。浅間嶺は言うまでもなく今日でも山頂から煙をはいている活火山の
浅間山。

 昨年亡くなられた昭和を代表しかつ日本の文芸史に立派な足跡を残した俳人加藤楸
邨にもよく知られた落葉松の俳句があります。

  落葉松はいつめざめても雪降りをり

これはしんしんと雪降りしきる冬の落葉松です。

 加藤楸邨は人間探求派と呼ばれ、ものや自然、動植物の中にも人間存在の在り方を
問うという生き方を俳句に表現された方です。したがってこの俳句の落葉松にも人間
を読み取るべきでしょう。

 白秋の落葉松も楸邨の落葉松も共に秋から冬にかけてのものでしたが、わたしがこ
の連休に目にした落葉松は新しい葉が光り輝くばかりに青空に萌え出した新樹でした。

 どうして毎年落葉松の若々しい緑の刃を目にしていたにもかかわらず今年にかぎっ
て鮮やかな印象を受けたのでしょうか。わたしは以前から落葉松と聞くと即座に晩秋
を思い起こすようです。

 理由は次のように考えられます。
 落葉する松という名称から落葉松に晩秋から冬への思い込みが強かったこと、晩秋
の八ヶ岳を車で通るとき、いたるところで絶え間無く散りこめる落葉松に寂しく無常
な感慨を得ていたこと、さらに先に紹介した名作から受ける思いが強いというからだ
ろうということです。

 ところが今年は涼しげに山風に揺らいでいる落葉松の美しさに唖然と立ち尽くすほ
どでした。どうして今までさんざん目にしていながら、こんな見事な若葉に気付かな
かったのかと悔しい思いさえ抱きました。

 人間は言葉を獲得することで文化を作り上げたが、逆に言葉のために物事や自然を
ありのままに見ることができなくなったとはよく言われることです。確かに言葉を獲
得する以前の赤ちゃんの澄んだ目はものの本質に食い込むようにしみとおって行きま
す。

 往療にでかけるKさん宅のまさみちゃんという生後半年ばかりの可愛い赤ちゃんは
いつもわたしの顔をじーっと穴が開くほど見つめてニコニコしたり泣いたりするので
すが、見つめられている間我が心中の邪悪な心を見透かされているようで正視に耐え
難い気さえ起こってきます。このまさみちゃんの怜悧な外界に対峙した直視こそは言
葉を持たない強さではないでしょうか。
 あの澄んだ目は言葉を学習するにしたがって曇っていくでしょう。残念なことに。
そうでないとこの汚れた世界を生きていくことができないからです。

 それに対してわたしは毎年のように落葉松の新樹を見ていながら本当には見ていな
かった。これは言葉で世界を都合よく括ってしまい、目の前の落葉松を本当には見て
いなかったからに相違ありません。つまりまさみちゃんと違って目が濁っていたわけ
です。

 ではなぜ今年に限って落葉松の新樹に気付いたのでしょう。それは山菜摘みに飽き
たときふと緑の若葉に目をやって、同行者にあの若葉は何かとたずねたところ落葉松
と聞かされたからです。
 つまりちょっとした心の空白が素直な目を取り戻してくれたに違いありません。そ
のつかの間、言葉の呪縛から解き放されたのでしょう。

 今年の落葉松の新樹はこんな意味で鮮烈な緑をもってわたしの目と心に差し込んで
きたのでした。

《気楽図書館》

美味しんぼ

週間ビッグコミックスピリッツ連載
原作 雁谷哲
作画 花咲あきら

 「日本に入ってきているタイ米は、タイの農民が汗水流して一生懸命作ったもので
す。そのタイの農民の苦労も考えもせず、タイ米の悪口を言う人に、タイ米を食べる
資格はありません!
 タイの人間だけでなく東南アジアの人間にとっては香りがなくべたべた粘る日本の
米は評価できません。でも私たちは日本の米の悪口を言おうとは夢にも思わないでしょ
う。それは、日本と私たちの食文化が違うことを知っているからです!
 文化の違いを認めずに他国の悪口を言うのは、一番野蛮なことだと知っているから
です!
 
 自分の理解できない香りは臭いと言い、自分のわからない味はまずいという傲慢な
態度で他国の文化をけなしつける。その偏狭で思いあがった精神構造があればこそ、
第二次世界大戦でアジア諸国を侵略しておきながら、あの戦争は侵略戦争でなかった
などと厚顔無知なことを言えるのですね?
 日本が本当の意味で友邦といえる国を持っていない理由がよくわかりました。」

 今月は「気楽図書館」初登場の漫画です。
 「美味しんぼ」はご存じ料理漫画の老舗。食を文化としてとらえなおし、食を通し
て環境問題や身近な人情まで幅広く話題を提供しているのが人気の続いている理由で
しょう。単行本としてすでに四十五巻まで出ています。

 先の台詞はタイ米を侮辱されたタイの女性記者の言葉として書かれていますが、こ
れは原作者雁屋哲の根幹を為す思想です。
 雁屋哲は東大卒業後、大手広告会社に勤務。退職して劇画や漫画の原作者として活
躍。この「美味しんぼ」は大ヒット作で、マスコミにグルメブームを巻き起こしまし
た。
 しかし最初から視点が旨い不味いという次元から離れて、料理は文化である。これ
を正しく後世に伝えるのは我々の義務であると言う姿勢が貫かれています。本当のお
いしい料理を得るためには本物の材料の吟味が必要だが、私たちはそのための国土を
果たして維持しかつ子孫に残せるのかという大きなテーマを中心に据えていますから、
大人の鑑賞に耐える漫画として成功しました。
 テレビの愚劣な料理番組とはもって一線を画すものです。

 彼の矛先は味噌、カマボコ、醤油、ビール、米の自由化、捕鯨問題、長良川河口堰、
宍道湖淡水化計画、沖縄のサンゴ礁破壊、酒、牛乳、ハムと向かい、メーカーともめ
たことも再三ありました。共通しているのはどれも今日の社会が流通と経済性優先に
陥っていて文化の本質を歪めているという視点です。

