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2011年1月

2011年1月26日 (水)

游氣風信 No48「身体調整・心臓発作」

游氣風信 No48「身体調整・心臓発作」

三島治療室便り'93,12,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/ 


<游々雑感>

 今月は以前手技治療専門誌マニピュレーション(エンタープライズ社刊)に掲載さ れた文を紹介します。少し専門的過ぎて読みにくい部分があるかも知れませんが、() の中に解説をつけていきますから理解していただけると思います。

身体調整について

 一般に治療と表現する行為及び理念を、私自身は身体調整と呼んでいる。なぜなら 人のいのちの状態の過渡的一断面を見て(今の症状だけを見て)、それを病気とか異 常と決めつけることに一種のためらいがあるからである。
 したがってそれに対するアプローチを治療とか医療と呼ばず身体調整と呼んでいる。

 敬愛する福岡の鍼灸師 筑紫城治氏は「医術は人の病いをヒトの<病気>として 療術は人の病いを生活者の<病い>として見る所に、双方の欠点と長所がある。」と 分類、定義する。けだし卓見である。
 (ヒトとは生物分類上の人、生活者は社会・歴史の中に生きている人間のこと。< 病気>は病いを病気という悪い状態と断ずることで、<病い>は病的状態そのもの見 て、善悪を断じていない。)

 その言に沿えば、私の目指す行為および理念は療術である。しかし別の観点から身 体調整にこだわっている。

 それは<病い>と<非病い>の間にボーダーライン(境界線)があると仮定し、マ イナス状態をゼロラインに引き上げるのが<癒療>(つまり病気を治療すること。)、 ゼロラインからプラス状態に高めることを<鍛練>(もっと元気になるように努力す ること。)とし、それらを一貫するものを<養生>(漢方では治療と日ごろの養生法 に区別がない)とする。その<養生>に対するアプローチを<身体調整>とするので ある。そしてもとより仮定されたボーダーラインなどは無いのである。

 今その人が示している状態は、その人の生育の結果である(生まれてから今日まで の生き方が今の状態になっている。)。すなわちその人の人生史のヒトコマである。
そのヒトコマである今がいかなる苦しい状況であろうともまず懸命に生きている人生 の一瞬として「いとおしみ」、かつ冷静に「評価」したのち、然るべき対処をすべきで あろう。
 (誰も病気になろうとして生きてきたわけではないのだから、今の具合の悪い状態 を責めるべきではない、むしろ心からその人の状態に共感しようということ。)

 なぜなら今こそが未来の礎であり、苦しい今から素晴らしい未来に転換するには、相当の認識の転換を必要とするからである。
(今の状態は今までの生きてきた結果、同時に今の状態は将来の原因になる。だから 今をちゃんとしないと、良い将来が望めないだろうということ。これは生活や仕事だ けでなく物事に対する考え方も転換しないと難しい。)

 「苦は楽の種」という有名な諺は体験を経験に変える認識の産物に外ならないのだ。
その認識に癒しの術をもって働きかけるのが身体調整なのである。
 (体験はある状態をただ生きたということ、それに対し経験はそこから何かを学ん だということ。苦しいことのあとには必ず良いことがくる、あるいは「冬来たりなば 春遠からじ」「明日は明日の風が吹く」と明るい将来を信じて生きることが今の苦し みに立ち向かう心の支えになる。あるいは今の苦しみから何かを学びなさいよという 励まし。)

 医大、病医院、保健所、保険制度など厚生省の管轄による体制規定の、いわゆる正 当医療(お上が認めている医療。)ではなく、非正当的で辺縁的立場(お上が認めて いないか、認めたくない民間医療。)にある手技療術関係者はこの体制からある程度 の(法律限度内の、あるいは道徳的容認の)自由な立場にある。
 我々(指圧や鍼灸)はその立場をこそ逆に利用すべきである。

 苦しむ人、悩める人の生育史及び環境をも包括した<癒しのまなざし(中川米造) >を伝家の宝刀として、病める人の苦しみの深奥に共感すべき<手>と<術>を磨き上げて「生活者の病い」を癒す道を尋ねて行くべきであろう。

癒しとは

 身体調整はコミュニケーション(触れ合い)の一形態である。その根底にあるのは苦しみ悩み、疲れている人に対する理解と共感であり、その行為は思わず手が出て、 触れ、さすり(手当て)、励まし、慰め、じっと抱きしめる(介抱)などの行為で表現 される。

 そしてそれらの行為は一方通行ではなく、同時にこちらの手も触れられ、さすられ、 じっと抱かれ、両者間に種々の情報の交換がなされているのである。
 本来、医療とはそうした対等の関係であったはずだが、今日では医師対患者という 権威主義(どうしてもお医者さんには近寄り難い雰囲気がある。)とお客対サービス 業(反対に我々指圧や鍼灸師は歴史的に昔の温泉宿のあんまさんのイメージから抜け がたい。)という経済関係にとって替わられてしまった。
 (これはあくまでも図式的に捕らえたもので、必ずしも現実と同じではない。)

 しかし、一部で本能的な手当ての歴史が受け継がれ、危険を廃し、有効性を高めな がら発展してきた。
 それは施す側と施される側との関係性を考慮した身体観に立脚する、おおらかで風 通しの良い、解放された対等関係に基づく触れ合いの手作り医療である。

 私達の目指す手技療術とはこの生命観と歴史性の上に立つ、素晴らしいものである ことを認識し、こころして日々の施術に当たるべきものである。

症例 心臓発作

 この症例は既に10有余年前のものであり、私の極めて初学時代の事例であるが、いろいろ考えさせられた経験であるから紹介したい。
 ただし、細かな事実を現在明らかにするべき資料が無いため、事実に基づいたエッセイのような感覚で読んでいただきたい。
 (厳密な症例報告ではなく、気軽な読み物として読んで欲しいということ。)

 慢性関節リウマチで身体調整に通って来ていた婦人が、ある時妹もお願いしたいと言われたので、次回に予定していた。ところがみえたのは姉の方だけであった。
 姉によると「妹は昨夜急に心臓発作が起きてしまい、近所の医者に往診してもらっ た。今は症状は治まっているが、動けないでいるので往診してほしい。」とのことであ る。
 心臓ではちょっと手が出せないと断ったが、「診るだけでいいから」と懇願される ので仕方なく姉の運転する車で家まで乗せて行ってもらった。
 妹は布団に横たわっていたが思ったより元気そうであった。力は無いながらも笑顔 で挨拶をされた。
 「昨夜は初めての発作であり怖かったから医者を呼んだ。医者の話では心臓自体は悪くないので心配はないが、安心のため薬を置いていくという。明日にでも心電図を とってもらう予定。」
 以上の話から多分心臓神経症(心臓の病気ではなく、心臓を働かせている神経が一 時的に異常になった病気。通常生命には関わらない。)であろうと推定し、それなら ば手を出してもよかろうと決意した。

診察・診断

 当時、私は經絡指圧の増永静人に師事していたので、まず腹を診た。(經絡は体の 中を氣という一種の生命エネルギーがながれる道のこと。中国医療の基本的な生命観 に基づく。經絡指圧はその經絡を指圧することで氣の流れを良くしようとする。)

 心下部(みぞおち)にひどい痞硬(しこり)があり、何か小さな袋でも詰まってい るようであった。さらに右季肋部(わきばら)が堅く、季肋下(肋骨の下)には全く 指が入らない。そして少し熱くなっていた。

 下肢(脚)の内側、肝経(肝の經絡。今の医学の肝臓とは名前が似ているが全く違 う。行動を司る。ここを病むと怒りっぽくなると言う。)に強いつっぱりがあり、押 さえると痛いと声をあげた。
 その後方にある増永心経(心の經絡。心臓ではなくこころと考える。中国の經絡に は脚には心経はない。)は、表面的には力がなく芯に堅い平板なものを感じた。芯に 圧を加えるとじんじんした感じが足先まで響くと言う。

証(体の状態を一種のパターンで捕らえる。病名とは違う。)

 腹のみぞおちのつかえと右季肋部の固さ・熱感、足の經絡の状態と症状から「心虚 肝実の証」(經絡指圧独自の診方。古典的にはない。)とした。証とはさまざまな症 状の集合をパターンとしてとらえる方法であり、そのまま調整の方法も示す。
 漢方薬なら証即処方である。

調整

 左手四指を心下部(みぞおち)に軽く置き、右手拇指で左脚の増永心経に深く、静 かな沈みこむような持続圧を加えていたら、1分ほどして心下部のしこりがググッと いう音と共に緩んできた。
 すると妹はフウーとため息をつき、何か胸のつっかえが除れたようだと言った。さ らに持続しながらみぞおちを撫ぜ降ろして、しこりの完全な緩解を促して調整を終了 した。
 肝の反応部(右脇腹)も緩んだ。しかし熱は変化なし。
 左脚を選んだ理由は、左右の心経を深く指圧した時、左の方が右よりみぞおちの心 の部に響き(感覚的なもの。術者にも受け手にも分かります。)が伝わり易かったか らである。
 脚の肝経は先程のつっぱりは薄らぎ、押さえても痛くなくなり、心経の重苦しさも かなり消失した。
 妹は安心感からか見違えるほど晴れ晴れした顔で横たえていた体を起こし、床のう えに座って「とても楽になりました。」と礼を言った。

考察

 何故こんな10数年も前のカビの生えたような症例を持ち出したかというと、一つに は私としてうまくいき過ぎた例だからである。

 似たような症例で中年女性のケースもある。その女性は発作の最中に呼ばれた。行くと家族で手足を押さえ付けている。
 「そうしないと体が宙に浮いてしまう。」と本人が言うからと説明を受けた。

 急いでみぞおちに手を当て、その時は何も考えず速やかに脚三里(膝の下のツボ) を強く指圧した。これは氣を下げる効果があったらしく、数分するとゴボッと音がし て落ち着いてきた。

 その後医師にかかり、心臓神経症と診断されて、ニトログリセリンの錠剤を常備す るようになった。

 以上の2例はとても印象に残るほど鮮やかな効果をみた。むろん全てがこのように うまくいくはずがない。ともに見た目ほど症状は強くなく、心臓自体は全く異常がな かったからこうした効果があらわれた。しかし両者とも再発を繰り返し、常備薬が離 せない状態である。

 もう1つの理由は、証の解釈について学ぶところがあったからである。
 心虚(心の氣が乏しい状態。)の場合、精神的な問題を強く表現していることが多 い。増永静人(經絡指圧の創始者。指圧界を技術・理論両面と思想でリードした。京 都大学心理学卒業。)は「心経は心そのものだ。」と言っていた。

 増永静人の「切診の手引き」(医王会刊)によると心虚の症状は「気疲れ、ショッ ク。不安感、神経緊張がある。舌がつれ、あれる。気力がない。」、精神面として「精 神的な疲れ、ショック、神経緊張、ストレスなどでノイローゼ、神経症ぎみ、心配に よる食欲不振、気ぜわしく落ち着きがない。物忘れしやすい。不安があり心労ぎみ、
気が小さい。」、身体面として「上腹に力がない。鳩尾(みぞおち)が固くつかえる。
心臓症状、動悸がしやすい。腹壁の緊張が強い。舌がひきつれ、のどがつかえる。手 が固く汗ばんでいる。心身症、疲れやすい、狭心症、心筋梗塞、目尻がきれやすい。」
とある。

 症例の妹は、何か精神的な疲れが体の状態や顔付きから感じられて、診察・調整中 さりげなく聞こうとしたが、彼女は何も無いと言い張った。
 私もあえてしつこく聞くのは得策ではないと、その件には深入りせず、体の不安の 方に比重を移した。
 しかし、先に引用した増永静人の説にあるように、みぞおちが固かったり、ペコン とへこんでいたり、芯に凝りや袋のようなものがある時は心身に重大なショックがあ ることが多い。たとえば交通事故の後遺症などもそうである。

 調整後、彼女の姉が家まで送ってくれたが、その時、「実は妹の夫の勤務先が半年 前倒産して、妹はその間必死で働いて家計をやり繰りした。そして最近夫の再就職先 が決まったとたんにこうなった。先生の言うように彼女には相当な精神的重圧があっ たはずだ。」と教えてくれた。
 私はやはりと自分の想像が当たっていたことを喜ぶと共に、彼女がそのところまで 心を開いてくれなかったことについて考えざるをえなかった。

 証は調整の方針、いわば治療の世界に関係するのみでなく、その人をより深く理解 しようとするものである。人間理解の一手段なのである。
 証を診るとは調整法(治療法)の選定だけでなく、人間が人間に対してどこまで働 きかけることができるかという大きな問題を含んでいる。
 彼女は私に心の世界まで入られることを拒否した。私は拒絶されたのである。体の ことだけを何とかして欲しいというのが彼女の要求であり、その場での私と彼女との 関係における身体調整の限界を示すものなのだ。

 これは悲観しているのではない。人間と人間との関係性の中にしか身体調整は成立 しないことを示しているということだ。
 私自身がさらに成長をしていたら、また別の展開も考えられただろう。
 
 この経験から得たものは、もっともっと心の奥まで受け入れてもらえるような人間 になれということであった。
 この体験を彼女からの無言のエールとしてとらえたわけである。

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 ()を付けたことでかえって読みにくくなってしまったようですが、いかがでした か。今回改めて読み返してみますと専門誌向けと言うことでかなり気負って書いてい ます。

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游氣風信 No47「凶作の詩人(賢治と伸治)」

游氣風信 No47「凶作の詩人(賢治と伸治)」

三島治療室便り'93,11,1

 

三島広志

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《游々雑感》

凶作の詩人

 今年はまれに見る凶作の年となりました。中でも岩手・秋田・青森県あたりは想像 以上にひどいようです。そのありさまを作家の立松和平さん(盗作で味噌を付けまし たが)は宮沢賢治の詩から次の一節を引いて新聞に書いていました。

ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
「雨ニモマケズ」より

 大自然の前には人はまったく無力なものであり、ただ涙を流し、おろおろ歩き回る しかないのです。そのやり切れなさは全力を投じて農民のために尽力した賢治だけに なおさら重みがあります。

 宮沢賢治は明治29年、岩手県花巻の大地主・大商家の長男として生まれました。し たがって経済的にとても豊かな人生を送ることができたのです。家庭的にも厳父慈母 やかわいい妹弟たちに囲まれ、さらに秀才の誉れ高く地元での最高の学問を修め、生 涯独身ではありましたが恵まれた不自由のない生涯を過ごしました。
 しかし健康的には若くして結核を患い、その人生は37年という短いものでした。さ らに内省的で人に優しく、自己に厳しい性格は自らを求道者として律し、自分のこと だけでなく、もっと大きな人類普遍的な苦悩に直面し続けたのです。今日、彼の心の 振幅の結果が膨大なすぐれた童話や詩となって後世のわたしたちに遺されています。

 彼は亡くなる三日前に辞世の短歌二首を作りました。

方十里稗貫のみかも稲熟れてみ祭三日そらはれわたる 病のゆゑにもくちんいのちなりみのりに棄てばうれしからまし

 前の歌は十里四方、自分の住んでいる稗貫郡だけでなく稲がたわわに実って、それ を祝うように秋祭りの三日間空が晴れわたったことへの喜びと感謝を歌い、後の歌は 自分は病気でまもなく死んでいく命だが稔りの中に我が身を捨てるのはうれしいこと だというような意味です。後の歌の「みのり」は賢治が生涯を通して信仰した法華経 の御法(みのり)と稲の稔りとを掛けてあると言われています。

 商家の子として産まれた宮沢賢治はなぜこのような農作にかかわる歌を辞世とした のでしょう。多感な賢治は自らの生活が農民たちからの搾取のうえに成り立っている ことに深く心を痛め、農民のために少しでも役立とうと一途な後半生を送ったのでし た。その集大成がこれら2つの歌に表されているのです。

 盛岡高等農林を卒業した賢治は、しばらく研究生として地質調査に携わったあと、 花巻農学校の教師を丸4年勤め、以後宮沢家別宅で農耕自炊の生活に入りました。三 十歳の頃です。そこでは農村の青年達に農芸化学や文学を講じ、不用品のリサイクル 活動を実践し、また当時珍しい農民楽団を結成して若者達に喜びを提供すると同時に、 自分自身農民になりきろうと大変な努力をしたようです。
 その活動は本人の健康状態や戦争になだれ込んでいく時局によって長続きはしませ んでした。

 賢治は旧態依然の方法で苛酷な生活を強いられていた農民たちに何らかの協力をし たいと、さまざまな試みをしました。その一つが肥料設計でした。そのやり方は「そ れでは計算いたしましょう」という詩にいきいきと書かれています。長い詩ですから 引用するわけにはいきませんが、その詩からすると分かりやすく丁寧に農民と語りな
がら肥料を設計しているのがうかがえます。
 田んぼの場所や広さ、土地の乾湿、高低、日当たり、生える雑草の種類、土の堅さ などから地質を把握し、籾(もみ)をどれだけ撒くか、どういう稲を撒くか、肥料を どれくらいかけるかを聞きながら稲の育成を考えていくのです。
 そしてそれらはすべて無料で行われました。

 しかし厳しい東北の冷害は人知を超えて襲ってきます。賢治はいつも測候所と連絡 を取りながら野に出て稲の状態に心を砕いたことでしょう。

その稲いまやみな穂を抽いて/花をも開くこの日ごろ/四日つづいた烈しい雨と/今 朝からのこの雷雨のために/あちこち倒れもしましたが/なほもし明日或は明后/日 をさへ見ればみな起きあがり/恐らく所期の結果も得ます/さうでなければ村々は/ 今年も暗い冬を再び迎へるのです/この雷と雨との音に/物を云ふことの甲斐なさに /わたくしは黙してたつばかり
「野の師父(作品第1020番)」より

 その結果がうまく行けば感謝もされましょうが、いかんともしがたい天候不順によ る凶作に対しては厳しい目で見られたようです。そんなときは実際に弁償したり謝罪 したりと大変辛かったに違いありません。

この半月の曇天と/今朝のはげしい雷雨のために/おれが肥料を設計し/責任あるみ んなの稲が/次から次へと倒れたのだ/稲が次々倒れたのだ/働くことの卑怯(ひきょ う)なときが/工場ばかりにあるのでない/(中略)/青ざめてこわばったたくさん の顔に/一人づつぶつかって/火のついたやうにはげまして行け/どんな手段を用ひ ても/弁償すると答へてあるけ
「作品第1088番」より

 賢治は農民たちの苦しい労働それ自体を芸術として高めたいと望んでいました。そ れにしても当時の農民の生活はあまりに苛酷でした。米を食べることなど夢のような 話です。ふだんは稗を食べていたといいます。戦争中米が配給になって皆たいそう喜 んだそうですから。

 さて今年のような凶作が賢治の時代にあったなら何十万人もの餓死者が出て、赤ん 坊は間引かれ、大勢の若い娘が花町に売られ、青年は兵隊になったことでしょう。
 今日では経済力によって海外から輸入することでなんとか手当できますけど。

 米作りは当時とは比較にならないくらい楽になっています。いろいろな問題を孕ん ではいますが今日の乏しい農村の労働力を補っているのは機械化と農薬、化学肥料の お陰です。少々の天候異常では問題ないはずです。それでは今年の凶作はどうしてこ んなにひどくなったのでしょう。賢治の詩に興味深い一節があります。

安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは/三十年に一度のやうな悪天候の来 たときは/藁(わら)だけとるといふ覚悟で大やましをかけて見ますか
「それでは計算いたしませう」より

 この詩から憶測して、バブル時代の成り金日本人は美味しいと言われる米ばかりを 追い求めて、寒さに弱い種類を寒い地方の田で無理に育成し続けていたのかもしれま せん。今年のように30年に一度の悪天候が来た結果、藁だけしか取れなかったのです から。
 自然をなめていたということでしょう。

 賢治の作品には随所に今日を予見しているような部分が見受けられます。とりわけ 人と自然との付き合い方においてそうなのです。これが現在でも広く読み継がれてい る理由のひとつですが、今年の凶作などはちょっと不気味です。

 ここまで書き上げましたら、くしくもNHKテレビのナイトジャーナルで「大凶作・ 農民をうたった2人の詩人・宮沢賢治と鈴木伸治」という特集を放映していました。

 鈴木伸治(本名稲夫)という詩人はわたしも知りませんでしたが宮沢賢治より16年 後の大正元年に岩手県の貧農の長男として生まれ16歳くらいから仲間を募って詩の文 集を発行していたようです。10歳で父が結核死、13歳のとき母親が弟や妹を連れて家 を出たという息を呑むほど厳しい境涯でした。

 彼は貧困や苛酷な労働などの生きる辛さを詩によって乗り越えようとしたのですが、 昭和9年の大凶作の前に完膚なまでに打ちのめされて詩から遠ざかります。賢治が没 した昭和8年は豊作で先に紹介したように収穫を感謝する短歌を辞世としたのですが、 その翌年はまれにみる凶作だったのです。

 現実の前にまったく無力だった詩に失望したのか鈴木伸治は筆をおきました。しか し生前まったく無名だった宮沢賢治の作品が世に紹介され、その生き方とあいまって 評価が高まるにつれ、鈴木伸治は再びペンを取り、賢治の影響にどっぷり浸った作品 を書き始め、賢治精神の継承者たらんと心掛け、ついにはその行き過ぎから賢治の模 倣と評されるような詩を作るようになってしまいました。「宮沢さんの宇宙の神秘に 迫りたい。」という彼の真摯な言葉が残っています。
 鈴木伸治はじつは以前は鈴木信という名前で詩を書いていたのですが、賢治の治を つけて伸治と改名するほど心酔したのだそうです。

 元来、鈴木伸治の詩の良さは現実のあえぎの中から渾身の力でうたい上げるもので した。それが賢治の詩に出会ってしまったためにその言語世界に吸収されてしまった のです。
 先にも述べたように賢治は豊かな何不自由ない生活が送れたにもかかわらず敢えて 苦難に飛び込んだものであって、極貧に生まれどん底を徘徊するほかなかった鈴木伸 治のような農民ではなかったのです。賢治は極めて感受性の強い人ではあったものの 農民からすれば傍観者であったたことは否めません。

 鈴木伸治は生活者としての詩人であり、宮沢賢治は求道者・芸術家としての詩人だっ たのです。

 賢治のきらめくような言語世界に毒された(テレビの中でそう表現していました) 鈴木伸治はそこで自らを見失ってしまったのでしょう。
 その後鈴木伸治はもとの自分を取り戻して、生活者としての詩を書き始めましたが 昭和15年、27歳という若さで父や宮沢賢治と同じ結核で亡くなりました。

 あの時代、苦難の中から何らかの手段によって希望の灯を求めた数多くの「鈴木伸 治」が全国各地にいたことを思うと胸が痛みます。そして今も日本の、世界のどこか に同じような人が一杯いることでしょう。
 賢治はそれを心底感じ取った人でした。「あらゆる生き物はみんなかあいそうなも のです。」こんな言葉が賢治の童話にあります。「あらゆる生き物のかあいそうさ」 に気付くことは生き物としての義務なのではないかと思うのです。

 先だっては衛星放送で6夜にわたって宮沢賢治の特集を組んでいました。今年は没 後60年、1996年には生誕100年がやってきます。出版界でも活況を帯びているようで す。生前まったくの無名詩人・童話作家が何ゆえに今日これほど注目され続けている のでしょう。
 以前には好きな作家は宮沢賢治だというと一様に「あの雨ニモマケズの成人君子が 好きなの。」とけげんな顔をされました。しかし今では彼の生き方を除外した上での 作品自体の読み込みも深くなされ、その文学的価値も大きく評価されるようになった のです。いわゆる偉人伝のみの人ではなく、一人の文学者としても確たる位置を占め るようになったのです。
 さらに現在、地球規模で環境に対する関心が高まっていますが、賢治の作品にはそ れがすでに先取りされていたのです。「地球を救え。」などという人間中心の地球観 ではなく、「あらゆる生き物」のために人はどう生きたらいいかという根源的な問題 意識があり、それが今日多くの読者を捕らえているのでしょう。
 その思想を支えているのが現実の彼の活動であり、言葉の魔力を十分発揮した彼の 作品なのです。

 「あらゆる生き物はかあいそうなものです。」
 つまるところあらゆる生き物は他の生き物を食わなければ生きていけないという避 けられないことを内包して生きざるをえないというかあいそうな存在なのです。ここ を出発点として生きるということを突き詰めていった。これが宮沢賢治の生涯だった ような気がします。

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游氣風信 No46「ふたたび虫愛づる 梅原猛 漱石」

游氣風信 No46「ふたたび虫愛づる 梅原猛 漱石」

三島治療室便り'93,10,1

 

三島広志

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《游々雑感》

ふたたび虫めづる

 奥本大三郎氏の本(虫の文学誌 NHKテレビ人間大学テキスト)によれば、古典 「堤中納言物語」の中に「虫めづる姫君」という一編があるそうです。みめ麗しいお 姫様が人の嫌う毛虫などを集めて親はあきれ、女官たちのひんしゅくをかっていると いう風変わりな物語です。

 この姫君のの給ふ事、「人々の花蝶やとめづるこそ、はかなくあやしけれ。人はま ことあり。本地をたづねたるこそ、心ばへをかしけれ」とて、よろづの蟲の、おそろ しげなるをとり集めて、これが成らむさまを見むとて、さまざまなる籠箱どもに入れ させ給ふ。中にも、「かはむしの心ふかきさましたることこそ心にくけれ」とて、明 暮は耳はさみをして、手のうらにそへふせてまぼり給ふ。

 わたしなりに意訳しましょう。
 この姫君は「みんなは花や蝶をきれいだとか美しいとか言って褒め称えているけど それはあやしいものよ。自分でよく見もしないで昔から言われているからきれいだと 思っているだけで、自分から花や蝶の本質に迫っているわけではないわ。人が言うか ら自分もそう思うといういいかげんなものなのよ。人には自分自身に対する誠実な心 があるはずでしょう。ものの本質を尋ねようという気持ちに誠実になってこそ本当の 興味というものなのよね。」と言って、たくさんの虫、とりわけ見た目の恐ろしげな 毛虫やイモムシなどを採集し、これらが成長して孵化するさま(変態)を観察しよう と考えて、さまざまな虫かごに入れさせ飼育しておられました。
 中でも「毛虫ちゃんたら、始めは毛むくじゃらのイモムシがサナギになってある日 美しい蛾の成虫になるなんて素晴らしい。その営みには世の真実が潜んでいるわ。そ う宇宙の神秘と言ってもいいはずよ。ああ、心から感動してしまう。」と言って、朝 から晩まで耳挟みで美しい長髪をたくしあげ、手のひらに毛虫を守るように這わせて
いとおしんでおられました。

 こんな具合になるのでしょうか。

 このお姫さま、お付きの女官たちにはけむたがられながら、そんなことは意に介せ ず男の子たちに虫を捕らせ、名を聞き、名が付いていないものは自分で新しい名を与 えて興じていたそうです。いまならさしずめ分類学の初歩とでも言えましょう。
 この物語の成立が11世紀ですから、鎌倉時代でしょうか。彼女がもし実在ししかも 男と生まれていたならあの封建時代でも自由に研究ができて、案外昆虫学の開祖となっ たかもしれません。アンリ・ファーブルよりずっと昔のことですから。
 しかも彼女の言うことはいちいち筋が通っていて、女官たちは反論ができず、父親 などはひそかに評価しているふうなのです。

 さて、蝶は人気があって蛾は嫌われものという図式はこの時代すでにあったようで す。しかし中国では美人のことを蛾眉といいます。蛾の触覚に似た眉は日本の三日月 眉のように美しい眉の象徴とされ、それが転じて美人を示すようになりました。
 またヨーロッパでは蝶と蛾の区別は日本ほど厳密ではないと何かで読んだことがあ ります。好悪の感覚には文化が大きく寄与している証拠でしょう。

 今池の治療室のあるマンションの階段などに時々奇妙な虫の死体が落ちています。
虫のような木の葉のような、木の葉に足が生えているような。これはアケビコノハと いう擬態の名手で、蛾の一種です。虫めづる姫君ならずとも「心にくけれ」と思わず 嘆息がでるほどの出来栄え、創造主の悪戯心としか思えません。

 訪問治療にうかがうNさん宅の庭に若緑の柔らかなニワウルシが生い茂っていまし た。秋口にその葉に20匹ばかりの大きなイモムシが発生したのです。ただのイモムシ ではなく薄緑色の全身ににょきにょきと突起が鎧のように突き出して見るからに気持 ち悪そうな奴です。虫めづる姫君なら狂喜乱舞といくところでしょうが、ご主人のN
氏は大の虫嫌い、殺虫剤で全滅させてしまいました。
 彼はそのとき怖くて見ることもできなかったと言われます。それも無理のないこと でしょう。このての虫は姫君の女官ならずとも好きになれない人が多いのです。それ にしても殺すのは残酷だと責める訳にもいきません。毎日食卓にのる野菜や果物だっ て同じようにして虫を駆除した揚げ句にわたしたちの口に入るのですから。

 話を聞いてわたしは庭に降り立ち、すっかり縮こまったイモムシをしっかり脳裏に とどめ、後で本屋にでかけて図鑑で調べました。その特徴的なイモムシは、多くの図 鑑に成虫の絵と並べて紹介してありました。シンジュサンというクスサンやヨナクニ サンなどの仲間の大きな蛾です。
 たしかクスサンは本土最大で羽根を広げると10センチほどになります。ゆらりと飛 ぶ様は貫録十分で、子供のとき見た記憶は鮮明です。つい最近も神社に駐車してある 車に止まっていました。
 ヨナクニサンは沖縄の与那国島に棲む世界でも最大級の蛾です。その貫録のあまり 間違って鉄砲で撃たれたとの伝説があるほどの大きさですから。

 クスサンは楠の葉を食べますが、シンジュサンはニワウルシ(別名シンジュ)の葉 を食べて成長するようです。だからNさん宅のニワウルシに大発生したのでしょう。

 わたしはどちらかと言えば虫めづる姫君に味方する方ですから、シンジュサンの幼 虫を大変惜しみました。とりわけ今日少なくなってしまっためずらしい蛾ですから成 虫までにしてやりたかったのです。おそらくは20匹の内で成虫まで育つのは二割いれ ばいいほうで、あとは殺虫しなくても鳥の餌になったと思うのです。

 しかしイモムシの話をするだけで顔が引きつり、手がぶるぶる震えるほど怖がって いるN氏の気持ちも分かり過ぎるほど分かるので、同情こそすれ、殺虫剤噴霧のこと を全く責める気にはならないのです。

 今のわたしたちが住んでいる快適な社会こそ、そうやって作られた結果なのですか ら。

〈気楽図書館〉
日本文化論
    梅原猛
      講談社学術文庫

 私は「方丈記」「徒然草」必ずしもつまらぬとはいいませんが、「徒然草」にして も「つれづれなるままに」でしょう。退屈なるにつれて、です。「方丈記」──無常 でしょう。退屈男と無常男。これは少なくとも一流の人物ではないと思います。
 吉田兼好にしても鴨長明にしてもそれぞれ面白い人物ですが、けっして歴史を動か すような人物ではありません。やはり第一級の文学者ではないと思います。第一級の 人物は退屈とか無常とかいう感情におぼれていないと思います。
(中略)
 鴨長明や吉田兼好ばかり教えていると、人間が小さくなってしまう。人生に真正面 から立ち向かわないで、斜に構えるような人間になってしまうのです。吉田兼好など、 人生を横目で眺め、そして女性が好きなくせに、女をくさしたりしています。

 梅原さんは学校で教える教科が英語と数学に偏っていることに危惧をいだき、日本 人としての根幹をなす思想をもっと教えるべきと意見を述べておられます。英語・数 学は明治維新以後の西洋文明を取り込み、[力]を蓄えるための学問の伝統だからで す。そして戦前の修身教育は富国強兵策によって歪にされたものであって、本来日本 人の精神の基底には聖徳太子以来の思想色濃い仏教(宗教色が薄められた)が流れて いると論を立てておられます。
 そして人生に立ち向かった仏教思想家の空海(雄渾雄大)・親鸞(罪業感の自覚と 救済の喜び)・日蓮(情熱家)・道元(きびしい禅哲学)などの文を学校で教えるべ きと勧めています。宗教としてでなく、日本独自の哲学として。
 反論もあるでしょうが、「つれづれ」ばかりだとニヒリストになるとはおもしろい 見解だと思います。

〈今月の言葉〉

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は 住みにくい。
夏目漱石「草枕」

 有名な草枕の冒頭です。
 「理詰めで物事を運ぼうとするとどうしても角突き合わせることになる、と言って 情の流れに乗って船を漕ぎ出せばとことん流されてしまう。流されまいと意地をはれ ばかえって自分の立場が窮屈になってしまう。とにかく人の世は住みにくいものだ。」

というような意味でしょう。
 このあと、人の世が住みにくいからといってよそへ行けばそこは「人でなし」の国 だからなお住みにくかろうと考えが発展していきます。
 誠に誠に人情の機微に敏感だった漱石らしい考察であり、人付き合いの妙が端的に 記されています。
 「兎角に人の世は住みにくい」と思い切ってしまうことが住みにくい世を生きる秘 訣なのかも知れませんが、それはあまりに日本的な思い切りと言えるでしょうね。

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游氣風信 No45「権利と責任 俳句の効用? 井伏鱒二」

游氣風信 No45「権利と責任 俳句の効用? 井伏鱒二」

三島治療室便り'93,9,1

 

三島広志

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<游々雑感>

権利と責任

 この夏長野県に行ったとき、所用で地元の病院にでかけました。病院の名前は佐久総合病院。千曲川に沿った小さな町の驚くほど大きな農協系の病院です。総合の名に 恥じず、歯科から脳外科・精神科まであらゆる専門科を網羅しています。設備も常に 時代の先端をいく病院ですが、初めて見た時は何ゆえ山間の町にこんな大規模の病院 が必要なのか、経営的に存在できるのか不思議でした。町の人全員が入院できるので はないかと思うほど大きいのですから(これはまあ大袈裟ですが)。

 一つの科に常に先生が2人から5人ほど詰めていて大勢の患者さんと親切に応対して います。また受付には英語・タイ語・ポルトガル語などのパンフレットが置いてあっ て急増している外国人にも医療サービスを心掛けているようです。

 創立者は現院長の若月俊一先生です。NHKテレビでもおなじみだと思いますが老 人医療と農村医療、とりわけ農村医療の先駆者として著書も多く書かれておられます。

 病院創立は戦争末期だそうです。戦後、医師や看護婦が各村を回って公衆衛生や予 防接種、栄養の知識などの重要性を村芝居の形式で啓蒙に励んだことは有名です。

 その病院の壁に病気の説明や医師・看護婦の画いた絵とならんで[患者さんの権利 と責任]という文が掲示してありました。読んでなるほどと感心しましたのでここに 無断で紹介します。

患者さんの権利と責任

1 適切な治療を受ける権利
2 人格を尊重される権利
3 プライバシーを保証される権利
4 医療上の情報の説明を受ける権利
5 関係法規や病院の諸規則を知る権利など

 これら人間としての倫理原則をお互いに大切にしなければならない。しかし患者さ んも病院から指示された療養については専心これを守ることを心掛けなければならな い。
 医師と協力して療養の効果をあげることこそが大切なのである。
1983年1月
佐久総合病院

 どうです。見事なものですね。
 ともすると最近は患者の権利ばかりに目が向かいがちですが、この文では患者さん も療養については医師の指示を守ること、医師と協力することというように権利に付 帯する義務を果たすことが必要と書いてあります。

 調整にみえた方々の中には嫌な経験をお持ちなのでしょうが、病院や医師を誹謗す る方がいます。しかし重度な病気や障害に対する医療は医師や医師を取り巻く医療職 にある人達(看護婦、薬剤師、理学療法士、臨床検査技師、放射線技師、心理療法士、 社会福祉士など)と患者およびその家族のチームワークによって初めて成立するもの です。一度医療に身を委ねたならお互いに全力を尽くして協力し合わねば治る病気も 治りません。
 ただし医師側に上記の1から5がまったく守って貰えないようなら医師を変えるべき でしょう。これは指圧や鍼灸の施術でも同じことです。

 社会福祉士という患者の側に立っていろいろと相談に乗ってくれる専門職が国家資 格なりました。鍼灸専門学校の同級で大きな病院に理療師として努めている友人も かなりの難関を乗り越えて見事にこれに合格しました。
 医療やそれにかかわる経済的問題、在宅ケアなどは彼らに相談すると親身になって くれます。大きい病院ならたいてい何人か勤務しているはずです。

 医師と患者との意志疎通を図ることをインフォームドコンセントと言いますがこれ によってともすれば秘密主義的になりがちな医療の内容を患者が知る権利が保障され ます。しかし同時に今までよりずっと患者に責任が覆いかぶさってくるということで もあります。何事も医者任せにしないで自分自身の知性と理性を総動員し、強い意志
と自覚をもって病気と向き合っていかなければならないということですから。

 テレビで人気司会者逸見政孝氏がガンの宣告を受けたから、仕事を休んで闘病に入 る、全力でガンと戦うという意志を表明しましたが、彼にガンを宣告した医師たちは 全力で治療に取り組むでしょうし病院のスタッフも協力を惜しまないでしょう。家族 も以前に増して支えあっていかなければなりません。逸見さんがあそこに至るまでに
そうとう厳しいインフォームドコンセントがなされたに違いありません。

 これからの医療は従来の「死なせない医療」から、人は必ず死ぬのだからより人間 らしく「尊厳をもって生をまっとうさせる医療」が求められています。

 そのよりよい成果を生む原動力の大半は患者側にあることは何より明白ですね。逸 見さんの緊迫した顔が示していたように決して甘くはないのが現実です。

俳句の効用?

底冷えやこれより小さくはなれぬ

 俳句は生活や仕事、自然などいろいろな場面に出会ったとき、写真を写すように好 きな場面や景色を選び出して写し取ることで、ともすると同じことの繰り返しになり がちな惰性的日常生活を一種の不思議な空間に作り替えることができます。
 それは五七五という一瞬の短い詩だから可能なのです。できあがった作品が自分の 思い以上に深みを持ったりしますがそれは短くて言葉足らずのために解釈がかえって 自由にできるからです。

逃げ水の奥より猫を掴み出す

 俳句を書き留めるということは時の流れに楔を打ち込んで、文字の上に安定した情 景を記録することです。なぜなら観じたもの(見て心に焼き付いたもの)・感じたこ と(心が揺り動かされたこと)は時間とともに薄らぎ喪失してしまいますが、俳句は 写真と同じように好きなときに引っ張り出して昔を懐かしむことができます。
 ですから人は俳句を作ることで精神的安心感とものを創作するという満足感に浸る ことができるのです。

秋風は湖水のなかに潜むらし

 反対に俳句には毎日の繰り返しの中で固定しがちな観念を自在に解放する作用があ ります。俳句作品は絵や写真と違って文字だけで示されていて具体的な像が描かれて いませんから、常に架空の現実を生み出し続ける力があるのです。読むたびに想像力 でいろいろな場面や情景が創り出せるからですね。
 その想像の世界では全く自由ですから日々生を新たにし、深々とした息吹を肺に躍 らせ、そこから心身の活性と環境との調和・生きる方向の発見といった喜びに満ち溢 れることも可能なのです。

 以上は俳句にこんな効用があればいいなという願望です。またそんな俳句を作るこ とができたら本望だなという希望でもあります。果たしてどこまで実現できるかは分 かりません。でも一度俳句に手を染めたからには切望し続けていこうと思っています。

 わたしが俳句にかかわって実に20年が過ぎようとしています。自分自身それに気付 いて大変驚きました。

桃の実を地球味はふごとく食ぶ

 以上の俳句は初公開の若いときの作品です。

〈今月の詩歌〉

コノサカヅキヲ受ケテクレ
ドウゾナミナミツガシテオクレ
ハナニアラシノタトヘモアルゾ
「サヨナラ」ダケガ人生ダ
于武陵(ウブリョウ)作  井伏鱒二訳

 今年の夏は二人の文学上の重鎮を失いました。俳句の加藤楸邨と作家井伏鱒二です。

 井伏鱒二は作家としてだけでなく詩人としても活躍していました。また漢詩を井伏 流に和訳して愛唱されました。特に有名なのが上記の詩の後半でしょう。人生は一期 一会、今の別れが永遠の別れとなるかもしれない、どうかわたしの汲む酒を飲んで欲 しいという意味でしょう。日本人の好きな無常を実に生き生きした語調で表現してい
ます。

 氏の訳はしばしば原文を凌駕しているのではないかと言われています。日本人にとっ て何とも言えぬ味わいと懐かしさが感じられるのです。
 わたしが少年時代愛読して止まなかったヒュー・ロフティング原作の「ドリトル先 生シリーズ全12巻」の人気も氏の訳に負うところが多いと信じています。

 氏は亡くなる数年前、初期の代表作「山椒魚」の結末をすっかり変えてしまわれま した。なみなみならぬ創作意欲の証明でしょうが長年の愛読者をあわてさせました。

 わたしの先祖代々の地は広島県福山市(旧深安郡賀茂町)の山の中ですが、そこに 行く途中大きな旧家を見かけました。それが井伏鱒二の生家です。とりわけ懐かしさ を感じるのはそのせいかもしれません。

 以上参考は大岡信著「続折々のうた」(岩波新書)を参考にしました。

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游氣風信 No44「古書店 柳宗悦」

游氣風信 No44「古書店 柳宗悦」

三島治療室便り'93,8,1

 

三島広志

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<游々雑感>

古書店

 最近なかなか行けないのですが、わたしは古本屋が大好きです。
 薄暗い店内にカビとホコリの入り混じった湿っぽい匂いが立ち込め、帳場には鼻眼 鏡をかけたおやじが新聞を読みながら時々積み上げられたカウンターの隙間からぐるっ と店内を上目使いに見渡します。

 客はうしろめたいことをしているかのごとくうつむきがちに本を立ち読みしながら、 何か堀り出し物はないかと物色するのです。物色と言っても古書マニアのように売値 の高い希覯書を探しているのではありません。読みたくても新刊書では高くて手が出 ない本だとか、すでに絶版になっている本などを探しているのです。あるいは探すと
いう行為自体を楽しんでいる場合もあります。

 古書には深い思い出があります。それは宮沢賢治が自費出版した2冊の復刻版を苦 労して買い求めたことです。

 宮沢賢治が大正時代に自費出版した詩集「春と修羅」や童話集「注文の多い料理店」 は現在1冊200万円もの値がついているといううわさです。希少価値ゆえの投機的な側 面もあるようですが、賢治ファンは別の意味で「春と修羅」や「注文の多い料理店」 を入手したいのです。
 理由は、それらの本の紙の質から表紙の材質、挿絵、色まで賢治自らが細心の注意 を払い当時の技術で望める最高の本として発行していたからです。つまり今日の本の ように出版社が装丁をいっさい仕切るのではなく、すみずみまで賢治の心が配られて いたからこそ、何としてもその本を手にしたいのです。ですから本物が無理なら実物 に近い復刻版でもかまわないわけです。
 実際問題として古書店で本物を入手することは金銭的問題だけでなく困難でしょう。
誰も手放さないからです。

 ということで実物の入手は現実的に無理でしたが、わたしはこれらの本のレプリカ (本物そっくりに作られた偽物)を手に入れることができたのです。それは学生時代 のことですからすでに20年近い年月が過ぎ去りました。

 当時「ほるぷ」という出版社から日本の名著復刻版シリーズが出たのです。その中 に賢治の「春と修羅」「注文の多い料理店」はともに別々のシリーズとして発行され ました。わたしは先に述べた理由からレプリカでもそれらが欲しくてたまりませんで した。
 けれどもそれらは何十冊かのシリーズの一巻として出ましたから、その中の一冊だ けを入手することはできません。そのためには大枚をはたいて全部買わねばならない のです。両方を手に入れるためには2つのシリーズを買わなければなりなせんからそ れは貧乏学生としてはなっから無理な話でした。

 しかし希望は簡単に諦めるものではありません。東京に指圧の勉強にひと夏の間行っ たとき、わたしは日本一の神田の古書店街を数日かかって何百件も回りました。ここ なら絶対あるという信念があったのです。けれどもそれは徒労に終わりました。
 名著復刻版シリーズの本はばら売りで結構陳列してあるのに目当ての本はどこにも ないのです。当然でした。そのシリーズを買った人だってその中の数冊あるいは一冊 が目的だったのです。要らない本は売りに出して資金を少しでも回収しようとしたに 違いありません。そして宮沢賢治の本を目当てに買った人も多いに相違ないのです。
意外に思われるかもしれませんが、賢治の愛読者はけっこう熱烈な人が多いのです。
わたしでもお金さえ自由になるならそうしたに決まっているのですから。

 それでも東京に来る機会はそんなに無いのだからと諦めませんでした。神田がだめ なら高田馬場があるさと、古書店マップ(地図)を買って、時間のあるときはあちこ ちと足を延ばしました。そしてついに所要で訪れた荻窪の小さな書店の高い棚の上に 置かれている復刻版「春と修羅」を発見したのです。その本は復刻版と言えども貧乏
学生にはかなりの値段でした。

 さてもう一方の「注文の多い料理店」の方はひょんなことから入手できたのです。

 弟が地元一宮の古書店に行ったとき、家に電話をよこしました。なんとそこに復刻 版「注文の多い料理店」がある、しかしお金がないから店に購入予約をしてもいいか と言うのです。わたしはもちろん頼むと答え、すぐに財布を持って書店に向かいまし た。思い返せばこのときばかりは、我が人生に弟がいてよかったと心底思いました。

 正直言って、わたしはそれらの復刻版が欲しいという理由だけで大学を卒業したら ほるぷ出版に就職しようかと真剣に考えていたくらいなのです。

 名古屋の本山は学生街ですから、ご多分に漏れず何軒かの古本屋があります。10年 くらい前、その付近の一人暮らしのおばあさんのお宅へ定期的に往診治療に行ってい ましたが、その後ふらふらと古書を見に立ち寄るのが楽しみでした。

 ある日、大学生が不要になった学校のテキストを売りに来ていました。

 「どうして、上巻しかないんですか。」気難しそうな店のおばさんが聞いていまし た。
 「上巻だけでは買ってもらえないでしょうか。」
 「だめということはないけど、上巻を売り払って下巻だけ手元に置くなんておかし いでしょう。」
 「下巻は大学の講義ではやらなかったから買ってないんです。」
 「講義でやらなくても、わたしが学生のころは自分で下巻を買って読んだものです よ。もっとやる気を出さなきゃ。大学に行きたくても行けない人が一杯いるのに。し かもあなたは○○○大学でしょう。もっとしっかり勉強しなさいよ。国立大学だから 税金だって無駄になります。」
  学生の向学心の無さが信じられないという呆れと怒りの声が店中に響いていまし た。

 同じ店で風采芳しからぬ青年がときどき古ぼけた詩集や格安の美術書や俳句の本を 購入していました。店のおばさんは眼鏡の奥の大きなまなこをぎょろぎょろさせてそ の貧相な男に興味があってたまらないという顔をしていました。
 ある日ついに興味が高じて勘定のとき口を開きました。

 「あなたは良く買いに来るわね。学生さんにしては年がいっているし、昼間からふ らふらしているけど何をしているの。」
 「いや、まあ適当にやってます。」
 「家族は。」
 「妻と子供がいますが。」
 「まさか失業中なの。」
 「まあ、仕事はしてますが失業者と似たようなもんです。」
 「本が好きなようだけど、無理して買っているのではないでしょうね。家族に苦労 をかけてはだめよ。仕事は何。」
 「指圧や鍼。」
 おばさんは目をぱちくりさせて失業者風の青年を哀れみとも励ましともつかぬ顔で 見ながら、どうしても欲しい本があって支払えないときは分割にしてあげると言いま した。そしてその青年の買いたい本の値札よりほんの少し安くしてくれたのです。

 こういう気概のある店主が古本屋には多いので大好きです。
 先の風采の上がらぬ貧相な青年ですか。あれから10年たって今はこうしてワープロ が買えるまでになりました。

《今月の言葉》

実に多くの職人たちは、その名を留めずにこの世を去ってゆきます。しかし彼らが親 切に拵えた品物の中に、彼らがこの世に生きていた意味が宿ります。

柳宗悦「手仕事の日本」
ことばの饗宴 岩波文庫

 わたしたち身体調整に携わる者は自分たちを職人だと思っています。時々芸術家に なりたがるのですが、それでは患者さんの意向を無視した独りよがりの身体調整にな りがちです。
 おおげさな言い方ですが、いのちの主役は本人自身です。その人達の健康に何らか の形でかかわるわたしは職人であるとの本分を逸脱することはできません。身体調整 の主役は本人であり、実際に癒すのはその人の体に潜む治癒力に外ならないからです。
本人の意向を十分にたずね治癒力を生かす最良の方法を確認したうえで初めて身体調 整は成立するのです。
 しかし方法においては信念を曲げることはできませんし、技術の修得向上には心を 砕きます。これもまた職人の習性でしょう。

 普通の職人の仕事は柳宗悦の文章のように品物として後世に残りますが、わたした ちの仕事は無形ですからかかわりのあった方の心の中にのみ残ります。
 時に臨んで最善を尽くす心掛けが何より大切になりますが、これは技術や知識の修 得と同じように生涯をかけて磨いていくしかありません。

《後記》

 今は空前の恐竜ブーム。わたしも子供のころから図鑑を広げてこれが巨大なブロン トザウルス、サイのようなトリケラトプス、最強のティラノザウルス、鎧を身につけ たステゴザウルスなどと眺めて遥か遠い過去へ思いを飛ばしていました。 古代への ロマン、滅びへの追憶、巨大さへの憧れなどが恐竜が愛される理由でしょう。
 最近では恐竜は爬虫類のような変温動物ではなく鳥に近い恒温動物ではないかと言 われています。さらに子育てをしていた形跡もあるようです。恐竜は尽きせぬ興味を 与えてくれてわたしたちを飽きさせません。

 ところで親しくしている女性が長年の念願かなって懐妊しました。安全を期して入 院をしている、退屈でたまらないというので恐竜の本を持っていってあげました。し かしあとで考えると胎教にはいささかの疑問があるようです。どうか恐竜のような赤 ちゃんが生まれませんように。恐竜は女房一人で十分だとご主人の嘆きが聞こえてき そうです。

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2011年1月25日 (火)

游氣風信 No43「芭蕉没後三百年 漱石 悼加藤楸邨」

游氣風信 No43「芭蕉没後三百年 漱石 悼加藤楸邨」

三島治療室便り'93,7,1

 

三島広志

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《游々雑感》

芭蕉没後300年
・・・・ ・・・
 「月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。」

 ここに紹介した文は、学生時代、誰もが暗唱させられた覚えのある一説でしょう。
ご存じ俳聖と讃え称せられる松尾芭蕉の「おくのほそ道」の冒頭です。
 続けて

 「舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖 とす。古人も多く旅に死せるあり。」

となります。思い出しましたか。懐かしいでしょう。

「時の流れは永遠にさすらう旅人のようだ。船乗りや馬の御者は毎日が旅にある。
わたしが敬愛する昔の人たちも旅の途上で死んでいる。」という意味で、そのアト「自 分も何かに誘われるように旅にあこがれる。」というのです。

 わたしたちが芭蕉の漂泊に対して抱くあこがれは、仕事や家族などに縛られ、何や ら見えないものによって管理された現代人共通のの憧景でしょう。そこが俳句を作ら ない人たちの間にも芭蕉が人気のあるゆえんです。

 もっとも芭蕉のちょっとした気取りが気に入らないという人は自分自身をさらけ出 して大正時代を放浪した俳人にして禅僧の種田山頭火の方を好むのですが。

 先に紹介した文章を仮にご存じなくても
・・・
古池や蛙飛び込む水のをと

を知らない人はまずいないはず。

 俳句と聞けば誰の頭にもこの蛙の句が浮かびます。海外でも最も知られた俳句です。
蛙が池に飛び込んだ時の水音がしずかに広がり消滅していく情景が禅的静寂感につな がり、これこそまさに日本文化の象徴だという解釈が一般的です。

 その松尾芭蕉没後、今年で300年になります。それを記念してさまざまな研究誌や 写真グラフ誌、俳句専門誌などで特集が組まれています。
 芭蕉は1644年(正保元年)伊賀上野の下級武士の子として生まれました。徳川家光 の時代です。19歳の時、俳諧の縁で藩主藤堂家の流れをくむ藤堂良忠(よしただ)に 仕えたと言われています。

 34歳で宗匠として立ち、39歳で芭蕉と称しました。それ以前は「宗房」「桃青」な どと号していたのです。
 43歳のときに有名な「古池や」の句を作り、46歳で冒頭の文で始まる「おくのほそ 道(奥羽・北陸旅行)」に弟子の曽良と旅立ちました。

 当時はまだ俳句と言わず俳諧と称しました。俳諧は和歌の雅な上品さに対し滑稽を 本分とした庶民の文芸なのです。  作者は忘れましたが有名な俳諧に
・・・
手をつきて歌申し上ぐ蛙かな

というのがあります。蛙が座ってゲロゲロ鳴いている格好を、手をついてかしこまっ て歌を申し上げているようだと見立てたのです。先の蛙の句と比較してみると品格の 違いが分かりますね。

