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2011年1月25日 (火)

游氣風信 No21「世界陸上 賢治は何故舞ったか2」

游氣風信 No21「世界陸上 賢治は何故舞ったか2」

三島治療室便り'91,9,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

<游々雑感>

世界陸上
 世界陸上競技会で素晴らしい世界新記録が生まれました。男子100メートル実に9秒86。時に1991年8月25日午後7時5分。場所は東京国立競技場。走者は言わずと知れたカール・ルイス(30歳)。

 わたしの少年時代、東京オリンピックという日本が戦後のどん底から立ち上がって世界の檜舞台に立った晴れの舞台がありました。その時の100メートルの記録は確か10秒フラットだったような記憶があります(何分幼少のことですから記憶が曖昧です)

 そしてその記録が人類の限界ではないかなどという意見もありました。

 その後、男子100メートルの世界記録がどのような変遷を辿ったかは手元に詳細な資料がありませんから分かりませんが、10秒2から10秒1までになんと20年を要し、さらにバレルの9秒90までに35年の月日が費やされたと聞くと、まさに人類の肉体の限界点に至っていることは確実でしょう。

 ここ数年間、世界の注目を浴びたのは天才ランナー カール・ルイスと努力の人ベン・ジョンソンでした。しかしベン・ジョンソンはドーピングのためにソウルオリンピックであだ花を咲かせただけで一線から退かなければなりませんでした。
 ベン・ジョンソンはチャーリー・フランシスという卓越したコーチの元、努力に努力を重ね、スタート技術と筋力を鍛え、さらに極めて高度な心身一体のトレーニングを積んで、素材とすればアメリカだけでも50人並といわれた平凡なランナーでありながら世界のトップアスリートになったのです。
 ただその過程で禁じられていた筋肉増強剤を使用したため、せっかくの驚異的な世界新記録(9秒79?忘れました)も認められず、競技にも参加できず、信頼していたコーチとも別れ、とうとう元の平凡なランナーになってしまい、今回の世界陸上の標準記録が超えられず100メートルに参加すら出来ませんでした。
 しかし、誤解ないようにしていただきたいのは、筋力増強剤は単に筋肉がつくというだけで、それだけでは速く走れる訳ではありません。必死の練習があって初めて走る技術に結び付くものなのです。

 一方のカール・ルイスは世界一になる運命の下に生まれて来たのではないかと言われるほど天分に恵まれ、補強運動も練習後のマッサージもせずただ走る練習だけで楽々一位になれる天才でした。ベン・ジョンソンが彼を脅かすまで最早短距離選手トレーニングとして常識になっていた筋力トレーニングさえもやっていませんでした。
 しかし、彼も年には勝てず後輩のリロイ・バレルにはしばしば抜かされ、ついにはバレルが9秒90の世界新記録を出すことで、今度の世界陸上はバレル対時間などと書き立てられまでになり、彼なりに相当な危機感を煽られたことでしょう(最初はカール・ルイス対ベン・ジョンソンが目玉商品でしたが)。

 ところが、天才は天才。30歳のキャリアからくる精神統一のうまさで後半30メートルを力まずリラックスして走り切ることができ、残り10メートルというところで彼のところだけ時間がふっと気を抜いたのではないかと思うほどカールはスルスルッとゴールを通過してしまいました。あたかも他の選手達がメズーサに睨まれて時間ととも
に固着してしまったのではないかと感じられるほど。

 カール・ルイスは後輩のリロイ・バレルのお陰でこの記録が出せたと涙ながらに語っていました。これは本心でしょう。優れた素材は時に日常が退屈になるようで、刺激材が必要なのです。ジョンソンがその役目を終えたとき、バレルが現れ、カールを叱咤してくれたからこそ、退屈な天才は天からの叱責に目覚めたのでしょう。

