游氣風信 No29「からだと環境2 陰と陽」
游氣風信 No29「からだと環境2 陰と陽」
三島治療室便り'92,5,1
三島広志
E-mail h-mishima@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/yukijuku/
《游々雑感》
からだと環境
前号からの続き
私たちの“からだ”は、地球の一部を貰って出来ていて、しかも、いつも絶えることなく地球を呼吸し飲食しエネルギーに変換して“いのち”を保ち、いらなくなったものは処理を地球におまかせ。何から何まで地球の世話になりっぱなし。地球に巣くう寄生虫なんですね。
人間以外の生き物は環境に適応して、つまり環境に合わせて自分の方を変えてきました。キリンは高い木の葉を食べるために首を長く伸ばし、体が大きくなり過ぎて動けなくなった鯨は海に帰って泳ぎやすい魚の形になり、花は甘い香りを放って蜂や蝶を呼び込む術を開発しました。
ところが人間だけは自分をあまり変えず、環境の方を変えることで過ごしやすい状況を造ってきました。さらにそうして作り変えた快適環境に自分を順応することで今日まで人類の歴史を営んできたのです。
地中に眠るガソリンを燃やして冬を暖かくすることで弱い皮膚を作り、機械を工夫することで筋肉をやせ細らせたのはそのためです。
動物としてのヒトが、社会的・歴史的人間として文化を築いた時、火と言葉を手に入れた時から、人間の不自然な行き方は避けられないものとして今日まで営々と続いているのです。そしてその方面での恩恵は十分に認められるものです。
なぜなら希望や生きがいを持って「棲息」でなく「生活」し、「餌」でなく「食事」をいただき、「行動」でなく「仕事」を楽しみ、ゆとりの中で芸術に親しみ、人間らしい思索と創造をして生きて行けるのは素晴らしいことです。
それらは皆、社会的・歴史的人間として自然そのものから少しく距離を取ればこそ可能になったことです。
寒さが厳しい時、身を震わせてひたすら耐え忍ぶしかなかったら、何かを考えたり作ったりは出来ないでしょう。暖かくすればこそ、創造的な時間が持てます。
食べ物を作る術を手に入れることが出来たればこそ、年老いたり、病気をしたりして自分で食にありつけない人にも回すことが可能です。
これらは全て自然からいささか離れたからこそ人間が手に入れた能力なんです。
けれどもその方向で何処までも突っ走ることは正しいでしょうか。先程、人間は地球に巣くう寄生虫と言いました。でも今の人間の行き方を進めて行くと、これは寄生虫の域を越えて、むしろ地球を蝕むガン細胞になってしまいます。いやもう既になっているかも知れません。
寄生虫は自分の領分を知っています。増え過ぎると自分たちの宿り主が弱ってしまいますから、寄生虫の繁殖は押さえられ、適当にバランスがとられています。
しかし、ガン細胞は勝手に増えるだけ増え、やりたい放題やってしまいますから、ついには宿り主は衰弱し、死んでしまいます。あげくの果てには結局、ガン細胞自身も一緒に死んでしまうという結末を迎えます。
私たち人類の今の生き方はガン細胞の道をたどっているとしか言いようがありませんね。
最近よく「地球を守ろう」とか「地球に優しい生き方」とか言いますが、これらのスローガンほど人間の我が儘さ、身勝手さを表した言葉はありません。私は大嫌いです。
「地球を守ろう」と言うときの地球とは人間にとって都合の良い地球であり続けて欲しい、そのためだったら何かしましょうという気持ちが奥に読み取れます。
地球は私たちが守らなくても一向に平気です。平均気温を5度も上げれば、あるいは下げれば、また地震で大地をゆさゆさ揺るがせれば人類は木っ端微塵に滅んでしまいます。そう、人間がいなくなれば地球は救われるのです。
「地球を守ろう」とか「地球に優しい生き方」という言葉の持つ人間優先主義的な考え方をこそ捨てなければいけません。
地球から「空」と「陸」と「海」を貰った“からだ”とエネルギーを吸収して維持している“いのち”を本当にいつくしむなら、今一度、私たちは地球とどう付き合って行ったら良いか、どこまでが許されるのかを探していかねばならないでしょう。