枯枝に烏のとまりたるや秋の暮   芭蕉

 これは芭蕉が36歳の時の作品。この頃から芭蕉流(蕉風と呼ぶ)の萌芽が感じられ るとされています。和歌の伝統には烏など詠むことはまずなかったでしょう。こうい う反骨こそが俳諧の精神でした。

 この句を芭蕉は後になって次のようになおします。
・・
かれ朶に烏のとまりけり秋の暮

 前の句の「とまりたるや」と後の句の「とまりけり」の違いがお解りでしょうか。

 「とまりたるや」には和歌を意識したおちょくりの気持ちが感じられます。秋の暮 れの枯れた枝というわびた余韻のある情景に嫌われものの烏がとまっているぞという 一種皮肉の混じった捕らえ方です。ところが後の「とまりけり」の句にはそういう思 い入れはなく、烏の姿に人生の悲哀のような一種の諦観を味わうことができます。

 芭蕉の最晩年はあらゆる束縛から超越して、こだわりの無い自由無碍な行雲流水の 中にありました。彼は人生そのものを芸術化なし得た希有の存在として日本が世界に 誇れるアーティストなのです。

 芭蕉が最終的に到達した「軽み」の境地はその後の多くの俳人たちの垂涎の的、生 涯の目標となる世界です。
 人生を深化することは容易ではありません。ましてや今日のように生きることその ものが軽々しくなった時代には芭蕉の求めた「軽み」など伺い知ることはできないの かもしれません。

 芭蕉の時代の旅は死を意識した命懸けのものでしたし、道端に死体が転がっていて もなんら不思議ではない、それこそが日常の時代だったのです。
 現代のように死や病気を病院に封じ込め、老いや障害を施設に埋没させ、食べ物と いう「命の犠牲」を商品や製品としか見ることができなくなり、排泄物はコック一ひ ねりで視野から消し去るという「いのち」から遠く隔離された時代にあっては、古人 の直視した生死は見えにくくなっています。

 達観の境地にあったとされる芭蕉でさえも死の床にあって作った絶句(人生最後に 作った俳句)
・・
旅に病で夢は枯野をかけ廻る

という有名な句に対して「これも妄執」と言っています。これは何故でしょう
 意外なことに芭蕉の生涯は51年間でしかありません。今日の平均寿命からだけでな く、当時の人々から考えてもまだ志し半ばの年代と言って差し支えないでしょう。い まだ学生気分の抜けないわたしからみても後10年余りの猶予しかないのです。

 芭蕉は自分の人生の先にもっと深く清浄な世界を俳句を通して求めていたに違いあ りません。その索ね続ける意志、先を見たいという願望が「妄執」なのでしょう。

 1694年(元禄7年)、10月12日申の刻(午後4時)、松尾芭蕉は多くの弟子に見守ら れて永眠しました。「旅に病で」の句を作ったのはその4日前、10月8日のことでした。

 今日の多くの志しある俳人は案外この芭蕉の「妄執」によって俳句を作らされてい るのかもしれません。
参照 加藤楸邨著「芭蕉の山河」講談社学術文庫

〈今月の言葉〉

主人は好んで病気をして喜んでいるけど、死ぬのは大きらいである。死なない程度に おいて病気という一種のぜいたくがしていたいのである。
夏目漱石「我輩は猫である」より

 落語の小咄に
・・
  医者  「お姑さんの具合はどうかね。」
  嫁   「はい、あいかわらず病い上手の死に下手で困ります。」

というのがあります。
 皮肉のこもった見方ですが本質を衝いていて、思わずニヤリとさせられますね。
 漱石の「猫」が飼い主を見る目も同様に皮肉に満ちています。ただ小咄よりは愛情 が感じられるのは猫が飼い主に恩義を感じているのでしょうか。もっともこの「主人」 のモデルは漱石自身ですし、彼は生涯、胃潰瘍や精神の不安に苦しんだそうですから、 自分自身を皮肉と愛情ないまぜに相対化していたのでしょう。

 漱石のは「猫」が主人を観察するという設定があり、小咄は医者と嫁との会話になっ ていますからブラックユーモアとして容認されますが、福祉関係者が障害者や福祉受 給者を川柳の形でうっぷんばらしした機関紙は世間から非難されて廃刊に追い込まれ ました。
 弱者の相談にのるべき福祉委員の人達に対して世間の攻撃は大変厳しいものがあり ましたが、ちょっと擁護したい部分もあります。

 わたしも仕事の関係で時々市役所の福祉の窓口に行きます。あるとき先客があって 待つことになったのですが、その方は生活保護を受けておられるようでした。しかし その話のくどい繰り返し、身勝手な言い分は後ろで聞いていても辟易するほどでした。 それに応対している福祉委員(彼は福祉を志した訳でなく、市役所に就職したらたま
たま福祉課に配属された)は、穏やかに頷きながら丹念に繰り返し、一生懸命に説明 をしていました。後ろで聞いているこちらのほうがいらいらするほどのしつこさ、く どさにもかかわらず見事な対応、さすがは職業意識に徹していると感心したものでし た。

 またあるときは、年配の男性が「なぜ俺には金が下りない。」と言って突然目の前 にあった灰皿で福祉委員に殴り掛かりました。わたしや近くにいた人達で押さえたの ですが、この窓口は大変だなと思ったものです。

 本当に困っている人達は謙虚に遠慮がちに需給を受け、そうでない人が窓口で騒い でいる、そんな感じです。

 こういう人もいます。自転車で転んで膝を傷め、少し正坐がむつかしくなったおじ いさんが、掛かり付けの医師に障害認定を依頼したら医師は認定するほどのものでは ないと拒否しました。それでおじいさんは杖を買って、名古屋にある障害の事務所ま で出掛け、係の前で足を引きずって歩く演技をして、一番軽い障害の級をもらい、駅
のごみ箱に杖を捨てて意気揚々と帰って来たのです。他人にもそうするように勧めて いました。税金などに優遇されるというのです。

 もちろん、こんな人はごくごく少数です。でも弱者ゆえに一般より強く君臨してい る人が多いことも事実です。
 問題になった福祉委員たちはそんなごく例外的な人とも仕事は仕事として一生懸命 にこなし、職場から離れたら気持ちを切り替えて家族や恋人と接したいでしょう。
 そんな訳で、仕事のうっぷんをつい五七五の川柳の形を借りて晴らしたらそれが世 間に漏れて非難されたのです。しかし、福祉委員も人の子、嫌なときは気分転換をし たいものです。むしろああいう形でしか気分転換の方法を知らないのかと同情的にす らなります。

 これがきっかけで福祉委員とうまくいっていた受給者や障害者との関係までもがま ずくなることは得策ではありません。
 小咄のようにニヤリと、あるいは「猫」のように余裕をもって少し突き放して見る ことはできなかったかと福祉委員と受給者双方共に残念に思います。世間の「良識あ るマスコミ」をはじめ「善意の固まりの方たち」に対してもです。
 あんなものは川柳ではないと抗議した川柳関係者の言い分は文芸論から導かれた当 然のものでしょう。川柳はものごとの本質を一般論的に掬い上げるもので、特定の人 達を貶めるためにつかう形式ではないのですから。

 もっともこういうことを書くとこんなささいな個人紙でも発行中止に追い込まれる といけませんから、気の小さいわたしとしてはこれ以上は差し控えておきます。

 漱石に戻りましょう。
 夏目漱石は人生の苦楽善悪ともに余裕をもって味わうような行き方を指向した作家 です。彼の信条は「即天去私」、天にまかせて自分をすてるという東洋の哲人を理想 にしていたのです。
 もっともこれは漢文・英文共に秀れ、近代的自我を日本で最初に抱え込んで苦しん だ巨星といわれる漱石なればこそ自分を捨て去る道を求めたとも考えられましょう。

 彼のことを文学史では「余裕派」と呼びますが、日本で文豪と言えば彼を指すこと はどなたもご存じですね。

《今月の詩歌》

柏餅食ひたる妻がわが分を食はむとしつつにこにことしぬ   橋本徳寿

 この歌は新潮文庫「句歌歳時記 夏 山本健吉編著」から引いたものです。山本先 生の解説は「妻の無邪気な動作、表情の一瞬を捉えて、ユーモラスな一首。」と簡潔 です。そのとおりの分かりやすく親しみやすい歌。福祉委員も現実からこういう物事 を切り取って憂さ晴らしをすればよかったのですね。

つゆ雲の一角きれて西のかなたに茜さすはかなしみの記憶のごとし  上田三四二

 同じく前掲書から。
 梅雨の切れ間からの夕焼けをかなしみの記憶と感じるところに作者の人生が表現さ れています。しかしそれは読者の人生とオーバーラップしてくるはずです。それが名 句歌の鉄則です。そのために作者は言い尽くさず読者の参加できる余地を残さなけれ ばなりません。

《後記》

 冒頭の《游々雑感》で参考にさせていただいた「芭蕉の山河」の著者、加藤楸邨先 生が7月3日午前5時45分心不全でお亡くなりになりました。88歳でした。各紙が大き く取り上げていますから読まれたと思います。
・・・・
鮟鱇の骨まで凍ててぶちきらる

火の奥に牡丹崩るるさまを見つ

のように単に自然の描写でなく、ものの存在と自己存在を極限まで見据えた作風で故 石田波郷・故中村草田男とともに「人間探究派」と呼ばれました。これで全員鬼籍に 入られました。

 清里の閑静な森の中に一年前、楸邨記念館が開館したばかりです。
 今日、真に俳人と呼べる数少ない偉大な方でした。ご冥福をお祈りします。
(游)

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游氣風信 No42「名前と不安 与謝野晶子 新茶」

游氣風信 No42「名前と不安 与謝野晶子 新茶」

三島治療室便り'93,6,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

 


《游々雑感》

名前と不安

 在宅ケアに訪問したお宅の庭に、青い小さな花をつけた雑草が、風に吹かれてとて も涼しげに揺れていました。この頃あちこちで群生しているのを見かけるのですが、 しかしそれは近年のことで子供の頃は見ていなかったような気がします。

 草の名をその家の人に聞いても「知らない。」と言うし、草花に詳しい患者さんも 「分からん。」、訪問のヘルパーさんも「さて何でしょう。」と答えるばかりです。

 家に帰って家人に花の特徴を言って尋ねても「現物を見ないことには何とも言えな い。」とは至極もっともなことです。

 その雑草は身の丈40センチくらい。太さ2ミリ程度の真っすぐ伸びる薄い緑色の茎 の先の方に淡い青紫の花が穂のように2、3個咲いて風に優雅にそよいでいます。茎に は葉がなく、蕾が点々と根までついていますが咲いているのは上のほうだけです。そ れが青い穂に見えるのです。根元にはマツバボタンのような葉っぱがあって花の形は イヌフグリに似ています。

 庭や道端、荒れ地や土手などにかなりたくさん咲き乱れています。しかし適当な間 隔をおいて生えていますからなかなか涼しげで見飽きることがありません。雑草です が庭に栽培してもいいほどです。

 誰も花の名前が分からないとなるとかえって気になって仕方がないものです。そこ で実際に花を根っこから持ち帰って家の図鑑で調べてみましたが載っていません。検 索図鑑にも植物図鑑にも園芸植物図鑑にもありません。それではと俳句大歳時記も見 てみましたが見当たりません。

 さあこうなるとますます気になるし、意地でも名前を調べずにおくものかと闘志を かき立てられます。
 翌日、書店で野草辞典や植物図鑑を片端から調べました。ところがどの本にも掲載 されていません。店員の目を気にしながらページをめくっているうちに5冊目くらい でやっと見つけることができました。

 その名はマツバウンランです。多分聞いたことがないと思います。それもそのはず 北米産の帰化植物とあります。図鑑には近畿より瀬戸内に自生とありますが近年こち らにも広がって来たのでしょう。
 イヌフグリと同じゴマノハグサ科ですから花の形が似ているのです。ウンランとい う黄色い花もありますが、これもゴマノハグサ科です。しかし花も枝や葉の形も全然 違います。葉はマツバボタンにそっくりですからマツバと命名されたのでしょう。

 なにはともあれこれで安心して眠ることができます。

 随分前、短歌の総合誌に有名歌人の日記的エッセイが連載されていました。小池光 という歌に評論に大活躍している歌人が担当の折りに、氏が名古屋の短歌全国大会に 行ったときのバスでの出来事について書いていました。


 それは小池氏が大会の司会をするために名古屋駅から会場に向かうバスに乗ってい
たら、すぐ前で自分が幹部を努めている結社誌をやおら取り出して読み出した正体不
明の青ジャンパーの青年がいてとても驚いたという内容です。


 その書かれた状況からすると正体不明の青ジャンパーは私に違いありません。なぜ なら私自身バスの中でこちらをじろじろ見ていた変なおじさんが壇上で岡井隆(中日 新聞の一面に毎朝「今朝の言葉」とかを連載している)とか塚本邦雄(同じく毎日新 聞の一面に以前連載していた。今も続いているかは知りません)などそうそうたる人 の間に入って司会をしているのでびっくりしたのですから。


 そして私は当時小池氏のいる短歌の会(短歌人)に所属していて、バスの中でその 雑誌を読んでいたのです。
 当時、小池光という名前は良く知っていたのですが、顔は知りませんでした。

 それで早速小池氏に手紙を書きましたら返事が来て

「青ジャンパーはあなたでしたか。何によらず謎が解けると安心します。」

とありました。
 このように花の名前だけに限らず謎が解けるとほっとするのです。

 謎を謎のままに置くことは意外に気力が消耗します。謎を究明する探求心というの は案外この不安からの脱却なのかも知れません。あるいは不明を明らかにするのは人 の本能なのでしょうかね。謎は危険を感じさせます。敵の存在に気付きながらどこに いるかはっきりしない不安と恐怖の状態なのです。

 昔から人は動物や植物に名をつけ、道具にふさわしい名称を与え、人の名も本名、 あだ名、呼び名と使い分けあていました。名をつけることで対象が把握できた気がし て安心するのです。体調がおもわしくないとき病名を知ったらなんとなく安心できま すし、受験校が決まったら合格したような気がするのはどなたも体験済みでしょう。

 また呼び方を変えることでで人やものとの関係がちょうどいい具合に成立するので す。初対面なら山田さん、親しくなれば山田君、さらに山ちゃんなどと変わることで、 お互いの親密度が図られるのですね。
 さらにものの名が分かると本質まで理解できたと勘違いします。それは本を買って しまったらもう既に読んでしまった気になるのと似ています。

 名が分かるとなんとなく腑に落ちるのです。逆にそのために腑に落ちやすい名を付 けるよう努力します。それは個人の力でなく人々の間で自然に取捨選択されて名が決 まり、その名も時代や社会の価値観の変遷と共に変わっていきます。
 女性の着物であるスカートはバドミントンではスコートと呼びます。針は釣りや縫 い物の道具ですが、治療に使うものは鍼となります。状況に応じて使い分けるのです ね。

 また自分の子供のように無名のものに名を付ける権利を得たらその子に親の期待を 込めて名付けるでしょう。今の流行は翔の字だそうです。お相撲さんにもよく見かけ ます。大きく羽ばたいて欲しいという願いです。それだけ今の時代が閉塞しているの かもしれません。

 こうして身の回りのものを明らかにして自分の安心を得ているのです。そうすると なんとなく身軽になります。。

 そのものの名を知ることで人と共通の場に立つことが可能になります。それによっ て社会性を得て、かつ民族共通の歴史に生きることにほっとするのではないでしょう か。もしそうでなければ伝達性を無視して庭先の花に自分勝手に名前を付けておけば よいはずです。自分だけの識別のためらなそれで十分なのですから。
 しかしそれでは共通の認識が持てません。社会や歴史からの拒絶感がより強まり、 孤独感にさいなまれる気がします。

 そんな訳で、今日もどこかで親子連れが野草図鑑や昆虫図鑑、魚類図鑑を携えて森 や山や河へ出掛けます。そこまでしなくても動物園や水族館で「ああ、こいつはこう いう名前だったのか。」と旧知の友に会ったような懐かしさを覚える、あるいは名を 知って急に親しみを覚えたりするのでしょう。

 その命名に先人の知恵や工夫やユーモアを読み取って感心するのです。
 そんな図鑑など興味がないという方も一度本屋の図鑑コーナーに行ってご覧なさい。
実にさまざまの図鑑が積んであるのに驚かれることでしょう。それだけ売れているの です。
 子供はとくに図鑑が好きです。背丈が伸びるに合わせて視野が広まり、周囲に関心 のアンテナが張り巡らされるのです。すると「どうして。なんで。」という口癖で親 を困らせる始めます。その探求欲を満たしてくれるのが図鑑であり親の知識なのです。

 子供はこうして名を覚えることで自分の立場が周囲に育まれていること、社会とい う共通の場に生きていることを学習していくのです。何もかもに名がついていること に感動するはずです。

 学ぶことは身近から謎のベールを剥がしていくこと、それを踏み台にさらに新たな 謎を発見していくことです。現今の教育がそうではなくて社会の規範に子供を鋳型の ように押し込むことに傾きがちなのは残念しごくです。

 子は学習を通して社会性を身につけ歴史に思いを寄せることでヒトから人間に成長 していくのですが、知識を覚えこまされるだけでは人間でありつづけることはできな いのです。
 初夏の日差しの中で穏やかに揺れているマツバウンランは、そんなことにはいっこ う関係なく、青い穂花をちらちらと輝かせています。

《今月の言葉》

創造は過去と現在とを材料としながら新しい未来を発明する能力です。
与謝野晶子

 さすがに明治という日本新時代の黎明期に活躍した女流歌人の言葉です。ここまで おおらかに自らの可能性を信頼できることは素晴らしいですね。まるで当時は日本の 思春期だったかのようです。
 今日こんなことを言うと「青臭い」と時代が無視してしまいかねません。しかしこれは時代を超えた希望の言葉です。
 老人になったらその分、過去をたくさんもっているのだから材料は若い人より豊富 なはずです。あとは発明しようという創造欲です。これは自分で燃えたぎらせるしか ないでしょう。でも、材料をたくさんもっているのは自信につながりますね。
 この言葉はこの先ずっと抱いていたいものです。

《後記》
 毎年この頃になると新茶を持って来てくださるご婦人がいます。今年もおいしい和 菓子とお茶を携えてみえました。早速身体調整の後、いただくことにしました。ふと、 去年の新茶がまだ残っていることに気がついたので「去年の新茶にしましょうか。そ れとも今日いただいたのにしましょうか。」とおたずねしたら、「去年のは新茶とは
言いません。」と美しい眉をきりりと吊り上げていつになく厳しい口調で答えられま した。その勢いについに一昨年の新茶も残っているとは口に出せなかったのでした。

 みなさん、新茶は早く飲みましょう。
(游)


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游氣風信 No41「バドミントン 昆虫という世界 林竹二」

游氣風信 No41「バドミントン 昆虫という世界 林竹二」

三島治療室便り'93,5,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

 


《游々雑感》

バドミントン

 「先生は何か運動やってりゃぁすきゃぁ。」さる年配のご婦人に尋ねられたことがありました。
 「週に一回バドミントンをやっているよ。」と答えますと、「ほりゃ、可愛いのやっ てりゃぁすなも。」と言われました。
 若く見られるのは結構なことですが、齢四十を目前にして「可愛い」と言われます と、ちょっとカチンときます。

 「あのね、テレビでめったにやらないから知らないだろうけども、バドミントンは 結構きつい運動なんですよ。」
 「ほうきゃぁ。庭で幼稚園の孫娘が時々やっとるけんど西洋の羽根つきのようなも んだぎゃぁ。(軽蔑のまなこで見つめられる)」


 「いや、この前のオリンピックから正式種目になったし、日本は以前世界一強かっ たんですよ。歌手の新沼ケンジの奥さんは元世界チャンピオンだったんだから。」
 「あんなものがなも。(お前ごときの言うことを簡単に信じるほど楽な人生を送っ ちゃおらんという疑いのまなこ)」


 「球は速いし、一発一発全力で打つし、人のいないところをねらって落とされるか ら走り回らなきゃならないから大変なんだよ。」
 「ほうかなも。(まだまだ疑いのまなこ)」


 「いいですか。インドネシアでは国技になっていて、オリンピックで優勝した人は いっぺんに大金持ちになったんだから。一生遊んで暮らせるぐらいの。」
 この辺りになると半分泣きながらの説明です。

 これは実際にあった会話を大袈裟に脚色したものですが、多かれ少なかれバドミン トンは名前が有名なわりには実態が知られていないスポーツです。バルセロナオリン ピックの中継も全くと言っていいほどありませんでした。バレーやサッカーと違って 不人気な代表のスポーツなんでしょう。

 卓球と並んでネクラスポーツの双璧かもしれません。卓球をやる人にピンポンとい うと真っ赤な顔で「卓球です!」と訂正されます。温泉旅館で浴衣の酔漢がやってい るのとははっきりと差別化しておきたいわけです。
 バドミントンも公園の芝生で親子連れやアベックが白い羽根をポンポン打ち合って いるのとはもって非なることを明確にしておかなければなりません。沽券(こけん) にかかわるというやつです。

バドミントンの由来

 羽根を打ちあうゲームは世界中に自然発生的にあったようです。
 ボリビアのインディアンはトウモロコシの葉をつけたボールを手で打ち合っていま した。これをドイツで6人制のバレーボールのルールをもとに完成したのが「インディ アカ」です。近年主婦の間に広まっています。

日本には羽子板を用いた羽根つきがありましたし、中国にも似たものがあります。
起源は中国かも知れません。ヨーロッパにもあったようです。

 インドにはプーナというバドミントンの原型のようなゲームがありました。それを イギリス人が19世紀に本国に持ち帰り、ルールを作って今日のバドミントンの基礎を 作りました。
 英国グロスター州領主ポーフォート卿が世間に広めたので、その邸宅にちなんでバ ドミントンと呼ばれるようになったのです。

 1893年、英国バドミントン協会が設立され、1899年には早くも第一回全英選手権大 会が開催されました。
 その後イギリスの植民地に広がり特にマレーシア、インドネシアでは盛んに行われ 世界一を争う国になりました。

 日本には1935年(昭和10年)YMCAで紹介され、昭和21年に日本バドミントン協 会が設立、23年に全日本大会が開かれました。

 大きな大会としては男子のトマスカップがあります。1949年に第一回が行われ優勝 はマレーシア、2・3回もマレーシアです。4から11回まではインドネシア、12回が中国、 13回(1984)もインドネシアです。後は手元に資料がありません。
 女子の大会はユーバーカップです。1957年に第一回が開かれ、優勝はアメリカ、2・ 3回もアメリカ。4から6回が日本、7回がインドネシア、8・9と日本、10回(1984)が 中国です。
 他のスポーツと同様中国が国際大会に復帰はしてからは圧倒的に強く、今日では中 国、インドネシア、韓国が世界一の座を争っているようです。

他のスポーツとの比較

 スポーツの激しさを測るものさしにスポーツエネルギー代謝率というのがあります。
試合におけるエネルギーの消費を数量化したもので、大きい数字ほどきついといえま す。

 ラグビー         11.1 テニス男子単       10.9
 テニス女子単        8.6 投手 5.5
 サッカー 6.3 スキー 4.5

 バドミントン男子単 6.6 バドミントン女子単  6.0

 この表をみますと、ラグビーはともかくテニスがいかに体力を要するスポーツかお 解りいただけるでしょう。さらにバドミントンを見てください。野球の投手やサッカ ーよりも体力的には厳しいのです。


 もちろんこれだけでスポーツの厳しさを云々するわけにはいきません。サッカーは 脚を蹴られたり激しく転んだりしますし、投手にしてもチームプレーゆえの精神的苦 しさがあるかもしれません。しかしともかくバドミントンが体力的には相当の激しさ をもつものであることはご理解いただけたでしょう。
 ただし、これは一流プレーヤーのデータです。わたしはとてもシングルの試合はで きません。そこまでの技術も体力もありませんから。実際の代謝率はずっと低いもの になります。

 バドミントン 250km/時間  投手 150km/時間  テニス 240km/時間

 これらの数字はなんでしょう。
 答えはそれぞれのスポーツの超一流選手が出す最高の球の速さ(時速)です。どうです、驚いたでしょう。バドミントンが一番速いのです。野球の野茂選手の最高速度 をなんと100kmも上回っています。目にも止まらぬプロテニスプレーヤー、ボリス・ ベッカーのサーブよりまだすごいのです。
 あの羽根(シャトルと呼びます。スペースシャトルと同じ意味で、空中を行ったり 来たりするもののことです。)が時速250kmと新幹線なみの速さで飛ぶのです。

 しかし実際にそんな猛スピードでテニスコートの4分の1も無い狭いコートをシャト ルが飛び交ったらとても打てるはずがありません。ご安心ください。バドミントンは ボールではなく羽根のついたコルクを打ちますから、打ってすぐの初速は速くてもあっ と言う間に空気抵抗で減速しすぐに0kmになって落ちて来るのです。大体、コートの
一番後ろから思い切り高く強く打つと相手コートの後ろラインぎりぎりに落ちて来ま す。それだけ空気の抵抗を受けるのです。
 このスピード変化の大きさがバドミントンのおもしろさの秘密なのです。

用具

 体育館が不可欠です。外ではできません。風の影響でゲームにならないからです。
太陽の下でやらないところがネクラと呼ばれるゆえんです。
 あとはラケットとシャトル、コートとネット、体操服と専用シューズです。

 ラケットは重さが100g前後と大変軽いものです。値段は1万円から2万円。シャトル はガチョウの羽根が一般的で重さ5g。これはピンポン玉2個分ほどです。
 コートはシングルが5.18m×13.40m、ダブルスが6.10m×13.40m。ネットの高さは1.55 mと意外に低いので、甘い球を返すと強烈なスマッシュが飛んで来ます。

試合

 試合は1試合3ゲーム(セット)で、1ゲームは男子シングルで15点、女子シングル で11点、ダブルスは男子・女子・混合ともに15点。
 6人制バレーと同じようにサーブ権を持った方が勝つと得点になり、サーブ権がな い方が勝つとサーブ権が移動するだけで得点にはなりません。

 コートが狭いですから3・4歩動くことで大体打ち返すことができます。
 案外強いスマッシュより、人のいない空間をねらったり、タイミングをずらしたり した方が決まりますから、若いうちは全力で激しく打ち合い、年を取ったら緩い球で 隙間をつくという試合はこびでゲームを楽しむことができます。

《気楽図書館》

昆虫という世界(朝日文庫)
日高敏隆

 本来昆虫は四枚の翅をもって生まれてきたのだが、多くの昆虫はそれに迷惑を感じ ている。(中略)この線をもっと強く押したのが、ハエやアブのような双翅類だ。そ の名のとおり、彼らは後翅を翅としては退化させ、ほんとうに二枚の翅で飛んでいる。 そして、昆虫の中でも、もっとも昆虫らしく、速く、巧みに飛ぶのもこの双翅類だ。

 してみると、昆虫が四枚の翅を持ったのは、進化によくある偶然の成りゆきであっ て、けっして「すばらしい」適応でもなく、最高の発明でもなかったのだ。

[私見]

 進化は自然と個体との間で絶妙のバランスの結果、最良のものが選択されて引き継 がれていくとのんきに考えていまいたが、それは単なる幻想に過ぎないことが分かり、 がっかりしたような、さもありなんと安心したような複雑な気持ちです。
 そうなると今のところ進化の頂点にあるとされている人類も偶然的に成り行きで今 の生息形態を築き上げたということになりませんか。決して最良のものとして計算さ れて発展してきたのではないのです。まあ、当たり前といえば当たり前ですが。

 しかしそこから次のようなことも考えられます。
 人類は自然とのより良き関係の結果として存在しているわけではないのだから、今 後進むべき未来に対する意志を明確にしておかないと、今よりもっと自分の身体を昆 虫のように変質しながら環境に適応させなければならなくなる時がくるのではナいか ということです。
 なぜなら、今まで環境・自然をこちらの都合いいように変化させて(自然破壊、環 境破壊とも言います。)、身体をそれに順応という方法で退化させてきたのですから。

 すなわち、今日の人類の身体には環境に働きかけて作り上げられた不自然な環境に 順応してしまっている退化の兆しが見え隠れしているのではないかということです。

《今月の言葉》

林竹二先生

 学問をするということは、ながい間、疑問を疑問のままに持ち続ける力を養うこと から始めなければならない。

 重い障害を持っている子供は、独りで生きてゆくことはできない。それを支える役 が「介助」だが、この介助とななにか決まったものを教え込むことではなりたたない だろう。障害児が動こうとするときに、ちょっと手を出して支える。これが教育の原 点だ。

 一つの事を学ぶということは、その事において自分が新たに造られることだ。

 学ぶということは自己を新たにすること、すなわち、旧情旧我を誠実に自己の内に 滅ぼしつくす事業であった。

林竹二 天の仕事
日向康著 社会思想社刊より

[解説]

 林竹二先生は元宮城教育大学学長。
 明治39年生まれ、昭和60年没。亨年78歳。

 先生は教師が教師の威圧下に授業を行い、子供たちは学ぶ機会を与えられずにただ 憶え込まされている風潮を危惧し、生きた授業を模索して実際に全国の小学校から高 校まで授業をして回られました。
 全国の支持者から尊敬されていますが、いまだに教員の間では毀誉褒貶の渦中にあ ります。

 専門はソクラテスの研究者。日本で最初の公害問題提供者田中正造の精神の内面に するどく迫ったことでも有名です。(講談社現代新書「田中正造」)  「教えることと学ぶこと(小学館)」は灰谷健二郎氏との対話、是非一読をお勧め します。460円です。

《後記》

 ゴールデンウイーク、岐阜市在住のイギリス人はサイクリングであちこち見物しな がら白馬岳まで行くと言っていました。2メートル近い大男で最近顎髭をもじゃもじゃ に伸ばして山賊のようです。テントを持って野宿しながらだそうです。間違っても山 で襲われる心配はないでしょう。

 愛知県芸術センターでパウル・クレー展を見てきました。幾何学的な点描による作 品は難解ですが絵というより音楽的に何かを訴えてくる感じがしました。
 身体調整に来た青年がクレーのポスターを見て、はやりの3Dアート(目の焦点を 調整すると無造作に打たれた無数の点から明瞭な形が立体的に浮き出て来る)と勘違 いしていました。実に情けない。

(游)



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游氣風信 No40「古典落語 私の仕事」

游氣風信 No40「古典落語 私の仕事」

三島治療室便り'93,4,1

 

三島広志

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《游々雑感》

古典落語

 このところテレビで落語を見る機会がめっきり減ってしまいました。練り上げられ た玄人芸がいつのまにか大衆視聴者による視聴率という判断基準のもとに駆逐されて しまったのです。

 それはいつからでしょうか。ドタバタコメディーでもクレージーキャッツは芸がしっ かりしていました。彼らは一流と呼ばれたジャズバンドでした。ミュージシャンとし ての基礎が一見ふざけていたようなギャグの間合いにも活かされていたような気がし ます。
 ですから今日でもハナ肇や植木等、犬塚弘などそれぞれ俳優として活躍しています。

 クレージーのあと出て来たのはコント55号とドリフターズでした。

 コント55号は浅草の劇場で下積みを長く積んで鍛えられた歯切れの良さで売れまし た。欽ちゃんや二郎さんの芸も大衆向け玄人芸だったのです。

 ドリフターズはクレージーと同様にバンドからスタートしました。ビートルズの日 本公演の前座を務めたのですよ。それがコミックバンドになったのです。彼らの芸が 玄人と素人の境目にあったのではないでしょうか。しかし彼らの芸は一見素人風に見 せる玄人芸だったのです。
 毎週土曜日の夜、PTAからの下品だという抗議をものともせず子供達の間で圧倒 的に指示された「8時だよ。全員集合!」という番組がありました。その番組のため のリハーサルの厳しさは想像を絶するものがあったようです。だからこそあれだけ長 期(20年近く)にわたって人気を持続できたのです。

 では、素人芸と玄人芸の違いは何でしょう。
 コメディーに限って言うなら玄人芸は人を笑わせる芸であり、素人芸は人から笑わ れる芸(?)です。
 吟味されたネタと練り上げられた話芸で観衆を笑わせるのが芸、馬鹿なことをした り、ふざけたりして「アホやなぁ。」と笑われる(馬鹿にされる)のが素人芸なので す。

 もちろん藤山寛美のアホ役は立派に洗練された芸であってその頂点に立つものです。
決して本人がアホなわけではありません。

 なぜこんなことを書くかというと、以前ある落語家が嘆いていたのです。
 「うちの子はアホなことばかりしているから、落語家にしてやってください。」と いってお母さんが息子を連れて来たことがあるのだそうです。
 「お母さん、落語家は一生懸命まじめにアホを演じているのであって、本人がアホ ではないのですよ。」と丁重にお引き取りを願ったというのです。
 念のため書いて置きますが、この場合のアホとは親しみが込められた呼び方であっ て、決して差別している言葉ではありません。

 ドリフターズやコント55号のあとやって来たのが若手漫才ブームでした。勢いに乗っ て漫才コンビやコントグループが次々現れては消え、気付いたらテレビから芸が崩壊 していたのです。

 ブームの中心はツービート、オール阪神・巨人、今いくよ・くるよ、島田紳助・松 本竜介、ザ・ぼんち、B&B、星セント・ルイスなどなどです。その他大勢は忘れま した。

 今でも話芸のしっかりしていた阪神・巨人といくよ・くるよだけは活躍しています。
話芸はないけどブームの渦中から少し距離を置いて独自の路線を模索したセント・ル イス以外は解散しています。
 現在ツービートはビートたけしが、紳助・竜介は島田紳助がそれぞれ大活躍してい ますが、あとはタレントになったりレポーターをしたりしているようです。
 たけしや紳助は芸ではなく、彼らの社会を見る視点に斬新なところがあり、裏のコ メンテイターとしての存在意義があります。
 それが映画監督としても評価される理由でしょう。ある意味で彼らは一般人ができ ない自在な行き方をブラウン管を通じて見せてくれているところが人気の一端を担っ ているのではないでしょうか。

 漫才ブームの時はほとんどのグループが芸ではなくギャグだけに頼っていましたか らギャグに飽きられたときが解散につながったのです。ギャグとはたとえば「もみじ 饅頭!」とか「赤信号みんなで渡れば怖くない」とか「田園調布に家が建つ」など、 あるいは歌手の物まねやおかしなポーズや意味の無い言葉(古くはアジャパー)など
です。

 ギャグはテレビに出ないで各地方を回りながら演芸の世界に身を置いていた芸人に とって財産でした。どこへ行ってもその土地の人には初めての体験ですから受けたの です。それが一度テレビなどのマスコミに出てしまうと一即座に全国を席巻してしま いますから、もうどこに行ってもすでに飽きられているのです。たとえ人気絶頂のと きに出掛けても、本人が当地を訪れる前にギャグのほうがテレビを通して先回りして いますから、観衆は芸人よりギャグを見にきます。いつギャグを言うかだけが興味の 対象となってしまいますからそこに芸の入り込む余地がなくなるのです。
 騒がせ人の横山やすしが若手の漫才がギャグ頼りであることをブームの最中に警告 していましたが、こと芸に関しては先見性があったようです。

 何年も前に「分かるかなぁ、分かんねぇだろうなぁ。」というギャグで一世を風靡 した芸人がいました。確か松鶴家ちとせとかいう名前だったと思います。彼はその持 ちネタを武器に地味ながらも変わった漫談家として活躍していました。しかしひょん なことからそのネタが売れたためにテレビで引っ張りだこ。あっと言う間に飽きられ
て芸人としての寿命が尽きてしまいました。今でも地方回りをしていると思いますが、 それは残骸のようになった芸です。どこへいっても誰もがああ昔こんな芸人がいたな としか見てくれませんから。

 しかし芸があれば話は違ってきます。
 「地下鉄はどこから入れるんでしょうね。それを考えると夜も寝られない。」で人 気をはくした春日三球・照代は、それ以前からずっとそのネタでやっていました。売 れた後も相変わらず同じネタでした。しかし彼らにはそのネタを活かす話術があった
ので何回聞いても何か面白いという印象で、けっして飽きられませんでした。奥さん の照代さんが惜しくも亡くなってしまい残念なことです。

 若井はんじ・けんじという関西の兄弟漫才師がいました。軽妙な間合いで将来を嘱 望されていましたが、こちらも一方が早く亡くなってしまいました。
 「車にキーを付けとくと盗まれるから気ぃつけいや。」というキーのしゃれだけで 十分に聞かせてくれました。これもネタを支える話術があればこそです。

 漫才ブームが終わるころテレビで夢路いとし・喜味こいしの特集がありました。
 若手と違って彼らの漫才はスピードではなくテンポで聞かせるものです。おっとり としたやりとりの間がなんともおかしく、爆笑は少ないものの会場は常にくすくすと した笑いに包まれていたのです。
 話芸とはこういうものかと当時の若手漫才と比較して改めて感じいることができま した。

 さて、表題の落語にいかなければなりません。
 落語の多くは古典落語といって江戸から明治にかけて完成されたものです。したがっ て話の舞台や背景は今日とは大きなずれがあることはいなめなせん。主として吉原な どの廓(くるわ)が舞台の中心になっているのは歌舞伎と同じです。 廓以外では旅 話や床屋話、長屋の熊・八と大家さんのやりとり、あわてん坊や与太郎話、大店の旦 那と丁稚の話、和歌や歴史を題材にしたもの、人情話や怪談など多種済々です。

 そして落語は同じ話を何回聞かせても飽きさせないという話術が基本です。有名な 落語の内容は皆知っているのです。それでも話に引き付けさせるだけの技術が無いと 客は逃げてしまいます。そのために師匠の家に住み込んで掃除洗濯から修行を始めて、 全人格を落語家に育てていくのです。そのあたりは相撲や将棋の世界と同じです。

 現在のテレビを牛耳っているのは視聴率という怪物ですから、いきおいテレビ局は 受ける番組を作ります。とにかく視聴率を上げないとスポンサーが離れてお金が入ら
なくなります。内容は二の次ですから、はっきり言って視聴者に媚びた見るに堪えな い番組が圧倒的多数にならざるを得ないのです。ある意味で大衆を馬鹿にしていると しか思えないものが多すぎます。(といってもこのところあまりテレビを見ていませ んからはっきりしたことは言えませんが。)
 民放でも素晴らしいドキュメントを作っているのですが放映時間が日曜日の深夜1 時あたりですから、なかなか見ることはできません。

 ドリフターズから素人芸に人気が出始めた風潮はどんどんひどくなり、歌手は下手 でよし、ドラマは学芸会、お笑いはおふざけとなった今、寄席でこつこつ練り上げら れた話芸や時代を費やして洗練された古典話はお呼びでなくなったのです。聞く側に も聞くだけの知識が不足していることもその理由でしょう。昔の人にとっての日常も
今では知識や教養として聞く側に蓄えるよう要求されます。
 それでも落語の中には百人一首や歴史を主題にした話がいくつかあります。それは 江戸の人達の共通教養だったのでしょう。

 受けなければ芸ではないという風潮が続くと落語そのものが痩せ衰えてしまいます。
いずれは消えてしまうかも知れません。今でも落語家の中には単に和服を着たコメディ アンとしか言えない人もいます。これは東京の席亭もどんどん無くなるし、活躍の場 が減ってくればコメディアンになるのも生活のためには仕方の無いことでしょうが、 寂しいことでもあります。

 そのうち歌舞伎や文楽のように国が支えていくようになるのでしょうか。考えてみ てください。高座で愉快な話をしている人が年金生活をしているなんて。 芸人は一 般人の生活に付随する悩みを突き抜けてみせることで存在している人達です。深刻な 問題を笑い飛ばして生きる活力を与えてくれる人達です。たとえ年金をもらっていて
もかまいませんがそれが高座から匂ってくるようでは困ります。
 名前は忘れましたが脳卒中で倒れた落語家が最近高座に戻りました。まだ体は不自 由なままでロレツも不十分ですが主として病院を回って同じように病気や障害に苦し んでいる人達を励ましているそうです。

 「わたしが倒れたとき、お医者さんからこのままでは植物人間になると言われたそ うです。それを聞いた師匠の林家こん平は『これは大変だ。植物人間なら毎朝水をや らなきゃなんねぇ。』。こういう師匠を持ってありがたいというか情けないというか・ ・・。」
 「リハビリのとき歩く練習をするんですが、ただ歩くことがとても難しい。どうし てもよろけてしまって訓練の先生に助けてもらうんです。それがどうゆうわけか若く てきれいな先生の前でばかりよろけるんです。」

 こんな具合に大変なことをさらりとユーモアに切り替えるところが落語家のすごい ところであり社会が彼らを必要とするゆえんでしょう。

 落語が受けないということの奥に、何かを無くしているわたしたちの現実がある。
そんな気がしてならないのです。
 ある外国人新聞記者が書いていました。
 「相撲の呼び出しが土俵を掃き清めるところを見ているととても面白い。幕下格か ら十両格、幕内格から三役格と上に上がるにしたがって掃き清め方が芸として完成さ れていく、風格が出てくる。」
と言うのです。
 こういうことはじっくりと本質を見るという目がなければ分からないことです。相 撲の勝ち負けだけに大騒ぎしていると見落としてしまいます。見る芸を鍛える必要が あるのです。

 これはもはや精神の問題でしょう。落語に限らずものの価値が見えなくなってきた、 あるいは見失いつつあるのは何故でしょう。このあたりにバブルに振り回された理由 も隠れているようです。

《後記》
わたしの仕事

 時々、あなたはどういうことをなさるのですかと聞かれます。游氣の塾の意味が分 からないからでしょう。ですから游氣に関しては先月号に書きました。
 法律で保障されたわたしの身分は鍼師、灸師、あんま・マッサージ・指圧師です。
具体的に行っているのは漢方の方式に則った鍼灸と経絡指圧、分子栄養学理論から導 かれた栄養学の指導とビタミンオイルマッサージ、関節機能学(キネシオロジー)に よるモビリゼーション(骨格調整いわゆる整体ですが関節の動きを考慮した安全なソ フトなもの)、呼吸体操である今ブームの気功法の指導などです。
 さらに最近比重が増えているのが医師や保健婦さんたちと協力体制にある在宅障害 者のケアです。

 わたしは自分の行為を身体調整と称しています。快適な毎日を送っていただくため に心身の不調に対して身体に直接働きかけることで、それを調整しようというもので す。とりわけ病院に行っても特に病気ではないと診断されながらも、本人にとって不 快な状況に働きかけることが主になります。逆に末期ガンや西洋医学で芳しい成果の 得られない病状の苦痛緩解に協力することもあります。

 身体調整の目的は「治療」ではなく心身を「癒す」ことです。
 わたし自身は身体調整を心身の状態がマイナスであればそこからの脱出をめざす「 癒療」と健康だがよりプラスに活性された心身をめざす「鍛練」とに大別し、全体を 「養生」と呼んでいます。

 鍼灸治療院などのように分かりやすい呼称をあえて避けてあまり使用しないのは上記の理由からなのです。ただし保健所への届け出は法律に定められていますから三島鍼灸指圧治療室です。
(游)

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游氣風信 No39「古武術の発見 茶の本」

游氣風信 No39「古武術の発見 茶の本」

三島治療室便り'93,3,1

 

三島広志

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《気楽図書館》

古武術の発見(光文社)
対談  東京大学教授 養老孟司
武術研究家  甲野善紀
より養老孟司氏の発言

 他人が自分のことをどう思っているかという、そういう対社会的な自分のイメージというもののほうが、むしろより客観的に存在する、と言ってもいいんです。要はそ うした対社会的存在としての自己と、自分の考える自己と、そのバランスの問題だろ うと思います。
 いまはもう極端に、自分の中にある自分が自分であるという考え方が強くなってい る。
 自分といういうものは自分のなかだけにあるものじゃないんで、他人のなかに分散 して入っている。それをだいじにしたわけです。だから墓をきちっとつくるというこ とになる。
 墓というものを考えてみると、自分は見るわけじゃない。他人が見るものなんです。
そうすると他人の中の自己というものが弱くなっていけば、自然に墓というものはな くなっていくんです。

解説

 養老孟司先生は東大の解剖学の教授。解剖を通して得た独自の極めて冷めた切り口 の思考方法「唯脳論」を駆使してさまざまな現象を切り開いて行く手法は多くのファ ンを獲得しています。
 その先生が日本武術の身体術の高みに対する認識が盲点であったと武術研究家の甲 野善紀氏と行った対談集。
 甲野さんは知る人ぞ知る武術の研究家。今日のスポーツ化した柔道や剣道、空手な どと異なった江戸時代を頂点とした武術を通して見た身体論や社会論が注目されてい ます。普段から和服に帯刀といういささか危ないいで立ちで町を闊歩しているそうで すが、決してこわい筋の人ではなく、日本の文化の行きついた世界を今に再現したい と努力している人です。

 今回の引用は養老先生の発言です。
 自己というものは自分の皮膚の中に収まっているだけでなく、さまざまな関係性の 間にこそ存在しているとは以前から思っていたことですが、墓を持ち出して説かれま すとより明瞭に理解できます。その辺の思考は人間の形態や営みなどの対象を対象の みならず観察者まで視野に入れて考える養老先生の切り込み方の鮮やかさから来るも のなのでしょう。そうすることで還元主義に膠着した自然科学からおおらかな脱出が 可能となるのです。

茶の本
岡倉天心(講談社文庫)

 芸術では「現在」が永遠である。茶人の考えによれば、芸術を真に鑑賞することは、 芸術から生きた感化をうける人だけに可能であるという。そこでかれらは、茶室でえ た風流の高い水準で、日常生活を律しようとつとめた。どのような環境にあっても心 の平静を保たねばならない。また対話は周囲の調和をかりにも乱さぬように行われな ければならない。衣服のかっこうや色彩、身体のこなしや歩き方まですべて芸術的人 格の表現となり得るのであった。これらは、いささかも軽視することのできないもの であった。というのは、人はおのれを美しくしてこそ、はじめて美に近づく権利をも つことができるからである。かくて茶人は、美術家以上のもの──すなわち、美術そ
のものとなろうと努めた。それは審美主義の禅であった。われわれが認める気さえあ れば「完全」はいたるところにある。

解説

 天心は日本の心の中心に禅を置き、あらゆるものの中に禅的な要素を見いだそうと 試み、それを普遍化することに努めたようです。その極めて日常化されたものが茶の 湯だったのでしょう。
「風流の高い水準で日常生活を律する」という考えは、「道」として江戸期に培わ れた日本の世界に誇れる唯一と言っていいほどの高い文化価値です。武道や茶道・華 道の高いレベルにそれが伺えます。ただし今日の家元制度という芸より経済のための 組織制度は果してどこまでそれを伝えているか疑問のあるところです。
 最近知り合った外国人たちはみな口をそろえて日本人の間から日本が喪失されるこ とを残念がっています。戦争という重大な過ちをしっかり検討する事なく曖昧に反省 の振りをしているだけでは、良いものも悪いものもひっくるめて捨ててしまうことに なってしまうでしょう。優れた文化の高みまで捨てる理由はどこにもないのですから。

 平畑静塔という俳人は同じ水準を「俳人格」と呼び、高浜虚子にその典型を見てい ます。
 天心の行動は文明開化によって日本の良さまで失うことに危惧を感じて、日本文化 の根を掴もうとしたのです。今日の様相とどこか似ているようですね。

 紹介の本は1906年、The Book of Tea(茶の本)として、アメリカで刊行されたも のの日本訳です。 

 今月は奇しくも日本文化の再発見となりました。


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游氣風信 No38「游氣風信の意味 森澄雄 風邪」

游氣風信 No38「游氣風信の意味 森澄雄 風邪」

三島治療室便り'93,2,1

 

三島広志

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<游々雑感>
改題

 《游氣健康便り》を今月より《游氣風信》と改名いたします。理由は《游氣健康便り》という名称には以前から少し長過ぎるのではないかという印象を持っていたことです。
 もう一つ理由があります。それは現代人はみな一種の“健康”という脅迫観念に追いかけられて脚下をじっくり見つめて[生]そのものを味わうことを見失っている傾向にありますから、いっそのことこの際“健康”から離れてしまおうというものです。

 つまり“健康”は真実大切なものですが、あくまでもそれは生きる上の必要条件で あって、目的ではないということです。ところが“健康”というより病気の情報が毎 日、新聞やテレビ・雑誌などを通じて家庭に飛び込んできますからかえって不安感に 振り回されているのではないでしょうか。しかも病院へ行けばたいてい何らかの病名
を付けてもらえますから立派な病人になってしまうのです。
 そんな訳で通信のタイトルを変更することにしました。

 「游氣風信」という字について説明しましょう。
 「游」という字はあまり一般的ではありません。この字は水に漂うという意味です。
「遊泳」は本来「游泳」なのです。サンズイは「水」を表し、シンニュウは「道」を 意味しますから、「遊」は陸の上をあちこちとらわれなく動くことであり、「游」は 水の上(中)を自由に漂っていくことです。

 「氣」は気の旧字体です。旧字体はメではなく米を用いています。それは米から湯 気が出ている様子を表しているのです。米を炊くと何やらゆらゆらする湯気がたち昇 ります。湯気は実体がなくて正体がはっきり分からないけど釜の蓋をカタカタ動かす 力を持っています。そこに古代の中国人は見えないけれども何かしらの力を感じて、
そのような森羅万象の奥に秘められたエネルギーのようなものを氣と呼び、「氣」と いう漢字を作ったのです。
 イギリスのジョージ=ワットがやかんの蒸気から蒸気機関を発見し機関車を発明し たのと軌を同じくしていますね。汽車の「汽」の字はサンズイを用いていますから、 蒸気そのものを表しているのでしょう。
 「氣」は実体が無く目に見えなくても機能があることを示しているのです。そこか ら何が何やら分からない、うまく説明できないことを「あれは氣だ。」と言うように なったのです。逆にその実体が解明されたらそれは氣ではなくなるのです。
 例えば昔リンゴが落ちるのは氣の作用と思われていましたが、ニュートンが引力の 法則を発見して以来その氣は引力と呼ばれるようになりました。すなわち原理が解明 されたら氣は氣とは言わなくなるのです。
 ちなみに時間的氣を「機」と呼びます。

 ただし氣にはさまざまな関係性を意味したり、身体や心の使い方のイマジネーションを活用させるキーワードとして有意義な面がありますから、氣という言葉を大切に 利用したいのです。

 ですから、昨今のテレビの怪しげな「氣ブーム」は何やら分からないことの一面それも現象面だけ取り上げて大騒ぎしているのだと知ってください。
 大衆が氣に飽きたら次の何かを捜し出してくるだけでしょう。彼らは大衆の好みを 捜しだしそれを煽り立てるのがうまいのです。これを言い換えると大衆の氣を察知し、 誘導するのがうまいとなります。

 NHKのドキュメントに虚偽と捏造(新聞では「やらせ」と言っていますが、「や らせ」は本当にあったことを本当のように見せかけるために演じさせることですが、 今回は全くのでっちあげですから「やらせ」ではありません。虚偽・捏造・嘘・ごま かしです。)があったことが今朝(2月3日)の朝日新聞に大きく書いてありました。
おそらく他の新聞でも同様の扱いでしょう。その朝日でさえ以前記自分たちがサンゴ に傷をつけてダイバーのモラル低下を大きく報道したことがありました。マスコミに は真実を報道する義務と権利がありますが、逆に偽情報で大衆を扇動できる力を持っ ていることを謙虚に真摯に認識すべきです。また、わたしたち受け手はたやすく振り
回されないことです。
 皇太子の婚約報道やら相撲取りとタレントの痴話喧嘩に対するマスコミの愚かしさ に先月から怒っていますから先月号と同じように話が逸れてしまいました。戻しましょ う。

 「游氣」とはこの膠着した時代を悠々とおおらかに風通しよく伸びやかに爽やかに 生きていこうという願いを込めたわたしの造語です。

 「風信」の「風」は自在に形無く行き来できる自由の象徴であり、それは高気圧か ら低気圧へ流れる空気の移動です。その意味するところはバランスの回復でしょう。
気圧の高低というアンバランスを回復するのが「風」なのです。
 人間社会に置き換えれば、富や時間を持てるものから待たざるものへという社会福 祉の流れであり、からだのなかの現象で言えば血液循環や漢方でいう氣(生命のエネ ルギーのようなもの)の循環の象徴でもあります。

 また「信」はニンベンと言から成立しています。これは人と人を言葉で結ぶという 意味と解釈してください。

 《游氣風信》は一陣の春風のように読者に暖かさを送り、時には凩(こがらし)の ごとく氣を引き締めながら、いささかでもわたしと縁のあった方の人生に何かをお伝 えできたらと思って綴っています。でも本当はわたし自身が一番楽しんでいることは 間違いありません。
 中にはむりやり送りつけられて迷惑がられている人がいらっしゃることも重々承知 しているのです。

 身体調整の仕事もそんな気持ちで取り組んでいます。現実には難しいことですが。

 もともと東洋医療に関心を持った理由は高校時代に恩師増永静人先生の本を読んで その考え方に共感を覚えたからなんです。ただ当時はこれを仕事とするつもりはなかっ たのですが大学二年の時オイルショック(ニクソンショック)があり、三流大学では いい就職口もなく、卒業後鍼灸の専門学校に進み、自ずと指圧や鍼などが口糊の業に なってしまいました。

