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2011年1月26日 (水)

游氣風信 No47「凶作の詩人(賢治と伸治)」

游氣風信 No47「凶作の詩人(賢治と伸治)」

三島治療室便り'93,11,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


《游々雑感》

凶作の詩人

 今年はまれに見る凶作の年となりました。中でも岩手・秋田・青森県あたりは想像 以上にひどいようです。そのありさまを作家の立松和平さん(盗作で味噌を付けまし たが)は宮沢賢治の詩から次の一節を引いて新聞に書いていました。

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
「雨ニモマケズ」より

 大自然の前には人はまったく無力なものであり、ただ涙を流し、おろおろ歩き回る しかないのです。そのやり切れなさは全力を投じて農民のために尽力した賢治だけに なおさら重みがあります。

 宮沢賢治は明治29年、岩手県花巻の大地主・大商家の長男として生まれました。し たがって経済的にとても豊かな人生を送ることができたのです。家庭的にも厳父慈母 やかわいい妹弟たちに囲まれ、さらに秀才の誉れ高く地元での最高の学問を修め、生 涯独身ではありましたが恵まれた不自由のない生涯を過ごしました。
 しかし健康的には若くして結核を患い、その人生は37年という短いものでした。さ らに内省的で人に優しく、自己に厳しい性格は自らを求道者として律し、自分のこと だけでなく、もっと大きな人類普遍的な苦悩に直面し続けたのです。今日、彼の心の 振幅の結果が膨大なすぐれた童話や詩となって後世のわたしたちに遺されています。

 彼は亡くなる三日前に辞世の短歌二首を作りました。

方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる 病のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし

 前の歌は十里四方、自分の住んでいる稗貫郡だけでなく稲がたわわに実って、それ を祝うように秋祭りの三日間空が晴れわたったことへの喜びと感謝を歌い、後の歌は 自分は病気でまもなく死んでいく命だが稔りの中に我が身を捨てるのはうれしいこと だというような意味です。後の歌の「みのり」は賢治が生涯を通して信仰した法華経 の御法(みのり)と稲の稔りとを掛けてあると言われています。

 商家の子として産まれた宮沢賢治はなぜこのような農作にかかわる歌を辞世とした のでしょう。多感な賢治は自らの生活が農民たちからの搾取のうえに成り立っている ことに深く心を痛め、農民のために少しでも役立とうと一途な後半生を送ったのでし た。その集大成がこれら2つの歌に表されているのです。

 盛岡高等農林を卒業した賢治は、しばらく研究生として地質調査に携わったあと、 花巻農学校の教師を丸4年勤め、以後宮沢家別宅で農耕自炊の生活に入りました。三 十歳の頃です。そこでは農村の青年達に農芸化学や文学を講じ、不用品のリサイクル 活動を実践し、また当時珍しい農民楽団を結成して若者達に喜びを提供すると同時に、 自分自身農民になりきろうと大変な努力をしたようです。
 その活動は本人の健康状態や戦争になだれ込んでいく時局によって長続きはしませ んでした。

 賢治は旧態依然の方法で苛酷な生活を強いられていた農民たちに何らかの協力をし たいと、さまざまな試みをしました。その一つが肥料設計でした。そのやり方は「そ れでは計算いたしましょう」という詩にいきいきと書かれています。長い詩ですから 引用するわけにはいきませんが、その詩からすると分かりやすく丁寧に農民と語りな
がら肥料を設計しているのがうかがえます。
 田んぼの場所や広さ、土地の乾湿、高低、日当たり、生える雑草の種類、土の堅さ などから地質を把握し、籾(もみ)をどれだけ撒くか、どういう稲を撒くか、肥料を どれくらいかけるかを聞きながら稲の育成を考えていくのです。
 そしてそれらはすべて無料で行われました。

 しかし厳しい東北の冷害は人知を超えて襲ってきます。賢治はいつも測候所と連絡 を取りながら野に出て稲の状態に心を砕いたことでしょう。

その稲いまやみな穂を抽いて/花をも開くこの日ごろ/四日つづいた烈しい雨と/今 朝からのこの雷雨のために/あちこち倒れもしましたが/なほもし明日或は明后/日 をさへ見ればみな起きあがり/恐らく所期の結果も得ます/さうでなければ村々は/ 今年も暗い冬を再び迎へるのです/この雷と雨との音に/物を云ふことの甲斐なさに /わたくしは黙してたつばかり
「野の師父(作品第1020番)」より

 その結果がうまく行けば感謝もされましょうが、いかんともしがたい天候不順によ る凶作に対しては厳しい目で見られたようです。そんなときは実際に弁償したり謝罪 したりと大変辛かったに違いありません。

この半月の曇天と/今朝のはげしい雷雨のために/おれが肥料を設計し/責任あるみ んなの稲が/次から次へと倒れたのだ/稲が次々倒れたのだ/働くことの卑怯(ひきょ う)なときが/工場ばかりにあるのでない/(中略)/青ざめてこわばったたくさん の顔に/一人づつぶつかって/火のついたやうにはげまして行け/どんな手段を用ひ ても/弁償すると答へてあるけ
「作品第1088番」より

 賢治は農民たちの苦しい労働それ自体を芸術として高めたいと望んでいました。そ れにしても当時の農民の生活はあまりに苛酷でした。米を食べることなど夢のような 話です。ふだんは稗を食べていたといいます。戦争中米が配給になって皆たいそう喜 んだそうですから。

 さて今年のような凶作が賢治の時代にあったなら何十万人もの餓死者が出て、赤ん 坊は間引かれ、大勢の若い娘が花町に売られ、青年は兵隊になったことでしょう。
 今日では経済力によって海外から輸入することでなんとか手当できますけど。

