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2011年1月25日 (火)

游氣風信 No43「芭蕉没後三百年 漱石 悼加藤楸邨」

游氣風信 No43「芭蕉没後三百年 漱石 悼加藤楸邨」

三島治療室便り'93,7,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/


《游々雑感》

芭蕉没後300年
・・・・ ・・・
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」

 ここに紹介した文は、学生時代、誰もが暗唱させられた覚えのある一説でしょう。
ご存じ俳聖と讃え称せられる松尾芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭です。
 続けて

 「舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖 とす。古人も多く旅に死せるあり。」

となります。思い出しましたか。懐かしいでしょう。

「時の流れは永遠にさすらう旅人のようだ。船乗りや馬の御者は毎日が旅にある。
わたしが敬愛する昔の人たちも旅の途上で死んでいる。」という意味で、そのアト「自 分も何かに誘われるように旅にあこがれる。」というのです。

 わたしたちが芭蕉の漂泊に対して抱くあこがれは、仕事や家族などに縛られ、何や ら見えないものによって管理された現代人共通のの憧景でしょう。そこが俳句を作ら ない人たちの間にも芭蕉が人気のあるゆえんです。

 もっとも芭蕉のちょっとした気取りが気に入らないという人は自分自身をさらけ出 して大正時代を放浪した俳人にして禅僧の種田山頭火の方を好むのですが。

 先に紹介した文章を仮にご存じなくても
・・・
古池や蛙飛び込む水のをと

を知らない人はまずいないはず。

 俳句と聞けば誰の頭にもこの蛙の句が浮かびます。海外でも最も知られた俳句です。
蛙が池に飛び込んだ時の水音がしずかに広がり消滅していく情景が禅的静寂感につな がり、これこそまさに日本文化の象徴だという解釈が一般的です。

 その松尾芭蕉没後、今年で300年になります。それを記念してさまざまな研究誌や 写真グラフ誌、俳句専門誌などで特集が組まれています。
 芭蕉は1644年(正保元年)伊賀上野の下級武士の子として生まれました。徳川家光 の時代です。19歳の時、俳諧の縁で藩主藤堂家の流れをくむ藤堂良忠(よしただ)に 仕えたと言われています。

 34歳で宗匠として立ち、39歳で芭蕉と称しました。それ以前は「宗房」「桃青」な どと号していたのです。
 43歳のときに有名な「古池や」の句を作り、46歳で冒頭の文で始まる「おくのほそ 道(奥羽・北陸旅行)」に弟子の曽良と旅立ちました。

 当時はまだ俳句と言わず俳諧と称しました。俳諧は和歌の雅な上品さに対し滑稽を 本分とした庶民の文芸なのです。  作者は忘れましたが有名な俳諧に
・・・
手をつきて歌申し上ぐ蛙かな

というのがあります。蛙が座ってゲロゲロ鳴いている格好を、手をついてかしこまっ て歌を申し上げているようだと見立てたのです。先の蛙の句と比較してみると品格の 違いが分かりますね。

枯枝に烏のとまりたるや秋の暮   芭蕉

 これは芭蕉が36歳の時の作品。この頃から芭蕉流(蕉風と呼ぶ)の萌芽が感じられ るとされています。和歌の伝統には烏など詠むことはまずなかったでしょう。こうい う反骨こそが俳諧の精神でした。

 この句を芭蕉は後になって次のようになおします。
・・
かれ朶に烏のとまりけり秋の暮

 前の句の「とまりたるや」と後の句の「とまりけり」の違いがお解りでしょうか。

 「とまりたるや」には和歌を意識したおちょくりの気持ちが感じられます。秋の暮 れの枯れた枝というわびた余韻のある情景に嫌われものの烏がとまっているぞという 一種皮肉の混じった捕らえ方です。ところが後の「とまりけり」の句にはそういう思 い入れはなく、烏の姿に人生の悲哀のような一種の諦観を味わうことができます。

 芭蕉の最晩年はあらゆる束縛から超越して、こだわりの無い自由無碍な行雲流水の 中にありました。彼は人生そのものを芸術化なし得た希有の存在として日本が世界に 誇れるアーティストなのです。