 増永静人先生は京大哲学科で心理学を選考された方で有名な哲学者西田幾太郎博士 の孫弟子に当たる方です。京大卒業後あの「指圧の心母心、押せば命の泉湧く、ハッ ハッハ。」の浪越徳治郎先生の日本指圧学校で10年間指圧の究明と啓蒙に努めたのち 独自の道を歩んでこられたこの業界では著名先生ですが、11年ほど前に57歳で亡く なられました。わたしが師事できたのはわずか3年余りですがその存在は我が胸中に 大いなるものとして光芒を放っています。

《今月の言葉》

森澄雄(俳人)

 俳句観の上でも変遷をしながらきたつもりだけれども、同時にかわっていないのは、 自分の生涯のその時点でどう自分をつかむか、どう自然をつかむか、いわば人間が80 年生きる時間の系列の中で、今の自分、それから、この大きな宇宙に浮かぶ、虚空に 浮かんでいる自分、その時空の一点でね、焦点を捉えて、今の自分を詠うと、そうい う作業をしてきたんですね。だから、自分を詠いながら、個の世界でありながら、一 句は普遍的でありたいと、そういう思いを絶えず持ってきた。
角川春樹氏との対談から
(「俳句」平成5年2月号・角川書店刊)

森澄雄氏略歴
 大正8年兵庫県生まれ。九州大学卒。加藤楸邨に師事。生活に執し清新の句境を拓 く。のち古典、中国史、宗教書に親しみ、時間、空間の広がりの中に思索的で多彩な 作品世界を深めた。代表句「炎天より僧ひとりのり岐阜羽島」「秋の淡海かすみ誰に もたよりせず」

略歴は平井照敏編「現代の俳句」(講談社学術文庫)参照

 森澄雄氏は飯田龍太氏とともに現代を代表する俳人です。龍太は俳句師、澄雄は俳 諧師と呼ぶ人もいます。どちらかというと澄雄氏の方が虚の世界にいて句に広がりと 深みをたたえ、龍太氏の方は鮮やかな印象度の強い作風です。
 外国の人が俳句に抱いているイメージは上に紹介した森澄雄氏のことばのような禅 の世界を思わせるもののようです。

《風邪について》

 今年の国府宮の裸祭りは2月4日、立春の日でした。国府宮神社やその周辺の屋台の 出店は多くの人手で賑わったようです。その後あちこちの方から奉納された大鏡餅の かけらをいただきました。これを食べると一年間風邪を引かないのだそうです。

 風邪と言えばインフルエンザがあいかわらず猛威を奮っています。
 インフルエンザウイルスは咳やくしゃみで吹き飛ばされた後、数10分間空中を漂い、 さらに壁やテーブルや服などに付着して数時間生きているのだそうです。それに触っ た手でものを食べると口から伝染するのです。
 したがって風邪の人には近づかない、外から帰ったらうがいをする、手もよく洗う ということが予防として広く知られています。
 さらに、それだけでなくウイルスが入ってきてもはね返すだけの体力の維持に心掛 けることが必要です。そのためには疲労過労を避け、栄養的に質の良い食べ物を腹8 分いただくことです。食べ過ぎは胃腸風邪の元ですから。
 ビタミンCは体内でウイルスと戦うインターフェロンの合成に欠かせませんから新 鮮な野菜やみかんをとると良いでしょう。またストレスはビタミンCを多量に消費を しますからストレスと上手に付き合うことでCの消費を押さえることです。けれども 少々のストレスは適度の心身緊張をもたらすのでかえって風邪を引きにくいものです。

 しかしいったん引いてしまったら、与えられた休息の時間だと思い切って休むこと です。
 風邪はさまざまな症状を呈します。漢方ではそれをその人に応じたバランス回復運 動と考えます。下痢はおなかの掃除。咳やくしゃみは呼吸器の掃除。熱はからだの機 能を高めて抵抗力を強化するなどです。
 だからと言って無理をしてこじらせることは危険ですから、安静と休息、保温と栄 養を考慮して、後はからだにまかせておくのです。2・3日である程度回復するはずで す。1週間もすればたいてい良くなるでしょう。咳はしつこく残ることが多いですが。

 ただし、からだの弱い子供や老人は風邪から思わぬ病状に移行することがあります。
あまりの高熱が続いたり、激しい下痢によって脱水症状が起きたりしているときはも ちろん考えるまでもありませんから、掛かり付けのお医者さんに相談してください。
それはバランス回復を越えた状態ですから注意しなければなりません。船にたとえる なら揺れ過ぎてバランスを失い転覆してしまうことですから。
 特に老人はあまり熱が出ていないのに肺炎になったりしますし、糖尿病にかかって いる方は注意が必要です。

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游氣風信 No37「不惑 植木等」

游氣風信 No37「不惑 植木等」

三島治療室便り'93,1,1

 

三島広志

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《游々雑感》

年頭に「不惑」

 わたしもこの正月を39歳で迎えました。数え年で言うならついに不惑の世代に入るのです。
 論語に「吾十有五にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず。」とあります。もちろんこれは孔子という偉大な先哲のことばであって、わたしごときジンピンコツガラのまっとうでないものの人生と比較するべくもない、そもそも比較することが不謹慎という人生訓の一つですが、[聖人君子]即ち人生の手本とすべき人と解釈すれば、先ほどのことばは万人のためのことばと言えましょう。さもなくば孔子をして「子曰く・・・」などともったい付けて凡俗に説く必要もない訳です。

 という訳でわたしもとうとう人生に責任を持つべき世代にいやがうえにもなってしまったのです。これは自分の人生80年の折り返し地点という大切な時期に差しかかったという意味だけでなく、社会的にも重要な年齢になったということでしょう。その自覚を促すことばが不惑なのだとジンピンコツガラのまっとうでない頭なりに理解しているのです。
 論語では続けて「五十にして天命を知る。六十にして耳順(したが)う。七十にして、心の欲する所に従えども、矩(のり)を踰(こえ)ず。」とあります。
 耳順うとはおのれにやましさがなく、他人の忠言、教訓も耳に逆らうことはないの意味で、心の欲する所云々は自分がやりたいように行動してもそれが天の道から外れることがないということだそうです。人生の極致ですね。

 この論語から十五歳を志学、三十歳を而立(じりつ)、四十歳を不惑、五十歳を知命、六十歳を耳順、七十歳を従心と呼びます。不惑以外はあまり知られていませんね。
わたしのワープロでも辞書に入っていたのは不惑だけでした。

 天命を天寿と誤解する人がいますが、天寿は天から授かった寿命のことで、長生きした人のことを天寿を全うしたというのはここから来ています。

 天命は運命(努力によって変えられるもの、たとえば職業や結婚相手の選択)・宿命(なんともならないもの、例えば日本人に生まれたことや男に生まれたこと)の意味ともう一つ、自分がこの世に生まれて社会的・歴史的生物つまり人間としてなさねばならない天から与えられた役割即ち使命のことを言います。

 これは社会的な働きかけが中心となるでしょうが、体に重度の障害があって何もできない人でも周囲の人に微笑で働きかけることも立派な天命でしょうし、ただ生きているだけでも周囲の人の励ましになる人は一杯いますから、これは見事に天命を実現していると言っていいのではないでしょうか。

 ただほとんどの人が天命を明らかにすることなく世を去って行くと思います。もちろんわたし自身を含めてのことです。しかしそれではあまりに空しいではありませんか。そこで考えます。むしろ自分の天命を考えることそれ自体も大切な天命なのではないかと。答えにはなっていませんが。

 「人は何のために生まれて来たのでしょうか。わたしは人はそれを考えるために生まれた来たのでないかと思います。」
 これは宮沢賢治のことばです。二十代の賢治が農学校の生徒達と河原で実習の疲れを癒しながら、身近な石や草花を例にした楽しい課外授業の傍ら生徒達に投げかけた質問です。おおいに同意したい意見です。

 その賢治は38歳でこの世を去りました。(その死に際しては違うことばで「天命」を述べています。)

 そうなんです。今年わたしは数えで40歳になると同時に、中学生の頃からいつも心で意識してきた宮沢賢治の年齢をとうとう追い越したのです。

しかしまだまだ惑わずとはいきそうにもありませんし、むしろそんな不安定感を楽しみ味わいたい心境でもあるのです、本当は。ちょうどオートバイを傾けてコーナーを曲がるときのような不安定な釣り合い、結構これが愉快なんですよね。

論語の項目 諸橋轍次博士の著書に拠りました。

言葉の拾遺
読売新聞より
 自分が遣りたいことと遣らせられることは違う。
植木等

 情感溢れるバラードを得意としていた植木さんが、スイスイスーダララッタという「スーダラ節」を歌わされ、その後無責任男としてイメージが固定したときの諦めの心境。ご本人はとても生真面目な人。

 先の天命につながるものですが、多くの人の共感を得ることばだと思います。
 植木さんのばかばかしいギャグを見て多くのサラリーマンたちが溜飲を下げたことでしょう。こんなことばこそ天命を知ればこそ言えるのかも知れません。

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游氣風信 No36「癒しのしくみ 老化を防ぐ歩行」

游氣風信 No36「癒しのしくみ 老化を防ぐ歩行」

三島治療室便り'92,12,1

 

三島広志

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《游々雑感》

癒しのしくみ
 尾張旭市で耳鼻科を開業しておられる樋田和彦先生からご著書を贈っていただきました。地湧社刊「癒しのしくみ」です。

 樋田先生は名古屋市立大学の医学部を卒業され、インターンを経て尾張旭市に耳鼻科医院を開業されました。そこで耳鼻咽喉の臨床に当たりながらも、一種の不満を感じ、人間を総合的に眺める立場からの医療を求められました。そして東洋医学(鍼灸・漢方薬)やヨガ、操体法などの門を叩きつつ、ともすると患部を機械の部品のごとく近視眼的に捕らえがちな西洋医学を相い補うことが出来る医療を模索しておられました。

 とりわけ耳鼻科は比較的生命に直結しない鼻・耳などの部品を扱う分野です。しかしそれらの病気の奥には全身の状態や心理状態、さらには生活環境やその人の生き方が深く関わっていることに臨床を通じて気づかれたのです。
 そして、韓国の柳先生が創始された手鍼療法(手に全身の状態が現れ、そこを利用して診断・治療する)に出会い、さらには大村先生の開発されたバイ・ディジタル・Oリング・テストを応用することで日頃の臨床に大活躍されています。

 Oリング・テストは最近テレビなどで紹介されていますからご存じの方もおられるでしょう。基本的には親指の人差し指の輪を作って、その輪を検査する人が両手で開こうとします。
 最初しっかりと輪が作れるのに、体の悪い部分に(例えば胃の反応部位)軽い刺激を加えますと、手の力が入らなくなって輪が簡単に開いてしうのです。今度はそこを(先の例でいけば胃)治療する薬を患者が持つと、とたんにさっきまで弱かった輪の力が強くなるのです。何種類かの薬の内、一番力が強くなるのが最も適合する薬と判
断します。
 大村先生はこの現象をさまざまに検討して臨床に使えるレベルまで実験検証して命名したのがOリング・テストなのです。
樋田先生はこのテストを利用して自律神経のバランスを判定し、さらに先の手鍼療法を応用して臨床に当たっておられます。

 このOリング・テストは最近いろいろな分野で応用されていると同時に、怪しげな健康食品や化粧品を売るために悪用されていますから、無分別に信用するのは要注意です。
 テストはあくまでも一つの技術であってそれを使用する人によって善にも悪にもなることは、包丁が料理にも殺人にも使えるのと同じことです。
 また樋田先生は「生き方懇話会」を医師仲間を中心に主宰されています。その会では人生における医療や自然と医療などの問題、医療を離れて、環境や人生の目的など多岐にわたりながらも根は共通の問題を話し合う会を医院の二階の道場で行われているのです。

 趣意を紹介しますと
 「近ごろ、いわゆる[文明]が進み、世の中が非常に便利になり、生活も豊かになってきましたが、かといって、安心して健康に暮していけるか──と言うと、決してそうではありません。嫌なことや困ったことが沢山あるのも事実です。
 このように世の中が何かと住みにくいのは、私達人間の生き方に、数多くの間違いがあるのが原因ととらえ、正しい生き方を求めて話し合い、情報交換をしていこうというのが、この「生き方懇話会」の主旨であります。(後略)」と書かれています。


 そこには医師だけでなく、鍼灸師や栄養士や薬剤師、さらには僧侶や主婦やサラリーマン、学生などが上下の差なく対等に膝を突き合わせて懇話しています。わたしも数回参加させていただきました。
 さらには数百人を集める大きなシンポジウムも3回ほど開催している実に精力的な先生です。

 病気や生き方を考えるために是非一読をお勧めします。
 注文は最寄りの書店か私まで。

 
老化を防ぐ「歩く運動」

 読売新聞平成4年11月24日大変興味深い記事が出ていました。ここで全体を要約して紹介します。書かれているのは東京大学教育学部長 宮下充正先生です。日ごろ体を動かしていない人やどんな運動をしたらよいか分からない人にはヒントになることでしょう。
 この運動にゆったりした気持ちと深い呼吸を付け加えれば一番簡単な気功法になります

 老化現象は20歳から25歳を境としてはじまる。筋力とか持久力など運動することにかかわふ身体機能は、1年に1%の割合で老化する。
 老化は、一般に、からだ全体を動かすことを減らす。この運動量の減少は、からだの脂肪量を増やし、筋肉を弱らせ、からだの活力を低下させる。 からだの活力の低下は、自身に老いを感じさせ、年齢にふさわしい行動をとらせるようになる。そして、次第にからだへの不安を募らせ、自信を無くさせる。 
 このような社会心理学敵な老化はますます日常生活での運動量減少に拍車をかけ、心臓病、高血圧、各種の痛みなどはっきりしたからだの異常をもたらす・・・。
 お年寄りに元気でいてもらうこと、だれもが何歳になってもからだを動かすことを意図的に続け、「自分の身の始末は自分でできる」ことが、社会的にも要求されて入るのである。
 健康を保つのに必要な運動量について、北欧の学者は、次のようにまとめている。


1 しゃがんだり、立ったり、歩いたりして、とにかくからだ全体を1日に1時間は動かして300キロカロリー消費すること
2 30分から40分の速歩やジョギングをするようにして、1日250キロカロリーを消費する運動を週3日実践すること。

 これをまとめると、からだ全体を動かして1週間に3000キロカロリーのエネルギーを消費すべきだ、というのである。
 私たちはここ数年間、だれもが手軽にできる「歩く」という運動を中年の人たちにすすめてきた。できるだけ歩幅を広くとり、“ややきつい”と感じる程度の速さで歩こうというものである。
 その結果、12週続けられた脾とたちに、次のような変化が見られたのである。

1 心臓にあまり負担をかけずに余裕をもって長く歩けるようになった。
2 歩幅が広がってせかせかした歩き方をしなくなった。
3 脂肪分が減少した。
4 足腰に力強さがついた。すばやい身のこなし、よろけても転ばない。
5 善玉コレステロールの増加。動脈硬化の予防。

 中高年の女性については、毎日の歩数の多い人ほど脚力は強く、骨密度が高い、つまり骨粗鬆症の予防になる。
 現在の中高年はやはり、全体として運動不足なので、まずは歩くことを意識して行うようおすすめしたい。といっても、それほど無理をしなくてもいい。これまでよりやや長い歩幅で、これまでよりもやや速いスピードで、これまでよりやや長い距離を歩くするようにするだけで十分なのである。
(スポーツ科学)

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游氣風信 No35「胃カメラ体験記」

游氣風信 No35「胃カメラ体験記」

三島治療室便り'92,11,1

 

三島広志

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《游々雑感》

胃カメラ体験記

 以前からみぞおちの痛みを訴えたり、しこりのようなものが触れる患者さんには胃の検査を勧めてきました。ほとんどの人は何事も無く済んでひとまずは安心したのですが、中には残念ながら既になんともならない状態になってしまっていた人もありました。

 下腹部のしこりが異常に大きいので産婦人科に行ってもらったら、子宮筋腫で手術を勧められた人もいました。その方は迷っているうちにトイレで赤ん坊の頭くらいある血の塊が出たため、急いでそれを持って産婦人科に駆け込んだところ、なんと血の塊は筋腫がきれいに剥がれ落ちた物と判明して胸を撫で下ろしたという幸運な例もあります。

 さて、わたしは人にはさんざん勧めておきながら、胃の検査というものをしたことがありませんでした。しかし今年は無理と不摂生がたたったのか、貧乏ゆえの栄養失調か、春、夏、秋と季節の変わり目毎に胃が痛くなり体重も減り、患者さんからかえって心配される始末でした。
 「先生の代わりは何人でもあるが、家族の代わりは無いでよお。無理せんでちょうよ。」と言われたことさえありました。

 自営業や自由業の人は仕事の時間が不規則で、しかも定期的な健康診断を受ける機会もありません。知り合いの看護婦さんからこういう機会にこそ受診しなさいという強い勧めもあってこの際胃カメラを飲んでみることにしました。

 ここ2・3年、昼ご飯が4時5時になることも多く、結局食べないこともよくあり、夕食は10時半から11時などと、結構不健康な毎日を送っていました。しかもきちんとした休みも取らず色々な雑事で駆け回っていたような気がします。年齢も年内に39歳になりそろそろガンに注意をしなければならない年でもあります。

 漢方医療は養生を基本にしています。それは節度ある毎日を過ごせと言うことです。

 仕事で適当な疲労とストレスを楽しみながら、食事をゆったりとおいしく頂き、お酒も適当に嗜み、家族や気のおけない友人たちと語らい、好きな運動にいそしみ、高尚な趣味を味わい、暑さや寒さ、人間関係などの環境の変化と上手に付き合って生活すること。日頃のバランスの崩れを鍼や指圧や漢方薬、健康体操などでこまめに回復
を試みること。これが漢方の基本のなのです。
そして天命(天から与えられた自分の役割)を尋ね、見つけ、見つけたらそれに邁進することをこそ人生の無上の喜びとすること、それら全てをひっくるめて漢方と言うのです。

 その漢方を基礎にした療法に携わっている本人がこんな不摂生な生活をしていてはざまはありません。とりわけいつも時間に追われているので気持ちが落ち着く暇が作れないのです。そこで最近はちょっと仕事のペースを落とし、ゆとりを持たなければと思っている矢先でした。

 そんな訳で、ちょうどいい機会と胃カメラを飲むことに決めたのです。
 検査の前日は夜9時以降は食事も水も禁止されました。もちろん翌朝の検査まで完全に断食断水です。
 病院に行くとまず白い薬を大サジ一杯分くらい飲みます。次に針のついていない注射器で喉の奥に麻酔剤を入れてもらいます。それは5分したら吐き出します。
 しばらくして部屋に呼ばれました。看護婦さんから肩に麻酔剤を注射されて、ちょっとしたアドバイスを受けました。
 まず呼吸は腹式呼吸でハアハアとすること。
「まるでお産みたいですね。」
と言ったら笑われました。 
 さらに「先生から呑んでと言われたらカメラを呑んで下さい。」との助言。それで一生懸命唾を飲む稽古をしましたが、麻酔のためか緊張のせいか唾液がうまく飲めません。それでもどうにか飲む手ごたえがつかめました。
 ところが左向きで横にされ、口に小さな管をくわえるように指示されてしまいました。なるほどこれなら誤ってカメラのファイバーをかみ切る心配はありませんが、唾がうまく飲めなくなりました。困ったなと焦っているところへ先生が入室されました。


 部屋の明かりがすうっと落とされると、先生の手元で何やら怪しげに光るものが蠢(うごめ)いています。小指ぐらいの太さの黒い棒のような物の先端から発光しているようです。
 そのとき以前見た映画の場面を思い出しました。それは火星人が地球に攻めて来るH・G・ウエルズの原作になる有名なSFです。例のタコの火星人が出てくるやつです。
 文明の進んだ彼らが持っていた探索機がちょうど胃カメラそっくりで、くねくね動く管の先から赤やら青やら白やらの光を発していたのです。そして人間を見つけると鋭い閃光を発して何もかも焼き付くすという恐ろしいものでした。

 先生はその恐ろしい怪光線をわたしの口に突っ込みました。
 「はい、呑んで。」
 「はい。」
と心の中で返事をしながら、あせって呑もうとしましたがうまくいきません。ところが先生は
 「もう入りましたよ。」
ここはもう実にあっけないものでした。そういえば腹の中でなにやら動いている感じがします。
 その後、2・3回喉に管が当たって嘔吐しそうな気分になりましたが、たいしたことはありませんでした。

 苦しそうな素振りを感じると看護婦さんがすぐに右腕(左向きの状態ですから右腕が上にきています。)をつかんで「落ち着いて腹式呼吸をして下さい。」と励まして下さいます。

 わたしは見た目は惨憺たるありさまでしょうがとても落ち着いていて、この看護婦さんは注射した背の高い人かな、それともあの若いかわいい子かな、あるいはいかにも婦長という感じのあのちょっと怖そうな人かななどと不謹慎なことを考えるゆとりさえありました。

 検査中はただ横になっているだけで、胃の中にカメラが入っていろいろ検査したりビデオを撮ったりしているとはとても思えません。ただ先生の息遣いと時々看護婦さんに与える指示だけが暗闇の中で聞こえています。 前もってテレビの画面を見てもいいと言われていたのですが、角度が悪くて先生のおなかしか見えませんでした。もっとも見ていておかしなものが写っていたらものすごいショックを受けることでしょうが。

 「では終わりです。」と先生がカメラを出されるときはまた少し嘔吐感があり、看護婦さんに腕をつかんでもらえました。

 最後にベッドに座って、先生からビデオを使って説明を受けました。
 「これはもう胃に入っているのですか。」
 「そうです。胃です。」
 画面に写っているのは焼き肉屋でおなじみの上ミノそのものです。学生時代、焼き肉屋でアルバイトをして、小腸や大腸を刻んでいましたから、少し懐かしい風景でした。
 「ここを見てください。」
 「ああ、赤い斑点がありますね。」
 「充血しています。目が赤くなるのと同じです。胃炎ですね。」
 「怖い物はありませんでしたか。」
 「大丈夫です。」

 こうして胃カメラ体験は無事終了致しました。
 ちなみに30年前、胃カメラを受けた人から聞いた話では、「それはもうひどいもので、まさに拷問そのものだ。」ということでしたが、ここは素直に科学技術の進歩に敬意を表するばかりです。

 今度から検査をされる方は、バリウムなど飲んで後でゲップと便秘に泣かされるより、さっさと胃カメラを受けるほうをお勧めします。結果もすぐ分かりますし。

《後記》
 11月8日は俳句の会で古溪山永保寺に行って来ました。紅葉に包まれた端正な古刹は好天に恵まれて、大勢の写真愛好家や家族連れでおおにぎわい。
 句会は禅道場を借りて行いました。厳粛な雰囲気と整えられた庭がいやがうえにも気を引き締めてくれます。中でも接待に当たった若い雲水の節度と凛々しさのある物腰に感心しました。
 14日は馬込にハイキング。紅葉はさほどのことはありませんでしたが、快晴の初冬の山の空気を満喫してきました。たいした距離は歩かなかったのにその夜のバドミントンは足がもつれてうまく動くことができません。実に情けない。

 馬込の島崎藤村記念館に次の言葉の碑がありました。

誰でもが太陽であり得る。
わたし達の急務は、ただただ
眼の前の太陽を追ひかけることではなくて、
自分等の内部(なか)に太陽を高くかかげることだ。
島崎藤村

 明治という時代の志の高さが偲ばれます。

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游氣風信 No34「悼佐藤勝治先生」

游氣風信 No34「悼佐藤勝治先生」

三島治療室便り'92,10,1

 

三島広志

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《游々雑感》
哀悼 佐藤勝治先生

 佐藤勝治先生・・決して広く知られている名前ではありませんが、宮沢賢治の研究書にいささかでも関心を持つ人なら誰でも知っている名前です。

 先生は市井の学者・野の宮沢賢治研究者としてその持てる情熱と才能全てを(あるいは多くの時間と経済も)宮沢賢治研究に費やした類いまれなる意志の人です。 その佐藤勝治先生が去る8月28日に幽明境を異にして、鬼籍に入られました。大正2年(1913)生まれ、79歳。実に一途な充実した人生を送られたことと思います。

 わたしと佐藤先生の出会いはおよそ15年前に逆上ります。
 大学2年の夏、以前から愛読する宮沢賢治ゆかりの岩手県を旅行し、賢治作品の舞台の地を徘徊してきました。
 次いで大学を卒業した夏、オートバイで再び訪問しました。
 前回のテーマは自然との触れ合い、二回目のそれは人との邂逅を目指したものでした。そしてそれらはとても具合よくことが運んだのでした。

 旅に出ると旅先の書店でその地方でだけ出版されている本を見ることにしています。
当然岩手でも大きな書店に寄っては地方出版物を探しました。
 ですから昭和51年に花巻市の店で賢治や啄木の研究誌「啄木と賢治」(みちのく芸術社)を見つけたときはそれはうれしかったものでした。その主幹が佐藤勝治先生だったのです。
 もちろんその頃には佐藤勝治という名前はよく知っていました。わたしの書棚にも「宮沢賢治入門」という氏の本が収まっていたのですから。


 帰宅して早速今後の購読とバックナンバーが欲しいという由を書いた手紙を出しました。何冊か送っていただくうちに、突然先生から原稿を依頼されたのです。しかも「啄木と賢治」に載せると言うのです。

 そこで、自分なりの賢治観を書いて送ったところ
「プロの評論家には書けない云々」
という褒められたのか要するに素人の作文という意味なのか分からない批評のお返事を戴きました。さらに
「どんどん書いて下さい。」
とも付け加えてありました。

 それではと、さらに勢い込んで「宮沢賢治は何故舞ったか」という文を書き上げました。これはこの《游氣健康便り》で以前連載しましたから、ご記憶の方もあるでしょう。こちらは先生から激賞されました。

 ところがいかなる理由でしょうか。原稿不足か経営的な問題か、あるいは先生の体調のためか、「啄木と賢治」がなかなか発行できなくなりました。個人誌や同人誌にはよくあることです。
 しばらくして、佐藤先生から
「貴君の原稿は盛岡タイムスに載せる・・」
という連絡を戴きました。

 盛岡タイムスにはその言葉どおり一作目は「今こそ賢治と共に」というタイトルで二回連載、「宮沢賢治は何故舞ったか」は四回に分けて掲載されました。昭和56年のことです。
 肩書がなんと「宮沢賢治研究家」、当時のわたしが27歳。母親からおおいにひやかされたものです。しかし、いかに発行部数の少ないローカル紙とはいえこうした形で活字になることはしがない治療師にとって生涯何度もある経験ではないので感動的でした。(後に至文社刊「国文学解釈と鑑賞 宮沢賢治特集号」で「宮沢賢治は何故舞ったか」の方が新聞掲載論文と認知されましたからこれは素人として自慢していいでしょう。)
 この点で佐藤勝治先生はわたしの恩人なのです。

 しかし佐藤先生とはついに一度も直接お会いすることができませんでした。写真で拝見したお顔は「頑固な意志」が白い長髪のかつらを被ってこちらをにらんでいる風貌。現代に少ない筋の一本通った雰囲気がひしひしと伝わってくるものでした。

 佐藤先生の労作には「宮沢賢治の肖像」と「宮沢賢治批判」があり、昭和49年両方をまとめて「宮沢賢治入門」とされました。わたしが所持しているのはこれです。

 「宮沢賢治の肖像」には仏教とりわけ法華経の視点から、賢治作品が深い信仰と実践からなることを解き、有名な「雨ニモマケズ」は、仏教の十界、四諦八正道、苦集滅道が曼陀羅のように織り成されていると解釈されています。(言葉の意味は難しいので詳しくは法事のときにでも住職さんに聞いて下さい。)
 それが「宮沢賢治批判」では一転して共産主義の立場から、賢治の持つ現実不条理に対する認識の甘さを衝きます。つまり宗教は「慈悲」という概念を用いることで階級性を革命的に打ち砕き平等の世界を作ろうとするものではなく、上部構造から下部構造に対する「施し」という形でごまかし是認するものだと批判しているのです。

 この佐藤先生個人の大転換は、実は賢治の評価の歴史でもあります。戦前、谷川徹三氏に代表される「賢者の文学」「善意の文学」という賢治観が軍部によって戦争中の耐乏生活のために利用された事実があり、戦後、共産主義が強く広まったとき中村稔氏や国分一太郎氏などによる賢治批判があったのです。とりわけ農地解放に対する賢治の考えの甘さがその標的となりました。

 わたしは当時「宮沢賢治入門」を読んで、あまりの極端な差異に戸惑ったものでしたが、佐藤先生があとから来る賢治愛読者や研究者にいろいろな論点を提供するという意味で両方の意見を一つにまとめたというところに先生の賢治に対する愛情と見識を感じます。

 どんな作品も人も時代にさらされて、鍛えられていくのでしょう。賢治の作品は時代の変化やさまざまな毀誉褒貶を超えてますます広く深く読まれています。それは作品の深部に真の古典となるべく条件を包括しているからに相違ないでしょう。

 昭和59年、519頁という分厚い本が送られて来ました。タイトルは「宮沢賢治・青春の秘唱“冬のスケッチ”研究」〈増訂版〉十字屋書店刊。著者はもちろん佐藤勝治。

 賢治の習作期の作品と言われる「冬のスケッチ」を詳細に研究したもで、そのエネルギーたるや大変なものと想像できます。この労作を贈呈されたのでした。
 わたしは感想を簡単に葉書にまとめてお送りしました。すると昭和61年、今度は「佐藤勝治著“冬のスケッチ研究”読後感想書簡集」という小冊子が届きました。
 その内容はタイトルの通り先の大著に対して寄せられた書簡をアルファベット順に集成したものです。わたしの文章もFのところに載せてありました。

 先の大著は惜しむべくは研究書として少し感情が表面に出過ぎていました。論文とするからには「理」でものごとに切り込んでいく、その過程と成果のみをたんたんと書き記さねばなりませんが、この本は個人的な感情が出てしまったのです。せっかくの研究がその点で減点されてしまうのはとても残念なものでした。内容には見るべく
ものがたくさんあるからです。
 市井の学者ということでアカデミズムからどうしても無視されがちな経験がついそうさせたのかもしれません。情熱家の熱情があふれてしまったのかもわかりません。

 わたしは感想書簡の最後に
「もっと感情を押さえられたほうが良かったとも思います。」
と書きました。

 佐藤先生は小冊子の後書きに「これらのお手紙を寄せられた方々へ、重ねて心から厚く御礼申し上げます。中にも御注意やら御忠告を(御遠慮がちに)お書き下さった方々の御友情は特に忘れません。(後略)」としたためておられます。

 いろいろとお世話になりながらついにお会いして御礼をいうことができなかったわたしとしては、この後書きを読むと、ささやかながらもご恩を少しはお返ししたことになるのかと思いにふけるのです。

 佐藤勝治先生のご冥福を心からお祈り致します。


<後記>

 以前身体調整にみえた音楽部の学生さんから愛知県立芸術大学音楽部の定期演奏会の入場券をいただいたので芸術の秋の実践にでかけました。
 ステージの上で芸術家の卵たちが懸命に演奏していました。中にはもう立派な演奏ができる人がいて、さすがは芸大と感心して帰路についたものです。

 音楽や舞踊のようにその場で表現する芸術を「時間芸術」、絵や彫刻のように完成品を展示する芸術を「空間芸術」と言うと、中学生のとき習ったような記憶があります。

 どちらかと言えば時間芸術のほうが表現において厳しいものと、演奏を聞きながら思いました。
 音楽とりわけクラシックは楽譜がそのまま演奏ができて当たり前、作曲家の創作に演奏家がなにがしかを加えつつ、見事な表現として完成させなければならないので大変です。
 なにより体調の管理が重大になってきます。当日風邪ではなんともさえませんから。


 我が家のすぐ近所のお宅の息子さんが先月、イタリアのオペラ歌手の登竜門であるパルマ国際音楽コンクールで優勝されました。(バス・バリトン)。稲垣俊也(31)さんといいます。
 稲垣さんは高校生のとき声楽を志し、いつも家で練習していました。その声が日毎によく通りだし、とりわけ東京に住んで先生に鍛えられるようになってからは、帰宅の度に声が素晴らしくなるねと家族のものと話していました。

 東京芸術大学を卒業後、文化庁のオペラ研修所を経て、文化庁派遣海外研修員としてイタリアのミラノに滞在されていました。
 12月4日に江南市民文化会館でリサイタルをされます。大学からイタリアまでずっと同行されていた奥さんの久美子さん(ソプラノ)も参加されます。

 いかなる歌声か今から当日を期待して待っています。
 何しろ稲垣さんは今後活動の本拠地はイタリアにするようですし、すでに当地の幾つかの劇場のオーディションにも合格し、ドイツやチェコのオペラにも参加が決まっています。今後は国際的に通用する数少ない声楽家の道を歩まれるようですから。

 それにしても、芸術音痴の身ながらこのところずっと芸術づいています。

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游氣風信 No33「中秋の名月 別離」

游氣風信 No33「中秋の名月 別離」

三島治療室便り'92,9,1

 

三島広志

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中秋の名月

 9月11日は中秋の名月、一年中でもっとも月が美しい日とされています。
 ただし、本来は太陰暦、つまりお月さんの運行から作られた暦に基づいていますので、中秋の名月は毎年旧暦8月15日の夜ということになります。

 近年なぜか名月の夜は天気が悪く、満月が夜空に煌々と輝く風情に出会うことかなわぬ年が多いのですが、今年は近づく台風に雲が蹴散らされたか、全天を静かに照らす満月が堪能できました。

 わたしの家は郊外にありますから、田圃や畑などの自然に囲まれています。家からほんの百メートルも行けば、実ったばかりの青い稲穂のただ中に立てるのです。

 きれいな月に誘われてちょっと出てみました。
 はたして田圃の脇の舗装されていない農道にはさまざまの雑草が強い夜風に揺れています。名前が分かるものだけでもエノコログサ(ねこじゃらし)や盗人萩(種が体にくっついて困るヤツ)、カルカヤ、ススキ、セタカアワダチソウ、アカノママ、スイバ、野菊などの秋の草がうっそうと茂っています。
 我があばら家の玄関にススキが活けてありましたが、おそらくこの辺りから持ち帰ったものでしょう。

 見上げれば南の空高く満月が白い光を放ち、その周囲を虹色の輪が淡く包んでいました。漆黒の机に置かれた白磁の皿とでもたとえましょうか。その神秘的な冷たく透き通った輝きは、いかにエンデバーが地球の回りを旋回しようと見るものを飽きさせません。

 洋の東西を問わず、月は人の心を波立たせます。
 月に触発された物語りも多く、我が国の「竹取り」(かぐや姫)は中でもとりわけ美しいものでしょう。しかも昨今はやりのSFの要素もあります。
 宇治拾遺物語には月がたくさん出て人心をたぶらかすので、名人が打ち落としたところ、タヌキか何かが化けたものであったなどという話があったような記憶がありますが確かではありません。
 それを題材にドイツの作家ミヒャエル・エンデ(あの有名な「モモ」の作者)も似たストーリーを書いています。

 宮沢賢治の生前に唯一刊行された童話集「注文の多い料理店」の中にも「かしはばやしの夜」とか「月夜のでんしんばしら」などが置かれています。月の光に照らされて現実からいつの間にか非現実の世界に移行していく初期の幻想的傑作短編です。

 満月の夜は、事件や事故が多いとも聞きます。その極端な物語が月夜になると狼に変身するという「狼男」でしょう。
 月は潮の満干に深くかかわっています。あるいはわたしたちの血潮にも影響を与えるのかも知れませんね。

 日本では昔から季題のベストスリーとして、雪月花が上げられています。
 冬の美は雪に象徴され、秋は月、春のこころは桜で代表されたのです。もっともこれなど京都を中心にした公家文化の名残であって、雪国の人が雪を風雅を眺めたとは思えません。雪は暗く冷たく憎く恐ろしいものであったに違いないからです。今日だってスキー場で儲けている人以外は同じでしょう。

 月は一年中ありますが、秋が一番美しいということで秋の季語になっています。また、花と言えばいろいろあるけれども、桜に勝るものは無いということで、歌の世界では花と言えば桜を指します。これはご存じのように中世以降のことで万葉集の頃は桃の花の方が人気が有りました。韓国や中国でも桃に軍配が上がるようです。

 さて歳時記を紐解いてみましょう。秋には月の季題に基づいた季語がたくさんあります。その中で名月に関係するものを少し紹介しましょう。たまに風雅に遊ぶことは、時間に追われた現代人にとってとても大切なことです。

待宵
 まつよい。陰暦8月14日の夜、名月を明日に控えた宵の意。夜と、その夜の月を指す場合がある。

名月
 めいげつ。陰暦8月15日、中秋の名月。もっとも月が美しい日とされる。穂ススキ、芋、団子などの初物を供えるのは収穫を祈る農耕儀礼の名残。
 この月の光で針に糸が通せたら裁縫が上達するとか、この夜絞ったヘチマの汁は皮膚を美しくするなどの言い伝えがある。
 明月・望月(もちづき)・満月・十五夜などもという。
 満月は日の入りと同時に東の空から出てくる。

良夜
 きれいな明月の夜のこと。

無月
 むげつ。雲で満月が見えないこと。

雨月
 うげつ。雨が降って満月がみられない。

十六夜
 いさよい。いざよい。陰暦8月16日の夜。満月より月の出が少し遅れるので、ためらうの意「猶予(いさよう)」を当てる。

立待月
 たちまちづき。陰暦8月17日の夜の月。月の出が16日よりさらに遅れるので立って待つ心持ちを言う。

居待月
 いまちづき。陰暦8月18日の月。17日よりさらに月の出が遅くなるので、居て(座って)待つという意味。

寝待月
 ねまちづき。陰暦8月19日の月。月の出がますます遅くなるので寝転んで待つという意味。臥待月(ふしまちづき)とも言う。

更待月
 ふけまちづき。陰暦8月20日の月。もう月は半分近く欠けてくる。夜が更けてから出てくる。

宵闇
 20日を過ぎると、日が沈んでから月が出るまでの間が長く、10時過ぎなければ月が出て来ない。この間の暗闇を宵闇と呼ぶ。月を待ち侘びるこころが込められる。


後の月
 のちのつき。十三夜とも。陰暦9月13日の月。明月の約一月後の満月に少し届かない月を眺める。そのわずかに欠けた月を愛でるところに風情がある(そうです)。
栗や枝豆を供える。

 立って待つとか座って待つとか、古人の感性にはただ脱帽するばかりです。

 日常の忙しさと俗事を離れ、一人風雅に稲穂を照らす月を観賞していましたら、冷たい夜風にさらされて、そのうえ夜露にあたったためでしょうか。突然おしっこがしたくなりました。そのためにわざわざ家に戻るのも惜しいし、月がわたしにもっといておくれとささやきますので、「えい、ままよ。よくぞ男に生まれけり。」と月を仰ぎながら闇にまぎれて立ち○ョ○とシャレこみました。
 これぞまことの立待月・・・お後がよろしいようで。

《後記》

 この夏、3つの別れがありました。

 カナダ人のトニー&ジャッキーが予定通り、2年の滞在を終えて9月初めに帰国しました。
 トニーはとても人懐こい好青年で指圧塾のご婦人たちにとても人気が有ったのですが、初めて来たときは髭もじゃの大男でみんなびっくりしたものでした。わたしなども熊が来たのかと思ったほどでした。しかし愛嬌のある笑顔と腰の低い物腰であっと言う間にみんなの人気者になったのです。
 ジャッキーは彼と将来を誓った彼女。知的で静かな(トニーはそんなことは無いと言いますが)イギリス系美人です。
 2人はカナダでの新生活を夢見て前途洋々と旅立っていきました。

 さて後の2つの別離はとてもつらいものでした。

 1人は3カ月の闘病の後に48歳で夭折された西村先生。理性と穏やかな優しさを兼ね供えた秀れたカウンセラーでした。いつもこの《游氣健康便り》を楽しみにしてくださっていて、一番大切な読者だったのです。
 あとには夫や高校生を筆頭に3人の子供さんが残されました。一番下はまだ小学生。
厳しい闘病だったと胸が痛みます。
 亡くなる数日前に病室に見舞って、
「寝たままで背中が痛いでしょう。背中をマッサージしてあげようか。」
と言いますと、横向きになりながら
「三島先生の超一流のマッサージをしてちょうだい。」
とすっかり衰弱されたお体で冗談まで言われました。
 最期までとてもしっかりしておられました。

 もう一人はわたしの所で一緒に身体調整の勉強をしていた接骨院経営の原瀬先生。
柔道5段の大男ですが、いつもにこやかに、はにかんだような顔をしていました。患者さんたちからもとても親切な優しい先生と評判でした。
 そんな彼があろうことか、子供の頃から親しんだ長良川に5歳の坊やを泳ぎに連れて入って、溺死してしまったのです。子供は幸い釣り人や中学生に助けられました。

 通夜の席で奥さんの憔悴した姿や、小学2年生のお姉ちゃんが健気に正座して挨拶している様子を見るとかける言葉が見つかりませんでした。
 「なんでこんな早よ逝ってまったんやろ。」と奥さんの口からやっとのことで吐き出された言葉が忘れられません。
享年38歳。わたしと同年です。
 言葉に対していささか楽天的なまでに信頼を置いていたわたしは、今回のことで言葉の無力さを徹底的に教えられる結果となりました。

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游氣風信 No32「虫愛づる 中上健次(差別と俳句)」

游氣風信 No32「虫愛づる 中上健次(差別と俳句)」

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《游々雑感》

虫愛づる・・・信州にて

 「花は生殖器である。」
とは牧野富太郎博士の言葉です。彼の著書でこの衝撃的かつ的確な表現に触れたときは圧倒されたものでした。
 美しい花は、自然の中で植物が世代を生き継いで行くための精一杯の知恵の化身、そのゆえの造形であって決して人間の花瓶を飾るための装飾ではないのです。
 そんな花を訪れるのは昆虫たちです。
 庭のムラサキツユクサの花に大きなマルハナバチがやってきました。普通の蜜蜂の倍くらいの大きさで毛が長く丸っこくて可愛らしい蜂です。
 可愛いからといって刺されてはいけません。彼らの仕事の邪魔をしないように眺めるのがコツで、体に止まっても手で払ったりは絶対にしないことです。放っておけば勝手に飛んで行ってしまいます。蚊の連中と違って蜜蜂族にとって人間の体は何の魅力も無いものですから。

 彼らはせわしく花の間を飛び回って、蜜を吸い、花粉を脚にからめて働いています。
よく見ると蜂は一度入った花には二度と入らないで、次から次に新しい花を目指しています。既に蜜を吸った花に近づいてもさっと避けて別の花に潜り込みます。無駄な労働は極力避けているらしいのです。そのあたりがせわしない動きとしてわたしたちの目に映るのかも知れません。 なにしろ人間は無駄なことが大好きですから。
 もっとも案外外国人から見た日本人も同じようにせわしなく見えるのかも。

  蜂の巣を燃やす夜のあり谷向かひ  原石鼎

 お盆が近づくころには信州の里には羽化したばかりのアキアカネが若やいだ艶やかさで花や枝の先に止まっています。アキアカネは小ぶりな赤トンボの一種です。でもこのころはまだあまり赤くなくてむしろ黄色といってもいいくらいでしょう。
 このトンボが一度山に上がって真紅になり、秋深むころ里に戻って来ると聞いたことがあります。ですからお盆前でも車でもっと高原にいってみると膨大な数の赤トンボに出会うチャンスがあります。
 昔の子供は赤トンボの羽根を毟(むし)ってトウガラシなどといって遊んだそうですが、もちろんわたしは昔の子供ではありませんからそんな残酷な遊びをしたことはありません。
 わたしが子供のころ流行ったのはトンボのお尻に線香花火を突っ込んで「ロケット!ロケット!」と叫んで飛ばす遊びです。こんな他愛のない無邪気な遊びはおそらく誰もがした経験があるでしょう。

  蜻蛉のとまるところに日が射して  牧瀬蝉之助

 上の田圃に行くと、農業用のため池があります。大きさは二反ばかりでしょうか。
そこに行く途中小さなヤギの牧場があって柵を抜け出したヤギに纏い付かれて大変です。
 池にたどり着いてから、じっと水面を見つめていますと時々何かが浮かんでは潜って行きます。それらはたいていオタマジャクシですが、時折何か丸く平べったいものがチラと光って動きます。なんでしょう。
 ゲンゴロウです。岐阜の昆虫館の名和館長がこのごろすっかり見ることができなくなったと新聞で嘆いておられた体長5・・はあろうかという見事なゲンゴロウがたくさん生息しているのです。
 この流線形で黒く滑らかな昆虫は子供のころから憧れのまとでした。水中網で捕まえてこの手でしっかり握ることができたのは齢30を過ぎてからでした。手の中で船のオールの形に進化した後ろ脚が力強く動くのを十分味わってから水に戻したものでした。
 名古屋近辺の田圃には茶色の小さなゲンゴロウは一杯いますが、大きなゲンゴロウはなかなか見つけることができないのです。

  源五郎話をききに灯を取りに    千賀静子

 表で妙に変な声がするなと思ったら、音調が整って「ミーンミンミンミーン」とやり始めました。どこで鳴いているかと耳をこらしていましたら、どうやら柏の木から聞こえてくるようです。
 信州では庭に好んで柏の木を植えるのです。一説には「かしは(柏)あっても借りは無い。」という駄洒落からだといいますが、信頼できる筋からの情報では次のようです。
 柏の木は落葉樹ですが落葉の仕方に特徴があります。普通の木は去年の葉が落ちてから次の若い葉が出てくるのですが、柏は若葉が出てきてから古い葉が落ちるのそうです。これを子供の成長を見届けてから親が死ぬ、つまり家が途絶えないという縁起にたとえた訳です。

 さてその柏の木から聞こえてきたのはミンミンゼミの声でした。この蝉の声は有名ですが名古屋近辺ではあまり聞けません。山の蝉だからです。
 名古屋では梅雨明けころの岩にしみいるようなニイニイゼミから始まって、油を煮たたせたように「ギリギリ」うるさいアブラゼミ、夏の盛りを「シャーシャー」とよけい暑くさせるクマゼミ、秋口、夏の終わりを感じさせるツクツクホウシという順番で蝉の社会が成り立っています。ミンミンゼミやヒグラシは山に行かないとまず聞けないのです。

 信州に限らず山国での蝉はなんといってもミンミンゼミです。朝から昼過ぎまで元気に鳴いています。夕方や日が陰るときにはカナカナと悲哀をあびたヒグラシの声が聞こえることもあります。
 今朝方、下手くそに鳴き始めたミンミンゼミはおそらく柏の木の根元から出て来たばかりに違いありません。何故ならわたしが近づくと木の下の草むらからばっと飛び立ち、近くに大きな抜け殻があったからです。
   ・・・・
  風呂をもつ家は風呂たて蜩に    高田風人子
  子を殴ちしながき一瞬天の蝉    秋元不死男

 トンボやチョウは自分の道をもっています。
 庭のオニユリにカラスアゲハが蜜を求めてやってきました。それを追いかけて近所の子供が網を抱えて飛んできます。ユリの花にぶら下がるようにしがみついて蜜を吸っているカラスアゲハに網を一閃、振り降ろしましたがアゲハは悠然と網をかすめるように飛び去っていきました。
 子供は「カラスはまた来るよ。」と言って立ち去りました。しばらくして、同じ子が網を担いでやってきました。辺りをぶらぶらして時間を過ごしているとやんぬるかな、さっきのカラスアゲハが舞い戻ってくるではありませんか。
 ユリに止まって蜜を吸っているチョウに慎重に近づいたその子はそっと網を寄せ、静かに掬い上げるようにアゲハを捕らえました。 「捕ったよ、おじさん。」と自慢げに見せびらかせた後、お盆には生き物を殺した
らいけないんだと空にアゲハを放ち、次の獲物を求めてどこかに去って行きました。

 虫の好きな子はこのようにチョウの習性を利用して捕まえるのです。

 オニヤンマという大きな虎の模様のトンボはご存じでしょう。緑色の目からは火を吹くような迫力があり、巨大なあごにかじられたらそれは痛いものです。
 このトンボも村の外れの用水に立って待っていますと、威風堂々行きつもどりつしています。それもたくさん行き来していますからものの10分で3匹は捕れます。
 チョウもトンボも何らかの縄張りか仲間との約束か分かりませんが、こうした道をもっていて行ったり来たりしています。それらはオスのようです。
 生まれつきの習性を学習によって変えることのできない彼らを確かファーブルは「本能のもの知らず」と呼んだと記憶しています。
 彼らは本能に対する忠義な性質を利用されてたやすく人間に捕まってしまうのです。

 あな恐ろしきは人間なり。


 これら自然ののどかな営みの奥には厳しい自然の淘汰があります。
 平穏な自然は食いつ食われつの結果として表面上は調和という優しさを見せていますが、それは食べられることを逃れた得たモノだけの世界です。しかも逃れ続けられるという保証はどこにもないのです。
 シラユリに止まって優雅に翼をゆらめかす貴夫人のようなアゲハチョウも身を守りながら食べ、子孫を残すことにのみ腐心している弱肉強食の世界に身を置く戦士なのです。

 自然を愛でるとはその陰の世界をも視野に置いて眺めることが大切でしょう。そうすればチョウチョは好きだがガは嫌いとか、アオムシは嫌だけどカブトムシは好きなどという偏見と差別に満ちた偽善的自然愛は無くなろうというものです。 アリのように大地の掃除屋がいてくれればこそ、庭が虫の死体で一杯にならずに済んでいることに目もくれず感謝もせず、たまに砂糖壷にアリがたかったからといって殺虫剤を取り出して大騒ぎすることはないのです。

 ひるがえって、わたしたちが人間界を見る時はどうでしょう。残念ながらわたしたちが人間社会を見る視座も実は虫の世界を見る時とあまり違っていないことを本当はしっかりと自覚する必要があるのです。
 つい口にしますね、「あいつは虫けらみたいなやつだと。」

中上健次

 角川書店刊の「俳句」誌では俳人以外の人による鼎談形式で俳句鑑賞を掲載しています。わたしはこのコーナーを最も愛読しています。参加者は歌人の前登志夫・岡井隆、作家の中上健次の各氏です。
 ところが最新号の平成4年8月号では中上健次氏が欠席していました。以前から健康状態が悪く、腎臓ガンであることを新聞や雑誌で明らかにしていましたから、心配していましたが、はからずも訃報として伝えられました。

 わたしは彼のファンではありませんが、新聞の訃報で興味を持ったことがありました。
 その記事には彼は非差別部落の出身であることが明記されていて、後日の吉本隆明の追悼文でもそのことに触れ、島崎藤村がその作品の「破壊」や「夜明け前」などで告発的に非差別部落の問題に触れてはいたものの切り込みは浅かったが、中上は現象の奥底に深く割り込み、差別そのものさえも超克した、すなわち人間を超え、山の神や地の霊の世界まで進んで、そこにおいて差別を実にあっけからんと乗り越えたと書いていました。

 それに対して帰宅して読んだ朝日新聞では中上の出自には全く近づかず、単に彼との交友録や文壇的(文学的ではない)評価でお茶を濁していました。

 長野は差別問題に地域で取り組んでいます。町のあちこちに差別をやめましょうと看板が一杯立っています。地域での取り組みが顕著なのです。また、根強い差別問題が身近にあるということでしょう。ですから信濃毎日でもはっきり書いたのかも知れません。

 先の「俳句」誌で中上は歯に衣着せぬ物言いで俳人から反感を持たれるほど俳人を斬っていました。編集部でカットされてしまうとも鼎談の中で述べているほどでした。

 ただわたしが予想するに現象の上辺だけを見て客観写生などとありがたがっている俳人に対してそのお目出度さにはがゆかったのかも知れません。今日の俳句はもともとが現実肯定的な呑気なものが大勢を占めていますから。
 生きている現実を素直に何の疑問もなくのほほんと生きているわたしのような人間は中上のように生まれついて何の言われもない差別に出会う人からすると何も考えず生きているように見ことでしょう。非差別部落民や在日の韓国人・朝鮮人のように本人の全く関与しえない部分で生まれついて差別を受けている人はまず現実の不条理に疑問を持つことでしょう。そして次に現実を破壊する行動に出るか、意味の世界で何らかの決着をつけようとするの違いありません。
 それのできない人はグレるか落ち込むかでしょう。どれを選択するかはその人の個性と能力によって決定されると思われます。
 中上は文学でそれに立ち向かったうえで、差別そのものを超克しようとしたのでしょう。そんな彼から見ると俳句の世界は実に薄っぺらなものだったに違いありません。
もちろん彼とて文学的に評価できる俳句や俳人はきっちり評価していました。彼は俳句を愛していましたから。

 ただいつも耳に残っている言葉があります。それは知り合いのアメリカ帰りの日系3世の女性の言葉です。

 「日本はいいわ。だって日本人だからといって差別されないもの。」

 場所と時代が変われば自分も差別される側の人間であることを常に自覚することは生きるうえでの基本だとは思っています。そして無自覚に生きるといつの間にか差別する側に回ってしまうのだということも。