 米作りは当時とは比較にならないくらい楽になっています。いろいろな問題を孕ん ではいますが今日の乏しい農村の労働力を補っているのは機械化と農薬、化学肥料の お陰です。少々の天候異常では問題ないはずです。それでは今年の凶作はどうしてこ んなにひどくなったのでしょう。賢治の詩に興味深い一節があります。

安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは/三十年に一度のやうな悪天候の来 たときは/藁(わら)だけとるといふ覚悟で大やましをかけて見ますか
「それでは計算いたしませう」より

 この詩から憶測して、バブル時代の成り金日本人は美味しいと言われる米ばかりを 追い求めて、寒さに弱い種類を寒い地方の田で無理に育成し続けていたのかもしれま せん。今年のように30年に一度の悪天候が来た結果、藁だけしか取れなかったのです から。
 自然をなめていたということでしょう。

 賢治の作品には随所に今日を予見しているような部分が見受けられます。とりわけ 人と自然との付き合い方においてそうなのです。これが現在でも広く読み継がれてい る理由のひとつですが、今年の凶作などはちょっと不気味です。

 ここまで書き上げましたら、くしくもNHKテレビのナイトジャーナルで「大凶作・ 農民をうたった2人の詩人・宮沢賢治と鈴木伸治」という特集を放映していました。

 鈴木伸治(本名稲夫)という詩人はわたしも知りませんでしたが宮沢賢治より16年 後の大正元年に岩手県の貧農の長男として生まれ16歳くらいから仲間を募って詩の文 集を発行していたようです。10歳で父が結核死、13歳のとき母親が弟や妹を連れて家 を出たという息を呑むほど厳しい境涯でした。

 彼は貧困や苛酷な労働などの生きる辛さを詩によって乗り越えようとしたのですが、 昭和9年の大凶作の前に完膚なまでに打ちのめされて詩から遠ざかります。賢治が没 した昭和8年は豊作で先に紹介したように収穫を感謝する短歌を辞世としたのですが、 その翌年はまれにみる凶作だったのです。

 現実の前にまったく無力だった詩に失望したのか鈴木伸治は筆をおきました。しか し生前まったく無名だった宮沢賢治の作品が世に紹介され、その生き方とあいまって 評価が高まるにつれ、鈴木伸治は再びペンを取り、賢治の影響にどっぷり浸った作品 を書き始め、賢治精神の継承者たらんと心掛け、ついにはその行き過ぎから賢治の模 倣と評されるような詩を作るようになってしまいました。「宮沢さんの宇宙の神秘に 迫りたい。」という彼の真摯な言葉が残っています。
 鈴木伸治はじつは以前は鈴木信という名前で詩を書いていたのですが、賢治の治を つけて伸治と改名するほど心酔したのだそうです。

 元来、鈴木伸治の詩の良さは現実のあえぎの中から渾身の力でうたい上げるもので した。それが賢治の詩に出会ってしまったためにその言語世界に吸収されてしまった のです。
 先にも述べたように賢治は豊かな何不自由ない生活が送れたにもかかわらず敢えて 苦難に飛び込んだものであって、極貧に生まれどん底を徘徊するほかなかった鈴木伸 治のような農民ではなかったのです。賢治は極めて感受性の強い人ではあったものの 農民からすれば傍観者であったたことは否めません。

 鈴木伸治は生活者としての詩人であり、宮沢賢治は求道者・芸術家としての詩人だっ たのです。

 賢治のきらめくような言語世界に毒された(テレビの中でそう表現していました) 鈴木伸治はそこで自らを見失ってしまったのでしょう。
 その後鈴木伸治はもとの自分を取り戻して、生活者としての詩を書き始めましたが 昭和15年、27歳という若さで父や宮沢賢治と同じ結核で亡くなりました。

 あの時代、苦難の中から何らかの手段によって希望の灯を求めた数多くの「鈴木伸 治」が全国各地にいたことを思うと胸が痛みます。そして今も日本の、世界のどこか に同じような人が一杯いることでしょう。
 賢治はそれを心底感じ取った人でした。「あらゆる生き物はみんなかあいそうなも のです。」こんな言葉が賢治の童話にあります。「あらゆる生き物のかあいそうさ」 に気付くことは生き物としての義務なのではないかと思うのです。

 先だっては衛星放送で6夜にわたって宮沢賢治の特集を組んでいました。今年は没 後60年、1996年には生誕100年がやってきます。出版界でも活況を帯びているようで す。生前まったくの無名詩人・童話作家が何ゆえに今日これほど注目され続けている のでしょう。
 以前には好きな作家は宮沢賢治だというと一様に「あの雨ニモマケズの成人君子が 好きなの。」とけげんな顔をされました。しかし今では彼の生き方を除外した上での 作品自体の読み込みも深くなされ、その文学的価値も大きく評価されるようになった のです。いわゆる偉人伝のみの人ではなく、一人の文学者としても確たる位置を占め るようになったのです。
 さらに現在、地球規模で環境に対する関心が高まっていますが、賢治の作品にはそ れがすでに先取りされていたのです。「地球を救え。」などという人間中心の地球観 ではなく、「あらゆる生き物」のために人はどう生きたらいいかという根源的な問題 意識があり、それが今日多くの読者を捕らえているのでしょう。
 その思想を支えているのが現実の彼の活動であり、言葉の魔力を十分発揮した彼の 作品なのです。

 「あらゆる生き物はかあいそうなものです。」
 つまるところあらゆる生き物は他の生き物を食わなければ生きていけないという避 けられないことを内包して生きざるをえないというかあいそうな存在なのです。ここ を出発点として生きるということを突き詰めていった。これが宮沢賢治の生涯だった ような気がします。

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