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2011年1月26日 (水)

游氣風信 No45「権利と責任 俳句の効用? 井伏鱒二」

游氣風信 No45「権利と責任 俳句の効用? 井伏鱒二」

三島治療室便り'93,9,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


<游々雑感>

権利と責任

 この夏長野県に行ったとき、所用で地元の病院にでかけました。病院の名前は佐久総合病院。千曲川に沿った小さな町の驚くほど大きな農協系の病院です。総合の名に 恥じず、歯科から脳外科・精神科まであらゆる専門科を網羅しています。設備も常に 時代の先端をいく病院ですが、初めて見た時は何ゆえ山間の町にこんな大規模の病院 が必要なのか、経営的に存在できるのか不思議でした。町の人全員が入院できるので はないかと思うほど大きいのですから(これはまあ大袈裟ですが)。

 一つの科に常に先生が2人から5人ほど詰めていて大勢の患者さんと親切に応対して います。また受付には英語・タイ語・ポルトガル語などのパンフレットが置いてあっ て急増している外国人にも医療サービスを心掛けているようです。

 創立者は現院長の若月俊一先生です。NHKテレビでもおなじみだと思いますが老 人医療と農村医療、とりわけ農村医療の先駆者として著書も多く書かれておられます。

 病院創立は戦争末期だそうです。戦後、医師や看護婦が各村を回って公衆衛生や予 防接種、栄養の知識などの重要性を村芝居の形式で啓蒙に励んだことは有名です。

 その病院の壁に病気の説明や医師・看護婦の画いた絵とならんで[患者さんの権利 と責任]という文が掲示してありました。読んでなるほどと感心しましたのでここに 無断で紹介します。

患者さんの権利と責任

1 適切な治療を受ける権利
2 人格を尊重される権利
3 プライバシーを保証される権利
4 医療上の情報の説明を受ける権利
5 関係法規や病院の諸規則を知る権利など

 これら人間としての倫理原則をお互いに大切にしなければならない。しかし患者さ んも病院から指示された療養については専心これを守ることを心掛けなければならな い。
 医師と協力して療養の効果をあげることこそが大切なのである。
1983年1月
佐久総合病院

 どうです。見事なものですね。
 ともすると最近は患者の権利ばかりに目が向かいがちですが、この文では患者さん も療養については医師の指示を守ること、医師と協力することというように権利に付 帯する義務を果たすことが必要と書いてあります。

 調整にみえた方々の中には嫌な経験をお持ちなのでしょうが、病院や医師を誹謗す る方がいます。しかし重度な病気や障害に対する医療は医師や医師を取り巻く医療職 にある人達(看護婦、薬剤師、理学療法士、臨床検査技師、放射線技師、心理療法士、 社会福祉士など)と患者およびその家族のチームワークによって初めて成立するもの です。一度医療に身を委ねたならお互いに全力を尽くして協力し合わねば治る病気も 治りません。
 ただし医師側に上記の1から5がまったく守って貰えないようなら医師を変えるべき でしょう。これは指圧や鍼灸の施術でも同じことです。

 社会福祉士という患者の側に立っていろいろと相談に乗ってくれる専門職が国家資 格なりました。鍼灸専門学校の同級で大きな病院に理療師として努めている友人も かなりの難関を乗り越えて見事にこれに合格しました。
 医療やそれにかかわる経済的問題、在宅ケアなどは彼らに相談すると親身になって くれます。大きい病院ならたいてい何人か勤務しているはずです。

 医師と患者との意志疎通を図ることをインフォームドコンセントと言いますがこれ によってともすれば秘密主義的になりがちな医療の内容を患者が知る権利が保障され ます。しかし同時に今までよりずっと患者に責任が覆いかぶさってくるということで もあります。何事も医者任せにしないで自分自身の知性と理性を総動員し、強い意志
と自覚をもって病気と向き合っていかなければならないということですから。

 テレビで人気司会者逸見政孝氏がガンの宣告を受けたから、仕事を休んで闘病に入 る、全力でガンと戦うという意志を表明しましたが、彼にガンを宣告した医師たちは 全力で治療に取り組むでしょうし病院のスタッフも協力を惜しまないでしょう。家族 も以前に増して支えあっていかなければなりません。逸見さんがあそこに至るまでに
そうとう厳しいインフォームドコンセントがなされたに違いありません。

 これからの医療は従来の「死なせない医療」から、人は必ず死ぬのだからより人間 らしく「尊厳をもって生をまっとうさせる医療」が求められています。

 そのよりよい成果を生む原動力の大半は患者側にあることは何より明白ですね。逸 見さんの緊迫した顔が示していたように決して甘くはないのが現実です。

俳句の効用?