 カールは金のために走ると陰口を叩く人もいますが、人類の限界を尋ねようとする人に然るべき生活の保障は当然でしょう。

 もっとも惜しむらくは東京国立競技場のトラックがドーピング・カーペットと呼ばれるほど記録が出しやすいものだったということです。むろんそれによってカールの価値が下がる訳ではなく、これからも短距離と幅跳び、棒高跳びなどは科学技術と手を取り合って記録を伸ばしていくことでしょう。
 惜しむのは往年の名ランナー、東京オリンピックのボブ・ヘイズ、メキシコのカルビン・スミス、全盛期のベン・ジョンソンそれに日本の飯島たちを一同に集めて、1回こっきりで1000万円もするという特別シューズを履いて走ってもらいたいという愚かしくもかなうはずのない夢を見たかったということです。

宮沢賢治は何故舞ったか
その2
 また、同書に次の話も書かれている。

   その晩は樹にも石にも黒い影をおとしているほど月の光は皓々としてかがやいていた。宮沢さんは、レコードの音律と月の光に誘われて全身躍動し、大空にむかって両手をはばたき躍動し、狂踊、乱舞、ただ踊り四肢高く舞うなど、寄宿舎の生徒がこの状を見て全く不思議であったと私に話してくれた。
   後日、宮沢さんに、宿直の晩のできごとについて糺すと、あれはあまりに月がよかったので、その光に誘われ無茶苦茶におどったのです。それは踊りの練習でもなく、ただ詩を作るときはどうしても身体にリズムの感覚が必要なので、身体にその訓練をつけるためであったと語った。

とある。


 賢治は自然の中にいて風や月や木霊などと共感する精神の持ち主だったので、自然に誘発されて舞い叫び出したのだろう。そして、次には内なる自然が目覚め、身体を激しく動かし、それは賢治の意識ではなく無意識の力で全身の筋肉が躍動したに違いない。そういった無意識的な運動を賢治自らが経験していることは、中学時代、父に宛てた手紙に書き残している。

 明治45年11月3日、賢治16歳の時、父政治郎に出した手紙に、佐々木電眼と称する人物から正坐法の指導を受けるとあり(校本宮沢賢治全集第13巻12ページ 筑摩書房)、翌日の葉書には「本日電眼氏の下に正坐仕り候ところ40分にして全身の筋肉の自動的活動を来し・・・」とある(同書13ページ)。
 賢治はその後、冬休みに同人物を自宅に呼び、家族が正坐法を試みている。妹トシは自動的活動が発現したが、父政治郎は笑っているだけでなんら効果はなかったと弟清六氏が記憶しているそうである(校本14巻452ページ)。

 ところが、この正坐法による自動的活動は今日でも色々流派が存在し、それぞれ信望者を集めている。故野口晴哉氏はこの運動を活元運動と名付け、無意識的な錐体外路系の運動と説明し、そのグループ「整体協会」には同氏亡き後も多くの病める人や芸術家や知識人が集まって盛んに活動している。 健康法としての人気もさることながら、その運動を行うと芸術的勘や学問的直感力が増すからである。
 坪井香譲氏のグループ「メビウス気流法の会」でも、独特の運動瞑想法があり、古来からの集団的解放(祭り)を現代に掘り起こし、整体協会と同じ理由で芸術家や武道家、東洋的治療に携わる人々が集まって来ている。

 賢治の行った正坐法はおそらく活元運動と同じで、全身をリラックスさせポカーンと正坐をしていると身体が勝手にユラユラと動いてくるものであろう。動きは人によって全く異なり、同じ人でも身体の状態で全く違った動きが出てくる。
 ひとしきり身体の動きに任せていると全身の歪みが矯正され、身体の感覚が甦り、滑らかな身体の動きと新鮮な感性が得られるのである。だからこそ、芸術家が多く集まっているのだ。しかしその動きを始めて見ると何かに憑かれているようでとても気味が悪い。

 理性の勝ちすぎる人はなかなかこの自然な動きが出てこない。導き方にもよるが、賢治が40分で自動運動を得たと言うのはかなり早いほうである。
 賢治のこの佐々木電眼の指導による正坐法の体験が、先に引用した月夜の乱舞、狂舞にどこかで係わっているような気がしてならない。しかも賢治は白藤氏に対して、あの踊りは詩作のリズム感覚を身体につける訓練だと言っている。これは今日の芸術家達が同種の運動を行うことと軌を一にしているではないか。
以下次号

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