 ここに引用している米騒動も一時のことを思えば沈静化しましたが、米に対するタ
イ記者の言葉は日本人なら誰でも耳の痛いことでしょう。
 わたしが子供の頃は、米はお百姓さんの八十八の苦労でやっとできるものだ、粗末
にしてはいけないと教わりましたが、タイのお百姓さんもまったく同じように、否、
機械化されていないだけそれ以上に苦労しているのだと考えるだけの優しさと視野の
広さを忘れがちです。
 輸入問題で何かとうるさいアメリカでも、農民の間からは、アメリカ政府が日本の
農家に対してあまり圧力をかけるのは同じ農民として辛いという意見も出ているそう
です。

 一つの事柄から某かの意味を引き出すという思惟の力を持ちたいものだとつくづく
思います。

 ちなみにこの作品が掲載されたのは例の新米大臣の暴言退任事件の前のことです。

《後記》

 以前からリハビリに訪問していた脳性麻痺のカズ君が小学校に入学しました。しか
し喋られない、見えない、動けないという重度の障害をもっていますから通学できま
せん。それで養護学校から週に三回ほど先生が自宅まで来てくださるのです。
 カズ君はいつもニコニコしたハンサムな少年です。学校の先生の話では重度の脳性
麻痺でこんなに反応のある子は珍しいとのことでした。カズ君も先生をすっかり信頼
して抱っこされたり手足をさすってもらったり、呼吸の訓練をしています。
 キャリア十数年のY子先生はふくよかなからだでしっかりカズ君を受け止めてそれ
こそまるごと体当たりで教育に当たっている姿は実に見事としか言いようがありませ
ん。カズ君のお母さんといつも「すごいねぇ。」「すばらしい先生だね。」と話し合っ
ています。
 養護教育は身近に障害児を持たない限りまず縁がないでしょう。しかし、本当に頑
張って仕事に携わっている養護の先生を見ていると感心します。
 もっともY子先生に言わせれば当たり前のことをしているだけなのでしょうが。
(游)

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游氣風信 No52「まるごとひとつ・野口三千三・増永静人」

游氣風信 No52「まるごとひとつ・野口三千三・増永静人」

三島治療室便り'92,12,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

https://sites.google.com/site/ofisumishima/


《游々雑感》

 

まるごとひとつ

 

 「今日は肩がひどく凝っているの。だから肩だけしっかりやってちょうだい」

身体調整に来られてこのように言われる方があります。 そんな時は次のように答えます。「それじゃあ、とりあえず肩だけ取りはずして置いて帰ってください。明日までに治しておきましょう」

 

 これではまるで一休さんのとんち話みたいですね。調整に来られた方はきょとんとしてしまいます。もちろん言うまでもなく身体調整と機械の修理とは違うのですから肩だけ分離して置いて帰ることは不可能です。機械は部品の集合体、それに対して身体は全体が有機的につながっているのですから。(以上は操体法創始者橋本敬三先生の逸話)

 

 いつからか、わたしたちは身体を手や足や胴体、肩や胃や骨盤などの部品の寄せ集めのように考えるようになってしまいました。けれども実際には一体どこからが肩でどこからが首でどこからが背中なのでしょうか。

 

解剖学ではしっかり分類してあります。カルテをつけたり手術するとき客観的に誰もが場所を間違えないために約束事として取り決めてあるのです。しかし、実際にわたしたちが身体から受ける感覚はそんなに厳密なものではありません。漠然と首の辺りが凝るとか、肩から腕の付け根にかけてしびれるとかという感じです。

 

 腰が痛いと言う人の腰に手を当てて「この辺ですか。」と聞きますと「そう、そこそこ」と返事があります。もっと場所を限定しようともう一度触り直しますとこんどは全然違うところで「そう、そこです」と答えます。こちらは「あれっ」と思ってもう一度最初の所を押して「ここでしたね」と質問すると「いえ。もっと上です」「じゃあ、ここ?」「違う違うもっと左」。だんだんいらいらしてくるのが手に伝わってきます。「なんだこいつは。痛いところくらいさっさと見つけんかい」。そんな気配がひしひしと伝わって来るのでこちらもあせって「するとここですね」などとあてずっぽうに言ったりしてますます感情を害されてしまいます。「感情」を害されると「勘定」が貰いにくくなるのが商売の常ですからこうなっては大変です。

 

つまりかかる具合に身体の感覚とは当てにならないので、冒頭のように肩だけやってくれという指示は根本的に正しくないのです。感覚だけでなく、身体は全体が一つの目的すなわち生命の維持発展や運動のために協力しあっています。別の言い方をすると肩が凝るのは身体のほかの部分に理由がある、肩凝りはその結果ということが多いです。凝りは明確に意識できますが、その他の問題は意識上に上がってこないのです。

 

 医療の現場では肩凝りに対してさまざまな捕らえ方をします。多角的に原因の確定を試みると言ってもいいでしょう。

「筋肉疲労による乳酸の蓄積」

「頚椎椎間関節の問題」

「筋肉か関節での神経の圧迫」

「筋肉リウマチ」

「骨粗鬆症」

「何らかの炎症」

「神経自体の損傷」

「コンピューターに向かい続ける姿勢からくる慢性疲労」

「胃やすい臓などの内臓からの関連痛」

「目からの関連痛」

「がんの骨転移」

などなど。こうした医学的鑑別は状況に応じて治療法を決定するためにとても重要です。

 

しかし、私達施術者はそこに止まらずにもう一歩考えを深めたいのです。それは医療を離れて、どうして自分の肩が凝るのだろう、何がいけないのだろうと自分をとりまく現状の認識をすること、および今をより良い将来への礎とするための積極的な捕らえ方です。そうしないとせっかく肩凝りのために莫大なエネルギーを費やした我が生命力に申し訳がないというものです。(肩凝り自体のためにかなりの栄養やエネルギーが浪費されています。さらには苦痛、不快感も。これは周囲の人をも不快にしますのはどなたも体験済み。)

 

 前置きが長くなりました。今月のテーマはまるごとひとつでした。

わたしたちの身体から冒頭に書いたように肩だけ取り出せません。これは言い換えると私達の身体は分解できないもの、全体でまるまるひとつということです。

 手を高く上げてみてください。その時の手を支えているのは肩であり背中でしょう。さらにお尻や足が身体と床の間にあって身体全体を支持しています。でもわたしたちの関心は手にあって他の部分にはいきません(痛みがあれば別です)。手を意識している限り、凝りに対しては最も自覚的な肩にさえ関心は向かないのです。凝りとは身体が悲鳴を上げるとき肩の存在を訴える方法なのです。

 