底冷えやこれより小さくはなれぬ

 俳句は生活や仕事、自然などいろいろな場面に出会ったとき、写真を写すように好 きな場面や景色を選び出して写し取ることで、ともすると同じことの繰り返しになり がちな惰性的日常生活を一種の不思議な空間に作り替えることができます。
 それは五七五という一瞬の短い詩だから可能なのです。できあがった作品が自分の 思い以上に深みを持ったりしますがそれは短くて言葉足らずのために解釈がかえって 自由にできるからです。

逃げ水の奥より猫を掴み出す

 俳句を書き留めるということは時の流れに楔を打ち込んで、文字の上に安定した情 景を記録することです。なぜなら観じたもの(見て心に焼き付いたもの)・感じたこ と(心が揺り動かされたこと)は時間とともに薄らぎ喪失してしまいますが、俳句は 写真と同じように好きなときに引っ張り出して昔を懐かしむことができます。
 ですから人は俳句を作ることで精神的安心感とものを創作するという満足感に浸る ことができるのです。

秋風は湖水のなかに潜むらし

 反対に俳句には毎日の繰り返しの中で固定しがちな観念を自在に解放する作用があ ります。俳句作品は絵や写真と違って文字だけで示されていて具体的な像が描かれて いませんから、常に架空の現実を生み出し続ける力があるのです。読むたびに想像力 でいろいろな場面や情景が創り出せるからですね。
 その想像の世界では全く自由ですから日々生を新たにし、深々とした息吹を肺に躍 らせ、そこから心身の活性と環境との調和・生きる方向の発見といった喜びに満ち溢 れることも可能なのです。

 以上は俳句にこんな効用があればいいなという願望です。またそんな俳句を作るこ とができたら本望だなという希望でもあります。果たしてどこまで実現できるかは分 かりません。でも一度俳句に手を染めたからには切望し続けていこうと思っています。

 わたしが俳句にかかわって実に20年が過ぎようとしています。自分自身それに気付 いて大変驚きました。

桃の実を地球味はふごとく食ぶ

 以上の俳句は初公開の若いときの作品です。

〈今月の詩歌〉

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
于武陵(ウブリョウ)作  井伏鱒二訳

 今年の夏は二人の文学上の重鎮を失いました。俳句の加藤楸邨と作家井伏鱒二です。

 井伏鱒二は作家としてだけでなく詩人としても活躍していました。また漢詩を井伏 流に和訳して愛唱されました。特に有名なのが上記の詩の後半でしょう。人生は一期 一会、今の別れが永遠の別れとなるかもしれない、どうかわたしの汲む酒を飲んで欲 しいという意味でしょう。日本人の好きな無常を実に生き生きした語調で表現してい
ます。

 氏の訳はしばしば原文を凌駕しているのではないかと言われています。日本人にとっ て何とも言えぬ味わいと懐かしさが感じられるのです。
 わたしが少年時代愛読して止まなかったヒュー・ロフティング原作の「ドリトル先 生シリーズ全12巻」の人気も氏の訳に負うところが多いと信じています。

 氏は亡くなる数年前、初期の代表作「山椒魚」の結末をすっかり変えてしまわれま した。なみなみならぬ創作意欲の証明でしょうが長年の愛読者をあわてさせました。

 わたしの先祖代々の地は広島県福山市(旧深安郡賀茂町)の山の中ですが、そこに 行く途中大きな旧家を見かけました。それが井伏鱒二の生家です。とりわけ懐かしさ を感じるのはそのせいかもしれません。

 以上参考は大岡信著「続折々のうた」(岩波新書)を参考にしました。

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