 芭蕉が最終的に到達した「軽み」の境地はその後の多くの俳人たちの垂涎の的、生 涯の目標となる世界です。
 人生を深化することは容易ではありません。ましてや今日のように生きることその ものが軽々しくなった時代には芭蕉の求めた「軽み」など伺い知ることはできないの かもしれません。

 芭蕉の時代の旅は死を意識した命懸けのものでしたし、道端に死体が転がっていて もなんら不思議ではない、それこそが日常の時代だったのです。
 現代のように死や病気を病院に封じ込め、老いや障害を施設に埋没させ、食べ物と いう「命の犠牲」を商品や製品としか見ることができなくなり、排泄物はコック一ひ ねりで視野から消し去るという「いのち」から遠く隔離された時代にあっては、古人 の直視した生死は見えにくくなっています。

 達観の境地にあったとされる芭蕉でさえも死の床にあって作った絶句(人生最後に 作った俳句)
・・
旅に病で夢は枯野をかけ廻る

という有名な句に対して「これも妄執」と言っています。これは何故でしょう
 意外なことに芭蕉の生涯は51年間でしかありません。今日の平均寿命からだけでな く、当時の人々から考えてもまだ志し半ばの年代と言って差し支えないでしょう。い まだ学生気分の抜けないわたしからみても後10年余りの猶予しかないのです。

 芭蕉は自分の人生の先にもっと深く清浄な世界を俳句を通して求めていたに違いあ りません。その索ね続ける意志、先を見たいという願望が「妄執」なのでしょう。

 1694年(元禄7年)、10月12日申の刻(午後4時)、松尾芭蕉は多くの弟子に見守ら れて永眠しました。「旅に病で」の句を作ったのはその4日前、10月8日のことでした。

 今日の多くの志しある俳人は案外この芭蕉の「妄執」によって俳句を作らされてい るのかもしれません。
参照 加藤楸邨著「芭蕉の山河」講談社学術文庫

〈今月の言葉〉

主人は好んで病気をして喜んでいるけど、死ぬのは大きらいである。死なない程度に おいて病気という一種のぜいたくがしていたいのである。
夏目漱石「我輩は猫である」より

 落語の小咄に
・・
  医者  「お姑さんの具合はどうかね。」
  嫁   「はい、あいかわらず病い上手の死に下手で困ります。」

というのがあります。
 皮肉のこもった見方ですが本質を衝いていて、思わずニヤリとさせられますね。
 漱石の「猫」が飼い主を見る目も同様に皮肉に満ちています。ただ小咄よりは愛情 が感じられるのは猫が飼い主に恩義を感じているのでしょうか。もっともこの「主人」 のモデルは漱石自身ですし、彼は生涯、胃潰瘍や精神の不安に苦しんだそうですから、 自分自身を皮肉と愛情ないまぜに相対化していたのでしょう。

 漱石のは「猫」が主人を観察するという設定があり、小咄は医者と嫁との会話になっ ていますからブラックユーモアとして容認されますが、福祉関係者が障害者や福祉受 給者を川柳の形でうっぷんばらしした機関紙は世間から非難されて廃刊に追い込まれ ました。
 弱者の相談にのるべき福祉委員の人達に対して世間の攻撃は大変厳しいものがあり ましたが、ちょっと擁護したい部分もあります。

 わたしも仕事の関係で時々市役所の福祉の窓口に行きます。あるとき先客があって 待つことになったのですが、その方は生活保護を受けておられるようでした。しかし その話のくどい繰り返し、身勝手な言い分は後ろで聞いていても辟易するほどでした。 それに応対している福祉委員(彼は福祉を志した訳でなく、市役所に就職したらたま
たま福祉課に配属された)は、穏やかに頷きながら丹念に繰り返し、一生懸命に説明 をしていました。後ろで聞いているこちらのほうがいらいらするほどのしつこさ、く どさにもかかわらず見事な対応、さすがは職業意識に徹していると感心したものでし た。

 またあるときは、年配の男性が「なぜ俺には金が下りない。」と言って突然目の前 にあった灰皿で福祉委員に殴り掛かりました。わたしや近くにいた人達で押さえたの ですが、この窓口は大変だなと思ったものです。

