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2011年1月23日 (日)

游氣風信 No15「篭の鳥」

游氣風信 No15「篭の鳥」

三島治療室便り'91,3,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

≪游々雑感≫

 目覚めると雨戸の透き間から冷たい朝の空気を貫いて「もしや雪では」と思わせる輝きが、映画館のライトのように差し込んでいました。寒さを振り切った私は大人の困惑と少年の期待の入り交じる複雑な心境で跳び起き、急いで外を見ました。すると表は予想どおり、柔らかな雪が20センチは積もっていました。

 朝日の当たる雪の中では雀たちが餌を求めてせわしくせわしく飛び回っていました。
日頃庭で見かけるのはヒヨドリ、鳩、雀、ムクドリ、今時は群れをなしてメジロ、運がいいとツグミやジョウビタキ、もうすぐウグイス。
数年前、ヒレンジャクの一群が家の前の電線にとまって北風に冠を揺らせていた様は、実に壮観でした。また出会いたいものと思っていますがまだチャンスはありません。

 鳩は巣作り用のワラや木切れをくわえてどこかに運んで行きます。一度隣のキンカンの木に巣をこしらえた時、辛抱強く雛の巣立ちを待ち伏せした猫にすぐ食べられてしまったことがあり、自然とは厳しいものと思ったものでした。

 雀はいつも、庭に出してあるセキセイインコの食い散らかした餌のおこぼれや、取り替えた古い餌を野鳥用にばら蒔いてあるのを啄みにやって来ます。メジロは近所のサザンカの垣根から我が家の椿の葉影にやって来てそのままどこかに飛び去っていきます。

 籠で飼われているセキセイインコはのんびりと餌を食べたり、時に砂を掘るごとくせっかくの餌を蹴散らかしたり、籠に敷かれた紙をガジガジ食いちぎったり、人が近寄るとその指を嘗めたりじゃれたり無防備なことこの上もありません。誠に平和そのものです。
 反対にふだん自由を謳歌している野鳥は、雪の日や雨の日は餌を求めて奔走することに命懸けです。花壇の脇に彼らに食べさせるために捨ててある餌に近寄るにさえ警戒心一杯で、カーテン越しの人影に気付くやいなやパッと飛び立ちます。その臆病さは見ていて哀れに思えるほどです。

 そういえば、私が高校生のころ弟と、二階の窓辺に雀のための白米を少しずつ撒いていたことがあります。そのうち毎日2~3合も撒くようになったらさすがに親が米の減り具合に不審がり、「雀よりもお前たちの餌で大変なんだ。」と叱られたことがありました。
 コツコツ窓枠を叩いて催促しているようでとても可愛く、隠れていると部屋の中まで入って来たりしました。その後は弟が給食のパンをかき集めてやっていましたが、布団や洗濯物に意外な弊害(糞害)が出始め、大学生になってから時間も無く、自然に雀との交流は断ち消えました。

 さて、あなたは先程の籠の鳥の不自由な平和を望むか、野鳥の厳しい自由を求めるかどちらでしょう。自由で平和が良いに決まっていますが現実はそう簡単ではありません。

 たばこの喫煙で考えてみましょう。
 愛煙家の自由を認めますと嫌煙家のきれいな空気を吸う自由は阻害され、嫌煙家の言い分を認めますと愛煙家の嗜好は妨げられます。そこで平和は乱されます。両者の自由と平和のためには部屋なり車両なりを分けなければなりませんし、現実にそう対処されていますが、その形式そのものがすでに不自由で非平和な状態です。言わば一種の冷戦状態です。
 アラブの大義と欧・米・日などの言い分、戦争状態をたばこの問題に置き換えるのは不謹慎ですが、質的にはたいした差は無いと思います。
 たばこの煙りは風が吹き飛ばしてくれますが、もうもうたる油井の煙りは一体誰が吹き飛ばしてくれるのでしょうか。

 アメリカ人は自由や平和は勝ち取るものだと考えます。そのために銃やピストルの保持を認めた州もあると聞きます。
 逆に日本人はそれらは何処かから誰かが、もしくは自然に与えられるものだと思っているようです。困っていると水戸黄門がやって来て「この印籠が目に入らぬか。」と勧善懲悪、「めでたし、めでたし」としてくれますが、世界には黄門さんはいないようです。ゴルビーも黄門にはなれませんでした。

 金満日本は籠の鳥のように島という籠の中での自由と平和を満喫しています。蹴散らかした餌に寄って来る野鳥をさげすむように・・・。だが今度の戦争は籠が決して絶対に安全でないことに気付かせてくれました。

 脚下照顧、足元をしっかり見据えないとなにやら不安定さを感じるこの頃です。せっかくの美しい雪景色を見ながら、風雅にはまだまだなれそうもありません。

<今月の詩歌>

雪 後
      北原白秋

安らかな雪の明りではないか、
ようも晴れた蒼穹(あをぞら)である。
ほう、なんといふかはいらしさだ、
あの白い綿帽子をいただいた一つ一つの墓石
 は。

樋の上の雀よ、あの隣の閑けさを御覧、
海近い丘のあの日だまりに、早や、
栗も梅も雪をふかぶかとかむったまま、
しかも耀く縁(へり)から雫してゐる。 
  ─以下略─

<後記>
 ともかく、多くの人が戦争停止を聞いて安堵の息をついたことでしょう。人類は一体何時になったら武力からさよならできるのでしょうか。結局、不可能なのでしょうか。
 「地球を守る生活の方法」などという本がたくさん出版されていますが、今のままなら人類滅亡こそ最高に地球を守ることになるなどと自嘲してしまいます。

 しかし、人類は白秋の詩のように雪明かりに安らかさを感じる共感性を内に有している限り、揺れながらも苦しみながらも歩み続けて行くでしょうね。


(游)

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