「右手をよく使う仕事をしているのになぜ左の肩が凝るのでしょう」

とはよくされる質問です。それに対する解答はすでに「左・右」の漢字の中にあるのです。 小学生に戻って漢字の復習をしましょう。「右」という字を分解すると「ナ」と「口」です。「ナ」は手の象形、「口」は口の象形です。すなわち右手とは食べ物を口に運ぶ手という意味です。「右」は一字で右手のことを示しているのです。

では「左」はどうでしょう。これは「ナ」と「工」から成立しています。「ナ」は右と同じく手。「工」はものさしのような工具の象形です。これも「左」一字で左手の意味があります。「左」とはものさしをきっちり固定している手のことなんです。

 

 ここから類推すれば右手は動的な働きを表し、左手は右手を補佐する静的な働きを表現していることになります。よって右手を使うときは目立たないが左手も固定という緊張を強いられていると考えられます。これが前述の質問の答えです。手の問題をさらに拡大解釈していけば身体全体が支え合い助け合って働いているといっていいでしょう。両手を使っているとき胴体が両手を支えています。そのとき手には関心が向かいますが胴体のことは忘れているでしょう。 一生懸命手作業をしていて腰が痛くなるのはこうしたことの反映です。本を読むとき、目は意識しますが本を持っている手には無関心です。万事がこんな調子なのです。

 

 明らかな症状(結果)には必ず原因があるのです。肩凝りはそうした身心の状態の犠牲者、あわれな生贄(いけにえ)というわけです。けっして目の敵にする対象ではないことがお解りいただけるでしょう。ですから冒頭の「肩だけ揉みほぐせ」 という感覚には身体に対する一種の傲慢(ごうまん)さを感じるのです。その根本に身体は精神に隷属(れいぞく)しているというおごった考えがあるのです。それが時として他人にも向けられますから争いが絶えません。今はやりの太極拳や気功法、ヨガなどはそうした身体観を是正する体操という側面も 持っています。

 

 こうしてみると肩凝りに対する意識のしかたが、身体の問題だけでなく会社や家庭の人間関係、さらには経済や教育など幅広い分野にわたる根幹の問題意識ということが理解されますね。東洋の医療は基本的にこの考えに立っていますから肩凝りひとつとっても全身の処置をするわけです。

 

現代医学は肉体と精神をとりあえずはっきり分けて、特に肉体の方を微にいり細にいって研究した結果すばらしい成果を上げ、わたしたちは膨大な恩恵を受けています。その成果は医療だけでなく保健衛生や介護、スポーツ科学にも及んでいます。さらに経済発展による食生活の充実、高度な教育などとあいまって長寿社会を築き上げました。

 

現代医学の細菌駆除による伝染病駆逐という成果や素晴らしい手術、それらを支えている精密な検査や組織的な看護の発達は素晴らしいものです。しかし反面、あまりに専門化し過ぎて全体を統一する見方や心と体の相関に関してはいま一歩軽視されてきました。分化し過ぎ、専門化し過ぎの欠陥が全体を見えにくくしてしまったのです。細分化は研究においてとても重要なことですが一般の臨床にはいろいろと不都合があるのです。そこから生まれるのが肩なら肩だけという患部中心の見方です。あるいはそのように定められた医療制度です。その反省から今日では心療内科や神経科などでその間隙を埋める方向にきています。 これが今日、未解明ながらも生命の全体性と心身相関を重視してきた漢方に代表される伝統医療に関心が集まってきている理由でしょう。

 

だからと言ってひたすら漢方がいい、古い伝統が正しいと考える狭量な視野は危険です。医療と衛生と栄養の整備という社会的な下部構造の充実があって初めて伝統の知恵が上部構造として生かせる時代が来たということを忘れてはいけません。

 

そもそも私たちの身体は膨大な数の細胞(37兆とされています)から成り立っています。それは37兆個の細胞の寄せ集めではなく、一個の受精卵が37兆に分裂したものなのです。けっして寄せ集めたものではないのです。そしてそれらの細胞は脳によって統御されて全体として統一した行動ができるようになっているのです。その脳も他の器官によって育まれている点では同じ身体の一員なのです。ちょうど夫婦が一対で夫婦であって一対一ではないように身体も全体で一つの生命体であって、各器官がばらばらで自己主張しあっているのではないのです。こういう状態をまるごと全体と呼ぶのです。

 

 さて、あなたがもし肩凝りやぎっくり腰などちょっとした身体の訴えを得る機会があれば以上のようなことを考えてはいかがでしょうか。次の人々のことばは身体および身体と環境とのかかわりにおいて大きなヒントになることでしょう。私達の身体は環境があって存在することが可能です。環境とは歴史によって育まれてきたこの星の自然と人間社会です。

 

野口三千三(野口体操創始者 元東京芸術大学教授)

「生きている人間のからだは、皮膚という生きた袋の中に、液体的なものがいっぱい入っていて、その中に骨も内臓も浮かんでいるのだ」

「地球上のすべての存在は、今、地球の中心との関係にによって、確実に結ばれている」

「自分自身のまるごと全体のからだが重さという生きものになり得る能力いう」

「野口体操からだに貞(き)く」柏樹社刊より

 

増永静人(経絡指圧提唱者)

「自分の生命を大切にすること、そのことが相手の生命を尊重し、自分のまわりの生命をすべて大切に扱うことに連なっていくという実感を味わってほしいのです。これはいくら言葉で知って頭で理解していても、ものを中心にする生活をしている間に、バラバラに離れた存在になって、自分しか見えない幻想のとりこになってしまいます。今までの健康法は、そうした個人だけの長生きだけを目的としたため誤ってきたのです。」

「スジとツボの健康法」潮文社刊より

 

 

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游氣風信 No51「絵本再び コメの話(井上ひさし)」

游氣風信 No51「絵本再び コメの話(井上ひさし)」

三島治療室便り'94,3,1

 

三島広志

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《游々雑感》

絵本ふたたび

 先月号に絵本の話題を書きましたら、予想外の反響でした。意外と言うべきか当然
と言うべきか、ともかく絵本に関心のある方が随分多いのですね。
 現在子育て真っ最中の方は勿論のこと、昔こどもに読み聞かせたという年配のおか
あさん、子育てとは直接関係ない独身女性など多彩な方からおはがきや口頭で反応が
あったのです。こういうことはそうそうあるものではありません。宮沢賢治風に言い
ますと「こんなことはじつにまれです。」