さもないと人類は本当に地球のガン細胞、悪性新生物になってしまいます。それは自然のまま、生態系のまま食いつ食われつ調和して生きている他の生き物と違って、勝手気ままなことができる唯一の生物、「人間」の使命と言えます。
あの青く高く美しい大空を胸に宿し、緑の草原と黒く屹立する山々からなる陸を腹に秘め、懐かしい潮騒の響きを熱い血潮として全身にみなぎらせている私たち人類。
地球の一部、大自然の分かれとしての自分。
自分という字は自然の分かれと書きます。
その大いなる自然・地球と不即不離の存在としての生き方を、一人一人考えていくべきでしょう。
自分の足元が地球。
“いのち”と“からだ”の源である地球。
地球の一部分である自分。
大切にいとおしく生きて行きたいものです。
終わり
「陰」と「陽」
先日、ニュース番組で15歳の競争馬が余生を生まれ故郷の北海道で暮らすことになったというショートドキュメントを放映していました。
通常、引退した競争馬は一部の優れた馬を除いて食肉、主として動物園のライオンや虎の餌になるようです。好成績を残した馬は引退後、種馬として、優秀な子孫を残すことに奔走させられます。
このドキュメントのあらすじは、人間の年に置き換えると75歳に相当するまで走り続けることのできた希有の馬が、その健在ぶりゆえに最初の飼い主の知るところとなり、無事食肉となる運命を逃れて生まれ故郷の牧場で悠々たる老後を楽しむことができるようになったというものでした。
そのハッピーエンドを見て、スタジオの人達は感涙を流していました。それはとてもヒューマンな人間らしい当然の涙で、私もじんと来るものがありました。
しかし、感動しただけでは不十分ですね。それでは自分の心をドキュメント制作者に翻弄されただけに終わってしまいます。
なぜなら、大多数の人間のために都合のいいようにあしらわれ、利用されてきた競争馬の末路が、結局最後まで人間のご都合主義によって悲惨な結末を迎えている現実は何ら変わっていないからです。 この幸せな馬一頭の影に何万何千という悲しい馬の現実が存在します。走れなくなった馬はあいも変わらず毎日毎日ライオンの餌になっているということですから。
ここまで考えると、じゃあ牛や豚や鶏はどうだということになります。先の馬が楽しい余生を送ることができたことに感動した涙は、はなっから食べられるためだけに飼育された牛や豚や鶏にも向けられていいはずです。さらには魚や大根やニンジンにだって同様でしょう。
決してそういうものを食べるなと言っている訳ではありませんよ。ただ、感情的に一頭の馬だけに涙を流すという行為は美しいけれども、本当はそれだけでは不十分ではないか言うことです。
初めから食肉として育てられた牛と娯楽の対象として育てられた馬とでは違うと言えばそれまでですが、であれば娯楽の対象の馬を最終的に娯楽の対象足り得なくなったとき方向転換して食肉にするのは余計残酷な気がします。
こんなことを書いたのは競馬がどうとか、食の問題を云々とかではなく、私たちの認識が現実の一部を切り取って見せられたとき、それが全てだと勘違いしてしまうということです。このことは以前にもプールと海の水面が平面か曲面かという例で書きました。それは本来あらゆる水面は曲面なのに切り取られたプールの面を平らと勘違
いしてしまうということでした。
早い話、テレビや新聞などの報道はもとより、人の話、さらに自分のこの目でしっかり見て、この耳ではっきり聴いたことでさえ真実を把握して伝えてはいない、どんなに努力しても伝えることは不可能だということが言いたいのです。
漢方では「陰陽」というものの捕らえ方があります。物事はつい目立つ所だけで考えがちですが、目立つ部分は本来見えにくい部分に支えられて成り立っているというものです。
禅にも「担板漢」という言葉があります。これは板を担ぐ男という意味です。「漢」は痴漢、酔漢、好漢、悪漢、大食漢などと同じで男を表します。板を右肩に担ぐと左半分は見えても、右半分を見ることは見えませんね。その状態でどうこう言うのは笑止千万。自分は「担板漢」になっていないか常に肝に命じていろという譬えです。
先の陰陽に戻りますと、真紅の太陽が漆黒の闇に漂っている状態を想像して見てください。この時きらきら目立っている太陽が「陽」、それをしずかに支えている真っ暗な宇宙が「陰」ですね。
