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2011年1月25日 (火)

游氣風信 No22「災害 宮沢賢治は何故舞ったか3」

游氣風信 No22「災害 宮沢賢治は何故舞ったか3」

三島治療室便り'91,10,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

<游々雑感>

 爽やかな蒼天の下、子供達の歓声がはじける運動会たけなわの季節・・・とはならない今年の秋です。
 特に今秋は台風が多く、しかも例年なら主に西日本が被害に遭うのですが、何故か今年は東日本に回りこんで大きな災害を招いています。
 台風19号の猛威によって青森のリンゴが落下して、絨毯のように土を覆った果樹園の映像には自然相手の仕事の厳しさが象徴されていました。
 台風一過、翌日の空の美しさは、台風前の不安感を吹き飛ばして、一種潔い壮快感を与えてくれますが、今年の台風はそれすら運んでくれず、ただ自然の脅威のみを列島に刻み込んでいきました。
 次々やってきた台風によって行楽や運動会などの行事予定も大幅に狂い、改めて自然は人間にとってままならない存在であったことに気付かせてくれました。さらに一見栄華を誇る人類も自然の前には諦めざるを得ないことが多いことを教えられました。


 長崎の普賢岳の麓に住む人々にとっては、火山による火砕流だけでなく台風による大雨から土石流にも見舞われ、まことに困難な日々が続いていることでしょう。どっしりと落ち着いた人のことを「大地に根が生えたような人」、大いなる安らぎと糧を与えてくれる大地のことを「母なる大地」などと称して、大地は私達の生きる最後の拠り所です。
 そんな大地も自然の摂理のもと、火を吹いたり、ぐらぐら揺れたり大水を出したりします。それが長い広い目で見れば調和を維持するために必要だからです。
 しかしその時、人間はどんなに不安になることでしょう。大地に依存して居る人類は心の支え、拠り所がポキンと折れてしまいます。

 日本の歴史的建造物で、誰もが一度は訪れる広島県の安芸の宮島、厳島神社が台風19号で破壊されました。もともと海の中に造られていた厳島神社は最大58.9メートルの突風と高潮、高波で回廊の上80センチまで海水に浸かったそうです。
 重要文化財の能舞台と能楽屋は壊れ、国宝の左楽房は流出、檜皮葺きの屋根は剥がれ、灯籠も倒れたようです。
 神社が造られたのは1400年前の西暦593年、推古元年です。593年といえば「593(ごくみ=五組)でも一度に裁く聖徳太子」と年号を暗記した年、聖徳太子が摂政に即位した年です。
 その他四天王寺も建立されたように、絢爛たる仏教文化花開いた白鳳時代のことでした。その歴史的由緒ある建物が一気に壊れてしまったわけでまことに残念なことです。
 とりわけ厳島神社は平清盛の信仰を篤く受けたことで有名です。私も子供のころ何回か訪れたことがあります。しかし幼すぎて覚えてはいません。一度幼稚園の遠足か何かで行った時、写生をしていて鹿に画用紙を齧られて泣いたことをおぼろげに記憶しています。
 最後は中学生の時ですからよく覚えています。といってもかれこれ25年、実に四半世紀も前のことになります。
 靴の上からわらじを履いて、回廊から海をのぞき込むと、澄み切ったことで音に名高い瀬戸内海の潮水が回廊の柱を洗い、小魚が群れなして泳いでいました。潮の引いた所ではカニが右往左往してとても愉快でした。
 お土産はもちろん紅葉まんじゅうとシャモジ。

 再建には数年の年月と莫大な費用が掛かることでしょうが、立派に復興してもらいたいものです。多分世界に誇る、否、世界的な古式木造建造物でしょうから。


宮沢賢治は何故舞ったか
その3

 そもそも人は何故舞うのだろうか。形式化した舞踏ではなく、賢治の乱舞のように人が内面から揺すられ弾まされる舞いには、単に楽しむだけではなく自然への接近もしくは同化の願望が込められているという。多くの原始的な宗教には舞いが不可欠であるし、天照大神(アマテラスオオミカミ)が天の岩戸に隠れたとき、神々は光を求
めて天鈿女命(アメノウズメノミコト)に舞いを舞わせた有名な神話もある。