 文の中で紹介した「かばくん」を持っているとか、うちの子も「てぶくろ」の荒唐
無稽さが大好きだったとか、「さむがりやのサンタ」は愛読書だ、あの皮肉っぽい性
格が気に入っているとか色々。さらに「どろんこハリー」を早速こどもに読んでやり
たいというお母さんからもはがきをいただきました。
 また先月の文のタイトルにした「わすれられないおくりもの」を今度図書館に行っ
たとき探してみるという若い女性からの手紙も手元に届いています。

 いずれにしても皆さんのお話やお便りから絵本に関して造詣が深いこと、また子育
ての中で絵本を重要な位置においておられるのだと改めて知ることができました。

 この《游氣風信》はわたしが勝手に書いて、縁のあった方たちに無理やり手渡した
り郵送したりしていますから、果たして読んでいただいているのだろうか、嫌がられ
ていないだろうかといつも気にしています。ですからこうした反応はとてもうれしい
ものです。

 さて、この前、用事で郵便局に行きましたら、そこで思わぬものを見つけました。
ご存じでしょうが郵便局ではふるさとの名品(農産物など)をゆうパックで自宅に届
ける通信販売サービスをしていますね。「ふるさと小包」と言います。
 局内が結構混んでいたので、退屈したわたしは暇な待ち時間をつぶそうと局の棚の
パンフを漁っていたらなんとその中に「ぶっくくらぶ」というのがあったのです。

 これは「こどもの本の定期便」と称されているもので、年齢に応じて楽しいことと
良質であることを基準に厳選された本を定期的に自宅に郵送してくれるシステムです。
長崎にあるこどもの本専門店「童話館」が行っているもので郵便局が直接選んでいる
のではありません。
 申込用紙の中に「童話館」代表の川端強氏の考えを長崎新聞が取材した記事コピー
が入っていて、これがなるほどと感心させてくれる内容でした。

 川端氏はお母さんはこどもの発育のために料理を一生懸命考えて作りますが、こど
もは身体だけではない、心も持っていますとして次のように続けられます。
 「身体だけを育てて、心は育てなくともよいのでしょうか。人の心を育てていくも
のの中で、本はとても重要な役割を果たすことができます。」
 つまり、こどもの身体の健康のために食べ物の質や材料、料理に気を使うと同じよ
うに、精神の健康のために絵本を慎重に選んで欲しいということでしょう。
 以上のような前置きをされた後、今のこどもの本のおかれている状況や本の選び方、
与え方などに話を広げていかれます。

 今日こどもの本が氾濫していることは書店に行けば一目瞭然。しかしそこにこそ問
題があるのだそうです。川端氏は目につく本は大人で言えば週刊誌、暇つぶしにはなっ
ても精神の栄養にはなり得ないものと喝破します。なぜならそれらはこどもに媚びて
いてこどもの心の糧となる質を備えていません。例えばどぎつい色使いの名作絵本や
テレビアニメの本、これらがいちばん目立つところにたくさん置いてあるのです。こ
うした本ははわたしもこどもたちに全く買い与える気のしないものでした。

 それでもよい本はあると川端氏は言います。けれどもそれらは地味で目立たないた
め結局は売れないので一般の本屋さんにはあまり置かれていないそうです。なぜなら
売れない本を棚に置いておくほど書店に経営的余裕がないし、こどもの文化に関心の
ある本屋も少ないためだそうです。

 文化が経済に取って変わられるのはしかたないとしても日本はとりわけそれが強い
ような気がします。といって外国の状況を知っている訳ではありませんが、日本が過
去の文化の良い面でさえいとも簡単に破壊してきたことを考えるとあながち間違いで
はないでしょう。せっかく戦火から免れた京都や奈良が今日観光目的のためにどうなっ
たかを見れば理解していただけると思います。

 本に戻りますと以上の理由から「よい本ほど見つけにくい」と川端氏は言われるの
です。
 また、次のことは盲点でした。
 幼い子がたどたどしく「あ・・め・・、や・・ま・・。」などと字を読みますと両
親やおじいちゃん・おばあちゃんたちは大喜びし我が子は、我が孫は天才ではないか
などと頬をたるませます。それが愛すべき親ばかというのもでしょう。

 ところが、親心を知ってか知らずかまたしても川端氏は語ります。「文字が読める
ことと本が読めることは違います。」と。
 文字をひとつひとつ区切って読み上げるのは音を発しているだけでそこには何の意
味もありません。
 文字の並びがことばになり、ことばの連なりが文章になり、文章がなんらかのイメ
ージを伝え、さらに創造と想像を生み出す、つまり読んで理解することとは違うとい
うことです。

 したがって自然に覚えるまでは無理に早くから文字を教え込まないことが想像力豊
かな子に育てるのだそうです。ようするに文字を読ませるよりまずおかあさんやおと
うさんが読んで聞かせなさいと言うことです。その中からこどもは親と子の関係を学
習し、さらに絵本の内容から想像力を豊かにしていくのでしょう。

 「親の欲目は、いっそう子どもを本嫌いにするようです。」川端氏の話はまだ続き
ます。 親は難しい本や役に立つ本をこどもに与えがちで、どんどんこどもを本嫌い
にしているのだそうです。これは言えます。わたしも大いに反省するべき点です。だ
いたい親が読ませたい本はこどもはあまり気に入らないで、なんでこんな本がいいの
かなという本を大好きになります。

 先月号に書いた「どろんこハリー」などその最たるものだと思います。内容もたい
したことはないし、絵も古いしどこがいいのかと思うのですが、しつこくしつこく読
んでくれと頼まれました。そしてここぞという一言を心待ちしているのです。汚れた
野良犬がじつはハリーという可愛がっていた犬だと分かったとき「ハリーだハリーだ、
やっぱりハリーだ。」というこどもたちの台詞を一緒になって大喜びするのです。

 反対に気に入ってぜひ見せてやりたいと思った「赤いふうせん」はほとんど関心を
示さず、今手元にある本にはクレヨンでひどい落書きがしてあり、目もあてられませ
ん。

 まだ川端氏の話は続きますが、ここで解説していくより最寄りの郵便局でもらって
きたほうがいいかも知れませんからこれまでにしておきます。

 関心のあるかたは下記へ直接お問い合わせください。

発 送 元 こどもの本の専門店「童話館」
      〒850 長崎市古川町8-3 電話0958-28-1265

《気楽図書館》

コメの話
どうしてもコメの話
      井上ひさし著 新潮文庫

 米が社会の歪みを露呈しています。上記の「コメの話」は以前にも紹介しました。
この度前著で訴えた危機感が現実的になってしまったので「どうしてもコメの話」を
緊急刊行されたようです。本にだって旬はあります。

