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2011年1月25日 (火)

游氣風信 No20「青嶺 宮沢賢治は何故舞ったか1」

游氣風信 No20「青嶺 宮沢賢治は何故舞ったか1」

三島治療室便り'91,8,1

 

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<游々雑感>
七月の青嶺まぢかく
 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉    山口誓子

 7月の終わり、祖父母の法事を営むため実に11年ぶりに先祖の地を踏み締めました。

 山陽新幹線福山駅よりタクシーで中国山地の柔らかな山並みに分け入り、作家井伏鱒二の生家を横目にさらに上って行きますと、50分程で父祖の地に到着します。福山市内から見上げると山の頂上辺りに村落がかすかにたたずんでいるのが分かります。


 言い伝えによれば壇ノ浦の戦いで判官源義経に滅ぼされた平家の残党の集落、いわゆる落人部落ということだそうです。三島姓が多く、名字だけではどの家か見当がつかないので互いに屋号で呼びあっています。わたしの家は谷にあるので「谷屋」という屋号です。
 不思議な符合ですが岐阜の郡上八幡にも朝日将軍木曽義仲に討たれた平家の落人部落がありそこにも三島姓が多く見られます。
 大学時代、郡上八幡に住んでおられた先輩の友人のお宅に泊めていただいてスキーを楽しんだのですが、そのお宅も元平家で三島姓でした。その周辺には三島家が多く、平家の残党であることが分かると討たれるので、出事を偽るため今日でも床の間には木曽義仲の軸が掛けてあったのを覚えています。名古屋近辺の三島さんはほとんどが郡上八幡の出身だと思います。

 さて、11年ぶりの山村は、気持ち良く清々しい青い山並みで迎えてくれました。わたし自身も母もそこには住んだことが無く、亡父もしばらくいただけの土地なので、子供のころおじいちゃん・おばあちゃんを訪ねて夏休みの数日を過ごした記憶しかありませんから、その土地に詳しい訳でも無く、周りに知っている人とている訳でもありません。
 しかし縁側から遠く瀬戸内海の島々や、天気が良いと四国の山々までもが見渡せ、眼下には祖父が丹精込めて育てていたリンゴの樹が何十本か青い実をつけていたりしたことは懐かしく思い出されます。

 中学の春休み、少し離れた谷に行きましたらこちらの山から向こうの山まで、小さな谷川を挟んでびっしりと咲いている馬酔木の群落を発見しました。かなり深い谷で一人で入って行くにはちょっと勇気が必要な厳しい斜面でした。
 そこを地獄谷と言うんだと父がしたり顔で言っていましたが、落人伝説はともかくそれに関しては「ほんまかいナ」と眉に唾をつけて聞いていました。

 そんな田舎にも高度成長の影響は及んできます。そのうち日本鋼管がやってきて、夜も明々とライトが灯り、触れなんばかりの星空もうっすら汚れ、折角の山行きもいささか興ざめになってしまいました。


 冒頭の俳句は誓子の有名な作品。青嶺と溶鉱炉というミスマッチのもつ面白さです。
福山市は日本鋼管で急激に発展した町ですが、そこは青い山々に囲まれ、裾は海につながるというまさにこの句に馴染むところです。但しこの作品の本当の舞台はどこだかは知りません。
 作品が作られた時代は、工業の発展が人々に幸せをもたらすと単純に信じられていた時でしょうから、この作品も新鮮な感動で受け入れられたと思いますが、今日では果たしてどんなもんでしょう。むしろ反公害の俳句と読まれるかも知れませんね。

 法事を済ますと、その日は倉敷の近く、玉島市に泊まりました。海が見えましたが、瀬戸内海の臨海工業地帯ですから風景は殺伐としていました。それでも夕焼けに浮かぶコンビナートはそれなりの趣があり、誓子の句を思いながら旅と法事の疲れを癒すべく夕日の海に心を預けておりました。

 翌朝、すぐ裏にあった良寛さん縁りのお寺を散歩しました。雨のせいか塀にも岩にもカタツムリが一杯這い回っていました。
 そのあと倉敷に行きましたが、月曜日はほとんどが休館日で、お目当ての美術館には入れませんでした。

 駆け足の2日間でしたが、法事を除けば久しぶりにゆったりした気分になることができました。

 これからまだまだ残暑が厳しいことでしょう。クーラーやビールはほどほどに楽しい夏をお過ごしください。


宮沢賢治は何故舞ったか  その1
三島広志
 この文章は以前、岩手県盛岡市から発行されている「盛岡タイムス」に4回に渡って連載されたものに少し手を加えたものです。
宮沢賢治は最近地味ながらブームを呼んでいるらしく、賢治関係の出版の多さには目を見張ります。

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 宮沢賢治の聖人君子像は広く世間に喧伝されているが、その奇人ぶりは余り知られていない。しかし、農学校の生徒達や同僚達の聞き書き等から推察すると世の天才と同様、かなりの奇行の持ち主であったことは確かである。
 もし私が生前の賢治と知り合っていたなら、彼の本質を見抜くことができないまま、その奇行に眉をひそめて絶縁したであろう。多分に脚色された聖人君子的賢治像であったからこそ賢治に魅力を感じたのかもしれない。

 ところが、今回私が問題にしたいのは、賢治の奇行である。そしてその内でも自然との交流という形で表された奇行である。農学校の教師時代、教室に窓から出入りしたとか、土足で廊下を歩いた、あるいは女性に好意を持たれたとき、顔に炭を塗って嫌われようとしたなどというのはここでは取り上げない。

 農学校の同僚、故白藤慈秀氏の著書「こぼれ話宮沢賢治」に月夜の麦畑での賢治の奇行が書かれている。

麦の穂はよく実って、そよ吹く風に手招きするかのように柔らかにゆれている。
皓々たる月は大空にかかっている。
この風景を見た宮沢さんは、何を思い出したのか、突然両手を高くあげ、脱兎の勢いで麦畑の中に入っていった。手を左右にふり、手を高くまた低く、向こうに行ったと思うと、すぐ引き返してきた。こうしたことを数回くり返してもとの場所に戻って路上の草の上に腰をおろし、大きなため息をしていた。
私は奇異に思い「いま何をしたのですか」と聞きただすと、宮沢さんは平気で、「銀の波を泳いで来ました」といった。・・・
以下次号

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