 さらに人は若い自分と年老いた自分を比較して、若いときは良かったと今の自分自身を差別します。
 思うように手が動いたときと、五十肩で手が上がらない今とを比べて、この手が悪いのは使い過ぎて動かなくしてしまった自分に原因があるのは横において、手を責めます。他人を差別したり責めたりするのと同じように。
 
 「元気なときは障害者になぜ金をかけて面倒みなきゃならんかと思っとったけんど、自分が動けなくなったら勝手のええもんで、障害者をもっと大切にしよと思う。」とはわたしが訪問している患者さんの言葉です。


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游氣風信 No31「在宅Oさん 高血圧」

游氣風信 No31「在宅Oさん 高血圧」

三島治療室便り'92,7,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

《游々雑感》

Oさんの平穏を破るもの

 仮にK市としておきましょう。
 OさんはそのK市の中心部、民家の密集したところに住んでいます。年の頃なら古稀前後。

 わたしが初めてOさんの家に往療した今年の初め、彼女は鼻から流動食を入れるための管を付けたままにしていました。細いビニール管がおでこに張り付けてあり、その先が鼻の穴に入っていたのです。もう一方の管の端っこは上から流動食を入れる管と接続するようになっていました。
 食事時にはその管に流動食の入った器を連結して鼻から直接胃に落とすのです。

 看護婦さんでないと鼻から食道につながった管の抜き差しはできませんから、普段は海に潜って漁をする人が息継ぎの管(シュノーケル)をくわえたような感じで、ベッドに横たわっていたのです。もっともくわえるのではなく、鼻の穴に通してあるのですが。
 その当時まだ食事を上手に取ることができず、うっかり気管に入って肺炎を起こすといけないので、こういう処置がしてあったのです。
 しかし現在ではすっかり良くなってテーブルを付けた車椅子に座って普通食を食べています。

 脳卒中で倒れた彼女はその後、転倒で足を折ったり、肺炎を起こしたりで、入退院を繰り返していたのです。けれども、わたしがソーシャルワーカーを通じてOさんを訪問したときは、体のほうが一応の安定を得たので病院を退院して自宅療養に切り替えたばかりのところでした。

 ただ、家のベッドでじっとしていると体の機能が衰えて、いわゆる寝かせきり老人になってしまい、家族の負担も大変なので、看護婦による訪問看護が週2回、ホームヘルパーによる身近な部分での世話が週2回、移動入浴車による入浴サービスが月2回、そしてわたしが訪問のリハビリに週3回、保険婦による訪問が週に1回程度と結
構毎日誰かが来るようになっていました。

 彼女はお風呂が嫌いだから入りたくないと息巻いていました。
 「垢では死なん。」

ということだそうです。
 しかし訪問看護婦のMさんに自宅の風呂で入る方法を教わると、
「やっぱり気持ちええなも。」
とまんざらでもなさそうです。

 この訪問看護婦のMさんがなかなかの女傑で、入浴用の腰掛けなど寸法を計って自分でこしらえてしまいます。たいしたものとわたしはいつも舌を巻いています。

 Oさんは体こそ不自由ですが、それをはるかに上回る元気な口をお持ちですので、いつもヘルパーのSさんと何やら楽しげにおしゃべりしています。Sさんは体格のいい、明るい元気な女性で、Oさんほどの体重なら片手でブンブン振り回せるだけのパワーもお持ちです。

 OさんはSさんに車椅子でK市内をあちこち連れて行ってもらっています。何年振かで町中を散策するのであまりの変わり様に驚くばかり。
 「どこがどこやらちょっともわっかれせん。」
というのがOさんの感想です。

 Sさんは週に2回来てくれます。それ以外の日は時間があれば、お嫁さんのTさんが散歩に連れて行ってくれます。TさんはSさんと違って小柄ですから、車椅子に移るとき少し大変なようです。
 散歩に行けないときは車椅子に乗って家の前に出ています。そして、通りかかった近所のお友達とよもやま話に時を過ごされるようで、これで結構忙しいとはOさん言です。
 なにしろ女性の立ち話ときたらいったい話すことがどこにあるのかと思うくらい次々と話が展開して行って何の脈絡もなくきりもありません。

 Oさんのご主人は耳が遠いので会話が大変です。先だっても、用事があるのでOさんが大声でご主人を呼んでいたら向かいの人が何事かと家を飛び出して来てくれたそうです。

 そんなこんなで、Oさんの平穏は途切れない訪問者によって破り続けられているわけです。
 彼女は親しみ易い性格が幸いして不自由な体ながら結構毎日家族や周辺の人と上手に交じりながら暮らしておられます。

 こういう人のところへ往療にいくと、わたしの方が癒されているような気がするのです。

 なお、以上の内容は実在の人にヒントを得たものですが、事実そのものではありません。念のため。

《折々の健康》

高血圧常識テスト
以下の問題にはい・いいえでお答えください。解答説明はあと。

1 血圧は年齢に90を加えた値が適当である。
2 血圧が高くても自覚症状がないうちは安全である。
3 血圧が高くても、コレステロール値が高くなければ、それだけ安全といえる。
4 高血圧の人ははげしく体を動かすことを避け、安静にしているほうがよい。
5 入浴は高血圧によくないから、週に1から2回に控えるのがよい。
6 食塩を制限するコツは、なるべく薄味にすることである。
7 はげしく発汗すると体内の塩分が不足する。
8 高血圧の人は香辛料を控える必要がある。
9 降圧剤で血圧が下がっていれば、食塩制限の必要はなくなったといえる。
10 血圧が高いときは、一刻も早く正常領域まで降圧することがたいせつである。
11 降圧剤は内服よりも注射のほうが早く効く。
12 降圧剤は血圧が下がれば、副作用を考えて中止したほうがよい。
13 降圧剤は長く使用すると効きにくくなったり、副作用の心配がある。

答えは全部「いいえ」。

説明
1 これは統計上のいたずらです。高血圧のひとも低血圧の人もいっしょにして計算してみると、最大血圧の平均値がほぼ年齢に90を加えた値に近いというだけのことです。

2 もともと高血圧に特有の自覚症状というものはありません。いままでなんの自覚症状もなかったのに、突如として脳卒中や心筋梗塞を起こしたりするものです。
  自覚症状が出てから治療するのは遅いのです。

3 血清総コレステロール値は180から220mg/dlが理想です。高血圧の場合は血清総コレステロール値が高くなるほど心筋梗塞のおそれがあり、反面血清総コレステロール値が低くなるほど脳卒中が起こりやすいのです。

4 日ごろ体を鍛えていないと、ささいなことで血圧上昇が起こりやすくなり、肥満、高脂血症、糖尿病といった冠状動脈硬化症を危険を生じやすいものです。

5 浴室で脳卒中や心筋梗塞を起こすのは日本だけの話です。これは入浴自体が有害なのではなくて、血圧を上下に揺さぶるような入浴法をするからいけないのです。

6 食物に含まれている食塩量は舌ではわかりません。ほどよい味のみそ汁が冷えると塩辛く感じるし、塩と砂糖がいっしょになると塩味を感じなくなるものなのです。ちなみにちくわ1本には、なんと梅干し1個に含まれる塩分の2倍もの塩分
  が入っています。

7 日ごろ食塩をたくさんとっている人の汗や尿には、塩分がいっぱい含まれていますが、体内の塩分が多くないときは汗や尿の中の塩分はごくわずかです。1日9の汗をかいても1日に5の塩をとっていれば、体内の塩分量は十分に保たれています。

8 香辛料が血圧を上げるという証拠はありません。むしろ減塩で味気無くなった料理に香辛料を上手に使って、おいしく食べるというのが料理上手といえます。

9 降圧剤でふだんの血圧が下がっていても、不慮の血圧上昇は防げません。不慮の血圧上昇による脳卒中や心筋梗塞などの事故を防ぐには、血管壁のナトリウム貯蔵量を減らす目的で食塩は制限すべきです。

10 急激に血圧を下げると腎臓の機能が低下しますし、脳動脈硬化を伴っているときは脳梗塞を起こす危険があります。きわめて徐々に血圧を下げるのがコツです。

11 薬剤が体内に到達する速度は注射のほうが早いにきまっていますが、薬物の降圧効果が始まるには相当時間がかかるので、結局のところ、降圧の目的では内服でも注射でもそれほど差がないのです。

12 一時的に血圧を下げても、体内の昇圧機構が働いている間は、薬をやめれば再び血圧は上がります。治療開始が早期であっても2から3年は薬を続ける必要がありますし、治療開始が遅きに失した場合には一生飲み続ける必要があります。

13 経口利尿薬をベースとした現在の降圧剤治療では、長期にわたって連続使用することで効果が落ちることはありません。また万が一、副作用が出た場合には、別の種類の降圧剤に切り替えることによって、副作用を防ぐことができます。
参考 主婦の友 安心百科
成人病研究所所長 渡辺孝先生

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游氣風信 No30「陶芸 保健所事例会議 今日から始める俳句 米」

游氣風信 No30「陶芸 保健所事例会議 今日から始める俳句 米」

三島治療室便り'92,6,1

 

三島広志

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<游々雑感>

陶芸体験

 先月31日、名古屋市中村区の陶芸家、N先生の工房で陶芸に挑戦してきました。

 総勢12名。参加者の内訳は日本人4人、アメリカ人6人、カナダ人2人。ほとんどが初めてかそれに準ずる人。一人だけアメリカ人で本格的に陶芸をしている人がいました。
 N先生の工房は閑静な町の中にあり、ごく普通の民家の一階を全部陶芸のためのスペースにあて、住居は二・三階になっています。
 工房の真ん中に製作用の机がドンと据えられ、その上には手回しの轆轤(ろくろ)が何台か置いてありました。さらに庭への出入り口の所に、電動の轆轤が無造作に置かれ通行を妨げていました。

 工房の奥には完成した作品や窯入れを待つ製作途上の皿などを並べておく棚を設えた小屋があり、そこにも一台電動轆轤が粘土などと一緒にしまってありました。その小屋はN先生の手によって建てられたものです。
庭は菜園になっていていろいろな野菜が植えてあり、片隅には白い子犬が甘えたくて跳びはねていました。

 工房の一角には一辺150センチ位はあろうかという立方体のいぶし銀に輝く窯があって、太い煙突が窓から上のほうに這い出ていました。希望があれば人間を焼くこともできそうですが、多分警察に捕まることでしょう。
 とても大きい窯なので一度に相当たくさん焼かないと燃料費がかさむので簡単には火を起こせないそうです。

 まずは全員で紐作りによる抹茶茶碗に取り組みました。
 N先生が粘土を両手にくるんでくるくる揉むと直径1センチ位の紐がスルスル垂れてきますが、みんながやると太かったり細かったりのまるで田舎風手打ちうどんのようなものができあがり、あげくぷつんと切れてしまったりと、ままなりません。
 それでも全員苦労して立派に茶碗の形に仕上げました。

 体の大きなカナダ人のT氏は、器を自分の体形と同じようにとても大きく分厚くしてしまい、乾かした後でかなり削り取るはめになりました。いつも体重計に乗っては悲しそうな顔をしているT氏のことですから、きっとご自分の体も削り取れたらなぁと思いながら削ったに違いありません。

 繊細な風貌の米国人B氏は広口の夏茶碗を見事に仕上げました。表面を濡らした鹿革を使ってつるつるにしていました。うまく焼き上がれば品のいいものになるでしょう。

 米国人のB婦人は背の高い花瓶が欲しいといって、茶碗ではなく花器に挑戦して形よく作り上げ満足そうでしたが、25%は縮むと聞いてもっと高く作ればよかったと少し後悔していました。
 B婦人のお子さんの7歳になる可愛いFちゃんはピエロを作りました。去年まで幼稚園の粘土遊びで鍛えてあっただけに、なかなか上手でした。
 B婦人のご主人R氏は茶碗作成のあと、真剣に何かに取り組んでいました。聞くと能面を作るとのことでしたが、できあがりは髭を蓄えた西洋人の顔でした。いささか不可解感も残りますが、これは言語の相違による伝達の困難さゆえのことでしょう。


 そのあと、電動轆轤を何人かの人が試みました。
 先のT氏は苦労しながらも上手に湯飲みを作り上げました。ところがここで先生が大ちょんぼをしてしまいました。その出来立ての柔らかい、まるでサナギから蝶になったばかりのような作品を板に乗せて動かすときに倒してしまったのです。先生はすぐさま四角い口の湯飲みとして形を整えましたが、ひょうきんなT氏はハンカチを取り
出して泣く真似をしていました。

 A氏は実に見事に大きめの抹茶茶碗を完成させました。これには一同びっくり。わたしが「ジーニアス(天才)!」と叫びましたら、真っ赤な顔で照れていました。そのとき片耳の真珠のピアスがきらりと光りました。

 初めてながら皆さん結構上手に轆轤を回しました。しかし土が無駄になること。無駄になること。湯飲み一個作るのに十個分の土を浪費する感じ。水を加えればまた使えると聞いて環境保護に関心の深い外国人たちは安心していました。

 わたしは紐作りによる抹茶茶碗を過去に三回苦労に苦労を重ねて作った経験がありました。その暗い悲惨な土との悪戦苦闘の体験をその日は立派に生かすことができて、思い通りで、なおかつ先生お褒めの形ができました。荒々しい表(要するに雑ということ)はそのまま生かした方が良い、という先生のありがたい助言に素直にしたがって粗野な茶碗ができました。焼いたらどうなるかは神のみぞ知るですが。
 しかしその茶碗で抹茶を毎日飲んだら腕力が強化されることは確実でしょう。普通の倍近い重さであるには間違いないでしょうから。

 午前中で一通りの工程は終わりました。あとはN先生に色付けと焼き上げを任せて完成を楽しみにするだけです。

 先に帰った二人を除いて全員、二階の食堂に上がって先生の料理と皆の持ち寄ったお弁当を食べながらビールを飲みつつ歓談しました。
 最後に先生から全員に先生作のとっくりや猪口、皿や一輪挿しなどのうち一品づつをいただいてお開きとなりました。

保健所の事例会議参加

 先月わたしの元へ江南保健所から、寝たきりで家庭療養しているHさんの在宅医療に係わる一員として会議に参加してほしいと要請がありました。
 Hさんの在宅医療を今後どのように展開していくかという会議です。
 出席は主治医と県と市の保健婦、S病院のソーシャルワーカーと市のホームヘルパー、それに一番遅く係わり始めたわたし、あと保健所の偉そうな人たちでした。

 まずは過去数年間のHさんの病状の経過とそれに対するケアの報告があり、次に今後どのようにケアを展開していったら良いか話し合うというものでした。
 保健婦さんの作成した緻密な報告書を見てわたしのみならず、主治医の先生も大変驚かれ、一人の患者のためにここまで情熱をもって係わっている人々にいたく感心いたしました。
 なにぶんにもずっと一匹狼でやってきたわたしとしてはこのようなチームの一人として活動することはなかったので、この会議に参加することで新鮮な感慨を得ることができました。
 もっとも一匹狼と言えば聞こえはいいですが、波間に浮きつ沈みつしている水母(くらげ)のごとき怠惰な毎日を送っているわたしとしては、こんな会議に参加することは初めての経験なので緊張と戸惑いがありました。
 正直なところ、会議中、柔和な笑顔の保険婦さんから時折きりっとしたまなざしをこちらに向けられると、そのつど自らのいい加減な仕事ぶりを追及されるようで胸の動揺は禁じ得ませんでした。

 高齢化社会に向かっていろいろな試みが、まだまだ静かなささやかな潮流ではありますけど、確実に動き始めています。そしてそれらは病院における看護婦さんや地域に密着した保健婦さんたちのナイチンゲール精神に代表される善意的犠牲と努力の上に成り立っているようです。
 ちなみに保健婦とは看護婦が広く地域社会に貢献するためにさらに勉強して取得する資格です。助産婦も同様です。したがって看護婦も保健婦も助産婦もみな基本的に同じ志を有する女性たちなのです。

気楽図書館

「今日から始める俳句 黒田杏子著(小学館ライブラリー)」小学館¥720

 世は「無常」と言います。すべてのものごとは常ならず、いつも刻々と変化しているという意味です。
 ところが、音が「むじょう」ですから、つい心のどこかで「無情」と混同してしまい、はかなさ、つめたさ、わびしさという感情で捕らえてしまいます。
 もともと「無常」は感情を交えないで現象をそのまま見つめる冷徹な認識であり、反対に「無情」はこちらの感情に引き寄せてしまう見方です。
 つまり「無常」とは変化を言うのです。変化を悲しめばはかない、さびしいものとなり、喜べば新しさ、発展となります。
 青年も老い、花は枯れ、岩は風化し、繁栄を謳歌した文明は滅びます。しかし、変化は退行だけではありません。子供はたくましい青年になり、花は実を結び、岩は砂として生まれ変わり、滅んだ文明の遺産は新たな文明を築く礎となります。
 人は疲れ、睡眠を求め、翌朝、再び新しい一日が始まります。すべてのものごとはこうした巡りの中にあります。それをどう捕らえどのように感じるかはその人次第です。

 毎日の生活は一定のパターンの繰り返しからできています。
 日常性は安定を感じさせますが裏返せば陳腐なものです。ですから人は時々旅に出たくなるのでしょう。反対に非日常性とは不安定ながらも新鮮なものです。
 わたしたちの普段の生活はともすれば変化に乏しく何か時間に追われて流されているようなもどかしさを感じます。その時間の流れに対して時には杭を打ち込んでやりたくなるのが人情でしょう。生きた証しが欲しいのです。
 先に述べた旅行に行くのもその一つですし、身近なところでは日記をつけたり、写真やビデオを写したり、絵を描いたりします。また、短歌や今回紹介した本を参考に俳句を作るのもその方法です。
 流動的な土を焼き固めて「形」として永遠化する陶芸もまた同様です。

旅に出て、初めての風景に感動しその印象を胸に止め、日記やアルバムに時の断面を封じ込め、心の揺れを三十一文字や一七文字に刻み込み、素材に思いを交じえながらキャンバスに絵の具を盛り上げ、人間としての生きた確かな息遣いを止めておきたい・・・これはわたしたちが常ならぬ世に生きている不確かな存在であるからに外ならないでしょう。
 日常の流れに杭を打ち込むものの一つとしてここに紹介した俳句があります。
 作者黒田杏子は博報堂のキャリアウーマンとして多忙な毎日を暮らしながら、自ら主宰する結社誌のみならずテレビやラジオ、雑誌にと活躍する今日もっとも多忙な俳人として、また妻として、どれもが他を犠牲にすることなくむしろ互いに高めあって充実した毎日を過ごしておられます。俳句もさることながらその生き方と個性が多くのファンをつかんでいるようです。

 作者は日常生活と俳句の関係を季語を通じて次のように書いています。

 俳句の愉しさ、すばらしさの核は季語との出会いです。生きている限り、人はいつも何かに出合っています。そういう出合いの瞬間を季語に託して詠む、それが俳句です。この世の中の森羅万象、すべてが私たちとの出合いを待っていると考えてみたとき、生きている一瞬がかけがえのない大切な時になるはずです。(中略)何気なく眺
めていたすべてのものが、いったん俳句を作ろうという姿勢になった人には、まるで別物のように、生き生きと新鮮に見えてくるのです。


 わたしにもこんな経験があります。
 この春のことでした。「とうとう桜も終わりか。」と空を見上げました。そこには少し前までの豊かな桜の花は無く、枝にわずかな花びらが残っているだけ、しかも絶え間無くひらひら散り続けていました。
 桜が散るとき、人ははかなさを感じないではいられません。日本人は散る桜に人生を重ねて見ようとします。散り急ぎを美とする傾向さえあります。

 ところがわたしの目に飛び込んで胸を打ったのは散る桜ではなく、先日まで桜に隠されていた青空でした。
 満開の桜がその見事さと裏腹に、青空を覆い隠してしていたのです。春から初夏へ向かう瑠璃色の空を背後に追いやっていたのです。
 そのとき「桜の野郎め。こんな奇麗な空を隠していやがったのか。」というのがわたしの心境でした。新鮮な驚きだったのです。
 こんな感覚は漠然と眺めるだけでは見逃したことでしょう。

 さて、本の紹介の方がすっかりお留守になってしまいました。
 「今日からはじめる俳句」というタイトルからも分かるように今まで俳句に縁のなかった人、関心はあったが入り込めなかった人向けに実に優しく手をとって指導してくれてある本です。指導というより作者が一番楽しみながら読者と一緒に俳句会(通称句会、無記名で互いの俳句を選び、後で批評し合う会)や、吟行(日帰りもしくは一泊旅行に出掛け、その地で出合ったものを俳句にし、句会を楽しむ)をしている雰囲気。

 作者は「まえがき」に言います。
 俳句を始めて後悔している人に私は出合ったことがありません。年齢にかかわりなく、俳句を始められた方はどなたも、「あと十年早く始めていたら・・・」とおっしゃいます。 どうぞ、あなたも今日から、あなたの俳句づくりを始めてください。

<後記>
 尾張平野でも田植えが終わりました。
 息子に頼んだら田植え機が田圃とうまく接地していなくて、たくさん苗が浮いてしまい、手で植えなおしたという農家のおじいさんがいました。そのことを息子に言うと来年から手伝ってくれなくなるといけないので内緒にしているそうです。その人が田圃に入れるのも頑張ってあと十年、日本のお米はどうなるのでしょう。

 アメリカのお米を全部買っても日本の消費量の半分も賄えないでしょう。日本の農地の値段はアメリカの40倍、潅漑費が10倍、肥料代が5倍、農薬代が4倍、機械代が20倍。その日本の米がアメリカの3~4倍というのは大健闘。茶碗一杯が20~30円、あんパン一個が100円。こんな米を高いとわたしたちは信じこまされているのです。

 しかもアメリカは米に76,5%の補助金を出しているのです。日本は18%。これもアメリカの米が安い理由です。いかに日本の農家が苛酷な労働によって米を生産しているかがわかります。つまるところ普通の農家は米では少しも儲けていないのです。
 世界の米流通のほとんどはタイの米が賄っています。タイで米の生産量が1,4%減少したとき国際価格が53%高騰したそうです。米はまだまだ投機的な状況にあります。


 また水田のもつ保水能力はとても貴重です。ただでさえ山間部の農家や林業の後継者がいないところへきて米が自由化されたりしたら、山間部の田圃、例の棚田は壊滅します。すると水はあっというまに海に流れ去りますから、水不足や洪水などの治水に重大な問題が起こるでしょう。
 先程の農家のおじいさんの息子に対する愚痴は日本人全ての問題でもあります。
 資料参考は「コメの話 井上ひさい著」新潮文庫でした。
(游)

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游氣風信 No29「からだと環境2 陰と陽」

游氣風信 No29「からだと環境2 陰と陽」

三島治療室便り'92,5,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

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《游々雑感》

からだと環境
前号からの続き

 私たちの“からだ”は、地球の一部を貰って出来ていて、しかも、いつも絶えることなく地球を呼吸し飲食しエネルギーに変換して“いのち”を保ち、いらなくなったものは処理を地球におまかせ。何から何まで地球の世話になりっぱなし。地球に巣くう寄生虫なんですね。

 人間以外の生き物は環境に適応して、つまり環境に合わせて自分の方を変えてきました。キリンは高い木の葉を食べるために首を長く伸ばし、体が大きくなり過ぎて動けなくなった鯨は海に帰って泳ぎやすい魚の形になり、花は甘い香りを放って蜂や蝶を呼び込む術を開発しました。

 ところが人間だけは自分をあまり変えず、環境の方を変えることで過ごしやすい状況を造ってきました。さらにそうして作り変えた快適環境に自分を順応することで今日まで人類の歴史を営んできたのです。
 地中に眠るガソリンを燃やして冬を暖かくすることで弱い皮膚を作り、機械を工夫することで筋肉をやせ細らせたのはそのためです。

 動物としてのヒトが、社会的・歴史的人間として文化を築いた時、火と言葉を手に入れた時から、人間の不自然な行き方は避けられないものとして今日まで営々と続いているのです。そしてその方面での恩恵は十分に認められるものです。
 なぜなら希望や生きがいを持って「棲息」でなく「生活」し、「餌」でなく「食事」をいただき、「行動」でなく「仕事」を楽しみ、ゆとりの中で芸術に親しみ、人間らしい思索と創造をして生きて行けるのは素晴らしいことです。
 それらは皆、社会的・歴史的人間として自然そのものから少しく距離を取ればこそ可能になったことです。
 寒さが厳しい時、身を震わせてひたすら耐え忍ぶしかなかったら、何かを考えたり作ったりは出来ないでしょう。暖かくすればこそ、創造的な時間が持てます。
 食べ物を作る術を手に入れることが出来たればこそ、年老いたり、病気をしたりして自分で食にありつけない人にも回すことが可能です。
 これらは全て自然からいささか離れたからこそ人間が手に入れた能力なんです。
 けれどもその方向で何処までも突っ走ることは正しいでしょうか。先程、人間は地球に巣くう寄生虫と言いました。でも今の人間の行き方を進めて行くと、これは寄生虫の域を越えて、むしろ地球を蝕むガン細胞になってしまいます。いやもう既になっているかも知れません。
 寄生虫は自分の領分を知っています。増え過ぎると自分たちの宿り主が弱ってしまいますから、寄生虫の繁殖は押さえられ、適当にバランスがとられています。
 しかし、ガン細胞は勝手に増えるだけ増え、やりたい放題やってしまいますから、ついには宿り主は衰弱し、死んでしまいます。あげくの果てには結局、ガン細胞自身も一緒に死んでしまうという結末を迎えます。
 私たち人類の今の生き方はガン細胞の道をたどっているとしか言いようがありませんね。

 最近よく「地球を守ろう」とか「地球に優しい生き方」とか言いますが、これらのスローガンほど人間の我が儘さ、身勝手さを表した言葉はありません。私は大嫌いです。

 「地球を守ろう」と言うときの地球とは人間にとって都合の良い地球であり続けて欲しい、そのためだったら何かしましょうという気持ちが奥に読み取れます。
 地球は私たちが守らなくても一向に平気です。平均気温を5度も上げれば、あるいは下げれば、また地震で大地をゆさゆさ揺るがせれば人類は木っ端微塵に滅んでしまいます。そう、人間がいなくなれば地球は救われるのです。
 「地球を守ろう」とか「地球に優しい生き方」という言葉の持つ人間優先主義的な考え方をこそ捨てなければいけません。

 地球から「空」と「陸」と「海」を貰った“からだ”とエネルギーを吸収して維持している“いのち”を本当にいつくしむなら、今一度、私たちは地球とどう付き合って行ったら良いか、どこまでが許されるのかを探していかねばならないでしょう。
 さもないと人類は本当に地球のガン細胞、悪性新生物になってしまいます。それは自然のまま、生態系のまま食いつ食われつ調和して生きている他の生き物と違って、勝手気ままなことができる唯一の生物、「人間」の使命と言えます。

 あの青く高く美しい大空を胸に宿し、緑の草原と黒く屹立する山々からなる陸を腹に秘め、懐かしい潮騒の響きを熱い血潮として全身にみなぎらせている私たち人類。

 地球の一部、大自然の分かれとしての自分。
 自分という字は自然の分かれと書きます。
 その大いなる自然・地球と不即不離の存在としての生き方を、一人一人考えていくべきでしょう。

 自分の足元が地球。
 “いのち”と“からだ”の源である地球。
 地球の一部分である自分。
 大切にいとおしく生きて行きたいものです。
終わり


「陰」と「陽」

 先日、ニュース番組で15歳の競争馬が余生を生まれ故郷の北海道で暮らすことになったというショートドキュメントを放映していました。
 通常、引退した競争馬は一部の優れた馬を除いて食肉、主として動物園のライオンや虎の餌になるようです。好成績を残した馬は引退後、種馬として、優秀な子孫を残すことに奔走させられます。

 このドキュメントのあらすじは、人間の年に置き換えると75歳に相当するまで走り続けることのできた希有の馬が、その健在ぶりゆえに最初の飼い主の知るところとなり、無事食肉となる運命を逃れて生まれ故郷の牧場で悠々たる老後を楽しむことができるようになったというものでした。
 そのハッピーエンドを見て、スタジオの人達は感涙を流していました。それはとてもヒューマンな人間らしい当然の涙で、私もじんと来るものがありました。
 しかし、感動しただけでは不十分ですね。それでは自分の心をドキュメント制作者に翻弄されただけに終わってしまいます。
 なぜなら、大多数の人間のために都合のいいようにあしらわれ、利用されてきた競争馬の末路が、結局最後まで人間のご都合主義によって悲惨な結末を迎えている現実は何ら変わっていないからです。 この幸せな馬一頭の影に何万何千という悲しい馬の現実が存在します。走れなくなった馬はあいも変わらず毎日毎日ライオンの餌になっているということですから。


 ここまで考えると、じゃあ牛や豚や鶏はどうだということになります。先の馬が楽しい余生を送ることができたことに感動した涙は、はなっから食べられるためだけに飼育された牛や豚や鶏にも向けられていいはずです。さらには魚や大根やニンジンにだって同様でしょう。
 決してそういうものを食べるなと言っている訳ではありませんよ。ただ、感情的に一頭の馬だけに涙を流すという行為は美しいけれども、本当はそれだけでは不十分ではないか言うことです。
 初めから食肉として育てられた牛と娯楽の対象として育てられた馬とでは違うと言えばそれまでですが、であれば娯楽の対象の馬を最終的に娯楽の対象足り得なくなったとき方向転換して食肉にするのは余計残酷な気がします。

 こんなことを書いたのは競馬がどうとか、食の問題を云々とかではなく、私たちの認識が現実の一部を切り取って見せられたとき、それが全てだと勘違いしてしまうということです。このことは以前にもプールと海の水面が平面か曲面かという例で書きました。それは本来あらゆる水面は曲面なのに切り取られたプールの面を平らと勘違
いしてしまうということでした。
 早い話、テレビや新聞などの報道はもとより、人の話、さらに自分のこの目でしっかり見て、この耳ではっきり聴いたことでさえ真実を把握して伝えてはいない、どんなに努力しても伝えることは不可能だということが言いたいのです。

 漢方では「陰陽」というものの捕らえ方があります。物事はつい目立つ所だけで考えがちですが、目立つ部分は本来見えにくい部分に支えられて成り立っているというものです。

 禅にも「担板漢」という言葉があります。これは板を担ぐ男という意味です。「漢」は痴漢、酔漢、好漢、悪漢、大食漢などと同じで男を表します。板を右肩に担ぐと左半分は見えても、右半分を見ることは見えませんね。その状態でどうこう言うのは笑止千万。自分は「担板漢」になっていないか常に肝に命じていろという譬えです。

 先の陰陽に戻りますと、真紅の太陽が漆黒の闇に漂っている状態を想像して見てください。この時きらきら目立っている太陽が「陽」、それをしずかに支えている真っ暗な宇宙が「陰」ですね。

 競争馬の件で説明しますと、北海道で余生を送ることになった馬は、ああ言った形で紹介されたときそれは現象の中から目立つように切り取られた部分ですから「陽」となります。
 「陽」とは日が当たって目立っているということですから、それを見ただけであれこれ考えるのは物事の一面しか見ていない、表面しか見ていないということになります。

 1頭が助かったということの影には(つまり「陰」には)99頭の馬が悲しい結末を迎えているということに気付かなくてはいけません。助かった馬と助かっていない大多数の馬の両方、即ち「陰陽」両方で全体ということになるのです。
 物事の判断はこの陰陽両面を見て行かなければ本当に分かったとは言えないのです。
この陰陽は時間の流れも含んだ幾重にも重なった多重構造ですからそうは簡単に見ることはできません。
 自分が気がついたものが「陽」であり、そのとき見ることができなかったことが全て「陰」になります。

 私たちは普段空気の存在を意識しません。しかし命を支えるには空気の働きがとても重要です。空気は「陰」として私たちの命(この場合「陽」)を支え育んでいるのです。このように「陰」は極めて見つけにくい気付きにくい存在です。
 野球の投手が3塁走者を気にするあまり1塁走者に盗塁されるのも同様です。どうしても局部に捕らわれがちな選手に代わって全体を見渡し適確な判断をするのが監督の仕事となります。監督は常に空間的変化と時間的変化の両方を総括的に見るための存在です。
 犯罪の陰に女ありというのも「陰陽」にかかわる問題です。

 器が大きい人というのは大きな視野で深く、時間空間を含む物事を多重的、多面的に総括して判断できる人のことです。それは「陰陽」両面をはっきりつかみ取ることができるから可能なのです。

 「陰陽」は病気の診断や治療に応用すると漢方医学となり、社会の運営に活用すれば政治になります。また、ヒトを人間に作り上げる時応用すれば教育になるという具合に物事の根本理解や行為に有効なものとして古代中国で生み出された認識法です。


 胃が痛いという患者さんがいたとして、胃だけをみるのは「陽」にこだわっている段階。内臓全般を診察して、他の臓器とのバランスの兼ね合いから胃の治療のために肝のツボを用いたりするが漢方の鍼や指圧のやり方です。
 さらにはその人の家庭環境や職場の状況も考慮していかねばなりません。付き合い酒から肝臓を壊していてそこに帰宅時間の遅いことで夫婦のいざこざがあって胃にストレスがかかり過ぎているかも知れません。
 また昨今のように経済状況が悪ければ残業が減って収入が減少し、そのことで奥さんに不平を言われて胃が痛くなったのかも知れません。

 胃が痛いという「陽」の部分をさまざまな「陰」が覆っているのです。
 古代中国では「医は国師」と称して、人間の病を体だけの問題として考えないで国の政(まつりごと)をも包括して捕らえていたようです。

 などと、馬の話を見ていてとりとめもなく考えてしまいました。このとりとめのない部分が「陰」になります。
 そしてそれに気付いた瞬間、その「陰」はさらに大きな「陰」に包まれることになります。
 これ以上考えると脳みそが混乱して腐敗しそうですからここらで中止します。

《後記》

 身体障害で一人暮らしのTさんが、50歳にして短歌を始められました。従姉妹の勧めで作り出したということで、幾つか私に見せて批評と手直しを求められました。

 正直言って、始めたばかりの作品では短歌の体をなしておらずとても批評をするに値しないものでしたが、歌のモチーフがしっかりしていたので、ところどころ手直しして五七五七七の短歌の形にしたてあげました。
 そのうちの数首を従姉妹の先生に見ていただいたら、とても高い評価を得られ、自信をつけた彼女は毎日一生懸命歌作りの励んでいます。

 技術はまだまだですが、つらい人生を明るく生き抜いて来た人らしく着眼点にはなかなかおもしろいものがあり、治療に行っては短歌の添削をさせられています。
 短歌を始めてからとても生き生きしたTさんを見ていると、やはり生きる励みになるものを持つことは素晴らしい、内面から力が沸いてくるものと感心しているこの頃です。
 今の熱意からすれば、遠からず私ごとき門外漢の添削は無用になることでしょう。

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游氣風信 No28「からだと環境1 過敏性腸症候群」

游氣風信 No28「からだと環境1 過敏性腸症候群」

三島治療室便り'92,4,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

<游々雑感>


 4月12日は世界規模で行われる草の根の大きな行事、アースデイ(地球の日)です。

 アースデイは毎日の自分の小さな行為が必ず地球と係わっていることを改めて認識し直すための記念日なんです。

 1960年代、アメリカは環境問題が深刻化してきました。環境保護のためには法的な整備が必要と、G・ネルソン議員が1970年4月22日をアースデイと宣言して、これをD・ヘイズ氏が世界的な運動として組織化したものです。
 1990年には世界141カ国、2億人以上の参加があったそうですが、名古屋でも1990年が500人、1991年には5000人の参加がありました。

 指圧塾に参加しているシャナン・クレインさんが、名古屋のアースデイのリーダーとして活躍しています。彼女は環境問題、例えば藤前干潟の問題などでよくテレビのニュース等で紹介されていますから、顔は見覚えがあるかもしれません。
 また、彼女以外の外国人生徒達もアースデイに大変関心が深く、アースデイが国際的なイベントであることが伺われます。
 今日はアースデイにちなんで“からだ”と“いのち”と“環境”について簡単なお話しをします。

からだと環境

 まだ地球に“いのち”が生まれてない頃のこと、今からずっとずっとの遥かな大昔。
地球には「空」と「陸」と「海」とがありました。

 「空」は青々とあくまで透き通り、底の無い静けさをたたえていました。
 「陸」は黒々と横たわりその先にはうるうる高い山が連なっています。
 そして「海」は寄せては返すぐんじょう色の波に輝いていました。
 そこにうごめくのは風だけ。空に舞い上がり、陸をびょうびょうと吹き抜け、海鳴りを生んでいます。
 原初の地球は生き物の息吹の無いがらんとした静けさに覆われていたことでしょう。


 ある時、どうしたはずみか、海の中にいのちの仄めき(ほのめき)が漂い始めました。それは細胞膜という袋の中に「空」と「陸」と「海」の素晴らしいエッセンスを封じ込めた“いのち”ある“からだ”です。

 つまり、“からだ”とは「空」の爽やかさと「陸」の暖かさと「海」の優しさを細胞膜や皮膚と呼ばれる袋の中に詰め込んだものです。
 そしてその“からだ”を“いのち”として育むために、「空」からはすがすがしい早朝の林のような透明なエネルギー、「陸」からは取り立てのパセリのような生き生きしたエネルギー、「海」からはきらめく塩の結晶のようなエネルギーを絶え間無く“からだ”に取り入れているのです。

 私たちの“からだ”はこのように外の環境である「空」と「陸」と「海」を内側に閉じ込めた内なる環境として存在し、外なる環境と常に交流しながら“いのち”を育
んでいるのです。

 では、私たちの“からだ”の中の「空」とは一体何でしょう。
 それは鼻から胸一杯空気を吸い込むところ、肺を中心とした呼吸器官です。
 私たちは自分の胸の中に太古の「空」を持っているのです。青く高く澄み切った大空が胸の中に息づいているのです。時には夕日に哀しく染まり、時には真夏の太陽のように深紅の情熱がほとばしります。
 そこには今も一瞬たりとも休まず「空」のエネルギーが満ち溢れています。
 「空」は風となって私たちの“からだ”の中に入り、“いのち”の息吹と換わります。
 次に、私たちの“からだ”の中の「陸」は何処でしょう。
 それは口から食べたり飲んだりして生きる糧を取り入れる腹ですね。腸を中心とした消化器官です。

 土の中には根粒菌などというバクテリアが住んでいて空気の中から窒素を取り出して植物の肥料にしてくれていますが、私たちの“からだ”の中にも有名なビフィズス菌などのバクテリアがいて、消化を助けてくれたりその他さまざまな働きをしてくれています。
 植物は土の中から根っこを通じて栄養を吸収しますが、私たちの腸の表面にも根っことそっくりの形と役割の組織があって栄養をそこから吸収しているのです。まさに土の中と腸の中はそっくりなんです。

 最後に私たちの“からだ”の中の「海」とはなんでしょう。
 丘の上から遥かな水平原を眺め、潮騒を聞いていると何となく懐かしいような哀しいような気分になる人が多いと思います。
 私たちの祖先は海から陸(おか)に上がってきたのです。皮膚のようなしっかりした袋を持たなかった遠い祖先は最初海の中を住まいにしていたのですね。それから長い年月を経て陸を生活の場としたとき、“からだ”の中に「海」を持つ必要があったのです。
 “からだ”の中の「海」は、今でも血潮と呼び称されるところ、血やリンパなどの循環器官です。
 海の成分と血液の成分は性質や比率がそっくりなんだそうです。そして植物の緑の部分、葉緑体も。血液の赤と植物の緑と海の青は本来同じものなんですね。

 おさらいしますと、私たちの“からだ”は「空」と「陸」と「海」という外の環境を取り込んでそれを皮膚という袋の中に詰め込んだ内なる環境のことで、その袋の中は常に外なる環境の「空」や「陸」や「海」のエネルギーを貰うことで“いのち”としているのです。

 それだけでなく“からだ”の中で古くなったり、いらなくなったりしたもの、即ち「うんち」や「おしっこ」などは外の環境に放り出して、あとは知らないよ──と、外の環境つまり地球にゆだねてしまっているのです。実に勝手がいいものですね。

 私たちを取り巻く外の環境つまり地球は黙ってそれを処理してくれます。私たちが取り込んで利用し、「うんち」や「おしっこ」として捨てたカスは地球によって分解されてまた「空」と「陸」と「海」に再生されるのです。しかもタダで。

以下次号


《折々の健康》

過敏性腸症候群
ストレスの春が腸に来る
読売新聞 平成4年4月2日号より

 緊張すると、すぐトイレに行きたくなったり、おなかがゴロゴロ鳴るといって症状を訴える「過敏性腸症候群」は、ストレス社会ならではの神経性の腸の病気と言われる。新入社、人事異動のこの時期には、若いOLや管理職になりたての中高年層からの相談も多い。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
 この病気は、不安やストレスなどの心理的、精神的な要因が、腸の働きに影響を与え、便通異常という身体症状として表れる。ふつうは、下痢症状を訴える人が多く、中には毎食後トイレに行くというひどいケースもある。逆に頑固な便秘に悩む場合や、下痢と便秘が交互に現れることもある。

 東京・八王子市の南多摩病院副院長の村田高明医師によると、季節の変わり目で、自律神経のバランスをこわしやすいこの時期には、「いつも下痢気味」「おなかの調子が悪い」などの症状で病院を訪れる若いOLが多い。最近は四十代の管理職タイプの男性も目立っている。胃や腸などの検査をしてみても、特別異常が見つからない場合、ほとんどが「過敏性腸症候群」という。

 当面の治療には、下痢や便秘を直す薬を投与して、症状の改善に努める一方、イライラなどが激しい場合、精神安定剤などを与えることがある。
 また、最近では、副作用の少ない漢方薬が処方されることも多い。

 村田医師は、こうした当面の治療とともに、さまざまなストレスを解消することの大切さを強調する。現代社会では、家庭にも職場にもストレスの原因が存在する。患者の中には、ストレスの原因となる事柄から逃避するために、医師に病気だと言ってほしくて病院にやってくる人さえいるという。

 じっくりと職場の人間関係や日々の悩みなどを医師に聞いてもらい、カウンセリングを受けることも一つの方法だ。「心療内科などで心理テストや精神療法を受けることを考えてもいいでしょう」と村田医師。

 もう一つ、村田医師は、規則正しい生活を送ることをアドバイスする。
 学生生活の延長で、深夜遅くまでテレビを見ながら間食をする。翌朝、朝食をとらないまま会社に出かけ、駅で栄養剤のドリンクを飲むとかダイエットのため食べないという人も多い。また、不必要に薄着をするのもよくない。
 「偏食せず、きちんと食事をする。要するに、快食、快眠、快便のリズムを守ることが精神的にいい影響を与えます」と村田医師は話している。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 さて、以上の新聞記事を読んで、もしかしたら自分もそうかもしれないと思い当たる人もおられるでしょう。この手のあいまいな病気に関する情報を見たり、聞いたりすると全部自分に当てはまってしまうもんです。

 この過敏性腸症候群はこのところマスコミがちょくちょく取り上げますから、わりと知られています。といって、最近発生したものではなく、昔から報告されているものです。
 軽い一時的なものは誰でもが経験しているはずです。よほどの強心臓の持ち主でない限り、試験や試合の前になると急におなかが痛くなってトイレに駆け込んだ覚えはあるでしょう。これは急性のもので、原因もはっきりしているから全く心配ないものです。

 問題は長年にわたって反復し、何かことがあると憎悪することです。医学辞典(南山堂)によれば、

過敏性大腸症候群(腸症候群とほぼ同じ)
 自律神経系の失調によって起こる結腸の運動、分泌機能の異常で、腹痛、腹部不快感、腹部膨満、腹鳴、下痢、便秘、交替性便通異常、粘液便、悪心などの腸症状のほか、疲労感、頭痛、動悸、多汗などの血管運動神経症状を伴うものである。

 原因としては緊張、ストレスなどの心因性の影響のほか、下剤の乱用、刺激性の浣腸、喫煙過度があげられる。

ということです。

 私たちは冷暖房によって気温を調整し、電車や自動車によって移動を楽に変え、流通の整備から季節、産地を問わずに好きな食べ物を好きな時に食べることができます。
環境を住みやすい形に作り替えてきたのです。私たちの祖先たちが夢見た理想郷のような生活をしているのです。
 平清盛のように栄華を誇った人でさえ、下宿に住む学生より暑い夏を暮らしたことでしょうし、世界史に君臨するクレオパトラがスーパーの食品売り場を見たら腰を抜かすことでしょう。

 ところが、そんな暮らしを維持するために、現代人は昔の(ほんの数十年前の)人とは全く異なったストレスにさらされるようになってしまったのです。そしてそのストレスに対する抵抗力はまだ身につけるには至っていません。

 この身体は冬は寒さに耐えるものとして、自律神経やホルモンが発達してきましたし、夏も同様に暑さに負けないような身体になっています。ところが今の夏は上着がいるほどガンガンに冷やしてありますから、デパートで働いている女性の中には腰に懐炉を当てている人もいるとか。
 日の出とともに動きだし、日の入りとともに休んでいたリズムもがたがたに崩れました。

ストレスとつきあう

 逃げるのも一つの方法です。しかしどうしても逃げられないストレスもありますし、どこまでも逃げ切れるものではありません。重い病気や怪我からは逃げられませんし、職場からは逃げ出せてもまた次の職場を探さなくてはなりません。

割り切り、諦めるという手もあります。あの上司はああいう人だからもう何をいってもしょうがない、振り回されるだけあほらしい、仕事はお金を稼ぐ手段と割り切ってしまう方法です。

 切り替え能力を身につけるのも、現代人には必要でしょう。仕事が終わったらさっと「5時から男」に変身するのです。もっとも5時に終われる職場は一体何処にあることでしょう。
 趣味を作って、そちらに生きるのは先の切り替え、割り切りにつながります。

 孤立しないことも大切です。愚痴を聞いてくれる人を身近に持つのです。もちろんこの関係を長く続けるには時に応じてこちらも聞き役になることが肝心です。井戸端会議は優れた精神安定所だったことでしょう。今は喫茶店が取って代わっています。
午前中に入ると嫁や姑の悪口が飛び交っています。それはもうすさまじいもので、私などそこにいるだけで悪口が耳に飛び込んできてストレスから過敏性腸症候群になってしまいそうです。

 ストレスからはいかにしても逃げることはできません。完全にストレスを回避したとしたら、今度は退屈というストレスにさいなまれることでしょう。適度なストレスは私たちが生きて行くうえで必要不可欠のものなのです。身体がそう出来上がっているのです。
 今仮に生ぬるく泡の出ないビールを想像してみてください。飲む気が起こらないでしょう。あの喉元をきゅーっと刺激する程度のストレスはなくてはならないものなのです。そこに枝豆があれば・・・これは余談です。

 先の記事には規則正しい生活が必要と書いてあります。しかしそんなことはみんな分かっていることですよね。ストレスを解消することが大切なもの十分承知です。それでもできないからストレスによる病気や問題が起きているのです。

 子供の頃を思い出してください。遠足の当日、昨夜はうれしくてなかなか眠れなかったにもかかわらず実に気持ちよく早起きができませんでしたか。
 これが軽度のストレスに対応するヒントです。毎日を浮き浮き生き生き生きることで、同じストレスでも身体が上手に適応してしまうようです。いのちの奥から行動を駆り立てるもの、元気の元を掘り起こせたらいいのです。

 生きてて良かった!といえる感動が毎日のようにあれば最高です。それを発見する能力は自分が自分に対して行う教育でしか身につかないものです。そしてそれは老後を有意義に過ごすために極めて重要な能力だと思います。

 訓練によってその能力を身につけ得た人と身につけることなく老いた人では歴然たる差があることは、皆さん現実に目の当たりにしていますよね。
 俳句や短歌、盆栽やカラオケ、書や踊りなどに挑戦することで新しい快適なストレスを取り込んでいるお年寄りはいくらでもいます。
 子供のうちは生き生き能力は誰にでもあるのですが、社会という枠組みに取り込まれて生活しているうちに失ってしまいます。その能力を取り戻すには自分で自分を教育するしか方法がないのです。そして、自分で自分に教育することこそ人間と他の動物を分ける文化的指標なんです。

 ストレスも過度になってきますと、本人がストレスに打ちのめされていることに気付けなくなっています。案外元気そうに生活していたのが、一定の限界を超えてポキンと折れてしまうことがあるのです。その場合は周囲の人の思いやりのある“まなざ
し”がそれをひどくなる前に発見して上げなければなりません。普段からそいういう環境を作る努力が必要です。環境を作る努力、これも人間ならではのものですからね。

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游氣風信 No27「暦・裸祭り・五十肩」

游氣風信 No27「暦・裸祭り・五十肩」

三島治療室便り'91,3,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/


《游々雑感》

 3月は陰暦で弥生と呼ばれていましたが、その語源は「草木がいや(弥)がうえにも生い茂る」すなわち「いやおひ」からきているそうです。なるほどうまく言い表しているものと感心します。そうなると1月の睦月や2月の如月の語源は如何にと関心が沸いて来ようというものです。

 陰暦一月の睦月は「睦み月(むつみつき)」、新年を親しい人達と親しみ睦み合ういう意味。「一年の計は元旦にあり」と年の初めを大切にしたのでしょうね。
 今の季節に当てはめると2月上旬から3月上旬、今年は2月4日が旧の元旦です。

 如月は諸説紛々です。暖かくなったとはいうものの、それゆえに感じるうすら寒さのために服を更に着るので「衣更着」。陽気が発達する季節なので「気更来」または「息更来」。草木の芽が張り出す月なので「草木張り月」。田を鋤き畑を打つところから「鋤凌(すきさらぎ)」等々。
 感覚的には「衣更着」が共感できますね。陽暦ではほぼ3月から4月頃になります。


「風雨改まりて、草木いよいよ生ふるゆゑに、いやおひ月といふを謝まれり」が始めに書いた弥生です。表日本の桜の頃。盛りの桜を楽しみ別れを惜しむ気持ちが含まれています。陰暦の三月ですが陽暦では大体4月上旬から5月上旬に跨がる頃に相当します。
 「さくら さくら 弥生の空は」の意味が理解できました。

 卯月は陰暦の四月。卯の花の咲く月。一説には稲を植える「植月」も。自然と農耕が生活や暦と深くかかわってきているのがよく分かります。
 今の5月上旬から6月上旬。

 陰暦の五月は「皐月(さつき)」で陽暦の6月上旬から7月上旬。「小苗月」、「五月雨月」、「早苗月」の略等との説がありますが、早苗月が穏当と言われています。

 橘の花が咲くので「橘月」、五月雨で月を見ることが稀なので「月見ず月」とも。
ここから五月雨は今の梅雨であることが見て取れます。
 庭木のサツキとの関係は分かりませんが、多分皐月に咲くのでサツキと名付けたのでしょう。
五月晴れは梅雨の合間の晴れた日を言いますが、今日一般的には5月の爽やかな薫風の日を呼ぶようになりました。

 水無月は陰暦の六月で、陽暦では7月上旬から8月上旬頃に相当します。子供のころ、どうして6月は毎日毎日雨が降り続く梅雨時なのに水無月と呼ぶのか不思議でした。
新暦の7月を表しているなら例年水不足がささやかれ始める月なので合点がいきます。

 炎暑に苦しむ陽暦の8月上旬から9月上旬は陰暦の七月で文月。ややこしいですね。
書いていて混乱してきます。
 名古屋周辺ではお盆を8月に行いますが、東京方面では陰暦を踏襲して今でも7月に行うようです。
 子供達にとって8月は夏休み、海や山が呼ぶ楽しい月です。しかし同時に広島、長崎の原爆の日に続いてお盆と敗戦記念日がくるところになにか心に訴えかけてくるものがあります。その頃にはそこはかとない秋風も吹き初め、赤トンボがそれに乗り里まで下ってくるし、いやがうえにも感慨が深くなり死者(祖先)との距離が近づく季
節です。
 文月の語源は「穂含月」「穂見月」とありますが、一般には「文披月」とされています。意味は七夕のために貸す文をひらくということですが正直いってよく分かりません。

 陰暦八月は葉月、今の9月上旬から10月上旬に跨がります。由来の説にいろいろあって「木の葉のもみぢて落つるゆゑに、葉落ち月」「雁が始めてくるので初月、または初来」などあってはっきりしないようです。

 長月は陰暦の九月で、現在の10月上旬から11月上旬です。語源は夜が長くなるので「夜長月」。もう一つは雨が長く降るので「長雨月」。この頃の長雨を秋霖と呼びます。
 11月初めから12月初めにかけては陰暦の神無月で十月。俗説に諸国の神様が出雲に集まり不在になるので神無月。もちろん出雲では神在月。

 霜月は陰暦拾壱月。12月上旬から1月上旬に相当。霜降りの月です。

 おしまいは有名な師走。時節的には現在の1月上旬から2月上旬に当たりますが、今日では混同して陽暦の12月に用いています。
 師(僧侶)が忙しく走り回るところから派生したとされています。別説に一年の終わりの「為果つ月(しはつつき)」とも言われていますが、いかにも忙しい雰囲気から師が走るのほうに軍配を上げたいですね。