競争馬の件で説明しますと、北海道で余生を送ることになった馬は、ああ言った形で紹介されたときそれは現象の中から目立つように切り取られた部分ですから「陽」となります。
「陽」とは日が当たって目立っているということですから、それを見ただけであれこれ考えるのは物事の一面しか見ていない、表面しか見ていないということになります。
1頭が助かったということの影には(つまり「陰」には)99頭の馬が悲しい結末を迎えているということに気付かなくてはいけません。助かった馬と助かっていない大多数の馬の両方、即ち「陰陽」両方で全体ということになるのです。
物事の判断はこの陰陽両面を見て行かなければ本当に分かったとは言えないのです。
この陰陽は時間の流れも含んだ幾重にも重なった多重構造ですからそうは簡単に見ることはできません。
自分が気がついたものが「陽」であり、そのとき見ることができなかったことが全て「陰」になります。
私たちは普段空気の存在を意識しません。しかし命を支えるには空気の働きがとても重要です。空気は「陰」として私たちの命(この場合「陽」)を支え育んでいるのです。このように「陰」は極めて見つけにくい気付きにくい存在です。
野球の投手が3塁走者を気にするあまり1塁走者に盗塁されるのも同様です。どうしても局部に捕らわれがちな選手に代わって全体を見渡し適確な判断をするのが監督の仕事となります。監督は常に空間的変化と時間的変化の両方を総括的に見るための存在です。
犯罪の陰に女ありというのも「陰陽」にかかわる問題です。
器が大きい人というのは大きな視野で深く、時間空間を含む物事を多重的、多面的に総括して判断できる人のことです。それは「陰陽」両面をはっきりつかみ取ることができるから可能なのです。
「陰陽」は病気の診断や治療に応用すると漢方医学となり、社会の運営に活用すれば政治になります。また、ヒトを人間に作り上げる時応用すれば教育になるという具合に物事の根本理解や行為に有効なものとして古代中国で生み出された認識法です。
胃が痛いという患者さんがいたとして、胃だけをみるのは「陽」にこだわっている段階。内臓全般を診察して、他の臓器とのバランスの兼ね合いから胃の治療のために肝のツボを用いたりするが漢方の鍼や指圧のやり方です。
さらにはその人の家庭環境や職場の状況も考慮していかねばなりません。付き合い酒から肝臓を壊していてそこに帰宅時間の遅いことで夫婦のいざこざがあって胃にストレスがかかり過ぎているかも知れません。
また昨今のように経済状況が悪ければ残業が減って収入が減少し、そのことで奥さんに不平を言われて胃が痛くなったのかも知れません。
胃が痛いという「陽」の部分をさまざまな「陰」が覆っているのです。
古代中国では「医は国師」と称して、人間の病を体だけの問題として考えないで国の政(まつりごと)をも包括して捕らえていたようです。
などと、馬の話を見ていてとりとめもなく考えてしまいました。このとりとめのない部分が「陰」になります。
そしてそれに気付いた瞬間、その「陰」はさらに大きな「陰」に包まれることになります。
これ以上考えると脳みそが混乱して腐敗しそうですからここらで中止します。
《後記》
身体障害で一人暮らしのTさんが、50歳にして短歌を始められました。従姉妹の勧めで作り出したということで、幾つか私に見せて批評と手直しを求められました。
正直言って、始めたばかりの作品では短歌の体をなしておらずとても批評をするに値しないものでしたが、歌のモチーフがしっかりしていたので、ところどころ手直しして五七五七七の短歌の形にしたてあげました。
そのうちの数首を従姉妹の先生に見ていただいたら、とても高い評価を得られ、自信をつけた彼女は毎日一生懸命歌作りの励んでいます。
技術はまだまだですが、つらい人生を明るく生き抜いて来た人らしく着眼点にはなかなかおもしろいものがあり、治療に行っては短歌の添削をさせられています。
短歌を始めてからとても生き生きしたTさんを見ていると、やはり生きる励みになるものを持つことは素晴らしい、内面から力が沸いてくるものと感心しているこの頃です。
今の熱意からすれば、遠からず私ごとき門外漢の添削は無用になることでしょう。
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