 両書ともに食糧庁などの裏付けのある具体的な数字を紹介しつつ、農業は文化であ
り、風土であること、つまり人々が長い歴史でその土地に合うように築き上げてきた
もの、それを維持し後世に伝えるべきという視点に貫かれています。実際そのために
世界中の国々が大切な作物を中心に農業をいかに経済性を無視し、苦労に苦労を重ね
て維持しているかを著者ならではのユーモアにくるんで書かれています。
 また、国際化の中では各国が自国の農業を守ることが義務だとも。その証拠に日本
がたった1年不作になっただけで世界のコメ市場の価格が2から3倍に跳ね上がってし
まったのです。そのためにコメが買えなくて困った国が一杯出て来ました。そうした
国では国産米が高いのタイ米がまずいのなどと言っておれる場合ではないのです。こ
れは国際的にも無責任な行為と言わざるをえません。

 内容の一部を紹介します。

 世界の人口の中で日本人の占める割合は2%強、その日本が世界の食料貿易の20%
前後を買い漁っている。しかもそのうち1000万トン(これはわれわれの国のコメの生
産量と同じ)は残飯として捨てられる。世界中が食物で溢れかえっているのならとに
かく、腹一杯食べているのはたったの10億、残りの30億がほどほどに食べ、そして最
後の10億、すなわち世界人口の5分の1が飢餓線上にあるというのが現状なのだから札
束にものを言わせた成金風餓鬼式暴れ喰いはみっともない。たいがいにしたらいい。
自分たちのいぎたない食べ方が傍らからどう見えるかも分からずに、なにが「国際化」
なのだろう。

とこんな具合。

 本書には日本の穀物自給率の低さは世界最低であることも書かれています。フラン
スの自給率が203%、イギリスが113%、日本30%。国民一人当たりの生産量はアフリ
カ以下という驚くべき状況なのです。

 今の米騒動でもっとも醜いところは皆さんも同感でしょうが、タイの米文化と日本
の米文化の違いを考慮しない短絡的思考の恥ずかしさです。他民族の歴史を自民族の
それと同等に敬意をもてないこと、これすなわち自分の文化を尊重していないから、
あえて他国の文化まで知ろうとしない狭量さの現れでしょう。
 そこに異民族蔑視のおろかしさが見え見えですから困ったもんです。日本の国際的
優位性は単に経済面のみであること、これを言い換えると成金と呼ぶほかありません。
日本の文化的財産はほとんどが江戸以前のものでしかないのです。
 さらに輪を掛けた愚挙が買いだめ。米業者を喜ばせるだけでしょうに。学生時代に
習ったのですが、古典的経済学者は自由経済は神の手によってうまく回って行くと考
えたようです。残念ながら現在の経済はすでに神の手から人の手に移っていますから
こういうことはこれからも何回もあることでしょう。この神の手に換わるものが地域
や風土をともに守り伝える仲間の間の親愛感なのだと思うのですが、これはあまりに
楽観的な見方というものでしょうかね。




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游氣風信 No50「忘れられない贈り物 信州に上医あり」

游氣風信 No50「忘れられない贈り物 信州に上医あり」

三島治療室便り'94,2,1

 

三島広志

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《游々雑感》

忘れられない贈り物

 絵本は子供のための本でしょうか。
 明らかに子供を読者と意識して書かれた本もありますが、良質の絵本はむしろ大人
をより引き付けるものです。そうでない本は子供に媚びていて子供から敬遠されるか
その場限りの読み捨て本になってしまいます。
 親の情というのか、子供時代に読んだ質の高い絵本を自分の子供に読ませたくなる
ものです。現実に親子二代で愛読するに耐える絵本も実に多いのです。

 「どろんこハリー」(ジオン著 グレアム絵 わたなべしげお訳 1956年)という
イギリスの絵本があります。これは洗われるのが大嫌いなハリーという白黒のブチ犬
の物語です。
 洗われるのが嫌なハリーは風呂のブラシを隠した後、町中を駆け回ってどろんこに
なって帰宅しますがあまりの汚さにハリーと気付いてもらえません。芸をしても駄目。
そこで隠したブラシをくわえて風呂に飛び込みます。家族がきれいに洗ったところど
ろんこ犬が実はハリーと分かって子供も犬のハリーも大喜びという他愛ない話です。

 「ハリーだ。ハリーだ。やっぱりハリーだ。」というところに差しかかると子供達
は何度でも嬉しがって、もう一度最初から読んでくれとせがむのです。
 案外元は風呂嫌いの子供に読み聞かせる教養絵本だったのかも知れませんが、その
生き生きと駆け回る楽しげなハリーの絵が子供にとても人気がありロングセラーになっ
ています。

 イエラ・マリの「あかいふうせん (1976年)」という絵本は上質のイラスト集と呼
べるもので、文章は一切ありません。色も赤と白だけ。風船ガムがリンゴの実、ちょ
うちょ、傘に変化していく絵によるストーリーです。言葉が無いからよけいにイメー
ジが広がっていきます。同じ作者の「りんごとちょう」も優れた作品です。さすがイ
タリアという芸術性ですが、子供にはあまり人気がありませんでした。

 レイモンド・ブリッグスの「さむがりやのサンタ (1974)」やウクライナ民話「て
ぶくろ (1950年)」、岸田衿子の「かばくん (1962年)」なども人気作品でしょう。

 いつも苦虫をかんでいる不機嫌なサンタクロースの作品全体から醸し出されるユー
モアはイギリスならではのもの、「てぶくろ」は落ちている手袋の中にねずみやかえ
る、うさぎやきつね、おおかみ、いのしし、果ては熊までが入って一緒に生活すると
いう荒唐無稽さが愉快です。何回繰り返して読まされたか分かりません。「かばくん」
は日本語の美しさをたっぷり感じさせてくれます。