 こうしてみますと、陰暦と陽暦の間にはかなりの季節感のずれがありますね。農耕には陰暦のほうが実用的ですから農時暦は今でも陰暦となっています。


裸祭り

 国府宮の裸祭りは毎年陰暦の1月13日に行われます。今年は2月16日の日曜日に重なったので大変な人出だったようです。
 裸祭りは正式には尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ=国府宮)の「儺追の神事(なおいのしんじ)」と言い、一人の神男を選んでその人に皆の災難を受けてもらい厄を逃れようという祭りです。

 何日間か身を清めた神男が拝殿に出ると儺厄を落とそうと各集落から集まって待ち構えていた裸男たち(主に数え年の24歳と42歳の厄男たち)が神男に少しでも触れようと殺到し、反対に神男を守るための護衛も活躍して激しい揉み合いになります。

 そこに手慣れた人達が水をかけて裸男たちを誘導して神男の道を作ります。神男はうつ伏せのまま触られたり殴られたり踏ん付けられたりして半分失神状態になるそうです。それを護衛の人達が神男の腰に縛りつけた縄を引っ張ったり担いだりして運んで行きます。
 かけられた水は寒空にもうもうたる蒸気と立ち上がり、実に勇猛果敢な男らしい祭りとなります。しかし参加した人に聞いた話では寒風にさらされた肌に水がかかるとものすごく痛くてあちこち逃げ回っているのだというのが一面の真相だそうです。いずれにしても掛け声と熱気、水蒸気を舞い上げて揉み合う男たちの勇壮な祭りのクライマックスを迎えます。

  その後、裸男たちは酔いから醒めて泥んこのまま家路を急ぎます。祭りの後の侘しさと裸の寒さと恥ずかしさが一度に襲ってきて、2度と裸何ぞになるものかと、ちょうど二日酔いの時と同じ心境にさいなまれるのですが、また来年その日が近づくと気もそぞろになり、裸で国府宮まで走って行くのだそうです。
 最近は神社の近くに風呂と着替えの場所を確保して参加する人達が増えていますが、その家がどこだか分からなくなってたどり着けない裸男たちも一杯いるようです。

 その夜、主役の神男は餅を背負って土に埋めてみんなの厄を払います。もっともそのとき神男は一人では歩けないほど疲弊しますから、両脇を支えられてやっと成し遂げるのだそうです。神男はまさに命懸けなのです。

 昔は旅人や乞食を無理やり神男に仕立てあげ、あげくのはて、殺到する厄男たちに揉み殺されたなどという生け贄のような話も伝わっていますが本当のところは分かりません。でも祭りの本来の在り方からすると真実のような気がします。
 どこかは知りませんが、似たような祭りで神男でなく木の玉を奪い合う「玉せせり」というのもあります。

 翌日には事前に奉納された大鏡餅が皆に一かけら100円くらいで頒けられて、その餅を食べると風邪を引かないと伝えられています。また裸男が首に巻いていた手ぬぐいを裂いて貰うとそれも病気除けになるとありがたがられています。

 そして祭りが終わると尾張平野はゆっくりと春に向かいます。

  梅の花ちるや儺追の神嵐    丈草
[参考 日本大歳時記 講談社]


《折々の健康》

五十肩

 およそ齢50になる頃、棚の物を取ろうとして肩がズキンと痛かったり手が上がらなかったり、帯を後ろで締めようとしたら手が後ろに回らない、ブラジャーのホックがうまく止められない、夜中に肩が疼いて目が覚めてしまうなどの症状が出てくると、五十肩と呼ばれます。
 英語ではフローズンショウルダー(凍りついた肩)と呼んでいます。
 症状の辛さと50という加齢を意味する名称が結構本人にはこたえるのですが、案外周囲は冷淡です。なぜなら命にかかわる病気ではないし放っておけば大体治ってしまいますから。

 もちろん50歳前にかかる人もいれば、70歳すぎてなる人もいます。若い人は「そんなに年じゃないのに、嫌だわ。」と言うし、年配の人は「わしも案外若いなも(発音はアンギャーワキャーナモ)。」と喜びます。

 この病気の原因はまだはっきり分かっていません。どこかに強く打って痛み出したり、仕事で手や腕を使い過ぎて症状が出たのなら原因がはっきりしていますから違う病名がつくでしょう。これといった原因もなく自然にいつの間にかさまざまな症状が出てくるものを五十肩と呼ぶのです。

 50年間ひたすらこちらの言いなりに働いてくれた腕が、「すまんがちょっと休ませてくれんか。」と勝手にストライキを始めたようなものです。思えば身体は精神の僕として何ひとつ苦情を言うわけでなく黙々と機能をこなしてくれています。わたしたちが身体に関心を持つのはどこかが悪くなったときだけですからね。

 ここはひとつ身体の訴えに耳を貸して、こちらの都合ばかり考えて無理に使っていたことを反省してみましょう。そして身体からのいろいろな信号を素直に聞いて身体と仲良く暮らして行く必要があります。
 運動選手や音楽家などは「この膝さえ痛くなければもっといい記録が出るのに。」
「手がよければ演奏ができるのに。」といいますが、膝を悪くしたのは、手を壊したのは誰かが忘失されています。自分の身体を道具の感覚で見ているのです。

胃が悪い原因は食べ過ぎた自分が作ってはいないか、自分がやりたいからと好き放題にやって身体を壊してはいないか、よい機会ですからちょっと立ち止まって考えてみるといいでしょう。
 自分が原因を作っていると分かったら健康保険は使わないくらいの心構えがほしいですね。ただ安いから、保険料を払っているからと娯楽での障害や飲み過ぎに健康保険を利用しようなどとは思わないでほしいものです。
 身体は本来体と心が不可分に存在しているものですから、改めて身体をいたわる気持ちが大切です。
 五十肩やぎっくり腰などはそのチャンスなんです。

炎症
 五十肩は肩の筋肉や関節、腱などに炎症が起こっています。痛いから動かさないと筋力が弱くなって肩と腕の境の関節が不正になり、神経の痛みも出てきます。これは疼きや鋭い痛みが肩から肘、手首までも響いてきます。

 この炎症があるから五十肩はなかなか治らないのです。
 以前仕事で手を酷使して手が上がらなくなった30代後半の女性の調整をしたことがあります。この人の場合、骨盤の調整と肩甲骨と鎖骨の間を少し広げる調整をしたらすぐ上がるようになりました。これは五十肩ではなかったから簡単に処置できたのです。

 ひどくなると関節に石灰分が沈着して全く動かなくなります。こうなると治るまでに2年近くも費やすことになります。それでも必ず上がるようになるから安心してください。ただし少し上がり方が悪くなります。

 怖いのは癌などの病気からも似た症状がでることです。夜間の痛みがあまりひどかったり、じっとしていても痛いときはしっかり検査をしたほうがよいでしょう。まして体重減少などがあればなおさらです。

調整
 おかしいなと思ったら早めに腕を休めることです。
 骨格的には骨盤からの歪みが見受けられますから、骨格調整を受け、家庭でやれる安全な操体法を続けることです。
 東洋医学的な全身調整も経絡体操と呼吸法が有効です。基本的には腎経と胆経を調整します。
 食事は砂糖や酒は避け、色の濃い野菜をしっかり食べ血液をきれいに保つことです。


 キネシオテーピングも家庭でできる方法として勧められます。
 夜間痛には肩の下にタオルを畳んだ枕をいれておくと多少楽になります。
 痛いからと全く動かさないと筋肉が弱り、関節の動きも悪くなります。痛みが許容できる範囲で動かした法がよいです。上半身を床と平行になるまで前屈し、痛いほうの手でアイロンを持ち、身体の反動をつかってぶらぶらするアイロン体操という有名な体操もあります。

 操体法、経絡体操、呼吸法、テーピングについては游氣の塾にお問い合わせください。

《今月の言葉》

  寺山修司

  幸福とは幸福をさがすことである。    ジュール・ルナアル

── 私はこのルナアルの言葉を、高等学校の便所の落書きのなかで発見したのだ。私はこの大きな真理をなんべんもよみながら、目にしみるような窓の青空に目をやった。
   人と人とに出会いがあるように、人と言葉とのあいだにも、ふしぎな出会いがあるものだなあ、と思いながら。

[ポケットに名言を 寺山修司 角川文庫]より

《後記》
 指圧塾に来ていた米国人のデニーが家庭の事情で急に帰国しました。突然のことですのでお別れ会もできませんでした。別れの挨拶に来た彼は、「指圧塾はとても楽しい生活のリズムを私にくれた。仲間(4人の外国人と4人の日本人)との雰囲気も良く、(母ほど年の離れた)日本の女性たちとも言葉は通じなくても楽しくコミュニケーショ
ンができた。」と大変出会いを喜んでくれました。

 帰り際、部屋の中を何度も何度も見回して、脳裏に、胸に、瞼に日本の思い出を刻み込みながら、名残惜しそうに去って行きました。彼の涙をたたえた青い瞳が生涯忘れられそうもありません。
 彼はアメリカの大学に帰った後、近い将来、アフリカに行く予定だと言っていました。これからも数限りない出会いの喜びと別離の悲しさを体験して行くことでしょう。

 茶道の言葉「一期一会」が改めて思い起こされました。

 これから花粉症の季節です。しかしアトピー性皮膚炎ともどもあまりに患者数が多すぎますね。花粉は単なる誘因で本当の原因は文明それ自体の在り方にかかわっているような気がします(詳しくは游氣健康便りのNo,2に書きました)。
 環境の歪みはまず弱者に現れるのは水俣病の猫の例で明らかです。食事の制限や皮膚軟膏などで表面を取り繕っているうちに大変なことになるような不安感は誰もがなんとなく感じているこの頃ですね。

 さりとて春は身体の中から何かが湧き出してくる季節です。家にこもっていないで陽気を吸い込みに出掛けましょう。動けない人も窓を開け放って自然のエネルギーを身体の隅々まで吸収いたしましょう。
 生きている実感の享受、これなくして病気は治りません。
(游)

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游氣風信 No26「弁証法 寝たきりゼロ サラリーマン川柳」

游氣風信 No26「弁証法 寝たきりゼロ サラリーマン川柳」

三島治療室便り'92,2,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

《游々雑感》

弁証法

 学生時代に副読本として読まされてなるほどと感心した「弁証法はどういう科学か(三浦つとむ 講談社現代新書)」という本があります。今日でも広く読まれていて、現代新書の中でもロングセラーの一つでしょう。
 今でも時々引っ張り出してぱらぱらと読み返しています。

 その本に興味深いことが書かれています。
 私たちがものごとを認識したり判断したりすることがいかに難しく、過ち(誤解・誤謬)への落とし穴に陥りやすいかということを平明に具体例を持って示してあるのです。
 簡単に紹介しましょう。
 誰でも普通、洗面器の水面は平らだと思っています。さらに、プールの水面だって平らだと信じて疑いを持つ人は少ないでしょう。現にそう考えても日常生活ではなんら問題はありません。なにしろ水面は平らに決まっています。それは私にとって信仰に近い判断の拠りどころでさえありました。
 ところが海岸や岬などの海の見えるところから遥か沖を眺めれば話は違ってきます。
雄大な海面が実は平らではなく、なだらかな曲面であることが肉眼ではっきりと見て取れます。ということは、プールや洗面器の水だって表面は平らでなく曲面なのです。

 そう、地球は球なんですから平面などというものは人工的に作り出さない限り初めから存在しないものなのです。

 私たちがものごとを認識・判断するとき、自分ではしっかり見て、聞いて、触って結論に確信を持ったとしても、海面(球面)の一部を区切ったと同じ洗面器やプールの水面を平らだと勘違いしているように絶対に正しいとは言い切れないのです。むしろ平面であって欲しいという願望によって現実を自分に都合よく歪めて解釈しがちなんですね。

 「弁証法はどういう科学か」には、こう言ったことが論理的に書かれています。安い本ですから興味のある方は読んでみて下さい。かなり歯ごたえのある本ですから、ちょっと意志を強く持って読む必要がありますが。

 人と人とのささいな誤解はこうした人間の認識力が不完全なことに起因することがままあります。それは先にも述べたように、私たちは自分に都合よくしか物事を捕らえられないという本質的欠陥に由来するのです。(本質的欠陥と言いましたが、考え方を変えれば、私たちは現実を自分にとって都合よく解釈するからこそ、先行き不明
の人生を何とか暮らしてゆけるのだと思いますけど。)

 今の情報だけからするとこう判断するけど、さらに情報量が増えたら考えはまた違ってくるだろうし、情報の質が変われば違う結論も出てくるでしょう。ですから私たちは常にまったく異なった視点もあるはずだという広い謙虚な心構えが必要となってきます。そこを十分承知してものごとを見たり聞いたり自分の意見を述べたりしないと誤解や争いを招くわけです。自分だけでなく相手も間違えて判断することは避けられないわけですし。

 言い換えると人はあらゆるものを自分のレベルでしか見ることができないということです。どんなに優れた芸術でも、例えば抽象画なんか訳が分からないから嫌いだと言う人にとっては単なる子供の悪戯みたいな絵でしょうし、抽象の中から何かをつかみ取る能力のある人が見れば名画となるのです。
 今大人気の相撲にしても、興味のない人からすれば褌をした野蛮人の喧嘩に過ぎないでしょうし、関心ある人にとっては日本の伝統文化の象徴となるわけです。

 自分は自分のレベルでしかものごとを見て、判断することが出来ないということと、いつでもいかなる意見が出てきても少しもおかしくはないということを理解しておかないと、偏屈な視野の狭い浅い人生を送ることになります。まして乏しい認識力とお粗末な判断力に基づいてこのような文章を臆面もなく書いている私自身、常に冷や汗
ものなんですよ。

<寝たきりにならないために>

寝たきりゼロへの10カ条(厚生省)
1 脳卒中と骨折予防 寝たきりゼロへの第一歩
2 寝たきりは寝かせきりから作られる 過度の安静逆効果
3 リハビリは早期開始が効果的 始めようベッドの上から訓練を
4 くらしの中でリハビリは 食事と排泄 着替えから
5 朝起きて先ずは着替えて身だしなみ 寝食わけて生活にメリとハリを
6 「手を出しすぎず目は離さず」が介護の基本 自立の気持ちを大切に
7 ベッドから移ろう移そう 車イス・行動広げる機器の活用
8 手スリつけ段差をなくし住みやすく アイデア生かした住まいの改善
9 家庭(うち)でも社会(そと)でもよろこび見つけみんなで防ごう閉じ込もり
10 進んで利用 機能訓練デイ・サービス 寝たきりなくす人の和 地域の輪

 今まで「寝たきり老人」と称していた人のことを、最近では「寝かせきり老人」と呼ぶようになりました。「寝たきり」とは周囲の努力不足から不本意にも動けない寝たままの状態にてしまっていた状態であったとの反省から呼称が変わったのです。
 以前ならベッドに寝たきりになる人が本人の意志と介助者の努力や介護用品の杖や車椅子を上手に用いることで、生活範囲を大きく広げることができることが分かってきたからです。

 脳卒中後遺症などの人達が服を着たり、食事をしたりするのをじっと見ているのはとても気の毒でしかもじれったく、つい家族の人が手を出してしまいます。しかし、そこを我慢して自立できるように心を鬼にして臨まないと、病人に甘えが出てしまいます。介護は本人が可能な限り独力でできるようにちょっとした手助けや転ばないように安全に気をつけるだけに止めて自立を促すことが、長い目で見れば本人だけでなく、介護する家族の人にとっても後々とても有意義なこととなります。

 介護される側も少しでも自発的行為が可能ならば、ささやかながらも(本人にとっては大変な努力です)社会参加している喜びが感じられるはずです。
 何もかも家族がやった方が楽な面もありますが、それは子供の教育と同じでじっと見守るということがとても大なのです。
 リハビリ専門病院では看護婦がはた目に冷たく感じるほど患者に助けを出しません。
着替えを前に置いて「着替えてください。」言うだけでじっと見ています。患者はなかなかうまく着替えができないので文句を言うと、「あなたは病気の治療に来たのではなく、社会復帰のために来たのでしょう?入院したがっている人は一杯いるからすぐ出て行ってもらってもいいんですよ。」と言い放ちます。家族は付き添えません。
そのうち患者のほうに自立の意欲が出るのを辛抱強く待っているのです。
 もちろん障害の程度に応じて対応は変わって来ます。病状の不安定な人にはもっと優しく接し、リハビリで回復が期待できる人には厳しくです。

 上記の10番の「デイ・サービス」とは日常生活が不自由な高齢者や障害者を昼間預かって訓練したり、入浴させてくれるサービスです。車で送り迎えもありますから、介護家族の休日にもなります。
 家族が用事で何日か家を留守にしなければならないときも、「ショート・ステイ」と言ってその間面倒をみてもらえるサービスもあります。詳しくは市役所や民生委員などにお尋ねください。条件によっては無料でサービスが受けられる場合もあります。


 上の10ケ条は厚生省がまとめたものです。各家庭でできることばかりですから、もし身近に障害の方や高齢者がおられるようでしたら参考にしてください。

転倒・骨折事故発生場所(老人=65歳以上)

  居住場所    46%   道路上     32%
  公衆場所    19%   その他      3%

 居住場所の内訳
  居室      55%   階段      10%
  廊下      10%   庭        9%
  台所・浴室・便所・他     9%

東京消防庁 昭和60年

 その「寝かせきり」になる原因のトップが、脳卒中後遺症と上に書いた転倒事故による骨折ではないでしょうか。これを見ると約半分の老人は家で骨折しています。しかも意外なことに居室内が圧倒的に多いのです。それだけ長く過ごしている場所ということでもあるのでしょうが。

 日常生活の身の回りで見落とした危険はないか注意したいものです。
 コードなどのようにつまずきやすい紐状のものはすっきりまとめ、コタツ布団や座布団もつまずかないように整理しましょう。

 玄関や風呂などの段差の大きいところは台を置き、手すりをつけて楽に出入りできるようにしておきましょう。夜間トイレに行く通路には明かりを一晩中つけて置くことが肝心です。できれば階段に手すりをつけるほうがよいでしょう。
 夜間だけはポータブルトイレを使う手もあります。

 高いところの物を取るために踏み台を使うときは若い人に任せた方が賢明です。私も往療先のおばあさんに蛍光灯の取り替えを頼まれたりしますし、車で重度障害の人を乗せて近所の店まで買い物につきあったりもします。集金に来た銀行員が棚のクギを打っているところに出くわしたことがあります。「立ってる者は親でも使え」なら
ぬ、「訪問者は誰でも使え」というところでしょう。


第一生命「サラリーマン川柳」

 サラリーマンの悲哀をユーモラスな川柳にしたためて毎年好評の第一生命「サラリーマン川柳」が新聞に載っていました。サラリーマン経験の無い私ですが、読んでなるほどナァーと同情と笑いで胸中を満たしています。


ティーショット部長打つ前手をたたく(案山子)

   接待ゴルフの味気無さをさる銀行員がこぼしていました。

陰口をたたくやつほどゴマをすり(世渡り上手)

   こんな輩はどこにもいます。

指示待ちの上司の下で指示を待ち(北の風来坊)

   部下は辛く、中間管理職は哀し。

熱い鉄強く打ったらすぐに辞め(中間管理職)

   焼き入れした鋼は今は無く、皆、焼きなましばかり。

吊り革に結んでやりたい長い髪(バーコード)

   朝シャンの甘い香りも身動きできない満員電車では実にうっとうしいもの。


 これらの作品は一般から投じられたいわゆる素人川柳です。これを見ますと喜怒哀楽の折りに触れ、短歌や俳句・川柳に託して感情をうまく処理して人間関係を円滑にし、極力争いを避けて行こうという日本古来からの知恵は未だに連綿と機能しているようです。
 現代のサラリーマンも日頃の愚痴や恨みを川柳で解消し毎日の労働にいそしんでいるのでしょう。

 歌のジャンルを大ざっぱに分けると、主として調べに託して意味を歌うのが短歌、意味を読まず自然の景物に委ねるのが俳句、人事の断面を切れ味鋭く皮肉るのが川柳となります。俳句は意味性を極度に押さえ鑑賞者の想像に任せる比重が重く、短歌、川柳は意味を重んじます。もっとも現代俳句と現代川柳の境界は極めて曖昧でどちらに入るのか分からない作品および作者もいます。

 しかしここに紹介したサラリーマン川柳は江戸古川柳の流れを汲むとても分かりやすい楽しいものばかりです。奥さん方もぐうたら亭主や生意気息子にカチンときたら一つ川柳でもヒネッて心の中でほくそ笑むのもちょっとしたストレス発散健康法になりますよ。嫁など題材にしたら傑作ができること請け合いです。

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游氣風信 No25「新年の遊び 在宅ケア」

游氣風信 No25「新年の遊び 在宅ケア」

三島治療室便り'92,1,1

 

三島広志

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≪游々雑感≫
新年

 新年を祝うのは、無事年を越せたことのへの感謝の気持ちの表れでしょう。つまり「去年1年、無事に過ごせておめでとう」ということだと思うのです。
 それに加えて、「今年も無事過ごせるようによろしくお世話になりますよ」と健康や無事を親しい人同志、互いに声を掛け合って言祝ぐ訳です・・・などと勝手に解釈しています。

 何はともあれ古い年は去り行きました。そして希望と不安をないまぜにして新たなる未来が私たちを待っています。
 本年が活力ある年であるように、毎日を大切に生活していきたいものです。お互い励ましあって楽しく頑張っていきましょう。

 今年も希望の方にこの雑文をお届けしたいと決意も新たにワープロに向かっています。(とんでもない、読まされる身にもなってくれという声も聞こえないこともありませんが・・・)

正月の遊び

 正月の遊びと言えば独楽回し、歌留多取り、凧揚げ、羽根突きなどと相場が決まっていましたが、そんなものは今日の子供達には全く顧みられません。今はファミコン、テレビ、アニメのビデオあたりが人気のマトでしょうか。
 したがって伝統的な遊びは俳句の中に年配の人達の郷愁として残るだけになりつつあります。

黒髪を乱してかるたとりにけり    下村梅子

 正月用に着飾った促成のお姫様も勝負となると前後の見境はありません。

手毬唄かなしきことをうつくしく   高浜虚子

 どんな手毬唄かは分かりませんが、悲しさを美や滑稽に置き換えるすべを昔の人は知っていました。

目隠しが透いて見えたる福笑     籾山梓月

 「しめたっ。見えるぞ!」と思いつつも完璧に並べたら透けていることがばれてしまいますから、どうごまかすかが腕の見せ所。

独楽の紐ながくて童ひき切れず    山口波津女

 子供の悔しげな顔が目に浮かびます。

羽子板の重きがうれし突かで立つ   長谷川かな女

 大人の女性の感慨でしょう。それにしても羽根突きなど全く見かけません。

双六の賽の禍福のまろぶかな     久保田万太郎

 賽(サイ さいころ)の禍福とは作家万太郎ならではの捕らえ方です。

 私が子供の頃は、独楽と凧揚げはよくやっていました。福笑いや双六は今でもやっていますね。それに最近では百人一首や歌留多よりはトランプの方が人気が有るのではないでしょうか。
 そういえば子供達が常日頃、表で遊ぶ光景がすっかり減ってしまいました。正月くらい外に引っ張り出して伝統遊戯を教えるのも大切な大人の仕事でしょう。以前は子供の社会で大きい子から小さい子に自然に伝わったものでしたが。


在宅ケア

(注:介護保険施行の10年近く前に書いたものです)

 この頃、在宅ケアを要請されることが多くなりました。患者さん同士の紹介はもちろんですが、お医者さんから直接、あるいは医師会から鍼灸師会を通じて、または保健婦さんを通しても増えてきました。そして、訪問してみると患者さんの重篤な状態に驚かされます。

 気管切開といって、痰を吐く力のない人が喉元に穴を開けているのをご存じでしょう。症状が進行せず一応の安定をみたら、その状態で退院して家族が面倒をみているのです。尿は管が直接通してあって週2回ほど看護婦さんが来て処理してくれるようです。
 また、別の患者さんのところには週3回も点滴の為に医師と看護婦が訪問してくれるそうです。

 往診するドクターも大変ですが、なにより付ききりで看病する家族の御苦労は並大抵のものではないはずです。
 私も訪問していろいろなリハビリテーションの技術を患者さんに施しますが、それ以上に家族の方(主として奥さん)の愚痴を聞くことも大事な仕事になっているようです。病人の辛さもさることながらその看護のためのしわ寄せが大抵たった一人の家人に集まってしまうのですからその御苦労は想像以上のものであることは間違いあり
ません。
 それに核家族化が進んでいて、介護者がほとんど老人と呼んでおかしくないのが原状です。
 病む人とその周辺に現代社会の持つ様々な歪みが凝縮して露呈しているんですね。
医療や家庭、教育や経済等のさまざまな問題が。

 私のように政府公認の正統的な医療と非公認の非正統的医療の狭間にあるような立場の者でさえも、医療の一端を担う者としてこうした在宅ケアに関わる機会がどんどん増えてくるようです。
 (公認と非公認の間とは、厚生省認定の学校を卒業し、国の認めた試験に合格し保健所に届けて開業しているという点で公認、保険を扱うには症状によって限定され、さらには医師の同意を必要とするという点で非公認、しかも鍼の効く理由が未だ明確でない点でも非公認です。私たち鍼灸指圧などの業務を医業とは区別して医業類似行為と言います。)

 今まで私が訪問した患者さんは脳卒中後遺症やパーキンソン病(脳のある物質の分泌が悪くなって起こる病気。体の機能がだんだん衰え、手が震えだし、顔が能面のように無表情になり、歩いていてもパッと止まれない。)、筋萎縮性側索硬化症(進行性の筋肉の萎縮する病気。有名な宇宙物理学者ホーキング博士が罹っている。難病中の難病。)、頚椎性の四肢麻痺や腰椎性の両下肢麻痺、小児の脳性麻痺など予後の厳しい病人や障害者ばかりです。そしてその分、本人や家族の肉体的・精神的及び経済的負担は大変重いものです。いかに医療費が無料とは言えども。

 私達身体調整に関わる者は病人や家族の抱える苦難に共感しながら、患者さんを明るく励ましていかねばなりません。障害者だからと自棄的になりがちな人達を、何とかして患者自身の持てる能力内で充実した毎日を暮らしていけるように手助けが出来るように心掛けていきたいものです。
 そのために苦しんでいる人達に対して医療的技術の提供と精神的支えを媒体とした交流をするべく日々の研鑽をしなければなりません。

病気や障害、それらは全て明日は我が身の問題です。言い換えると私たちは誰もが障害者になる能力を持っているということなのですから。

 以上を本年の年頭の誓いと致します。

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游氣風信 No24「昴 宮沢賢治は何故舞ったか5」

游氣風信 No24「昴 宮沢賢治は何故舞ったか5」

三島治療室便り'91,12,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

《游々雑感》

昴(スバル)

 冬の夜は空気が澄んでいるせいか、星が一年中で最も美しい季節です。さらに夜空を彩る明るい星(一等星)が特に冬空に集中しています。星座でもオリオン座、オオイヌ座、おうし座、ふたご座など有名な夜空の大スターが百花繚乱、ピンと緊張した空にくっきりと瞬いています。

 オリオン座は四角の中に3っつの星が斜めに並んでいる造形美の鮮やかな、見つけ易い最も有名な星座でしょう。神話では次のような話になっています。
 オリオンは無敵を誇っていましたが神をも畏れぬ傲慢さが怒りをかい、神に遣わされた毒サソリにアキレス腱を刺されて死んでしまいました。そのため、さそり座が夜空にある間は姿を見せず、さそり座が沈んだ後、東の空から上って来るのだそうです。
さそり座は夏の星座、オリオン座は冬の星座ですから、とても面白くできた話です。

 日本では四角を形成する内の2個の一等星(リゲルとベデルギウス)を、平家星・源氏星と呼んでいます。

 その東南に青白く輝いているのがオオイヌ座のシリウスです。ちょうどオリオン座の3つ星を左(東南)に延長していくと嫌でも目に飛び込んで来る明るい星です。
 シリウスは西洋では犬星、中国では天狼と呼んでいます。どちらも犬もしくは狼の青くらんらんと輝く目に見立てているようです。そして日本では青星または大星。こちらは見たままの色や大きさで呼んでいてどうも和名はイメージの広がりに乏しいようですね。

 シリウスは恒星(太陽系の惑星以外の星。位置が恒常的なので恒星。太陽系の星は地球から見て位置が不定で惑っているようだから惑星。太陽に近い順に水星、金星、地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星の9個だけ。)の内で一番輝いている明るい星で、1.6等星、普通の1等星のなんと30倍の明るさです。

 オリオン座の西北におうし座があります。3つ星を今度はシリウスの反対(西北)に延ばしていくと赤く光る1等星が目につきます。これがおうし座の牛の右目に当たるアルデバランという有名な星です。そしてアルデバランを頂点に星を結ぶとVの字が描けます。このVが牛の角に当たり、その牛の肩の辺りに日本はもとより世界中で古くから最も愛された昴(すばる)があります。

 清少納言も枕草子で「星はすばる」と持ち上げています。ところが昴は決して明るい星ではなく、星に詳しくない人ならまず探すのに大変苦労する星です。しかもそれは一つの星ではなく、幾つかの星が集まって一塊になっている朧な星団で、一般にはプレアデス星団と呼ばれているものです。昴は和名なのです。語源は「統べる」「む
すばる」と言われています。

 その一塊の星が幾つ見えるかで視力検査をして、徴兵をした古代の国もあるそうです。通常肉眼では6個見えます。この星団の形は意外でしょうが、富士重工の自動車のマークになっています。そうです、スバルレガシーやスバルレックス、スバルサンバーなど富士重工の車のボンネットに燦然と輝いているマークです。
 スバルは我が国唯一の日本語名の自動車なのです。日本の車に和名が使われているのは当然のはずなのですが、唯一というところに日本人の舶来尊重が読み取れて、一抹の寂しさが感じられます。

 「昴」という歌謡曲もありますね。歌詞に人生を詠み込んであって、我が人生を思いながらしみじみ感動できる曲です。フランク・シナトラが歌う「マイウェイ」と谷村新司の「昴」、最近では美空ひばりの「川のながれのように」などが同系の歌でしょう。
 「昴」は谷村新司のおおらかに歌い上げる見事な歌唱に感動して、つい、真似をしたくなりますが、歌いこなすのはとても難しく、周囲の人に多大な迷惑をかけて、さらには顰蹙(ヒンシュク)の嵐を招くので有名な歌です。(それは他の2曲も同様です)。

 ところで著名な星の研究家がこの「昴」を愛唱歌と絶賛しつつもひとつ気になると言っています。それは2番か3番だか忘れましたが「名も無き星たちよ」というところです。なぜなら名も無い星を見つけたらそれは新星か未発見の星だから一大事件。もしそんな星を発見したらハレーすい星のように自分の名を冠して永遠に天文史上に名
を残すことができます。そうなれば墓や戒名など不要になるほど素晴らしい墓碑銘になることでしょう。したがってこの詞は「名も知らぬ星」とするべきなのです。
 谷村は「昴」の2番煎じに「天狼(シリウス)」という曲も作っていますが、こちらはあまり売れなかったようです。しかし私はこちらのほうが思わせ振りが少なくて好きなんですけどね。

 余談はさておき、夜空を見上げる余裕がありましたら、オリオン座やシリウス、昴などを探してみてください。せちがらく生きている一時、悠久の時に心身を漂わせるのもいいものです。「昴」を口ずさみながら(決して他人には聞かせないように)。


<宮沢賢治は何故舞ったか>
その4

 風に代表される天の気象が人間の心身に大きく係わっているのは、生命体の存在そのものが環境と分離・交流という矛盾の中にのみ確立できることを示唆している。
 学問的には生態学が生命体と環境の関係を明らかにしつつあり、人は環境と支え合い、影響し合うことで人間存続の道を歩むしかないことが広く知られるようになった。
そこから環境破壊に対する反省、未来に対する不安、それ自体が商品価値を生むなどと複雑に入り交じって今日のエコロジーブームを生み、支えている。

また、経験的にも湿気と神経痛、低気圧と喘息のように気象と病気の関係は昔から「年よりの痛みは天気予報より正確」だなどとため息交じりの冗談として言い伝えられている。

 しかしそうした具体例を出すまでもなく、「もののけ」とか「気」ということばで示すようなメンタルな自然との交流に日本人は特に敏感なようである。俳句の季題、季語はその集大成であり、次に上げるような人口に膾炙した短歌も日本人なら誰もが心を動かされるものである。

  秋きぬとめにはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる  敏行
  わが宿のい小竹群竹ふく風の音のかそけきこの夕かも      家持

 これら古歌にも自然と人間との交流がみずみずしい感性で歌われている。無気質な都市空間に囲まれて閉塞感に窮している現代人が失いつつある新鮮な感覚であろう。


 賢治文学は短歌に始まったが、賢治に内在するイマジネーションは31文字にはとうてい収まり切らなくなって詩や童話に移行した。それは賢治が「めにはさやかに」とか「かそけき」のようなさらっとした日本的情緒を逸脱した、人間の存在の根源を示すような土着的怨念性と宇宙的透明感を一つの肉体に収めきるには不可能な巨大なエネルギーとして持て余していたからだろう。賢治はその持て余したエネルギーを舞として昇華することで辛うじて自らを保つことができたに違いない。

 では、賢治は自然に触発され詩や童話を書き、それだけでは発散しきれない身を焦がすようなエネルギーを舞や叫びに表現したのだろうか。それとも、月や雲や風から透明なエネルギーを得た賢治は、舞い叫ぶことでエネルギーを昇華し、その残滓を作品にすることでかろうじて狂気から脱出、日常性を回復していたのだろうか。

 いや、そうではない。舞いこそ全てなのだ。鬼剣舞のあの地中から天に向かってドロドロしたものが噴出したような激しいほとばしり、人間の怒りの根源から、自分を押さえるものを打ち破るような動きは「つばきしはぎしりゆききする」一人の修羅を引き付けて止まなかったろう。

 また、世界を循環する季節風から透明な安らぎの力が農作業の汗に濡れた心身を満たし、喜びは溢れ、人々に対してほほ笑まずにはおれなかったろう。
 そして、一人の修羅は月夜の麦畑の銀の波の中を舞い出したのだ。もはや他人の眼などどうでもよかった。賢治の全存在を賭けての最高の交響詩、メンタルスケッチ・モディファイドがそこで演じられたに違いない。
 残された膨大な量の原稿は、その断面に過ぎないのだ。

「宮沢賢治は何故舞ったか」終わり

(初出 盛岡タイムス 加筆修正)

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游氣風信 No23「強さと勁さ 宮沢賢治はなぜ舞ったか4」

游氣風信 No23「強さと勁さ 宮沢賢治はなぜ舞ったか4」

三島治療室便り'91,11,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

強さと勁さ

 日本語で強さを表す時、通常「強」と書きます。成り立ちはがっちりした殻を被った甲虫。
 漢字の意味は

  1 力が大きい、多い・・・・・強者 強大
  2 堅い、こわばる・・・・・・強固
  3 激しい・・・・・・・・・・強風 強雨
  4 意志がしっかりしている・・強忍
  5 からだがじょうぶ・・・・・強壮 強靭
  6 恐れない・・・・・・・・・強気
  7 いやおうなしに・・・・・・強引
  8 頑固な・・・・・・・・・・強情

などが特徴的です。

 「勁」はあまり馴染みの無い漢字だと思います。日常ではまず使うことはないからです。多分、中国拳法に関心のある人くらいしか知らないのでないでしょうか。
 この字の元は「力」、成り立ちは2本の棒の間にピンと張った縦糸です。「く」が3本並んでいるのが糸です。経(經)や頸と同系です。

 意味は「強」と同様に

  1 強い
  2 力

ですから、「強」との差異はさほどに感じられません。熟語を見てみますと、

  1 勁兵(強い兵隊)
  2 勁直(強くて曲がらない、強くてただしい)
  3 勁草(風にも折れない、丈夫な草、節操が堅いたとえ)
  4 勁箭(けいせん 強い丈夫な矢、勁矢)

などがあります。

 両者を比較してみれば、意味や成り立ちから分かるように「強」は甲虫の殻のように堅い強さであり、「勁」はピンと張った弦のようなしなやかな強さを意味していると理解できます。
 「勁」は勁直や勁草・勁矢のように細くても強くて曲がらない、「柳に風折れなし」のように柔らかいけど一本芯のある強さですね。
 それに対して「強」は強固、強情のように荒々しい、堅くなさを持った強さのようです。

 では私たちの健康に必要な強さはどちらの方でしょうか。
 私たちを取り巻く環境は暑くなったり寒くなったり、風が出てきたり湿気があったりと、いろいろ変化をします。そんな変化に対して生物は上手に順応して生息してきました。その時必要とされる強さは環境の変動を頑強に弾き返す強さではなく、さりげなく受け流すしなやかな強さでしょう。したがって「勁さ」が求められる訳です。


 本当に大切なのは「無病息災」ではなく「一病息災」です。頑健に病気を打ち負かしている人は、時に脆さを露呈します。その反対にいつも何かしら症状を抱えている人は、むしろその症状が安全弁の働きをして大病になりにくいようです。それに日頃から身体をいたわりますし。
 小さな地震が時々起こればそれが地殻の歪みを矯正して大地震になりにくいようなものでしょう。

 「風邪も引けない身体」というのをご存じですか。環境の変化に対して反応すらできないしなやかさのない身体です。こういう人、またはこういう時は十分注意した方が良いのです。


宮沢賢治は何故舞ったか
その3

 一般に踊りのことを「舞踊」というが、「舞」と「踊」の2字は、本来意味が違うそうである。現在では明解な区別はしていないが、「舞」はスリ足で舞台を回ることで、「踊」はリズムに乗った手足の躍動であると広辞苑に書いてある。
 さらに藤堂漢和大辞典によれば、
 「舞の上部」→人が両手に鳥の羽飾りを持って舞う様
 「舞の下部」→人が左足と右足を開いた様
 「舞」→人が両手に飾りを持って左足と右足を開いて舞う様
とある。
 そこから、手足を動かして神の恵みを求める(舞踏)、心を弾ませる(鼓舞)、むやみにデタラメなことをする(舞文・舞幣)などの意味が派生したそうである。

 賢治の月夜の狂気とも思える奇行は、自然=神への接近、同化及びどうしようもない内面からの躍動がでたらめな動きや奇声となって現れたもので、まさに原初的、自然発生的ないわばシャーマンの舞の原型ではなかったろうか。

 秋の風から聞いた「鹿踊りのはじまり」という童話には、鹿の素朴な行為が人間の側から鹿の世界に同化する形で書かれている。彼の最も有名な作品「風の又三郎」は全編これ風の世界という不可思議な透明感で貫かれている。その他多くの作品でも賢治の常套手段として一陣の風が舞台を急展開させたり、道案内したりする。
続く

《後記》
 家の周りの黄金色の田圃は、雨と台風によって稲が寝てしまったところが多くみられます。倒れた稲はコンバイン(刈り取った稲はそのままふくろ詰めにし、ワラは砕いて田圃に撒き散らします)ではうまく収穫できないので、稲刈り機で刈り取ることになるようです。そのことが最早若い人の姿が田圃から消えて久しい今、農家の老人
たちを悩ませています。
 高齢化した農村は米の輸入の自由化と共に、重大な問題となって私たちの食卓に影響を与えて来ることでしょう。
 この件に関して、あまりに無頓着な人が多過ぎます。
(游)

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游氣風信 No22「災害 宮沢賢治は何故舞ったか3」

游氣風信 No22「災害 宮沢賢治は何故舞ったか3」

三島治療室便り'91,10,1

 

三島広志

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<游々雑感>

 爽やかな蒼天の下、子供達の歓声がはじける運動会たけなわの季節・・・とはならない今年の秋です。
 特に今秋は台風が多く、しかも例年なら主に西日本が被害に遭うのですが、何故か今年は東日本に回りこんで大きな災害を招いています。
 台風19号の猛威によって青森のリンゴが落下して、絨毯のように土を覆った果樹園の映像には自然相手の仕事の厳しさが象徴されていました。
 台風一過、翌日の空の美しさは、台風前の不安感を吹き飛ばして、一種潔い壮快感を与えてくれますが、今年の台風はそれすら運んでくれず、ただ自然の脅威のみを列島に刻み込んでいきました。
 次々やってきた台風によって行楽や運動会などの行事予定も大幅に狂い、改めて自然は人間にとってままならない存在であったことに気付かせてくれました。さらに一見栄華を誇る人類も自然の前には諦めざるを得ないことが多いことを教えられました。


 長崎の普賢岳の麓に住む人々にとっては、火山による火砕流だけでなく台風による大雨から土石流にも見舞われ、まことに困難な日々が続いていることでしょう。どっしりと落ち着いた人のことを「大地に根が生えたような人」、大いなる安らぎと糧を与えてくれる大地のことを「母なる大地」などと称して、大地は私達の生きる最後の拠り所です。
 そんな大地も自然の摂理のもと、火を吹いたり、ぐらぐら揺れたり大水を出したりします。それが長い広い目で見れば調和を維持するために必要だからです。
 しかしその時、人間はどんなに不安になることでしょう。大地に依存して居る人類は心の支え、拠り所がポキンと折れてしまいます。

 日本の歴史的建造物で、誰もが一度は訪れる広島県の安芸の宮島、厳島神社が台風19号で破壊されました。もともと海の中に造られていた厳島神社は最大58.9メートルの突風と高潮、高波で回廊の上80センチまで海水に浸かったそうです。
 重要文化財の能舞台と能楽屋は壊れ、国宝の左楽房は流出、檜皮葺きの屋根は剥がれ、灯籠も倒れたようです。
 神社が造られたのは1400年前の西暦593年、推古元年です。593年といえば「593(ごくみ=五組)でも一度に裁く聖徳太子」と年号を暗記した年、聖徳太子が摂政に即位した年です。
 その他四天王寺も建立されたように、絢爛たる仏教文化花開いた白鳳時代のことでした。その歴史的由緒ある建物が一気に壊れてしまったわけでまことに残念なことです。
 とりわけ厳島神社は平清盛の信仰を篤く受けたことで有名です。私も子供のころ何回か訪れたことがあります。しかし幼すぎて覚えてはいません。一度幼稚園の遠足か何かで行った時、写生をしていて鹿に画用紙を齧られて泣いたことをおぼろげに記憶しています。
 最後は中学生の時ですからよく覚えています。といってもかれこれ25年、実に四半世紀も前のことになります。
 靴の上からわらじを履いて、回廊から海をのぞき込むと、澄み切ったことで音に名高い瀬戸内海の潮水が回廊の柱を洗い、小魚が群れなして泳いでいました。潮の引いた所ではカニが右往左往してとても愉快でした。
 お土産はもちろん紅葉まんじゅうとシャモジ。

 再建には数年の年月と莫大な費用が掛かることでしょうが、立派に復興してもらいたいものです。多分世界に誇る、否、世界的な古式木造建造物でしょうから。


宮沢賢治は何故舞ったか
その3

 そもそも人は何故舞うのだろうか。形式化した舞踏ではなく、賢治の乱舞のように人が内面から揺すられ弾まされる舞いには、単に楽しむだけではなく自然への接近もしくは同化の願望が込められているという。多くの原始的な宗教には舞いが不可欠であるし、天照大神(アマテラスオオミカミ)が天の岩戸に隠れたとき、神々は光を求
めて天鈿女命(アメノウズメノミコト)に舞いを舞わせた有名な神話もある。

 人は舞うとき、日常を離れて非日常の世界に漂う。日常の中で形式化、形骸化した心身を何かの機会に日常の枠を破って内なるエネルギーを爆発させるのだ。群衆の乱舞はそれ自体が大きなエネルギー体となって集団を包み、自然と深く呼応する。ついには宇宙との一体感に浸り出す、すなわち神の世界と同化するのである。そういったハレの日(春、秋の祭りなど、あるいは秘められた行事。晴れ着、ハレてご婚礼はここに由来する。普段の日常をケの日と言う。)を我々はついこの前までもっていた。有名な江戸時代の「えじゃないか」や、熱狂的な一揆になだれ込んだりもした。為政者はそのエネルギーを恐れ、ガス抜きの場を設けた。岐阜の郡上踊りや四国の阿波踊りはその名残である。
 今日でも多くの宗教ではこれに近いハレの場を秘密裏にあるいは公然と持ち、信者に至福感と同時に束縛感を植え付けている。それを企業化した「人格改造」会社も近年乱立している。


 賢治のような型破りな個性が社会という鋳型の中で生存することは非常に困難であったろう。社会から見て賢治や山頭火のような自らが自らの個性を持て余すような天才は受け入れ難い。彼らが自ら崩壊に至らないためには芸術に拠るしか方法はないであろう。
 しかも賢治は己の生き方を宗教的善意と天性の他人に対する優しさで厳しく律した。
恵まれた出生をさえも社会的犯罪者として罪の意識で自責し続けた。さらに山頭火のように酒や女で紛らわすことは決してなかったのである(むろん山頭火はその愛すべき堕落性が逆に彼の魅力となっている)。

 そんな賢治の内向するエネルギーが突如として外に向かったとき「ホーホー」という奇声や奇妙な舞踊が生まれたのではないだろうか。そのきっかけを与えたのが月の光であり、実った麦の銀の波であったのだ。

 手足を自由に、身体の命ずるままに動かして奇声をあげるとき、その動きは岩手に伝わる鬼剣舞(おにけんばい)の手つきに似てくる。わたし自身が自動的活動を試みた経験ではそうなる。その動きはゆっくりなら盆踊りの手つき、腰を落とせばどじょう掬いにも似ている。バリ島の踊りやトルコの円舞にも共通するところがある。
 そしてその動きは一見何かに憑かれて支配されているトランス状態のようで、実は反対に理性や感性はより一層研ぎ澄まされているのである。

これらの自然との原初的交流に対して精神分析の立場から福島章氏は、

   女性を愛することよりも「自然」を愛し、風や雨雲と「結婚」することを考え、台地を「恋し」、青い山河を自分と<同一視>したのは、おそらく躁状態にあって自然の生命性に対する感受性が高揚していた時代の賢治であったろう。そのような状態において、彼は自然と合体、融合してなお自分を保つことができたにちがいない。
(「愛の幻想」中公新書)
と述べている。

 賢治はまさに自然と合体、融合していながらなお感性、理性はより明確に保たれていたに違いない。

 賢治が舞うとき、自然も舞い、自然が舞うとき、賢治が舞う。そのエネルギーは賢治の作品に触れた我々一人一人の内に通じ、我々も舞っているのだ。賢治の作品を読むときすでに我々は熊や鹿や山男たちと柏林の中で月光を浴びながら舞っている。
 この大きな自然や人との交流を、賢治は「すべてがわたくしの中のみんなであるように みんなのおのおののなかのすべてですから」と表現したのだろう。

 賢治の内から発せられた「ホーホー」という奇声に伝達の意志が加わったとき、詩や童話、短歌や絵に姿を変えたのである。自然に触発され賢治の内なる自然からほとばしりでた舞いこそ賢治文学の原点であるとひとまず考えられる。さらに考察を続けたい。
続く

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游氣風信 No21「世界陸上 賢治は何故舞ったか2」

游氣風信 No21「世界陸上 賢治は何故舞ったか2」

三島治療室便り'91,9,1

 

三島広志

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<游々雑感>

世界陸上
 世界陸上競技会で素晴らしい世界新記録が生まれました。男子100メートル実に9秒86。時に1991年8月25日午後7時5分。場所は東京国立競技場。走者は言わずと知れたカール・ルイス(30歳)。

 わたしの少年時代、東京オリンピックという日本が戦後のどん底から立ち上がって世界の檜舞台に立った晴れの舞台がありました。その時の100メートルの記録は確か10秒フラットだったような記憶があります(何分幼少のことですから記憶が曖昧です)

 そしてその記録が人類の限界ではないかなどという意見もありました。

 その後、男子100メートルの世界記録がどのような変遷を辿ったかは手元に詳細な資料がありませんから分かりませんが、10秒2から10秒1までになんと20年を要し、さらにバレルの9秒90までに35年の月日が費やされたと聞くと、まさに人類の肉体の限界点に至っていることは確実でしょう。

 ここ数年間、世界の注目を浴びたのは天才ランナー カール・ルイスと努力の人ベン・ジョンソンでした。しかしベン・ジョンソンはドーピングのためにソウルオリンピックであだ花を咲かせただけで一線から退かなければなりませんでした。
 ベン・ジョンソンはチャーリー・フランシスという卓越したコーチの元、努力に努力を重ね、スタート技術と筋力を鍛え、さらに極めて高度な心身一体のトレーニングを積んで、素材とすればアメリカだけでも50人並といわれた平凡なランナーでありながら世界のトップアスリートになったのです。
 ただその過程で禁じられていた筋肉増強剤を使用したため、せっかくの驚異的な世界新記録(9秒79?忘れました)も認められず、競技にも参加できず、信頼していたコーチとも別れ、とうとう元の平凡なランナーになってしまい、今回の世界陸上の標準記録が超えられず100メートルに参加すら出来ませんでした。
 しかし、誤解ないようにしていただきたいのは、筋力増強剤は単に筋肉がつくというだけで、それだけでは速く走れる訳ではありません。必死の練習があって初めて走る技術に結び付くものなのです。

 一方のカール・ルイスは世界一になる運命の下に生まれて来たのではないかと言われるほど天分に恵まれ、補強運動も練習後のマッサージもせずただ走る練習だけで楽々一位になれる天才でした。ベン・ジョンソンが彼を脅かすまで最早短距離選手トレーニングとして常識になっていた筋力トレーニングさえもやっていませんでした。
 しかし、彼も年には勝てず後輩のリロイ・バレルにはしばしば抜かされ、ついにはバレルが9秒90の世界新記録を出すことで、今度の世界陸上はバレル対時間などと書き立てられまでになり、彼なりに相当な危機感を煽られたことでしょう(最初はカール・ルイス対ベン・ジョンソンが目玉商品でしたが)。

 ところが、天才は天才。30歳のキャリアからくる精神統一のうまさで後半30メートルを力まずリラックスして走り切ることができ、残り10メートルというところで彼のところだけ時間がふっと気を抜いたのではないかと思うほどカールはスルスルッとゴールを通過してしまいました。あたかも他の選手達がメズーサに睨まれて時間ととも
に固着してしまったのではないかと感じられるほど。

 カール・ルイスは後輩のリロイ・バレルのお陰でこの記録が出せたと涙ながらに語っていました。これは本心でしょう。優れた素材は時に日常が退屈になるようで、刺激材が必要なのです。ジョンソンがその役目を終えたとき、バレルが現れ、カールを叱咤してくれたからこそ、退屈な天才は天からの叱責に目覚めたのでしょう。

 カールは金のために走ると陰口を叩く人もいますが、人類の限界を尋ねようとする人に然るべき生活の保障は当然でしょう。

 もっとも惜しむらくは東京国立競技場のトラックがドーピング・カーペットと呼ばれるほど記録が出しやすいものだったということです。むろんそれによってカールの価値が下がる訳ではなく、これからも短距離と幅跳び、棒高跳びなどは科学技術と手を取り合って記録を伸ばしていくことでしょう。
 惜しむのは往年の名ランナー、東京オリンピックのボブ・ヘイズ、メキシコのカルビン・スミス、全盛期のベン・ジョンソンそれに日本の飯島たちを一同に集めて、1回こっきりで1000万円もするという特別シューズを履いて走ってもらいたいという愚かしくもかなうはずのない夢を見たかったということです。

宮沢賢治は何故舞ったか
その2
 また、同書に次の話も書かれている。

   その晩は樹にも石にも黒い影をおとしているほど月の光は皓々としてかがやいていた。宮沢さんは、レコードの音律と月の光に誘われて全身躍動し、大空にむかって両手をはばたき躍動し、狂踊、乱舞、ただ踊り四肢高く舞うなど、寄宿舎の生徒がこの状を見て全く不思議であったと私に話してくれた。
   後日、宮沢さんに、宿直の晩のできごとについて糺すと、あれはあまりに月がよかったので、その光に誘われ無茶苦茶におどったのです。それは踊りの練習でもなく、ただ詩を作るときはどうしても身体にリズムの感覚が必要なので、身体にその訓練をつけるためであったと語った。

とある。


 賢治は自然の中にいて風や月や木霊などと共感する精神の持ち主だったので、自然に誘発されて舞い叫び出したのだろう。そして、次には内なる自然が目覚め、身体を激しく動かし、それは賢治の意識ではなく無意識の力で全身の筋肉が躍動したに違いない。そういった無意識的な運動を賢治自らが経験していることは、中学時代、父に宛てた手紙に書き残している。

 明治45年11月3日、賢治16歳の時、父政治郎に出した手紙に、佐々木電眼と称する人物から正坐法の指導を受けるとあり(校本宮沢賢治全集第13巻12ページ 筑摩書房)、翌日の葉書には「本日電眼氏の下に正坐仕り候ところ40分にして全身の筋肉の自動的活動を来し・・・」とある(同書13ページ)。
 賢治はその後、冬休みに同人物を自宅に呼び、家族が正坐法を試みている。妹トシは自動的活動が発現したが、父政治郎は笑っているだけでなんら効果はなかったと弟清六氏が記憶しているそうである(校本14巻452ページ)。