 本当に困っている人達は謙虚に遠慮がちに需給を受け、そうでない人が窓口で騒い でいる、そんな感じです。

 こういう人もいます。自転車で転んで膝を傷め、少し正坐がむつかしくなったおじ いさんが、掛かり付けの医師に障害認定を依頼したら医師は認定するほどのものでは ないと拒否しました。それでおじいさんは杖を買って、名古屋にある障害の事務所ま で出掛け、係の前で足を引きずって歩く演技をして、一番軽い障害の級をもらい、駅
のごみ箱に杖を捨てて意気揚々と帰って来たのです。他人にもそうするように勧めて いました。税金などに優遇されるというのです。

 もちろん、こんな人はごくごく少数です。でも弱者ゆえに一般より強く君臨してい る人が多いことも事実です。
 問題になった福祉委員たちはそんなごく例外的な人とも仕事は仕事として一生懸命 にこなし、職場から離れたら気持ちを切り替えて家族や恋人と接したいでしょう。
 そんな訳で、仕事のうっぷんをつい五七五の川柳の形を借りて晴らしたらそれが世 間に漏れて非難されたのです。しかし、福祉委員も人の子、嫌なときは気分転換をし たいものです。むしろああいう形でしか気分転換の方法を知らないのかと同情的にす らなります。

 これがきっかけで福祉委員とうまくいっていた受給者や障害者との関係までもがま ずくなることは得策ではありません。
 小咄のようにニヤリと、あるいは「猫」のように余裕をもって少し突き放して見る ことはできなかったかと福祉委員と受給者双方共に残念に思います。世間の「良識あ るマスコミ」をはじめ「善意の固まりの方たち」に対してもです。
 あんなものは川柳ではないと抗議した川柳関係者の言い分は文芸論から導かれた当 然のものでしょう。川柳はものごとの本質を一般論的に掬い上げるもので、特定の人 達を貶めるためにつかう形式ではないのですから。

 もっともこういうことを書くとこんなささいな個人紙でも発行中止に追い込まれる といけませんから、気の小さいわたしとしてはこれ以上は差し控えておきます。

 漱石に戻りましょう。
 夏目漱石は人生の苦楽善悪ともに余裕をもって味わうような行き方を指向した作家 です。彼の信条は「即天去私」、天にまかせて自分をすてるという東洋の哲人を理想 にしていたのです。
 もっともこれは漢文・英文共に秀れ、近代的自我を日本で最初に抱え込んで苦しん だ巨星といわれる漱石なればこそ自分を捨て去る道を求めたとも考えられましょう。

 彼のことを文学史では「余裕派」と呼びますが、日本で文豪と言えば彼を指すこと はどなたもご存じですね。

《今月の詩歌》

柏餅食ひたる妻がわが分を食はむとしつつにこにことしぬ   橋本徳寿

 この歌は新潮文庫「句歌歳時記 夏 山本健吉編著」から引いたものです。山本先 生の解説は「妻の無邪気な動作、表情の一瞬を捉えて、ユーモラスな一首。」と簡潔 です。そのとおりの分かりやすく親しみやすい歌。福祉委員も現実からこういう物事 を切り取って憂さ晴らしをすればよかったのですね。

つゆ雲の一角きれて西のかなたに茜さすはかなしみの記憶のごとし  上田三四二

 同じく前掲書から。
 梅雨の切れ間からの夕焼けをかなしみの記憶と感じるところに作者の人生が表現さ れています。しかしそれは読者の人生とオーバーラップしてくるはずです。それが名 句歌の鉄則です。そのために作者は言い尽くさず読者の参加できる余地を残さなけれ ばなりません。

《後記》

 冒頭の《游々雑感》で参考にさせていただいた「芭蕉の山河」の著者、加藤楸邨先 生が7月3日午前5時45分心不全でお亡くなりになりました。88歳でした。各紙が大き く取り上げていますから読まれたと思います。
・・・・
鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

火の奥に牡丹崩るるさまを見つ

のように単に自然の描写でなく、ものの存在と自己存在を極限まで見据えた作風で故 石田波郷・故中村草田男とともに「人間探究派」と呼ばれました。これで全員鬼籍に 入られました。

 清里の閑静な森の中に一年前、楸邨記念館が開館したばかりです。
 今日、真に俳人と呼べる数少ない偉大な方でした。ご冥福をお祈りします。
(游)

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