 そんな中で評論社から出ているスーザン・バーレイ(イギリス)の「わすれられな
いおくりもの (1984年)」こそはそれこそ忘れられない絵本です。
 内容の深さと控えめな文章、著者自身による温かい絵が子供だけでなく広く大人ま
で考えさせるだけの問題意識をはらんでいて、決して読者におもねっていません。
 テーマは死です。そして支え合って生きることと伝え合って生きることの素晴らし
さです。
 ストーリーは年老いたアナグマとその仲間の交流を通して死と別離とその克服につ
いて著者自身の考えを物語として決して押し付けないよう十分な配慮の上で展開して
いきます。
 冒頭はアナグマの老いの自覚と受容で始まります。そして死。
 森の仲間はアナグマの遺書「長いトンネルの むこうに行くよ さようなら アナ
グマより」を読んでとても悲しみますが、それをどうやって克服して行くのでしょう。

 モグラはアナグマからはさみの使い方を習い、紙を切ってさまざまな形を表せるよ
うになったことを思い出します。カエルはスケートをアナグマから親切に教わりまし
た。キツネはネクタイの結び方、ウサギはパンの作り方をそれぞれアナグマから習い、
皆自分なりの工夫までできるようになったのです。

 「みんなだれにも、なにかしら、アナグマの思い出がありました。アナグマは、ひ
とりひとりに、別れたあとでも、たからものとなるような、ちえやくふうを残してく
れたのです。みんなはそれで、たがいに助けあうこともできました。」

 このように仲間たちはアナグマの思い出を語り合い、学んだことを自分なりに工夫
発展させることで助け合いながら寂しさを克服していったのです。

 技術や知識などは楽しい思い出とともに世代と集団を越えた共通財産として伝達・
普遍化さらには発展していくものです。私たちの暮らしはこうした親から子へ、大人
から子供へ、教師から生徒へ、師から弟子へとずっと受け継がれてきた結果で成立し
ているものでしょう。

 人間は肉体として皮膚の中だけに存在しているのではなく、皮膚をはみ出して広く
人々の心の中に思い出としても生きているのです。ですから本当の死は人々のこころ
から忘れ去られたときを言うのだと思います。

 「わすれられないおくりもの」は優しい絵本の形式を用いてそれらのことを子供に
もさりげなく考えさせてくれますし、大人が読めば胸中深くさざ波が立つことでしょ
う。

 一番の驚きはなんとこの本、小学生低学年向けの課題図書だったのです。わたしは
こと課題図書に関してはつまらない本が多すぎると思っていたのですが、これは別格。
文部省侮るべからずと感心したものでした。今から6・7年前のことです。

《気楽図書館》

信州に上医あり
 -若月俊一と佐久病院-
          南木佳士著 岩波新書

 長野県南佐久郡臼田町は浅間山と 八ケ岳に挟まれた佐久平の千曲川沿いの小さな町
です。その川の堤防沿いにまるで要 塞のごとくそびえているのが佐久病院です。
 佐久病院と院長の名は当時すでに知ってはいました。しかし実際に建物を見て、足
を踏み入れてみますと、何でこんな田舎にこんな巨大な病院があるのか、経営は成り
立つのか、そもそも若月俊一とはいかなる人かという疑問がふつふつと沸き出たので
した。

 その疑問はわたしだけでなくそこを昭和51年、採用試験のために訪問した若き著者、
南木先生も同様の感慨を持たれたのです。次のように。

佐久平と呼ばれる田園地帯を四十分余り走ると、いきなり右側の車窓に七階建ての巨
大な建物が姿を現した。(中略)いよいよ八ケ岳山麓の過疎地帯に入って行くのかい
ささか心細くなっていた私の目に、この建物の大きさは異様に写った。(中略)実際
に周囲のひなびた風景を背景にして見ると、佐久病院はあたかも城のような大きさで
あった。その依って立つ基盤は何なのか。交通の便も悪いこんな田舎町になぜこれほ
どの大規模な病院が建てられたのだろう。誰が、いかなる情念で・・・。

 著者の興味は院長の若月俊一先生にあります。あるときはその理想に感銘し、また
あるときはその俗物的側面に落胆もしますが、著者自身がタイの農村医療に関わった
経験から、若月院長が初めて赴任した昭和19年当時の農村とは現在目にしているタイ
の農村の状況と同じではないかと思い至り、若月院長の心に深く共感を覚えるくだり
はなかなか感動的です。
 著者南木医師はタイの現実の前にこう考えました。

貧しいタイの農村を前にして、絶望感しか抱けなかった私は、これとおなじような状
況の戦後の信州の農村で、文字どおり「病気とたたかった」若月のバイタリティーに
素直に脱帽した。(中略)私の胸の中に若月に対する尊敬の念が湧いたのはこのとき
が初めてだった。「あなたはえらい」

 著者はタイの極貧の農民の現実に対して全くの無力感にさいなまれてしまいます。
腹部にガン性の腫瘤を触れた患者に入院を勧めても金が無い。医者にかかるのは大変
な贅沢なこと、これは佐久地方に限らず日本中の戦前から戦後のある時期までの農村
の実態と重なるのです。
 若月院長はそこでの現実に屈せず、学生時代に学んだ理想的マルクス主義と現実主
義の間を縦横に駆け回ってついに小さな村の診療所を今日医師総数130名という大病
院に作り上げました。

 もともと若月院長が東大医学部卒業というエリートでありながら何故佐久くんだり
まで来たのかと言えば、学生時代反戦運動をし、その後1年間留置された結果、都落
ちしたというのが事実で決して最初から農村医療、地域医療に貢献しようという高邁
な理想からスタートしたのではありません。
 悲惨な医療状況を目の当たりにして学生時代に描いた理想を彼の地に実現しようと
持ち前の不屈の反抗心で腐心したのでしょう。
 我が国の農村医療、地域医療のメッカとして、国の内外に高く評価されている佐久
病院はこの傑出した院長の力量とそれを支えてきた医師や医療従事者の手によって今
日の巨大な近代化された総合病院として発展成長してきたのでしょう。

 この本で特にうれしかったのは次のくだりです。昭和20年11月に医師や看護婦など
病院勤務者によって劇団が創設されたのです。

 病院で手遅れの患者ばかり診せられてきた若月は、病気の早期発見と予防のために
は自ら村に入って行くしかない考えたのだった。診療も大事だが、予防のための啓蒙
活動はより重要だったから、演劇を通じて予防医学を分かりやすく説明した。
 若月が農村演劇に力を入れたのは宮沢賢治に影響されてのことだった。若月は松田
甚次郎の著書「土に叫ぶ」の中で、次のような賢治の言葉と出会った。
 「農村で文化活動をするに当たって、二つのことを君たちにおくる。一、小作人た
れ。二、農村演劇をやれ。」