 ところが、この正坐法による自動的活動は今日でも色々流派が存在し、それぞれ信望者を集めている。故野口晴哉氏はこの運動を活元運動と名付け、無意識的な錐体外路系の運動と説明し、そのグループ「整体協会」には同氏亡き後も多くの病める人や芸術家や知識人が集まって盛んに活動している。 健康法としての人気もさることながら、その運動を行うと芸術的勘や学問的直感力が増すからである。
 坪井香譲氏のグループ「メビウス気流法の会」でも、独特の運動瞑想法があり、古来からの集団的解放(祭り)を現代に掘り起こし、整体協会と同じ理由で芸術家や武道家、東洋的治療に携わる人々が集まって来ている。

 賢治の行った正坐法はおそらく活元運動と同じで、全身をリラックスさせポカーンと正坐をしていると身体が勝手にユラユラと動いてくるものであろう。動きは人によって全く異なり、同じ人でも身体の状態で全く違った動きが出てくる。
 ひとしきり身体の動きに任せていると全身の歪みが矯正され、身体の感覚が甦り、滑らかな身体の動きと新鮮な感性が得られるのである。だからこそ、芸術家が多く集まっているのだ。しかしその動きを始めて見ると何かに憑かれているようでとても気味が悪い。

 理性の勝ちすぎる人はなかなかこの自然な動きが出てこない。導き方にもよるが、賢治が40分で自動運動を得たと言うのはかなり早いほうである。
 賢治のこの佐々木電眼の指導による正坐法の体験が、先に引用した月夜の乱舞、狂舞にどこかで係わっているような気がしてならない。しかも賢治は白藤氏に対して、あの踊りは詩作のリズム感覚を身体につける訓練だと言っている。これは今日の芸術家達が同種の運動を行うことと軌を一にしているではないか。
以下次号

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游氣風信 No20「青嶺 宮沢賢治は何故舞ったか1」

游氣風信 No20「青嶺 宮沢賢治は何故舞ったか1」

三島治療室便り'91,8,1

 

E-mail h-mishima@nifty.com

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<游々雑感>
七月の青嶺まぢかく
 七月の青嶺まぢかく溶鉱炉    山口誓子

 7月の終わり、祖父母の法事を営むため実に11年ぶりに先祖の地を踏み締めました。

 山陽新幹線福山駅よりタクシーで中国山地の柔らかな山並みに分け入り、作家井伏鱒二の生家を横目にさらに上って行きますと、50分程で父祖の地に到着します。福山市内から見上げると山の頂上辺りに村落がかすかにたたずんでいるのが分かります。


 言い伝えによれば壇ノ浦の戦いで判官源義経に滅ぼされた平家の残党の集落、いわゆる落人部落ということだそうです。三島姓が多く、名字だけではどの家か見当がつかないので互いに屋号で呼びあっています。わたしの家は谷にあるので「谷屋」という屋号です。
 不思議な符合ですが岐阜の郡上八幡にも朝日将軍木曽義仲に討たれた平家の落人部落がありそこにも三島姓が多く見られます。
 大学時代、郡上八幡に住んでおられた先輩の友人のお宅に泊めていただいてスキーを楽しんだのですが、そのお宅も元平家で三島姓でした。その周辺には三島家が多く、平家の残党であることが分かると討たれるので、出事を偽るため今日でも床の間には木曽義仲の軸が掛けてあったのを覚えています。名古屋近辺の三島さんはほとんどが郡上八幡の出身だと思います。

 さて、11年ぶりの山村は、気持ち良く清々しい青い山並みで迎えてくれました。わたし自身も母もそこには住んだことが無く、亡父もしばらくいただけの土地なので、子供のころおじいちゃん・おばあちゃんを訪ねて夏休みの数日を過ごした記憶しかありませんから、その土地に詳しい訳でも無く、周りに知っている人とている訳でもありません。
 しかし縁側から遠く瀬戸内海の島々や、天気が良いと四国の山々までもが見渡せ、眼下には祖父が丹精込めて育てていたリンゴの樹が何十本か青い実をつけていたりしたことは懐かしく思い出されます。

 中学の春休み、少し離れた谷に行きましたらこちらの山から向こうの山まで、小さな谷川を挟んでびっしりと咲いている馬酔木の群落を発見しました。かなり深い谷で一人で入って行くにはちょっと勇気が必要な厳しい斜面でした。
 そこを地獄谷と言うんだと父がしたり顔で言っていましたが、落人伝説はともかくそれに関しては「ほんまかいナ」と眉に唾をつけて聞いていました。

 そんな田舎にも高度成長の影響は及んできます。そのうち日本鋼管がやってきて、夜も明々とライトが灯り、触れなんばかりの星空もうっすら汚れ、折角の山行きもいささか興ざめになってしまいました。


 冒頭の俳句は誓子の有名な作品。青嶺と溶鉱炉というミスマッチのもつ面白さです。
福山市は日本鋼管で急激に発展した町ですが、そこは青い山々に囲まれ、裾は海につながるというまさにこの句に馴染むところです。但しこの作品の本当の舞台はどこだかは知りません。
 作品が作られた時代は、工業の発展が人々に幸せをもたらすと単純に信じられていた時でしょうから、この作品も新鮮な感動で受け入れられたと思いますが、今日では果たしてどんなもんでしょう。むしろ反公害の俳句と読まれるかも知れませんね。

 法事を済ますと、その日は倉敷の近く、玉島市に泊まりました。海が見えましたが、瀬戸内海の臨海工業地帯ですから風景は殺伐としていました。それでも夕焼けに浮かぶコンビナートはそれなりの趣があり、誓子の句を思いながら旅と法事の疲れを癒すべく夕日の海に心を預けておりました。

 翌朝、すぐ裏にあった良寛さん縁りのお寺を散歩しました。雨のせいか塀にも岩にもカタツムリが一杯這い回っていました。
 そのあと倉敷に行きましたが、月曜日はほとんどが休館日で、お目当ての美術館には入れませんでした。

 駆け足の2日間でしたが、法事を除けば久しぶりにゆったりした気分になることができました。

 これからまだまだ残暑が厳しいことでしょう。クーラーやビールはほどほどに楽しい夏をお過ごしください。


宮沢賢治は何故舞ったか  その1
三島広志
 この文章は以前、岩手県盛岡市から発行されている「盛岡タイムス」に4回に渡って連載されたものに少し手を加えたものです。
宮沢賢治は最近地味ながらブームを呼んでいるらしく、賢治関係の出版の多さには目を見張ります。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 宮沢賢治の聖人君子像は広く世間に喧伝されているが、その奇人ぶりは余り知られていない。しかし、農学校の生徒達や同僚達の聞き書き等から推察すると世の天才と同様、かなりの奇行の持ち主であったことは確かである。
 もし私が生前の賢治と知り合っていたなら、彼の本質を見抜くことができないまま、その奇行に眉をひそめて絶縁したであろう。多分に脚色された聖人君子的賢治像であったからこそ賢治に魅力を感じたのかもしれない。

 ところが、今回私が問題にしたいのは、賢治の奇行である。そしてその内でも自然との交流という形で表された奇行である。農学校の教師時代、教室に窓から出入りしたとか、土足で廊下を歩いた、あるいは女性に好意を持たれたとき、顔に炭を塗って嫌われようとしたなどというのはここでは取り上げない。

 農学校の同僚、故白藤慈秀氏の著書「こぼれ話宮沢賢治」に月夜の麦畑での賢治の奇行が書かれている。

麦の穂はよく実って、そよ吹く風に手招きするかのように柔らかにゆれている。
皓々たる月は大空にかかっている。
この風景を見た宮沢さんは、何を思い出したのか、突然両手を高くあげ、脱兎の勢いで麦畑の中に入っていった。手を左右にふり、手を高くまた低く、向こうに行ったと思うと、すぐ引き返してきた。こうしたことを数回くり返してもとの場所に戻って路上の草の上に腰をおろし、大きなため息をしていた。
私は奇異に思い「いま何をしたのですか」と聞きただすと、宮沢さんは平気で、「銀の波を泳いで来ました」といった。・・・
以下次号

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2011年1月23日 (日)

游氣風信 No19「梅雨 カイロ規制」

游氣風信 No19「梅雨 カイロ規制」

三島治療室便り'91,7,1

 

三島広志

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<游々雑感>
梅雨
 じめじめした季節ですが、いかがお過ごしでしょうか。一年中でもっとも人気がない季節と言えばまずこの梅雨でしょう。蒸し暑かったりうすら寒かったりして、体調も狂いがちです。しかも日本と中国の揚子江流域だけの特有な雨季と聞くとなおさらです。

 暦の上では6月11日か12日を入梅と決めてあるそうですが、実際は5月のうちに沖縄のほうから順番に北上し、関東地方でちょうど6月中旬に梅雨になります。終わるのも南の方からです。暦の季節感は昔は京都、今は東京中心に作られたものですから、地方とは食い違って当然です。

 15年前、7月の中頃、名古屋地方が梅雨明け宣言の日、まだまだ凛々しい青年であったわたしはオートバイに跨がって岩手県に行きました。名古屋港からフェリーで仙台まで海路を揺られ、そこからバイクで北上したのです。ところが、東北は梅雨真っ只中。毎日雨の中をずぶ濡れになってツーリングするはめになりました。
 雨合羽を着て、襟元から水が入るのを避けるため首にタオルを巻き付け、長靴を履くという実用的ながらもカッコ悪いスタイルでした。オジサンになった今なら平気ですが、当時はまだ22歳、多少は格好を気にしていたのです。
 小岩井農場で広島から来た女の娘2人と一緒に移った写真があるのですが、その写真も合羽にタオルの襟巻きといういで立ちで、情けないことこの上もありません。

 10日ほどして帰るというその日が、無情にも岩手の梅雨明けの日でした。旅行するときは現地の気象に注意をしなければならないことを身をもって知った貴重な経験です。

 なぜ梅雨というのかと調べますと、この頃青くて艶やかな梅の実が熟すからです。
皆さんの家でも梅酒や梅干しの仕込みで忙しかったことでしょう。
 梅が実る頃の雨だから梅雨ですが、黴が発生しやすいから黴雨(ばいう)ということもあるそうです。確かにこの季節、油断すると所かまわず黴々々。タイルの目地や服などにできると色が落ちなくなって大変です。食べ物も注意しないと黴だらけになってしまいます。
 余談ながら黴よけスプレーなどの毒性はかなり強いので十分注意して使用してください。風呂など決して締め切って掃除しないように。今はやりの密閉式の風呂の場合は換気扇を回しながら使うようにしないと吸い込んで危険です。
 家庭用殺虫剤や化学洗剤の類いを「家庭に農薬を持ち込まない」という運動をしているグループがあります。畑の農薬には過剰に反応しても案外蚊取り線香や虫よけスプレーには無頓着になりがちです。

 話をもどしましょう。古くは梅雨のことを五月雨(さつきあめ・さみだれ)と呼び、江戸時代から梅雨とも呼ぶようになったそうです。ですから有名な芭蕪の俳句

     五月雨の降り残してや光堂

などは5月の雨でなく、梅雨の風景なのです。しかし、どうもピンときませんね。
 梅雨の頃のなんとなく薄暗い感じを五月闇といいますが、5月は一年中で一番さわやかな五月晴れのシーズンですから、どうもこの新暦と旧暦のずれは生理的に受け付けがたいものがあります。俳句の世界でもこの辺はうやむやにごまかして各人のイメージに委ねているようです。

 今月は発行が遅れました。梅雨も間もなく明けることでしょう。その後はジリジリと暑い夏の太陽が心を浮き浮きさせてくれます。


カイロプラクティック療法を規制
平成3年7月9日 読売新聞

背骨のゆがみを矯正し、腰痛などを治療するカイロプラクティック療法について、厚生省は8日までに、「医学的効果が明確ではない」として同療法を行ってはならない「禁忌対象疾患」を定めるとともに、誇大広告を規制することに決め、都道府県に通知した。 今回の禁忌対象疾患としては、ガンやリューマチ、心疾患に加え、ツイ間板ヘルニア、骨粗ショウ症などをあげている。
 治療の手技についても、首に急激な回転を与える「スラスト法」は危険性が高いとして禁止した。

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 上記の記事が新聞に書かれていました。
 最近新聞、週刊誌で「短期集中でカイロプラクティック療法マスター独立開業可、定年後の仕事に、サイドビジネスに最適、2泊3日の講習であなたもカイロドクターになれる、高収入が可能・・・」などと言う広告を見かけた方があると思います。
 今回の通達は主としてこれら無認可の治療類似行為を行う施設や個人に対して行われるものでしょう。
 また、有資格者(鍼灸・指圧などの免許をもっている人)に対しても注意を促したものです。

 カイロプラクティックとはアメリカで約100年かかって民間療法の骨格矯正法、整体を皆の共有財産とするべく科学的な仮定・実験・検証を経て体系付け、安全性・有効性を医療のレベルに高めたものです。現在アメリカではこの技術を学ぶために専門の大学へ行き、医師と同等の学習と臨床を経て、ドクターオブカイロプラクティッ
クとならねばなりません。彼らは死亡診断書を書くこともできるようです。

 ひるがえって日本の現状はどうでしょう。アメリカで資格を取って帰ったドクターオブカイロプラクティックは約50名ほどいます。しかし、彼らの資格は日本では全く通用しません。それでカイロプラクティック研究所などという名称で開業しておられます。その理由は鍼師やマッサージ師は政府が公認していますから「鍼灸治療院」とか「マッサージ治療院」と名乗れますが、カイロプラクティックは正規の治療と認められていませんから、「カイロプラクティック治療院」とか「カイロプラクティック医院」と名乗ることは違法になります。それで苦肉の策として「研究所」なのです。

 ここに無資格者の入り込む余地があります。治療院と名乗らず研究所とすれば法に触れないのです。ただしアメリカ帰りのドクターたちの多くは日本という法治国家で臨床をするのですから、鍼や指圧、ほねつぎの資格を日本で取得しています。

 そのほかカイロプラクティックを実施している人達の中には、鍼師、灸師(鍼師と灸師は別の資格です)やあんま・マッサージ・指圧師(長いですがこれで一つの資格です)、柔道整復師(いわゆるほねつぎ、接骨院のこと)あるいは医師や歯科医師がセミナーや弟子入りしてカイロプラクティックを勉強して自分の得意な治療の中に取
り入れたり、カイロプラクティック専門に治療したりしている場合もあります。
(注 鍼灸やほねつぎなどの治療師は3年間専門学校に通った後、国家試験を受け合   格したら免許がもらえ治療師としての身分が保障されます。(来年の受験者から国家試験、それまでは都道府県のおける検定試験)

 指圧の中に「衝圧法」という素早く関節に可動性を与える技術がありますが、これが新聞記事の「スラスト法」に近いものです。以前指圧の法制化のおりにカイロプラクティックなどの技術の一部も指圧の中に含めたのです。すなわち、あんまやマッサージのように揉んだり摩ったりする以外の民間手技療法を一括して指圧としたわけで
す。したがって、従来からの整体も法的には指圧に含まれ、法の下に規制されるようになったのです。

 またほねつぎは柔道整復と呼ぶことから分かるように日本の武道の流れです。よく姿三四郎などで気を失っている人に「エイッ」と気合一閃、活をいれる場面があります。あの「活法」もカイロプラクティックの「スラスト法」と基本的には同類の技術です。スラストとは素早い衝撃のことです。

 それで指圧師や柔道整復師がカイロプラクティックの技術を自分の治療体系の中に慎重に取り入れることは歴史的に自然の成り行きでしょう。それに値するだけの効果が期待できるからです。

 さて問題は先程書いた短期養成あるいは長期養成であっても無資格の人達です。彼らは厚生省あるいは文部省認定の専門学校に3年間も毎日通うなんて時間の無駄だ、その辺の養成講習とやらで簡単に勉強した方が楽でいい、それに正規の学校に行っても医学理論や基礎実技ばかりで、役に立つ実技は全然やらないからだめだと養成講習で聞かされます。
 またカイロプラクティックは法的に国が認めていませんから、全くの野放し状態で、あなたが今からカイロプラクティックの仕事をしたいと思えば今すぐ開業できるのです。
 そこに悪徳業者が入り込み、何も知らない人達から高い月謝を取って、いいかげんな技術を教え、開業させるのです。

 法的な規制がありませんから、宣伝も派手なものです。新聞の折り込みなどで背骨の絵を書いて病名が羅列してある広告が入ってくるでしょう。あれはほとんど無資格のカイロプラクティックや整体です。わたしたち鍼灸師や指圧師だけでなく医師も広告は厳しく規制され、住所や名称、電話番号、診療時間や休日のみ、イラストは地図
のみと決められているのです。昨今は対抗上有資格者でも法的に違反と知っていながら過大な広告をする傾向にはあります。
 厚生省は今回それを規制しようというので、これには大賛成です。

 ところがそうした無資格者の中にも名人上手が多くいて、大勢の苦しむ人を助けていることも事実ですし、現行では法律違反をしているわけでもなく、憲法の職業選択の自由が保障されているから人体に危険が無い限り違法ではないという最高裁の判例もあります。
 それに治るのであれば免許が有ろうが無かろうが関係ない、いざとなれば今流行のおしっこでも飲もう、パンツを脱いで寝るくらいおやすい御用というのが病める人の偽らざる心境でしょうからそのことには触れません。

 ただ、一部の見識の無い(免許が有ろうと無かろうと)同業者によって起こされた、あってはならない医療事故によって、厚生省から首に「スラスト法」をしてはいけないなどというように身体調整の技術の幅を狭められてしまいました。こんなことが続けば苦しむのは同業者であり、病に悩む人であるという事実をよく踏まえて、臨床に当たったり、短期養成の講習をしてもらいたいものだと思います。

 名古屋の大きな私立病院に整体を受けて歩けなくなった女性が入院しているそうです。腰椎ヘルニアなのに無造作な腰の整体をされて車椅子の生活を余儀なくされた人も何人かあります。首をポキッとならされて手のしびれがとれなくなった人の話も聞きます。

 患者側も初回、懇切丁寧な診察と問診、説明が無いような治療院なら途中で帰ってくるぐらいの決意で医療なり治療を受けるべきです。一発で治る病気などそうあるものではありません。そんなのはほっといても遠からず治るものがほとんどでしょう。


 病気は長い時間をかけて築かれた心身の歪みが、今までの人生すべての結果として表れて来るものです。自分の人生史の一つの表現形態なんです。そんなに簡単に考える性質のものではありません。人生史である以上、過去・現在だけでなく未来につながるものだからです。それに、医療過誤で苦しむのは自分自身なのですからね。

 以上、わたし自身十分な自戒を込めての報告です。

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游氣風信 No18「俳句という遊び」

游氣風信 No18「俳句という遊び」

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三島広志

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<気楽図書館>

俳句という遊び ─句会の空間─
小林恭二著 岩波新書 \580

 この本、あの岩波新書だからインテリぶって堅苦しいと敬遠される方もあるでしょう。ところが最近の岩波新書は一部インテリ層が怒っているほど内容が優しく、実用書的な本も出されるようになりつつあり、私ごときの凡俗な頭にも読める本が出版されているのです。早い話、この頃は難しい本はホーキングの宇宙論のようにファッショ
ンにならないと売れないのです。(ホーキング博士はファッションではありません。
博士の本を読むことがファッションになっているのです。)
 天下の岩波新書といえども時流には逆らえず、売れ筋の本を出版せざるをえないのが現状です。でもこれはとても良いことだと思います。人類の知を一部が独占する時代は終わらなければなりません。

 この「俳句という遊び」もそんな訳で岩波新書としては極めて軽く、楽しくユーモア小説ののりで書かれています。しかし、文章は優しいとはいえそこは岩波新書。質的には決して落とすことなく、特に俳句の好きな人には当代一流の俳人たちと句会に参加し、一緒に選句(いい句を選ぶ)する行程を一種サスペンスのごとく楽しむこと
が可能です。また、俳句を知らない人にも俳句の楽しさは十分伝わってくるでしょう。
現代俳句史の勉強もできます。

 俳句にはいろいろな流派があり、大きくは伝統派と前衛派に二分出来ます。この両者、時に近親憎悪的対立を生み、その相克の中から新たな俳句を輩出し続けてきたという歴史が繰り返されています。
 伝統派は有季定型(五七五と季語。一般に俳句とはこれを指す。)と自然の持つ魅力を俳句らしく表現しようという立場を死守する立場です。
 前衛派はそれにこだわらないでまず言葉の自立(純粋詩語)と普遍化(伝達)という言語そのものの持つ矛盾と、今という<時代>に対峙します(五七五だけで季語はいらないとか、五七五もいらない自由律とかいろいろある。今人気の山頭火は五七五も季語もどちらにもこだわらない。こだわるのは表現に対してのみ)。
 協会もそれぞれ俳人協会、現代俳句協会と分裂しています。

 この本はその流派間の壁を吹き飛ばして、著名な俳人老若中堅織り交ぜて8名が一同に会し句会を開いたその実況中継を、俳句の歴史や参加者のプロフィールを挿入しつつ楽しく臨場感一杯に書かれたものです。著者は作家で自らも俳人の小林恭二。

 参加者は以下の面々。
 俳句界の大御所の《飯田龍太》。大正9年生まれ。「をりとりてはらりとおもきすすきかな」で有名な飯田蛇笏の息子。代表作「大寒の一戸もかくれなき故郷」。

前衛派で若者の信頼厚い《三橋敏雄》。大正9年生まれ。代表作「いっせいに柱の燃ゆる都かな」。以前わたしは先代の「俳句研究」という総合誌の五十句競詠に応募して、佳作第3席(随分大勢選ばれます)に選ばれたことがありましたがその選者が三橋氏でした。

 《安井浩司》。昭和11年生まれ。代表作「二階より地のひるがおを吹く友や」。この方にも「俳句研究」の投句欄で時々選んでもらいました。

 《高橋睦郎》。昭和12年生まれ。読売文学賞受賞。氏は詩人としてのほうが著名です。代表作「遅き日のまぼろしなりし水ぐるま」

 《坪内稔典》。文学評論家。短大助教授。昭和19年生まれ。代表作「三月の甘納豆のうふふふふ」。人を食ったような俳句ですが、発表当時大変に話題になりました。昔「現代俳句」今「船団」という同人誌を発行しています。「現代俳句」後期と「船団」初期にはわたしも参加していて作品を発表したこともあります。

 《小沢實》。短大講師。昭和31年生まれ。代表作「ふはふはのふくろふの子のふかれをり」。

 《田中裕明》。昭和34年生まれ。23歳の若さで角川俳句賞(小説の芥川賞に値する)受賞。代表作「靴脱いで久濶の露涼しけれ」。

 《岸本尚毅》。昭和36年生まれ。代表作「手をつけて海のつめたき桜かな」。俳句のうまさで若手屈指の作り手といわれています。

 句会は題に基づいて作る「題詠」と、目に触れたものを自由に俳句に仕立てる「囑目(しょくもく)」。さていかなる結果にあいなりますや、まずは読んでのお楽しみです。

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游氣風信 No17「魚 痴呆ケア(現在は認知症)」

游氣風信 No17「魚 痴呆ケア」

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<游々雑感>

さかな・魚・さかな

 4月22日の読売新聞に「日本の子供が欧米の子供より知能指数が高いのは、魚をたくさん食べているからだ。」という英国脳栄養化学研究所の報告が書いてありました。
魚に多いDHA(ドコサヘキサエン酸)が脳の働きを良くするのだそうです。
 日本のお母さんの母乳には欧米人のそれより2~3倍DHAが多いというのがその根拠です。農水省食品総合研究所でネズミの実験したところ、正しいことが証明されました。
 DHAを多く含む餌を食べたネズミと別の餌を食べたネズミでは、「学習能力」「判断力」「集中力」などの面で違いが出るそうです。
 DHAが多いのはマグロ、イワシ、サンマ、サバなど。効率良く摂るには刺し身が一番、しかし今の子供たちは魚をあまり食べないので心配だと書いてありました。

 知能指数が高いと言うわりには、そういうことをいちいち外国から教わらないと気付かなかったり、「学習能力」の優秀な頭脳の持ち主は「判断力」を働かせた結果海外へ逃げてしまう社会がいつまでも続くようだと淋しいものです。
 またゴミや煙草の吸い殻をどこにでも捨てたり、ただ騒がしいだけで展望を示さない義理人情だけの選挙(実に無意味な喧噪でした)などもあまり頭が良いとは感じさせてくれません。
 周囲の顔色を確認しないと判断できない社会風土に育つ私たちは、顔色をうかがうには確かに優れた「集中力」を発揮するかもしれませんが。

 大体知能指数というのは人間本来の能力というよりはテクニックの問題でしょう。
反復練習でかなり上達するのではないでしょうか。そうでなく生得的な能力だとしてもそれはあくまでも能力であって、能力は教育とそれを活かせる社会があってこそ有効な手段足り得るものとして花開くのです。

 仮にDHAが脳の能力を高めるものであったとしても、それを開花させるのは大人や社会。ヒトとして生まれ人間として生きるためには教育が不可欠です。人間には自分を教育しようという教育欲があるように思えます。その点が本質的にネズミとは異なるはずです。もっともネズミ並の子供を育てて善しとするのなら別ですけどもネ。


 DHAはEPA(エイコサペンタエン酸)などと同じ、必須脂肪酸のひとつです。
必須とは必ず食物から摂らなければならない栄養素です。イワシなどの大衆魚にはどちらも豊富に含まれています。

 翌23日の新聞には「大衆魚が不漁」「イワシなど軒並み高値 黒潮の蛇行か魚種交代か」「今年は食卓から遠~く」「水揚げほぼゼロのマサバ」という見出しが踊っていました。皮肉なものです。


<気楽図書館>

 今月のお薦めは「あなたの『老い』をだれがみる  大熊一夫」(朝日文庫 480円)
。著者は悪徳精神病院を告発、日本の精神医療に大きな衝撃を与えた「ルポ・精神病棟」で知られる朝日新聞の編集委員です。

 精神病にしてもボケ老人にしても、誰もが自分のこととして考えなければならない問題です。にも関わらず敢えて避けているのが現状でしょう。
 わたし自身、現在痴呆の老人や、通り魔的犯罪によって全身の麻痺を余儀なくされた婦人、自営業でなくもしサラリーマンなら労災認定確実と思われる四肢麻痺の男性、その他脳卒中などの重度の障害に苦しむ患者さんやそのご家族と仕事を通して関わっています。しかし、もしこの仕事をしていなければ、全く関係ない世界のことと看過していたに違いありません。

 これら多くの人たちと接することで身体的苦痛、精神的苦痛、経済の問題、生きることそのものの苦労や家族の在り方などいろいろ勉強させてもらっています。また反対にご当人たちの意外な明るさ、強さにこちらが励まされることも珍しいことではありません。この本の著者も同様の感慨を抱いています。

 この本は実に分かりやすく平易な文章で、しかも努めて深刻にならないよう気を配って明るくさまざまな老人問題や実際に頑張っておられる病院をレポートしています。
是非ご一読を。

老年痴呆者へのケア20カ条(一部抜粋)
熊本県国立療養所菊池病院製作

1 ボケの強いお年寄りほど融通性がないので、急激な環境の変化はできるだけ避ける。
2 お年寄りはボケても礼儀正しいので、あいさつなどを通じて、なじみの人、頼りにる人になり切る。
3 安心の場を与える。
4 そのための最もふさわしい手段として、「おなじみの仲間」をつくる。
5 できるだけ孤立させないよう、たとえば骨折などで寝込んだときにも人影少ない部屋に放置してはいけない。
6 お年寄りの不機嫌、執拗な要求には、面倒くさがらずに耳を傾け、受けとめることが肝要。無視、侮辱、矛盾指摘で怒らせたり萎縮させたりしてはいけない。できる限り、お年寄りの気のすむように受け入れてあげる。
7 「老人のたわごと」と片づけずに、その裏の本当の意味を汲み取ってあげる。
8 自分は若いと信じている老人には、老人扱いしない。
9 「説得」より「納得」を心がける。
10 行動パターンを把握して接する。たとえば、物盗られ妄想で落ち着かないときにその人の好きな歌を歌うと落ち着く、など。
11 お年寄りの残された知的能力を見つけ、伸ばすこと。たとえば、夫の名も忘れているようなお婆ちゃんが百人一首はすべて暗記している例もある。
12 欠点をあげつらわず、とにかく生きてゆけるような方法を考える。
13 蔑視、排除、拒否を避ける。
14 叱責で窮地に追い込んではいけない。
15 感情的に対立してはいけない。
16 老人のゆっくりしたペースに合わせる。
17 できるだけ一緒に動いてあげる。
18 話はパターン化して繰り返し教える。骨折してギプスをはめられたお年寄りが、骨折したことを忘れ、「縛られた」と怒った。それに対して看護者が1日に数回ずつ、「目まいがして倒れて手をついて骨を折った」ことを教えたら2週間後には、ほぼ正確に覚えてくれた、という例もある。
19 どんなにシッチャカメッチャカでも動けるうちが花。寝こまれるとボケはさらに進む。「寝こませるな」は鉄則。向精神薬などみだりに使うと寝こみやすいので要注意。
20 適切な刺激を少しずつ与える。昔得意にしていた民謡でも園芸でも掃除でも、なんでもいい。

 考えてみれば、これはボケの強いお年寄りに限らない。この項目のいくつかは、シ
ルバーエイジにさしかかったすべての人々に対する基本的な接し方でもある。

「12 お年寄りと上手に付き合うコツ教えます」より

<追記>
 当時認知症のことを痴呆症とかボケとか言っていました。この文章は1991年に書いたものですから、一部のその記述が残っています。不快な思いをされたら申し訳ありません。

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游氣風信 No16「桜 エコロジー思考」

游氣風信 No16「桜  エコロジー思考」

三島治療室便り'91,4,1

 

三島広志

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<游々雑感>
桜は日本の春ぞかし

 福島県に三春駒という馬のこけしで有名な三春という土地があります。地名の由来は梅・桃・桜が一度に咲き、3つの春が一度に訪れるということから来ています。地元の人は三春の桜は日本一だと自慢していて、またそれに価する桜だと一度見たら認めざるを得ない美しさだとのこと。(反論もあるでしょうが・・)

 岐阜県の郡上八幡をさらに北上し、庄川という村に差しかかると広大なダム湖があり、その岸辺に大きな桜の木があります。もともと村の中にあった桜の木ですが、ダムに水没する運命を悲しんだ人々が移したのです。ドライブに飽きた人達が傍らで写真など撮ってくつろぐのにちょうど良い所です。
 また岐阜市の北西に位置する根尾村には有名な薄墨桜が巨木を誇示しています。老齢で一旦枯れかかったのを継ぎ根をして生き返らせたのですが、すごい技術があるものと感心しますね。そしてこれこそ日本一とする人も結構います。

 桜は日本の春には欠かせない花で、単に花と言えば桜を指します。陽気が暖かくなり辛夷の透き通る白い花や連翹の黄色、そのほか色とりどりに花が咲き、甘い香りに庭が満たされる頃、真打ちの桜が登場です。

 そもそも桜とは「咲くらめ」から来た言葉なんです。あらゆる花を代表して「咲く」という言葉を我が名を表すために使用できるなんて、とても名誉なことでしょう。ほかの花が咲くという言葉を使ったら商標登録違反だと文句が言えそうです。

 桜の魅力は花の美しさもさることながら、「ああ、春が来た。」という喜びにも助けられています。逆に桜も春の喜びを増幅させるという具合に季節との相乗効果も見逃せません。 しかし、桜の魅力の一半は散り際の良さにあることは間違いありません。
潔さは日本人の心の中に美徳として深く刻み込まれています。まるで遺伝子に情報がインプットしてあるかのごとく。

 主君のためにいつでも死ぬ覚悟をしておくのが武士道であり、実際、第二次世界大戦では、若者の心を桜の美意識で洗脳し、お国のために散り急ぎの美学を強要しました。
 桜に一種死の匂いを感じるのは、これらの伝統からなのでしょう。

 軍国日本のイメージを伝えるものに「日の丸」「君が代」「桜」「軍歌」などがありますが、今では「軍歌」はおじいさん達の戦友会のナツメロや、パチンコのテーマソングとなり、「桜」も春の野外宴会の肴として見事に復活して、もはや桜に軍国日本を連想する人もいないでしょう。

 平和を満喫する花見会、当地では味噌田楽の匂いがたちこめます。浮かれている連中に気安く話しかけると「まあひとつ食べてきゃぁ。」と人情を味わえる一時です。
 やっぱり桜は日本の春ぞかし。


<気楽図書館>
 現代に生きる、それは時間とのせめぎあいではないかと思うことがありませんか。
生きているのではなくただ時間の過ぎるままに生息している、まさにそんな感じです。

 生きるために時間を費やすのではなく、時間に追われて生を浪費する、これは立ち止まって考えるべき問題でしょう。

 私は立ち止まって考えるべき問題を皆様に提出し、それなりの解答やヒントを提出できるほど視野の広い、思慮の深い人間ではありません。しかし、そんな私にもできることはないかと考えてみました。
 そこで考えたことは次のことです。現代を明確に切り取り、そのさまざまな断面を私たちに見せてくれる優れた人は大勢います。そんな人の書かれた本は、ベストセラーになるものもありますし、注目を集めることなく本屋の片隅で数カ月過ごし出版社へ返されるものもたくさんあります。
 もうお判りのように、このコーナーではそれらの本を紹介することでいささかの情報を伝えると同時に字数を増やそうという安易な考えです。

 本はなにかの拍子に私の目に停まり、私の乏しい財源で購入できる、しかも私の頭で何とか理解でき、機会があれば皆さんにも読んでいただきたいというものに限ります。
 ジャンルはできるだけ広くしたいものです。
 コメントは付けません。ただ、内容の一部を抜粋して紹介するだけです。
 このコーナーのタイトルの“気楽”とはつまり私の気持ちを表しているのです。
 気が向いたら掲載するという気楽さもあります。

 今月はロッキード疑獄で名を馳せ、最近NHKで臨死体験のレポートをした立花隆さんの本です。先の「食養生」にもからんでいます。

立花隆「エコロジー的思考のすすめ」
中公文庫 \420

 200万年前、地球上のヒト科の動物は、わずか10万、25000年前のクロマニヨン人の世代になっても300万程度だった。自然システムの中に組み入れられた形での人間の適正人口は、おそらくその程度でしかなかったのだろうが、人間は自然のシステムに自分に都合のよい改良を加えることによって急速に個体数をふやしはじめた。紀元元年には2億5000万人、そして現在は36億人(この本の初版は昭和46年、現在は50億を超えている)と推定される。今日なお、毎日32万人ずつ生まれ続け、10日間でクロマニヨン人の総人口に当たる人間がふえ続けている。


 エコシステム(生態系、エコロジーのシステム)を構成する4つの基本的要素がある。
 1 非生産者的環境
 2 生産者
 3 消費者
 4 還元者
 非生産者的環境というのは、水、空気、土壌などのあらゆる物質に太陽光線を加えたものをいう。生産者とは、無機物質から有機物質を生産するもので、植物がこれに当たるといってよい。
 消費者というのは、生産者が作った有機物を食べることによって消費するもの、つまり草食動物、さらに草食動物を食べる肉食動物がこれに当たる。還元者はバクテリアや菌類で、生産者や消費者の生命が失われた後にこれを分解して無機物質にかえす生物のことである。そこで、無機物質→(生産者)→有機物質→(消費者)→(還元者)→無機物質、というサイクルが成立する。このサイクルがエコシステムの骨格である。このうちのどれが欠けてもエコシステムは崩壊する。


 人工システムは自然システムを利用して成り立っている。もし自然が、人工システムから廃棄されるものを自然に還元することを拒否すれば、地球は、人工システムの廃棄物で埋まってしまう。そうしたくなければ、人間が100%還元者の役割を果たさなくてはならない。


 人間という寄生者は、自然という宿主に寄生しているのだから、自然を殺さない程度に利用すべきなのである。病原体微生物のように、宿主の生命を破壊するの愚を犯してはならない。宿主を変えようにも変えることができないからである。すでに地球自然は病みつつある。このへんで、毒素の排出を人間がやめないと、元も子もなくな
りそうである。

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游氣風信 No15「篭の鳥」

游氣風信 No15「篭の鳥」

三島治療室便り'91,3,1

 

三島広志

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≪游々雑感≫

 目覚めると雨戸の透き間から冷たい朝の空気を貫いて「もしや雪では」と思わせる輝きが、映画館のライトのように差し込んでいました。寒さを振り切った私は大人の困惑と少年の期待の入り交じる複雑な心境で跳び起き、急いで外を見ました。すると表は予想どおり、柔らかな雪が20センチは積もっていました。

 朝日の当たる雪の中では雀たちが餌を求めてせわしくせわしく飛び回っていました。
日頃庭で見かけるのはヒヨドリ、鳩、雀、ムクドリ、今時は群れをなしてメジロ、運がいいとツグミやジョウビタキ、もうすぐウグイス。
数年前、ヒレンジャクの一群が家の前の電線にとまって北風に冠を揺らせていた様は、実に壮観でした。また出会いたいものと思っていますがまだチャンスはありません。

 鳩は巣作り用のワラや木切れをくわえてどこかに運んで行きます。一度隣のキンカンの木に巣をこしらえた時、辛抱強く雛の巣立ちを待ち伏せした猫にすぐ食べられてしまったことがあり、自然とは厳しいものと思ったものでした。

 雀はいつも、庭に出してあるセキセイインコの食い散らかした餌のおこぼれや、取り替えた古い餌を野鳥用にばら蒔いてあるのを啄みにやって来ます。メジロは近所のサザンカの垣根から我が家の椿の葉影にやって来てそのままどこかに飛び去っていきます。

 籠で飼われているセキセイインコはのんびりと餌を食べたり、時に砂を掘るごとくせっかくの餌を蹴散らかしたり、籠に敷かれた紙をガジガジ食いちぎったり、人が近寄るとその指を嘗めたりじゃれたり無防備なことこの上もありません。誠に平和そのものです。
 反対にふだん自由を謳歌している野鳥は、雪の日や雨の日は餌を求めて奔走することに命懸けです。花壇の脇に彼らに食べさせるために捨ててある餌に近寄るにさえ警戒心一杯で、カーテン越しの人影に気付くやいなやパッと飛び立ちます。その臆病さは見ていて哀れに思えるほどです。

 そういえば、私が高校生のころ弟と、二階の窓辺に雀のための白米を少しずつ撒いていたことがあります。そのうち毎日2~3合も撒くようになったらさすがに親が米の減り具合に不審がり、「雀よりもお前たちの餌で大変なんだ。」と叱られたことがありました。
 コツコツ窓枠を叩いて催促しているようでとても可愛く、隠れていると部屋の中まで入って来たりしました。その後は弟が給食のパンをかき集めてやっていましたが、布団や洗濯物に意外な弊害(糞害)が出始め、大学生になってから時間も無く、自然に雀との交流は断ち消えました。

 さて、あなたは先程の籠の鳥の不自由な平和を望むか、野鳥の厳しい自由を求めるかどちらでしょう。自由で平和が良いに決まっていますが現実はそう簡単ではありません。

 たばこの喫煙で考えてみましょう。
 愛煙家の自由を認めますと嫌煙家のきれいな空気を吸う自由は阻害され、嫌煙家の言い分を認めますと愛煙家の嗜好は妨げられます。そこで平和は乱されます。両者の自由と平和のためには部屋なり車両なりを分けなければなりませんし、現実にそう対処されていますが、その形式そのものがすでに不自由で非平和な状態です。言わば一種の冷戦状態です。
 アラブの大義と欧・米・日などの言い分、戦争状態をたばこの問題に置き換えるのは不謹慎ですが、質的にはたいした差は無いと思います。
 たばこの煙りは風が吹き飛ばしてくれますが、もうもうたる油井の煙りは一体誰が吹き飛ばしてくれるのでしょうか。

 アメリカ人は自由や平和は勝ち取るものだと考えます。そのために銃やピストルの保持を認めた州もあると聞きます。
 逆に日本人はそれらは何処かから誰かが、もしくは自然に与えられるものだと思っているようです。困っていると水戸黄門がやって来て「この印籠が目に入らぬか。」と勧善懲悪、「めでたし、めでたし」としてくれますが、世界には黄門さんはいないようです。ゴルビーも黄門にはなれませんでした。

 金満日本は籠の鳥のように島という籠の中での自由と平和を満喫しています。蹴散らかした餌に寄って来る野鳥をさげすむように・・・。だが今度の戦争は籠が決して絶対に安全でないことに気付かせてくれました。

 脚下照顧、足元をしっかり見据えないとなにやら不安定さを感じるこの頃です。せっかくの美しい雪景色を見ながら、風雅にはまだまだなれそうもありません。

<今月の詩歌>

雪 後
      北原白秋

安らかな雪の明りではないか、
ようも晴れた蒼穹(あをぞら)である。
ほう、なんといふかはいらしさだ、
あの白い綿帽子をいただいた一つ一つの墓石
 は。

樋の上の雀よ、あの隣の閑けさを御覧、
海近い丘のあの日だまりに、早や、
栗も梅も雪をふかぶかとかむったまま、
しかも耀く縁(へり)から雫してゐる。 
  ─以下略─

<後記>
 ともかく、多くの人が戦争停止を聞いて安堵の息をついたことでしょう。人類は一体何時になったら武力からさよならできるのでしょうか。結局、不可能なのでしょうか。
 「地球を守る生活の方法」などという本がたくさん出版されていますが、今のままなら人類滅亡こそ最高に地球を守ることになるなどと自嘲してしまいます。

 しかし、人類は白秋の詩のように雪明かりに安らかさを感じる共感性を内に有している限り、揺れながらも苦しみながらも歩み続けて行くでしょうね。


(游)

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游氣風信 No14「湾岸戦争」

游氣風信 No14「湾岸戦争」

三島治療室便り'91,2,1

 

三島広志

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≪游々雑感≫

 世界中が息をひそめて見つめる中、イラクに対する多国籍軍の空爆から始まって湾岸戦争という最悪の事態になってしまいました。イラクも今回は直接関与していないイスラエルにミサイル攻撃をするなど、中東ひいては世界を巻き込むかのように戦争は最悪の方向に進んでいます。

 しかも、原油の大量流出によって海水及び生物の生態系、地球の大気にも甚大な被害を広げつつあります。
 それは1月15日からの秒読みに続いて始まる家庭観戦可能なテレビショーのごとき恐るべき人類初の愚行をも伴いました。

 イラクのクウェート侵攻から半年、人々は過去の歴史に何ひとつ学ぶことができず、愚かさを繰り返すばかりです。

 経済的に影響は受けるが遠い世界の出来事なのだと突き放して見ることはできます。
あるいは、完全平和への過渡的出来事だと政治家や歴史学者のような醒めた視点もあるでしょう。
 しかし、実際に戦火にさらされる人はおろか、同時代他地域に住む私たちにとっても大変つらい出来事です。


 漢方では、世の中は陰陽のバランスを取りながら常に変化していて、現在はいかなる状況にあろうとも過渡期に過ぎないのだと見ます。一見静止しているようでもそれは陰陽のバランスを取り合っている極めて動的な状態だというのです。
 生き物は成長と同時に死への道程を歩んでいます。バランスが一応うまく取れていれば健康、ぐらついていれば病気、回復不可能なら死。
 この歴然たる矛盾の中にこそ命は育まれるというのが現実です。これを賢人達は「万物流転の法則」とか「無常」とか言い表してきました。

 今回の戦争も、人類全体が過去から未来への過程に生じたさまざまな時間的・空間的矛盾を回復するために一気に起こったバランス回復活動であり、いかなる終結を迎えようともそれがその時点の過渡的最良状態であり、同時に次の争いの火種になってしまうわけです。

 しかしそんなことは頭では理解出来ても、心には何とも耐え難いことです。
 俳優で歌手の植木等の父親は本願寺系の僧侶で、しかもクリスチャンであり、戦争中は反戦活動で投獄されたり、差別問題や福祉活動などの活動をされたなかなかの傑物ですが、植木が例の「スーダラ節」というコミックソングを歌うはめになったとき父親に相談したら、これは親鸞の教えだから良いと言われ、「どこが?」と尋ねたら
「わかっちゃいるけど止められない」がそうだと教えられたと雑誌で読みました。
 まさに戦争はいけないことだと分かっちゃいるけど止められないという情けないのが本来の人間の姿なのかも知れません。

 ただし、しっかり肝に命じなければならないことは歴史は成り行きに任せるしかないというようなものではなく、一人一人が歴史に関与し、歴史や社会から恩恵を受けているのですから、皆で最良の解決方法を人知をつくして模索しなければならないということです。
 今回の結果を良き未来へつなげるか、最悪の将来を招くかは今生きている一人一人の思いと行いの集積に外ならないからです。

 地球という自然のバランスの取れた環境の中であるがままに存在している鉱物や動物・植物と異なり、勝手気ままにできるのは人間だけですから、その行いには自ずと厳しい責任が伴います。

 海をオイルまみれにして、海鳥を窒息死させるなどは人間の愚かさを象徴する恥ずべき出来事です。オイルに限らずポイとたばこの吸い殻を捨てるのも、質としてはたいして差がないことにも気付くべきでしょう。


 争いは「相手」を全否定すると同時に「自ら」を全肯定させようとする処に激しく発生します。イラクの[大義]と西欧社会の[正義]とが互いに「自ら」を肯定し、「相手」を否定したために今回の戦争が勃発しました。

 争いを収めるためには、互いの[言い分]に聞く耳を持つ機会が必要です。これが話し合いです。

 日本はことあるごとに「まあまあ、どうもどうも」というあいまいさでごまかしてきました。それは国内ではとても有効な手段ですが正義・信条を大切にする世界には通用しません。
 とりわけ今回は皆がそれぞれにとっての[正義・大義]を死守するべく必死の状況ですので日本が調停案を出して停戦を図るためには、今までに世界に通用する信頼感を築いていたかどうかが問われます。しかし、残念ながらお金儲けが忙しすぎたようで信頼感はあまり芳しくないようです。


 湾岸戦争を「対岸の火事」と傍観するのでなく、「以て他山の石となす」ことが一人一人に与えられた課題ではないでしょうか。
 そして平和は健康と同様、自然にあるものではなく自らの努力で築き上げるべきものであることを改めて認識すべきでしょう。
 なぜなら人間は生きるために自然に完全に依存しておきながら、自分たちは不自然そのものの存在であるという矛盾の中にしか生存出来ない生き物だからです。

 自然の本質は弱肉強食にあります。
 水面下における絶えまない闘争と略奪に明け暮れた結果としての表面上の静かな生態・地質的バランスこそが自然なのです。わたしたちはその見事なバランスのうわべを見て「ああ、自然はいいなぁ。」と感動しているのです。
 自然は弱者や病者を容認してくれないという厳しい世界であり、だからこそ人間は自然を破壊し、自然から略奪し続けながら、<人間らしい>自然と調和を保つ行き方を模索し続けているのです。

 もっともだからと言って、「病者を相手にする医療は必要無いとか、闘争に勝利するために防衛費を増やせ」などと短絡してもらっては困ります。
 人間は痛みを分かち合うという素晴らしい能力を持っています。相手の痛みや苦しみを想像して共感するからこそ、助け合い励ましあって生きていけるのです。
 その人間が信条の違いから簡単に他人を殺すことも出来るという恐ろしさも同居していることを、私たちは常に自問しつつ生き続けなければならないのでしょう。

 戦争は人間を哲学者にすると新聞に書かれていました。それを裏付けるように爆弾を投下して来たばかりの紅顔と呼んでもおかしくない青年飛行士がテレビのインタビューに答えて、「夢中でやってきたが、こうして今になってみると自分でも考えなければならない問題がいっぱいある」と言っていました。
 彼に殺人を命令しなければならないブッシュ大統領も、原因を作ったフセイン大統領も、それをテレビで観戦しているみんなも、直接手を下した若い戦闘機パイロットの苦痛を共感してみる必要があるでしょう。もちろん、爆弾を落とされたイラク国民の恐怖にも・・・。

<後記>
 世間が何となく重く騒然としています。こんなときこそ自分を見失わないように生
きていかねばと自戒しています。
(游)


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游氣風信 No13 「正月 アレクサンダーテクニック」

游氣風信 No13

「正月 アレクサンダーテクニック」

三島治療室便り'91,1,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

≪游々雑感≫

 新春はいかがお過ごしでしょうか。
 わたしはこの通信を昨年中に仕上げ、皆さんのお手元には元旦にお届けできるように頑張るつもりでしたが、忙中閑ありならず、貧中忙ありで年を越してしまいました。

 新年のご挨拶が遅くなりましたことを、おわび致します。また、新年早々ご丁寧に年賀状を送ってくださった方にはお礼申し上げます。

 今年戴いた年賀状の中には、芸術的なものや思索に富んだもの、楽しい近況報告などいろいろありました。
 また、一人暮らしのお年寄りからは、寂しさをそれとなく感じさせる内容の賀状があったり、子供の写真をそのままハガキに仕立てた可愛らしいものも最近目につきます。

 次にプライベートに関わらない範囲で幾つか紹介させて戴きます。

Iさん
 あけましておめでとうございます
 まだまだ多少の夜泣きはありますがとにかく元気一杯です。
(獅子頭と並んだやんちゃ顔が風船にむしゃぶりついた写真に添えて。やんちゃな○ちゃんはしばらく夜泣きで小児はりに来ていました。オット女の子だった。)
Mさん
 “健康”という文字に目が行き、“おばさん”を意識しています。
 予備の体力を使い出しながら、可愛い○○ちゃんと毎日の衣食住に追われています。
 きれいな初夢をどうぞ!
(高校の同級生)

T師
<等身大>の月刊誌いつもありがとうございます。
 さらにご進展を
(身体や創造・イマジネーション等に関する恩師)

Tさん(多分)
 こちらはお陰様で無事出所卒業できそうです。
(3年間の医療系専門学校夜間部の卒業を間近に。出所とわざと誤記するところに学業の苦労が偲ばれます。しかし、年賀状には住所も名前も書いてなかったので、今春の国家試験が心配です。)

Tさん
 皆様お元気で良いお正月を迎えられたことでしょう
 昨年はお世話になりました。本年もよろしくお願いいたします。
(一般儀礼的な文ですが、ご本人は通り魔的事件により四肢の麻痺を余儀なくされた一人暮らしの女性。必死の筆跡が感動的です。明るい方。)

Kさん
 いつも通信ありがとうございます。昨年は少しはりきりすぎて動き過ぎました。
 今年はゆっくりとしたペースにしたいと思っています。
 体のこともっともっと知りたいと思っています。
(時々セミナーに呼んで下さる活動的奥さん。)

Mさん
 今年も勉強会よろしくお願いします。
 本借りっ放しですいません。
(同業者。私はこれ以後、人に本を貸さないことにしました。)

Y君
 異常気象、ドイツ統一、イラク問題。世界史の中で自分も生きているんだなあと思う1年でした。
(高校時代、一緒に柔道をやった仲間)

Kさん
 ビタミンマッサージ大変良いです。まだ5回位ですけど大変楽になりました。
(神奈川の友人。ムチウチで困っていたので知り合いの東京の治療院を紹介したのです。)

Sさん
 お元気でしょうか?
 “游氣健康便り”毎号興味深く読ませていただいてます。毎月毎月大変でしょうが楽しみにしていますので頑張って下さい。
 また遊びに行きたいと思いますのでよろしくお願い致します。
(以前私のセミナーを受けたうら若き女性。このように励まされると「よっしゃ、頑張ろう」という氣が出てきます。)

I君
 現在ぼくは佐賀県庁でがんばっています。
(生まれつきの脳性マヒを克服して、公務員試験に何回も挑戦した青年。確か福祉関係の仕事をしているはず。名古屋の大学に在学中、勉強のやり過ぎで首が痛くなって時々調整に来ていました。)

K君
 名大の研究室での仕事と病院のものとで忙しく中々会うことが出来ませんね。励んでいますよ。
(大学の拳法部の同期。いま研究熱心な臨床検査技師。海外まで勉強にいっている様子。)


T先生
 紅顔可憐の少年の頃からのテニスのおかげでまだラケットがふれる喜びを満喫しています。
(裏はお元気なテニス姿の写真。明治42年生まれの鍼灸界の大黒柱。)


 その他、漢方のS先生や鍼灸のT先生、演出家のYさん、文筆家のMさんなどの年賀状はそれ自体優れた作品であったり、論であったりしていずれ当人の発表が期待できるものもあります。


 明けましておめでとうとは、無事1年が過ごせた喜びを分かち合い、さらに今年1年も元気に楽しく暮らせるよう願いを込めて言うものでしょう。

 昔は生きること自体大変な時代でしたから、とにもかくにも1年を大過なく暮らし、年越蕎麦を食べ、除夜の鐘を聞き、初詣でに行くという行事は、今よりずっと重みがあったに違いありません。
 それに、味噌・醤油・米などの支払いは大晦日でしたから、借りの清算も何とかできたという気持ちも大きいに違いありません。できなければ夜逃げですからね。

今年1年、本当によい年であるように、心して暮らしましょう。やはり善し悪しの決定は自分が付けるものですから。


<正月暦>

去年今年
 たちまちにして年が変わるその迅さに対する感慨。

  去年今年貫く棒の如きもの   高浜虚子

元日
 1月一日。元は物事の始まりを意味する。人の立ち姿の象形。
 万物のもとである天を元と言い、政治のもとである天子を元首という。(学研漢和
 大字典) 
親からもらった命を元気と言うのもここからきている。
 元旦の旦は、地平線から日が昇っている象形で、朝のこと。

   元日や手を洗ひをる夕ごころ  芥川龍之介

嫁が君
 正月三が日に現れたネズミのこと。ネズミは大黒さんや福の神のお使いとして正月にはこれをもてなす。
・・
   嫁が君ゐるにまかせて愉しもよ  石川桂郎
人日
 正月7日。元日より8日までを鶏・狗・豕・羊・牛・馬・人・穀に当てる。
 したがって7日は人日。七草粥を食べる。

  人日の雪山ちかき父母の墓   石原舟月

松の内
 7日地方によっては15日まで。この間は新年の挨拶が交わされる。
 この日が過ぎると注連飾りや門松が取り払われる。松明という。

  更けて焼く餅の匂いや松の内   日野草城

左義長(どんど)
 14日夜から15日の朝にかけて正月飾りを燃やす。書き初めを燃やすと字がうまくなると言い伝えられている。

・・・
  左義長や婆が跨ぎて火の終   石川桂郎

鏡開き
 正月11日。餅を切らずにたたき割る。切るは縁起が悪いと嫌われる。
 講道館の鏡開きが有名。

  相撲取りの金剛力や鏡割   村上鬼城

女正月(小正月)
 14日から20日頃まで、地方でことなる。
 正月は忙しくて年始に回れなかった女性がこの頃年始に出る。

  女正月集いて洩れもなかりけり  山崎ひさを

以上「角川書店刊 入門歳時記」参考


<アレクサンダーテクニック>
 肩凝り、腰痛などの原因の一つに姿勢の悪さが考えられます。姿勢は腰の構えや背骨の伸ばし方が重要になるのですが、意識していてもついついグニャッとしてしまいます。
 立ち姿美しくすくっと背骨がしなやかに天に向かって伸びていると、見た目がいいだけでなく身体もとても楽になります。


 「健康」という字は「健」も「康」も中に「筆」から竹かんむりを取り除いたつくりがあります。「筆」という字は竹でできた筆を真っすぐに立てて字を書く様子の象形です。つまり昔漢字をつくった中国人は、健康とは筆のようにすくっと直立したものをイメージしていたわけです。
 「病」は反対に病気で横たわっている病人の象形です。やまいだれはベッドを立てた形、つくりの丙は大の字に横たわる病人を表しています。真っすぐ立つ姿こそ健康の象徴だったのですね。

 さて、ではよい姿勢とは軍人のように直立した姿勢でしょうか。たしかに外見はきりりとして整然さを感じさせますが、あれは精神の緊張を維持すると同時に、緊急に対して迅速に対応するための非常な姿勢であって、私たちが日常とるべき自然な姿勢ではありません。
 軍隊姿勢は硬直した思考とひたすら規律を守るために考えられたいびつな立ち方です。戦場ではそれが最も重要だからでしょう。
 しかし私たちの日常は戦場ではありません。危険な職場はともかく、普通はもっとリラックスして、人と人、人と道具・自然が生き生き交流する場所です。

 武道家、特に剣道家は姿勢がよいと言われています。試合のときでも凛と立ち、目にも止まらぬ早さで相手に打ち込む姿は、舞踊とは違った美しさを見せてくれます。

 軍隊の直立不動(これがいまだに学校の体育で教えられているのは如何なることでしょう)と、剣道の直立の違いは何でしょう。その差はどこにあるのでしょう。
 それをやさしく示してくれるのが、アレクサンダーテクニックです。

 1869年、オーストラリアのタスマニアで生まれたフレデリック・マシアス・アレクサンダーは俳優として舞台に立っていたのですが、ある時声が全く出なくなりました。その原因を一生懸命追及していくうちに、自分が何かしようとすると必ずあごを軽く上に突き上げようとすることに気がつき、それが、身体の働きだけでなく精神面にまで強く影響を与えている事実をつかみました。
 彼は研究の結果をアレクサンダーテクニックとしてまとめ上げ、86歳で亡くなるまでその普及に生涯を捧げることになります。
 現在、このテクニックはきちんとした心理学的方法として技術的にも理論的にも体系付けられ、世界各地で研究普及され、アメリカでは大学の正課として取り入れられている所もあります。

 専門家向けの本はかなり難しくなりますが、驚くべきことにこのテクニックの基本は実に簡単なのです。私の持っている本(アレクサンダー式姿勢術 サラ・バーカー著 北山耕平訳 三天書房)の表紙には次のように書いてあります。

 これが長生きと健康回復の基本だ!!
 「背すじを伸ばしなさい」「あごを引きなさい」─これはまちがい。
 「頭を上へ向かって持ち上げる」「肩からできるだけ頭を離す」─さあ、わかりますか。
進退エネルギーを総合的に発揮する革命的な技術!