 人は舞うとき、日常を離れて非日常の世界に漂う。日常の中で形式化、形骸化した心身を何かの機会に日常の枠を破って内なるエネルギーを爆発させるのだ。群衆の乱舞はそれ自体が大きなエネルギー体となって集団を包み、自然と深く呼応する。ついには宇宙との一体感に浸り出す、すなわち神の世界と同化するのである。そういったハレの日(春、秋の祭りなど、あるいは秘められた行事。晴れ着、ハレてご婚礼はここに由来する。普段の日常をケの日と言う。)を我々はついこの前までもっていた。有名な江戸時代の「えじゃないか」や、熱狂的な一揆になだれ込んだりもした。為政者はそのエネルギーを恐れ、ガス抜きの場を設けた。岐阜の郡上踊りや四国の阿波踊りはその名残である。
 今日でも多くの宗教ではこれに近いハレの場を秘密裏にあるいは公然と持ち、信者に至福感と同時に束縛感を植え付けている。それを企業化した「人格改造」会社も近年乱立している。


 賢治のような型破りな個性が社会という鋳型の中で生存することは非常に困難であったろう。社会から見て賢治や山頭火のような自らが自らの個性を持て余すような天才は受け入れ難い。彼らが自ら崩壊に至らないためには芸術に拠るしか方法はないであろう。
 しかも賢治は己の生き方を宗教的善意と天性の他人に対する優しさで厳しく律した。
恵まれた出生をさえも社会的犯罪者として罪の意識で自責し続けた。さらに山頭火のように酒や女で紛らわすことは決してなかったのである(むろん山頭火はその愛すべき堕落性が逆に彼の魅力となっている)。

 そんな賢治の内向するエネルギーが突如として外に向かったとき「ホーホー」という奇声や奇妙な舞踊が生まれたのではないだろうか。そのきっかけを与えたのが月の光であり、実った麦の銀の波であったのだ。

 手足を自由に、身体の命ずるままに動かして奇声をあげるとき、その動きは岩手に伝わる鬼剣舞(おにけんばい)の手つきに似てくる。わたし自身が自動的活動を試みた経験ではそうなる。その動きはゆっくりなら盆踊りの手つき、腰を落とせばどじょう掬いにも似ている。バリ島の踊りやトルコの円舞にも共通するところがある。
 そしてその動きは一見何かに憑かれて支配されているトランス状態のようで、実は反対に理性や感性はより一層研ぎ澄まされているのである。

これらの自然との原初的交流に対して精神分析の立場から福島章氏は、

   女性を愛することよりも「自然」を愛し、風や雨雲と「結婚」することを考え、台地を「恋し」、青い山河を自分と<同一視>したのは、おそらく躁状態にあって自然の生命性に対する感受性が高揚していた時代の賢治であったろう。そのような状態において、彼は自然と合体、融合してなお自分を保つことができたにちがいない。
(「愛の幻想」中公新書)
と述べている。

 賢治はまさに自然と合体、融合していながらなお感性、理性はより明確に保たれていたに違いない。

 賢治が舞うとき、自然も舞い、自然が舞うとき、賢治が舞う。そのエネルギーは賢治の作品に触れた我々一人一人の内に通じ、我々も舞っているのだ。賢治の作品を読むときすでに我々は熊や鹿や山男たちと柏林の中で月光を浴びながら舞っている。
 この大きな自然や人との交流を、賢治は「すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから」と表現したのだろう。

 賢治の内から発せられた「ホーホー」という奇声に伝達の意志が加わったとき、詩や童話、短歌や絵に姿を変えたのである。自然に触発され賢治の内なる自然からほとばしりでた舞いこそ賢治文学の原点であるとひとまず考えられる。さらに考察を続けたい。
続く

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