 松田甚次郎は明治42年山形県最上生まれ。盛岡高等農林の賢治の後輩に当たります。
19歳の時31歳の賢治を訪問し上記の言葉を受けました。
 卒業後村に帰り賢治の教えを実践すべく「最上共働村塾」を主宰し、農村演劇を頻
繁に行い、農村活動に奔走。その記録を「土に叫ぶ」と題して出版しますが、昭和18
年35歳の若さで世を駆け抜けてしまいました。詳しくは([「賢治精神」の実践 松
田甚次郎の共働村塾]安藤玉治著 農文協出版“人間選書”)を参考にしてください。

 長年の賢治ファンとしては「ああここにも賢治が生きていたか」と感じいるばかり
です。

 さてこの本にはきれいごとが並べてある訳ではありません。佐久病院と若月俊一を
テーマに据えながら、現代の医療の抱える問題のみならず、農業問題やそれを取り巻
く社会、さらには理想を実現するために生まれた組織が逆に理想を封じ込めようとす
る矛盾にも言及されています。初期には理想に燃えた組織の求心力が人を呼び込みま
すが、組織の肥大化ととも遠心力が高まり分裂を生み出すというどこにでも見られる
困難な現実です。

 現在、佐久病院では内視鏡検査を早朝6時から行っているそうです。仕事前に受診
できるので検査を受ける人は大変助かりますが、そのための医師や看護婦の労力は大
変でしょう。人件費も莫大なものになります。

 気になる点もあります。
 送り手の努力ばかりが見えて、受け手はいつも受け手とし てしか現れてこないのです。
 送り手と受け手の相互浸透が発展を呼ぶのが唯物論の基本にあるし、そこから若月
院長が若い時情熱を傾けた共産主義が生まれてきたと思うのですが、その観点からす
れば一方的に送る側の努力ばかりが犠牲的に継続できるとは考えられません。むろん
こんなことは若月院長にはとうにお解りのはずですからそこに何か大きな壁があった
のかもしれません。 宮沢賢治も現実にぶち当たって「その真っ暗き大きなものが俺
にはどうにも動かせない」と嘆いていましたから。

 今日、巨大化した佐久病院は新たな問題と矛盾を抱えています。医療費抑制策から
平成になって赤字にあえいでいるとも書かれています。若月院長の理想がもう若い医
師たちには届いていないとも。なぜなら純然たる農村などもはやこの国には無いので
すから。
 今日の農民は金も土地も持っていてある意味で都会人より実質裕福になっています。
ただそのお金が農業収入でなく給料であるところに農村のみならず今の社会の矛盾が
象徴されているように思えます。

 また理想は実現に尽力した人には燦然と輝くものですが、後から実務的に引き継ぐ
者にはえてして重荷になるものでしょう。

 それらを踏まえて著者は最後に次のように文学的に見事にまとめます。

 旅人の目に、小海線の電車の車窓から見える佐久病院の巨大な建物と周囲のひなび
た風景がミスマッチと映るのは、旅人の目がおかしいからではなく、若月の抱え込ん
だ矛盾がいかに大きなものかであるかの証明なのである。佐久病院は若月と昭和とい
う時代の間にできた子供だと書いたが、もしかしたら、この子は人工交配のために子
孫を残すことができない一代かぎりの雑種かも知れない。(中略)若月が赴任した当
時の理念を失ったとき、佐久病院は単なる大病院の一つに過ぎなくなってしまうのだ
ろうが、少なくとも私は、そうなってしまった佐久病院については二度と書くことは
ないだろう。

 農村医療、地域医療に関心ある方のみならず、一人の傑物の一代記として、また組
織論としてとても興味深い本に仕上がっています。さすがにすぐれた筆力です。しか
もこの手の評伝は何よりその人に対して愛情ある人が書くべきという証明です。さも
ないと批判のための批判になりがちですから。その点この著者は若月俊一とい言う人
物に魅了されながらも、努めて平静に中立にと自らの立場を注意深く保って書かれて
いるところがとても読後感、後味の良い一冊になっています。どうぞ一読を。とても
読みやすい文体ですから。
 わたしの紹介文のごつごつした読みづらさがこの本の読書欲をそぐとしたらとても
つらいものです。

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游氣風信 No49「ほほえみ 」

游氣風信 No49「ほほえみ 」

三島治療室便り'94,1,1

 

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

三島広志


<游々雑感>

ほほえみ

 人間関係を円滑にする世界共通の記号は「ほほえみ」であることに異論はないでし

ょう。ただしこの「ほほえみ」は左右対称のニコニコ顔であることが条件です。片側
だけの唇が吊り上がると皮肉っぽい「嘲笑(ちょうしょう)」になってしまいます。

 生まれたばかりの赤ちゃんがなんの理由もなくニコッと笑うと誰でも心なごやかに
なるものです。これとて洋の東西を問うものではありますまい。(あの笑顔は「どう
か夜泣きしても捨てないでください。」と本能的に愛想をふりまいているという皮肉
な見方もあるそうですが。)

 ところが「ほほえみ」は他人との関係作りだけでなく、自分の健康にもとても有意
義に働くという記事が年末の読売新聞に出ていました。それは以前から体験的に誰も
が感じていたことですが、脳波との兼ね合いから実証されたものです。その記事を紹
介しましょう。