 背すじを伸ばしなさい、あごを引きなさい・・・これこそ軍隊式直立であり、学校式キヲツケです。
 この姿勢は実際にとってみると分かりますが、首と背中が緊張でかちかちです。ヨガの先生にもよく見受けられるので習う人は気を付けなければなりません。
 ゴルフなどスポーツの初心者もこうなりがちです。ゴルフをやる人はクラブを持って構えてみると首が緊張していることに気がつきませんか?
 私もこうしてワープロを打っていて疲れてくると自然に猫背になります。そうなると意識的に背すじを伸ばそうとして背中を緊張させてしまうことがあります。

 そんなとき、背を伸ばすのではなく、頭をフワーッと風船が浮いているように上に持ち上げます。するとどうでしょう、背中は無理に伸ばさなくてもゆったり伸び、しかも緊張しません。もちろん腹筋も同様です。
 頭がうまく浮かない人は肩から頭を離すようにすると同じように背中がすんなり伸びるはずです。自分で動かすのでなく、釣り人形のように頭のてっぺんに糸をつけて引っ張られるようにします。(実際に髪の毛を引っ張ってもらうとよろしい。)

 この時、決して力まないこと。フワーッと動くことです。
 こんな簡単な動作が実は直接教えてもちっともできない人が多いのです。残念ながら家庭でも学校でもクラブでも背中を伸ばせ、あごを引けと躾られたからに外なりません。
 反対に躾られてない人はぐにゃりと曲がった姿勢になってしまいます。

 なにはともあれ、ものは試しと頭をふわりと持ち上げてみてください。気持ち良さを味わいながら試みてくださいね。頑張りは禁物です。
 基本的には腰掛けているか、立っているか寝ているかの姿勢がやりやすいでしょう。
それでできるようになったら、歩くとき、立ち上がるときなどあらゆる状況で試してみることです。

 日本の礼法に、立つときは「風なき空に一条の煙が立ちのぼるが如し」と言う教えがあるそうです。全くアレクサンダーテクニックと軌を一にする本質を得た教えだと感心します。

(游)

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游氣風信 No12「二日酔い」

游氣風信 No12「二日酔い」

三島治療室便り'90,12,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

≪游々雑感≫

 今年も残すところ後1カ月となりました。暖冬のせいか、余り切迫感は感じませんが、カレンダーが残り一枚ともなると、毎年のように「1年は早いなぁー。」と無駄に過ごした月日に思いを巡らせ、「年々歳々、月日の経つのが早く感じる。加速がつく。
」とこれまた年中行事のように歳を取ったなと考え、さらに「子供のころは1年が長かった。」と昔に思いを馳せます。

 36歳の分際で昔などと言うのは笑止と思われるかも知れませんが、20代の人からおじさん呼ばわりされ、20代の人が10代におばさん扱いされる御時世ですから、36歳は昔を偲ぶにやぶさかでない年齢なのです。

 NHKで評判の「翔ぶが如し」の西郷隆盛は40代で西郷翁と呼ばれ、昔の大店の旦那衆は42の厄(初老)を越えたら隠居したそうで、実にうらやましいかぎり。お相撲さんなど32、3歳で引退したら年寄名を襲名するのですから唖然とします。

 今は70歳まではこき使われます。働かないと「粗大ごみ」だの「生ゴミ」だの、最近は「濡れ落ち葉(ごみ袋に入れたごみと違って、掃いても掃いても地面にへばり付いてなかなか剥がれない。)」とか「ワシ族(いそいそ外出する妻に『ワシも行く、ワシも連れて行ってくれ』と泣きつく)」などととんでもないことを正面きって言われる時代ですから、フーテンの寅さんでありませんが、男はつらいよという世相です。


 名古屋出身でありながら、「蕎麦ときしめん(講談社文庫)」で名古屋の悪口を書きたいだけ書いて、2度と名古屋の土地が踏めなくなった作家、清水義範氏によれば憲法に書かれている国民とは□の中に玉がある民、すなわち男性を暗に意味し、憲法を制定した人々が将来、男性受難の時代が来ることを予見して、憲法中に密かに裏の意味として書き残したのだと大胆な仮説を立て、次のように具体的に検証しています。
(國を国に変更したのと、憲法制定は同時期)

 日本国憲法 第11条
「国民(男性)は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」
 同 12条
「この憲法が国民(男性)に保証する自由及び権利は、(中略)これを保持しなければならない」
 同13条
「すべての国民(男性)は、個人として尊重される」
 同25条
「すべて国民(男性)は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

清水氏はこれに関して次のようなコメントを述べています。
 「それにしても、何とひかえめな要求であろうか。男性が望むのは、高々、最低限度の生活なのである。この憲法を作った人は、間もなくこういう時代が来ることを予見していたのであろう。男性が、最低限度の生活をも望めなくなる日がくることを。」

 けだし卓見というほかないでしょう。
参考「グローイング・ダウン(講談社文庫) 神々の歌」清水義範著

 40代から老後を考えろと言われます。
 女性は40歳頃から、子離れの苦しみを乗り越えるために、地域ネットワークを築いたり、趣味を見つけたりします。それによって、活力ある老後を迎えるための準備が自然に整います。

 しかし、男性は定年退職の60歳から地域ネットワークに拘わらねばならず、その際会社の肩書などが邪魔をしてなかなか大変だということです。
 会社命で家族も顧みず何十年も暮らしてきたサラリーマン生活に、趣味など身につける暇などあろうはずもなく、接待ゴルフも今は遠い夢ともなれば、ワシもワシもと奥さんにしがみつくしかないのかもしれません。

 さて、今からでも遅くはありませんから、頭の趣味(俳句、短歌、絵、茶華道、写真など)と体の趣味(民謡、ダンス、ハイキング、インディアカなど)を嗜むのも一興かと思います。


<二日酔い>

 忘年会の季節です。仕事によっては嫌でも毎日のように暴飲暴食、我が身中の内臓を酷使しなければならないことでしょう。接待用の作り笑いではどんな御馳走も高級ブランデーもおいしくはないでしょうね。
 そんなときはきっと胃も動いてないに違いありません。手や口は義理で動いても、内臓は思い通りには言うことを聞きません。命を守る自律神経は義理より命の味方です。それなりの義務があるからです。
 そんな場合、身体は二日酔いという形で不満を表明します。

 また気心の知れた仲間と飲むとき、これは楽しいものですが、我を忘れてついつい度を越してしまい、悲惨な翌日を迎えることになります。これも身体からの叱責です。

 二日酔いの治療に健康保険が効くのは日本だけだと聞いたことがあります。嘘か誠かわかりませんがいずれにしても、自分で招いた二日酔いに健康保険が効くのはおかしな話です。
 営業で仕方無しのお付き合いならこれは労災でしょう。過労死ならぬ過労飲食です。

 ということで、二日酔いなどは本人に身体をいたわる反省の機会ですから放っておけばいいのですが、あれは実に辛いものです。二日酔いは身体からの情報に謙虚に耳を傾ける修練になりますから、本人が苦しんでいても、周りの人は知らん顔をするか、罵詈雑言を浴びせてやれば、それが立派な家庭療法でしょう。

 ところが何と言っても実に苦しいもので部屋はグルグル回るし、吐き気はするし、頭はガンガン痛いし、胃は引っ繰り返ったように張るしで、どうも困ったものです。

 それで多少なりとも楽にする方法をここに紹介します。だからといって二日酔いになるような行為は避けるべきで、あくまでも窮余の方法だと思ってください。

1、食べ過ぎ体操
  正座してそのままゆっくり後ろに倒れます。ヨガなどで良く見かけるポーズです。
  多くの人は両膝の間が開きます。そして、背中が反っくり返ります。食べ過ぎるほどきつくなります。そこを我慢して両膝を揃えてはパッと力を抜きます。これを3~4回繰り返し、両脚を伸ばしてしばらく休みます。
身体が堅くてできない人は、片足ずつ折り曲げて後ろに倒れ、自然に2~3呼吸そのままにしています。
  この体操は身体の前面にある胃腸機能に関係あるスジを伸ばします。
  こつはパッと力を抜くとき、息をホッと吐くことです。
  食べ過ぎて御免と、身体に謝りながら行います。

2、肝臓の調整
  柔軟体操の前屈のように、脚を投げ出して座ります。両足を精一杯開きます。前屈体操と同様に身体を前に倒します。そのとき右手で左足を触るのと、左手で右足を触るのと2つの体操をします。
  無理せずに息を吐きながらゆっくり右手で左足を触り、そこでしばらく静止します。2~3呼吸自然に呼吸しましょう。
  反対側も同じように伸ばしたら、仰向けでしばらく休みます。
この体操は身体の側面にある肝機能に関係あるスジを伸ばします。

3、肩甲骨と背骨の間の指圧
  うつ伏せに寝て、布団に胸を密着させ、誰かに肩甲骨と背骨の間の指圧をしてもらいます。
  左側に胃の反射、右側に肝臓の反射が出てきます。そこを指圧することで逆に胃や肝臓を刺激するのです。
方法は寝ている人の左側に来て、左の肩甲骨と背骨の間(胃)に右の手のひらの小指側を当て、左手を重ね、静かに体重をかけていき、気持ちの良い圧力で5秒ぐらい静止します。
  2人で色々試行錯誤しているとだんだん上手にできるようになります。
同様に右側も指圧します。
  してもらう人は力を抜いて楽にして任せること。胸と布団の間に隙間があると危険です。
する側は無理に力を入れないで、腕を腕立て伏せのように伸ばして、体重だけで乗っかるように。人並み以上の体重を誇る人は控えめに。
  

<今月の詩歌>
・・・・ ・
柊の花見返へれば少女佇つ 佐久間東城

 柊の木はモクセイ科。花は白色の小花で初冬に良い薫りを放つ。
 葉は縁がぎざぎざで触ると痛い。語源は「疼ぎ(ひいらぎ)」。
 木犀(モクセイ)と近似なので自然に交配して「柊木犀(ひいらぎもくせい)」になることがある。これは葉の切れ込みが細かい。

・ ・・ ・・ ・・・・
さびしさの目の行く方や石蕗の花       寥太

 つわぶきの花。寂しい初冬の庭を鮮やかな黄色で慰めてくれる。
 正確にはフキではなく菊科の多年草。葉がフキに似て艶があるので「艶蕗(つやぶき)」もしくは葉に厚みがあるので「厚葉蕗(あつはぶき)」が名の由来と言われる。

<後記>
 今年は暖冬のせいか、田圃の切り株からまた青々した稲がすくすく育っています。
切り株から出てくる稲の芽や茎のことをひつじと呼び、その田をひつじ田と言います。
花が咲くこともあるそうですよ。

 帰宅時に空を見上げると、大接近している火星が赤く輝き、その側に昴(スバル)が朧に灯っています。もっともこの星(正式にはプレアデス星団、和名すばる。自動車のすばるのマークになっています)は、清少納言の枕草子にも「星はすばる」と書かれているように古くから日本人に愛されてきました。

 昴の属するおうし座やオリオン座、全天で一番明るいおおいぬ座のシリウスなど冬の星座は寒さを忘れさせてくれます。夜空は冷え込むほど空気が澄んで星の瞬きが近くに見えますから楽しみな季節ですね。

(游)

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游氣風信 No11「ガンと身体調整」

游氣風信 No11「家庭円満 ガンと身体調整」

三島治療室便り'90,11,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/


折々の健康

 先頃亡くなった参議院議員で医学博士の高木健太郎先生の言葉。

「時に癒し、しばしば苦痛を和らげ、常に慰む」という言葉は、現代医学があまりにテクノロジーに依存し、人間を物体視する弊害を戒めている。

 ある老婦人が重症の肺水腫におちいったが、器材が何もなく、やむなくベッドのそばで静かに話をはじめたところ、彼女の恐怖は鎮まり、症状は軽快し、肺の雑音は消失し、肺水腫がよくなったという。
 この話を読んで、患者への語りかけ、慰め、医師への信頼が病人治療にいかに大切であるかを改めて知った思いがした。

 鍼灸は学理的にも有効であることが証明される日も遠くはないと思うが、病む人と語り、触れ、慰め、力づける要素が鍼灸の治癒に大きい比重を持っているのではないかと考える。”癒しの心”を忘れてはならないと自戒したい。
 病人と接する時間が短くなり、ふれあいの心が通じる時空が短縮し、鍼灸の科学根拠に偏るとき、現代医学の欠陥をそのまま鍼灸に持ち込む憂いが無いとは言えぬと思う。
(以上、福岡の筑紫城治氏からの紹介)

 高木先生は早くから鍼灸に理解があり、鍼灸の現代医学的研究や一般化に尽力された鍼灸界の恩人です。
 今日、鍼灸を分かりやすく広めるために現代医学的に研究したり、説明しようとする傾向が強いのですが、その方向に進み過ぎると現代医学の欠点を(人間をともすると物質的のみの視点で捕らえようとする)そのまま持ち込んでしまう恐れがあることを警告しておられるのです。 
 むしろ現代医学の制度から離れたところに(隙間を埋め込むように、あるいは境界面での共存)手作り医療としての鍼灸・指圧・整体・気功などの身体調整を考えたい私としては、この高木先生の警鐘はまさに我が意を得たりというところです。

 身体調整は2人の出会いから始まるコミュニケーションの場です。一方が病み・苦しみ・悩みをもっている時、もう一方の人は何ができるでしょうか。

 ある人は寄り添い、ある人は語り合い、ある人は手を握り、またある人は持てる技術を施行して治療に当たることでしょう。
 その技術がたまたま鍼であったり、指圧であったり、薬であったり手術であったりするわけです。
 身体調整は本来誰もが誰に対しても思わず手を差し伸べる(手当て)べきものであるし、現に殆どの人が家庭や職場である程度実行しているものです。
 「あなた顔色悪いわよ。一度お医者さんに診てもらってらっしゃいよ。」などという具合に。 医療は実はここから既に始まっているのです。


 ここで話は少し変わります。
 高木先生は、ご自分がガンに罹ったことを奥さんには隠し、日常の業務には極力参加、最期の最期まで現役を貫かれました。見事な生き方であったと感心します。
 しかし翻って、もし自分がガンになったとして、今の医療は私達をそのように自由にしてくれるかと言えば少し疑問があります。
 病床で不安と共に死を待つだけではなく、毎日を、残された毎日を有意義に生きるにはどうしたら善いか、患者や家族と一緒に考えてくれるような医療はまだ一般の施設では期待出来ないようです。

 多くの場合、病床に縛り付けられ、最後には体の穴という穴に管を通され、生ける屍として手厚い看護?を受けることになるでしょう。

 不思議に思うのは高木先生に限らず、ガン研究所の所長クラスの有名な(新聞にその死が紹介されるような)先生方がほとんどご自分の延命治療(坑ガン剤や放射線療法なども含む)を拒否されながら、患者に対しては管をくわえさせている現実です。


 医師自らが今まさに死に直面している患者と一緒に、生き方の模索をしてくれなくても、せめて本人や家族の意志で過度の延命治療という身体的、精神的、経済的、社会的拷問を避けることは出来ないか、常々疑問に思っています。

 現場を預かる超一流の先生方が延命治療を拒否される根拠は一体いずくにありや?
と人品骨柄のまっとうでない私はつい穿った見方をしてしまいます。
 あれは本来患者のためでなく本当は医師のためにあるのではないだろうかなどと・・。
 しかし、医療サイドといささかなりとも境界を重ねる仕事をしている自分としては、医師任せにしてしまう患者にも一半の責任はあると突き放した立場にも立てます。
 それとも死に直面した場合、両者ともにどうしたらいいか分からない状態で、導火線に火の着いた爆弾を医師と患者の間で投げあっているのが現実なのかとも思います。
両者ともに確信持って死に臨むことができませんから。
 人ごとならともかく自分や家族のこととなると「こいつぁたまらん」というのが本音でしょう。

 いずれ無用な延命治療は避けて(必要な治療は勿論してもらいます。治癒の可能性があるなら、全力で事に当たり、不安の大きな原因である痛みの緩和とか、苦痛の原因の除去など)残された寿命を精一杯生きる方法を一人一人が考えなければいけなくなるでしょう。
 実際に世を去らなければならないのは自分自身ですから。
 ガン告知問題も、訴訟が増えるにつれて表面化してくるに違いありません。患者からの要望も増えつつあるようですし、ガンが全く治らない病気とも言えない時代になりつつあります。


 以上のことと高木健太郎先生の功績業績の偉大さとは全く関係ありません。
 ただ高木先生も延命治療を拒否されたと新聞で読んで、今まで持ち続けていた疑問を書いたまでです。


ガンと身体調整

 残念ながらガンに対して有効例は持ちません。
 少数ながらガン患者の痛みの緩和に微力を尽くした経験はあります。
 
胃ガンの80歳の女性の場合

 胃の幽門部(出口)にゴツゴツした岩のかけらような4センチ位のしこりがあり、食欲不振と胸焼け、全身の倦怠を訴えていました。
 本人はガンとは知らず、家族は私にも胃潰瘍と言っていましたが、家族の雰囲気やしこりの状態からガンであろうことは容易に察しがつきました。
 調整は週2回、腹部への柔らかい手当てと、腰への灸頭鍼。
 灸頭鍼は鍼を刺し、鍼の柄にモグサを付けて火を点けるものです。鍼と灸の効果が同時に期待でき、とても気持ち良いと評判も上々です。
 患者は身体調整の後、腹の不快感が消え、食事が出来ると喜んでいましたが、3カ月ほどで入院。2週間くらいで亡くなりました。

 没後、遺族から幽門ガンであったことを知らされ、嘘をついていたことの謝罪を受けました。しかし、私は家族の雰囲気やしこりの感じから何となく気付いていました。
患者自身もだまされている振りをしておられたようでした。

肺ガンの64歳の男性の場合

 一時マスコミを騒がせた粉ミルク断食道場を退所後、自宅にてミルク断食を完璧に実行。断食は指圧と組み合わせてありましたから、指圧のために訪問しました。
 初めて訪問すると、死臭とも言うべき匂いが部屋中に立ち込めていました。
 患者さんは極度の衰弱にもかかわらず、しっかりとご自分の意見を述べられました。

 自分は肺ガンであること、もはやそう長くないであろうこと、入院は極力したくないので、粉ミルクと指圧で頑張りたいこと、友人のドクターと常に連絡は取っていること。

 その態度にいたく感心した私は出来る範囲で協力することを約束し、週3回、約1カ月半訪問しました。 最終的には体力の限界まで至り、娘さんが入院させましたが2日目に他界されました。
 指圧は痛みの緩和には十分役立ったようで、おなかに手を当てている間はとても楽だから、手を置いて帰ってもらいたいと冗談を言われました。あるいは半分は本意だったかもしれません。

 粉ミルク断食はマスコミのヒステリックな糾弾の矢面にたたされましたが、じっさいその道場で良くなった人もあり(作家の三浦綾子氏は擁護派です)、医師もその治療に参加しています。
 非難するだけでなく、そこでもし本当にガンが良くなったケースがあるならそれを追及することも意味あることでしょう。
 あきらかに害があるならそれも医学的に証明すべきです。
 また何故病院を抜け出して、敢えて高い料金のかかる怪しげな断食道場に人が集まるのか研究してみることも必要でしょう。
 ひたすら、自らの乏しい何十年かの経験や何百冊か分の知識にしがみついて、非科学的だと騒ぎ立てるのは、逆に極めて非科学的態度であることに気付くべきでしょう。


 私自身はミルク断食を積極的に推薦しようとは思いませんが、その断食道場長はこのように言うそうです。
 「あんたのガンはあかん。わしにも治せん。そやけどみんな通って行った道やさかい心配せんと先に行き。わしも後から行くからその時は迎えに来てや。(上野圭一氏による。読み覚えだから文は不正確。)」

 ここまで言い切られると是非を越えてウ~ム、と唸るほかありません。患者と治療者が同じ立場でガンに対峙しています。治療者が自らの問題としてガンに取り組んでいるのです。

 良きにつけ悪しきにつけ、私は未だこう言い切るだけのものは持ちません。

今月の詩歌

朝寒の撫づれば犬の咽喉ぼとけ 中村草田男
鯛の骨畳みにひらふ夜寒かな  室生犀星

 朝寒(あさざむ)は秋も深まる頃、朝方だけ寒さを感じ、昼間は寒さなどころっと忘れているような感覚。
 夜寒(よさむ)は昼間は気温のことは気にせず生活し、夜になって寒さが身に染むしんみりした感覚。
 朝寒も夜寒も秋の終わりの気配を敏感に感じ取った古人の季節感を表す言葉。

 息せききって生きている現代人にはなかなか実感する機会も暇も無さそう。
 両句とも言われてみれば成程と改めて季節の変化を教えてくれる佳句。

 現象の断面を切り裂いて突き付けてくるのが優れた俳句の条件。読み手の背景の広さが佳句の背景をさらに深める。

後記

 イラクから74名の邦人が解放されました。まだ230余名の人々がイラク、クウェートに残っているそうです。
 人質という卑劣な手段は憎むべきものですし、といって解放という餌にのり不正を許すという訳にもいかず、家族の方々や政府、関係者の苦悩も大変であろうと思います。
 それにつけても、我が身を省みず他人を先に解放してくれと身を引かれた人達は、まさに義を見て勇を為された尊敬に値する人々でしょう。
 以前、飛行機が海に墜落した時、他人をゴムボートに乗せて自分は海中に沈まれた米国人もいました。
 小事に慌てふためく我が身を思い恥じ入るばかりです。

(游)

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游氣風信 No10「続ぎっくり腰」

游氣風信 No10「続ぎっくり腰」

三島治療室便り'90,10,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

<折々の健康>

続ギックリ腰
 前回ギックリ腰の事をかいた後、週刊誌を読んでいたら、プロレスラーの藤波辰巳選手がギックリ腰を発端とした腰痛で420日間闘病を余儀なくされたことが書かれていました(週間文春ほか数誌に掲載)。
 私達にもなかなか参考になるので、週間文春の記事を参照しながら意見を述べたいと思います。
 藤波選手はプロレスラーですから「游氣健康便り」を読まれる人にはあまり馴染みがないでしょうが、ハンサムな顔と102キロの均整のとれた体、スピード溢れる試合運びでとても人気有る36歳のレスラーです。もっとも最近は試合が出来ないのでモーニングショーなどに美人の奥さんと時々出演していますから主婦層には結構人気
が有るようです。

 彼が腰を痛めたのは昨年6月、試合中に180キロの選手を持ち上げた時で、腰にバァーッと電気が走り腰から下にほとんど力が入らなくなったそうです。
 相手の選手は相撲から転向した150キロくらいの双葉黒(現在はプロレスラー北尾選手)を玩具扱いする怪物のようなアメリカ人で、プロレスラーとしては小柄な藤波選手では少々無理な相手です。 
 さらに怪我をする1、2年前から腰は悪く、重かったりだるかったり、立っているのもやっとということもあったようです。

 試合後、杏林大学病院でレントゲン検査を受けたところ「大きな異常はないのでしばらく様子を見ましょう。」という診断でした。
 これは今試みた診察では異常が見つからないけど、症状からするとまだ分からないから様子を見ようということです。

 しかし忙しい体ですのでそんな悠長なことはしておれないのでしょう。翌日、行きつけの整体の先生にかかります。この先生はテレビなどで時々見かける名人と誉れの高い人です。
 その先生は「これは1日か2日で治るから、心配するな」と簡単に行って、背中の骨を引っ張ったりねじったりしました。
 するととても楽になったけれど、左の足の付け根に変な痛みが残り、先生に訴えると「徐々に取れて来るだろう」ということでした。

 レスラーの痛みに耐える能力は大変なものがあります。新人はまず体作りと同時に苦痛に耐える訓練から始めます。

 したがって、藤波選手に普通人ならとても我慢出来ないような痛みがあったとしても、それが外見からは案外軽く見えたことでしょう。それで大学病院も整体の先生も軽いと判断したのではないでしょうか。

 しかし、病院側は様子を見ようという慎重で謙虚な態度に出ますが、整体の方は自分の腕自信があるのか、症状をなめたのか、背骨の矯正と称する暴力を実施してしまいました。
 しかも確かに名人らしく、症状を和らげて楽にしてしまいました。本人も試合に出たがっているのでそれに応えたのでしょう。そこに落とし穴があったのです。

 先月号に私の恩師の言葉として書いたように、「折角ギックリ腰になったのだから身体に感謝しなさい。身体が休みたいという信号に耳を貸しなさい。痛みが除れるまで無理せず休んだらどうですか。」と一歩下がって様子を見る(身体の言葉に耳を傾ける)という態度に出るべきだったのです。そしてその段階では、ボキボキバリバリ骨を鳴らす暴力的整体は絶対避けるべきでした。

 整体で一発で治った、とはよく聞く言葉です。確かに私自身、整体で患者さんの症状を即座に治したことは度々あります。私だけでなく治療を業とする者ならだれでも経験があります。
 その快感は治ったほうも、治療したほうにも忘れ難いものがあります。しかしそれは症状や体質を十分考慮した上で慎重に行われるべきものです。
 他所でそういう経験をしてきた人は、細かく検査すると面倒臭がり、強い刺激的な調整をしないと、不満を漏らします。そんな時はそういう治療をするところに行って下さいと言うことにしています。
 
 整体で楽になった翌日から、藤波選手は北海道の遠征に出掛けました。しかし10試合ぐらいして、どうしても我慢出来ないと東京に引き上げたそうです。
 その後は試合は休み、師匠のアントニオ猪木さんが参議院に立候補したので、応援に全国を駆け回りました。
 一番ひどい頃の症状は「我慢出来ないほどの極度の痛み、それが24時間絶え間無く。寝返りすら打てない。朝起きる時、膝を曲げエビのようになってうずくまり、痛み止めの座薬、痛みが多少緩んだら手摺りにつかまってトイレに行く。そして医者に行くために車に乗り込むが、くぐる動作が出来ない。灰皿を取ろうと手を伸ばすこと
も出来ない。せきもくしゃみも痛くてだめ。首も回らない。腹が一杯になると腰が圧迫されて痛い。便器できばると目から火が出る。体験ではオリゴ糖を前の晩飲んで寝るときばらなくてもいいので排便がものすごく楽。」という惨憺たる状態でした。(突然ですがここでCMです。オリゴ糖は当治療室で扱っています。)

 藤波選手が訪れた病院は整形外科が11軒、その他カイロプラクティック、整体、鍼灸、気功療法、遠隔療法、心霊治療など全国数知れず。
 整形外科では「手術をするならプロレスを辞めてからのことを考えてから。格闘技への現役復帰は不可能。」と言われ、手術以外の治療法を捜し求めそうです。
 偉い上人や有名なお寺、神社を渡り歩き、歩き過ぎでかえって悪くしたような感じとか。
 ゴルフの岡本綾子選手の腰痛を治したパパイヤエキスの先生に会い、ロッテの村田投手や巨人の吉村選手を手術した有名なロスアンジェルス・セントラル病院のジョーブ博士の診断も受けましたが、いずれも藤波選手の症状には向いていないと断念。
 ブロック注射は麻酔の注射が痛くて、一時は週に2回続けたけど良くなるまでは至らなかったようです。

藤波選手の感想
 いろいろな治療法を試しましたが、結局は『時間』ですね。人間は放っておいても自分で治す力があるんです。その意味で効果的だったのは、治癒力を高める鍼や灸です。悪化するようなこともありませんし。最初から最後まで続けています。 腰の怪我というのは安静が一番なんです。その意味では入院して牽引するのが一番いいです。
痛めた最初の一週間を安静にしていれば、僕も長引くことはなかったと思います。
 無理と言えば初期に整体に行ったのも良くなかったですね。一発で骨の髄まで治る場合もあるけど、椎間板が神経に触れていたりする神経的な腰痛には、整体は控えたほうがいいのです。一定の期間を置かずに、悪い箇所をよじったり、ひっぱたりすれば、切り傷で出血した箇所を毎日叩いているようなものです。あれだけ毎日治療を重ねれば、健康な人でも悪くなったんじゃないかなという気がしますよ。(笑)
 気功療法は心を無にして目を閉じ、足を肩幅に開いて立つのですが、痛みを我慢して立つと、体中から汗が噴き出し、身体から痛みが消えました。
 遠隔療法も効果的で、これは悪い箇所に直接触らないんです。爪先からツボを押さえていって、悪いところをほぐしとるんです。
 大事な時期なので治療法を今は絞っているんです。本来持っている人間の治癒力を高めるようなものだけですね。それで、今も続けているのは、鍼治療と心霊治療(どういうものか説明がありません・・筆者)、遠隔療法の三つです。
 今は、筋肉がようやく戻ってきているな、というところ。痛みが完全にとれたわけではありませんが、ようやく、後楽園ホールで公開スパーリング(試合形式の練習・・筆者)に遭ぎつけました。
 今の目標は、九月にリングに立つこと(後略)・・・。

筆者の感想
 プロレスラーという特殊性に関係なく、藤波選手の体験は誰にでも起こり得ることです。その点多くの人にこの闘病記はとても参考になります。

 ギックリ腰のように命に別状の無い症状の場合、焦ってやたらといじくり回さないことです。安静が何より大切です。
 安静といってもじっと寝ていろということではなく、動ける範囲で日常レベルの活動に止め、激しいスポーツや肉体を酷使する仕事は避けることです。

 普通のギックリ腰なら4日目くらいには何の治療をしなくても普段の生活には困らない程度に回復してきます(痛みは残っているものの)。
 あせって身体を治療という名目でいじめたり、痛め付けたりしないことです。
 心ある治療師ならカイロプラクティックでも鍼灸でも整体でも、症状の激しい段階では無理に矯正したり患部に強い鍼などはしないものです。 
 もっとも高い料金を頂いていますから、早く楽にして上げたいと思うのがプロ根情です。仮に仕事を離れていても、目の前に痛そうな人がいて、もしかしたら自分が何か役に立てそうだとなれば手助けしようとするのは人情です。

 私がこの道に入ったばかりの頃はついついこの親切心からのやり過ぎという失敗に随分悩んだものでした。おそらく皆そうだろうと思います。


 治療を受けた後、一人一人がその結果を十分検討することも大切です。最近になってインフォームドコンセプトなどと称して、医師と患者との間の意志の確認、話し合いが大切だと言われていますが、これは治療に対して患者側の積極的な取り組みを促すものでもあります。ただひたすら受け身だけでは駄目なのです。

 ある腰痛の友人で、人に紹介された有名な整体(私のところではありません)だからと、遠くまで足げく通っている人がいました。
 結果はどうかと尋ねましたら、行きは良いが帰りは電車の椅子にも腰掛けておれないほど痛くなると言います。
 足のまねきも悪く、地面が不安定な感じがするとも言います。整形外科へ行ってレントゲンを撮るように勧めたところ、かなり進んだ椎間板ヘルニアだと分かり、予後の悪いタイプなので手術をした例があります。

 治療の前より後のほうが症状がひどくなった場合、普通はその治療法に何か問題がある、あるいは自分に合わないと判断するはずですが、有名な先生で患者が門前市をなし、知人の紹介ともなると判断が甘くなってしまうのでしょう。
 また症状が重度であると想像すればなおさら判断は人任せにしたくなるものです。

 病気の治癒には、藤波選手が言っておられるように「時間」が必要です。病気は治療法や治療師、医師が治すのでなく、各人の命(自然治癒力)が治すのです。身体(=自然)に任せるしかないのです。そのためには時間がいるのです。
 治療とは自然治癒力がもっともうまく働ける環境作りだと知って下さい。

 その上で、必ず治るという強い意志と、治ったら○○をするんだという目標をしっかり持ち続けることです。藤波選手が9月にはリングに立つと目標を定めたように、自分なりの身近な目標を設定すること。それが自然治癒力をますます活性化することになるのです。

<今月の詩歌>

白き霧ながるる夜の草の園に自転車はほそきつばさ濡れたり  高野公彦

 昭和16年生まれ。事象の内面、心の深奥を歌って随一の現代歌人。若手の間で人気抜群。私も直接手紙を出して歌集を頼んだが既に完売。

夕冷えの銀杏を抱けば幹の中あなしづかなる滝下りをり 同

 淡々とと醒めた孤独感。それはまた現代に生きるすべての人の心の底に漂う。

(游)

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2011年1月22日 (土)

游氣風信 No9「ぎっくり腰」

游氣風信 No9「ぎっくり腰」

三島治療室便り'90,9,1

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

≪游々雑感≫

<折り折りの健康>

ギックリ腰
 何げない動作の最中に突然ギクッとくるのでこの呼び名で親しまれて(?)います。

 意外なことに重い荷物を持ち上げたり、かついだりする時にはあまりならなくて、小さい荷物をひょいと横へ置いたり、靴紐を結ぶために前かがみになった時、結構多いのが咳をした瞬間、中には就寝中の寝返りでなったり、洗面所で顔を洗ったり歯を磨いていてなった人もいます。皮肉にも会社で腰痛予防のためにラジオ体操をしてい
てギクっとやった人も調整に来ました。

 ドイツでは「魔女の一撃」などと呼ばれ、いずれにしても何の前触れも無くやってきて、ひどい時は歩くことも出来なくなります。まさに魔女の一撃です。
 はっきりした原因は分からなくても、突然起こる激しい腰痛をまとめてギックリ腰といいます。
 よくヘルニアだと言いますが、実際にはヘルニアであることは少なく、よく見受けられるのが仙腸関節という骨盤の蝶番の捻挫です。そこから響いて腰の上から背中にかけて痛みます。
 ただし、脚の方に強く響いているのは腰椎ヘルニアの可能性もありますから、注意を要します。
 お盆休みの後、立て続けにこのギックリ腰の人がみえました。

Aさん(28歳 女性 接客業)
  お盆休みにトレーニングしていたら、 腰が痛くなったと、調整に来室。
  診察すると右側の仙腸関節の捻挫。
  全身調整のための軽いが氣を込めた鍼 と仙腸関節のモビリゼーションで調整。
  予後は(調整の後は)順調に回復。

Bさん(65歳 男性 会社員)
 急に腰が痛くなり、このままでは ひどくなりそうなので前々から信頼している鍼師に治療してもらい、とても楽になった。ところがその夜、寝返りをうった瞬間に激痛、声も出ない程。
 再び先の鍼灸師に治療を受け、今度は重かったので完治とはいかなかったが、楽にはなった。(たいした技量です)
 痛みはほとんど和らいだものの、重い感じと、背骨が他人から見ても、本人の感覚でも骨盤の所から曲がっているので、矯正を希望して来室。全身調整の鍼と指圧の後、仙腸関節のモビリゼーション。
 腰の重さがまだ残っているので、股関節調整を施したら、とても気持ちよく楽になった。
 立ってもらうと姿勢もかなりまっすぐになり腰も軽いという。
 予後は以来みえないので不明。しかし近々調整のために娘さんを連れて来室予定。


Cさん(62歳 男性 障害者)
 ベッドから起きる瞬間、ギクッときた。大事を取って安静に横になっている。
 ベッドを半分起こしてもたれるように横たわるのが一番楽だと、本人談。この姿勢は解剖学的にも理にかなっている。
 鍼とキネシオテーピング。テーピングは相撲の寺尾や水戸泉の背中に貼ってある大きな絆創膏のこと。テレビでお気付きの方もあるはず。これが意外によく効く。予後良。

Dさん(65歳 男性 植木職人)
 重さ1トンもある樹を掘り、トラックに積む作業をしていてじわっと痛くなる。 
 大事を取ってすぐに作業を中断し、明日は三島治療室へ行こうと思いつつ楽な姿勢で休んでいたら、翌日には痛みがほとんど薄らいだ。(後日談。結局ギックリ腰の調整せず)
 寝る前に奥さんに足底反射法(足の裏や指を丁寧に揉む)をやってもらった。  
 これは自然治癒力の威力が発揮されたケース。全てこうなら私達は転職を考えなければならないが、本当は案外こうしたケースは多いのである。
 患者の自立と治療家の良心に関わる重大な問題。

 ギックリ腰が意味するものは、この症状が単に腰だけの問題に止まらず、全身の歪みがたまたま腰に現れたという、即ち腰は全身のスケープゴード、安全弁、ショックアブソーバーになっていたということです。
 今の季節なら夏の疲れ、冷たい物の多食・多飲、クーラーの当たり過ぎ、暑さによる睡眠不足、食欲不振による栄養失調などに、働き過ぎや遊び過ぎが絡んで、その歪みが腰に出た時が腰痛、急激に出ればギックリ腰となるわけです。

 寒い季節でも同様に冷えからギックリ腰になりやすくなります。

 症状が首に出てくれば寝違い、肩に来れば五十肩、内向すれば胃や腸、心臓などの病気になることもありうるのです。

 私の經絡指圧の師、増永静人はよくギックリ腰の人に今までのことを述べ、「折角ギックリ腰になったんだから身体に感謝しなさい。身体が休みたいという信号に耳を貸しなさい。痛みが除れるまで無理せず休んだらどうですか。仕事と身体とどっちが大切なんですか。ひどくならないうちに、こういう症状が出て来たことは本当にありがたいことなんですよ。」などと説明していましたが、患者さんのほうは「?」という顔をしていました。

 「こんなに痛いのに何が感謝だ。このおっさん、変なこと言っていないでさっさと治してくれ。」というのが本心でしょう。それくらいギックリ腰は痛いし、動けなくて不自由なものですから、患者さんの気持ちもまたよく分かります。

 病気になったら、ちょっと立ち止まって「最近無理してないかな? 身体の声を無視して、道具のように粗末に扱っていないかな?」と振り返ってみましょう。
 若いままの体型を維持しようにも、スタイルは勝手に崩れて行きます。金が無いから食事を止めようと思っても腹は減ってきます。かように身体は自分の意のままにならないものです。身体には身体の都合があるからです。
 身体の都合を無視して勝手に道具か部品のように使っていると(精神による身体の隷属化といいます)、身体は時々ドカーンとストライキに入ります。

 ギックリ腰もそんなストライキの一つですから、身体をいたわるよい機会ととらえてください。

家庭療法
 痛みの激しいときは一番楽な姿勢でじっと安静にして、まず痛むところを冷やして下さい。氷をビニール袋に入れてじっと圧し当てています。10分くらい。アイスノンでもよいでしょう。
 次にキネシオテープを仙骨から背筋にかけて背骨に沿って貼り、静かにしています。

 動けるなら無理しないで日常の生活をします。
 本当はこのときに、鍼による經絡調整と仙腸関節という骨盤の蝶番の調整をしておくと、直りが早く、再発も予防出来ます。
 全身の歪みの調整を自然治癒力に任せるだけでなく、その働きを方向づけることで身体のアンバランスの回復を助けるのです。
 いずれにしても内科・婦人科・泌尿器科などの疾患が原因だったり、悪性の腫瘍でない限り、若い人で1週間、高齢者で半月ぐらいで元にもどります。

 痛みが日増しにひどくなったり、脚が強くしびれたり、じっとしていても動いても同じように痛み、痛くて眠れないようなら(寝返りで痛いのはそれほど心配ありません)医師の検査が必要です。

<今月の詩歌>
かんがへて飲みはじめたる一合の二合の酒の夏のゆふぐれ
白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけり
         若山牧水

 少し前一気飲みという酒の飲み方が流行った。ジョッキ一杯のビールを「今日のお酒が飲めるのも○○さんの(兵隊さんでは無く上司や幹事の名前を入れる)お陰です。
それっ一気!一気!一気!」と囃し立てて一気にあおるのである。新入生歓迎コンパなどで、急性アルコール中毒のために死者まで出て、社会問題にもなった。  
 紹介の短歌はともに牧水20代のもの。
 どちらも一気飲みとは正反対に孤独を楽しむか気の置けない人と噛み締めるように酒を飲む情景だ。
 時代劇で武将が戦を前に友と共に酒を無言で飲み交わす場面などいいなぁと思う。
 人を偲んで飲む酒もいいものかもしれない。流行歌のように悲しい酒もあるだろう。

 それに対して一気飲みの喧噪と酒を味わわないただの流し込みは醜い事としか思えない。自分の身体に対する暴力行為以外のなにものでもない。

一人ゐて一人が暗しビアガーデン
白木忠

<後記>
 中東の情勢は予断を許さない状況になってきました。遠い世界の出来事等と無関心ではおられません。現に経済の最先端で活躍してくれていた邦人が、ゲストという名目で家族と共に大勢人質に取られています。
 半世紀前、日本の犯した愚と同様のことがまたイラクによって繰り返されてしまいました。
 「歴史は繰り返す。」とはまさに悲しい至言です。


(游)

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游氣風信 No8「脾虚 日焼け」

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游氣風信 No6・7「障害者Kさん 食中毒」

游氣風信 No6・7「障害者Kさん 食中毒」

三島治療室便り6・7合併号

 

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

≪游々雑感≫

 K市で長年餅屋さんを自営してこられたKさんは、今年62歳になる痩躯の美丈夫ですが、餅搗きという重労働のせいか、頚椎の損傷で両腕・両脚が麻痺し、室内歩行がやっとというほどの重度の障害をお持ちです。

 Kさんのお店では、戦後の物資の無いときから苦労して砂糖を調達し、サッカリンではない本当の大福餅を提供して来ました。また、餅米の吟味や搗き方がうまいせいか、奥さんの真心こもった手返しのためか、他の餅屋より一際美味しいと評判を得て、数年前廃業するまで盛業につぐ盛業でした。
 町内の顔ききで世話好きなKさんは、消防団や町内会、選挙の時など先頭に立って動き回り、人望厚く、またカラオケのマイクを取っては美声と見事な節回しで聴衆に感涙を滴らせたということです。(但し、本人談)

 そんなKさんが体の不調を感じたのは今から5~6年前です。両手がしびれ動きが悪く足の運びも頼りなくなりました。
 医者に診てもらうと、「中気のようだ。」ということで、リハビリのために下呂の温泉病院に入院。しかし、そこでは頚椎損傷の診断でした。
 中気(脳出血・脳血栓・脳梗塞)の場合、まず間違いなく片側の腕や脚が麻痺します。すなわち右手の麻痺なら脚も右側の麻痺ということです。
 脊髄が腰でやられますと両脚の麻痺、首でやられると両側の腕と脚が麻痺します。
しかし、脳の血管がやられた時は、ほとんど片側に麻痺が出現します。
Kさんは四肢の麻痺ですから、脳の血管の問題ではなく、頚椎の問題であることが想像出来ます。

 Kさんは東京のM病院で手術を受けることになりました。
 根っからのドラキチ(プロ野球中日ドラゴンズの大ファン)のKさんは、心ならずも巨人ファンのドクターの執刀により手術。見事成功。しかし、残念ながら運動機能の回復はほとんど見られませんでした。むしろ進行を止めることができたことで大満足という見解でKさんとドクターの意見が一致しました。
 東京の病院のため、自分以外全て巨人ファン、しかも折り悪しく巨人が優勝してしまいそうという不運にもめげず、明るい性格のKさんは、中日が買った時は看護婦や医師、同室の患者のために寿司の出前を配るという気配りまでして、術後の痛みと地方出身者の悲哀を乗り越えました。
 けれども悔しいことに巨人ファンのドクターから寿司を振舞ってもらう機会の方が多いため、一人高層の病室から東京の街を見下ろし、孤独に耐えてきたことでしょう。
その怨念は翌年星野中日が優勝することで報われました。Kさんは手術を1年遅らせるべきであったと後悔しています。

 今日でもKさんの機能にあまり進歩はなく、右大腿部の痛みと冷えに眠られぬ夜もありますが、一日置きに訪問治療に行くわたしに対し、いつもにこやかに混じり気のない純粋な名古屋弁で話しかけて下さいます。

 今秋、長男氏が晴れて結婚式を挙げられます。歌の得意なKさんは披露宴で何を歌うか今から思案して、そろそろ発声練習でもしようかと心密かに決意しています。しかし奥さんからは「お父さん、ええかげんにしときゃぁよ。」とたしなめられるに決まっていますから、思い切った声で練習出来ないのが目下の悩みです。
 昔から人前に出て歌いたがるKさんの袖口は、いつも奥さんに引っ張られていたのです。披露宴で歌わせてもらえるかどうか・・・。

 Kさんのように障害に負けず、明るく暮らしている人に出会うとホッとします。自分も何時障害者になるか分かりません。実際誰だって綱渡りのように生きているだけです。それにさえ気付かずに生きていることがあります。そんな自分にとってKさんは生きたお手本として心の支えになってくださるのです。

 披露宴の歌以上にKさんにとっての気掛かりは今年のドラゴンズの不甲斐なさです。
郭が小松がもう少し頑張ってくれたら・・・Kさんの愁眉も開きっ放しになることでしょう。

 今でも時々Kさん宅には電話や直接来店してのお餅の注文があります。休業して数年にもなるというのにたいしたものです。いかに店の評判が広い範囲にまで知れ渡っていたかの証拠です。近所の人達は休業していることを知っていますから。


<折々の健康>
食中毒
 梅雨に入りました。蒸し暑く憂鬱な日が続きます。それだけでなくこれから10月までは食中毒の発生しやすい季節でもあります。そこで今月は食中毒を取り上げます。

食中毒とは?
 一般に食べ物を摂取することで起こる急激な健康障害を意味します。
A 細菌性食中毒
 a 感染型(腸炎ビブリオ、サルモネラ菌、病原大腸菌など)
    食品中で菌が大量に増殖し、さらに小腸で増加、胃腸炎型の症状(吐き気、腹痛、下痢など)が起こる。
 b 毒素型(ブドウ球菌、ボツリヌス菌)
    病原菌が食品中で産出した毒素による。
    症状は一般に胃腸炎型だがボツリヌス菌のように中枢神経系の麻痺(ものが二重に見える、まぶたが下がる、ものが飲み込めない、うまく喋られない、稀に呼吸困難など)を表すこともある。

B 自然毒性食中毒
 a 植物性─→毒キノコ、ジャガ芋の芽など
b 動物性─→フグなど

C 化学物質性食中毒
ヒ素、鉛、水銀、錫などの金属
 農薬、除草剤、殺鼠剤、無許可の食品添加物など

D アレルギー様食中毒
 魚介類の干物(ヒスタミンの蓄積)

今回取り上げるのは、細菌性食中毒

中毒を起こしやすい食品
 1位 魚介類とその加工品(ちくわ、かまぼこなど)
 2位 野菜類とその加工品(豆腐、豆の煮付けなど)
 3位 穀類とその加工品(おにぎりなど)
 以下、菓子類、肉類、卵類、乳類となる。

菌の中では
 1位 腸炎ビブリオ(50%)
 2位 サルモネラ菌(15%)

食中毒の症状
 1 胃腸炎型─→発熱、嘔吐、腹痛、下痢
 2 疫痢型─→発熱、嘔吐、痙攣、意識混濁
 3 コレラ型─→嘔吐、大量の下痢による脱水症状
 4 赤痢類似型─→下痢便が膿粘血便になる

同じ菌に冒されても、大人は胃腸炎型が多いが、子供はあとの3種が多い。

食中毒の予防
1 調理人の衛生
  丁寧な手洗いの励行。手が化膿している人は要注意。先程のKさんの話では、以前静岡で大福餅から食中毒が大発生。原因は製造者の手の化膿からブドウ球菌が混入したためとのこと。
2 調理用具の衛生
  まな板、庖丁、ふきん、食器類の熱湯消毒および日光消毒。肉や魚介類を調理した後、そのまな板から菌がサラダなどに移ることがある。
3 ネズミや害虫の駆除
  少なくなったとはいえ、油断は禁物。
4 細菌を繁殖させない
  購入した食品は速やかに調理し、調理後は時間を置かずにすぐに食べ、食べ残しは捨てるか、冷蔵庫にいれる。しかし、冷蔵庫の過信は禁物。
5 滅菌
  サルモネラ菌、病原大腸菌、腸炎ビブリオなどの感染型は加熱で予防できる。
  しかし、ブドウ球菌が産出した毒素は加熱しても防ぐことは不可能。ボツリヌス菌の毒は熱に弱い。
6 危険な食品
  腸炎ビブリオ・・・夏場の生魚
  ブドウ球菌・・・製造後時間が経過したおにぎりや弁当。(市販のものは殺菌剤がたっぷり添加してある。これを安全ととらえるか、危険と感じるかはその人の持つ価値観と状況が決定する。)
7 五感はあてにならない
  食べ物の色、匂い、味の変化がなくても、中毒を起こすだけの菌が増殖していることもある。疑わしきは捨てる。