-------------------------------------
笑顔作れば気持ちも楽しく

眼輪筋の耳側を動かし脳活性化 米の心理学者が研究
読売新聞平成5年12月

 意図的にでも笑顔をつくれば、気持ちも楽しくなる・・・・。目の回りの「眼輪(が
んりん)筋」という筋肉を意図的に動かすと、脳内の楽しい感情に関連する部分が活
性化されることが、米国の心理学者の研究でわかった。
 カリフォルニア大学人間相互作用研究所のポール・エクマン博士らの研究で、米国
の雑誌「心理科学」にこのほど発表された。
 楽しい時は、眼輪筋とほおの大頬骨(だいきょうこつ)筋が動くという説を唱えた
のは、フランスの神経学者デュシェン。1886年のことだが、博士らは忘れ去られ
ていたこの研究に着目、眼輪筋をさらに詳しく調べた。
 その結果、眼輪筋の鼻に近い側は意識的に、耳に近い部分は意識的に動かせない人
もいた。そこで、眼輪筋の耳側が大頬骨筋とともに動く場合、つまり作り笑いではむ
ずかしい筋肉の動きを「デュシェン標識」と名付けた。
 学生約50人を調べ、耳側を意識的に動かせる14人に、この標識を含む笑顔、含
まない笑顔など様々な表情をさせ脳波を測定した。楽しい時は脳前方の左半球が、不
快な時には同じく右半球が活性化され、アルファ波という成分については低下するこ
とが知られいてる。
 学生たちに、デュシェン標識を含まない笑顔を作らせても左右の脳波には差は出な
かったが、意識的にこの標識を含む笑顔をさせると、楽しい時と同様に左半球が活性
化された。つまり楽しいと感じていることになる。

-------------------------------------

 眼輪筋は眼の回りを取り巻いている筋肉で、大頬骨筋は口の角から目尻に向かって
走る筋肉です。笑顔を作ると目尻にしわが寄るのは眼輪筋の収縮のため皮膚が引き寄
せられるからであり、口の角がニコニコマークのように吊り上がるのは大頬骨筋の作
用です。ともに表情筋といって脳神経の内の顔面神経の支配を受けています。顔面神
経麻痺になると口が垂れるのはそのためです。

 「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ。」という文学的表現がありま
すが、それに習えば「楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ。」とも言え
ます。新聞の記事はそれを証明しているのではないでしょうか。

 楽しくないときでも、無理やり笑顔をつくれば、脳の中は楽しく感じてくれるよう
です。 近年、からだとこころの相関が言われるようになりましたが、この研究など
もその一つの証明となるものです。もっとも以前から誰もが経験的に知っていたこと
であって、それを科学的に証明したところに科学の科学たるゆえんがあります。その
成果をどう活用するかは個人のレベルでも十分考察可能ですから、科学の成果は出来
る限り我がものとしたいものです。

 ボクシングの選手がリングに上がって闘争心を高めるために激しい腹式呼吸をして
いますが、あれはホルモンのアドレナリンを高め、交感神経を刺激し戦いに備えるの
です。そうすると痛みをあまり感じないし、出血も少なくなるのです。試合中、トレ
ーナーは気力で血を止めろなどと無茶を叫んでいますが、闘争心が萎えると出血がひ
どくなるのは経験的にも生理学的にも正解なのです。
 お相撲さんが立ち会い前に顔を叩いたり、塩を嘗めたりするのも同じ理由です。

 今のは戦いの場の例でしたが、反対にやすらぎの場を生み出すために素敵な笑顔を
作ることは有効だろうし、わたしたちのからだにも大変有益なことと理解できます。

 楽しい感情は脳の間脳という自律神経やホルモンの中枢に働きかけて、全身の免疫
作用を高めることが言われています。やすらぎ療法やいきがい療法はこれを応用した
ものです。
 ある外国人が難病(病名を忘失しました)に罹ったとき、とにかく悩み沈んでいて

はいけないと、朝から晩まで笑える環境作りをしたそうです。愉快な本を読みこころ
を和ませ、ばかばかしいテレビ番組を見て大笑いし、友人たちの楽しいときを過ごし・
・・。そうするうちに完治したということで話題になり、新聞などでも取り上げられ
ました。確か日本にも講演に見えたはずです。

 禅に拈華微笑(ねんげみしょう)という有名な言葉があります。
 お釈迦さんが大勢の説法を聞きに集まった人の前に手に持った花を突き出されまし
た。すると弟子の一人迦葉(かしょう)尊者ひとりがほほえんだそうです。それを見
たお釈迦さんは「わが法門は文字や言葉では伝えられないものだ。今、迦葉に伝える。
」と言われたそうです。
 深遠な話ですからよくわかりませんが、お釈迦さんの心を感じとった迦葉尊者のほ
ほえみという行為が以心伝心したのでしょう。言句に表せない部分を「ほほえみ」と
いうからだからわき出る表情が伝え会うのです。

 「ほほえみ」は先程の新聞記事のように現象的には顔の筋肉の緊張に過ぎませんが、
それを生み出すものはからだの奥底からにじみ出てくるような気がします。顔だけで
笑うと取り繕ったようなぎこちないものになってしまうでしょう。そのにじみ出てく
るようなもののことを「気」というのです。これは余談です。

 メビウス気流法(坪井香譲氏による)というからだとこころと空間が刻々と生成変
化していく過程を、身体の動作や呼吸を通じて根源的に洗い直していく身体技法体系
があります。書いているこちらもよく分からないのですが、実際に一つの動作を行っ
てみれば体感することは可能です。古来からの祭りの意味を今日から未来にかけて見
据えたものと簡単に表現してもあながち大間違いではないと思いますが、それでも説
明にはなっていないでしょうね。
 そのメビウス気流法の基本[身体の文法]の中に〈全身が一つになって微笑む〉と
いうのがあります。ここでも「ほほえみ」です。本(メビウス身体気流法 生命の混
沌と生成 坪井香譲著 平河出版社)によれば、
 正中線が自覚され、全身が柔らかくなると身体の中から自ずと微笑が湧いてくるの
である。その時は息も深く、全身で周囲の空間と融和しつつ行っている。あたかのそ
の空間それ自体が呼吸しはじめるようだ。呼吸なき呼吸。この時からだはからだであ
ることを超えている。

 ますます分からなくなってしまったかもしれませんがともかく「ほほえみ」はから
だの奥底から湧き出るあるいはにじみ出るものでそれが結果として笑顔という表情を
生み出すのです。
 おもしろいのは、逆につらいときなどにともかく笑顔を作るとそれが遡行してから
だの中にしみこんでからだを楽しい方向に導こうとするものだということです。しか
も他人の笑顔さえも自分のからだの中に大きな影響を及ぼすということです。

 寝たきりの人で自分は何もできないからとにかく笑顔だけは絶やさずにいたいとい
う方がみえますが、それはじつに素晴らしい行為と言えますね。
 日本ではとかく「男は三年に片頬」などと言って笑うことを戒められてきました。
しかしぎすぎすした不景気な世の中です。「ほほえみ」を大切にしたいものです。と
りわけ笑顔の苦手なわたし自身の初春の抱負でもあります。

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