《気をつけろ! もったいないが事故のもと!》
贅沢な時代ではあります。

<今月の詩歌>

夏の風山よりきたり三百の牧の若馬耳ふかれけり       与謝野晶子

明治30年代、女性の感情を高らかに歌い上げることで、男尊女卑の因習に風穴を貫通させた晶子。大胆に詠んだ奔放な恋の歌が有名だが、雑誌「中学時代」には、このような少年の感性を健やかに伸びやかに発達させるような歌も発表している。
青い夏山の裾に広がる牧場。何百頭もの若馬の耳がいっせいに風にふかれ、きらめく。
作者はさわやかさを表現するために馬の耳をヒラヒラと風に吹かせたのではないかと思うほど、素材の選択が活きている。それをさらに際立たせるリズム。
ここには現代短歌が見失った深く清々しい息吹がある。

<後記>
 プロ野球の外人選手は梅雨で調子を狂わせてしまいます。アメリカにはこんなにひ
どい季節は無いようです。頭の中までカビをが生えないようにしなくては・・・。

(游)

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游氣風信 No5「だちかん 虫歯」

游氣風信 No5「だちかん 虫歯」

三島治療室便り'90,5,20

三島広志

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≪游々雑感≫

ダチカン

 尾張地方のお年寄りは何かというと「ダチカン」と言います。
 「ものを粗末にしてはダチカン。」
 「小松の奴、また打たれやがった。星野もあそこで小松を交代せなダチカン。」
 「うちの嫁ごはダチカン。ちょっとも礼儀を知れへんでよぉ。人様に会わすこともでけせん。」
と、こんな風に使うようです。

 広島生まれで名古屋育ちの私の周囲には、生粋の名古屋弁を話す人がいなかったので、この仕事に入ってお年寄りの相手をする機会が増えてからは、言葉でとまどうことがよくありました。

 ある脳卒中のおじいさん。
 「あっくいが着かんで、うまく歩けれん。」(あっくい・・踵)
 さる膝の痛いおじさん。
 「つとはらが痛くてつくなえん。」(つとはら・・ふくらはぎ。つくなえん・・しゃがめない)
 神経麻痺のおじいさん。
 「手が言うこときかんでダチカン。」
そう、これが謎のダチカンです。

ダチカンは<埒があかん>か
 埒(らち)→馬場の囲い。物事の区切り。
 埒が明く→はかどる、かたがつく、おわる、すむ。
 埒が明かない→事が縺れたままではかどらない。
 埒もない→順序が立たない、乱雑である、つまらない、ばかばかしい。
 不埒→法の定めた枠に入らない。けしからぬ。
    [使用例]ひと~つ 人の世の生き血を吸う ふた~つ 不埒な悪行三昧
         み~つ 醜い浮世の鬼 退治てくれよう桃太郎
 埒外→枠の外、専門外。
 埒内→守備範囲内。
 放埒→馬が囲いを離れること。気ままに振る舞う。
 手元の辞書をいろいろ引いてみたら以上のようなことが書かれていました。これらから推測すると、<埒があかん>が訛って<だちがあかん>。それがさらに変化して<だちかん>になったと考えられます。
 その上さらに新発見がありました。

<埒もない>から<ダシモナイ>へ
 庭木の大好きな患者さんがいます。その方にお聞きした話では、苔にもいろいろあってスギゴケは貴重だが、ゼニゴケはダシモナイ、庭木でもモッコクは庭木の王様に値するが、モチノキなんかはダシモナイということです。
 この<ダシモナイ>は間違いなく<埒もない>の変化、訛りだと言えます。埒もないの意味は先に書いたようにつまらない・ばかばかしいですから、ゼニゴケはつまらない・モチノキなんかはばかばかしいという具合にダシモナイとぴったり入れ替わります。

 ダチカンは区切りがあっても変化がない、発展が見られない時に使用され、ダシモナイは反対に区切りがなくてだらしがないの意味で使われるようです。
 いずれにしても今日では両方とも年配者の愚痴の中でしか聞かれない言葉になりつつあります。

 はたしてこの推測が的を得ているか、はたまた空振りに終わっているか、いずれにしても私には埒外の問題でした。

<折々の健康>
 6月4日は虫歯予防の日。64をムシと読ませるのです。虫好きの私なら昆虫愛護の日とでもしたいところですが・・・。
 似たものに3月3日の耳の日、8月7日の鼻の日、10月10日の目の日があります。33で耳、87で鼻、10を横に引っ繰り返すと眉と目になるので目の日というわけです。
 さらに8月9日は何の日かお分かりですか?なんとハリ・キュウの日です。8をハリと読ませるところに無理があります。

 「○○の日」というのは年間を通してみると大変な数だそうです。実際に何らかの由来があって制定された日もあれば、単なる駄洒落・語呂合わせもあり、今までのは後者ですね。

虫歯と歯周病(歯槽膿漏)
 全国的に虫歯が減っているそうです。歯医者さんや歯科衛生士さん、保険の先生などの努力により歯磨きの励行、甘いお菓子の制限、早めの検診の重要性が一般に広く浸透していきました。それによって治療より予防が大切だとの意識改革が効果を上げてきたのでしょう。

虫歯の原因と歯磨き
 歯磨きのCMですっかり有名になったミュータンスなどの細菌が直接の原因です。
ミュータンス君のお食事がお菓子やジュースなどに含まれる蔗糖で、子供達の嗜好と細菌の嗜好の一致が虫歯の原因だったわけです。
 ミュータンス君は蔗糖を分解して酸を作り、この酸が歯を溶かしてしまうのです。

 「俺は生まれてこの方、金輪際歯など磨いたことなどないけど、虫歯など一本足りとも無い。」と豪語する方もありますが、そんな方は両親に感謝してもらうほかありません。
 お酒に強い人、弱い人があるように、虫歯菌にたいする抵抗力も個人差が相当あるようです。人並みの歯の持ち主でしたら、予防のために歯ブラシを用いたほうが良いようです。

 ミュータンス君はプラーク(歯垢)に住み着いていますから、ブラシでそれを洗い落とし、住みにくくしてやることが歯磨きの目的なのです。そのためには歯磨き粉は必要ありません。逆に磨き粉による歯や歯茎の磨耗の方がはるかに弊害があります。
 さらに、歯磨き粉は合成洗剤と同じものですから、体にとっても害があるのです。
歯磨きの後、食べ物がまずくなるでしょう。薬剤に汚染されて舌の味覚が麻痺してしまうからです。
 なお、唾液自体に酸を中和して虫歯になりにくくする作用があります。良く咬んで食べることは胃腸だけでなく、虫歯予防にも役立つわけです。

歯周病
 歯槽膿漏のことです。虫歯と反対に増えています。以前は歯槽膿漏になったら歯を抜いていましたが、今では極力抜歯せずに治療しようと改善してきたようです。
 そのための処置として一般的なのが歯石の除去とブラッシングです。熱心な歯医者さんにかかるとその人に合わせたブラッシングを指導してくれます。歯並びや病状が一人一人違いますから、自己流ではどうしても磨き残しがあるからです。中には食べ物の指導まで徹底的にしてくれるドクターもいます。
 歯石は歯医者さんで除去してもらうしか方法はありませんが、技量の差は鍼灸と同様大きいようです。

歯周病自己診断表(by岩山幸雄)
軽症
 歯磨き時の出血  歯肉がふくらむ    歯肉が赤い
中程度
 歯が少し動く   歯肉が痩せてくる  冷たい水がしみる
重症
 葉が伸びてくる  あちこち腫れる    かなり歯が動く   口の中が粘っこ
 い  口臭がする  歯と歯の間に隙間ができる

上記の症状で気になる方は、信頼のおける歯医者さんに検診を受けるようお勧めします。

参考図書「図解歯槽膿漏は歯ブラシで治そう 岩山幸雄 力富書房」

<今月の詩歌>

ころがりしカンカン帽を追うごとく
          ふるさとの道駈けて帰らむ            寺山修司

 俳句から短歌、詩、演劇と生き急いだ天才寺山修司の青年時代の短歌。ふるさとは心の中で美化された<なつかしみ>。危険な薬のように精神を安定させてくれる。憎しみと共にふるさとを後にした人でさえ、人生の浮標(ヴイ)のように回顧する。
 「ぼくは/世界の涯が/自分自身の夢のなかにしかないことを/知っていたのだ  “懐かしのわが家”より」。
 寺山はふるさとを夢の中でしか見ることができなかったのだろうか。しかし、誰でも帽子を追いかけて行く先にふるさとを見ることがある。そしてそこには少年時代の僕が・・・。

<後記>
 沖縄はすでに梅雨の入り。雨の多い湿っぽい日がやって来ます。気持ちまでカビを生やさぬように気をつけましょう。
 歯は健康の入り口ですから、1日30分位ブラッシングしたいですね。私は風呂の中でやっています。

(游)

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游氣風信 No4「芸術性と大衆性 胆石 」

游氣風信 No4「芸術性と大衆性 胆石 」

三島治療室便り'90,4,20

 

三島広志

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≪游々雑感≫

 10日、高校時代の友人服部吉之・真理子夫妻によるサクソフォンとピアノのリサイタルに行ってきました。会場でサッカー部の英雄だった秋田君にも出会い、さながら同級会の気分で夜の栄に繰り出しました。
 服部君は決して優等生でもなく、どちらかと言えばひょうきんで、授業の邪魔ばかりしていたように覚えています。プロレスラーのボボ・ブラジルに似ていたので皆からブラジルと呼ばれていました。そんな彼がこと楽器に向かうときに限っては実に真剣で、その目は遥かな未来を見つめておりました。
 我々が馬鹿なことをやって日々を暮らしている間、彼は1日に数時間のレッスンに励み、今日クラシックのサクソフォニストとして日本を代表するまでになったのです。

 当日のプログラムはサクソフォンでよく演奏される曲でわたしも過去何回か彼のコンサートで聴きました。耳に馴染んだ曲もありますが全体に難解な曲が中心です。もっと聴きやすい、聴いて楽な曲も混ぜればいいのになどと、素人は勝手に思うのですが、ことはそう簡単ではないようです。

 ところで春休み、知人が北島三郎ショーを観てきました。結構おもしろく楽しめたようでした。さすが大衆芸能の雄だけのことはあります。

 さて、では先の服部君の目指す芸術と、北島三郎ショーのような大衆芸能の違いは何でしょうか。
 技術の差か?否、目指すものは違うけれど北島三郎は随分上手い。
 練習量か?否、彼らの練習も半端ではない。
 思うに、大衆芸能は大衆の好みを見事に掬い上げて、いかに観客を観客のレベルで喜ばせるかに腐心し、逆に芸術はあくまで芸術家サイドをどのように満たして行くかに重点が置かれ、受け手の方にもそれに付き合う努力が必要とされるのではないでしょうか。

 したがって、服部夫妻はどうしてもあの曲を表現したかったのだろうし、プログラミング自体にも彼らの芸術性が込められていたわけです。
 聴く側はそれに応えて聴く努力そのものの中に喜びを見いだしていく必要があります。また聴き込むとだんだんその曲を味わうことが出来るようになります。いずれにしても芸術は受け手を教育していく性質が強いようです。

 しかしここに、昔から言われているよう大衆性と芸術性の相克という問題があります。大衆性を推し進めれば今日のテレビのように質の著しい低下が生じます。芸術性のみ追えば、難解な独りよがりで理解者は自分だけなどということになりかねません。

 身体調整は芸術ではありませんが、それでもこの問題は付きまとっています。身体のことを考えたら治さずにもうしばらく痛みと付き合って、身体が自然治癒力で治しきるまで待った方が良いと思うことがあります。例えばこんなことがありました。

 トラックの運転手さんがギックリ腰になったのです。経営者は早く良くして仕事をしてもらいたいようでしたが、本人の身体を拝見すると疲れが溜まって筋肉がガチガチになっていました。本人も仕事を休みたいようでしたが、それを口に出せないほど忙しい感じでした。ここには資本家と労働者という関係もあるのでしょうが、身体か
らすればそんなことに関係なく休んだ方がいいに決まっています。
 かりにスッパリ治せたとしても無理すれば元の木阿弥です。ならば痛みという身体からの警戒信号を信頼してここはひとまず安静にしてもらうというのが最高の治療になるでしょう。これがいわば身体調整の考え方の芸術性、でもこれでは調整料がいただけません。

 大衆性(受け、いわゆる人気)をとるなら一所懸命治るように努力してその日からでもトラックに乗せるでしょう。お医者さんなら痛み止め一発かもしれません。でも近いうちに再発する可能性、あるいはより悪化する可能性は十分ありますから、良心的なお医者さんならそう簡単には注射してはもらえません。

 学校の先生なら自分の理想とする教育と文部省からの通達との間、技術者も本当に良い機械と採算性とのギャップ、それぞれ矛盾の中で自分なりのものを探さねばならないようです。大衆芸能の人々にももちろん同様の苦しみはあります。

 そんな中で一心に自分自身の最高のレベルを模索し続けている服部夫妻を始め、多くの真摯な生き方をされる人に対して、尊敬の念は禁じ得ません。

<折々の健康>

胆石
       女性の患者が急増中(読売新聞平成2年4月12日より)
      
  「胆石ができるのには、体質も関係しています。しかし、太り過ぎや食生活に気をつけることによって、コレステロール胆石はかなり予防できます。」
菅田さん(菅田文夫昭和大学教授)がまず問題にするのは、肥満。太っている人は、そうでない人に比べて、胆汁の中にコレステロールが多く出てくる。胆石ができやすい条件にある、というわけだ。

 卵黄やイクラ、レバー、エビ、トロといったコレステロールの多い食品をたくさん食べることは、もちろん慎んでほしいという。菅田さんがこれらの食品以上に警戒するのは、甘いものの食べ過ぎだ。「糖分が変化して、肝臓でコレステロールがたくさん作られるようになります。また、肥満の原因にもなりますから。」

 逆にせっせと食べたほうがいいというのは、食物繊維だ。整腸作用があるだけでなく、腸内の胆汁酸を包み込んで便として出す働きがある。胆汁酸が減ると、肝臓でコレステロールからまた胆汁酸が作られる。結果的にコレステロールが減るわけだ。
 規則正しい食生活を守ることも重要だ。食事を抜くと、胆汁酸がよどんで胆石ができやすくなる。

 「女性の胆石患者が多いのも、女性ホルモンの一種が胆汁酸のコレステロールを増
やすためです。」
                          ───以上記事抜粋───

 40代の女性では10人に1人が胆石を持っているとみられ、男性のほぼ倍。
 胆石があると胆のうガンの恐れが増すそうです。予防に心掛けてくださいとのこと。

胆石とは
 胆石とはずばり胆のうにできた石のことです。
 胆のうは肝臓で作られた胆汁を一時的に溜めておく親指大の袋で、胆管で十二指腸につながっています。
 胆汁は小腸の中で脂肪を乳化(脂肪を細かくして解けやすくすること。例えば酢と油という混ざらないものに卵黄を加えると溶け合ってマヨネーズになりますが、これが乳化現象です。卵黄のレシチンという物質が関与します。)し、脂肪分解酵素の働きを高め、腸の壁から脂肪が吸収されるのを助けます。

 胆石にはビリルビンという胆汁色素(ウンチの着色料?)の固まったものと、コレステロールの固まったものがあり、最近は食生活の変化から先の新聞記事のようにコレステロール結石が増えているようです。

 油濃いものを食べた後、みぞおちから背中、肩(特に右側)に激痛があり、油汗を流して苦しんでいたら、まず胆石が疑われます。時代劇で若い女が悪徳侍をたぶらかす時の「持病の癪(シャク)が・・・」というのがこの病気です。

養生
1 ストレスを避け、心と体にゆとりの一時を。
2 おなかを締め付ける下着、ベルトなどはやめる。
3 食事に注意(引用記事参考に)
4 横隔膜を十分に使った深呼吸で、みぞおちをゆるやかにしておく。
5 肝臓をいたわる。漢方では怒りは肝臓を悪くする、逆に肝臓の悪い人は怒りっぽ
  くなると言われています。夜更かし、深酒、イライラは自重しましょう。
6 ラジオ体操の横倒し体操は、胆の經絡というスジ伸ばしになります。ただし、号令に合わせないで息を吐きながらゆっくり、ゆったり、おおらかにやると効果的です。
  右手を挙げるとき、体重は右足にかけるとよく伸びます。(普通にラジオ体操をすると体重は左足にかかっています。)
    足を左右に大きく開き、右足を深く曲げ、左足は伸ばし、右手を天に向かって差し出し、左手を腰に当てるとさらによくできます。
7 痛むときだけでなく、普段から背骨の両側をグーッと指圧しておくと軽く済むようです。
(注:漢方の肝・胆と今日使われる肝臓・胆のうは厳密には全く異なる概念です。)

<今月の詩歌>
昼蛙どの畦のどこ曲がろうか          石川桂郎

 ビートルズの歌に[The Long And Winding Road](人生は長く曲がりくねった道)というすこし重い曲があります。“曲がる”は一種の困難・挫折を意味するようで、本来真っすぐに歩みたいにも拘わらず、不可抗力によってつい心ならずも回り道を強いられる、そんな意味合いでしょう。
 しかし、この俳句はその対極にあります。
 春の昼下がり、ぶらぶらとあてどもなく田圃道を散歩する作者。畦には柔らかいはこべやすずめのてっぽう、たんぽぽなどの緑が一杯。水を湛えられた田圃にはおたまじゃくしから出世したばかりの蛙がポチャンポチャンと間の抜けたリズムで飛び込みます。

 くねった畦のどこをどう曲がろうとも、真っすぐ進もうとも全くの自由。時間からも他人からも解放されて伸び伸び呼吸できる貴重な一時。
 蛙は作者自身かもしれません。あるいは読者かも?
 次の自由律俳句は曲がれない淋しさの一句。

まっすぐな道でさみしい          種田山頭火

<後記>

 寒い春でした。桜は雨の中、思わずも長持ちしてしまいお得意の散り急ぎの美学を発揮できなかったようです。
 「游氣健康便り」もついにNo,4を出すことができました。雑誌の世界では3号の壁を越えることが一大事だと聞いたことがあります。その点、これは営業紙ではないので採算的な問題はありません。
 しかし、個人の営みゆえ、毎月これが最後か、もう辞めようかなどと胸中煩悶しながらやっております。
                                                                    (游)

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游氣風信 No3「肩凝り」

游氣風信 No3「肩凝り」

三島治療室便り'90,3,20

 

三島広志

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≪游々雑感≫

 2月の暖かさに油断していたところへ、3月に入ってからの厳しい寒さ。あれはこたえましたね。関西では奈良東大寺の御水取(3月13日)が済むと本格的な春がやって来ると言い伝えられているそうですが、「暑さ寒さも彼岸まで」とも言われていますから、今月一杯は寒さに対して襟を正す必要があります。

 御水取はテレビなどで毎年紹介されるとてもポピュラーな行事ですが、お水送りをご存じの人は少ないようです。3月2日に若狭の神宮寺から聖水(香水)を送るのがお水送り、それを東大寺の二月堂で13日に汲み取るのが御水取。その水は仏事に使うそうです。2つの行事はペアになっている訳です。
 御水取りはテレビでしか見たことはありませんが、法螺貝の鳴り響く漆黒の闇を背景に、松明から火の粉が飛び散るという古式に則った行事は、春を告げる行事としてとても風情があるものです。
 お水送の方は、さて、どのように行われるのでしょうか?残念ながら解りません。どちらも俳人や写真愛好家の間で題材として人気のある行事です。

 春を告げると言えば、よく往診にうかがうMさん宅の小さな辛夷の樹が花を咲かせました。この花のことを春告げ花、その庭に時々遊びに来る鴬のことを春告げ鳥と呼びます。

   水取りや奈良には古き夜の色       松根東洋城
   野の池を十日みざりき咲く辛夷      水原秋桜子
   鴬や障子あくれば東山          夏目漱石


<折々の健康> 
 
肩凝り

 日本には肩凝りという言葉があるから肩が凝るんだと言う人がいます。その証拠に肩凝りに該当する言葉をもたない外国人には肩凝りは無いというのです。
 とかろが、私自身が何人かのアメリカ人やイタリア人、ドイツ人やベルギー人の身体調整をした経験からすると、決してそんなことはありませんでした。肩の筋肉が堅くなっていても彼らは背中が痛い、首が痛いと表現するか、肩凝りがあるにもかかわらず全く気がついていないのです。

 これは日本人でも言えることで、私は肩など凝っていないと豪語する人の中に、立派な肩凝りの人は大勢いました。

 小学生や赤ちゃんにも肩凝りはあります。塾に追われている子供や、言葉が話せない、歩くこともできない赤ちゃんが欲求不満から肩凝りを作っても当たり前のような気がします。彼らは赤提灯で愚痴ったり、デパートにウインドショッピングに行ったり、旦那に当たり散らしてして発散できませんから。

肩凝りって何?
 では肩凝りとはどんな症状を言うのでしょうか。
 一般に肩から首、肩甲骨と背骨の間、胸、腕の付け根や三角筋等の圧迫感、圧重感、不快感、運動制限、痛み、筋肉の凝り固まり等を肩凝りと呼びます。また頭痛、眼精疲労、腕のしびれ・だるさ、めまい、のぼせ、不眠、咳や胸の圧迫感、動悸、息苦しさ、食欲不振、胃のもたれ・不快感等を伴うこともあります。これらの随伴症状は肩凝りから来るのか、それらが肩凝りの原因になっているのか判断しがたいところです。

何故凝るのかな?
 足が凝るとか、腕が凝るとかはあまり言いません。普通、足が棒になる、腕が張るなどと表現します。腹は立ったり減ったりしても凝りません。肩だけが凝るようです。
 何故凝るのでしょう。
原因には次のようなことが考えられます。
A 肉体的原因
  1、頚椎変形性脊椎症
    老化によって関節面が傷んだもの。腕がしびれることがあります。
  2、筋筋膜炎
    無理な姿勢が続いたり、寝方が悪かった時(寝違い)。スポーツや仕事のやり過ぎ。風邪。
  3、五十肩
    腕が上がりにくくなったり、後ろに回らなくなって気がつきます。
    夜間、痛みで跳び起きることもあります。おおむね長引きますが、放っておいても必ず治ります。(但し悪性の原因が無ければ)
  4、筋肉疲労
    単純な疲れ。ゆっくり休めば治ります。
  5、斜角筋症候群
    首の凝り。腕のしびれや精神的不快感を招きます。肋骨の鎖骨の間で腕に行く血管や神経を圧迫するからです。吐き気を催すことがあります。
  6、リウマチ
    肩、首の筋肉や関節のリウマチ。難病です。
  7、内臓の反射
    胃や肝臓、心臓や胆のうの異常が肩の凝りを作ることがあります。
    左の肩から左の腕に掛けて芯から疼くような痛みがあり、胸も締め付けられるように痛むなら、心臓を疑う必要があります。
  8、その他
    自律神経の失調。低血圧。貧血。ホルモンの調節異常。近視・遠視・乱視等の目の異常。蓄膿症。高血圧や動脈硬化etc.

B 精神的原因
  1、精神疲労(気疲れ、多忙、不安、後悔など)
  2、ストレス(過剰防衛・・寒冷暑湿、対人関係などに対して)
  3、環境不適応(精神的不成熟、種々コンプレックスの表れ)

C 社会環境(社会構造や歴史的束縛、経済状況)と自然環境からの避けられない影響

簡単な家庭療法
 Aの7に書いたように内臓からくる肩凝りがありますから、それに対しては根本からの治療をしなければなりません。またリウマチや骨の異常による肩凝りも専門家に任せるべきでしょう。

◎運動法
 操体法という仙台の開業医、橋本敬三先生がまとめられた優れた身体調整法があります。簡単で安全でその上即効が期待できます。
 コツは無理しないことと楽なことを身体に尋ねながらゆっくり気持ちよく行うことです。なお、ここで紹介するのは橋本先生のやり方を文章に書きやすく、また実行しやすいように少し変化しています。
 慣れれば、自分なりに改良していけるところが操体の優れたところですし、橋本先生の望まれるところでもあります。

1、首の振り向き体操
  首だけでゆっくり右後方に振り向く。次に左後方。楽な方向を選んで2~3 呼吸した後、大きく息を吸いながら背骨を真っすぐに伸ばし、次の瞬間、息を ホッと吐きながら全身の力をバサッと抜く。終わった時は、顔は自然に正面を 向いてうなだれ、背中は猫のように丸くなるはず。(意識的にそうするのでは ない)

2、首かしげ体操
  右耳を右肩に近づける。右肩も耳に向かって肩をすくめるように上げる。決 して力まないこと。次に反対の左耳を左肩に近づける。楽な方向を選び、そち らに傾け(肩も上げ)2~3呼吸した後、大きく息を吸いながら背骨を真っす ぐに伸ばし、次の瞬間、息をホッと吐きながら全身の力をバサッと抜く。終わっ た時は、顔は自然に正面
を向いてうなだれ、背中は猫のように丸くなるはず。 (意識的にそうするのではない)

3、振り向き体操
  1の体操を正座して(または腰掛け)体ごと振り向きながら行います。

4、肩のリラクセーション
  誰か手伝ってくれる人がいれば、正座した後ろに立ってもらい、両肩に手を 置いた、少し体重をかけてもらいます。肩に置かれた手を持ち上げるように肩 をすくめる姿勢になります。同時に背骨を伸ばします。大きく息を吸ってホッ と力を抜きます。
1人の時は誰かに肩を押されているつもりでやるとうまくで きます。
  2人の協調がとても大切になります。気をつけないと後ろの人が転んでしまいます。

5、胸のストレッチ
  横綱の土俵入りで、両手を大きく振りかぶって肘を横に張り出し、胸をしっ かり広げ、両手をパチンと打ち鳴らす型がありますね。あれは肩凝りによく効 きます。
  息を吸いながら両手を万歳します。気持ちが落ち込んでいると万歳ではなく “お手上げ”になってしまいますから、気持ちを込めてしかし気張らず両手を 万歳します。手のひらは前に向けます。
  そのまま息を吐きながら腕を曲げて肘を横に回し、胸を張り出します。手の ひらは前に向けたまま。土俵入りを思い浮かべるとやりやすいでしょう。日の 下開山大横綱になった気持ちでゆっくりおおらかに試みてください。
  脚に自信があれば四股立ちになり土俵入りを再現すればさらに効果的です。  
基本は胸の筋肉を十分に伸ばすことです。ゆっくり大きく3回やったら、ホッ とくつろいでください。

 以上5つの体操、文で読むより実際にやってみるととても簡単です。力まないことと、自分で気持ちよく感じること、これがポイントです。


<今月の詩歌>

 げにもまことのみちはかゞやきはげしくして
 行きがたきかな。行きがたきゆゑにわれと
 どまるにはあらず。
            宮澤賢治「“冬のスケッチ”より」

    賢治習作期から絢爛たる心象スケッチに移行する狭間の時期の作品。
    前半は13年前、岩手県花巻市にお住まいの賢治の実弟宮澤清六氏を訪問した際に、詩集の裏に書いて戴いた語句で、とても賢治の求道性を象徴する言葉。

<後期>
 今月の肩凝りというテーマは簡単なようで実は大変なテーマです。これからも何回か取り組まなければならないものでしょう。大袈裟でなく肩凝りの追及は人間の究明(身体構造・日本文化等)につながる問題なのです。私には肩が凝るほど荷の重いものです

 しかし、肩凝りは命に関わらないので真剣に考える研究者が少ないのが残念です。

 最近テレビなどで鍼灸や漢方に関する番組が目につきます。業界にとってはうれしい限りですが、取り上げ方が話題性を追う余り、過剰な表現になり過ぎているようです。
これは健康雑誌と称するものにも言えます。万病がぴたりと治るツボ。あれば教えてもらいたいものです。

 先輩達が連綿と地道に築き上げてきた鍼灸の歴史も、一度ブームとして燃え上がると、後は燃えかすとして歴史の中に封じ込まれるだけです。
 皆様方もゆめゆめマスコミには躍らされないように、自分の頭で責任もって判断いたしましょう。「責任は常に、何事も自分にあり」と思っています。但し、法律論ではありませんよ。

(游)

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游氣風信 No2「花粉症」

游氣風信 No2「花粉症」

三島治療室便り'90,2,20

三島広志

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≪游々雑感≫

 立春以来、毎日のように暖かい日が続いています。国府宮の裸祭り(8日)も最近は暖かくてつまらんと、土地の古老が嘆いています。裸祭りは旧暦に基づいて実施されるので、毎年開催日が異なり3月になることもあるのですが、当日は春でも裸男に厳しい酷寒と相場が決まっていたのです。ところが、このところ暖かい日が多く、先の古老の嘆きとなるのです。

 地球の温暖化がマスコミなどでもいろいろ書かれていますが、確かに子供のころに較べて雪も降らないし、霜柱も長いこと踏み付けた覚えがありません。足の裏で細い霜柱がザクザク砕けていく感覚にはなかなか懐かしいものがあります。 地球規模の異変とは言え、一人一人の行為の集積の結果ですから、行政任せにばかりしていないで「私に何ができるかしら?」と足元を見つめることが大切でしょうね。

 気温が緩んで来ると、体も心も緩んで隙ができます。風邪の神さんはその隙を見逃しませんから、今こそ風邪に気をつけましょう。海外では多くの人がインフルエンザで亡くなっているようです。

 インフルエンザの予防法は
 
身体を冷やさないこと
人込みに近づかないこと
栄養に気をつけること
部屋の換気と乾燥のしすぎに注意する
ストレスや無理は避ける
ワクチンは接種後1月経たないと効果はない

などと言われています。

 人込みに近づかないことなどと言われても、あの満員電車の中でゴホゴホ咳き込まれてはなんとも逃げ場がありません。

  マイホームいつか訪ねた行楽地  (第一生命川柳コンクールより)

に住んでいる人の辛いところです。
 ストレスを避けようにも親が子に、上司が部下に

  無理させて無理をするなと無理を言う  (同)

という社会に住んでいる以上、これも無理な話です。
 といって夏目漱石の書いたように人の世を逃げ出してもそこは人で無しの世界でしょうから、ここで頑張るしかありません。

 周囲とうまく付き合っていく方法を、知恵と呼ぶのか妥協というのか解りませんが、ともかくうまく切り抜けて、自分で満足のいく行き方を作り上げて行くしかありませんよね。

 「游氣健康便りNo,1」をもう一度引っ張り出して、風邪の予防法を参考にしてください。体を温める飲み物や、風邪を引きにくくするツボについて書いてあります。

<折々の健康>

花粉症(アレルギー性鼻炎)
 新聞に花粉情報が掲載される花粉症の季節になりました。
 以前は枯れ草熱と呼ばれ、枯れ草に触れると発病すると考えられていましたが、花粉やカビの胞子でも発病し、枯れ草自体には関係ないことが解り、今日では一般にアレルギー性鼻炎と呼ばれ、特に春先の風に運ばれてくるスギやヒノキの花粉によって大発生する症状は花粉症として有名になりました。
 家庭内のゴミ(ハウスダスト)やダニでも起こります。

[症状]
 アレルギー性鼻炎は、くしゃみ発作が繰り返し、水っぱな、鼻詰まり、目の辺りが痒く涙が止まらないなどの症状がしつこく長引くものです。
 命には関わらないとはいうものの、症状が激しいときは仕事や勉強にも身が入らず、辛く憂鬱な毎日が続きます。
 プロ野球ダイエーの監督、田渕さんも現役当時この花粉症に悩まされて成績に響き、大変苦労されたと記憶しています。

[原因]
 スギやヒノキなどの木の花粉、イネなどの花粉
 ハウスダスト、そばがらの枕、カビ、犬・猫・小鳥の羽根や糞

[何故最近になって騒がれるのか]
 スギやヒノキの花粉は昔からあるにも関わらず、何故ここ10年位で急激に増えたのでしょうか。

 日本の林業が自然林を伐採しスギやヒノキ中心の植林を行ったために、スギやヒノキがアンバランスに増え過ぎたからだとも、木材不況のために若者が山から都会に出てしまい、山の手入れが充分に行き届かないためだとも言われています。 であれば花粉の多い山間部に花粉症の患者が多くて、都市部には少ないのが当たり前ですが、現実には都市部で多くの人が鼻炎に苦しんでいるのは何故でしょうか。

 アレルギー性鼻炎は文明病とも言われ、文明国ほど増加する傾向があるそうです。日本もこれで晴れて文明国になったと喜んでもいいのですが、そんなことを書くと患者さんに袋叩きにされそうです。
 文明国では社会の複雑さ、人間関係の難しさ、競争の激しさ、時間に追いまくられる毎日などからストレスが大人から赤ん坊、お年寄りまで耐え切れないほど押し寄せてきます。

 ストレスそのものから発病することはありませんが、そこにアレルギーの原因物質(アレルゲンと呼びます)が絡んでくると、鼻炎に限らずさまざまなアレルギー症状が現れてくるのです。
 その中で、くしゃみ、鼻水、鼻詰まり、涙などの鼻炎の症状を呈すものがアレルギー性鼻炎なのです。

[家庭養生]
 頑固でなかなか治らず、ずるずる長引いて患者も治療師も根負けしてしまう病気です。お医者さんの薬もすぐ効く薬は副作用が怖くて常用させてもらえません。欧米では点鼻薬は2週間以内とやかましく言われているそうです。点眼薬は安全とのこと。

 夏が暑いと翌年の花粉症は厳しいそうです。今年のスギの雄花は過去6年のうち最も育ちがいいようですから、2月半ばから4月末まで花粉症の人には苦しい日々が続くことでしょう。

 家庭で出来ることを思いつくままに上げてみましょう。
1 顔や頭の血液・リンパの循環を良くするために、首・肩のコリを予防する。
2 内臓が疲れると鼻にも影響が出るので、暴飲暴食に注意する。
3 同じ意味で夜更かしも我慢。明日のために早寝早起き。
4 冬は暖房でポカポカ部屋を暖めているので、かえって春のほうが身体が寒さを感じてしまう。身体を冷やさないように心掛けよう。
5 布団を干すと綿が花粉を吸収するので夜が辛い。
6 顔や手を良く洗い、うがいをする。
7 外出する時は専用のマスクをする。と、よく書いてあるけどよほど重症でないとこれは出来ないでしょう。

[家庭で出来る指圧]
1 おでこからボンノクボ(後頭部と首の境目の中央、くぼみがある)までの、髪の生え際を強めに指圧する。(但し生え際は若かりし頃のライン)
2 おでこから脳天を通ってボンノクボまで指圧する。鼻筋をずっとボンノクボまで延長する線。
3 両目の間から小鼻まで鼻の麓を、鼻をつまむように指圧。
4 目の周りの骨はちょうど穴のようになっています。その穴を圧し広げるように丁寧に指圧。
5 おでこの皮膚をそっと頭の方へ圧し上げる。息を吸ってみると吸いやすいはずです。10~15秒位普通に呼吸しながら続けます。本当に軽くて充分です。
同様に目の下の頬の皮膚にも行います。方向は耳の方。

 1~5まで全て目や耳に気持ち良く感じたところは特に丁寧に。後で痛くなったらそれは時間のかけ過ぎか、圧し方が強すぎたのですから次から調整してください。
 自分の感覚を味わいながら指圧することが大切です。

 今月号は「読売新聞」「医学大辞典(南山堂)」を参考にさせていただきました。
(游)

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游氣風信 No1

游氣風信 No1「風邪」

三島治療室便り'90,1,20

三島広志

E-mail h-mishima@nifty.com

http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

明けましておめでとうございます。
             平成2年元旦

 日々は毎日惰性のように向こうからやって来ます。しかし、元日はどことなくものごとが新しく感じられます。
 この気分を清新というそうです。けれども決して清新な気持ちは外の世界にあるのではなく、私たち一人一人の心の中に湧き起こるものでしょう。元日は気持ちを切り替える為に区切られたとても意味のある日と言えます。
 とりあえず昨年中の嫌な思い出とは決別し、1990年の希望だけ見つめて歩み始めたいと思います。
 以上、いささか遅い年頭の挨拶でした。

 今年も多くの方から心温まる年賀状を戴きました。手のこんだ葉書や目を見張るばかりの達者な葉書もありましたが、圧倒的に多かったのはワープロとプリントゴッコで作成したものでした。家庭の中にも確実にハイテクの波は押し寄せているようです。

 游氣の塾 三島治療室では今月から毎月1回「游氣健康便り」を発行することになりました。
 内容は日常雑感や健康情報、臨床報告等です。家庭で簡単にできる健康法も季節に即してお届けする予定です。
 皆さんからのご意見・ご要望がありましたら極力紙面に活用させて戴きますので、お便り・ご助言をどしどしお寄せ下さい。
 お知り合いの方を紹介して下されば、そちらにも送付致します。ぜひお知らせ下さい。

風邪

 風邪が猛威を奮っています。昔から「○○は風邪をひかない」などといいますが、確かにストレスと風邪の関係は切っても切れないないようです。したがってものごとを余り考えない○○は風邪をひきにくいのでしょう。逆に言えば風邪を引きたくなければ○○になればいいのです。もちろんここでいう○○は知的障害の方をさすのではありません。無邪気にゆったりした心持ちになるというような意味合いです。
 毎年、正月休みになると気が緩んで風邪をひく人が結構います。精神緊張が適度にあるほうが風邪をひきにくいようです。
 漢方では多くの病気は命のバランスを保つために必要なものと考えます。風邪などはその代表的なものです。したがってやたらに薬を飲んで症状を押さえてしまうのは考えものです。
 風邪による発熱はウイルスに打ち勝つための防衛反応です。肝臓や筋肉で体温を発生させ、熱でウイルスをやっつけようとしているのです。ここで座薬や解熱剤で熱を下げてしまうと自然治癒力がうまく働かないため、熱は下がってもウイルスは退治されず、風邪がこじれてしまうのです。
 抗生物質はウイルスには全く効果がないそうです。(但し、細菌の二次感染には有効)
 
 風邪の初期には暖かいものを食べて、蒲団に潜り込んでさっさと寝る・・・これが一番のようです。
 身体のバランスを整えるツボを押したり、摩ったり、お灸をしたりするのは風邪の予防になりますし、罹っても早く治ります。

体を温める食べ物

ネギ・ショウガ湯
 ネギの白根5~10・をみじん切りにしたものと、ヒネショウガ5・をすりおろしたものを湯呑みに入れ、味噌小匙半分とカツオの削り節一つまみを加え、熱湯を注いでフーフー吹きながら熱いうちに飲みます。量は大体で結構です。
 飲んだらすぐ蒲団に入って寝ると汗をかいて早く治ります。

風邪に効くツボ刺激
 
 漢方では風邪は肩甲骨の間にある風門というツボから入り、首と後頭骨との付け根の風池に溜まり、風府に集まるとされています。実際、風邪のひき初めに首スジがぞくぞくすることはみなさんも体験済みことと思います。
 特定のツボを正確に刺激するのは熟練を要しますが、だいたいの見当をつけて皮膚を摩擦しても十分効果が期待出来ます。

肩甲骨の間
 肩甲骨の間を暖かい手か柔らかい布で、少し強めにゴシゴシと皮膚が赤くなるまで擦ります。
 ドライヤーの温風で暖めながら摩擦するとさらに良いでしょう。

首の付け根
 猫をつまみ上げる辺りをグーッと気持ち良い位の強さで指圧します。熱がある時は弱めにします。

首スジ
 耳のしたから首の筋肉に沿って胸までゆっくり撫で下ろします。右手で左首、左手で右首を撫でるとうまくいきます。筋肉の中身を絞り出す感じです。

腕と胸の境目
 席がある時、胸の中心から腋の下に向かって強めに摩ります。これも絞り出しです。
腕と胸の境目は少し強めにグリグリ揉んでおくと良いでしょう。

腰から腎臓の裏
 屋外で仕事をする時は腎臓の裏に懐炉を当てておくと身体が冷えにくいでしょう。
 暖かい手でしっかり摩擦すると身体がほんのり暖まってきます。


 風邪はこじらせると厄介ですから、早め早めの対処が大切です。
 風邪をひくことは既に身体が疲れているわけですから、無理せずに休養を心掛けましょう。
 38.5度以上の熱が2日続いて、身体がどうにも重だるいようなら掛かり付けのお医者さんに診てもらう必要があるかもしれません。風邪がこじれたか、肝炎・腎炎の前触れということもあります。
 風邪は万病の元といいますが、風邪を拗らせると重病になるという意味と同時に、万病の始まりは風邪の症状に似ているという意味もあります。日頃の注意が大切です。
 養生のために常日頃から鍼灸・指圧・整体などの身体調整で身体のバランスを保つようお勧めします。

臨床報告

 <急性の首の痛みと運動障害>
 大型電器店にお勤めのAさん(24歳・男性)が在庫管理中、テレビがずれて頭に当たり、痛くて首が回らないと昨年末に身体調整にみえました。軽いムチウチの状態でした。
 年末のかきいれ時でとても休めない、早く治して欲しいとのこと。

1回目
 首は前後には動きますが左右に振り向くのはとても辛そうでした。肩をすくめて、まるで見えないコルセットをしているようです。
 調整はまず全体のバランスを診ることから始めます。方法は手首の脉と腹の状態を触って調べるのです。正式には腹診といいます。その結果に応じて手足のツボに軽く、しかし慎重に心を込めて鍼をします。
 次に背中を診察します。脊椎を細かく観察した後、背中全体をうかがいます。これを背候診といいます。その後、調整をします。
 Aさんの場合、骨盤の調整をした後、胸椎5・6番の間が少し緊張していましたから緩める操作をしました。頚椎3番の歪みもありましたが、急性期でしたのでごく軽い操作に留めました。
 ついで、首と背中の境目の骨(頚椎7番と胸椎1番)の動きを良くするツボに鍼。
 以上の調整ををしたところ、首の動きがとてもスムースになりました。
 最後に押して痛むところに皮内鍼という、2~3日バンソーコーで固定する小さい鍼と、筋肉の保護のためのキネシオテープを貼って終わりました。

2回目
 3日後、調整にみえました。
 芯に重さがあるものの前回よりかなり楽になった、しかし車でバックする時が辛いとのこと。仕事中うはいたみを忘れたいるようです。
 調整は前と同じ。

3回目
 2日後、ほとんど良くなったけど、車のバックや急に振り返ったりすると痛みが出る
ので、ついつい首を気にしてしまうようです。
 前回と同様の調整に加えて、頚椎3番の矯正。さらに首・肩・胸のリンパ流動法。首がすっかりくるくる回るようになり、完治。


 強い衝撃を受けた場合、2、3日安静にし、お風呂にも入らないことが大切です。筋肉が破損し、炎症を起こしている可能性があるからです。
 深部の筋肉が破損した時、表面の筋肉が硬く緊張して、傷んだ所を守ろうとします。
これを筋性防衛と言います。傷が治れば自然に筋肉はほぐれます。
 しかしただ放置してそれを待っていると、血液やリンパの流れが悪く、老廃物が溜まり、栄養が行き渡りませんから治りが悪く、慢性的なコリになってしまう可能性があります。
 そこで無理なく筋肉を緩める身体調整の必要があるのです。
 Aさんの場合若かった上に、衝撃が重くてもスピードが遅かったことが幸いしました。
 軽くても速い衝撃は奥まで影響が届きますから、ゆめゆめ油断しないように。後遺症
で悩まされると大変ですから。

後記

 病気にならないためには、普段からの養生が必要です。治療はどうしても後手後手になってしまいます。
 日頃から鍼・灸・指圧・整体などの身体調整で身体を整え、適度な運動や腹8部の栄養バランスの取れた食事を心掛けて、快適な毎日を送りましょう。
 
 
三島治療室ではエイズ・肝炎予防のため、鍼は使い捨てにしています。
 灸も痕が残らないよう工夫してあります。
 


(游)

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2011年1月 9日 (日)

游氣風信211号

オフィス三島便り

游氣風信

No.211 2011. 1.7

オフィス三島
三島鍼灸指圧治療室(治療・健康教室・訪問リハビリマッサージ)
ケアオフィス三島居宅介護支援事業所(2370101848)
464-0850 名古屋市千種区今池五丁目3番6号
サンパーク今池303号室
tel:052-733-2253
fax:020-4622-8762
h-mishima@nifty.com
http://homepage3.nifty.com/yukijuku/

 
今号の内容
游々雑感 
新年のご挨拶とご報告
俳句とからだ
藍生連載エッセイ 1
募集とおしらせ
あとがき

游々雑感

迎春
すでに七日。七草粥の日ですが、改めまして新年明けましておめでとうございます。
2011年もよろしくお願い申し上げます。

三島広志

021

池下 三喜神社

ご報告

久しぶりの『游氣風信』です。
前回発行から実に10ヶ月近くもサボっておりました。その間、次号はいつ出るのかと聞かれたり、切手代を送られたりして発行を焦る気持ちはあったのですが、なかなか筆が(キーボードが)動きませんでした。

それには理由があって結構自分なりには多忙な日々を送っていたからなのです。
そこで今回、一昨年秋からの三島治療室の流れを簡単にご紹介いたします。

2009年(平成21年)10月30日
株式会社オフィス三島設立
健康促進事業と介護支援事業を主な目的とする一人株式会社。

2010年(平成22年)1月から3月
介護支援専門員の更新セミナーを7日間受講(必須)。

同年6月1日
ケアオフィス三島居宅介護支援事業所開設
事業者番号2370101848

同年9月
ケアマネの新人のための講習5日間(準必須)。
ケアマネスキルアップの講習2日間(任意)。

同年10月
行政による事業所の監査。

ということで、『游氣風信』をサボっている間に株式会社を設立し、同時に居宅介護支援事業所を始めたのです。ただ無為に過ごしていた訳ではありません。

 株式会社を作ることは簡単でした。ネットで起業を支援しているサイトがたくさんあるのでそこに幾許かのお金を(数千円です)払って定款を作成してもらい、公証役場(五万円くらい)と法務局の事務手続き(二十万円くらい)で起業。あっけないくらいでした。会社法が変わり以前なら資本金1000万円、3名以上の役員が必要でしたが、今日では資本金は1円から、役員も一人でいいのでわたしにも会社設立が可能だったのです。
 但し作るのは簡単でも維持は相当大変だと覚悟をしています。

 会社を設立した理由ははっきりしています。介護の仕事は法人格がないと許可されないからです。従来通りの治療室だけなら会社の必要はありません。しかしケアマネージャーを行とするためには株式会社かNPO法人、あるいはその他の法人でないと許可されないのです。一番手頃なNPO法人ですと20名の仲間を要します。税法上の手続きが簡単な有限会社は新規には作れません。そこで一番簡単な株式会社にしました。

 法人は税金のシステムがとてもやっかいです。率直にいって事務が相当に煩雑になりました。税理士先生にお願いするほどの収入はありません。その上、赤字でも数万円以上の法人住民税がかかります。いいことは何もありません。しかし繰り返しますがケアマネージャーを行とするには法人格が必須なのです。

居宅介護支援事業所の申し込みには数回お城の近くのお役所に脚を運ばなければならず、予想以上に手こずりました。また、ケアマネの更新は五年ごとにあり、そのために一月から三月の間の7日間、秋口の5日間が完全に潰れてしまい、時間の調整に苦労しました。治療室も休なければなりませんから収入もありません。

いろいろと煩雑なことに振り回されましたが、兎にも角にも会社はできました。これからケアオフィス三島居宅介護支援事業所の仕事に力をいれていきます。そのための人脈作りと知識の吸収、頚肩の蓄積が必要になります。本来の業務である三島鍼灸指圧治療室も継続しないと食べていけません。

ということで今後とも宜しく御支援をお願い申し上げます。

013

覚王山日泰寺 五重塔   2011/01/01


俳句とからだ
所属している俳句結社『藍生』(黒田杏子主宰)に数年前から連載している文章を掲載します。これはテーマを身体とし、あとは好き勝手に書いていいという編集部からの依頼に応えたものです。現在連載51回目まで到達しました。
実に勝手な書き散らしですがお付き合いいただけたら幸いです。


俳句と“からだ” ①
からだって何だ? さらば、デカルト主義
愛知 三島広志
2006年10月号

からだって何だ?
 “からだ”は漢字で書くと体であり身体、肉体、體、軆、躰、躯である。大和言葉ではみ(身)とかししむら(肉叢)だ。漢字はいずれも身か骨が用いられている。身は妊婦の象形で、骨は関節を表す。どちらも身体構造を示すものだ。構造は解剖学だが、身体学には機能を研究する生理学もある。さらに心を探求する心理学や思考・認識の筋道の深奥を模索する哲学。これらの総体が身体である・・・・とここでは断定する。

 上記は身体の内側に存在するものである。しかし身体は身体だけでは存在し得ない。身体を包む環境が必要である。そもそも身体は環境の一部を身中に取り込んで成立している。つまり外部環境である「空」と「陸」と「海」を体内に梱包することで内部環境である身体を形成し生命を維持しているのだ。

 からだは「空(から)だ」という人がいる。これは卓見だ。口から肛門までは一本の管であり空っぽである。口から陸の産物、つまり食べ物を取り込んで腸で吸収する。腸こそは体内の「陸」であり大地なのだ。同様に肺と鼻の穴も管でありそこは呼吸という作用を通して「空」と一体化している。また、生命の生まれた母なる海。生物は海を血液として内包し、はじめて陸に上ることができた。血は内在する「海」なのだ。このように「陸海空」を揃えることで身体は命脈を保っている。そんな総てを称して“からだ”と呼びたい。

さらば、デカルト
肉体はまさに生々しい肉から形成された物体だ。対して躯(軀)体はより構造的な意味合いを感じる。肉体より骨格的だ。では身体はどうだろう。身は「み」と読む。そして身体には肉体のような生々しさを感じない。むしろ「身につく」、「身に沁みる」という言葉から察せられるように身と心が未分の状態ではないかと思われる。つまり身の字だけで、心身を示す。もとより昔の人は心と身の分離、精神と肉体の二分は行わなかったのだ(禪には心身一如という認識があるが)。そもそもデカルト(フランスの哲学者、1596~1650)が「われ思う、ゆえにわれあり」などと難しいことを考えて、精神と物体とが独立する実体であるという二元論を振りかざすまでは人々の心身は調和がとれて幸福だったのだと信じたい。

そろそろ俳句にも触れなければならない。今は秋。爽やかな風が肺を出入りする。風は鼻や肺を通じて身体の内外を往来する大いなる空だ。何しろ風は地表の温度差と自転による大循環から生じる地球の息吹なのだ。地球の息を身体一杯呼吸しつつ、デカルトなんぞはここではっきり無視しよう。

しんしんと肺碧きまで海のたび  篠原鳳作

024


覚王山日泰寺
募集
●游氣会 導引按蹻教室
・東洋医療の考えと技法に基づく呼吸体操「経絡導引」を指導します。
・経絡の流れや用い方、ツボの位置、呼吸法を実践的に勉強しつつ、骨格や内臓の学習を行います。
・日常的な立ち居振る舞いや仕草、物腰の基礎となる経絡的身体操法を身に着けます。

会場
三喜神社(池下駅3分)

日時
毎週土曜日午前中10時半から12時まで
月、原則4回開催(盆、正月など異動あり)

入会金
2000円(患者および愛大講義終了者免除)
月会費
5000円

持ち物
運動のできる服装 メモ 手ぬぐい
無料見学歓迎 入会随時

お知らせ
●三島治療室
午前9時から午後9時まで(最終受付8時)
完全予約制
木曜日定休(日曜・祝日営業)

●保険治療
以下の疾患で主治医の同意があれば保険治療が可能です。同意書は当治療室にあります。

○鍼灸
保険適応は運動器に疼痛を伴う疾患。
 神経痛
 五十肩
 リウマチ
 腰痛症
 頚腕症候群
 頚椎捻挫後遺症(ムチウチ)
 その他
その他の疾患でも利用できることがありますからお尋ねください。

○訪問リハビリマッサージ
保険適応症状
脳血管障害後遺症 中枢性疾患 外傷性の麻痺 神経性疾患 筋肉や関節の障害 圧迫骨折や加齢による廃用性運動障害など

上記の症状によって歩行困難な方へのご自宅や居宅型老人ホームへの訪問リハビリマッサージを行っています。主治医の同意があれば健康保険が適応されます。

あとがき

 年末、たまたま訪れた瀬戸市の窯元を見学してきました。市の中心にある陶芸館や土産物屋を覗いたところどれも温泉街のお土産と大差なく、これが本場の瀬戸物か?と期待はずれでした。

ところが案内所の方が本業窯という登り窯の存在を教えてくださったのでそちらへ脚を伸ばしたら大正解。瀬戸焼本来の業を今日に伝承するので本業窯。登り窯は老朽化して危険なので現在使用されてはいませんでしたが立派なものでした。
驚いたことにそこの陶芸家は水野半次郎という柳宗悦主導による民藝運動の中心的な作家でした。バーナード・リーチや浜田庄司に評価された人です。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%91%E8%8A%B8%E9%81%8B%E5%8B%95

 柳宗悦の著書は二十代に読んだことがあり懐かしく、七代目水野半次郎の奥さんに色々なお話を伺い、珈琲までよばれて楽しい時間を過ごしました。

 堅牢で艶やかな美と実用を兼ねた唐三彩のビールカップが手頃なお値段でしたので一つ購入して参りました。手に持って優しく暖かく、口を付けると実に柔らかい器です。

 これから寒くなります。ご自愛を。
(游)

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